両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



特別回


奥飛鳥滝巡り

事務局作製参考資料




天皇幸南淵河上。跪拝四方。仰天而祈。
即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。




2011年12月3日





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日本書紀皇極天皇条 雨乞い(天候)に関連する記事抜粋

皇極元(642)年

3月 3日

雲がないのに雨が降った。この月に、霖雨(ながあめ)があった。

4月

この月にも、霖雨があった。

6月16日

わずかに雨が降った。この月はたいへんな旱であった。

7月 9日

客星(まろうとほし)が月に入った。

7月25日

群臣が、「村々の祝部(はふりべ)が教えたとおりに、牛や馬を殺し、それを供えて諸社の神々に祈ったり、市をしきりに移したり、河伯(かわのかみ)に祈祷したりしたが、(中国風の雨乞いの行事)さっぱり雨が降らない」と相談すると、蘇我大臣は、「寺々で大乗経典を転読するのがよい。仏の説きたまうとおりに悔過(けか)をし、うやうやしく雨を祈ることとしよう」と答えた。


『戊寅。群臣相謂之曰。随村々祝部所教。或殺牛馬祭諸社神。或頻移市。或祷河伯。既無所効。蘇我大臣報曰。可於寺転読大乗経典。悔過如仏所訟。敬而祈雨。』

7月27日

大寺(百済大寺)の南の広場に、仏菩薩の像と四天王の像を安置し、多くの僧をまねいて「大雲経」(だいうんきょう)などを読ませた。蘇我大臣は手に香鑪をとり、香をたいて発願した。

『庚辰。於大寺南庭、厳仏・菩薩像与四天王像。屈請衆僧。読大雲経等。于時。蘇我大臣手執香鑪。焼香発願。』

7月28日

わずかに雨が降った。

7月29日

ついに雨を祈ることが出来ず、経を読むことをやめた。

8月 1日

天皇は南淵の川上にお出ましになり、ひざまずいて四方を拝し、天を仰いでお祈りになった。するとたちまち雷が鳴って大雨になり、とうとう五日も降りつづき、あまねく国中をうるおした。そこで国中の百姓は、みなともによろこび、「すぐれた徳をおもちの天皇だ」と申し上げた。

『八月甲申朔。天皇幸南淵河上。跪拝四方。仰天而祈。即雷大雨。遂雨五日。溥潤天下。〈 或本云。五日連雨。九穀登熟。 〉於是。天下百姓倶称万歳曰至徳天皇。』



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 日本の雨乞い

 日本でも各地に様々な雨乞いが見られる。大別すると、山野で火を焚く、神仏に芸能を奉納して懇請する、禁忌を犯す、神社に参籠する、類感(模倣)呪術を行うなどがある。
 山野、特に山頂で火を焚き、鉦や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞いは、日本各地に広く見られる。神仏に芸能を奉納する雨乞いは、近畿地方に多く見られる。禁忌を犯す雨乞いとは、例えば、通常は水神が住むとして清浄を保つべき湖沼などに、動物の内臓や遺骸を投げ込み、水を汚すことで水神を怒らせて雨を降らせようとするものや、石の地蔵を縛り上げ、あるいは水を掛けて雨を降らせるよう強請するものであり、一部の地方で見られる。
 神社への参籠は、雨乞いに限らず祈祷一般に広く見られるが、山伏や修験道の行者など、専門職の者が行うことも多い。類感呪術とは、霊験あらたかな神水を振り撒いて雨を模倣し、あるいは火を焚いて煙で雲を表し、太鼓の大音量で雷鳴を真似るなど降雨を真似ることで、実際の雨を誘おうとするタイプの呪術である。このタイプの雨乞いは、中部地方から関東地方に多い。Wikipediaより引用


・・・・・・・・・

 「山頂で火を焚き、鉦や太鼓を鳴らして大騒ぎする形態の雨乞い」は、飛鳥周辺でも多くみられ「火振り」などと呼ばれることも多くあります。古代の防衛システムとしての烽火の存在と紛らわしく、どちらがどちらだとも言えないように風人は思います。近隣では、耳成山口神社や香久山山頂の火振りは、雨乞いだと思われるのですが、松明に火をともし村内を練り歩くようです。




天香具山考

 香久山でも雨乞い神事が盛んに行われます。いつしか末社として祀られていたタカオカミ社が請雨の崇敬を集めるようになり、竜王社と呼ばれるようなったようです。香久山そのものも竜王山とも呼ばれました。
 山頂の向って右側の社殿前に、水をたたえた壺が埋められていて、古来干天の時に、この神に雨乞いして壺の水を替えました。しかしまだ雨の降らない時には、この社の灯明の火で松明を作り、村中を振り歩いたといいます。
 天保9(1838)年に香久山に登った土佐藩士の記録があり、「大和巡日記」と言う書物の中に「これは雨乞壺の由。ここへ水入れ減りたれば雨降り、減らざれば不降。十度に九度は雨降と処の申。」と記されています。
 参考ページ: 天香具山考


