両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪






よっぱの素人飛鳥学

よっぱさん

(12.11.16.発行 Vol.147に掲載)


「仏像ってなに」

 「飛鳥の王道を歩かず、飛鳥寺や亀石を背にして田圃を眺める両槻会」に参加させていただき、マニアックな勉強をしてかれこれ3年になりますが、ふとしたことがきっかけで「仏像ってなに」という疑問が湧きだして、「回れ右」して王道に正対し、いちから調べてみることにしました。

 日本書紀によると、我が国の仏教公伝は欽明13年のこと。
 百済の聖明王が、使者を遣わして欽明天皇に金銅の「釈迦如来像」一体と若干の経典や仏具などを献上したところ、崇仏派の蘇我稲目と廃仏派の物部尾興が論争になってしまいました。そこで、欽明天皇が「尾興がいう祟りがあるかどうか、試しに祀ってみたら」と詔して、蘇我稲目が向原の宅(後の豊浦寺)にこの仏像を祀ったのですが、その後に蔓延した疫病を理由に、物部尾興は寺を焼き払い、仏像を難波の堀江に捨ててしまいました。
 その後、稲目の子の馬子が、敏達13年に「弥勒仏(菩薩?)」の石像などを石川の宅に祀り、司馬達等の娘らを出家させ、大野の丘の北方に塔まで建ててリベンジしたのですが、またもや疫病が蔓延し、廃仏派の物部守屋に寺や仏像を焼き払われ、残った仏像も難波の堀江に捨てられてしまったそうです。
 これが、用明天皇の治世になると「朕は三宝(仏教でいう仏、法(経典)、僧)に帰依しようと思う。」と、天皇自ら崇仏に傾倒していき、用明2年4月には、天皇の臨終に際して鞍作多須奈(司馬達等の子)が「天皇のために出家し、丈六の仏像と寺を造り奉る。」といい、これを聞いた天皇が嘆き悲しんだと記されています。
 そして、「南淵の坂田寺の木の丈六の仏像と左右の菩薩がこれである。」と、書紀編纂当時には、坂田寺と本尊などが残っていたことが記されていますが、これらも今はその地に残されていません。

 現在、飛鳥の地に残されている最古の仏像といえば、安居院の「飛鳥大仏」です。
 これまでの史料から、この仏像は鎌倉時代(建久7年、西暦1196年)に火災にあい、残ったのは頭と右手のみとされていましたが、先日の早稲田大学の銅の比率分析により、その大部分が造立当時のものだと確認されたようです。

 さまざまな種類がある仏像の内、「釈迦」だけは、紀元前5世紀に活躍した唯一実在した人物で、最初につくられた仏像は「釈迦如来像」だそうです。安居院の「飛鳥大仏」もこの「釈迦如来像」です。
 釈迦如来像が作られたのは、インドの北西に位置するガンダーラ(現パキスタン領)でのことであり、その時期は紀元一世紀半ばのこと、釈迦入滅から約500年後のこととされます。仏教でも当初は偶像が否定され、開祖とまで言われる釈迦の偶像が作られることはなく、舎利を仏塔(ストゥーパ)に納め、これを崇拝していたようです。
 しかし、ガンダーラでそのタブーが破られると、偶像崇拝(仏像造立)はインド中部のマトゥラーにも波及して東洋的な釈迦如来像が作られ、その後、大乗仏教の広まりとともに我が国を含むアジアの広い地域に偶像(仏像)崇拝は広まったようです。

 尊崇すべきものを偶像にすべきではないという偶像否定の思想は、イスラム教などでも同様であり、一部の強硬派(イスラム原理主義者)がアフガニスタンのバーミヤンの石仏を爆破してしまったのもこのような思想によるものです。
 日本の神道においても、八百万の神は目に見えないものとされ、古来から偶像化が否定されてきました。
 仏教公伝時に宮中神事を司っていた物部氏が、廃仏派として蘇我氏と対立し、寺や仏像を焼き払った行為は、これが一因ではないかと考えています。

 仏像について調べていくと、その基本的なパターンによって、上位から「如来」「菩薩」「明王」「天」「羅漢・高僧」に区分され、それぞれに多くの種類の仏像が作られ、その誕生には色々な理由があることが分かってきました。また、仏像の姿勢や手つき(印)、持ち物、装身具、台座光背なども仏像によって多種多様であり、それぞれに色々な意味(仏教や仏像の教え)が込められているようです。
 また、蘇我馬子が大野の丘の北方に塔を建てたこと、飛鳥寺建立に際して塔を重視して塔心礎に武具など含む様々な鎮壇具を納めたこと、そして、その塔を囲むようにして一塔三金堂の伽藍配置にしたことは、当時我が国に伝えられた、偶像崇拝の大乗仏教の思想だけではなく、仏塔(ストゥーパ)崇拝の小乗仏教の思想も含まれていたのではないかと、素人なりに考えています。しかし、その謎を解くには、「仏像」だけではなく、「仏教」や「寺院建立」にまで手を広げなくてはなりません。

 とりあえず、今の私は、「仏像ってなに」をもう少しつづけてみます。




































さくらいの記紀・万葉故地を巡る(とりあえず其の一)
ー飛鳥遊訪マガジンに寄せてー 


らいちさん

(13.1.11.発行 Vol.152に掲載)


 昨年は古事記が完成して1300年という記念の年で、ゆかりのある地域では様々なイベントが催行されました。奈良県では『記紀・万葉プロジェクト』なるものが始動しています。せっかく県がやっているのだからと、私も少し記紀とか万葉集とか勉強したいと思っています。キーワードは『地域の魅力再発見』でしょうか…、『見つけた』ことは『伝える』ということも大事じゃないかと思って拙文を承知で書いております。

 私の住む桜井市の東の端に吉隠(よなばり)というところがあります。穂積皇子の万葉歌に「降る雪は淡にな降りそ吉隠の猪飼の岡の寒からまくに(巻2-203)」というのがあります。但馬皇女のお墓が吉隠の猪飼の岡にあって、「そんなに雪が降ったら(但馬皇女が)寒いだろうから、降らないでくれよ」と、雪が降る日に「遥かに御墓を見さけまして」悲しみ泣きながら詠んだという歌です。

 10年ほど前に、藤原京跡の発掘調査で中ツ道の側溝から『穂積親王宮』と書かれた木簡が出てきてニュースになったことがありました。穂積皇子の宮がどこら辺にあったのかということと、但馬皇女との間にやりとりされた万葉歌のことが取り上げられていました。その時に吉隠まで上の万葉歌を刻んだ歌碑を探しに行った事があります。吉隠は棚田や段々畑の広がるとても美しい所ですが、目的の歌碑はなかなか見つけられなくて、細い道をくねくねと登ったり降りたりして、吉隠公民館の前でやっと見つけたときはけっこう感動したことを覚えています。この歌に出てくる『猪飼の岡』がどこかは定かでありません。遺跡地図を見てもこの辺は古墳のほとんどない地域です、ただ、北東の尾根上に春日宮天皇妃陵とされている橡姫陵古墳があります。これを但馬皇女の墓とする説もあるようです。

 春日宮なんて天皇いたっけ?と最初見たとき思ったのですが、光仁天皇が即位したときに、父親である志貴(施基)皇子が追尊して与えられた名前だそうです。志貴皇子といえば、かの「釆女の袖吹きかへす明日香風…」の歌を詠んだひとですね。称徳天皇のあとおよそ100年続いた天武系の天皇がついに途絶え、天智天皇の孫である白壁王が68歳という年齢で即位したのです。白壁王は政争に巻き込まれるのを嫌がり毎日お酒を飲んで無能を装っていたといいます。奈良市の大安寺の笹酒祭りは、毎日お酒を飲んで長生きをしてついに皇位を手にしたという光仁天皇の故事に由来するものだそうです。志貴皇子の妃で白壁王の生母である紀橡姫(つるばみひめ)は吉隠の地で葬られたとされていたものの、その場所は長い間不明で明治になってからここを陵墓として治定したようです。本居宣長が吉野へ行く途中に吉隠を通ったとき、御陵の場所を里の人に聞いてもわからなくて残念だと菅笠日記に書いています。

『西たうげ角柄などいふ山里共を過て。吉隠にいたる。こゝはふるき書どもにも見えたる所にしあれば。心とゞめて見つゝゆく。猪養の岡。又御陵などの事。【万葉哥に吉隠のゐかひの岡式に吉隠陵。光仁天皇の御母也。】かごかけるをのこにとへど。しらず。里人にたづぬるにも。すべてしらぬこそ。くちをしけれ。』
 橡姫陵古墳は標高480mくらいの尾根上にあります。国道165号線から登るのは結構大変で、山道を延々と登り、さらに250段の石段が待っています。他に榛原の鳥見山への登山道から分かれる『展望の道』もあります。こちらはすんなり石段の下に出ます。国道からは見上げるような尾根の頂きになりますが、古代の街道はもっと尾根近くを通っていたのかも知れません。私自身はこのことをあまり重要視していないのですが、北緯34度32分のいわゆる『太陽の道』上に位置しているそうです。

 さて、宮内庁の治定通り紀橡姫さんのお墓なのか、それとも但馬さんのお墓なのでしょうか、どっちでも面白いなあと思います。今年は厳冬といわれていますので、雪が降ったら「吉隠の猪飼の岡に降る雪」の写真が撮れるかも知れないとちょっと楽しみにしています。




































ガッキーの飛鳥見学記

ガッキーさん

(13.2.8.発行 Vol.154に掲載)


 12月某日に橿原考古学研究所付属博物館で開催された「外国人の“考古学”体験」の体験レポートについて書きたいと思います。考古学体験といっても、発掘を体験するのではなく、発掘調査現場や遺跡の見学をする外国人の付き添いで参加しました。私ガッキーは日本人ですがよく外国人に勘違いされやすく、今回も日本人と名乗り出るまでは、誰にもそうと気づかれませんでした。行程は奈良県立橿原考古学研究所付属博物館を見学し、その後バスで飛鳥京跡苑池、飛鳥寺西方遺跡、岩屋山古墳を回り解散しました。今回は、飛鳥京跡苑池から岩屋山古墳の見学ルートについての感想を書いていきたいと思います。

 飛鳥京跡苑池は両槻会さんの「飛鳥遊訪マガジン Vol. 149」にあい坊先生の解説や現地説明会等々がありましたが、実際に現地へいってみるとその姿はまさに圧巻でした。苑池は渡堤を挟んで北池と南池にわかれ、見学したのは発掘調査の行われている南池でした。南池は東西65m、南北55mの五角形の平面プランだということが調査の結果明らかとなっていましたが、その広さを目の当たりにして驚きました。苑池遺構というと、石神遺跡や島庄遺跡、飛鳥池遺跡などが思いうかびますが、そのどれよりも規模の大きな苑池であるということにやはり驚かされます。こんな大きな苑池にどこから水を運んできたのかを疑問に思いたずねてみると、川でなくても自然の涌き水も池に利用していた可能性も考えられるとのことでした。

 次に、飛鳥京跡苑池から徒歩で蘇我入鹿の首塚のすぐ近くにある飛鳥寺西方遺跡を見学しました。『日本書紀』に記述される「飛鳥寺西槻」の広場に相当する可能性があるといわれる調査地です。調査地全面には石敷きを見ることができましたが、いくつかポコポコと丸く石が敷かれていない部分があり、そういった場所に槻の木が存在したかもしれないと想像をたくましくして見学して参りました。

 今度はバスで岩屋山古墳に向かいます。岩屋山古墳は近鉄飛鳥駅を少し北側に行ったところに存在する、現在でも石室内を見学することができる古墳です。かつては斉明天皇陵と推定されていましたが、近年では牽牛子塚古墳の方が有力となりました。斉明天皇陵ではないにしても、石室内は花崗岩の切石を用いて構築されており、それらもビッシとまっすぐにキレイな石で、石室を見学するだけでも位の高い人が葬られていたことが想像できます。石室内に入る入口の部分には、閉塞石を嵌めたとみられる溝が認められ、漆喰で隙間を埋めた痕跡も確認できる一粒で二度おいしい古墳といえるでしょう。

 以上、雑多なレポートでしたがガッキーの見学記を終えたいと思います。




































つれづれなるままに

きゃおるさん

(13.4.5.発行 Vol.158に掲載)


 皆様初めまして。昨年11月から両槻会のサポートスタッフをさせていただいております、きゃおると申します。

 現在大学生で、学校では歴史学を勉強しております。ももさんと同じく、特に瓦に興味があります。そもそも、ももさんとお会いしたのも実は瓦つながりでして、その後風人さんにもご紹介いただき両槻会に出会った訳です。国内での瓦の聖地とも言うべき飛鳥のことを様々な角度から勉強されている両槻会に参加させていただくことは、瓦好きの私にとっても得るところの大きいことであります。まだまだ若輩者ではありますが、定例会などでお目にかかりました時はどうぞよろしくお願い致します。

 さて、せっかく自己紹介の場を用意していただきましたので、私の好きなことについて、徒然なるままに書きつくろいたいと思います。

 先ほど両槻会の皆様が飛鳥のことを勉強されていると申したばかりですが、実は私、京都を歩くのも好きでありまして、鞍馬や栂ノ尾を除けば市内ならどこでも歩いております。京都はどこも観光地化が進んでしまいましたが、街中を一人で歩いておりますと「おや」と思わせるお店や、地元の方との何気ない会話もあり、普段は速足の私もついつい歩みを止めて街並みに見とれてしまいます。

