* 道長の周辺 *****
この世をば我が世とぞ思ふ 望月のかけたることもなしと思へば
「思いのままのこの世は我が世」と、人臣の頂点を極めて、傲慢ともとれる歌を詠んだ事で知られる道長の人生は、決して生まれながらに約束されたものではありませんでした。
鎌足から始まる藤原家は、不比等の子の時代に四家(南家・北家・式家・京家)に分かれ、11代目を数える道長の頃には、そこからまた分派し○○流と言われる呼び名等も加わってそれこそ分家だらけとなり、「藤原家」と一括りに考えることは出来なくなっています。
道長の父・兼家は、藤原家主流の北家の出ですが、三男坊でした。父から長兄、次兄へと流れた実権は、一筋縄では兼家の懐には飛び込んではきませんでした。次兄は、自分の死に際にわざわざ兼家を降格させると言う仕打ちにまで出るのです。しかしその次兄の死後、ちょっとしたお情けと策略によって、兼家は念願の摂政の地位を手に入れます。
そして、兼家の五男であった道長もまた父同様に、長兄次兄の相次ぐ死と政敵であった甥・伊周の失脚を契機に左大臣となり、「満月」への切符を手に入れる事になります。
勿論それには当然、天皇への娘の入内に加え次期天皇と成り得る孫の誕生と言う強運が欠かせないのですが。(道長は、天皇と年齢差のある娘を強引に入内させると言う手段にまで出ています。)
また、五男坊であった道長を引き上げたのは、姉であった一条天皇の生母・詮子であったとも言われています。
長女・彰子所生の後一条天皇即位の際に摂政となった道長は、自分が経験したような後継争いを避けるべく、翌年長男・頼通に摂政の座を譲り、そのまた翌年には出家してしまいます。
道長は、別名「御堂関白」とも言われますが、実際「関白」職には就かなかったとされています。
またこの歌は、道長の日記「御堂関白記」ではなく「小右記」と言う藤原実資の日記に書き残されています。娘三人を次々と中宮に立て(一条天皇中宮・彰子、三条天皇中宮・妍子、後一条天皇中宮・威子)一家三后を果たした後の宴で、わざわざ「即興だから」と、断りを入れて詠んだとあります。
「小右記」を残した実資は、道長とはマタイトコの関係になり、祖父の代に起きた兄弟間の形勢逆転のせいで、藤原北家嫡流でありながら権力の中枢からは少し離れた処に居ました。いつも凛とした良識人として時代の長・道長に対峙していたと言われ、この「小右記」にはそう言う道長の逸話が沢山残るそうです。実際、この宴の時にも「続けて歌を詠め(返歌しろ)」と言う道長の求めに対しても「皆(同席者)で唱和する」と言う形を取り、自らこの歌に応える事を避けたのだそうです。
この他、道長の逸話を色々と今知ることが出来るのは、飛鳥時代には薄かった文字による文化の発達があるからでしょう。実資に限らず公卿達は記録の為に毎朝日記を書いたそうですし、紫式部・清少納言・和泉式部といった女流作家と言われる人々も道長の周辺にはいました。(特に彼女達それぞれの立場から見た道長像の違いは面白いかもしれません。)
今回、定例会のお話の要になる「扶桑略記」は、平安時代末に成立した歴史書になるのだそうです。
当時飲水病と言われた糖尿病を持っていたとされる道長ですが、出家し寺を建て高野山参詣をしたのも、平安と言う時代の生んだ一種の流行病なのかもしれません。出家後に法成寺という豪勢な寺を建てることに勢力を傾けたとも言われています。(平安宮豊楽殿の鉛製の鴟尾を降ろさせ、瓦に施す釉薬の原料にしようとしたらしいと言う話も、これまた「小右記」には残っています。)
昨年12月に高野山で平安期の参道か?と言う遺構(幅約3.5m、側溝有り)が発見されています。高野詣を貴族や天皇など貴人に広めたのは道長だとも言われ、この遺構はそれらを裏付ける事になるのかもしれません。
道長関連系図
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* 治安3年(1023年)道長参詣時の飛鳥の各寺院 *****
【山田寺】
641年に建立の始まった山田寺は、発願者であり改新政府の右大臣でもあった蘇我倉山田石川麻呂の謀反の疑とその死によって一時中断され、造営が再開されたのは663年(天智2)、完成は発願から約40年を経た685年頃になります。南から、南門・中門・塔・金堂・講堂を一直線に並べ、中門から発した回廊は、講堂と金堂の間を通っていました。寺域は、東西約118m・南北約210mと推定されています。