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耳成山1

耳成山口神社
 耳成山八合目付近に、東向に建っています。祭神は、大山祗神・高皇産霊神。
延喜式内大社で、創建年代は詳しくは判らないのですが、天平2(730)年の東大寺正倉院文書にその名が見えるそうです。しかし明治以前は、天神社と呼ばれていました。付近を流れる米川に架かる橋は、天神橋と言い、今にその名を止めています。
 
 大同元(806)年には、「風雨祈願のため使いを遣わして奉幣す」。の記録があり、それ以後貞観元(859)年の祈雨神祭など、雨乞いの神事がたびたび記録に残されています。天神は農耕神であり、水の神でありました。

 拝殿には「文久元辛酉歳、雨請満」(1861)と記した社前での雨乞いの踊りの図が掲げられており、なもで踊りであったように思われます。また、「安政二卯歳、雨請満」(1855)
の額もあります。

 大和盆地では、農業用水の確保は近年まで大きな問題でした。かつて旱魃の時、耳成山の西にある木原村からは「雨たんもれ、たんもれ」と松明をかざしながら、村民が宮司を先頭にして、参詣祈願したそうです。これが「火振り坂」の由来となっています。

 耳成山には登山道が5本あって、南から登る八木坂をメインにして、火振り坂、木原坂、常盤坂、山之坊坂、と呼ばれています。
参考ページ:耳成山1


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飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社

 長い階段の上に「飛鳥川上坐宇須多岐比売命神社」があります。見上げると参拝を躊躇いたくなるような急な登りが続きますが、200段ほどの石段を登りきると立派な社殿が見えてきます。この神社は大神神社と同様に、後背の山を拝する古い形式を取っています。本殿は無く、遥拝造りの拝殿には、平安時代前期の作と推定されている男女各二体の神像が祀られているとされています。


 祭神は宇須多岐比売命・神功皇后・応神天皇となっているようです。神社の謂れが薄れた頃、ウスという音からウサが連想されたのかも知れません。宇佐八幡宮と呼ばれていた時代も長く、現在も明日香村のお年寄りは、ウサさん・ウサの宮さん(宇佐宮)、あるいは、オサの宮さんと呼び習わしているようです。

飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社前
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 ところで、宇須多岐比売命のウスタキは、「臼・滝」を連想させます。この神社下の飛鳥川は、淵となっていて、この名前が肯ける様相を見せています。当然、ここは皇極天皇の雨乞いが連想される重要な場所になります。
 この神社では、明治頃まで雨乞いの「なもで踊り」(南無手踊り)が行われていたようです。なもで踊りは、奈良県内で広く行われていた請雨祈願の行事で、その様子は各地の大絵馬に描かれて残されています。この神社にも、嘉永6(1853)年銘の絵馬が所蔵されているようです。 この神社で行われた「なもで踊り」は、「本なもで」と称し、内宮(稲渕、南淵請安墓に残る談山神社)では「仮なもで」が行われたとされます。
皇極天皇の雨乞いが、このような形として継承されたのでしょうか。雨乞いが行われた聖地を神社としたのでしょうか。

高市郡高取町小嶋神社所蔵 なもで踊り絵馬


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加夜奈留美命(カヤナルミ)神社

 この神社を簡単に説明することは、きわめて難しいことです。全く不詳の神社と言う他ありません。

 ご祭神は、加夜奈留美命とされています。この神様は、古事記にも日本書紀にも登場しない神様ですが、出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)という祝詞にのみ登場します。大穴持命(オオナモチノミコト)が国土を天孫に譲って出雲へ去るのですが、その時、自らの和魂(にぎたま)と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とします。祝詞には「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とあり、これがこの神社の始まりとされています。

 さて、問題が出てきました。加夜奈留美命をお祀りしたのは、飛鳥の神奈備です。『日本紀略』には天長6(829)年「高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社を、神の託言によって同郷の鳥形山に移した」という記録があります。鳥形山というのは、現在の飛鳥坐神社の在る小さな山であるとされています。
 では、その元の場所である高市郡賀美郷甘南備山の飛鳥社はどこに在ったのでしょう。やはり栢森なのでしょうか。南淵山や藤本山なのでしょうか。雷丘や甘樫丘なのでしょうか。
 今日それを特定することは出来ませんが、岸俊男先生のミハ山説が有力なようです。ミハ山は、祝戸の飛鳥川左岸に在る祝戸公園内のピークやその付近だと思われ、磐座と思しき石などが散見されます。飛鳥の小さな盆地の南端にあるこの山は、古道「中ツ道」が飛鳥盆地の南端で山にぶつかるところに位置し、まことにそれらしくも思われます。