 いつも目的地を定めて歩く訳ではないのですが、歩いているとそれと意識しなくても出会うのがお地蔵さんとお寺であります。京都にはいたるところにお地蔵さんがあり、交代でお世話したのをおぼろげながら覚えています。お寺もまたそれには及ばずともたくさんあります。特に仁和寺と神護寺は人も少なく、私の好きなお寺であります。今の季節は「御室桜」として有名な仁和寺が1年で最も賑わっていることでしょう。しかしひねくれ者の私は春の仁和寺、秋の神護寺ではなく、初夏や晩秋の両寺が好きなのであります。仁和寺は山裾、神護寺は山中にある寺院で、東山の寺院に比べるとややアクセスしにくい場所にあるため季節によっては境内を独り占めできるわけです。そうして木々の間からのぞく伽藍を眺めていると、もとは大陸からもたらされた寺院建築も、いかにも日本人好みしそうな繊細でしなやかな姿になったものだなと感じます。

 さて、私が瓦好きであることをご存知の皆様はこれまでの話で「せっかくお寺に行ってもぶらぶらしているだけなのか」と思われるかもしれません。ですが、そうではありません。私はお寺に着くとまず築地塀の瓦を眺め、門の瓦を眺め、門を眺め、中に入ります。中に入ると門の裏の瓦を眺め、築地裏の瓦を眺め、地面に落ちている瓦を眺め、お堂の屋根と地面の瓦をぐるりと眺めながら、境内を散策するわけです。

 昔、伊勢神宮ではお寺のことを忌詞で「かわらぶき」と呼んでいたくらいですから、お寺のことを知るにはまず瓦からと考えております。かつて本居宣長も「吉野の花見」の折に檜隈寺の礎石周辺に散乱する瓦から、そこに古代の伽藍があったことを推測しました。とはいえ私はまだまだ勉強不足で、瓦を見ただけでは先生方のようにたくさんのことを知ることができていないのが現状です。これから精進して、瓦からより多くのことを引き出せるようになりたいと思います。また瓦の「聖地」、飛鳥のことも勉強していきたいと思います。よろしくお願いします。


































よっぱの素人飛鳥学

よっぱさん

(13.5.31.発行 Vol.162に掲載)

~「仏教ってなに」~ 飛鳥に伝わった仏教

 「仏教」とは書いて字の如く「仏の教え」です。では、その「仏」とは何なのでしょうか。

 仏教は、約2500年前にインドの釈迦(ゴータマ・シッダールタ)が提唱して発生した宗教です。そのため「仏」は開祖の「釈迦」を意味します。「仏像」も本来は釈迦如来像のみを指す言葉だったようですが、いつの時代からか、菩薩や天などの像も含めて仏像と総称するようになったようです。

 仏教は、その開祖である釈迦が唱えた教えなのですが、釈迦の入滅直後に、それまでその法話を聞いていた弟子達が、釈迦の言葉(仏典)を集める作業(結集)を行いました。これは口誦によって伝承されていた仏典を仏教聖典として編纂していくための会議であり「三蔵の結集(さんぞうのけちじゅう)」と呼ばれるそうです。

 聖典は、キリスト教では聖書、イスラム教ではコーランのように一冊の書物になっていますが、仏教では早い時期に教団が分裂したり、釈迦の入滅後も釈迦の教義にかなうものを経典として創作したため、聖典は一冊の書物ではなく、多くの書物(典籍群)となってしまったようで、これを大蔵経(一切教)と呼んでいます。大蔵経は、大きく分けて、釈迦の教えそのものを指す「経」、教団の規則である「律」、仏教の教義を解説・詳説した「論」に分類されています。

 北インドで生まれた仏教は、主として東南アジア方面(クメール王朝、シュリーヴィジャヤ王国)に伝播した上座部仏教(南伝仏教)と西域(中央アジア)を経由して中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教(北伝仏教)に分けられています。

 中国から朝鮮半島に仏教が伝わったのは、半島が高句麗、百済、新羅の三国に分裂していた時代であり、高句麗には372年に、百済には384年に、新羅には5世紀初頭に公伝したとされています。そして、日本に仏教が公伝したのは、『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』や『上宮聖徳法王帝説』に基づく解釈では538年であり、『日本書紀』の記述では552年だとされています。(仏教公伝に関する詳細は、第29回、第30回定例会資料等を参照して下さい。)

 第29回定例会資料ページ
 第30回定例会資料ページ

 『日本書紀』によると、欽明13(552)年冬10月、百済の聖明王が、西部姫氏(さいほうきし)の達率(だちそち)努■斯致契(ぬりしちけい)らを遣わして、金銅の釈迦仏を一体、若干の幡と蓋、若干の「経」と「論」とを献上したと記されています。(■=口偏に利)
 このとき、伝えられた「仏像」が釈迦如来像であったことは分かりますが、「経」と「論」は若干と記されているだけで、どのような経典が伝えられたかは記されていません。

 『日本書紀』に初めて経典名が記されるのは、推古14(606)年のことであり、秋7月に天皇が皇太子に請うて「勝鬘経」(しょうまんぎょう)を講じさせ、この年皇太子が「法華経」(ほけきょう)を岡本の宮で講じたと記されています。
 その後、『日本書記』に経典名が見えるのは、舒明12(640)年5月5日のことであり、天皇が大いに斎を設け、恵隠僧を請じて「無量寿経」(むりょうじゅきょう)を説かせたとあります。また、皇極元(642)年秋7月25日には、旱(日照り)続きを群臣が語り合った際、蘇我入鹿が、寺でらで「大乗経典」を転い読みするがよいといい、その後の27日に百済大寺の南の庭で「大雲輪請雨経」(だいうんりんしょううきょう)を読経したと記されています。

 仏教公伝からおよそ半世紀の間、我が国に伝えられた仏教の経典は明らかではありませんが、その間も、仏教に関する記述は『日本書紀』にしるされています。

 仏教が公伝した欽明13(552)年、蘇我稲目は小墾田の家に仏像を安置し、向原の家を寺としました。敏達6(577)年には、百済から更に経論が若干伝えられ、敏達13(584)年には、蘇我馬子が還俗僧・恵便を探し出し、善信尼らを出家させました。そして、崇峻元(588) 年には飛鳥寺建立に着工、推古4(596)年には飛鳥寺が落成し、推古14(606)年には金銅と繍の丈六仏を飛鳥寺に安置しました。

 日本に最初に伝えられた仏教の経典とは何だったのでしょうか。それにはどのような教えが書かれていたのでしょうか。そして、我が国への仏教公伝(552年または538年)から、飛鳥大仏が安置され、厩戸皇子が勝鬘経や法華経を講じる(606年)までの半世紀にわたって、飛鳥に伝えられ、そのときどきに読まれた経典とはどのようなものだったのでしょうか。

 仏教について調べてみましたが、公伝当初の飛鳥仏教が、どのようなものであったのかは分かりませんでした。しかし、それらが明らかになれば、当時の政治や思想、それに基づく施設造営、祭祀儀礼もまた、違った見方が出来るのかも知れません。

 「仏教ってなに」についても、もう少し続けてみます。





































さくらいの記紀・万葉故地を巡る(其の二)
ー飛鳥遊訪マガジンに寄せてー 


らいちさん

(13.6.28.発行 Vol.164に掲載)

「竜在峠から龍門へ」

 これは、「菅笠日記を歩く」というテーマで多武峰から竜在峠を経て龍門まで歩いた時のお話です。宣長さんは倉橋から多武峰に登り、冬野から竜在峠を越えて吉野の滝畑へ降り千股で一泊しています。龍門の滝を見たかったけど、案内に聞くと道も遠いし険しいというし、吉野の桜の盛りが過ぎるのではと心もはやるので、結局龍門の滝は見ずに吉野山に向かいます。宣長さんが見られなくて心残りだと悔しがった龍門の滝を、私たちは代わりに見に行こうというコース設定でした。 

 冬野から竜在峠の茶屋跡までは両槻会で入谷の桙削寺へ行った時と同じ道です。そこから滝畑への道標には「菅笠日記の道」と書いた小さな板が下がっていました。滝畑はいかにも山の集落という感じののどかなきれいなところで、川沿いに吉野山口へ至る道、川の向かい側には芋峠へと繋がる道がありました。集落の名に相応しい「夫婦滝」という滝とそばにお不動さんがありました。さらに川沿いに下っていくと、やがて左手にこじんまりとした神社が見えて、丁度昼も過ぎていたのでここでお昼休憩となりました。神社の名前は久斯(くし)神社、この先にある志賀という集落の村社であるようです。祭神は大名持大神・少彦名大神・天武天皇と書かれています。くし→くすしで薬の神様なら大己貴命・少彦名命が祭神というのはわかりますが、天武天皇がいっしょに祭られているのは何故でしょう。

久斯神社

 これは帰ってから調べてわかった事ですが、日本地名大辞典によると志賀は海人族と深い関わりのある地名だとあります。龍門の滝で久米仙人といっしょに修行をした安曇仙人は海人族ゆかりの安曇氏で福岡県志賀島を本拠にしていたことから、志賀の地名はこれに由来すると書かれてあります。大海人皇子の大海人という名は海人族に養育されていたからだといわれていますね。海人族は得意の航海術を使って列島各地に散らばり勢力を広げました。標高3000mを越える穂高の山頂にも海の神が祭られています。壬申の乱の時、東国に向かった大海人皇子は伊勢・尾張・長野の豪族を味方に付けますが、海人族と深く関わりがあったからだという説があるそうです。高市皇子のお母さんは胸形徳善の娘尼子娘ですが、宗像氏も安曇氏と同じ九州の海人族です。壬申の乱といえば大海人皇子が近江から吉野へ逃げてきたときに、嶋宮を出て吉野へ向かった道は諸説ありますが、土屋文明さんは竜在峠だとかかれているそうです。耳我の嶺はどこだったのでしょう。

 さて、今回のハイキングのテーマは「菅笠日記を歩く」で、壬申の乱ではございません。海のない奈良県の山の中で海人族の本拠地の名を持つ集落を抜けると、千股との岐路に立ちます。今はのどかな山間の集落ですが、歩いて旅をしていた時代には、大和と伊勢と吉野とを結ぶ交通の要衝であったことが伺えます。私たちは宣長さんが行けなかった龍門の滝をめざして吉野山口神社にたどり着きました。龍門の滝は以前行ったときは崖のような所を下りていったのに、ずいぶん歩きやすい遊歩道ができていたのに驚きました。ここも両槻会の特別回で行かれてますね。私は参加できませんでしたが・・・。あのとき下りていくのをあきらめた方もいたとか、今なら簡単に滝にたどり着けますよ。 両槻会に何度も参加されている方の中には、飛鳥から宮滝までの芋峠越え(特別回)や、多武峰から飛鳥入谷への竜在峠(第19回定例会)をご一緒した方もいらっしゃると思います。芋峠越えの参加者のレポートを読み返していると吉野の志賀の事を書かれている方がいらっしゃいました。それを読んでメルマガに投稿しようと思いました。テレビドラマの「あまちゃん」が人気だそうです。古代の海人のことをもう少し調べてみるのも面白いかなと思いました。



































よっぱの素人飛鳥学

よっぱさん

(13.7.26.発行 Vol.166に掲載)

「仏像ってなに(2)~印相~」

 『韓半島から「塼仏」というものが飛鳥に伝わりました。この「塼仏」というものが中国で作られていたとき、その印相は「降魔印(ごうまいん)」であったのに、我が国では「禅定印(ぜんじょういん)」が主流となりました。禅定印は玄奘三蔵(いわゆる孫悟空にでてくる三蔵法師)が重視し、玄奘三蔵に師事した道昭が飛鳥にこれをもたらしたと考えられます。』

 これは先日、帝塚山大学で行われた市民大学講座での塼仏のお話です。塼仏とは、金堂の中央に安置されたいわゆる「3D仏像」ではなく、平板に形作られ、表された仏像で、川原寺や夏見廃寺のように堂塔内の荘厳具として用いられたり、法隆寺のように単独で厨子に納められ礼拝された像です。

 印相とは、仏像の手つきのことなのですが、塼仏が中国で作られていたときと日本に伝えられたときではその印相が変わっていて、変わった原因は、玄奘三蔵の求めた教義であったというお話でした。

 では印相とは、なにを現しているのでしょうか。
 仏像の様々な手つきをサンスクリット語でムドゥラーといい、身振りを意味します。日本語では印相や印契といわれ、略して「印」と呼ばれています。もともとは釈迦の生前の仕草を表しているといわれていて、仏像には「釈迦の五印」といわれている「禅定印」「説法印(せっぽういん)」「施無畏印(せむいいん)」「与願印(よがんいん)」「降魔印」の五種類の基本的な印があります。


五印参考図

 禅定印は定印とも言われ、釈迦が悟りの境地を開くため深い瞑想(座禅)に入ったときを表すものです。座禅を組むときの手つきであり、手のひらを上に向け、両手を重ねておへその下あたりに置き、両手の親指の先を向かい合わせるものです。禅宗などでは、手の重ね具合に2通りあり、右手を下にする場合は教えを受ける者、左手を下にする場合は教えを説く者としています。

 説法印は転法輪印ともいわれ、悟りを開いた釈迦が3度に渡る梵天の懇願で決意して初めて説法(梵天勧請)したときの印で、釈迦の重要な伝説に由来しているものです。両手を開いて胸の辺りに据えて説話をするときの手つきをとらえたものです。

