両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


Vol.001(07.12.7.発行)~ Vol.053(09.6.5.発行)に連載

季節で巡る太古の飛鳥


河内太古
季節を訪ねて~河内太古の写真館~



これまで撮り溜めた画像をもとに、
太古の好きな四季の飛鳥をご紹介していきたいと思います。
もちろん、最近の情報などもあわせて掲載します。
 太古の好きな、ひとりよがりの四季の飛鳥をご紹介していきたいと思います。


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【19】 「稲作のくらし」

 先日、大和郡山市矢田町にある「奈良県立民族博物館」に出かけてきました。常設展の「大和のくらし」をもう一度ゆっくりと見学してみたくなったからです。

 参考:奈良県立民族博物HP

 往古から稲作りが人々の暮らしの中心で、稲作りとともに1年があり、稲作りとともに一生があった、そんな人々の暮らしの足跡を、展示物を通して思い起こしたいという気になりました。

 稲作を中心とする農事に関わる用具や諸行事は、長く人々の暮らしの中に組み込まれ、今もあまり姿かたちを変えず使用され、守り伝えられているものもありますが、多くは急速な都市化と省力化の波の中で、伝統的な用具や生活様式も大きく変わり、祭事の簡略化、形式化が進んでいます。祭事も担い手となる後継者が少なくなり、継続そのものも危ぶまれるものも数多くあると思われます。

 生まれ育った環境にもよるでしょうが、おそらく昭和30年代までに幼少期にあった太古の年代は、まだ、展示物の用具や生活様式がわずかに記憶に残っていますし、一部には使用した体験もありますが、次第に記憶にない生活文化財としてしか見れない時代が来るのでしょうね。

 両槻会定例会での歓談で太古がよく「昭和30年代まではまだ江戸時代だった」と極端なことを言っては、奇異に感じられた方も多いかと思いますが、今振り返っての実感としては、自給自足の循環型社会がまだ少しは身近に機能して生きていたような気がするからです。

 明日香稲渕の棚田周遊路を歩いていると、棚田オーナーの年間活動計画が貼り出されています。そこには稲作を中心とする1年の暮らしの一端が書き記されていました。

 お正月明けの成人の日(来年は本来の11日)には、その年の五穀豊穣を祈願する農耕はじめの綱掛神事が執り行われ、4月のれんげ祭り、畦の草刈り、5月に入ると苗代作り、荒田起こしが続き、6月には田植えに向けての畦塗り、水が入るとマンガ(馬鍬)かけが行われ、このころには蛍の夕べも催され、オーナーの田植え(6月21日)が始まります。7月には中間の草刈りと棚田を見守るジャンボ案山子が立てられます(7月26日)。8月には盆踊りで、地元とオーナーのみなさんの交流が深められます。
 8月30日からは、案山子ロードに案山子立てが始まります。今年は両槻会もこの案山子立てに参加しようと計画しています。9月に入ると、彼岸花祭り、案山子祭り(9月20日)に備えて、一斉の草刈りが行われ、やがて整えられた棚田の畦を真っ赤な彼岸花が彩ります。
 そして、10月に入ると、いよいよ棚田は実りの時期を迎え、稲刈り(10月18日)、続いて11月には脱穀、籾すり、ススキづくりが行われ、1年の感謝の収穫祭で締め括られます。

 各地で行われている伝統の祭事も、ほとんどがこの暮らしを支える稲作りに関わる祈願や感謝祭ですね。ままならない自然への畏敬と豊穣への願いを神祀りというかたちに現すことで、共同体の繁栄と結束を深め、大いなるものを心の中に共に認めることで、人の奢りと乱れを戒めてきたものだと思われます。

 博物館の展示を見ながら、稲作りを通して営々として築きあげられて来た地域固有の生活文化を伝えてゆくには、有形、無形の民族文化財として指定されるものもありますが、地域が育んできたその本来の心を地域の人々によって長く語り継ぐことができる環境をいかに維持していくかが欠かせない要素ではないかと思われました。
                               (09.6.5.発行 Vol.53に掲載)



【18】 「新緑の頃の思い」

 音もなく空に舞い散る桜の花びらを眺めていると、そのひとときだけが時間を切り取られた異次元空間に身を置いているような気分を覚えたものです。

 その桜も葉桜となり、今は菜の花が去りゆく春を惜しむかのように稲淵の棚田や石舞台古墳の周辺、小原の田畑を染めています。気だるい春の夕が迫ると、黄色い菜の花が金色に輝き、夕風に煽られてさざ波立ち、音にならないシンフォニーが聞こえて来そうです。物憂げな春の黄昏には、忙しない浮世を暫し忘れさせ、酩酊に似た陶酔感を醸し出してくれるものがあります。

 飛鳥に通う近鉄電車の車窓から見える二上山の山容が好きで、新聞や本を読んでいても「二上神社口」辺りにさしかかると、決まって目が山麓に向いています。灰色と常緑の縞模様の中にピンクがぽつぽつと染みのように見えていた山衣が、いつの間にか一斉に芽吹き始めた木々の梢によって、淡い緑を刷毛でにじませた様な変化を見せていました。季節の推移とともに山容の衣替えが始まっています。やがて緑の濃淡のモザイク模様の鮮やかな初夏衣に包まれる二上山を仰ぎ見ることができそうです。

 飛鳥の山野も春から初夏へと衣替えの時期を迎えます。この頃になると、飛鳥寺から南西に広がる真神原や石神遺跡周辺の田んぼが蓮華の花に一面に彩られます。文武天皇陵の南側の田んぼの蓮華畑も変化の少ない天皇陵の景観に華やかさを添えてくれます。


石神遺跡周辺の蓮華畑

 蓮華は、田んぼに空中の窒素分を根粒に固定する効用があるため、蓮華畑はかってはどこでも見ることができましたが、農業の機械化や効率化で田んぼの蓮華風景は見ることも少なくなってしまいました。その限られた蓮華畑も、田植え時期が早まった影響もあって、花盛りの間に鋤き込まれてしまうケースが増えています。たんぼの肥料とするには鋤き込んで熟成させる必要があるためのようです。それでも花の盛りをできるだけ楽しんでもらえるようにと、ぎりぎりまで耕すのを待ってくれるたんぼがあるのも嬉しい配慮です。

 かってはありふれた蓮華畑でしたが、それも今では農家の方の季節の景観配慮がなければ見ることができなくなってしまいました。農地が次々と宅地や事業用地に転用され、日常の生活空間からは消えてしまって、自然とともにあった穏やかな暮らしは、もう遠い思い出の中にしかありません。太古が好んで飛鳥に、葛城に通うのも、その心象の原風景への焦がれがあるからだと思います。あたり前にあった季節に巡り合いたい、自然とともにある暮らしの中にたとえひとときでもこの身を置きたい。年を古るとともに、その思いが募っているようです。

 数百年の齢を重ねた老樹でも、季節に出会うと、再び枝いっぱいに艶やかな花衣を纏って蘇り、枯れ木のように見えていた枝先に柔らかな新緑を噴き出す姿を見ていると、その再生力と生命力のシャワーを浴びているような気分に浸れますが、同じこの地上に生きながらも、人や動物には叶わない樹木に与えられた特権に、ふと妬みすら覚えるこの春でした。(*^^)v
                               (09.4.17.発行 Vol.49に掲載)



【17】 「雛めぐり」

 古墳壁画で知られるキトラ古墳は、明日香村と高取町の町村界の阿武山に位置し、近鉄吉野線「壷阪山」駅から訪ねる方が「飛鳥」駅から歩くより早い気がします。現在の行政区画では、明日香村と高取町に線引きされ、キトラは明日香村域になっていますが、飛鳥という歴史的地域感覚で捉えれば、高取はいわば飛鳥の南口にあたります。明日香村だと思って訪ねた古墳や遺跡が、行政区域としては高取町に属していることを知らずに廻っている人も多いのではと思われます。飛鳥めぐりの重要な地域にあるにもかかわらず、明日香村域に比べると、来訪者の感覚からは遠い位置にあるのかもしれません。ひとつの要因には明日香村域のみが「飛鳥」だと捉えられていることにもあるような気がします。

