飛鳥咲読
特別回
旧道芋峠越宮滝行
Vol.67(09.11.27.発行)に掲載
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「風人と芋峠」
山田先生のきっちりした咲読から一転して、今回は、風人が特別回「旧道芋峠越え宮滝行の咲読」を書かせていただきます。思い入れだけの記事ですので、どうぞ寝っ転がってお気楽にお読みください。って、寝転がって読むのは、ネットの場合かえって難しいですかね。(^^ゞ
歩いて初めて分かることもあるはず。そう思って最初に芋峠を越えたのは、2002年5月であったように記憶しています。
風人と芋峠の出合いは、それから20数年前に読んだ黒岩重吾氏の小説「天の川の太陽」にまで遡ります。まだ、歴史好きとは言えない頃でしたが、その物語にどっぷり浸かり、今尚その影響を受けているところもあります。人名・地名などは、全てこの小説で覚えたと言って過言ではありません。その後、歴史に興味を持ち、芋峠の存在を改めて認識した日、いつか越えてみたいと思っていたのですが、山道を一人で踏破することが躊躇いを生んでいました。
何がきっかけとなったのかは今となっては忘れてしまいましたが、単独で行ってみることを決めたようです。最初に越えた頃には、旧道は整備されておらず、倒木や崩れた路肩に難渋したものでした。(現在は、整備が進み格段に歩きやすくなっていますが、10月の下見行では大雨の影響もあり、荒れた所もありました。)結局その初回では宮滝までは行けず、上市駅までたどり着くのがやっとでした。芋峠越えの経験は、今回の企画で6回目になると思います。この他に、芋峠を高取城址や竜在峠からのウォーキング途中に通過することは頻繁にあり、その折にも必ず旧道を通るようにしています。
これほど歩いているのですが、歩いて分かることもある・・・、ぅ~む!未だに何が分かったのやら・・・。(笑)
参考:芋峠・宮滝行レポ(遊訪文庫)
では、若干ですが、壬申の乱をおさらいしてみます。
668年、近江大津宮において正式に即位した天智天皇を苦慮させる問題の一つとして、皇位継承が浮上してきます。天智天皇は10年(671)正月、皇太弟(大海人皇子・後の天武天皇)を差置いて、実子の大友皇子を太政大臣に就任させます。
その年の8月、天智天皇は病に倒れました。行く先に不安を抱く天智天皇は、10月17日大海人皇子を呼び、譲位の意を告げました。大海人皇子は、病と称してこれを辞退します。「皇位は皇后(倭姫王)に、皇太子は大友皇子に任せるべきものです。私は今日出家して、天皇のために祈ります。吉野に籠もって修行したい。」と告げました。
この一連の経緯には、いろいろの意味合いがあると思います。天智天皇が大海人皇子の真意を推量る意図もあったでしょうし、返答によっては即座に大海人皇子の命が失われることになっていたのかも知れません。あるいは実際に大海人皇子を皇位につかせ、後に大友皇子に譲位する確約を取るなどの妥協案があったのかも知れません。また、大海人皇子は天智天皇亡き後の再起の計画を既に持っていたのかも知れないとも思います。
すべては推測するしかないわけですが、書記の編纂が天武天皇の命によって始まっていることも考慮されるべき事実であるように思います。天武天皇の正統性の強調こそが、書記編纂の大きな課題の一つだったように風人は思っています。
天智10年(671)冬10月17日、譲位を辞した大海人皇子は、即日出家して僧形となり、武器を官司に納めます。19日には、病に伏した天智天皇の近江大津宮を去りました。左右の大臣など近江朝廷の人々が宇治まで見送っていますが、中には「虎に翼を着けて放すようなものだ」と言う人もあったと書記は伝えています。
大海人皇子に付き従ったのは、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)・草壁皇子・忍壁皇子と近親に仕える舎人・女孺(めのわらわ)達だけであったと伝えられています。総勢50人ばかりであったのでしょうか。
大海人皇子の一行は、当日夕には嶋宮(明日香村島庄)に着いています。2点間の距離は、おおよそ65~70キロくらいだと思われますので、移動には馬を使っているものと推測されます。翌20日には、吉野に到着していますが、この間の行程に関しては、書記は何も伝えてはいません。
万葉集に天武天皇の御製歌とされる歌があります。
『み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ 雪は降りける 間無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごと 隈もおちず 思ひつつぞ来し その山道を』 万葉集 巻1-25
この歌は、実際にはいつ誰が詠んだものかは確証がないそうですが、天武天皇(大海人皇子)が壬申の乱の序曲となる宮滝行における峠越えの心境を詠んだものだとされています。
彼等は、どのようにして、どの峠を越えて行ったのでしょうか。
参考地図 |
飛鳥島庄から吉野宮滝への道は、竜在峠・芋峠・壺阪峠・芦原峠などを越える方法と、巨勢を迂回する車坂越えなどが考えられますが、芋峠越えはその最短ルートとなります。
近江朝廷からの追手があるかも知れない状況ですから、迂遠な巨勢ルートを通るとは思われません。また芦原・壺阪の両ルートも、さしてメリットがあるとも考えにくいように思います。一方、竜在峠は、冬野または入谷経由で高所に登ってからの南下となり、標高差が大きいなどの理由で、やはり芋峠ルートには劣るように思えます。風人がルートを選択するなら、やはり標高差はややあるものの、最短の芋峠越えを選ぶだろうと思います。芋峠越えで、おおよその行程は16~17km程度になります。
芋峠越えはたやすい行程ではなかったでしょう。ほとんどの者が徒歩による芋峠越えであったように思います。幼少の草壁皇子や忍壁皇子は、背負われて越えたのでしょうか。ウ野讃良皇女はどのようにして越えたのでしょうか。
そして、大海人皇子は何を考えながら吉野へと歩みを重ねたのでしょう。「思ひつつぞ来し」万葉歌のフレーズを噛みしめるように、特別回「芋峠越宮滝行」を歩いてみたいと思います。実行日12月5日は、旧暦10月19日にあたり、大海人皇子より僅かに1日早い行程となります。
当日の様子は、参加者レポート集・関連資料集をご覧下さい。
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