 施無畏印は「畏れ無きを施す印」で、釈迦の前に来たもの(衆生)の畏れを解いて話しやすくする手つきであり、手のひらを前に向けて指先を上に向け胸の前に据えている印です。与願印は「願うところを与える印」で、釈迦の前で懇願する人に願いを聞いてあげましょうと優しく接する手つきであり、手のひらを前に向けて指先を下に向け腰のあたりに据えている印です。この施無畏印と与願印は普通セットになっています。

 降魔印は、釈迦が悟りを開く直前に、それを阻止しようとした悪魔を退散させ悟りの境地に達した瞬間の手つきだとされています。深い瞑想に入っていた釈迦が悟りの境地に達する直前、悪魔を祓うため定印を解いて右手の人差し指を地に着け、地の神の助けを受けて悟りの境地に達したと言われています。この瞬間のことを悪魔を降ろし道を成就したことから「降魔成道(ごうまじょうどう)」といい、この時の手つきが降魔印とよばれています。

 仏像の手つきには、釈迦の五印の他にも、阿弥陀如来の「九品来迎印」という9種類の印があります。日本でこの印を結ぶ阿弥陀如来が現れるのは、平安時代の前半頃からであり、飛鳥時代などの阿弥陀如来は、釈迦の五印を結んでいます。

 また、「降魔」の呼び名は仏像の座り方にもあります。仏像が床にあぐらをかいた座禅の座り方を「結跏趺坐(けっかふざ)」といいます。これには2種類あり、その一つが「降魔座」と呼ばれています。左足の太ももの付け根に、曲げた右足の甲をのせ、次ぎに右足の太ももの付け根に、曲げた左足の甲をのせる座り方が降魔座であり、左右の足の置き順を逆にしたのが「吉祥座」と呼ばれています。吉祥座は釈迦が深い瞑想に入ったときの姿、降魔座は降魔成道のときの姿に由来しているようです。


降魔座 参考図

  塼仏の起源はインドだとされ、遅くとも3世紀までには発生したとされています。中国では古くは北魏時代の遺物が検出され、初唐時代の7世紀中頃から8世紀にかけての一時期には塼仏の製作が盛行していました。これが出土するのは西安市内であり、特に、大慈恩寺の大雁塔を中心として多く出土しているようです。玄奘三蔵が帰国したのち移り住んだのが大慈恩寺であり、持ち帰った経典等の保存のために高宗に進言して建立されたのが大雁塔なのです。そして、大雁塔から出土する塼仏の多くは、降魔印の釈迦如来像(「善業泥」塼仏A類、B類)だそうです。しかし、日本に伝えられた塼仏には降魔印はなく、禅定印のみだそうです。降魔印を結ぶ仏像はタイやビルマ(ミャンマー)など、いわゆる上座部仏教の国ではよくみられるようですが、日本では塼仏だけではなく、この印を結ぶ仏像が少ないと言われています。


定印を結ぶ塼仏(夏見廃寺出土三尊セン仏・復元)

 玄奘三蔵は、629年、27歳(生誕年に諸説あり)で国禁を犯して出国し、中央アジアからインドを巡り、645年に多くの仏像、経典等を長安に持ち帰って経典等の翻訳に努めています。その後、窺基(慈恩大師)が649年に出家して玄奘に師事し、659年には成唯識論を注釈して成唯識論述記、成唯識論掌中枢要を著して唯識説を批判し、新唯識説を打ち立てています。(法相宗初祖)その間の653年に日本から道昭が入唐して玄奘に師事し、窺基が新唯識説を打ち立てた翌年である660年に帰国、帰国後は飛鳥の法興寺で法相宗を広めた(法相宗第一伝)と言われています。日本に伝えられた塼仏が「禅定印」であるのは、玄奘三蔵が「降魔印」の示す降魔成道よりも「禅定印」の示す瞑想を教義とし、これを師事した道昭が、飛鳥に「禅定印」の塼仏(「善業泥」塼仏C類)をもたらしたようです。

 日本に仏教が公伝されたとき、玄奘三蔵はまだ生誕していませんでした。しかし、その後飛鳥に伝えられた仏教や仏像は、玄奘三蔵やそれを師事した道昭などのような唐に渡った僧たちが持ち帰った教義によるところが非常に大きいようです。
 では、それ以前に渡来人たちが日本に持ち込んでいた仏教や仏像とはどのようなものだったのでしょうか。

 まだまだ、仏像ってなに、仏教ってなにを続けなければなりません。






























飛鳥と私のいまむかし

さとさん

(13.9.6.発行 Vol.169に掲載)


 両槻会の定例会参加も3回になりました。そのたび、何度も訪ねたはずの飛鳥について何も知らない自分に驚かされます。私の関心はなんて断片的でミーハーなのだろうと。

 古い石舞台古墳のスライドが今でも家のどこかにあるはずです。段々畑の中の異様な石のかたまり。田んぼの細道に停まる白いコロナを背景に、巨大な岩の上で立ち上がり得意げな兄、岩にもたれて微笑む私と母。家族で大阪から車で飛鳥を訪れたのは、私が4、5歳の頃。1960年代の石舞台は舗装道路も駐車場も柵もなく、のどかな田舎の風景でした。「蘇我馬子という人のお墓だよ」と父に聞かされたときのぞわぞわ感と、奥まった羨道の中に潜り込むときの恐怖心だけが子供心に刻まれることに。

 橿原考古学研究所付属博物館は古くて暗い建物でした。入り口で我々を見下ろす巨大な古代人の像(後に和気清麻呂像と判明)は威圧感満載で私をおびえさせ、薄暗がりに陳列されたおびただしい数の石棺や陶棺は、さらに強烈な死への畏れを芽生えさせました。以来、怖いもの見たさなのか、古墳と聞くと穴にもぐり込みたくなる衝動が抑えられない性分になったのでした。

 わが家はその後各地を転々とし、私の高校入学と同時に奈良に家を買いました。そこは都会に憧れる女の子にはおそろしく退屈なところで、唯一私をなぐさめてくれたのが古墳の宝庫・飛鳥でした。古代史を塗り替える発見が次々と世間を騒がす、アップデートでエキサイティングな場所! あのころは飛鳥の何もかもが謎だらけでどんな想像も許される気がしたものです。子どもの頃小説で読んだ憂いに沈む若き聖徳太子に恋こがれた影響もありましたが、なにより松本清張の「火の路(火の回路を改題)」が好奇心をかき立ててくれました。この小説はNHKの「シルクロード 絲綢之路」のはるか大陸をのぞむ古代ロマンとも重なって、奇抜な推理で私をわくわくさせました。

 このころはまりこんだ手塚治虫の「火の鳥」や「三つ目がとおる」にも石舞台や酒船石が登場し、山岸凉子の「日出処の天子」の舞台も飛鳥であることに胸躍らせました。全ての憧れは飛鳥に通ず! 飛鳥は、私のなんの花もない青春の欲求不満のはけ口になったのです。暑い中、奈良見物と称してレンタサイクルで飛鳥中を迷いながら石の見物に連れ回された友人や親戚は、さぞ迷惑だったことでしょう。

 けれども私が奈良を出てから、飛鳥は変貌していきました。田畑は整地され、バイパス道路ができ、表情豊かな田園風景はあっけらかんとした芝生の公園に。新しい住宅地が視界を覆い、あちこちに観光客用の施設が建てられ、帰るたび、わがままな失望を禁じ得ませんでした。新発見がなされて謎が解決されるたび、嬉しいはずなのになぜか感じる一抹の寂しさ。2年半前に奈良で母と暮らすことになってからも、飛鳥は自ら訪れる気にならない地となっていました。

 昨年9月、たまたま飛鳥光の回廊の時に初めて夜の石舞台を訪れました。観光化の象徴のように思って避けていた私が、光に照らされて黒々と浮かびあがる岩山の存在感に、はっと圧倒されました。忘れていたかつての感覚がざわざわと蘇ります。ろうそくに照らされた羨道を通り、石室に至ってわずかな隙間から石室に入り込む光を見上げたとき、改めて一つ一つの石の巨大さと平面仕上げの丁寧さ、石組みの緻密さに気づき、実感したのです。「ああ、私はまだ飛鳥について、何もわかっていない」。

 それから「火の路」を読み返し、斉明朝についての最新情報を得たくて「ふたつきのみや」で検索ヒットしたのが両槻会のホームページでした。歴史理解への誠実さが感じられ、どこよりもわかりやすく、どこよりも詳しく、どこよりも純粋な好奇心と熱い思いに満ちたホームページに、思わずメルマガ登録していました。参加したいと念願していた定例会にも今年3月初めて参加し、新たな驚きと興奮をたくさんもらうことに・・・というところで既にはるかに字数オーバーになり、肝心な話に入る前に単なる思い出話で終わってしまいました。寛大な事務局のお申し出に厚かましく書かせていただいたのですが、散漫な文章になり、平にお許しください。





























第40回定例会に参加して

アダッチさん

(13.10.4.発行 Vol.171に掲載)


 9月14日の定例会に久々に参加させて頂きました。アダッチと申します。台風がくる前日でしたが、お天気にも恵まれて飛鳥の本当にど真ん中を歩きました。

 飛鳥駅からスタートをしてまずは川原寺跡、橘寺、飛鳥宮跡、飛鳥京跡苑池遺構、木の葉堰、飛鳥西方遺跡、飛鳥寺、水落遺跡、山田道、奥山廃寺と巡りました。

 川原寺では普段行っても足を伸ばさなかった僧坊の復元遺構や鐘楼、経蔵、飛鳥寺の北の端がのお話なとを聞くことができました。飛鳥京跡苑池遺構は、今回始めて自身の目で遺跡を見ることができました。7世紀中期~後半に造られ10世紀まであった苑池。北と南で分けられており、北池と南池の役割の違いなど、実際に見ながらのお話はやはり勉強になりました。そのすぐ傍に位置する木の葉堰の役割、大きな弥勒石の地元での信仰など・・・。終始和やかな雰囲気の中でのお話はどれもとてもここでは書ききれない程に勉強になりました。

 約9ヶ月ぶり、今回の定例会で巡ったところに至っては1年以上ぶりに行かせていただき、飛鳥という地域の良さ、歴史を勉強する楽しさに数ヶ月ぶりに浸ることができまし!!

 相変わらずの参考資料の充実に感激し、歩きながら読み、知れば知るほど面白い物が多いなぁと思いながら、綺麗に咲いている彼岸花や咲き始めてる秋桜などの自然を感じながら1日参加させていただきまし!!

 その日は光の回廊の当日ということもあって、川原寺跡や水落遺跡など・・・巡った至る所でモニュメントなどの準備も行われていて、見ず知らずの準備をしている何処かの大学の学生であろう青年と挨拶を交わしながら(笑)

 勉強し直さなきゃだなぁと今回3カ所の説明係をしていたガッキーにボヤきながら(笑)

 解散後もバスに乗らずにフラフラと飛鳥を歩いて駅まで行き、満喫して帰りました!!久々の飛鳥を堪能させていただきました!!ありがとうございました!!また日にちを合わせて参加させて頂きたいと思います!!






























よっぱの素人飛鳥学

よっぱさん

(13.10.18.発行 Vol.172に掲載)

「飛鳥と出雲と仏教と仏像と・・・・」
                                 
 今年の夏休みを利用して、また出雲に行ってきました。
最初に出雲に行ったのは、日本書紀を読み始め、出雲神話にはまった4年前。今回は、60年に一度の出雲大社の遷宮につられての2回目の訪問でした。

 当初は、次の遷宮はもう見ることもできないとの思いで、旅先を出雲にしたのですが、調べていく内にどうしても他に目がいってしまい、どうせ行くなら、出雲のあちこちの博物館や寺社を巡ってやろうと色々調べ、その内に、出雲弥生の森博物館での鰐淵寺(がくえんじ)の特別展を発見。

 旅行計画から出雲大社遷宮は薄れてしまい、一日目の午後は、出雲入りして博物館に、特別展を見てから、次の日には、その寺に行ってやろうと計画してしまいました。よっぱはどうしても、仏教、仏像とは離れられないようです。

 特別展では、鰐淵寺に納められている、壬辰年(692年)に作られたと記されている仏像が展示されていました。この仏像が何故、鰐淵寺にあるのかは未だわかっていないようですが、若倭部徳太理という人が両親の菩提を弔うために作ったと台座に刻まれているのです。

 どこかで見たような仏、どこで見たかな・・・・、と思いつつホテルへ直行、その夜よっぱは、文字通りよっぱになって夜は更けたのですが、翌日ホテルを出発すると、日本海側まで出て鰐淵寺へ。

 元々、この地は山岳仏教、山林仏教の地で、鰐淵山と呼ばれていたらしく、お寺は後に造られたようです。寺創建の由来はなんと、推古天皇の眼病平癒祈願を信濃国出身の智春上人というお坊さんがこの地で行ったらしく、この人のおかげで遠く離れた大和の地の天皇の眼病が治ったことからこの寺が建てられたようです。

 ちなみに、このとき読まれた経典は、私の予想通り、不明でした。

 今でも奈良から高速道路を車で飛ばして5~6時間の距離、当時はどのようにして、推古天皇の眼病が伝わったのか、というよりも伝わったときには治っていたんじゃないかと思うんですけどね。
 
