第七回定例会
道長が見た飛鳥
2008年3月22日 講師 : 奈良大学文学部 滝川幸司氏 於 : 飛鳥資料館講堂 主催 : 両槻会
「飛鳥と道長」 一見全く無関係に思えるこの二つの事柄が、治安3年(1023年)に結びつきます。時の権力者であった藤原道長が、高野山参詣の道中に飛鳥を訪れているのです。 今回の定例会では、「扶桑略記」に残る記録を元に、奈良大学の滝川先生に「道長が見た飛鳥」のお話を伺いました。 まずは、午後からの講演会に先立ち、道長が辿ったと想われる飛鳥を小1時間ほど散策することになりました。 飛鳥資料館前に集合した事前散策希望者に事務局全員と講師の滝川先生も加わり、まずは阿倍山田道を辿って「山田寺跡」を目指しました。 現在は寺跡として寺域を示す空間が広がっているだけですが、道長が飛鳥を訪ねた当時はこの山田寺に宿泊しています。本堂の見事に荘厳された様に息を呑んだと伝えられています。 この金堂跡に立って、事務局長から山田寺に関する歴史的沿革と奇跡的に残っていた東面回廊などの考古学上の発掘の成果について説明を受けました。 大化の改新の功労者でありながら、同族の蘇我日向の讒言によってこの金堂前で自決に追い込まれた蘇我倉山田石川麻呂の発願による山田寺が辿った数奇な運命は、春を思わせる当日のうららかな陽気とは隔世の感がありました。(事前散策資料・山田寺) 午後の講演会準備の事務局員と講師の滝川先生とはここで一旦お別れし、残った散策組の皆さんと次の飛鳥寺を目指して、緩やかな起伏の続く飛鳥の里道を歩きます。 入鹿の首塚 八釣の里を抜け、竹田遺跡、飛鳥坐神社の前を通り、飛鳥寺の東門から西門へ境内を横切り、飛鳥庵にも立ち寄らず、蘇我入鹿の首塚に至りました。 入鹿の首塚には真新しい供花が活けられているのが目を惹きます。 生けられた花に心ほぐされながら、今度は川原寺跡・橘寺を目指して歩き続けます。飛鳥川のほとりを辿りながら行く飛鳥周遊路は菜の花や梅の花が里道を彩り、ひたすら歩き続けるメンバーの疲れを癒してくれる景観でした。(事前散策資料・飛鳥寺) 川原寺北限遺跡から前方に、大屋根の大修理が済みこの春に落慶法要が執り行われる橘寺が見えてきます。(事前散策資料・橘寺) 橘寺 午後の開演時間までに食事を済ませて再び飛鳥資料館に戻らねばなりませんので、道長が訪ねた橘寺は川原寺跡からその全景を眺めることにし、食事時間をゆっくりとることにしました。 八釣の集落内 みなさん、それぞれ思い思いの木陰を探して昼食です。この時間を利用して参加者の皆さん同士の交歓も行っていただきました。 予定していた飛鳥周遊バスに全員漏れなく乗ることができ、橘寺に立ち寄る時間は取れませんでしたが、一応道長が辿ったと想われる飛鳥のポイントをざっと回ることができました。 すっかり春の陽気となった好天に恵まれ、わずか1時間ほどの遊歩ながら、汗ばむほどの講演会の事前散策でした。 一方、山田寺跡で散策組と分かれた会場準備組は、ここでで早めの昼食を取った後、資料館に戻って皆さんをお迎えする準備です。会場である講堂入り口では、講演会用に滝川先生がご用意下さった資料を皆さんにお配りしました。B4サイズ6枚に地図を2枚プラスしたかなり読み応えのある資料です。無事に事前散策組が資料館に戻り、やがて開演の時間となりました。 事務局長の簡単な挨拶の後、講師・滝川先生のご紹介があり、いよいよ講演開始です。 日ごろ「飛鳥」をキーワードに活動している両槻会とっては馴染みの薄い「道長の周辺」について、系図を参照しながら先生が噛み砕いてお話くださいました。 