Ⅲ、読解 |
○十月十七日 道長、金剛峯寺へと出発。巳の刻に宇治殿に到着し、御膳。東大寺に宿泊。
同十七日丁丑。入道前大相国紀伊国金剛峯寺に詣づ。則ち是れ弘法大師の廟堂也。路次に七大寺并びに所々名寺を拝見す。相従ふ人等、内相府(教通)、并びに民部卿(俊賢)、中宮権大夫(能信)、修理権大夫長経朝臣、前備後守能通、前肥後守公則、散位隆佐、左衛門大尉宗相、散位範基、兵部大丞源致佐、右衛門権少尉真重、同高平、前権少僧都心誉、前権少僧都永円、権少僧都定基、権少僧都永照、三会已講教円等、都(すべ)て十六(ママ)人、緇素轡(しそくつわ)を並べ、共に以て前駆す。巳の時、宇治殿に御す。膳所(ぜんしよ)、御膳を供す。次に東大寺に留宿す。 |
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→ 『小右記』
十七日丁丑。今暁禅閤高野に参らる。前日、関白(頼通)参らるべき由と云々。而るに禅閤の命に依りて俄に以て留めらると云々。内府(教通)忽ち関白の替に参入すと云々。関白□□城外便無かるべき事也。賀の日、禅閤、関白参らるる由を談ぜらる。然而(しかれども)、左右を申さず。穏便ならざるに依りて、之れを計りて気色を見給ふ哉。或□、民部卿俊賢卿、大納言能信等参入すと云々。
*「賀の日」…同年十月十三日、大皇太后彰子、道長上東門第にて、倫子六十賀を行う。皇太后妍子、中宮威子も行啓。『小右記』に詳細な記事がある。 |
▽ 「金剛峯寺 |
…紀伊国伊都郡内、現在の和歌山県伊都郡高野町に所在する真言宗の根本道場。本来、高野山を一円境内とする寺全体をさす名称。弘仁七年(816)空海が嵯峨天皇に上表し、修禅(山林修行)の道場として高野山を賜り、金剛峯寺を建立したのに始まる。 |
▽ 「七大寺」 |
…東大寺・興福寺・元興寺・大安寺・薬師寺・西大寺・法隆寺 |
▽ 参加者 |
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「内相府」 |
…内大臣藤原教通。道長男。母源倫子。996~1075。この時28歳。 |
「民部卿」 |
…民部卿源俊賢。源高明男。道長妾妻明子兄。959~1027。この時65歳。 |
「中宮権大夫」 |
…中宮権大夫藤原能信。道長男。母明子。995~1065。この時27歳。 |
「前備後守能通」 |
…前備後守藤原能通。藤原永頼男。生没年未詳。寛弘五年、敦成親王(一条天皇親王、母道長女彰子)誕生の折には家司別当に任ぜられるなど道長の信任も篤いが、特にその男教通とは家司として終生密接な関係にあったらしい。 |
「前肥後守公則」 |
…前肥後守藤原公則。伊傅男。章経養子。生没年未詳。道長の近習の一人で、家司受領。 |
「散位隆佐」 |
…藤原隆佐。宣孝男。母藤原朝成女。985~974。この時39歳。大学寮紀伝道出身。 |
「左衛門大尉宗相」 |
…左衛門大尉藤原宗相。生没年未詳。11世紀初めに左衛門尉で検非違使として著しい活躍をした。道長の命によって動いているケースが多い。 |
「散位範基」 |
…平安中期の廷臣。駿河守高扶の子。?~1066。蔵人、春宮少進等を歴任。尚侍藤原嬉子(道長の四女、敦良親王妃)の乳母子。 |
「右衛門権少尉真重」 |
…平真重。道長没後、その馬の処分に預り、一疋賜っている。合戦乱闘の記事あり。 |
「同高平」 |
…平氏。 |
「前権少僧都心誉」 |
…右大臣藤原顕忠孫。左衛門佐重輔男。971~1029。園城寺の勧修・穆算二師から顕密の教えを受け、特に加持祈祷の験応に名を得、広く皇族・貴族の招きを受けた。時の権勢者藤原道長の信任も篤く、法成寺別当の職をゆだねられ、更に大僧都に任ぜられた。 |
「前権少僧都永円」 |
…兵部卿致平親王の息。980~1044。明尊の後嗣である明行に就いて天台を修める。道心堅固にして、常に勉学修道を怠らなかったという。 |
「権少僧都定基」 |
…平安中期の園城寺僧。千手院に住す。散位源助成(茂)男。975~1033。僧正智弁の弟子。寛弘四年の藤原道長の金峯山詣に同道した。また、長和四年道長の五十賀において堂達を務める。 |
「三会已講教円」 |
…伊勢守藤原孝忠男。実因の弟子。978~1047。 |