 でも、その祈願で治ったから、朝廷の援助を受けて?鰐淵山が鰐淵寺になったらしいです。今でも寺域はすっごく広く、日本海側に建っているお寺から出雲大社までの山が寺域かと思われる位で、出雲大社との関連も指摘されているほどです。推古天皇の力はすごいというか、その当時の統治能力、情報伝達は、どうなっていたんでしょうか。

 もう一つ、出雲での驚きがありました。それは、銅剣、銅矛、銅鐸です。飛鳥時代より以前の話になりますが、銅剣文化と銅矛文化は地性域があって、その出土は分かれていたようです。しかし、出雲の荒神谷遺跡から、銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個がほぼ同じ所から出土したのです。それも隠すようにして埋められた状態でした。

 発見当時、日本全国で出土していた銅剣の総数は、300本余りだったのですが、それを凌ぐ銅剣が一度にこの地から発見されたのです。

 更に、近くの加茂岩倉遺跡からは、銅鐸が、これも隠すようにして埋められた状態で、一度に39個も出土したのです。農道整備で山を削っていたら、まったく伝承もなかった場所から大量に銅鐸が出たため、そこは保存され、その側には資料館が建設されて丘越え予定の農道は、丘の頂上に建設された資料館前でストップ、予定された農道は、資料館と遺跡への道になってしまいました。そして、ここから出土した銅鐸の一つが、奈良県の上牧町内(南上牧の観音山?)から出土した銅鐸と同笵らしいのです。

 飛鳥と出雲、仏像と仏教。
 そして、それ以前の民衆信仰の銅剣、銅矛、銅鐸。
 また、勉強の材料が増えてしまいました。

 追記
  ちなみに、鰐淵寺の壬辰年(692年)の仏像は、飛鳥資料館の常設展にレプリカが展示されています。荒神谷遺跡から出土した大量の銅剣、銅矛は出雲大社横の島根県立出雲歴史博物館に展示されています。さらに、この地にあり、出雲国風土記に記されている韓竈神社や須佐神社は非常に趣があります。みなさんも機会があれば、一度ご覧になってはどうでしょうか。






























冬の飛鳥歩きのすすめ

つばきさん

(14.1.10.発行 Vol.179に掲載)


 あけましておめでとうございます。両槻会サポートスタッフのつばきです。この年末年始は実家のある奈良で過ごしました。寒さが苦手なつばきにとって奈良の冬は苦手中の苦手でしたが、大晦日は深吉野にある丹生川上神社下社で焚き火を囲みながら年始を迎え、お正月も飛鳥歩きをして普段できない過ごし方をいたしました。飛鳥を歩くにつれ、寒がりのつばきですが、冬こそが通好みの季節だと思う様になったからです。


年越し

 以前、河内太古さんが「棚田のロウバイ」でこんな事を書いておられます。

 両槻会HP:遊訪文庫 「季節で巡る太古の飛鳥

 「冬になって訪れる人もほとんど絶えた飛鳥路は、他の季節にはない往古の人々の息吹を静かに感じさせてくれる鎮まりがあります。汗をかくこともなく、朝風峠を越えることができ、棚田の景観を独り占めしたような味わいのあるこの時期は、太古のお気に入りの季節です。」

 このフレーズこそ冬の飛鳥歩きの神髄が詰まっていると思います。
 つばきは時々無償に飛鳥を歩きたくなります。両槻会は、時々とんでもない企画でそんな気持ちに答えてくれます。西飛鳥古墳巡り2(5月)では一日中、西飛鳥の古墳ばかりを嫌?と言う程、歩き倒しました。奥飛鳥滝巡り(12月)では飛鳥の水源地でもある奥飛鳥に分け入り「もうこんやろ」と言う程、山歩きを堪能しました。そして極め付きは、紀路踏破(4月)。憧れの紀路25kmを歩き終えた時は大きな達成感に満ちていました。いずれも無謀なようで、歩く季節を考慮された企画でした。けれど、すでに初夏を感じさせる5月は、ゴール近い古墳の説明を意識朦朧たる様相で聞いていましたし、4月は雨天、曇りが幸いしたものの晴天ではどうだったか?その点12月は後から考えますと歩き易かった様に思いますし、そういえば、両槻会きってのとんでも企画、下ツ道ウォーキングは2月でした。

 飛鳥歩きも容易ではないと感じる昨今の気候変動、堪能するには冬こそが最適です。

 飛鳥は地形的にも程よくアップダウンがあり俯瞰的に自然を楽しめますし、疲れたら平坦なコースを歩きペースダウンできるなど、慣れればその時々、心の趣くままに歩く事ができます。飽きがくる人工的な商業施設とは違うところです。

 例えば、早朝の上居から朝日に光る霜の降りた阪田を観たあと、石舞台、飛鳥川のせせらぎを聴きながら祝戸へ、滋味溢れる暖かそうな土のある棚田の峠を越え、平田、栗原の地蔵経由で丘陵地を眺めくだり、落葉樹の隙間から八角形の中尾山古墳をチラ見して、カナヅカ古墳や鬼の雪隠を見下ろす丘に立ち、橘寺、川原寺から飛鳥川のほとりを歩きミロクさんにご挨拶、首塚から最後に甘樫の丘で夕日を観る。とか、それに冬はマムシさんと遭遇する危険もないですし、ミハ山も登って小墾田辺りまでを観ておきたいとか。訪れたい場所への思いは尽きません。

 全ての装飾が無くなる事で、本来受け継がれて来た古来の姿を取り戻した様に感じる静かな冬の飛鳥を、ただ、ひたすら歩きたい、そんな欲張りな衝動にかられるのです。休みが少なく、短い日照時間は難点ですが、此の冬、飛鳥の主要な処を一日で歩き尽くすとすれば何処まで可能かなんてやってみたくなっています。
 
 つばきが年越しした丹生川上神社下社は天武天皇により創祀されたとされ、応仁の乱以降所在不明となり、今有る丹生川上神社3社のどれなのか、謎だとされています。下社の宮司さんは、「京都は分かり易いが、奈良は訪れないと分からない処。日本人は昔から察すると言う文化を持っているので、この川上神社にも訪れて感じてほしい。」と、謎解きに関しては二つばかり確証を教えてくださいましたが、明言はさけ上記のようにだけ話されました。

 飛鳥の地上には世界遺産、吉野山蔵王堂の様な分かり易い建造物は有りません。そこに冬以外の自然風景や分かり易い大規模な公園整備でPRする必然性が飛鳥には有るのでしょう。しかし、感じるには少々自然が変化し過ぎているのが昨今の飛鳥。分かり易くしたつもりが、かえって妨げになっては困ります。歩いてなんぼの飛鳥、これ以上古代人の歩いた道を壊さないでほしいと願います。

 さて、記念すべき七執念、いえ七周年を迎える両槻会の幕開けとなる2月1日の定例会で最新の飛鳥情報に触れ、事前散策で往古の息吹を静かに感じてみませんか?そしてリピーターになって冬も楽しめる飛鳥通になりませんか?2月には例のロウバイも見頃になっている事でしょう。


八釣のロウバイ(2014.1.5.撮影)






























よっぱの素人飛鳥学

よっぱさん

(14.2.7.発行 Vol.181に掲載)

「現説現場は裁判員裁判 ?!」~物証で挑む考古学~

 昨年の年末から今年にかけて、あちこちで発掘調査の現地説明会が行われました。11月24日には飛鳥京跡苑地第8次調査、12月14日には飛鳥寺西方遺跡、12月21日には藤原京朝堂院朝庭(飛鳥藤原第179次調査)、そして年明けの1月18日には、島庄遺跡第32次調査の現地説明会が開催されました。
 よっぱもご多分に漏れず、ひまを作っては、これらの現地説明会に参加し、勉強させていただきました。

 あちこちの現地説明会に行くと、見学に来られている方々は、どの現場においても非常によく勉強されており、発掘担当者の方の説明が終わると質問が殺到し、現場のあちこちで議論を交わされている方々の姿が目に付きました。現説現場は法廷、発掘担当者は証言台に立つ証人、その証言に聞き入り、証言後テント付近で議論を交わしているのは裁判員。現説現場はさながら、裁判員裁判のようでした。

 裁判は民事であれ刑事であれ常に証拠が重視され、その証拠により事実が認定されてきました。刑事裁判における証拠は、刑事訴訟法の第2章第2節に規定されていて、この規定に基づく証拠によって事実を認定して裁判が進められています。その証拠の種類は、おおまかに人証、書証、物証に分けられています。目撃者の証言は人証、鑑定結果や現場見分結果を記した書面は書証、遺留品等は物証というようにです。例えば、発掘現場の状況を確認(目撃)した担当者の証言は人証、調査結果報告書は書証、遺構・遺物は物証と分類されるでしょう。

 文献史学においては、正史とされている『日本書紀』は書証であり、それを紐解く史学者の方々は鑑定人という人証、鑑定結果を記した論文は書証に分類できるのでしょう。しかし、考古学の発掘調査で得られた遺構・遺物は、まさに「物証」であり、事実を認定する「客観的証拠」となりうるものだと考えます。ただ遺構・遺物という「客観的証拠」は、発掘担者の取り扱い方によっては、その証拠能力や証明力が左右され、事実認定に影響を及ぼして、発掘調査結果という裁判結果に違いが生まれるという問題もありそうです。

 つまり、発掘された遺構・遺物による年代特定や事実認定は、刑事事件が有罪になるか無罪になるかと同様に、証拠の取り扱い方や認定の違いによって、その結果が大きく左右されるという危険性も残されているということです。

 いずれにしても古代史へのアプローチは、いろんな方向・方法がありそうです。しかし、そのなかでも私は考古学が大変好きです。それは、遺構・遺物という「客観的証拠」によって、時代を「事実認定」しているという確かさがあるからです。

 物証で挑む考古学。「考古学は客観的証拠で勝負」しています。






























春です。春先取り報告

つばきさん

(14.3.21.発行 Vol.184に掲載)

「シーズン直前に体験した明日香路線バスの意外な活用方法」

 2月某日、元同僚と十数年ぶりに偶然再会、3月に会う事になり、多忙な都合から、16日(日)10時~13時、近鉄八木駅構内で合流と決まった。たったの3時間。相方は奈良在住、てっきり場所をセッティングしてくれ、どこかでお茶かと思っていたが、当日、どこでもいいと、こちらに振ってきた。

 (う~ん、カフェ?知らんしなあ、)と考えながら、
 (いい天気やなあ~)と別の心が呟き、いつもの癖で
 「明日香に行きたいな~」
 と、つい言ってしまった。
 (でも、3時間しか無いし、バスの時間も有るし止めやね)
 と言おうとしたその直前、
 「うん、行こうよ。」
 と即答。
 訪れることがなく、明日香事情をよく理解していない奈良県人もいるので念のため、

 「歩ける~?」
 「歩きは嫌!」「え~40分?」「うそ~!」
 と即答連発。
 (やっぱりね。ほな、どうすんね!)
 と内心思いながらも、心はすでに行きたくなっていた。
 しかも、何故か止めようとは言われていない。

 (まっ、いいか。何とかなるやろ)

 おりしもホームに到着した9時56分発の電車に乗り、橿原神宮前駅に10時02分到着した。

 (30分バス待ちか)

 と思いながら、駅東出口からパチンコ屋の角を曲がった途端、飛鳥駅と書いた奈良交通の路線バス(通称飛鳥周遊バス・赤かめバス)が目に飛び込んできた。そのバスは10時10分発。

 (お~そうであったか、なんとラッキーな!)

 と言うのも、3月16日は観光客が多くなる時期に期間限定(土・日・祝日だけ3月第3土曜日から5月31日、9月第3土曜日から11月30日)で運行されるダイヤの2日目だったのだ。ちなみにダイヤはおおよそ10分と41分発の1時間、2本運行とオフシーズンの2倍に増便されている。

 ほぼ貸切り状態のバスに乗るや否や、懐かしい話・近況報告などで大いに盛り上がった。しかし、久しぶりに乗るバス、ルートも以前とすこし違っている、どこで降りようかと思案するうち、甘樫丘、飛鳥、から土日祝コースのバスは奥山に向かい飛鳥資料館に到着した。おりしも「飛鳥の考古学2013」の最終日と案内看板が出ているではないか。

 (これまたラッキー!でも時間がない)

 と後ろ髪引かれながらスルー、しかし、落胆はすぐ払拭され、次の八釣から明日香小山、万葉文化館の区間中、今までの地味な背景色が一変した車窓の光景に、釘付けになっていた。あちこちで、梅や蝋梅(サンシュユ?)が咲きはじめ、白・薄紅・桃色・黄色と春の色が明日香に戻ってきていた。のんびりとバスに揺られ、初春を彩る木々・美しく整地された田の畝を見ながら、自然や人の織り成す季節の移ろいを実感する贅沢な瞬間であった。

 「春やねー」「きれいやね~」

 を連発する二人を乗せた貸し切りバスは、岡寺に続く治田神社前や飛鳥を眺望する丘陵地を超え、10時35分頃、石舞台に到着、ランチを考えここで下車した。約20分の春先取り体感コースであった。
 
 その後、歩きの苦手な相方を飛鳥川流れる玉藻橋から阪田マラ石まで連れ歩き石舞台に戻ったのが11時。農村レストラン「夢市茶屋」で大粒 (明日香ルビー)付きの割と豪勢な古代米御膳(1050円)を注文、仕事情報交換と化したランチミーティングを終えると、いつしか芝生広場は陽気に誘われた人々で賑わっていた。この時期の明日香はバス利用より自家用車で「芝生遊びする」スタイルが多いようだ。喧噪の石舞台を後にして12時30分発の貸し切りバスに乗り、13時前橿原神宮駅東口着、予定通り解散。少々贅沢な時間配分だが、歩きの苦手な方なら路線バスを利用したこんな優雅な茶話会や打ち合わせも一興かもしれない。(但しシーズン中はこの限りではない。)

