飛鳥咲読
特別回
忍坂街道探検
Vol.46(09.3.20.発行)~Vol.47(09.3.27.発行)に掲載
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【1】 (09.3.20.発行 Vol.46に掲載)
今号から2回に分けて、4月18日に予定しています特別回「忍坂街道探検」を、咲読風にご紹介したいと思います。まずは、古墳編です。
忍坂は現在でも桜井市の大字として存在していますが、古代においても「押坂」などとも表記され、古事記・日本書紀・万葉集に、その名を見ることが出来ます。允恭天皇の皇后は、忍坂大中姫と言いますが、その名前から忍坂に住まいが在ったのかも知れませんね。現在の女寄峠や小峠(半坂峠)を、女坂・男坂とする説もあるようですが、神武東征伝承はともかくとして、大和国中と宇陀を結ぶ重要な地であったことは確かでしょう。
今回の特別回では、まず集合地点から一番遠い花山塚古墳を訪ねることになります。
花山塚古墳
花山(西)塚古墳(国史跡)は、女寄峠近くの尾根の南斜面にあります。墳丘は崩壊していて確実ではないようですが、径16mほどの円墳であったと推定されています。石室は、非常に珍しい特徴を見せます。榛原石をレンガ状に加工したものを積み上げ、磚積式横口式石槨の形態をとります。大きな花崗岩の天井石を含め、漆喰を塗っていたようです。もう一つ特徴的なのは、玄室の奥に、さらにもう一つ奥室があり、その入口の扉石はドア状に閉めることが出来るようになっていることです。
早くから開口していたため出土遺物は確認されていないようですが、石積みの技法などから、築造時期は7世紀の後半とされ、渡来系氏族の貴人の墳墓ではないかとされているようです。
花山塚古墳石室の写真 (飛鳥資料館倶楽部サイト内ページ)
花山塚古墳の東には、もう一基磚積式の古墳があり、花山東塚古墳と呼ばれていますが、こちらには奥室は確認されていません。東塚が、やや先行する時代のものであるとされているようです。
ムネサカ1号墳
花山塚古墳から粟原川に沿って2kmほど下った所の右岸尾根上に、ムネサカ古墳群があります。特にその中の1号墳に注目したいと思います。
1号墳は、直径45m、高さ8mの2段築成の円墳です。南面する横穴式石室があり、石室は、全長16.6m、 玄室長4.6m、幅2.7m、高さ2.4mを測り、奥壁は巨石の2段積み、側壁は下段3個・上段2個の、ほぼ長方形の花崗岩の切石を用いています。石材の隙間には漆喰が塗られています。羨道は、長さ12m、幅1.9m、高さ1.4mとなっています。
この石室の作成プランは、岩屋山古墳とほぼ同じだとされており、同じ工人が造った同一設計の古墳であるとされます。また、橿原市の小谷古墳や天理市の峯塚古墳とも共通する特徴があります。斉明天皇陵の候補ともされる岩屋山古墳ですが、各地に同一プランの石室が在るというのは、天皇陵としてはどうなのでしょうか。石材表面を精緻に加工しているとはいえ、規格品を天皇陵とするにはやや問題もあるかも知れませんね。ムネサカ1号墳は、7世紀中頃の築造と考えられます。被葬者は、近くに粟原寺が在ることなどから、この地に勢力を持っていた中臣氏と考えることも出来るかも知れません。
越塚古墳
越塚古墳は、ムネサカ古墳から粟原川の対岸南西方向の尾根上に在ります。2段築成の円墳で、径約43.5m、高さ約7mを測ります。南に開口する両袖式横穴式石室で、玄室は長さ約5.3m、幅約2.75m、高さ約3.85m、羨道は長さ約10.7m、幅約1.8m、高さ約1.8mの規模とされています。
石室は花崗岩の巨石で造られており、玄室は3段に積まれ、内側に持ち送りされています。また、石室の床面には礫が敷かれています。玄室には、凝灰岩の棺底石が2枚残され、組合式石棺が置かれていたとされます。
石室で特徴的なのは、天井が高いことです。この地域の特徴として、天王山古墳や首谷古墳とも共通する特徴のようです。築造は、6世紀末と推定されています。ムネサカ古墳群と共に、粟原寺を建立した中臣氏との関連も注目されます。副葬品などの遺物は、全く発見されていません。
赤坂天王山古墳
粟原川から離れ倉橋溜池に登って行く途中に、赤坂天王山古墳はあります。北西に延びる尾根上に築かれた3段築成の方墳で、東西45.5m、南北42.2m、高さ約9mで、各辺がほぼ正方位を向いているようです。
南に開口する両袖式の横穴式石室を持っており、全長17m、玄室の長さ8.5m、幅約3m、高さ4.2m、羨道の長さ8.5m、幅1.8m、高さ約2mを測ります。石室は花崗岩の自然石で造られており、壁面は持ち送りされています。玄室の中央に凝灰岩製の刳抜式家形石棺が残されており、棺蓋には6個の縄掛突起があります。
