栢森から小峠取付きへ
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芋峠越え雑感 miyauchi さん
芋峠から宮滝に行きませんか? 両槻会スタッフさんからお誘いを受けた時から楽しみにしていた芋峠越え、前日の天気予報も当日朝も小雨だ。憂鬱な気持ちで集合場所へ向かう途中「何回も行っている飛鳥だけど雨の飛鳥を見たことが有ったかな?雨降りの飛鳥も面白いぞ」そう思うと気分爽快、予定の一つ前の電車に飛び乗った。 飛鳥駅に降り高松塚古墳方面を見ると何時も見ていた風景も何か新鮮に見えてくる、木々も山並みも雨で綺麗に洗い落され紅葉も鮮やかに見えてくる、今日も楽しい一日が過ごせそうだ。
稲淵の男綱を通り過ぎ県道を歩く、何故車道を歩くのかなと疑問が湧いた、その疑問も5分も経たない内にこの計画を立案し事前に歩かれたスタッフさんの飛鳥全てを熟知された知識、地理感と参加者に対する温かさを感じた。何時も生活道を通って栢森に行っている、南淵請安墓は登るか下から見揚げるだけだった風景が墓,丘陵全体を見渡せる絶好な場所を歩くように企画されていた。同じ風景を見ても違った風景に見える、又飛鳥の好きな場所が一つ増えた。
小峠入口で以前一人で宮滝まで歩いた悪い思い出が頭の中を駆け巡る、だけど今回は違う経験豊かなスタッフさんがいる、道に迷う事は無い、安心して付いて行くだけだ、雨も気にならない程度に回復してきた。役行者像を通過又山道に入る、昔この芋峠越えは吉野と飛鳥を結ぶ重要な街道で人の往来も多かった。その面影を残した茶屋跡を通り芋峠頂上に到着。案内板を見て竜在峠まで行って引返した悪夢が又頭の中を駆け巡った。同行者一同はこの標識を見て歩くと間違って行くだろうと同情の声も上がったが、良く考えると誰のせいでもない自分自身が悪いのだ、初めての山道を下準備もせず地図も持たずに歩く馬鹿が悪いのだ。山道、悪路を歩く度に昔の人々は丈夫な足裏と健脚の持ち主だったと感心する。
王子に仕え隠棲時芋峠越えに参加した下っ端舎人の独り言
「もう少しで安心できる吉野宮滝宮だ、急がなければ近江軍の追っ手が来る急げ急げ、上の奴らは簡単に激を飛ばすけど俺はそんな状態では無い、昨日は宇治橋で重臣の蘇我赤兄達らに見送られ飛鳥嶋宮までの18里、重い荷物を背負わされて急げ急げの強行軍、王子は虎に翼を着けてはなすようなものだと記録されるが隠棲逃亡旅、王子らは翼の代わりに馬や輿に乗り飛鳥嶋宮に到着している。昨夜はゆっくり休めると思ったが今回も運が悪かった、夜警の当番に中った!。少しの仮眠しか取れずにこの峠越え、雪も降り足元も悪い、草鞋も足袋もビチャビチャに濡れ破れ霜焼け皸まみれの足は凍傷一歩手前だ。ほんの一時で良い暖を取らしてくれ悲痛の願いも届かず急げ、急げと激だけが木霊する。後世の奴らは俺達がこの様な苦労、苦しみ、そして命を賭けてまで王子達を守りとうして吉野宮滝宮に行ったことを記録してくれるかな?多分俺達下っ端舎人の事など記録等に残る筈がない。」
宮滝 柴橋より西(夢のわだ) |
<芋峠―宮滝> ウオーク雑感 ウオークマンさん
2009年12月5日。(午前中、雨。午後、回復。) 参加者、全員完歩。q(^ ^)p
先ず、全行程19キロのウオークを準備・ガイド願った、風人さんに感謝します。
“宮滝”は前々から訪れたい場所であった。理由は;天武・持統・聖武以下、多くの天皇・皇族が足繁く通った“宮滝”は当然,“すごい”場所であろう?との期待・予想をしていた為である。
芋峠を越え、19キロを歩いて到着した“宮滝”の第一印象は、ぶっちゃけ、“え!ナニ?こんな程度のもの?”であった。
“寝覚めの床“”天竜川“ の方がはるかに迫力ある景観と水量・水質を有しているし、迫力なら、那智滝や まして、イグアス滝・ナイアガラ滝には到底、太刀打ち出来ないであろうし。 天武朝の天皇・皇族がこの程度の場所に、長い時間をかけ、多くの労力・多額の経費を費やして訪問した事に違和感・疑問を感じた。
帰宅後、改めて、“何故<宮滝>が重要視されたのか?”を考えてみた。その結果、小生の単純な<誤り>に気づき、一人赤面した次第である。
<誤り>は; “現在の視点や情報を元に過去の事象を判断した”事であった。
7世紀の飛鳥宮・藤原宮時代に“宮滝”が選ばれた理由を改めて調べてみた。
理由1:飛鳥に近い“景勝地”であった事。