 後で、こんな休日を過ごしたのは初めてだったと、感謝のメールが届いた。次は反対の飛鳥駅から石舞台コースそして、いつかは飛鳥のど真ん中でも連れ歩こうかと考えている。


飛鳥・春のイメージ
 (現在明日香にボンネットバスは運行しておりません。願望的イメージ画像です。)






























第43回定例会「塔はなぜ高いのか」に参加して

どるねろさん

(14.4.4.発行 Vol.185に掲載)


 3月29日に第43回定例会がありました。週間天気予報ではあまり良くなく、どうなるかと思っていましたが、いつもの事務局長の人徳で天候は回復していました。

 飛鳥駅に10時過ぎぐらいに集合しました。見慣れた方、新規っぽい方とたくさん集まっていました。朝の挨拶をしてから、バスで川原寺跡まで移動しました。事前散策は塔跡関連と桜を見ながら、飛鳥資料館に向かうルートでした。関東のほうは、まだ桜がまだ開花したばかり(いわゆる標準木上での)だったので関西のほうが桜の開花が早いなと思いました。特に印象が強かった場所は、橘寺と甘樫丘の展望台でした。

 まず橘寺ですが、駅前やバスから見えた桜よりも開花具合が早く感じました。橘寺内の桜の種類も多く、二面石の正面にある枝垂桜が満開できれいでした。後、桜の種類がわからないですが、休憩所横の薄ピンクの桜も満開できれいでした。

 今回は塔の回なので、塔心礎で解説を聞きました。何回か来ていますが、今回も塔心礎内は水が溜まっていました(以前一回だけ乾いた状態のを見た覚えがあります)。

 甘樫丘ですが、飛鳥川沿いの桜を見ながら移動しました。いつものルートとは違い、飛鳥川の反対側のほうを散策したので、新鮮な気持ちでした。特に川原寺跡の北面大垣のほうは初めて行ったので、こんなに広い場所があるとは思いませんでした。そして、こちらから川原寺跡のほうを見ると、大きく広く感じました。いつもは南門のほうからしか見たり、入ったりしていたので、そんなにスケールの大きいお寺とは思っていませんでした。しかし、今回の北面大垣からみた景色によって川原寺のイメージは一変しました。

 甘樫丘の展望台ですが、そんなに高くないとはいえ、丘の上なのでまだ桜が咲いていないかと思っていましたが、満開ではありませんが、きれいに咲いていました。今回展望台へのルートは川沿いからだったため、かなり急な階段で大変でしたが、展望台の桜とそこからの眺めで疲れが吹き飛ぶ感じでした。予定だとそこから降りて下の休憩所でお昼の予定でしたが、スタッフの方の粋な計らいで展望台で景色を見ながらお昼となりました。

 ふと古代飛鳥人も同じ景色を見ていたのだろうかと思いましたが、ソメイヨシノは飛鳥時代にはなかっただろうし、桜よりも桃のほうがメジャーだったと思う。でも桃なら大体同じ時期に花が咲くから、この丘の上から観ていたのかなと思ったけど、今のように丘の上が整備されていなかっただろうし、そもそも甘樫丘は蘇我一族が牛耳っていただろうから、一般庶民は登れないだろうな。とくだらないことを思ってしまいました。

 午後からは向井先生の講演で「なぜ塔は高いのか」を拝聴しました。ストゥーパの話は大変難しい内容でしたが、先生は論理的に整理しながら、話されました。なかなか理解までには至りませんでしたが、ストゥーパの入り口には触れたかなと思いました。後、中国でのストゥーパのイメージはドラゴンボールのカリン塔(仙人)~神の神殿ですね。(違うかも知れませんが、あくまでイメージ優先で)夜は花林さんで美味しい料理をいただきました。その後は二次会、三次会となだれ込みました。

 いつも思いますが、スタッフの皆様の事前準備・散策資料作製、そして当日運営、後日のまとめと大変と思います。お疲れ様でした。向井先生、難しい内容でしたが、論理的な話、そして講演資料ありがとうございました。少しでも理解できるよう読み返したいです。






























吉野川分水用水路から私考する飛鳥の水系シリーズ

つばきさん

(14.4.18.発行 Vol.186に掲載)

(1)「伝飛鳥板蓋宮跡」あたりのほうが八釣より高地なの?

 もうすぐ飛鳥に水の季節が訪れます。
 飛鳥を歩くと必ず、川があり、用水路があり、その水の流れを見、水の音を聞く事は、季節の移ろいを感じる、飛鳥歩きの楽しみでもあります。ことに吉野川分水が通水される6月1日から収穫期の9月までは、あちこちで勢い良く水音が響き、飛鳥歩きもすこぶる軽快になる好きな季節です。

 今更ですが、この飛鳥の水系、大きく分けると、奥深い山から土地を侵食しながら流れ落ちる飛鳥川のような自然河川系と農業用水供給や治水のために設けられた吉野川分水のような人口用水路系の2つに分類することも出来ると思います。今回はその人口用水路系である吉野川分水用水路(以下分水とする。)から思いついたつぶやきを聞いていただこうと思います。

 さて、「水は高い所から低い所に流れる」これは、「りんごは落ちる」くらい、当たり前田のクラッカー。しかし、この自然の摂理が

 「えっ?」

 と八釣で、ふと、つぶやきたくなる発端となったのです。

 さる、3月16日、奈良交通飛鳥周遊赤かめバスを利用した「早春の飛鳥ショートステイ」に味を占めた私は、その一週間後、彼岸墓参で実家に帰省した合間に、またまた、橿原神宮駅東口12時10分発の「赤かめさま」にお世話になり、ショートステイすべく、八釣りバス停に12時26分に降り立ちました。

 折しも昼時、バス停の近く、八釣橋のすぐ横にあるコンクリートに座り、まずは腹ごしらえとおにぎりを頬張っていると、ここが分水の一角である事に気が付きました。数m先のトンネルから出た用水路がこの辺りで開渠となり、八釣り橋の下を通り、またトンネルの中へ暗渠となって消えてゆく。

 水の流れの摂理を改めて考えながら、脳裏には、飛鳥のど真ん中、「伝飛鳥板蓋宮跡」あたりにある分水が思い浮かびました。

 (水は高い所から低い所に流れる‥よね‥)
 (じゃあ、ここは飛鳥のど真ん中より低いってことか‥あ‥?)
 (え~‥ここって結構高い所でしょう?)

 (確か、周遊バスはこの辺りから徐々に上り坂となり明日香小原を経てしばらく東南に丘陵地を走り、飛鳥に位置する万葉文化館の裏手信号を右折、駐車場バス停まで下って行ったよな‥‥)

 と、一週間前に乗車したそのルートを思い返していました。

 そして、その路線バスの走る県道15号線を背中にすると、眼前には甘樫丘が真正面にしかも同じ目線の高さで見え、そこに続く道は真っ直ぐなだらかに飛鳥に向かって下っています。そうこの道は第42回定例会で石神遺跡から八釣りに行く途中歩いた推定「竹田道」。

 (どう考えても、この辺りは高地だよなあ~‥)
 (どうやってここまで導水してるの?)

 と、辿ろうにも岡方面から来たであろう分水の先は立入禁止のトンネル。仕方がないので、推定「竹田道」を下る途中に開渠はないかと探しましたが、見当たらず。結局、八釣からの分水は万葉文化館庭園内で一度開渠となり駐車場から暗渠、文化館西のバス停から再び開渠となり、ご存知の様に「伝飛鳥板蓋宮跡」あたりへと続いていくようでした。

 その「伝飛鳥板蓋宮跡」あたりに立つと、いつも定例会で説明されるように、飛鳥寺周辺より微高地である事は確かですが、八釣より高い位置にあるとは、そこから下り降りてきたという体感から、にわかに信じ難かいものでした。

 (ならば、地図上の等高線で色塗りしかあるまい。)

 と帰宅後、ネットで地図をプリントし八釣の等高線を色塗りしていくと、新事実が判明。なんと八釣と「伝飛鳥板蓋宮跡」あたりは同じ等高線内にあるのです。勿論、八釣全域が同一では無いのですが、分水のある地点は確かにそうなのです。しかもこの辺りだけかなり広範囲に広がる地形があるのです。ここは確認するしか無いと、畝傍御陵前にある「大和平野土地改良区」という分水の管理事務所に電話し、説明を乞い願うことに致しました。

 それによると、分水は基本的に1/1000の水勾配つまり1kmあたり1mの自然勾配になるよう水位を保ちながら導水され、できるだけ開渠を模索し給水ポイントを結んで行くよう計画されているそうです。ポンプを動力とする場所もあるようですが、明日香村内は橘寺くらいで、ほぼ自然勾配だそうです。川や一部市街地をくぐるときはサイフォンで導水するとの事。山田寺あたりにはそれがあるそうです。ちなみに飛鳥川を用水路として活用する区間があり、以前第40回定例会で見学いたしました「木の葉井堰」や「豊浦井堰」などを小頭首工(分水用語)として取水し、それぞれ飛鳥川をはさみ左岸と右岸地域を東部幹線水路とは別に通水されています。


橘寺ポンプ小屋

 試しに、距離と標高が出る「ルートナビ」で栗原から八釣までの開渠部分を大雑把にチェックしてみると栗原は標高120m、橘寺117m、岡112~5m、万葉文化館内116m、八釣橋114~6m、山田111mおおよその距離は3.7kmでした。これはあくまでもルートナビの地図上での標高差。実際には用水路自体の深さや、導水管を設置した位置を考慮していないので大雑把な数字ではありますが、理論上は、「伝飛鳥板蓋宮跡」あたりと八釣にある分水の標高差は、その間の直線距離は約1km、つまり1m、八釣りが低いという事になるのです。飛鳥の変化のある地形を歩くと確かに錯覚し易いけれど、この後、第43回定例会で甘樫丘に登り、眼前に両者をパノラマで展望してもなお、私の眼には・・・でした。

(へ~そうなんですかね?)


飛鳥パノラマ (赤丸のちょい下かも?みなさまはどう見えますか?)

 と、其れでも尚、半信半疑の私のつぶやきにはお構いなしに、東部幹線水路は、この先、山の辺の道と平行にほとんど暗渠やトンネルで北へひた走ります。標高も100mを切り、自然勾配で下って行くことになります。

 ちなみに分水をたどる散策ルートも紹介されていますので、興味の有る方はどうぞ。奈良県民の方ならなおさら、歴史からもぜひ。
 吉野川分水ウォーキング プランニングマップ
 吉野川分水ウォーキングマップ


 次回は何故斜めに八釣まで向かうのか、飛鳥盆地特有の斜めに走る段丘崖という飛鳥の地形についてお話したいと思います。






























春知る飛鳥の春紅葉

つばきさん

(14.5.16.発行 Vol.188に掲載)


 飛鳥の美しい桜の季節も終わり、今の飛鳥は元気いっぱいの新緑の季節となりました。きっとこのGWで皐月の爽やかな風と共に癒された方もおられるでしょう。これからは田植えの時期が控えています。稲の成長と共に、ますます生命力あふれる楽しみな飛鳥です。

 そんな飛鳥の新緑に混じって、ひときわ黄色く輝く光景をご覧になった事はありませんか?特に飛鳥の何処からでも観る事が出来る、岡寺山の中腹に、その輝く光景は広がっています。(両槻会では通称藤本山と言われる中腹から麓辺り)5月17日の両槻会の定例会で訪れます、「飛鳥のど真ん中」からはとっても良くご覧になれると思いますよ。


明日香村橘にて

 その正体、実は竹なのです。勿論、竹と言う事は分かるのですが、「竹の春紅葉」とも言われているそうです。春先から現れ始め、去年の写真を観ると6月の田植えが終った時期にもまだそれらしき光景が残っていました。実はこの「竹の春紅葉」と言う言葉を意識したのは今年の春。以前から何とはなしに目にはしていた様に思うのですが、何故か、気に留める事が無かった竹林。今年は特に綺麗な黄色が眼に焼き付いて、飛鳥の知人に確認するとそれは竹の紅葉だったと言う訳でした。竹に「うとい」のは私だけかもしれませんが、是非紹介しておこうと恥を忍んで飛鳥話に投稿しました。

 実は、竹の葉はほぼ毎年、黄色く色付き落葉します。それが何と春に観られるので「竹の春紅葉」と呼ばれ、「竹の秋」とも呼ばれているそうです。けれど、全て葉が散るのではなく、紅葉した葉の下から既に緑の葉が延びているので、休む時がなさそうな、改めて知る常緑樹の竹の不思議。

 実は、竹紅葉は存じませんでしたが。春紅葉と言う言葉は、以前から知っており、奈良県内の割と高所の山なら、撮影できます。秋の紅葉に比べ色は淡く、鮮やかではないのですが、もしかしてと言う写真をとる事が出来ました。自分でそう思っている私の春紅葉です。これは強い春の紫外線や葉を食べる虫から若葉を守るために出るアントシアニンと言う物質が色を染めるのだそうです。