ここでは、できるだけ頂いた資料に沿った形で、定例会当日のお話を振り返ってみたいと思います。(本文中、白背景の箇所が頂いた資料を転載したものです。縦書きから横書きに変更している為、表記が実際の資料と異なっている箇所もあります事をお断りしておきます。) まずは、下の系図をしばらくじーーーーっと眺めて下さい。(笑) Ⅰ、関係系図 *道長の伝記… 朧谷寿氏 『藤原道長─男は妻がらなり』(日本評伝選・ミネルヴァ書房・二〇〇七年) 山中裕氏 『藤原道長』(人物叢書・吉川弘文館・二〇〇七年) よーは、ですね。藤原家の嫡流でもなかった家の五男に生まれたにも関わらず、ポコポコと政敵が自滅してくれて、天下を手にした人と理解すればいいようです。(ホントか?)で、二人いた奥さん(もう一箇所、別の通い処もあったらしいのですが)のお陰で子沢山の彼は、「この世をば・・」の歌を詠えるほどまでに権力を自身の方へ引き寄せる事に成功するわけです。(道長の周辺 *定例会事前散歩資料*) 人物についての説明の後は、道長の動向が書かれている「扶桑略記なる書物とは何ぞや?」と言うお話をこれまた詳しくご説明くださいました。 Ⅱ、資料について ▽ 『扶桑略記』治安三年十月十七日~十一月一日条 *神武天皇から堀河天皇までの私撰の史書。漢文の編年体。堀河天皇を今上天皇とすることから、最末記事の嘉保元年(1094)から堀河天皇の崩じた嘉承二年(1107)までの成立とみられる。撰者は、皇円とされる。 十一月一日。丑の刻。京華に入御す。桂河の辺於て、夜漸く曙く。宿霧野に満ち、巌霜衣を湿す。更に七条河原路を経て、法成寺御堂に入御する也。修理権大夫源長経教命に依りて記す。多々略抄す。 ▽ 源長経 …源重光男。生没年未詳。もと明理といったが、寛弘頃に長経と改名したらしい。右近衛少将、五位蔵人、左近衛少将、左京大夫を歴任。父が藤原伊周の岳父であった関係から中関白家と深く結び、長徳二年(996)四月、伊周・隆家兄弟による花山院闘乱事件(長徳の変)に連坐し、殿上簡を削られることがあったが、翌年九月には昇殿を聴されている。また藤原行成とも親しく、『大鏡』三には「明理・行成と一双にいはれたまひし」と載せる。女に、藤原彰子の女房を務め、小兵衛と呼ばれる女性のいたことが知られる。 扶桑略記は、皇円という僧の私撰の歴史書になるそうです。 道長の道中最後の日、11月1日付けのところには、大体次のように書かれています。 「11月1日の午前二時ごろに京都に入った。桂川の近くで夜が漸く明け始めた。留まる霧が野に満ちて、霜が衣を濡らす。そこから更に、七条河原を通って、法成寺の御堂に入る。修理権大夫である源長経(ミナモトノナガツネ)が藤原道長からの命令によって書き記した。(それを撰者が)かなり略して記した。」 夜中の二時に京都に入ったって、一体どんな旅をしてきたんだ?と、思ってしまいますが、今回の主役は前太政大臣である道長です。第一回定例会の宇多上皇の突発的な宮滝行きとは、少し事情が違います。(笑) その辺りは、この後色々比較検討の余地ありですので、お楽しみに。^^ で、よーは(笑)、源長経って言う道長側だか伊周(コレチカ)側だかよくわからん場所にいた人間が、道長に名指しされて道中の記録を残してたわけなんですね。で、その記録をこれまた皇円というお坊さんが、「長いから端折りました」的に切り詰めて「扶桑略記」の中に収めたと。 次は、いよいよ扶桑略記の記事に入ります♪