 そんな現状を打開しようと、高取町ボランティアのみなさんが、行政に頼るのではなく地域のみなさんとともに、郷土の活性化に取り組んでいらっしゃいます。
 そんな取り組みの一つとして、2年前から土佐町の街道沿いの町家に残る雛を飾ることで、高取を訪ねる人をもてなし、地域のみなさんの一体感にもつなげようと「町家の雛めぐり」イヴェントを始められました。町家の雛飾りは、各地で行われていますが、高取・土佐町の雛めぐりは、なんと三月の1ヶ月間にもわたるロングラン・イヴェントであり、今年で3回目を迎えています。

 今年の参加町家は79カ所に及び、地域の人々の熱い思いが伝わるイヴェントとして、回を重ねるごとに賑わいを見せています。今年は、街道沿いの民家の前に数多くの菜の花のプランターが置かれ、雛飾りとともに春の息吹を訪れる人に伝えようとの意気込みが感じられました。


 1ヶ月にもわたって、雛を飾って来訪者を迎えるのは、各家にとっては相当な負担であろうと思われますが、家の中に仕舞われて飾ることも少なくなった雛人形を、あらためて座敷に飾り、訪ねる人と飾り雛にまつわる会話を交わすことで、それぞれの家族の歴史や思い出が蘇り、多くの共感を呼んでいるようです。「大変だけど、やって良かった」そんな地域の人々の思いが伝わって来るイヴェントになっています。

 この「町家の雛めぐり」が行われている土佐町は、全国屈指の山城で知られる高取城の旧城下町です。明治の廃藩置県により廃城となり、今は壮大だった山城の遺構を留める石垣だけが、往時のままに苔生して残されています。この城跡に「巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城」と記された歌碑が立っています。大和平野のどのあたりから詠われたものかは分かりませんが、巽(東南)の方向を眺めやると、高取山の山頂にまるで雪と見紛う白亜の天守が聳え立っていたのでしょう。その見事な城は土佐の城だと詠っています。苔生した石塁のみの城址に建てられたこの碑文は、往時の栄華と盛衰を忍ばせる見事な謡いとなって胸に迫るものがあります。

 高取が土佐と呼ばれた地名の由来は定かではありませんが、飛鳥京や藤原京の造営に携わった地方の人々が集まってそのまま当地に住み着いたことに由来するともされています。たしかに飛鳥周辺には「薩摩」や「飛騨」「吉備」といった旧国名の在所が点在していますから、京に上った人々が遥か故郷に思いを馳せながらも、さまざまな事情から帰国することなくこの大和に定住したのかもしれません。

 各家の雛飾りを辿りながらこの街道筋を歩いていると、菜の花が一筋の光のようになって春に向かって動いている気配を強く感じさせられました。

 この街道を下ると、飛鳥時代の謎の石造物の一つ「人頭石」を見ることができる「光栄寺」があり、人頭石の横のガラス障子越にも雛飾りが垣間見えました。また、街道筋の集落から少し離れた観覚寺には国宝曼荼羅で知られる「子嶋寺」に立ち寄ることができます。
 この子嶋寺から広く緩やかな道を上ると、明日香村阿武山のキトラ古墳の直ぐ傍に出ます。さらに檜隈寺跡・於美阿志神社の杜を抜け飛鳥駅まで、春や弥生の里路をのんびりと楽しく辿ることができました。
 「町家の雛めぐり」は、まだ始まったばかりです。この時期の飛鳥めぐりの延長で、土佐町までお出かけになるのもお薦めですね。
                               (09.3.6.発行 Vol.45に掲載)



【16】 「おんだ祭」

 年が改まり、お正月のお祝い気分も抜けると、田を起こし今年の農事の準備が始まります。
 この時期、各地の古社では豊穣を祈念する御田植神事が執り行われます。

 飛鳥坐神社の「おんだ祭」もそうした各地の御田植神事の一つですが、この神社のお祭りは、大和江包の「綱掛け祭」や尾張の「田県祭」と並び、奇祭として知られ、毎年2月第1日曜日(戦前までは旧正月11日)の厳寒の中で執り行われています。

 神社を訪ねたことがある方はご存じだと思いますが、飛鳥神奈備ともされる「鳥形山」に坐す神社の境内はそれほど広くはありません。小高い位置にある本殿と向き合うように間口4間奥行2間の狭い神楽殿があり、お祭はこの神楽殿で執り行われるため、観衆は本殿を背にしてわずかな空間に溢れ返ります。
 この神事をまともに見ようとすると、場所取りが決め手になりますので、神事が始まる何時間も前から寒さに震えながら立ち続ける覚悟が必要になります。太古も小雪の舞う中で数時間立ち尽くしたことがあり、祭が終わるころには体が凍え、足がしびれた経験があります。

 祭は午後2時10分前にスタートする神事に向けての行列から始まります。現在87代目となる飛鳥宮司が神官一人を従え、氏子総代など主催者役員に来賓を引率するように大字飛鳥の村道を神社に向けてゆっくりと練り歩きます。
 神職の後には、今日の神事の立役者である翁、天狗、四つ這いの牛男が続きます。
 この翁や天狗は片手にササラになった青竹を携え、行列沿道のだれかれなく尻を叩いて大暴れをします。この大暴れは祭行列が始まる前から行われていて、逃げ回る子供たちを追い回し、田んぼの中を駆け回って暴れまくります。尻を叩きまくり派手に暴れまわるほど、その年は豊作になると言い伝えられているようです。
 さらに、尻を青竹で叩かれた人には厄払いの効能があり、今年1年を無病息災で過ごせるということです。
 青竹を振り回す翁や天狗の所作に泣きおびえる幼児を、親御さんも笑いながら子供の尻叩きを迎えます。老若男女を問わず叩きまわる翁や天狗に、思い切り叩かれても感謝するという不思議なおまじないに、初めて参加した人も恐る恐る、まさに屁っ放り腰で尻を向けていました。

 大暴れはこれだけではなく、豊作を祈願する形通りの御田植神事の間に「田均し」「畝作り」「水口づくり」の所作を行う最中に、牛男が突然舞台の外にまで暴れ出したり、翁や天狗が青竹を振り回して追いかけるなどのユーモラスな所作が続きます。厳粛に神事を進める神職の神妙な顔つきとの対比が余計におかしみを増しているように見えます。

 宮司が床に籾種を撒いて「種付け」を行い、松の小枝を苗に見立てて田植の所作を行って、農耕神事が無事に終了します。この松の小枝は、天狗や翁によって参拝者に分け与えられます。この神事の小枝をいただいて田んぼの水口に祀ると、イネの害虫を防除し、豊作につながると古くから信仰されています。


おんだ祭

 さて、御田植神事が無事に終了すると、翁、天狗、牛男は一旦退場し、その間に奉納舞が披露されます。ここで引き上げる参拝者はほとんどいません。だれもが、この後に続く奇祭のゆえんを一目見ようと佇み続けます。
 奉納舞が終わるころに、社務所に引き上げていた翁が介添え役となって、新郎役の天狗と新婦役に女装したお多福を伴って現れます。このお多福を演じるのは村の若者だそうですが、いかに仮面をかぶっているとはいえ、そのなよなよとした所作は、酒でも飲んで酔っていなければやってられないと思われるほど情感が溢れています。天狗に寄り添うそのシナに若いカップルの参拝者も大喜びです。

 演者が舞台に戻ると、さっそく天狗とお多福の結婚式が始まります。この結婚式の場面で、お多福が「鼻つきめし」と呼ばれる所作を行います。今では行われなくなった古い結婚の習俗が祭の中に残されているようです。大盛りの飯椀がお多福の手で、神職二人の前に献じられます。さらに天狗が竹筒を自らの一物のよう振り回し「汁かけ」という所作を行います。実際はどのように行われていたのか遠くからでは分かりませんが、神職の前の「鼻つきめし」に振りかけているように見えました。この間も神職二人は神妙な顔つきを崩しません。

 結婚式が終わると、にわかに舞台に敷物が広げられ、お多福がその敷物の上に横たわり、天狗が上から乗りかかります。この間、介添え役の翁が半纏を広げて観衆の視野を遮ったり、二人の和合を手助けしたりの所作を繰り広げ、境内に笑いの輪が広がります。
 かなりリアルな夫婦和合の儀式が終わると、この和合の際に用いられた「拭く紙」が「福の紙」として参拝者に投げ渡されます。争うようにこの紙を求めて歓声が沸き上がります。この紙を拾って持ち帰ると子宝に恵まれるという効能があるようです。もちろん、太古にはいまさら縁のない代物ですが、この祭に意外に若いカップルが多いのもうなずける神事でした。