大台ケ原にて

 飛鳥の春紅葉はまだ撮影した事がありません。みなさまはご覧になった事はありますでしょうか。あなたの春紅葉を是非、飛鳥話で披露してみませんか。






























飛鳥・白くて甘い香りと赤くて甘酸っぱい小さな想い出

つばきさん

(14.5.30.発行 Vol.189に掲載)


 とある5月の休日の昼下がり、飛鳥駅前のカフェに着席した途端、

 「あれ~いちごのにおいがする~。なんかにおうね~。
 とかわいい声が店内に響き渡りました。

 (う~ん、子供の臭覚は敏感で、口は正直なり。)
 (そうだよ~ん。おいしそうな匂いでしょ~。それにしてもやっぱり匂うんだね~。)

 とテーブルの前に置いた、あすかルビーのパックを少々自慢げに眺めながら、先ほどまで身を置いていた甘酸っぱい香りのハウスを思い出していました。

 実は、数時間前、語学学校を主宰する旧友とネイティブの語学教師と阪田にあるハウスでいちご狩りを楽しんだ後、お土産用いちごパック(500円)を購入しました。本当は早く持ち帰り冷所保存が良いのですが、まだ訪れた事がないと言うネイティブ達の為に、甘樫丘を案内することになり、その間、止むなく車に置いていたので、いちごの完熟度が増し、いちご香水となり店内にひろがったのでしょう。それにしても甘いいちごの香りは、万人にとって天然の癒しの香り。よほどケーキ屋さんで嫌という程の量を扱った経験のある方以外にはね。(笑み)そして甘酸っぱい想い出が甦る香りでもあります。


飛鳥の苺

 甘い香りと言えば、飛鳥にこの時期漂う、もう一つの香りがある事をご存知でしょうか。それはみかんの白い花の香り。飛鳥にはみかんの木が至る処で見られます。ですから、なんか甘い香りが漂うな~と思いながら、角を曲がると、必ずや白い花を一杯につけた可愛いみかんの木が迎えてくれます。香りに誘われてくるミツバチのぶんぶんという、もったりとした羽ばたきを聴くと、遠い記憶の彼方から、田舎で育った懐かしい体感が、ふと、甦ってきます。都会では想い出す事のない、季節の記憶と言うものでしょうか。


みかんの白い花

 「甘いかをり」「赤いもの」「白い花」そう、この三つのフレーズから、想起する季節の記憶は、小学校時代の「甘酸っぱくてかわいいもの」にまつわる想い出です。当時は2~3kmの徒歩通学。子供にとっては結構な道のりでしたが、道草しながらダラダラ帰る楽しかった通学路でもありました。ことに1年に一回の「かわいいもの」がなる季節は授業が終るのが待ち遠しく、「採られてないかな。」「あるかな。」とそわそわしながら一目散に向かうその場所は、通学路途中にある線路際の木の柵。

 そしてその「かわいいもの」とは木いちご。萌黄色の葉っぱと白い花や刺のある枝が一面に木の柵をはい、その中に、隠れるように小さな赤い実(正確には小粒が集まり丸い形をなす)がなっているのですが、刺も何のその、探しては、口にいれ、また採ってと夢中で楽しんだものでした。

 年月が過ぎ、時折実家に帰省したおり、探すのですが、環境も変化し、いまだに木いちごの白い花と小さな赤い実を見つけ出す事はありません。5月か6月だったか、記憶も正確ではなく、時期を外しているのかも知れませんが、私にとっては永遠の幻の実なのです。

 ところが、最近ある本で飛鳥にも木いちごがあるらしい事を知りました。それによると、季節は6月、稲淵の棚田や朝風峠、栢森の女綱から高取山への道を登った栗原からの旧道と出会うところにあるらしいのです。飛鳥の木いちごは「モミジいちご」や「クサいちご」など2種類あるそうですが、(ネットで調べても想い出の木いちごの名は不明)飛鳥にはそのどちらもあるけれど、山道の開発とともに少なくなっているとの事ですが、毎年ジャムにするほど収穫されているみたいで、稲淵では見かけた事が無いので栢森からの道に行ってみたい・・・

 ただし、この本の刊行は2009年。2014年の6月には果たして、まだあるのでしょうか。しかも。ここは私にとっては未踏の地。道の状態もいざ知らず、スズメバチやマムシさんと遭遇しないとも言えず、悩むところですが、幻の木いちごと出会えるかも知れない6月を一先ず、楽しみに待つ事にしました。(みなさま、どこか安全な場所で見つけられたら是非、ご一報くださいませ。)

 さて、話を戻していちご狩りについて。5月7日から通常1400円のところ1000円/30分にプライスダウンしています。この時期は市井にいちごが出回るので珍しくないと言う意味で旬外れだけど、味としては今が一番美味しいかも、と飛鳥の人は教えてくれました。とは言え、30分は少々お高い印象ですが、もぎたてのいちごを食すという楽しさはあります。


苺狩り

 以前、饅頭屋の知り合いから、あすかルビーは苺大福に入れるには柔らか過ぎると聴いたことがあります。小さめのいちごは特に軟らかく、ジューシーな果肉の甘い味がすぐ口一杯に広がるので、時間制限のあるいちご狩り向きかもしれません。ちなみに英米では、平等を重視する思想からか、同じバスケットに採り、後で食べるのが通常とか。食べ方の好みの比較では、日本人は練乳をつけたりしますが、米の女性はチョコレート持参。同時に食べるといちごチョコの味で、これは意外な美味しい食べ方でしたがシャンパンといっしょがおすすめだそうです。

 いずれにせよ、甘くてジューシーないちご三昧の30分。(この時期のハウスは暑いのが難点)みなさまにもいちごの香りが届きましたでしょうか(笑み)

 あすかいちご狩り・農園マップ(あすかであそぼ)

 最後に長くなるのを承知で一言。この日、出会ったネイティブの方は学校の教師。3~4年の滞在を終えこの夏に帰国予定とか。「甘樫丘周辺をウロウロするけど、ここに登ったのは始めて。登れる事も知らなかった。」と言うのにはビックリ。旧友によるとこの情報伝達不足は意外とある盲点だそうです。飛鳥関係者のみなさまにはこの現実をお伝えしておこうと思います。と言う訳で外国の方に、しかも殆どEnglishで?飛鳥応援大使並みの貢献もはたしたつばきでした。





























飛鳥遊訪マガジン200号記念投稿
両槻会定例会雑感

遠藤さん

(14.10.31.発行 Vol.200に掲載)


 飛鳥遊訪マガジン、発刊200号、おめでとうございます。
 定例会への気まぐれ出席の新参ものですが、参加して感じる両槻会の素晴らしさを、思い付くままに述べさせて頂きます。

 素晴らしいと感じる第一は、メールアドレスとハンドルネームだけが参加資格になっていることに代表されるように、オープンで、気軽で、自由で、楽しい雰囲気の会合運営です。

 第二は、配られる資料が、極めてレベルが高く、かつ充実していることです。他所で開催される考古学、歴史等の講演会にも結構よく参加していますが、両槻会の資料ほどのものは、他では、ほとんど目にすることはありません。本当に素晴らしいです。

 第三は、事務局の方の熱意あるご尽力です。ボランティアやお世話係ではなく、共に楽しむ仲間とおっしゃっていただいていますが、会合は、まさに事務局の方のお力添えの上に成り立っていると、定例会に参加するたびに、実感しています。

「飛鳥好きが集まる・・・・・・」

 参加するたびに、奈良に住んでいるものとしての、愉悦体験を感じています。飛鳥のことをあれこれと聞いていると、建国間もない古代に思いを馳せることになり、心の中に壮大なロマンが拡がります。いにしえの人々と空想の中で対話するという心の在り様は、何物にも代えがたい至福の時間です。

 両槻会の皆さん、本当に有難うございます。





























飛鳥遊訪マガジン200号記念投稿
両槻会の魅力

西さん

(14.10.31.発行 Vol.200に掲載)


 (1)なにより、日本人のふるさととも思える懐かしい飛鳥の風景の中で、風人さん等の話しを聞き、いにしえの人たちの暮らしぶりに想いをはせることができること。
 (2)力の入った定例会資料、メルマガ、ただでもらえる「季刊明日香風」
 (3)リーダーさんの魅力のせいなのか、以外に多い女性参加者(歴女?)その方々いずれもが、魅力的な女性であること。
 (4)ウォーキングの快い疲れの中で、飛鳥資料館での講演会に於ける快い睡眠。(来年からは資料館にただで入館できます)
 (5)そして・・・、講演頂いた先生を囲んでの「花林」での打ち上げ会メンバーでもある「よしおマスター」のこだわりの料理の美味さ。ああ! もう一度 鹿肉が食べたい。





























飛鳥遊訪マガジン200号記念投稿
飛鳥遊訪マガジン200号に寄せて

よっぱさん

(14.10.31.発行 Vol.200に掲載)


 両槻会発行のメールマガジン「飛鳥遊訪マガジン」の発行が200号をむかえました。
 両槻会は、会員制を取らず、事務所も置かず、飛鳥好きの仲間がより飛鳥を楽しもうと集うサークルとして、2007年2月12日に発足し、その年の12月からメルマガを発行し続けてきたそうです。

 よっぱは、定例会もメルマガ購読も2009年5月から参加させていただきました。定例会に参加し、メルマガを購読して感じましたが、これまでにこの会の事務局スタッフとして携わってきた方々は、山あり谷ありの運営で大変なことだったでしょうし、ましてや設立当初から今なおその活動の中心となっている風人さん、ももさんのご苦労や、各関係機関の先生方の賛助には感嘆させられてしまいました。
 今までにこの会に携わってきたすべての方に最敬礼です。
 「本当にご苦労様でした。」

 また、両槻会は、飛鳥好きの仲間の集まりですが、飛鳥好きに悪い人はませんね。スタッフも参加者の皆さんも礼儀をわきまえ、思いやりのある方ばかりでした。
 「みなさん、ありがとうございました。」

 よっぱは最近「相互扶助」という言葉を多用しています。一時期仕えた上司から教えられた言葉です。数年前に発生した阪神大震災や東北大震災などの大災害が発生したとき、行政やマスコミは、「お互い助け合いましょう、自助、共助、公助です。」と強調していました。

 共助、助け合い、相互扶助。

 なにかが起こったとき、ひとが一人でできることはごくわずかでしょう。また、何かを起こそう、何かを続けようとするときも、なかなかひとりでは物事は動かしにくいものです。でも、その一人が、動くことがなければ、何も変わることはないでしょう。

 お互いに助け合って生きていく。たぶんそれは、飛鳥の時代から変わらぬ事だと思います。なかには利害関係で、ひとの足をひっぱったり、陥れたりしてのし上がったもの(自らの氏族のために・・・?)もいるようですが、大部分は、相互扶助で生きてきたのではないでしょうか。

 ただ、相互扶助には、相手の立場に立った考え方、思いやり、気配り、言い換えるとひとの心(の傷み)を判ろうとする姿勢が必要だと思います。どちらかに(誰かに)それが欠けていれば、それは相互の扶助とはならないでしょう。

 両槻会は、スタッフの参加者への気配り、そして参加者のスタッフへの思いやりで続いてきた会だと感じています。また、スタッフと定例会参加者が、出来ることを出来る範囲でやり続けてきたからこそ存続してきた会だと思います。

 ひとが集まるとその数だけ価値観や考え方の違いはあるのですが、いつ参加してもこの会にやさしさや温もりが感じられるのは、これまでにこの会に関係したひとの思いやりのせいではないかと思います。また、その思いやりがないと両槻会ではないように思うのです。

 両槻会は、これからも「飛鳥好き」というつながりでお互いに助け合って続けて行く会となることを望んでいます。






























第49回定例会に参加して

どるねろさん

(15.4.3.発行 Vol.212に掲載)


 今回の定例会は、飛鳥から離れて吉野でした。私自身吉野に訪れるのは2回目でした。初めての吉野は7~8年前で、いわゆる吉野山の方しか行きませんでした。しかも、桜が終わったゴールデンウイークに行きました。なので今回行くまでは吉野=山ということしか思い浮かびませんでした。

 当日朝、いつもなら1時間ほどで明日香周辺ですが、今回は吉野ということで約倍近く時間がかかりました。急行なのに停車している時間が長く感じました。前回訪問はもうかなり前なので記憶がおぼろげになっています。電車に揺られて停車したのは「吉野口駅」入口だからもう少しかなと思ってから終点の「吉野」までかなり遠く感じました。

 集合時間だとかなりタイトな感じだったので、一本早めの電車で行きました。かなりの人がもう来ているかなと思いましたが、見なられた顔の方は意外にも5~6人でした。吉野駅周辺も桜が咲く前なので、かなり閑散としていました。そうこうしているうちに次の列車が到着して、集合時間となり、定例会が始まりました。

 全部事細かに書いてしまうと私自身大変なので、印象深い所であり、かつネガティブ印象な場所は省いて記していきたいと思います。

 まずは、銅の鳥居・発心門です。その大きさというか高さに圧倒されます。周りには高い建物がないので、余計に高さが際立ちます。高さ8.2mというと、沖縄にある美ら海水族館の巨大水槽アクリルパネルと同じ高さですね。現代でもかなり大きく感じますので、当時としてもかなり存在感の大きさだったのではないかと思います。後、柱の部分の珠文帯と連弁の部分がただの門ではないような雰囲気をなおさら醸し出しています。

