稲渕集落と山
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芋峠越え宮滝行き(郷愁の旅となる) 坂井 春樹さん
「芋峠越え宮滝行き」を事務局の方からお聞きした時、行きたいと思いました。大海人皇子の吉野への道は、天皇の許しを得たと言え、逃避行のようなものである。鵜野讃良皇女、草壁皇子、忍壁皇子と若干の女官数十人の舎人が同行したが、十市皇女、高市皇子、大津皇子は人質のようなもので大津京に残こされた。彼らと同じルートを行くことにより、同じ山・川・風に触れ、彼らの複雑な心境を少しでも分かるだろうと思いました。
み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける
その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し
その山道を
そして、私は吉野町志賀出身ですので、私達の一行は、千叉・志賀・立野・宮滝のコースを行くと思っていました。しかし志賀は通らず上市へ行きました、でも中学時代の友人を思い出し楽しく歩くことが出来ました。色々と参加者のお一人に話しました。とても聞き上手でついつい調子に乗りすぎ、迷惑だったように思います。御免なさい。
今回は志賀を通らなかったので、壬申の乱ゆかりの伝説を残す「金福寺」について勉強しました。この寺は、私、小さい時に村の友人とよく遊んだ所で、懐かしく思い興味が有りました。明治時代に、当時の村長が書き残した寺伝では「鷹塚山大海院金福寺」と言い、681年創建と、記してあるそうです。乱の時、大海人皇子が大友皇子に追われてこの寺へ逃げ込みました。庵の老女が大海人をかくまったのでした。その時大友皇子は鷹を連れていましたので、大海人を見失った鷹を責め、殺してしまいました。老女は大海人を助け、鷹の遺骸を葬った。乱に勝利した後、大海人はこの老女を訪ねたが、庵は跡形も無かった。老女は地蔵菩薩の化身であったと言う。と言った内容の話だった。現在は本堂には「天武天皇勅願所」と墨書きした板がある。叉「大海院」と書かれた扁額がある。大海院は大海人皇子、「鷹塚」はエピーソードの鷹の墓を意味するのではないでしょうか。大字の「志賀」は近江大津宮のある「滋賀」とつながっているような気がして興味深い。
旅の終わりは「宮滝遺跡」です。柴橋のたもとから吉野川上流を眺める。切り立った岩のあいだを清流がしぶきをあげて流れている。
見れど飽かぬ吉野の河の常滑の 絶ゆることなくまた帰り見む 柿本人麿
わが行きは久にはあらじ夢のわだ 瀬にはならずて淵にあらぬかも 大伴旅人
「参考文献」 大竹初彦「壬申の乱」 倉本一宏「壬申の乱を歩く」
栢森集落 |
思いつつぞこしこの山道を ー芋峠から宮滝へー らいちさん
いわゆる壬申の乱を歩くこのコースは、ずっと前から歩いてみたいと思っていた道です。地図でだいたいのルートはわかっていましたが、ひとりで歩くのはちょっと…というコースです。栢ノ森から芋峠は高取山へのルートを何度か歩いていますが、芋峠から千股へ降りる沢沿いの古道が未踏で、千股から宮滝までは普通に車で走ってる道ですが、歩くとなると私の嫌いなだらだら長いアスファルト道なので、ちょっとひとりで歩く気にはなれなかったのです。今回は両槻会の企画で、嶋宮跡の石舞台前から宮滝までを通して歩くというイベントがあり、やっとあこがれの道を歩くことができました。
12月5日は旧暦の10月19日にあたるそうで、この日は大海皇子が近江宮から、兄の天智天皇に自分は「出家して坊さんになるから皇位はつがないよー」と言って、さっさと僧形になって吉野へと向かったとされる日なのです。日本書紀によると、虎に翼をつけて放つようなものだと言った人もいたとか…。そして、天智天皇崩御のあとは大友皇子に対し反旗をひるがえすと、一気に古代史上最大のクーデターといわれる壬申の乱とあいなります。
というわけで、12月5日という日に、芋峠越えの(たぶん)大海皇子が歩いたのと同じ道を歩こうという、たいへんスペシャルな企画だったのです。実際には、一行は10月19日の夕に嶋宮に到着し、翌日吉野へ向かったということなので、芋峠越えの道を歩いたのは正確には10月20日、私たちの方が大海皇子より1日早いことになります。
さてさて、当日は残念ながらの雨予報でしたが、両槻会はいつも雨天決行です。出発地の石舞台へ10時過ぎには参加者全員が揃い、雨具着用しての出発となりました!稲渕の棚田を眺め、勧進橋から栢ノ森の集落へと進みます。宇須多岐比売命神社の下では、飛鳥川の渓谷を覆う残り紅葉が目を楽しませてくれました。栢ノ森の集落に入り、加夜奈留美神社で小休憩。棚田では山羊さんが草むしりのお手伝いをしてました。このあたりは奥飛鳥と呼ばれる本当にのどかな所です。しばらく歩くと古道芋峠の登山口があります。
ここから小峠までがこの日1番の急登です。最初はコンクリート舗装の道ですが途中から細い山道に変わります。小さなお地蔵さまが点在していて気を紛らわしてくれました。小峠のピークには、ここからかつて高取城が見えたという案内板がありました。今は樹木が茂って、高取山は見えません。小峠からはせっかく登った道を下ります。いったん車道に出たところが行者辻。役行者さまに挨拶したら、再び古道に入ってまた登りです、途中に昔の茶屋跡や神社跡がありました。しばらく歩くと、芋峠・竜在峠への案内板がありますが、そちらには行かずに車道の方に下ります。いったん車道へ出て吉野方面へ少し歩いたら、時空さんの案内板があります。雨でぬかるんでたら、車道をそのまま千股まで歩こうという予定でしたが、見てみるとそれほど荒れてなさそうだったので、川沿いの道を下りていくことになりました。車道を歩くより2q短いそうです。途中、倒木なんかもありましたが無事に千股に到着しました。