 ミハ山神奈備説をとると、栢森の神社は何だったのでしょう。江戸時代まではこの神社は、葛(九頭)神を祀っていたとされているそうで、今は末社として祀られている小さな祠が葛神社だとされているようです。九頭神は、オカミ神を祭神としており、九頭竜を崇める水神信仰だと考えられるようです。女淵との関連性や飛鳥川源流となる細谷川と寺谷川の合流地点に立地する点などから考えると、栢森に鎮まるこのお社は本来水神信仰の葛(九頭)神をお祀りする神社であったと言えるかも知れません。飛鳥地域には、葛神を祀るお社や関連した伝承も多く残ると聞きます。「くつな石」にも、一般的に伝わる岩の伝承の他に、雨乞いの神事を行ったという伝えもあるようです。写真は、本殿左の祠裏側の石。

 80歳を超えておられる栢森集落の古老は、葛神さまとして馴染んでいたと話されています。現在のお社は、明治時代に富岡鉄斎が当地に来て、土地柄からここが飛鳥の神奈備だとし、加夜奈留美命神社として復興・顕彰したものだそうです。またカヤノモリとカヤナルミの音が似ているため、『大和志』では「延喜式」神名帳の高市郡「加夜奈留美命神社」をこの社にあて、それ以来、式内社として現社名で呼ばれるようになったのだそうです。
 
 ところで、式内社「滝本神社」という神社も、飛鳥川の上流に在ったとされ、さらに複雑な様相を呈してきます。他にも異説はたくさんあるようで、明日香村史が全く不詳の神社であると記すのは、このような事情を反映してのことだと思われます。


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女淵 ナゴトの滝  

栢森集落を南東に抜けると、道は芋峠に続く小峠道と大字入谷への道に分かれます。今回の滝巡りでは、左の入谷方向へと曲がり、飛鳥川支流の細谷川を遡ることになります。
 しばらくその道を進むと、周りの雰囲気が変わってきます。渓流が近づき、瀬音が聞こえてきます。木々の梢が空を隠す頃からは、足場も川石で作られた沢道となり、その奥まったところに女淵があります。ナゴトの滝が造るこの淵は深く、竜宮に届くとか女龍の棲む淵との伝承もあり、雨乞いの儀式も行われたと言われます。また、この女淵に木の葉を入れて、農作物の吉凶を委ねたとの伝承もあるようです。先の伝承とも合わせて推測すると、竜=水神信仰=雨乞い神事という図式が、見えてくるような気がします。
近年まで、明日香村大字畑の集落では、請雨祈願の儀式をこの淵で行っていたそうです。
 そこで思い出されるのが、皇極天皇の雨乞いの記事です。女淵は、この記事に書かれる「南淵の川上」の一つの候補地になるのではないかとも思われます。もちろん確証のある話ではありません。しかし、この淵の佇まいを見ていると、そのような想像が自ずと浮かんできます。石と水の都とも称される飛鳥京の水源は、細々とした川に支えられています。干天が続くと、その影響は深刻であったことでしょう。

女淵
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男淵

男淵
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 栢森と下畑を繋ぐ道路から東の渓谷に入っていくと、男淵(トチガ淵)があります。淵には、現在下りることは出来ません。危険ですので、無理をしない方が無難です。下流から回り込む方が良いと思うのですが、長靴か沢歩きの準備が必要だと思われます。

『扶桑略記』推古天皇33(625)年に、次のような記事があります。
 「卅三年乙酉。天下旱魃。以高麗僧惠灌。令着青衣講讀三論。甘雨己降。仍賞任僧正。住元興寺。流布三論法門。」
 高句麗の惠灌という僧侶が経を唱えて雨を降らせたことが書かれているようです。しかし、同年の『日本書紀』には「高麗の王が僧惠灌をたてまつったので、僧正に任じた。」とのみ書かれており、扶桑略記そのものの信憑性にも問題があると言われることから最古の雨乞いの記事とは認定されていないのか、先に見たように皇極天皇雨乞いを持って最古とされています。

  しかし、その推古天皇時代の雨乞いの場所が、トチガ淵だとする伝承があります。上畑集落の古老Tさんの話が扇野聖史著『万葉の道 巻の2』の中で、紹介されています。
「戦前は旱が続いた時にトチガ淵に願をかけると不思議に雨が降った。近在からの参拝もあり、岩の上に祠を建てて盛大に祭ったが戦後はすたれてしまった。」

男淵
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 このトチガ淵が、今は男淵と呼ばれています。女淵と対をなす名前で呼ばれるようになったのでしょう。しかし、栢森の古老の話として紹介しましたが、畑集落では女淵で雨乞いを行っていたと聞きました。そうすると、トチガ淵は女淵のことになります。推古と皇極はどちらも女帝ですので、記憶の混同なのでしょうか。あるいは、下畑は女淵、上畑は男淵で雨乞いをしていたのかも知れません。どちらの淵も、雨乞いの伝承を秘めた淵であるように感じますが、真相はどうなのでしょう。



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