日本書紀によれば、崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、赤坂天王山古墳を崇峻天皇陵と考える説が有力なようです。また実際にも、明治時代に現在の崇峻天皇倉梯岡上陵に治定されるまでは、江戸時代以降、赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵だとされていたようです。
蘇我氏との血縁が深い天皇の陵墓は、方墳であることが多く、赤坂天王山古墳もその中に入ると考えることも出来ますが、所在地が近つ飛鳥ではなく、倉橋であることに暗殺された歴史が反映されているのでしょうか。また、やや小振りではありますが、他の天皇陵に比しても遜色のない規模であることから、倉橋に葬られたのには別の意味が秘められているのかもしれません。
遺物は残されていなかったようですが、石室や石棺の形式などから築造時期は6世紀末とされています。全てのデーターは、崇峻天皇陵とするに矛盾は無いようです。
(つづく) (真神原 風人)
*写真など当日の様子は、特別回 忍坂街道探検レポートをご覧下さい。
【2】 (09.3.27.発行 Vol.47に掲載)
女寄峠から粟原川の両岸尾根上に在る古墳を訪ね歩いた今回の忍阪街道探検古墳編も、舒明天皇押坂陵(段ノ塚古墳)を訪ねるところまで下りてきました。大字忍阪では、他にも興味深い古墳が散見できますので、今回は、それらの古墳も若干ご紹介したいと思います。
その前に、宇陀をネット世界でもリアル世界でも紹介されている落王さんのサイト「U-dia」に、前回ご紹介しました花山塚古墳などや今回紹介します古墳の写真がありますので、参考ページとして掲載させていただきます。
宇陀の古墳探索・漆喰(花山塚古墳)
桜井の古墳
写真で見ると、一層興味深い古墳であること、面白そうな地域であることが分かります。ご覧下さい。
舒明天皇押坂内陵(段ノ塚古墳)
地形に合わせた台形状の3段になった下段の上に、八角形の2段に築成された墳丘を乗せています。名前の通り、段々の墳丘になっているわけです。この段ノ塚古墳は、飛鳥時代後半からの天皇陵の特徴となる八角墳の最初の例で、以後、斉明天皇、天智天皇、天武・持統天皇、文武天皇の陵墓へと、墳形は引き継がれて行くことになります。それまでは、蘇我氏の血を強く受けた天皇の陵墓が方形墳であったことから、一線を画する形態だということが出来そうです。
舒明天皇の父は、押坂彦人大兄皇子であり、押坂(忍阪)と深い関わりが感じられます。皇子は蘇我氏の血を引かない有力王族であったことから、様々な憶測もあるわけですが、蘇我氏によって暗殺されたとの見方もあります。皇子のお墓は、奈良県広陵町の牧野古墳とされ、やはり蘇我の勢力範囲からは離れたところにあります。
先代の推古天皇は、継嗣を定めずに亡くなっています。蘇我蝦夷は、田村皇子(舒明天皇)と山背大兄皇子の二人の内から、田村皇子を立てて天皇にしました。これには蝦夷が権勢を振るうための傀儡にしようとしたという説と、他の有力豪族との摩擦を避けるために蘇我氏の血を引く山背大兄皇子をあえて避けたとする考え方があります。どちらにしても、世は蘇我氏支配の下にあったのですが、忍坂という地に八角形の陵墓を築いた舒明天皇の存在は、蘇我本宗家滅亡の兆しであったのかも知れませんね。
いつの時代かは分かりませんでしたが、古墳の一部が崩壊したことがあり、石棺が2基見えていたことが記録(「山陵考」)にあるそうです。延喜式諸陵式には、その母、糠手姫皇女が同陵内に在ると記されていることから、合葬されていると考えられています。
八角形と思われる終末期古墳
段ノ塚古墳 (舒明天皇陵):桜井市忍坂
御廟野古墳 (天智天皇陵):京都市
野口王墓古墳(天武持統合葬陵)明日香村野口
中尾山古墳 (文武天皇陵):奈良県明日香村
束明神古墳 (草壁皇子墓):奈良県高市郡高取町
牽牛子塚古墳(斉明天皇陵候補):明日香村越
鏡女王墓・大伴皇女墓
舒明天皇陵から東に小さな谷筋を登って行くと、鏡女王墓と、さらに奥に大伴皇女墓があります。
鏡女王は、藤原鎌足の正妻だとされる女性で、藤原不比等の生母ともされています。額田王の父は、鏡王とされていることから、額田王の姉という説がありますが、鏡女王には舒明天皇の皇女だとする説もあるそうです。
墳墓は、円墳様ですが詳細は分かりません。なぜこの地に葬られたのでしょうか。粟原寺や石位寺に痕跡を残す額田王との関連も考えると、忍阪地域がこの姉妹所縁の地だとも考えたくなります。