広々とした砂防公園には東屋もトイレも完備されてます。ここでお昼休憩、お腹がいっぱいになったところで、いよいよ、上市から宮滝を目指します。伊勢街道沿いの古びた旅籠なんかが並ぶ道を通って、国道169号線に出ました。山行きにいつも利用している河原屋西のコンビニが見えたときは、おお〜こんな所まで歩いて来ちゃった…と感激しました。コンビニの裏にある大名持神社で小休憩。
後は橋を渡って、吉野川沿いをてくてくと宮滝まで歩きます。水量が少なくて初めての人はちょっとがっかりしたかも知れませんが、巨岩奇岩で覆われた美しい渓谷です。そして、この日の目的地である宮滝の吉野宮があったとされる場所に到着しました。
歩く前はとんでもなく遠いところまで歩いて行くというイメージでしたが、実際歩いてみると、思ってたより近いという感じでした。でも、ひとりではとても歩いてみようという気にならないコースですので、こういう企画があるのは大変ありがたいです。
一緒に歩いた皆さま、両槻会の皆さま、ありがとうございました。
行者辻から芋峠への登り
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芋峠を越える yuka さん
大海人皇子が近江大津京を発って飛鳥嶋宮へ到着したのは、天智10(671)年10月19日。翌20日にかけて吉野入りしています。
実際にどのルートを通って吉野へ向かったかは不詳ですが、芋峠を越えて行ったという説が最も有力視されているようです。
旧暦の19日にあたる12月5日、1338年の時を経てその行程を追体験してきました。
かつての嶋宮・石舞台公園からスタートし、稲淵〜女綱を経て栢森へ向かいました。集落の東方に山へ入っていく道があり、「小峠・芋峠道」と書かれた解説板があります。そこから小峠を目指し、いざ山中へ。
しかし…のっけから険しい山道!延々とこれが続くわけ!?と、少々引き気味になりつつひたすら登る…雨でぬかるんでいる上、小枝もたくさん落ちていて、歩きにくいったらありゃしない(笑)。
「きっと、讃良さまたちもこの道のりをいろんな恐怖と闘いつつ越えたのね!しかも、雪の中を馬に乗っていただろうから余計に怖いだろうし、自分で歩いていない分、寒さもハンパじゃなかっただろうなぁ」と妄想は膨らみます。でも、『天上の虹』の讃良さまのように、「きっとこの先はいいことばかりよね♪」と言いながら笑うなんて、この時の私にはとてもじゃないけどできませんでした。
…などと妄想する余裕がまだあるうちに、小峠頂上に到達。
しばらく休憩した後10分ほど下っていくと、舗装道路に出ました。ここに役行者像が祀ってあります。
役小角に所縁があるのかな、と思ったのですが、和田萃先生のコラム記事に拠れば、明治時代に道路の竣工記念に作られたものだということでした。
こんな山奥なのに、ちゃんと供物や供花まであって、篤く信仰されていることが窺えます。
芋峠頂上を目指し、再び20分ほど山道を登っていきました。道筋にある茶屋跡や芋峠神社跡が、かつての賑やかな往来を偲ばせてくれます。
旧芋峠頂上は、県道を通す際に削られてしまい、現在は残っていません。山道から下りてきたところで、霧がかかった県道の上空に幻の芋峠を想像してみました。
この先の千股までは、再び山道を辿ることになります。
…が、その道がまた恐ろしい!まるで谷底に吸い込まれていくかと思うほどの急斜面を、怖々と降りていきました。
ここからしばらくは、足場に気を取られて必死だったため記憶が飛んでいます(笑)。
ふと我に返ると、今度はあちこちに倒木があって、跨いだり潜ったりの連続。一人だったら絶対「道を間違えた!」と思ってしまうだろう程の、道とは思えないルート…。
そんな山道をようやく抜けて、せせらぎ公園で昼食休憩。
その後、宮滝に向けて進むにつれ、周囲の風景も、吉野に来たな〜という風情が濃くなってきました。
山々がいくつも重なって霧がかかり、神聖な雰囲気。
吉野川沿いの国道に出ると日が射してきて、本格的に天気も回復。大名持神社へは、国道北側の街道筋を歩いていきました。
車がびゅんびゅん行き交う道沿いに、大名持神社は鎮座しています。
大和では春日大社に次いで高い格式が与えられていたようです。創建年代は不明だそうですが、当時からあったのだとすれば、大海人皇子一行もここに参拝したのでしょうか。
ここでふと疑問が湧いてきました。
大海人一行は、吉野入りする前に、この西にある比蘇寺(現世尊寺)に入ったとも聞きます。しかし、我々が通ってきたルートでは、比蘇寺へ行くには途中で宮滝とは反対方向へ進路を取らなければなりません。それでも遠回りして行ったのか。だとすれば、それだけ重要な意味を比蘇寺は持っていたのか。それとも、芋峠から寺へ通じる近道があったのか。芋峠ではなく、別のコースで吉野を目指したのか。そもそも、比蘇寺に入寺したというのは、単なる伝説なのか…。
小さな疑問を抱えつつ、かつて禊が行われたという潮生淵を見て吉野川を渡り、ひたすら東へてくてく…この道のりがまた長い!