 最後に主催者や来賓の方々による2000個の餅まきが行われ、飛び交う餅を求めて狭い境内が歓声とどよめきに沸き返ります。わずかな石垣の端に陣取っていた女性が身を乗り出すように、宙に舞う餅に手をかざして大奮闘でした。落ちないかと見ていてひやひやものでしたが、首尾はどうだったんだろうと妙に気になりました。

 こうした古俗の祭事も、かっては広く行われていたのでしょうね。その後に俗を避け簡略化されることになったことで、今では「奇祭」と称されるようになりましたが、本来は、生成の霊力に対する原初的な信仰と人々の豊穣への切実な願いが込められ、祭という形でおおらかに伝えられてきたエネルギーを感じることができました。
 現代では、人は身にも心にも様々な衣をまとい過ぎてしまっているがゆえに、奇祭と矮小化されているような気がします。記録にも残されていないはるかな先祖からの伝承の神事が、これからの若い世代にどう受け継がれて行くのか、寒さと足のしびれを味わいながら、今年もおんだ祭を後にしました。

                               (09.2.6.発行 Vol.43に掲載)



【15】 「飛鳥のお正月行事」

 一度、除夜の鐘を飛鳥で迎えたいと思いながらも、地元のお寺や氏神さんの手伝いもあり、大晦日は家を空けにくいときだけに、未だに叶いません。親が元気だった若いころは、年末年始はほとんど家にいることはなく、旅先で除夜を迎えていました。雪深い白川郷の小さなお寺の除夜の鐘を撞きに、道明かりの灯された粉雪の舞う雪道を辿った思い出が今も鮮明に蘇ります。

 ここ数年、除夜は叶わぬものの、お正月には、飛鳥めぐりの年初めのご挨拶に飛鳥中心部の社寺を訪ね歩いています。日頃は、あの上り坂がえらいので、つい敬遠しがちな岡寺にも参拝。お正月の岡寺は無料参拝ができるうえに、大きな菰樽のお酒がふるまわれ、昼間から赤ら顔のおめでた気分で彷徨っていることになります。最近は飲酒運転防止の観点からお神酒が出なくなったところも多いようですね。

 さて、年が明けると、11日と12日には奥飛鳥の稲渕、栢森の勧請綱の掛け替えが執り行われます。飛鳥川から集落に遡って来る悪疫を封じ、無病息災と五穀豊穣、子孫繁栄を祈願する伝統の行事です。今年は、11日が日曜日になりますので、栢森集落の女綱掛けを訪ねる人も例年よりは多くなるのではと思われます。


2009年の女綱

 稲渕の男綱掛けは、催事を担う人手が少なくなり、最近は成人の日に執り行われていますので、男綱掛けを訪ねる人は年々増えているように思われます。
 昨年は両槻会の定例会ウォーキングでも、この男綱掛け神事を拝見することになりました。飛鳥川の両岸に架け渡される綱は全長70メートル、太さが5センチあり、かっては長さが100メートル、太さが倍の10センチもあったそうです。朝早くから逆さに縄を綯う作業が始められ、綯い終わった綱が勧請橋付近で両岸の木に張られるのは午後3時半ごろになります。神事は飛鳥坐神社の宮司によって執り行われ、祝詞奏上の後、神饌の米や酒が飛鳥川に投げ込まれ、竹串に刺された神饌のみかんは、神事が終わると各家に持ち帰られます。このお下がりみかんは集落の関係者だけでなく希望者にも分けていただけます。

 集落に古くから伝わる伝統の行事は、中断すると災厄を招くといわれ、この伝統行事も、集落の人々によって、年初め、農耕初めの行事として、いつの頃から始まったとも分からない遠い祖先の時代から、連綿と守り続けられているようです。ただ1年だけ途絶えたことがあり、その年は集落内に不幸が続いたと聞いたことがあります。

 小正月の15日の前日の14日には、飛鳥の各大字ではとんど焼きが行われます。このとんど焼きには何度か訪ねたことがあり、夜空を焦がす劫火には、魂を浄化されるような火の神聖さを感じさせられものがります。太古の地元では氏神の境内で日中に行われますので、火に対する敬虔さは、夜ほども感じることは少ないように思われます。暗くなって各地のとんど焼きが始まると、近隣の大字のとんどの火も暗闇の中に浮かび上がり、激しい火勢に青竹の弾ける音が聞こえてきそうで、まさに闇の中に火の競演を見るようです。

 火勢が衰えてゆくと、このとんど焼きの熾き火を小正月の小豆粥の火種として提灯に移して持ち帰る人々の姿が見受けられます。その提灯が、お正月の夜の里道に続くのを眺めていると、年の新たまりと、今も季節の移ろいとともにある人の営みを、今更のように思い起こされる飛鳥のお正月行事です。
                             (09.1.16.発行 Vol.41に掲載)



【14】 「飛鳥路この1年」

 いよいよ年の瀬。今年も飛鳥路を巡りながら伝統の行事や季節とのさまざまな出会いがありました。その折にふれ撮りためた画像をあらためて見ながら、この1年を振り返っています。昨年かと思っていた画像が今年のものだったり、今年の画像だと思っていたものがもう1年以上も前のものだったりと、1年という期間は変わらないのに、記憶の中の対象には、一瞬のときに感ずるものもあれば、ずいぶんと時を経た印象を抱くものもあります。若い頃の時は長く、熟年になるに連れ時は短いと思われがちですが、その年輪の対象への感性の差が時の長短につながるのかもしれません。未知にあふれていたものがいつの間にか未知ではなくなってゆき、対象へのときめきも動揺も薄れてゆくと、今日は昨日の延長でしかなく、今年も昨年の延長でしかなくなってゆきます。まだ春だと思っていたのにもう正月か、と起伏なく時が過ぎてゆく…。しかし、今の世相では、世代にかかわらず、こんな世過ぎは夢のまた夢かもしれませんね。

 太古のお正月の飛鳥は、両槻会の皆さんとまずは岡寺への参拝で始まりました。ここ数年はお正月の飛鳥社寺めぐりが恒例になりました。とくに信仰心があるわけではなく、今年1年もよろしくお願いしますというご挨拶のようなものです。14日には、稲渕の勧請お綱掛け神事を拝見して、夜は「飛鳥庵」で団欒しながら大字飛鳥の大とんどに参加させていただきました。
 そして、今年は大寒の日に、ついに待ちに待った飛鳥の雪景色を見ることができました。雪解けと駆けっこのように、飛鳥路をぐるっと周遊する機会に恵まれました。
 この大寒の積雪をはじめ、節分の「おんだ祭」にも雪景色となり、今年は飛鳥に例年になく雪が降り積もりました。とりわけ、真弓鑵子塚古墳の現地説明会の日の2月9日は、朝から大雪の降雪となり、説明会に駆けつけた大勢の考古学ファンが降り積む雪の中で黙々と行列を作ったシーンが蘇り、雪にすっぽりと埋まった真弓丘陵の彷徨とともに、鮮烈な印象で残っています。

 また、この2月には事務局長風人さんの案内で、天香具山のミステリーゾーンを訪ね歩く貴重な機会にも恵まれました。古事記の伝承を訪ねる香具山探検は、とても興味惹かれる体験でした。

 春三月になると、飛鳥路は梅が咲き、棚田には菜の花が黄色い花の川となって春の訪れを告げてくれます。稲渕の勧請橋のたもとには薄紅のコブシの花が枝いっぱいに花をつけ、架け替えられた男綱を寿いでいるかのように見えます。
 今年の春は、早春から西飛鳥や甘樫丘山麓をたびたび訪ね、爛漫の春を楽しむことができました。

 飛鳥が新緑に衣替えする頃になると、岡寺の石楠花がどこよりも早く見ごろを迎え、あの息切れするような坂道を汗ばみながら登り、門前の「坂乃茶屋」でのにゅう麺の味とともに、忘れられない季節の出会いとなって記憶に留まっています。
 飛鳥路がGWで賑わう頃には、両槻会の講演会を契機に、平安時代の殿上人が飛鳥を経由してたびたび訪ねたという神仙境「龍門寺跡」の探訪に出かけ、金堂跡を捜し求めて山中を駆けずり回った楽しいひと時が懐かしく思い起こされます。