 蔵王権現は秘仏なので実際にみることはできませんでしたが、資料の(いつもいつも内容が濃いです、頭が上がりません)写真を見るとインパクト大です。怒りの色と言われれば赤を思いだしますが、青なんですね。後、蔵王と聞くと、真っ先には山形の蔵王を思い浮かべてしまいます。が、調べたらこっちのほうが先みたいですね。

 宮滝当日は事務局会長の人徳のため、晴れましたが、前々日雨で、日陰の所はぬかるんでいるところがあり、歩くのに、少し大変でしたが、反面、川の水量が増加して迫力のある見事な滝でした。周りの雰囲気と相まって神秘的かつマイナスイオンがでているな?という感じでした。

 吉野歴史資料館では、短い時間でしたが、大変分かりやすいギャラリートークでした。吉野宮は飛鳥をかなり意識して、造られたのかなと思いました。

 まとめですが、飛鳥から離れた場所での定例会でしたが、大変楽しく散策できてよかったです。今回は散策中は、事務局長と岡先生のダブル解説でした。お互いに解説を振る・被せる・重ねる・捩じ込む等で、立体・多面的な解説で良かったと感じました。






























ただいま育児休業中

yukaさん

(15.6.12.発行 Vol.217に掲載)


 両槻会と出会って5年が経とうとしていた2012年の秋、結婚に伴いそれまで住んでいた京都を離れ、地元の名古屋に戻りました。

 生活も落ち着き、半年ぶりに定例会に参加できたものの、次の定例会にあたる日はすでにつわりの真っ最中(笑)さすがにもうサポートスタッフもクビかな、と思っていたのですが、優しいスタッフばかりの両槻会事務局にはマタハラなんて存在するはずもなく、そこから長い産休・育休(?)に入り、今に至っています。

 現地には行けなくても、ネット上でできそうな資料作りやメルマガチェックですら、小さな子を抱える身ではゆっくりパソコンに向かう暇もなく、サボりまくりという有様・・・

 苦労して会の運営を継続されているスタッフの皆さんに申し訳なく思うと同時に、飛鳥に行きたい、そろそろ復帰したいな、という思いが強くなっていきました。そんな気持ちを察したのか、昨年8月、夫が私と息子を飛鳥へ連れて行ってくれました。私は1年半ぶり、息子は生後8ヶ月にして飛鳥デビューです。

 車、子連れ、猛暑、という条件ではさすがに以前のようには歩き回れませんでしたが、それでも飛鳥に飢えていた私の心は、素朴な空気に癒されました。

 と同時に、いつでもどこへでも自由に行けたあのころが懐かしく感じられました。もちろん、家族3人での今の暮らしは、かけがえのない大切なものですが・・・

 息子は今、1歳半。自分の欲求を通そうとしたり、危険なことにも手を出すようになり、ハラハラする毎日です。

 「スプーン投げちゃだめでしょ!」
 「そこ乗らないで!」
 「そっち行っちゃだめ!」
 「そんなもの拾わないの!」
 「もういい加減にしなさい!!」

 私も日々戦いです(笑)イライラして怒鳴ったり、思わず頭をペチっと叩いてしまうこともあります。さすがにそんなときは、なんてことをしてしまったんだろうと反省するのですが、何度怒られても息子は何事もなかったかのように無邪気に笑って甘えてくるのです。

 子供って何度でもやり直すチャンスをくれているんだな、と感じます。だから、せめて私も明王ではなく菩薩の顔で子供と接してやらねば・・・と思うのですが、現実にはなかなか(笑)

 とまぁ、そんなふうに独身の頃のような自由や気楽さはないけれど、心の中にずっと好きだと思える場所、会いたいなぁと思える仲間(と勝手に思っている)がいるのは幸せなことなのかもしれません。

 8ヶ月で訪れた飛鳥のことを、もちろん息子は覚えてはいないでしょう。それでも、年に一度でいいから連れて行くことで、彼にとって飛鳥が身近なものになってくれればと願っています。私の好きな飛鳥を、息子も同じように好きになってくれたら嬉しいけれど、それを押し付けるつもりはありません。息子の人生は彼自身のものであり、何に興味をもつかは彼の自由です。

 ただ、まだ始まったばかりの未知だらけの世界に、いろんな選択肢を用意してやるのが親の務め。そのひとつとして、飛鳥という地域・時代を知ってほしい。そう思っています。そうすることもまた、飛鳥を次の世代に引き継ぐということになるのかな・・・と。

 人の命が何気ない日常の中で親から子へと受け継がれていくのと同じように、飛鳥の遺跡も、長きにわたり大切に守り伝えられてきた遺産です。今につながる日本という国家の始まりの場所、飛鳥。常に自分の原点を見失わず、そこから自分なりに明日を切り開いていく人になってほしいという願いもこめ、女の子が産まれたら「明日香」と名づけよう・・・

 実はそんな野望を抱いていた時期がありました(笑)しかし、そう決めた直後の検診で男の子と判明;

 名付け辞典の男の子の名前に「あすか」はあったんです。でも、「飛鳥」では如何にもそのままだし、「亜須加」じゃまるで万葉仮名だし(笑)こういう名前の人、すみません)

 結局、飛鳥とはまったく関係のない名前となりましたが、ちゃんとそれなりの意味をこめて名付けました。名前どおりに育ってくれれば、きっとのんびりとした飛鳥を気に入ってくれるはず・・・と、やっぱり期待してしまう親心なのでした。

 そして、両槻会最年少デビューをさせてやろうという新たな野望を、今、抱いています。






























ひさかたの涼を求めて青の世界に入る

つばきさん

(15.8.21.発行 Vol.222に掲載)


 猛暑の8月初旬、仕事終わりの午後に飛鳥好きの知人と合流。みたらい渓谷が無理なら、せめて、近場の水辺に涼を求めようと奥飛鳥の滝を見に出かけました。

 明日香村は、水の季節から、夏の季語さながらの青い世界に様変わりです。ことに、午後の斜光線に照らされた稲渕の棚田は、鮮明な青い色彩が立体的かつ広角的な構図と共に、圧倒的な映像美となって迫ってきます。

 これぞ日本の夏。原色の飛鳥の夏。

 この季節、大半の観光客の北限は石舞台。この稲渕周辺ではおじさん写真家も居ません。テントで農作物を販売するおばちゃん達でさえ店じまいです。黄金色の稲渕もいいですが、8月の棚田は生命力に満ち溢れ、一年で一番輝く季節かもしれません。けれどこの風景も無常です。

 そう思う出来事に女綱で遭遇、滝を見ずして凍りつきました。

 ユンボと作業員と何か違う違和感で思わず車を止めて見たのは、岸辺の藪木や草が刈取られ、青い芝生の公園を造成中のまさかの光景でした。

 最大の違和感は、風景に溶け込めず、肩身が狭そうに浮く、単なるオブジェ化された様に見える女綱の姿。確かここは重要文化的景観のはず。女綱本来の存在意義を無視した景観破壊ではないのか。

 また一つ飛鳥らしい景観が消えたと嘆くのは、私達だけでしょうか。

 苦い思いと共に栢森に到着、女淵に下る場所で降車すると、ヒグラシの鳴き声が。アブラゼミやミンミンゼミもそれぞれの場所で鳴き、外界との温度差を実感する高所の佇まいに、先程の気分は一新されました。

 日照り続きの影響か、石も白く乾ききる水量の少なさに、古代の雨乞いを思い、マムシに合わない事を祈り、2011年、両槻会滝巡りの頃から、滝壺に長年刺さっていた流木が取り払われた位の変化しか無い女淵を喜び、十分に涼を満喫した沢歩きでした。


女淵

 この後、人の気配ゼロ、auもdocomoさえも圏外となった山間の青い林道を抜けると、ようやく、農作業をされる方に出会いました。そこは、7軒の人家しか無い限界集落の上畑。
 そこで可愛い青の栗畑に出会いました。

 猛暑にあえぐ事なく、元気で生き生き育つ若いクリ坊たちです。昔ながらの気候が残る山間で、飛鳥の本当の原風景に、やっと出会えた気がしたのでした。


若いクリ坊

 ここで仰ぎみた光景が、私のひさかたの天なのかもしれません。

 この世は無常です。飛鳥好きに出来る事は、その時々の情景を何かの形で残す事。今回応募された「ひさかたの天」は入選にかかわらず、全てが貴重な生き証人になる事でしょう。
 
 皆さん、いいと思った光景は迷わず撮影しておきましょう。
 
     いつまでも あると思うな 飛鳥の風景   つばき




























ホテイアオイと定例会

sachiさん

(15.9.4.発行 Vol.223に掲載)


 8月最後の週末。両槻会の定例会に参加するため、東京から関西の実家へ帰省しました。今回の予定は、お昼からの講演会と、夜は光の回廊イベントの準備のお手伝い。・・・講演の前に、入鹿さまの首塚参りへ行くかどうするか~と考えて、そうだ、本薬師寺跡のホテイアオイは咲いてるかな?と思い出しました。ちょうど見頃、と情報をいただいたので(風人さんありがとうございます!)、じゃあ行こうかなぁ~と実家でぶつぶつ言ってたら、それを聞いた母が、自分も行きたい!と言い出しました(笑)。でも、私は午後から両槻会に行っちゃうよ?と言っても、母は午前中だけでいいから、ホテイアオイを見てみたい、と。結局、一緒に行くことになりました。

 お天気がどうなるかな?と心配しましたが、さすがは晴女の母。鶴橋を通った頃はゲリラ豪雨でどしゃ降りだったのが、奈良へ近づくにつれて、どんどん明るくなっていく(笑)。最寄り駅の畝傍御陵前に着いたときには、すっかり晴れてました。

 本薬師寺跡に向かうと、ものすごい車の列。警察が来て交通整理やってるくらい、たくさん人が見に来てるんですね。それくらい綺麗に、ちょうど見頃に咲いてました。実家にいた頃は、毎年のように見に行ってましたが、今年は久しぶり。母は初めてとあって、一面のホテイアオイにかなりびっくりした様子。薄紫の花が、畝傍山を背景に、一面に群れ咲いてるのは、やはり壮観です。


ホテイアオイと畝傍山

 母が、どうやって咲いてるの?蕾は?と言うので覗き込むと、どうやら伸びていきながら順番に上へ上へと咲いていくみたい。ガーデニングをやっている母は、そういうのが気になるようですね。私は今まで気にしたことなかったなぁ。

 ひと通りぐるっと回って、本薬師寺跡の礎石の上でちょっと休憩したら、その礎石のくぼみにも、ホテイアオイが咲いてました(笑)。


心礎に咲くホテイアオイ

 田んぼの水も綺麗で、でっかいタニシや、おたまじゃくしやカエルもいましたね。赤とんぼもすでに飛んでたり。さすが、自然たっぷりで、普段東京の喧騒の中に住んでいると、こういったのどかな空気に癒されます。喜んだ母に昼食をおごってもらい(笑)、駅で別れて、私は午後からの講演会へ。

 講演は、飛鳥の古民家について。いつも歴史や考古学のお話が中心なので、ちょっと視点を変えたテーマ。朝からちょっと歩いて、お腹一杯お昼を食べたので、正直、講演は眠いかな~と思いましたが(汗)、わかりやすくテンポのいい西田先生のお話と、両槻会お馴染みの清水先生のゆる~いジョークを交えたお話で、興味深く聴くことができました。

 町家など、古い町並みを歩けば、どこでも見かけるように思いますけど、そのひとつひとつをどうやって調査し、保存し、将来へと残していくか。難しい考古学よりも、もっと身近なお話として話していただけたので、とてもわかりやすくて、すとんと自分の中に入ってくるような感覚で聴いてました。

 民家の瓦のお話も、飛鳥を歩くようになってから、建ってる家の屋根の瓦が七福神だったり動物だったり、いろんな形で不思議だな~とは思ってたのですけど、そこにちゃんとルーツがあり、共通の職人さんが関わってたり、それが江戸時代に遡ったり、そんなことがわかるのも面白いですね。

 今回、先生方が講演してくださるだけでなく、先生同士でお互いの考えを話し合うシンポジウム形式の時間が少しあり、それもまたいつもとちょっと違う雰囲気で、面白いな、と思いました。

 私たちは、先生のお話を聴いて、それについて質問をして・・・というのが通常ですけど、先生同士でお話をされて、そのお話を私たちにもわかるように聴かせてくださるというのはこれまでなかったので、すごく新鮮でした。

 講演会のあとは、夜にむけて、光の回廊の準備。今年はキトラ古墳の星宿図をモチーフに、朱雀の七星座を描く予定と聞いて、実はちょっとニヤニヤしてたんですね。某漫画&アニメをご存知の方なら、おわかりかと思いますが、朱雀七星士といえば~なので、いただいた資料で、それぞれの星の呼び名なんかが書いてあると、ついニンマリしてしまいました(爆)。ちなみに、私のお気に入りは星宿(ほとほり)だったりする・・・。

 先日、キトラ古墳の星宿図は、いったいいつの時代にどこで書かれたものかを、実際の天体の動きと緯度経度から割り出した、というニュースがありました。ちょっとした星の位置のズレから、計算していくというやり方が、すごく面白いな~と思ってニュースを聞いていたので、ちょうどタイムリーな題材でもあり、描けるのを楽しみにしてたんです。

 ところが、準備を始めてすぐ、雷がゴロゴロ言い出したかと思うと、あっという間にどしゃ降りの雨になってしまい、無念の中止となってしまいました。お天気のことなので仕方ないんですけど、でも出来上がりの星宿図を見たかったな・・・。それに、夜の飛鳥も風情があって気に入ってるので、お手伝いのあと別会場を歩き回るのも楽しみにしてたので、とても残念でした。