ですが、次第に川の色がエメラルドグリーンに変化していくのを見て、ゴールが近づいているのが感じられました。そして「夢のわだ」を経て、宮滝展望台に到着!!
険しい峠をはるばる越えてきた疲れも、自然美が成す神々しい景色に癒されていくようでした。
下ツ道の時もそうでしたが、記録や空間が残されているおかげで、1000年以上も前に生きた人々が通った道を今でも歩くことができるのはありがたいなぁ、と思います。
次はどの道を追体験しようかな…。 (終)
芋峠から千股への谷に下りる道 |
「吉野めざして」 sachi さん
芋峠越えのウォーキング。今回のテーマは、壬申の乱で大海人皇子が通ったかもしれないルートを実際に歩く、というものでしたが、私にとっては、南北朝時代に高師直の軍勢が吉野攻めの際に通った進路ではないか、ということで、実は飛鳥的テーマとはかけ離れたところで、とても楽しみにしていました(苦笑)。
にもかかわらず、当日の天気予報は雨。直前から当日まで、ほんとにヤキモキしました。
幸いにも、歩き始めてしばらくすると雨が止み、午後からは青空も見えて、最後まで無事に踏破することができて嬉しかったです。
始めは雨の中だったので、歩いていてもやはりテンションが今ひとつでしたけど、それでも山道に入る頃にはすっかり止んでいて、気分的に全然違いますね。道もさほどぬかるんではいなかったですし、落ち葉も積もってふかふかしてたので、思ったよりは歩くのに苦労はしませんでした。
でも、登りはさすがにキツくて、かなり息切れ(汗)。歩き慣れていらっしゃる皆さまのスピードについていくのがやっとでした。さすが鍛え方が違いますね〜。
この道を、飛鳥当時は大海人皇子たちが、そして南北朝時代には高師直たちが通って行ったかもしれないんですね。大海人たちの一行は女性や子供もいましたし、師直の軍勢は胴丸を着てわらじを履いた足軽が大半のはず。昔の人たちって、タフだなぁとしみじみ思ったりして(笑)。
高師直は、四条畷で楠木正行の軍勢を破ったあと、その勢いをもって吉野へ押し寄せますが、その際どのルートを使ったのかと考えると、なかなか面白いです。
金剛山麓では、東条城に立てこもっている楠木正儀がいましたし、葛城山周辺も南朝方の豪族が多く、高取周辺は南朝方の越智氏の勢力下。三輪山近辺にも南朝方の武士がいて、多武峰も南朝側。そう思って地図を眺めると、通れる場所って限られてしまうんですね。生駒山の南から奈良盆地に入り、北朝寄りの興福寺勢力圏内である飛鳥から直接吉野へ抜ける方法が、一番妨害が少ないと考えられます。そうすると、芋峠が条件にぴったりはまるルートにあたります。
そんな風に考えつつ歩くのは、南北朝ファンとしてもとっても楽しかったです。
峠を越えて吉野へ抜けたあと、昼食休憩を取ってから向かったのは、宮滝。
古代史的にはとっても重要な場所とのことですが、私はその辺りは詳しくないので(苦笑)、とにかく景色の見事さに癒されました。その頃にはお天気も良くなってましたし、まだ色づきの残る山が照り映えて、とっても綺麗でした。展望台から見下ろした淵も、深い緑色ですごく印象的でしたね。
残念だったのは、宮滝のいろんな資料を展示しているはずの資料館が、冬期休館でお休みだったこと。飛鳥時代だけでなく中世の頃の情報なんかも仕入れられるかも?と期待してたんですけど。また機会があれば、ぜひ行ってみたいです。
芋峠道 |
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