 春が過ぎ、日増しに里山の緑が濃くなってゆきます。GWの賑わいも収まった頃には両槻会定例会で皆さんと一緒に奥飛鳥をめぐりました。あいにくの雨となりましたが、雨に拭われる緑の鮮やかさと煙るような奥飛鳥の山河が印象に残るウォーキングでした。

 そして梅雨期を迎える飛鳥。田んぼに水が張られると飛鳥路の景観は一変します。この田植え間近になると里山の斜面には「ささゆり」が清楚な花を咲かせます。花後、昨年は跡形もなくなっていたので、今年はもう見れなくなったかと諦めていたささゆりが、元の斜面で咲いているのを確認することができたのが喜びでした。自生しているのかどうかは分かりませんが、大切に見守ってほしい里山の花です。

 里の田植えが一段落すると、棚田オーナーの田植えが行われ、飛鳥路は早苗のそよぐ季節を迎えます。その早苗の生育とともに、秋のシーズンまで飛鳥路を訪ねる訪問者はめっきりと少なくなりますが、人影の稀となった盛夏の飛鳥路めぐりは酔狂とも思われるでしょうが、他の季節にない独り占めの飛鳥を楽しむことができます。ただ、暑いです。
 やがて、案山子ロードに棚田の稲の生育を見守るジャンボなシンボル案山子が設置され、秋の案山子ロードを彩る今年のテーマが明らかにされます。今年は飛鳥に関わる「昔話」がテーマで、ジャンボ案山子は「赤鬼と一寸法師」でした。
 さて、今年はどんな案山子がお目見えするのかを楽しみにしながら、入道雲の湧き立つ飛鳥を彷徨い続けているうちに、ススキの葉陰にいつの間にか秋の気配が忍び寄っています。万葉の「思い草」ナンバンギセルです。高松塚や石舞台付近のススキの根元に咲くこの花を見つけると、秋が近づいていることを感じることができます。盛夏から初秋にかけて咲くホテイアオイの大群落が見られる本薬師寺跡もこの時期のお決まりの訪ね先になりました。

 飛鳥路の秋は、名月と光の回廊で始まります。この恒例イヴェントから再び飛鳥に人が戻ってきます。野辺や田んぼの畦に彼岸花が咲き始め、棚田の稲も色づき始めます。そして、彼岸花祭りの頃になると、飛鳥中心部も棚田が見られる案山子ロードあたりも大勢のハイカーや車で終日賑わいを見せます。

 秋に両槻会定例会で訪ねる予定の天空の里「尾曽」から細川谷をめぐり、「稲渕」「栢森」「入谷」の奥飛鳥の山村を訪ねたのもこの頃でした。彼岸花からコスモスへ、里の秋はゆっくりと移ろってゆきます。藤原宮跡の一面のコスモスが風に揺れ、コスモス畑から雨上がりに霞む大和三山を眺めるのこの時期ならでは光景でした。

 棚田の稲刈りが終わる頃には、各地の紅葉の名所が盛りを迎え、飛鳥は訪れる人はやや少なくなります。盛夏にも足繁く通っていた太古もそのひとりですが、意外に飛鳥にも紅葉の隠れた名所があることに気づいたのも今年の晩秋の収穫でした。前回のメルマガでご紹介した橘寺の大銀杏のほかに、中尾山古墳の周辺や岡寺境内の紅葉も今年はじっくりと味わうことができました。団体客が押し寄せ紅葉見物で賑わう名所にはない飛鳥ならではの静かな紅葉風情がありました。

 そして師走。紅葉が見納めの頃になると、甘樫丘にはヒマラヤ桜が春と紛うばかりの花をつけます。地球温暖化が懸念される中で、この甘樫丘に植えられた桜は、炭酸ガスや窒素の同化作用に優れ、環境浄化に役立つ植栽のようです。花と葉が同時に出ることから一見山桜のようですが、花はソメイヨシノにも似た豪華さで、花蜜があふれるほどにつくためか、メジロたち小鳥をいっぱいにひきつけて、初冬の丘にこの木ばかりがひとり華やいでいました。


甘樫丘のヒマラヤ桜
                             (08.12.19.発行 Vol.38に掲載)



【13】 「紅葉時期の飛鳥」

 四季を通じて通い続ける飛鳥路ですが、振り返ってみると、紅葉が盛りの時期にはあまり足しげくは通っていないことに気づきました。大和路の紅葉の名所を訪ね歩いている時期に重なるからでしょうか。
 休日しか出歩けないこれまでのサラリーマン生活では、訪ねたいところがいくつもあり、限られた時間の中で、限られた季節にしか出会えない箇所の選択に、どうやら飛鳥は入っていませんでした。季節歩きに少し時間のゆとりができてみて、飛鳥の紅葉といえば…と自問してみるのですが、直ぐには思い当たりません。

 この時期のわずかな記憶の中で思い当たるのは、橘寺の銀杏でした。

 まだ少し早いかなと思いながらも立ち寄ってみると、鐘楼脇にある大銀杏がそろそろ見ごろを迎えつつありました。見上げるような大銀杏の金色の輝きにしばらく見とれていると、両槻会でお世話になっている寺執事の古賀野正空さんに出会いました。何やらお忙しそうにしておられたのですが、思いがけなく遭ったので、銀杏を見ながらしばらくお相手をしてくださいました。古賀野正空さんも紅葉が盛りの時期になると、やはり訪問者が少し減少するというお話でした。

 紅葉の名所はどこを訪ねてもその時期は大勢の訪問者で賑わいます。団体客と渋滞する車の行列に辟易するのですが、辟易する太古も大勢の一人であることに自嘲せざるを得ない季節です。

 紅葉は名所ばかりが愛でられ、多くの人を魅了するのも、その一人として頷けないわけではないのですが、深まり行く秋をじっくりと味わうには、名所を外したところにこそ興趣があるはずです。少しは時間にも心にもゆとりが持てるときを迎えた今こそ、絶えずどこかで探し求めていた原点の心象風景を訪ね歩きたい思いが募っています。

 その一つとして思い起こすのが、甘樫丘の西山麓です。この谷間はほとんど訪ねる人もなく、いくつもの道筋が丘の斜面に緩やかな曲線を描いて続いています。とくに晩秋の頃の氷雨に濡れる小径を歩くと、降り積もる落ち葉の音が聞こえてきそうなほど静かです。ときおり遠くに車の音や犬の鳴き声を耳にして、はじめてそこが直ぐ人里の近くであることに気づかされ、ほっと気分が和らぐような空間です。何度か訪ねていますが、いつも同じ道を歩いているはずなのに、いつの間にか思いがけない路を辿っていることもあり、方向音痴の太古ならではのお気に入りの散策路です。世間の紅葉盛りが過ぎ、季節の喧騒が落ち着いた頃には一度訪ねてみてはいかがでしょうか。

 日が落ちる、野は風が強く吹く、林は鳴る、武蔵野は暮れんとする、寒さが身に沁む、その時は路をいそぎたまえ、顧みて思わず新月が枯林の梢の横に寒い光を放っているのを見る。風が今にも梢から月を吹き落としそうである。突然また野に出る。君はその時、

  山は暮れ野は黄昏の薄かな

 の名句を思いだすだろう。
  (国木田独歩「武蔵野」)
                             (08.11.21.発行 Vol.36に掲載)



【12】 「細川谷の秋」

 玉藻橋で飛鳥川に合流する冬野川に沿った谷筋は細川谷と呼ばれ、下流から上居(じょうご)、細川、上(かむら)、尾曽の集落が展開し、のどかな里景色を見ることができます。この谷筋の斜面には200基ほどの古墳があると言われています。川の左右には優美な曲線を描く棚田が開け、折々の草花とともに、移りゆく棚田の四季を満喫できる冬野川沿いの里道です。
 とりわけ、早苗がそよぐ頃の棚田から眺める二上山の落日は、往古から少しも変わらぬ里山の日々の営みを想わせ、いつまでも去りがたい感懐を抱かせる景観です。

 昭和30年代までは、まだ自然とともにあった日々の暮らしは、貧しくともゆったりと時の流れる穏やかな時代でした。
 その後の昼夜なく活動し続ける社会が本当に豊かさを実現できているかどうかは疑問です。目の前にある便宜さがかえって人を駆り立て、何が豊かさであるかを振り返るゆとりも失わせる無用な狂騒社会を短時日に生み出し、
今も休むことなく走り続けています。すべての人の便宜はやがてすべての人の不便に繋がる連鎖を断ち切らない限り、平穏な暮らしは戻らないのではないかと思えてなりません。