山田寺は「上宮聖徳法皇帝説」の裏面にその造営次第が書き残されており、発掘調査結果もこれを指示する方向にあります。山田寺造営に関しては、史料と考古の双方がほぼ合致する良い事例だと言えるのかもしれません。
創建以来、四大寺・五大寺などに名を連ねることのなかった山田寺ですが、造営再開の際には、石川麻呂の娘婿である天智・、孫の持統、その婿である天武などの助力があったとも考えられます。天武朝の頃には官寺並みの扱いを受けたようで、その後も699年(文武3)には封戸の施入、703年には持統天皇四十九日法要などが行われたとの記録も見えます。が、官の援助の途絶えた奈良時代後半頃から衰退が始まるようです。
その後は、蘇我氏の後裔である石川氏の氏寺として小規模の整備などは行われるものの、道長が訪れるまでの約300年の間は記録にも殆ど名が登場することはありませんでした。奈良末から平安初期に掛けて山田寺は、時勢とは少し離れたところにいたようです。
やがて、11世紀前半に土砂崩れによって東回廊が倒壊してしまった山田寺は、11世紀末には多武峰の僧兵に鐘を持ち去られてしまいます(代りに多武峰浄土堂の鐘があてがわれたようですが)。1187年には、興福寺東金堂の僧によって講堂の薬師三尊像が略奪されるなど、かなりの苦渋を舐める事になります。1180年の南都焼き討ちによって伽藍一切を焼失した興福寺は、再建後の仏像選定に際し山田寺講堂の三尊に目をつけたのかもしれません。山田寺の金堂・塔はこの頃に焼亡しており、興福寺によって焼き討ちにあったと言う可能性も否定できないようです。
幸か不幸か、山田寺講堂の本尊であったとされる仏像は、興福寺での災害を幾度も潜り抜けた頭部だけが、現在興福寺国宝館で展示されています。また、東金堂安置の日光月光がその脇侍であったとも言われ、九条兼実が「玉葉」に「事はなはだ相応、誠に機縁の然らしむ事か(山田寺三尊像が興福寺の東金堂に本当に相応しく、こうなったのも何かの縁なのかもしれない)」と書き残しているそうです。
山田寺を道長が訪れた時には、東回廊倒壊前のまだ主な堂宇がその姿を地上に留めていた頃だと思われます。「堂中の奇偉の荘厳を以上って、言語云黙し、心眼不はず(飛鳥資料館カタログ第11冊・山田寺 より引用)」と道長来訪時に言わしめた山田寺は、一体どのようなものだったのでしょうか。(主な出土品は、飛鳥資料館の第二展示室で見ることが出来ます。)
【本元興寺(飛鳥寺)】
飛鳥・真神原に東西200m・南北300mの寺域を誇っていた我が国初の本格古代寺院である飛鳥寺は、道長来訪時には、既に創建から400年経過していました。創建氏族である蘇我本宗家が滅亡した後も、引き続き官寺並みの扱いを受けていたと思われる飛鳥寺は、平城遷都から8年を経た718年に奈良の地へと移築されます。そして、やがては壮大な伽藍を誇る一大寺院「元興寺」としての歴史を刻み始めます。
一方飛鳥の地に残された飛鳥寺はと言うと、「本元興寺」(もしくは、法興寺)と呼ばれ、元興寺の管轄下に置かれることになってしまいます。(言わば、末寺のようなものでしょうか)この為、古京・飛鳥の飛鳥寺は、一切の伽藍を元興寺に移され見る影もない無残な姿を晒していたと思われがちです。
確かに、現在の奈良・元興寺極楽坊には、創建飛鳥寺のものと思われる瓦や部材の一部が残されてはいます。けれど、これらの部材が何時どれだけの規模で元興寺へと動いたのかは、今の所不明なのだそうで、飛鳥寺から元興寺へと運ばれたのは、解体・移送しやすい僧坊などの一部の部材だったのではないかと言われています。
平安時代初期の飛鳥寺(本元興寺・法興寺)は、大般若経の転読を命じられたり(837年)、万灯会・万花会などに際して官からの援助を受ける(843年)などの記録もあり、一つの寺院としてかなりの力を持っていた可能性もあります。862年(貞観4)には、寺僧の昇進の特例が認可されるなど、金耀ら寺住の僧の努力があったとの見方もあるようです。
887年の焼亡の記録及び鎌倉時代成立の「護国寺本・諸寺縁起集」に、「金堂」・「講堂」・「北僧坊」・「五重塔」及び「安置仏」などの存在が記載されてあるは、平安期の飛鳥寺が、古京・飛鳥の地で本元興寺として、衰えることなく存続していたと考えるには充分な材料になると思われます。