 光の回廊だけが残念な結果に終わりましたが、ホテイアオイも、講演会も、充実していたので、帰省して参加してよかったです。いつもいつも準備してくださる両槻会のスタッフの皆さまと、講演してくださった先生方に、心から感謝です。

 せっかくつくった星宿図を披露できなかったのは、さぞ無念のこととお察しいたしますが、本当にお疲れさまでした。次回の定例会は、蘇我ウォーク。これもやっぱり、行かねばなるまい。




























よっぱの素人飛鳥学

よっぱさん

(15.11.13.発行 Vol.228に掲載)


「蘇我氏って、なに」  その1

 第50回定例会では、「蘇我の奥津城―蘇我四代の墓を考える―」と題して飛鳥に点在する蘇我氏関連の古墳を巡りました。そして、第52回定例会では、「蘇我を歩く―発祥の地から終焉の地へ―」と題して橿原市曽我町から甘樫丘を経て、入鹿の首塚など、蘇我氏諸縁の地を訪れました。蘇我氏をテーマに取り上げると決まったころから、少しずつ蘇我氏について調べていました。その概略については、第52回定例会資料に掲載していただきましたが、その中身について今回はお話ししたいと思います。

 第52回定例会配布資料「蘇我氏考」

 まずは、蘇我氏の始祖です。
 蘇我氏の始祖とされているのは、『古事記』では、第八代孝元天皇の孫・建内宿禰(たけのうちのすくね)とされています。第八代孝元天皇が内色許男(うつしこお)の娘・伊迦賀色許売命(いかがしこめのみこと)を娶って生まれたのが、比古布都押之信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、比古布都押之信命が、木国造の祖・宇豆比古の妹・山下影日売(やましたかげひめ)を娶って生まれたのが建内宿禰です。建内宿禰には9人(男7人、女2人)の子がおり、そのうちの7人から27の氏族が分かれたとされています。9人の子の中に蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)という人がおり、蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣などの祖と記されています。

 一方、『日本書紀』では、武内宿禰という人物がおり、第八代孝元天皇が伊香色謎命(いかがしこめのみこと)を娶って生まれたのが彦太忍信命(ひこふつおしのまことのみこと)で、『古事記』ではその子とされていたのが、『日本書紀』では、その孫が武内宿禰であると記されているのです。しかし、蘇我氏とのつながりは全く記されていません。

 この建内宿禰(武内宿禰)という人物は、『古事記』では、成務・仲哀・応神・仁徳の四朝(神功皇后を入れると五朝)、『日本書紀』では、成務朝の前の景行朝から天皇家の忠臣として、およそ300年もの長期間にわたり、天皇家に仕えていたことになります。

 戦前は、神功皇后とともに新羅征伐の英雄として、聖徳太子のようにお札に肖像画が描かれていた人物ですが、戦後の文献批判で『記・紀』の記述の信憑性に疑問(闕史八代)がもたれ、かつ300年もの長寿である武内宿禰は架空の人物だと疑われるようになったようです。

『続日本紀』慶雲4年(707)4月15日の条には、藤原不比等に対する文武天皇の宣命のなかで「孝徳天皇は、不比等の父鎌足の仕えた様子は、かつて建内宿禰が歴代天皇にお仕えしたのと同じであると仰せられて、地位をあげ、物を賜った。」と記されています。このころすでに建内宿禰という人物は「理想の臣下」としての伝承があったのでしょう。

 岸俊男氏は、この記述を根拠として中臣鎌足が建内宿禰のモデルであるとされたそうですし、津田左右吉氏は、敏達・用明・崇峻・推古の四朝に大臣として仕えた蘇我馬子がモデルであるとされたそうです。

では、実質的に蘇我氏の祖とされるのは誰なのでしょうか。『記・紀』において蘇我を名乗る最初の人物は、「履中紀」の「蘇我満智宿禰」(そがのまちのすくね)です。

 履中天皇は、仁徳天皇が葛城襲津彦の娘・磐之媛命を娶って生まれた大兄皇子で、磐余稚桜宮で即位しました。翌2年10月に磐余に遷都し、これに当たって国事を執ったのが、平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)、物部伊莒弗大連(もののべのいこふつのおおむらじ)、圓大使史(つぶらのおおおみ)、そして、蘇我満智宿禰と記されています。葛城氏、平群氏、物部氏などとともに、蘇我氏が当時の有力豪族であったことが窺えます。

 次に蘇我氏として登場するのは、「雄略紀」の「蘇我韓子宿禰」(そがのからこのすくね)です。雄略天皇は、泊瀬朝倉宮で即位し、平群臣真鳥を大臣、大伴連室屋、物部連目を大連とし、妃の一人には、葛城圓大臣の娘・韓媛がいます。

 雄略天皇9年3月に、紀小弓宿禰(きのおゆみのすくね)、大伴談連(おおとものかたりのむらじ)、小鹿火宿禰(おかひのすくね)とともに蘇我韓子宿禰が新羅征伐の大将に任命されていますが、同年5月、紀小弓宿禰の子・紀大磐宿禰といさかい、殺害されています。ここでも有力豪族の一人として、蘇我氏が名を連ねています。

 そしてこの後に登場するのが、「宣化紀」の「蘇我稲目宿禰」です。
 宣化天皇は、檜隈廬入野に宮を置き、大伴金村(おおとものかねむら)、物部麁鹿火(もののべのあらかい)の二人を大連とし、蘇我稲目宿禰を大臣、阿倍大麻呂を大夫としました。

 檜隈の地は、東漢氏などの渡来系氏族が移り住んだ地であり、東漢氏を従える蘇我氏が、宮の地を提供したとも考えられます。さらに、宣化天皇元年5月1日条に記されている諸臣への詔には、「蘇我稲目宿禰は、尾張連を遣わして、尾張の国の屯倉の穀を運ばせるがよい。」と記されていて、この時、尾張氏が蘇我氏の配下にいたことが窺えます。

 その後、「稲目」「馬子」「蝦夷」「入鹿」の蘇我氏四代が続くのですが、『記・紀』には、蘇我満智宿禰、蘇我韓子宿禰、蘇我稲目宿禰の三人のつながりについては記されていません。蘇我氏の系譜については、『公卿補任』『諸家系図纂』『続群書類従』などから、

 武内宿禰―蘇我石河宿禰―蘇我満智―蘇我韓子―蘇我高麗―蘇我稲目

 とされていますが、これらの系譜が成立したのは平安時代ですし、『記・紀』には「高麗」の名前は見当たりませんので、全面的に信頼できるかどうか疑問視されています。

 『上宮聖徳法王定説』などの系譜を重ね合わせると、共通して行きつくのは「蘇我石河宿禰」で、実質的に蘇我氏の祖とされるのは、「蘇我石河宿禰」なのです。しかし、松本清張氏が「孝元も武内も架空の人物であるから、その子の石川も架空と考えねばならない。」と、その著書「清張通史」で述べられているように、蘇我氏の祖については、やはり諸説あるようです。

 いろいろと調べてみたのですが、「蘇我氏の祖」については、結局は「謎」となってしまいました。このように、その始祖が誰であるかが「謎」なのですから、その出身地についても多くの説が唱えられる結果となっているのです。

 機会があれば次回は、蘇我氏の出身地についてお話ししたいと思います。































美濃・尾張の古代史さんぽ 1

yukaさん

(15.11.27.発行 Vol.229に掲載)


 私の地元、愛知県の北西部は、木曽三川の水の流れに育まれた濃尾平野に属し、晴れた日には西に養老山地や伊吹山、北に御嶽山などを望むことができます。その中に、江南市という、木曽川を挟んで岐阜県と隣接する市があります。

 この江南市の北部に「村久野町」というところがあるのですが、『尾張国地名考』は、この地名は「村国」から転じたと伝えています。古代には「村国郷」と呼ばれていたようですが、古代史に詳しい人なら「村国」と聞いてピンとくるかもしれません。壬申の乱で大海人皇子を勝利に導いた功労者「村国男依」の名を想起するのではないでしょうか。

 男依は、美濃国各務原の出身と伝えられ(確証はないようですが)、都へ出て大海人皇子に仕え、壬申の乱においては他の2人の舎人とともに美濃勢3000人を動員して不破を確保、将軍となり数万の兵を率いて息長横河で勝利し、その勢いで大津宮を陥落させたという功績が『日本書紀』に記録されています。その報奨として、封120戸、功田10町、連の姓を賜ったそうですが、件の村国郷も戦勝の褒美として与えられた領地のひとつであったと伝わっています。生年は不詳ですが、壬申の乱の4年後676年7月に没しています。

 ちなみに、男依の出身地美濃と、大海人皇子の養育に当たった一族の本拠地尾張は、古代より製鉄が盛んで、乱においても大海人側の武器の調達に一役買っていたと思われます。

 さて、その村久野町に熱田社という神社があります。詳しい由緒などは不明ですが、境内に「村国神社」の碑があることから、古くから「村国」に関わりのある神社であったとみてよいかもしれません。

 もうひとつ、村久野町には「円空ゆかりのあじさい寺」と冠した琴聲山音楽寺があります。前身は「大乗院」といい、元暦元(1184)年の開基ですが、堂宇再建に伴う発掘調査で、境内周辺から奈良時代末期から平安時代初期にかけての布目瓦や軒丸瓦、筒瓦、風招などが出土しており、それよりもさらに遡る前身寺院の存在を裏付けています。また、「濃国」という字が確認できる文字瓦も発見されており、これは「美濃国」を指すもので、村国氏が建立にかかわった可能性を示唆しているように思われます。

 この村久野は村国氏の本拠地各務原とは木曽川を挟んだ対岸に位置し、村国氏が戦功で得た力をもって新たに賜った領地に寺院を建立したと考えるのが妥当ではないかと思うのです。

 次回は、その美濃国各務原の男依ゆかりの伝承地をみていきたいと思います。

(※ちなみに、地元の作家・倉橋寛氏が『赤き奔河の如く』というタイトルの小説で、男依を主人公に壬申の乱を描いています。機会があれば読んでみてください。)




























美濃・尾張の古代史さんぽ 2

yukaさん

(15.12.11.発行 Vol.230に掲載)


 前回は、愛知県江南市の村久野町に、壬申の乱の立役者「村国男依」に ゆかりの寺社があることを紹介しました。今回は、男依の出身地とされる美濃国各務原についてみていきたいと思います。

 現在の岐阜県各務原市は、周辺地域の人以外にはなかなか読みづらい地名ですが、正式には「かかみがはら」と読みます。ところが、地元周辺では「かがみはら」でも通称として通っており、名鉄の駅名は「かかみがはら」、JRでは「かがみがはら」、さらに県立各務原高校は「かかみはら」等、複雑な呼称をもつ都市なのです。

 地名の由来は、この地に鏡作部がいたことによるというのが定説となっています。古代には金属とともに鏡の一大産地でもありました。

 その各務原に、村国男依が祀られている神社が2つあります。

 ひとつは、各務原市鵜沼にある村国真墨田神社で、村国氏が美濃国一宮である南宮大社の主神「金山彦命」と、尾張国一宮の真清田神社の主神「天火明命」を合祀し、後に村国男依を合祀しています。金山彦命は、鉱山や金属業の神で、南宮大社は全国の金属業の総本宮とされています。名古屋の中心部金山にある金山神社は、その金山彦命を勧請した分社です。

 もうひとつは、各務原市各務おがせ町に鎮座する村国神社です。村国氏の祖が天火明命と御子石凝老命を祭神として創建したという由緒をもちます。後に、男依も孫の嶋主により祭神として祀られます。近くに、椋の大木を神木とした、男依のものと伝わる墓があります。境内には明治10年ごろに建設された農村歌舞伎舞台「村国座」があり、国の重要有形民俗文化財に指定されています。裏山には、村国古墳公園と称する古墳群があります。

 村国男依やその一族について詳しいことは定かではないものの、2つの神社の類似した由緒から、美濃の地方豪族であった村国氏が、壬申の乱で功を挙げて中央から引き立てられるきっかけを作った男依を祭神として崇めたことが窺えます。子の志我麻呂は功田を与えられ、孫の嶋主は藤原仲麻呂に仕えましたが、嶋主は仲麻呂の起こした乱(いわゆる恵美押勝の乱)に伴い、固関使に殺害されています。後に朝廷から無実が認められるものの、それ以後村国氏は衰退していくようです。

 こうしてみていくと、前回みた村久野の男依伝承は本拠地各務原に比べて基盤が弱いことは否めませんが、音楽寺出土瓦に記された「濃国」の文字が美濃とのつながりを窺わせ、このような寺院を当地に建立できる力をもっていたのはやはり村国氏しかないような気がしてなりません。

 ちなみに、村久野町のすぐ北に「小杁(おいり)町」という地名があります。「村国男依」は「小依」とも記され(『続日本紀』)、字も音も似ていますが、これも何か関連があるのでは・・・というのは考えすぎでしょうか。

 地方に伝わる伝承なので確証はありませんが、江南市では男依ゆかりの地としてPRし、町おこしに取り組んでいます。そのうち「およりくん」なんてゆるキャラが誕生するかも(笑)

 古代史上最大の内乱ともいえる壬申の乱にまつわる史跡が、江南・各務原など近隣の地域にあることは意外でしたが、地元を歩きながら遠い飛鳥時代に想いをはせるのもまた楽しいかもしれません。


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