 今、細川谷は秋の実りの時期を迎えています。棚田の畦道を真っ赤に彩っていた彼岸花が終わり、稲刈り作業が進む中で、秋の柔らかな日差しを受けてコスモスが静かに揺れています。あの彼岸花の艶やかさが徒花ではなかったかと思われ、わずかな間の動から静への野辺の移ろいにも、人の世がかぶってしまいます。

 棚田の稲刈りが終わると、いよいよ紅葉の時期が始まります。紅葉の談山神社から飛鳥へ抜けると、この谷筋に出て来ます。谷の奥の上(かむら)に鎮座する乙巳の変の伝承が伝わる気都倭既神社から飛鳥中心部の石舞台まで、冬野川の瀬音を聞きながら辿るおよそ小1時間のゆるやかな下りは、日本の村里の原風景を見るようで、太古には安らぎの散策路です。
 天空の里「尾曽」を訪ねる次回の両槻会定例会も、冬野、畑、尾曽の集落を巡りながら、この谷筋の気都倭既神社に下りてくる予定です。

 先日もこの谷筋を辿りながら、やがて飛鳥から談山神社に至る自動車道が開通すると、この里道の安らぎや静謐さも失われてしまわないかと、ふと気掛かりになりました。「今のうちに…」などというほど大仰なことではありませんが、定例会のこの機会に一度訪ねられることもお奨めかな…と思う務局員太古でした。

 参考ページ: コスモス揺れる飛鳥細川谷の秋
                             (08.10.17.発行 Vol.33に掲載)



【11】 「お彼岸のころ」

 今年の彼岸の入りは20日。秋分の日の前後三日間がお彼岸です。「暑さ寒さも彼岸まで」といわれますが、お盆を過ぎお彼岸のころになると、ようやく厳しい残暑も和らいで、めっきり秋らしくなってきます。飛鳥では「光の回廊」をはじめ、「彼岸花祭り」などの秋のイヴェントが始まり、夏の間途絶えていた人出が再び飛鳥路に戻って来ます。
    参考ページ:朧の中秋の名月に浮かび上がる飛鳥光の回廊2008

 今年の中秋の名月は14日でした。台風の影響も心配されましたが、雲間から朧に名月が覗き、ローソクに火が点された幻想的な古都の光の回廊に、中秋の月が夜の飛鳥路を柔らかく包みました。

 この頃になると、彼岸花が飛鳥路のあちこちで一斉に芽を噴き出し、実り始めた田んぼの畦道を真っ赤に染めるレッドラインが見れるようになります。飛鳥路が最も華やぐ季節です。里道を彩る彼岸花を楽しんでもらおうと、飛鳥の人たちが一斉に下草を刈り、花芽の成長を促します。


野面から噴出する彼岸花

 彼岸花の芽が噴き始めた飛鳥の棚田では今年の案山子作品が展示され、実りの秋を見守ります。今年の案山子テーマは「昔話」で、すでにたくさんの力作案山子が棚田の案山子ロードに設置されています。21日にはこの案山子作品のコンテストも行われ、時代行列やステージイヴェントなど、彼岸花祭りで飛鳥路は終日賑わいます。

 この稲渕の棚田のシンボル案山子の下の田んぼでは「ミズアオイ」という絶滅が危惧される希少植物が数年前から栽培されています。彼岸花が咲くろに水色の涼やかな花をつけ、稲穂と彼岸花との競演を見ることができます。
 「これってホテイアオイかな…」案山子ロード歩く人たちが決まってこのミズアオイに目を留めますが、食用ともなった万葉の植物の「なぎ」であることを知る人は少ないようです。


ミズアオイと彼岸花

 この彼岸花が田んぼの畦道を彩る頃を心待ちにしている太古ですが、日ごろは静かな棚田のたたずまいもこの時期は車の大行列となり閉口します。レッドラインならぬカーラインには興醒めさせられます。毎年、何とかならないものかと思うのですが、やはり利便性の方が勝るのでしょうね。飛鳥路は歩いてこそ、その魅力があるのに…と思う太古のひとりごとはつきません。

 太古の好きな檜隈寺跡界隈でも、キトラ古墳を中心とする公園化計画がスタートし、あちこちで文化財調査が始まり、多くの田んぼが今は雑草の茂るがままに放置されています。大型の観光バスの駐車場も計画されているようですが、一過性の観光客の誘致も必要でしょうが、飛鳥風土がそのことで壊されないような整備を願いたいものです。

 青春以来のふるさと飛鳥が次第に遠い記憶の中に消えてゆく…そんな日が太古の元気な間には来ないことを願っています。
                              (08.9.19.発行 Vol.31に掲載)



【10】 「真夏の涼空間」

 「暑いですね…」
 知人やご近所の方と顔を合わせると、お互いに自然と口から出てしまう挨拶です。
 今年の夏は異常に暑い感じがしますね。それでも、時間があれば歩きに出かけている酔狂人の太古です。毎年の炎暑には馴れているはずなのに、寄る年波もあるとは思いますが、さすがにこの暑さは堪えています。日盛りの野辺は、じりじりと肌を焼くような熱気に包まれ、肺の中まで熱風に侵された気分に襲われます。これでは、いくら好きな飛鳥でも、歩き回る気力が萎えてしまいそうです。

 ところが、こんな日盛りの中でこそ、涼やかな花の海を見せる箇所があります。
 橿原市城殿町にある本薬師寺跡。その周囲の休耕田を利用して植えられているホテイアオイの大群生です。お盆の頃から見頃を迎え、うだるような暑さの中で、ブルーの涼やかな花を一面に咲かせ、本薬師寺跡がまるで大海原に浮かぶ小島のような景観を見せてくれます。


本薬師寺跡のホテイアオイ

 もともと繁殖力の旺盛なホテイアオイは嫌われ者の水草でしたが、これだけ大量の花を一斉につけると壮観ですね。どんなに暑くとも、この花の大群生を目にすると、涼やかな風が吹き渡るような錯覚を感じてしまいます。熱風に空気が揺らめく中に突然現れた砂漠のオアシス、ひょっとすると蜃気楼なのかと思わせる盛夏の花の大群生です。
 ご存知の方も多いと思いますが、炎天下の本薬師寺跡を訪ねるのも、暑さ凌ぎの気分に浸れるこの時期ならではの場所です。しかし、いくら涼しげと言っても、やはり暑い盛りの時期だけに、くれぐれも熱中症には注意が必要です。場所は近鉄橿原線「畝傍御陵前」東口から真っ直ぐ東に徒歩10分ほどですから、駅から本薬師寺跡までなら、それほど大して歩き回るところではありません。

 さて、涼しげというより本当に涼しいことが体感できる特異な場所があります。
 それは古墳の石室の内部です。石舞台古墳のように封土が失われて石室が露出しているところではなく、厚い封土に覆われた石室の中は、まさに天然のクーラー・ボックスです。
 人が自由に立って入れる古墳は、それほどあるわけではありません。かって、御所市古瀬にある水泥古墳(南と北に二基)の内部に入れてもらったことがありますが、入口を潜るだけで内部の冷気が明らかに伝わってきます。このときも暑い日でしたので、石室内部の冷気に包まれていると汗がたちまち引いてゆくのが分かりました。この水泥北古墳は、西尾家の邸宅内にあるため、勝手に入ることは出来ませんし、南の水泥古墳も西尾家が管理されていますので、内部に入るにはあらかじめ了解が必要です。

 もっとも入り易い古墳は、飛鳥駅の北踏切りを越えると直ぐのところにある「岩屋山古墳」の石室です。墳丘の上部が八角形と推定されるところから斉明天皇の陵墓との説もある極めて精緻な切石組みを持った横穴式古墳です。
 長い羨道を潜り、玄室に入ると外のうだるような猛暑がまるで嘘のような異次元空間を体感することが出来ます。


岩屋山古墳

 先日も炎天下の西飛鳥の古墳を歩き回り、よれよれになって辿りついたこの石室の内部は、いつまでも留まっていたくなるほどの冷気に包まれた空間でした。石室の壁にそっと火照った頬を当てると、まるで水で冷やされているような清涼感がありました。
 不謹慎とは思いながらも、猛暑に干上がりそうな体をこの石室内でなだめ、まさに蘇生した気分で飛鳥駅に向かいました。
                              (08.8.15.発行 Vol.28に掲載)