しかし、道長の来訪から約一世紀半後、雷により伽藍の殆どを焼失してしまったものの復興はならず、江戸時代に仮の堂宇が建立されるまで、草庵一坊のまま飛鳥大仏は半ば野晒し状態であったともいわれています。そして、この江戸期の仮堂が現在の安居院へと繋がることになります。
【橘寺】
橘寺は、聖徳太子が勝鬘経を講読した際に起きた瑞祥を期に建てられた寺であると伝えられ、太子創建七ヶ寺の筆頭に数えられていますが、その創建時期は明らかになっていません。
日本書紀・天武9年条(680年)に「橘寺尼房失火、以焚十房」とある事から、この頃までにある程度の伽藍は完成していて、当初橘寺は尼寺であったと考えられます。また、橘寺から法隆寺に移された仏像のうちの1つだといわれる法隆寺献納御物弥靭像に「歳次丙寅年(675年)正月生十八日記 高屋大夫為分 韓婦人名阿麻古願 南元頂礼作奏也」とあることや、大阪・野中寺の弥勒菩薩の銘文「丙寅年(666年)四月大旧八日癸卯開記 栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時 請願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等此教可相之也」の「栢寺」を橘寺として、橘寺建立はそれ以前であったとする説などがあります。
現在、橘寺に入山する際に潜る門は、東門・西門のどちらかになります。通常寺の正面とされる南側には仏頭山が控えている為、橘寺は東を正面とする四天王寺式伽藍配置で建立されています。北には道を挟んで川原寺跡が望め、奈良時代には、この川原寺南門と対応するように橘寺北門が設置されていたそうで、僧寺である川原寺と尼寺である橘寺はほぼ同時に整備されたと考えられています。
奈良時代も末になると、光明皇后による仏像施入などの記録が見え、太子信仰はこの頃始まったのではないかと言われています。また、寺住の尼僧・善心の存在も重要であったと言われています。
平安初期(795年・延暦14)の伽藍焼失の際には、官から稲束二千束の施入を受けるなど、橘寺は奈良から平安へと移り変わる時代の中で、飛鳥の地で繁栄を続けていたと思われます。が、聖徳太子創建については、考古学的には不明とされ、七世紀中頃から随時奈良時代にかけて、伽藍が整えられた事が発掘調査からわかっています。
その後、落雷の為に五重塔が焼失したのは1148年、三重塔として新たに再建されたのは60年後の鎌倉期に入ってからになりますが、1506年には多武峰の兵に伽藍の殆どを焼かれてしまいます。江戸時代には僧房一つを残すだけの無残な姿だったそうです。現在の堂宇は江戸末期に再建されたもので、本堂(太子堂)は昨年までに修理され、今年春に落慶法要が行われる予定です。
【竜門寺】
竜門寺は、白鳳期に義淵(?~728年)によって建立され、義淵開基の五竜寺(竜門寺・竜蓋寺(岡寺)・竜福寺・竜峯寺・竜華寺)の一つと伝えられていますが、その詳細は明らかではありません。
創立に関しては、今昔物語などでも知られる大伴・安曇・久米の三仙によって代表される山僧が、竜門滝で修行、庵室を営んだことに始まるとも言われますが、確証のある話ではありません。
懐風藻に葛野王(669年~705年)の「五言、龍門山に遊ぶ一首」と言う漢詩が残ることから、白鳳期創建を裏付けると見る説もあるようです。
発掘調査では、1953年に搭跡が調査され、小規模な搭の礎石と基檀がほぼ完全に残ることが判明し、8世紀初めとみられる軒丸瓦・軒平瓦・せん仏などが出土しています。他に竜門滝上流右岸の平坦地に12個の礎石群があり、金堂跡と推定されています。また六角堂なども跡を残しているようです。今の所これより先立つ遺構は発見されていないようですが、瓦葺きでない小堂のような修行場があったと言う可能性も考えられます。
付近には、堂谷・堂屋敷跡・六角堂地・石搭谷・薬師堂・新蔵院谷・大門・小門跡などの地名が存在するようです。
平安時代には、清和上皇・陽成天皇・宇多上皇などが参詣した記録も見え、興福寺の末寺に編入された事などから、藤原氏との関連も言われているようです。その後、室町時代には瓦の葺替えなどの整備もおこなわれたようですが、永正3年(1506年)に焼失し、廃寺となったようです。
道長参詣寺院関連年表
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