天武・持統、後の元明・元正・聖武等天武系各天皇の時代、彼らの行動範囲は主に畿内であり、東海・紀南・山陰等への行幸が普段の事ではなかったであろうと推察する。従って、“寝覚めの床“や”那智滝“ は往訪対象にはなり得なかったのであろう。(存在は知っていたとは思うが。)“景勝地=遊山の地”である事は、聖武天皇の頃に歌われている通りである。
理由2:天皇家にとって“聖なる場所”であった事。
宮滝の上流に“丹生川上神社(中社)”があるが、この場所が、“神武東征”説話では、神武の大和侵攻に於いて重要な儀式が行なわれた“聖なる場所”であったとされる。
書紀によれば、応神天皇も19年冬10月、吉野へ入っている。この聖地を訪れたのであろう。 景勝地である宮滝(吉野宮)は聖地参拝の為の“宿営地”だったのであろう。
<壬申の乱>に際し、大海皇子が宮滝に籠り蜂起の機会を窺い、又、乱に勝利した後(天武8年)諸皇子を集めて、“吉野の誓盟”を行なわせたのも、この地(吉野)が天皇一族にとって“聖なる場所”“出自に関わる地”と認識されていたのであろう。天武造営の、“丹生川上神社(中社)”が<大和神社>と関連があるとの事。興味深い。
理由3:宮滝淵 が神秘的であった事
当初、宮滝は“宿営地”の役割を果したが、後にはそれ以上の役割を果したのであろう。
丹生川上神社の近くに<夢淵>があり、神武説話にも出てくる。 宮滝の淵も<夢淵>同様に“聖なる場所”として意識されたのであろう。 斎明天皇が行幸した記録もあるが、神社以外に宮滝でも何らかの儀礼(例;雨乞い)を行なったのであろう。
理由4:特に天武朝にとっては“所縁の地”
天武の後を継いだ持統女帝(及び天武系皇族)にとって、天武の威光は重要な意味があった。宮滝行幸が頻りと為されたのは、群臣に“天武との繋がり”をアピールする為であったと考える。この時点では、神社より、宮滝(=吉野宮)の方が重要視されたのではないかと考える。当然、宮滝淵での“水乞い”等の儀式も為されたであろう。
平安時代になり、宮滝巡幸が廃れ、“熊野詣”がこれに代わった。熊野詣の開始がいつ頃かは定かでないが、日本三代実録(901年)には熊野の記述がありこの頃であろう。もはや“天武”は、Key
Wordではない。後白河上皇(34回行幸)や他の上皇・皇族が“蟻の如く”詣でたのである。熊野が“浄土”であろうと思われた事と、“適当な旅行日程”・“物見遊山の場所がある”事が、人気の原因であったであろう。
宮滝 柴橋より東
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旧道芋峠越宮滝行 ぷーままさん
芋峠越えは今回で4年連続です。が3回目の昨年9月は雨で車道を役行者像前まで歩いたのですが強雨になり芋峠越えは中止、残念な思いをしました。
歴史に疎い私は壬申の乱?持統天皇行幸?何も知らなくて、ただ知らない峠道だから歩きたいの思いで歩いたのが最初で3年前の12月でした。大名持神社から車道をバスで芋峠入口まで、芋峠、小峠と歩きました。ただ前の人に遅れないようにと付いて歩くのが精一杯で、一人参加で黙々と歩いてすごーく疲れました。それでも1年過ぎるとまた歩いてみたいと思いました。
2回目は石舞台から小峠、芋峠、谷筋の林道、大和上市駅までを歩きました。前回より距離が延びたのに知人と一緒だったので疲れもなく楽しかったです。
4回目は両槻会特別会で芋峠越え、石舞台から宮滝まで16Km。大名持神社から宮滝までの4Kmを歩けるかな、谷筋の林道は嫌だなと思いながら申し込み。参加の皆さんは歴史通の方ばかりなので、事前勉強しなくてはと咲読を読んでも覚えられず当日になってしまいました。
雨の中を歩き始めて1時間程で小峠入口、今日一番の急な上りも雨が上がり25分で小峠頂上、10分で役行者像前、20分で芋峠頂上、谷筋の林道は倒木を潜ったり跨いだりと2回目に歩いた時より荒れており、1時間で千股河川公園、45分で大名持神社、1時間で宮滝到着。昼食、休憩を入れて5時間30分で完歩できました。全員踏破嬉しいです。
お仲間と一緒におしゃべりしながら歩くのが楽しいです。今回の峠越えは事前によーく歩いていましたので、今までで一番楽に歩けたと思います。歩くことも毎日の積み重ねで元気になれるんですね!歴史の勉強も積み重ねガンバリます!
吉野町千股 せせらぎ公園・観音堂付近 |
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