【9】 「梅雨明けの飛鳥路」

 早朝から蝉の鳴き声が聞こえるようになりました。季節の変わり目は体が直ぐには順応できず、体調を崩すことが多いものです。みなさんも体調管理には十分お気を付け下さい。

 真夏になると、さすがに飛鳥を訪ねる人は少なくなります。飛鳥寺や石舞台古墳といった飛鳥のメインはまだ訪ねる人の姿も見られますが、檜隈や稲渕の棚田などの周辺部の里道を歩く人はほとんど見かけることがなくなります。太古は人影が途絶えた飛鳥路も好きで、炎天下の朝風峠を大汗をかきながら越え、棚田の青田を吹き抜ける風に火照った体を癒やされながら歩く清涼感も捨てがたいものがあります。

 しかし、炎天下の飛鳥逍遥はあまりお奨めできるものではありません。どちらかと言えば酔狂に過ぎるところがありますし、下手をすると脱水症状を起しかねません。へろへろになってたどり着いたお店での生ビールの美味しさが忘れられないというのが本音かもしれません。

 この頃の夏の花といえば、蓮ですね。早くもオミナエシが風に揺れるのを見ることもできます。蓮は古代から日本に自生していたとする説もあるようですが、おそらくは仏教とともに中国からもたらされたものと思われます。夏の盛りに泥田や池の中で広く大きな緑の葉をまとって、多くは淡いピンクの清浄感に満ちた花姿を見せてくれます。

 蓮の花は早朝にぽっと開き、お昼ごろまでには閉じてしまいますが、日中の日盛りにも咲いている花は、すでに咲き終えた花で、もう閉じることなくそのまま散ってしまいます。したがって蓮の花を見るには朝早く出かけるのが一番ですが、太古はこれが一番苦手で、たいていは日盛りのお仕舞い花を見ていることになります。負け惜しみではありませんが、閉じてしまった蓮の花も、佳人が可憐な唇をすぼめた様で、なかなか愛らしい艶やかさがあります。

 穢土浄土という言葉がありますが、泥土の中に清らかな花を咲かせる蓮の花は、穢悪に塗れたこの世に浄土の清らかさを想わせることから仏花として供され、お盆の頃の代表的な生け花となります。

 飛鳥でもこの蓮の花は随所で見ることができます。目に触れ易いところでは、飛鳥寺から南に広がる真神が原の田の中、稲渕の棚田でも見ることができます。また、仏様と縁の深い花であることからお寺の境内でも栽培されています。

 蓮は花だけでなく、地下茎の先端が肥大したレンコンとして、また花が終わると蜂の巣のような独特の形をした実ができ、食用としても利用されています。大きな葉は古代には食べ物を盛る器としても利用されてきました。仏様の蓮華座やお寺の軒丸瓦としてデザイン化された蓮の意匠は身近に目にすることができますよね。

 ようやく、近畿にも梅雨明け宣言が出されました。湧き立つ入道雲のもと、今年も蝉時雨に耳を傾けながら夏の飛鳥路を元気に歩きたいものです。
                              (08.7.18.発行 Vol.26に掲載)



【8】 「棚田の田植え」

 日本の棚田百選に選ばれている明日香村稲渕の棚田で、22日の日曜日、棚田オーナーさんのご家族や関係者の手によって、今年も手作業による田植えが行われました。朝から小雨が降ったり止んだりの梅雨期特有の生憎の天候となりましたが、田んぼの泥に足を取られながらも、みなさん懸命になって苗の手植え作業を黙々と続けておられました。

 農業の機械化が進み、今では手植え作業は機械が入らない不整形で狭隘な土地に限られてしまいましたが、かっては平地でも手植えがごく普通の農作業風景でした。
 太古も子供の頃には田植を体験したことがありますが、まっすぐ等間隔に苗を植えてゆくのは簡単なようでこれがなかなか大変な作業でした。紐で区切られた幅に後退さりしながら数本の苗を指で泥の中に差し込んでゆくのですが、ときには自分の足型を埋め戻しながらの作業になるため悪戦苦闘した記憶があります。悪戦苦闘の割には見栄えのする結果にはならず、妙な曲線を描く自分が植えた早苗の列にため息が洩れたものです。

 山の自然地形を巧みに利用した棚田は、日本各地に残っていますが、平地の整然とした区画の田んぼとは異なり、形も大きさも様々で、谷水が流れ落ちる波状のような緩やかな畦道の曲線が連続して続き、まるで芸術作品のオブジェを想わせる造形美があります。

 もちろん棚田は造形美を競うために作られているわけではなく、少しでも耕地を広げるために幾世代もの人々の英知と汗によって築かれ、その結果が見事なまでの造形美となって今に伝えられているものです。

 農業を支える手が次第に高齢化し、若者の農離れに少子化の影響が重なり、各地で耕作放棄が進んでいます。その地に生きた人々が先祖代々営々と切り拓いて来た耕地を維持できないことに、後継者となるはずだった方々の思いにも複雑なものがあると思います。

 今では貴重な自然美ともなっている棚田の景観を何とか守りたいと始められた棚田オーナー制度も今年で13年目を迎えるようです。13年というと、最初に父母に連れられてこの棚田に足を運んだ子供たちもそろそろ成人を迎えている家族の方もあるかと思われます。その子供たちが幼い頃の思い出と体験の棚田を引き継いでくれればいいのでしょうが、地元の方やオーナー父母の願いが必ずしも叶うとは限りません。



 棚田という貴重な自然環境と里山に溶け込んだこの景観を次代の子供たちに引き継いでもらいたいという思いが募ります。営々と築き上げられた社会システムがあらゆる面で崩壊していく世相を見ていると、この棚田で父母と泥んこになって遊ぶ子供たちに、生涯忘れ得ない体験として受け継いで行って欲しいと願わずにはおれません。

 ふるさとを知らない、持たない子供たちに、この飛鳥の棚田を父母との思い出に連なる故郷としてしっかり心の中に刻んで欲しい。雨の中を泥んこになって無邪気に駆け回る子供たちを眺めながら、ふと切なくなるような一日でした。
 そのためには棚田オーナーの二世、三世が故郷のこの棚田に通い続けられるよう、地元の方々の制度維持が欠かせませんが、もとより地元のみなさんのご苦労は推察はできても内実の厳しさまでは知りようのない太古のあくまで独りよがりの感傷的思いです。                             (08.7.4.発行 Vol.25に掲載)



【7】 「ささゆりの咲く頃」

 新緑の爽やかな初夏も過ぎ、週末ごとに飛鳥を訪ねていると、里山の緑が日増しに濃くなってゆくのが分かります。間もなく、棚田に水が張られ、田んぼに早苗がそよぎ始める雨の季節を迎えます。田んぼに一面に水が張られると、あちこちで蛙の合唱が聞こえ、飛鳥の里も夏に向けて衣替えしたような様相を見せてくれます。

 この田植えごろになると、飛鳥でもささゆりの花が咲き始めます。色も艶やかな大輪の他のゆりの花とは異なり、ささゆりには清楚で深窓の箱入り娘のような情趣があり、どこか心惹かれるゆりの花です。
 かっては野辺のあちこちで自生していた季節の花ですが、最近ではその自生地を見つけることは難しくなっています。近郊の貴重な自生地は、保護のために近寄ることも出来なくなって、緑陰の緑の下草の中に白くほんのりと咲いているのを遠くから見ることしかできません。花に近寄るよりも遠くから焦がれるように眺めている方が、かえってこの花には似合っているのかもしれませんが、それだけに口も利けない片思いの佳人を垣間見るようで、なんとも切なくなるような花姿です。

 その花に、飛鳥の里道で出会ったときは、まさに焦がれの恋人に出会あったような気分を味わうことが出来ました。その花は自生のように自然に咲いていましたが、かってその場所で咲いているの見かけたことがなく、あるいは気づかなかっただけなのかもしれませんが、おそらくは雑木林の斜面に人の手に寄って植えられたものかもしれません。
 その花をもう一度見たくなって、翌週もその場所を訪ねてみました。ところが、その場所にあったはずの花影がどこにも見当たりません。まるで幻の花影をみたように消えてなくなっていました。もう花の時期が終わったのかと、目を凝らして雑木の下を探してみましたが、花がらはもとより花の茎さえ一本も見ることが出来ませんでした。たぶん見事に根っこごと獲り去られたとしか思えない状況に愕然となりました。