一方の大伴皇女とは、どのような人なのでしょうか。日本書紀には、欽明天皇と蘇我堅塩媛の間に生まれた第9子として名前があがっていますが、経歴などは分かりません。なぜこの地に葬られたのかというと、分からないと答える他はないようです。古代豪族大伴氏が、この辺りに勢力を持っていたとされるようですから、大伴氏が皇女の養育にあたっていたのかも知れないですね。墳墓は、その所縁の地に・・・、これは妄想でしかありません。
忍坂古墳群
忍坂古墳群は、特別回最後の見学地になります。近鉄朝倉駅の東南、標高292.5mの外鎌山の北から西にかけての斜面に位置した古墳群です。(外鎌山古墳群忍阪支群) 団地造成に伴って発掘調査され、4世紀から7世紀後半までの9基の古墳が発見されました。この内の4基が近隣の公園に移築保存されています。
とりわけ注目されるのが8号墳です。花山塚古墳とも共通する磚槨式石室を持ち、榛原石をレンガ状に加工して積み上げています。周囲に幅約3mの濠をめぐらせ、墳丘は径12mの円墳に復元されるそうですが、調査時にはすでに破壊されていたようで、羨道の構造なども不明なようです。この8号墳には大きな特徴があります。それは、磚槨式石室の平面が六角形に復元出来るという、極めて珍しい様式を見せます。7世紀後半から8世紀初頭にかけて築造されたと推定されます。
忍阪街道の面白さは、古墳ばかりではありません。粟原寺跡や石位寺石仏などは、飛鳥時代の香りを漂わせるミステリーゾーンとして私達を魅了します。そのほんの一端を、ご案内しようと思います。
粟原寺跡
江戸時代の中頃、多武峰妙楽寺(談山神社)の宝物庫から「国宝・粟原寺三重塔露盤の伏鉢」が発見されました。そこに刻まれた銘文には、「仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を偲び創立を誓願したが果さず没した後、比売朝臣額田が持続天皇8年(694)から元明天皇和銅8年(715)にかけてこの地(粟原)に伽藍を建て、丈六釈迦仏像を鋳造、金堂に安置した。また三重の塔を起し、草壁皇子とともに発願者大嶋の冥福をあわせて祈った」と書かれています。
参考:伏鉢(旧飛鳥資料館サイト)
粟原寺跡は、現在、塔・金堂跡とも土壇も明確には残っていませんが、塔跡には心礎をはじめとして礎石が残り、三重塔であったと推定されているようです。また、金堂跡は礎石の移動や消失によって、その規模は明確には分からないようですが、付近には礎石が散見され、7世紀末から8世紀初頭の物と思われる素縁複弁蓮華紋軒丸瓦なども出土しています。
なぜ、このような山間の奥まった場所に、草壁皇子の追福のための寺院が建立されたのでしょう。なぜ、仲臣朝臣大嶋が草壁皇子を供養しようとしたのでしょう。比売朝臣額田とは誰のことなのでしょうか。残された礎石と向き合って、そのような謎解きをしてみるのも楽しいかもしれませんね。
石位寺
忍阪の集落の中に石位寺があります。ここには、薬師三尊石仏(重文)が安置されています。石仏は、白っぽい花崗岩のおにぎりのような形の石に浮彫りされており、わが国最古の石仏と言われます。中尊は、両手を膝の前に揃え、静かな表情で椅子に座り、脇侍は合掌の姿をとっています。部分的に朱が薄っすらと残っており、彩色されていたのかも知れません。
この石仏は粟原から流れ着いた(粟原流れ)と伝えられるものです。粟原寺が水害に遭ったときに、下流域にたくさんの仏像が流出したと伝えられています。その流出した仏像を粟原流れと称して、今も桜井市域をはじめ多くの寺院がそれを受け継いでいるそうです。この石仏が万葉歌人額田王の念持仏と言われるのも、その辺りに謂れがあるのでしょう。
さて、両寺の伝承で興味深いのは、額田王の存在ではないでしょうか。額田王=比売朝臣額田と解すると、どのようなことになるのでしょう。額田王の生年は不詳ですが、7世紀の前半から中頃の誕生と考えると、粟原寺創建時には50代~70代ということになり、存命の可能性はあります。しかし、疑問も起こってきます。額田王は王族のはずです。朝臣姓として書かれているのは不思議な気がします。仲臣朝臣大嶋に嫁して、臣籍降下した時の名前なのでしょうか。
万葉集に次のような贈答歌があります。
吉野の宮に幸しし時、弓削皇子、額田王に贈る歌一首
古に 恋ふる鳥かも 弓絃葉の 御井の上より 鳴き渡り行く 弓削皇子 巻2-111
額田王、和へ奉る歌一首
古に 恋ふらむ鳥は 霍公鳥 けだしや鳴きし わが念へる如 額田王 巻2-112
歌が詠まれた時期は、粟原寺の創建に重なります。波乱に満ちた人生を歩んだ額田王。逝き過ぎて行った人々を偲び、静かな余生を送るには、粟原の里は相応しいかも知れませんね。(真神原 風人)
(記事中、忍阪<現地名>と忍坂<古代地名・名称>を使い分けました。)
*写真など当日の様子は、特別回 忍坂街道探検レポートをご覧下さい。
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