飛鳥のささゆり
 最近の山野草ブームで心無くも貴重な野辺の花が次々に身近なところで姿を消してゆくのは何ともやりきれない思いがします。花はそのあるべき場所に咲いていてこそ花の命です。手折るよりもあるがままの花姿を愛でる心情を喪わないで欲しい。その花が貴重であれば、なおさらそのあるべき場所において欲しい、と願います。
 今年も、諦めきれずその場所を再度訪ねてみたいと思っていますが、先日もその傍を通りましたが、たぶん幻の花影で終わりそうですね。
 独り占めして密かに楽しむ悪癖の世相を一番哀しい思いでいるのは、多分、思いがけずも持ち去られ、手折られた花たちではないでしょうか。
 ・・・と書いたものの気になって、5月31日に小雨降る中、再度その場所を訪ねてきました。
 田植も一部のたんぼでは始まっていましたが、時期にまだ早い可能性もあり、半ば諦めていました。
 ところが、そのつもりで探さないと分かりにくいのですが、雑木林の斜面のかなり奥に、なんと今年もささゆりが数輪咲いていました♪
 ひょっとすると、自生しているのかもしれません。

 参考ページ : 小雨降る飛鳥路にささゆりの咲く頃
      

                               (08.6.6.発行 Vol.23に掲載)

【6】 「岡のしゃくなげ」

 明日香村岡の集落の鳥居をくぐり、何度も息を整えながら長い急勾配の参道を登ると、西国観音霊場の第7番札所として、また厄除観音で知られる「岡寺」があります。

 駐車場から比較的楽に上る道もあるのですが、麓の鳥居から初めてこの寺を訪ねた方は、もうすぐ仁王門という手前あたりで息を切らせて立ち止まった記憶をお持ちの方が多いと思います。その急勾配に寄り添うように、参道名物の「坂乃茶屋」があります。参拝する前にちょっと休んで行くか、やっぱり帰りに立ち寄るかと、ふと迷うような絶妙の位置にあります。

 気さくで話し好きのおばさんは、お店のにゅうめんとともに、訪ねる人の記憶に残るお人柄です。店内には立ち寄った人が残していったおびただしい記念の色紙が、壁から天井までびっしりと埋め尽くされています。何度も訪ねている人から著名人まで、その色紙にこのお店の歴史と訪ねた人の思いが貼り付いているようです。


岡の石楠花
厄除け観音霊場として季節を問わず信仰を集める岡寺ですが、4月中旬から5月中旬のこの季節になると、奥院石窟のある山中が淡いピンクの石楠花の花に覆われます。
 4月19日、雨上がりの休日に、少し早いかなと思いながらも、どこよりも早く石楠花の花が咲くこの寺を訪ねました。ちょうど新緑の瑞々しい青葉と重なり、山の冷気にも包まれて、まるで別世界に迷い込んだような清浄感を味わうことができました。
 本堂を眼下にめぐる散策路は、人一人が辿れるほどの幅しかありませんが、この雰囲気に包まれると行き交う人の心も和まされるのか、静かに自然と互いに道を譲り合う気持ちになるようです。



三重塔から眺める飛鳥
 全山をなだれ落ちるような石楠花と新緑の散策路を巡り、三重宝塔のある高台に立つと、眼下に飛鳥の里が広がり、橘寺の全景を俯瞰することができます。遠くに葛城、金剛の山並みが見渡せ、この高台も絶好の飛鳥展望所となっています。反対に橘寺周辺から東の山を振り返ると、山の中腹に、良く見ないと気づかないほど小さく可愛い印象のこの三重塔が望まれます。

 この日は、朝風峠を越え、いつもの稲渕の棚田をめぐり、石舞台周辺の棚田に広がる菜の花畑を見ながら、岡寺を訪ねました。石舞台から岡寺に抜ける薮中の路は、少し起伏がありますが、緩やかな曲線を描く竹林のトンネルを抜ける静かな散策路で、晩秋から春先には堆く枯葉が積もっていて、すっかりお気に入りの路となっています。
この路を抜けると、ちょうど「坂乃茶屋」の手前に出ることが出来ます。参道の上り一筋の勾配よりも変化があって楽しむことができる散策路になっています。初めての方は機会があれば一度辿ってみられることをお奨めします。
                               (08.5.2.発行 Vol.20に掲載)



【5】 「ハナモモ」

 石舞台古墳を見下ろす東側の棚田に、この時期になると紅色の花がまるで雲のように群れとなって見事な花をつけます。先日訪ねると、俄かな春の陽気に誘われてそろそろ見頃を迎えていました。


 ところで、この花ですが、皆さんは何の花だと思われるでしょうか。

 あらためて問われると、「え?紅梅じゃないの・・・」という反応が返って来そうですが、ハナモモと言われたり書かれていることがあります。
 太古もずっとハナモモだと思っていたのですが、紅梅とどう違うのか、正直よく分かりませんでした。

 たまに地元のお店の方に尋ねると、たいていは、「梅じゃないですか…」と、あまり自信のない返事が戻って来ます。
 「あれは花桃です」という明確な返答に接した記憶がありません。
 ネット仲間でも自信のある方はなく、何となくハナモモだと思っているというのが実情でした。

 そこで、風人さんが公的機関に問い合わせてくれましたが、やはり即答はありませんでした。
 調べていただいた結果は、ハナモモだという結論になりました。

 石舞台古墳のあるあたりは、蘇我馬子の時代には「桃原」と呼ばれていました。きっと、あたりには桃の木がたくさん植えられていたのかもしれませんね。そのため、古墳を俯瞰する棚田に似つかわしいハナモモが植えられたとしても不思議ではありませんし、そのほうがこの地にはゆかしい気がします。

 ところが、先日、またまた思いがけない返事が返ってきました。
 石舞台から冬野川に沿って細川谷を少し上った上居の立石がある辺りの民家の周りにも、石舞台周辺の花と同じ見事な花群があります。
 ちょうど、民家の方と思われるご婦人が花の下で野良仕事をされていたので、思い切って声を掛けてみると、作業の手を休めてお相手をしていただけました。

 「この花は、ハナモモでしょうか?」
 と問いかけると、ご婦人はさりげなく
 「ハナモモではありません、紅梅ですよ」
 とにこやかに応じてくれました。
 「石舞台周辺にも同じような木がありますが、あれはこれと同じですよね」
 「そうです。紅梅です」

 短いやりとりでしたが、「そのご婦人からは、ハナモモという言葉はついに返ってきませんでした。

 またまた分からなくなってきました。ということは、やはり紅梅なのか…。
 別に花の名前にこだわらなくとも、この時期に見事な紅色の花を咲かせ、楽しませてくれるだけで十分なのですが、年来気になっていただけに、ほんとにあれはハナモモなのか、と、この時期になると花を見上げて思い起こします。
  きっと、ハナモモなんでしょうね♪         (08.4.4.発行 Vol.16に掲載)



【4】 「飛鳥の梅」

 暖冬化傾向が言われながら、今年の冬は寒いです。先月は雪の舞う日が多く、飛鳥で二度も雪景色を見ることが出来ました。見たい見たいと思い続けていた飛鳥の雪景色ですが、こうも降雪が続くと寒さばかりが身に染みます。身勝手な人の性にきっと雪の方も呆れているでしょうね。

 風雪交じりの飛鳥の里道を首をすくめながら歩いていると、冬枯れの山の斜面にほんのりとピンク色にもやう箇所が目に付きます。どんなに厳しい寒さの中でも、季節を忘れずに花をつける梅の木を、今、飛鳥の里道の随所で目にすることが出来るようになって来ました。弥生三月、飛鳥を取り巻く山々の梢が芽吹き始め、墨色の山容がけむるような風合を見せるのももう直ぐでしょうね。

 この時期は各地の梅の名所がたくさんの観梅客で賑わいを見せ、太古も毎年訪れる梅園があります。しかし、好みからすると、一目何本という見事な梅林よりも、里道や民家の片端にひっそりと咲いている梅が好きです。藪中に忘れられたように佇む梅の枝が、厳しい寒さの中でも季節のめぐりに合わせピンクや白の可憐な花を枝いっぱいにほころばせる姿を見ると、春の訪れのときめきを覚えます。

 先日、両槻会の企画で訪れた真弓カンス塚古墳の現地見学会の日は大雪となり、大行列が緩和するまでの時間調整に巡ってきた真弓丘陵の紅梅は、ほころび始めた枝先が真っ白な雪に包まれていました。その梅の枝が、わずかな間にいっぱいの花をつけているのを見つけることが出来ました。この日もときおり小雪が舞う寒い風の強い日で、梅を探して歩いているのは太古独りでしたが、春の訪れを独り占めしたようで、ひととき寒さを忘れる季節の温もりに浸る気分でした。

  この真弓地之窪の紅梅は、集落のはずれからでもはっきりと咲いている姿を目にすることが出来ます。マルコ山古墳の墳丘の片隅にもピンクの花の群がりが視野に入ります。在所の数箇所に紅梅をみることができますが、歩いていると初めて出会う山間の紅梅に出会うこともあります。今回は、カンス塚古墳の南側の山斜面でも一本の紅梅を見つけることができました。曲がりくねった小さな農道が尽きるあたりに、その梅の古木はひっそりと春を告げていました。

真弓の紅梅

 飛鳥の里道を歩いていると、こうした梅の古木を随所で目にすることが出来ます。残念ながら、すっかりツタに絡まれて樹勢が衰えてしまったものや、農家の都合で根元からすっかり切り取られたなじみの梅もあります。毎年訪ねる梅が見るかげもなく衰えていたり、なくなっていたりするとがっかりするものです。もとより観梅用の梅ではありませんからこれもやむを得ないことでしょうが、一抹の寂しさは拭えません。新たな出会いと別れ、一本の梅の木にも人の生涯にも似た哀切さがあります。

 太古の好きな栗原の里にも一本の白梅があります。この間、両槻会事務局のメンバーと思い立って立ち寄って来ました。まだ五分咲き程度でしたが、今年も見事に花をつけて迎えてくれました。この梅の直ぐ横が栗原寺跡になることを、このときはじめて風人さんに教えてもらいました。

 みなさんも、飛鳥歩きの中で自分の好きな梅の木を見つけてみませんか。
 ひととせぶりにその梅に出会えるときめきは、きっと四季の飛鳥めぐりをより印象深いものにしてくれるはずです。              (08.3.7.発行 Vol.12に掲載)



【3】 「棚田のロウバイ」

 厳寒のこの時期に、来る春を予見させるように黄色い花をつけるロウバイ(蝋梅)。蝋細工の梅の花を想わせることから名づけられたともされています。太古は花のないこの時期のロウバイが好きで、冬の飛鳥路を辿る楽しみの一つになっています。
 お正月ごろから冬の飛鳥路のあちこちで咲き始め、八釣の里や稲渕の棚田で目にすることができます。


 稲渕の棚田では、案山子ロードを見下ろす急峻な南斜面に暖色の花が咲き、澄み渡った冬の青空と黄色い花の対比が、褐色の冬の棚田にほのかな彩りを添えてくれます。花に近づくと好い香りが鼻腔をくすぐって来ます。
 何度も訪ね歩く棚田ですが、最近までこの棚田を俯瞰する位置にロウバイが咲くことに気が付きませんでした。案山子ロードを歩いていても、見上げなければ気付かない死角のような位置に咲いていますので、意外にご存じない方が多いかと思います。

 冬になって訪れる人もほとんど絶えた飛鳥路は、他の季節にはない往古の人々の息吹を静かに感じさせてくれる鎮まりがあります。汗をかくこともなく、朝風峠を越えることができ、棚田の景観を独り占めしたような味わいのあるこの時期は、太古のお気に入りの季節です。
 そんなときに、ふと見上げた棚田の一角に、温かな黄色の花を見つけると、早くも春に向けて動き出した季節のめぐりを肌で感じることができます。 
                                (08.2.1.発行 Vol.8に掲載)



【2】 「栗原のお地蔵さん」

 飛鳥駅から朝風峠を越えて稲淵の棚田をめぐり飛鳥の里の中心部に出る遊歩が、最近の太古の定番コースになっています。四季折々に見せる棚田の風景はいくら通い続けても飽くことがありません。

 朝風峠越えは勾配があるのでかなりきついのですが、峠近くから展望する飛鳥や二上山・金剛・葛城の山並みは、上りの疲れを癒してくれるものがあります。息を整え、体の火照りを冷まして振り返るひとときの清涼感は、一歩一歩上ってこそ味わえる余得のような気分です。


栗原のお地蔵さん

 この朝風峠に至るまでの栗原の里に、小さな辻の野仏が佇んでいます。近くを吉野川分水が地上に出て流れる野道の三叉路に「右おかでら」と刻まれた辻地蔵さんです。太古はこの野仏が好きで、朝風峠を越えるときには必ず立ち寄って「お元気ですか」と声をかけています。雨の日も暑い日も寒い日も、お地蔵さんは表情を変えずにこやかに迎えてくれます。野仏の後背は広い田んぼが広がり、早苗の頃、稲穂の頃と季節の移ろいに合わせて、様々な変化を見せてくれます。

 小さな野仏は、夏の雑草に埋もれてしまうほどの背丈ですが、ときおり里の方が供えるのか、菜の花や彼岸花が傍らにそっと活けられている時があります。それでも近づかなければ気づかないほどの小さなお地蔵さんです。
 地元の方でもご存知の方は少ない野仏ですが、かって「太陽」という雑誌の別冊の飛鳥特集でこの小さな野仏の写真を見つけたときは、ちょっとときめきを感じたものです。
 この野仏の位置を何人かの方に尋ねられたことがありますが、その場所に気づかれないほど小さくひっそりと佇んでいます。飛鳥を歩かれたときに、一度探してみてください。首尾よく出会えたら、きっと「こんにちは」と声をかけたくなります。

 場所:上平田峠に抜ける農免道路を吉野川分水を越えてすぐ右手下に見える農道の三叉路です。農免道路を挟んで北西方向に文武天皇陵が見えています。また、老人ホーム「あまかし苑」北側の野道を峠方向に辿ると農免道路の手前に吉野川分水にかかる小さな橋が見えてきます。この橋がかかる野道を少し上った三叉路です。
                                (08.1.4.発行 Vol.5に掲載)



【1】 

  若い頃から飛鳥が好きで、四季おりおりに飛鳥を訪ね歩いてきました。
 「また、飛鳥へ。飛鳥に何があるネン?」家族を含めた周囲からは、そんなに飛鳥に出かけるのは何か他に目的があるに違いないと怪訝がられました。
 「飛鳥に恋人がいるネン」とでもいえば、ともかくは納得されたのかもしれませんが、「別に何もない。飛鳥が好きやから…」というだけでは、いまひとつ理解されませんでしたね。その後、高松塚の壁画古墳で飛鳥が一躍脚光を浴びるようになると、太古の飛鳥めぐりは「そうか、歴史好きナンか…」とそれなりに納得されたようです。
 が、特に古代史に関心があるから飛鳥に通っていたわけでもなかったのです。しかし、周囲がそう思ってくれるなら、それでもいいかと今では思っています。

 足繁く飛鳥に通う理由は、自分でもはっきりと説明が付かないほど曖昧なものでした。あえて言えば、飛鳥の里道を歩いていると心が安らぐからでしょうか。それなら飛鳥でなくともいいわけですが、やはりその背景には歴史風土としての飛鳥があったからかもしれませんね。

 その後、明日香村はまるごと特別保存地域に指定され、太古のあるがままの飛鳥ではなくなりました。飛鳥が時の経過とともに変わり行くなら、それはそれでいいと思っていました。飛鳥の風土が大切にされ、守られてゆくことは人の心の豊かさを感じますが、守るがために様々に整備をされてゆくのは寂しいものです。ゆき過ぎた整備はかえって飛鳥が持っている何かを作為的に失ってゆくことになってしまいます。

 それでも、太古は飛鳥が好きです。飛鳥という言葉の響きに惹き寄せられます。発掘によって古代史に湧き返る飛鳥も、人に知られず佇み続ける路傍の石仏も、太古の飛鳥です。このメルマガでは、太古の好きなひとりよがりの四季の飛鳥をご紹介していきたいと 思います。                    (07.12.7.発行 Vol.1に掲載)



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