ももと
飛鳥と三十一文字と
も も
ひとしひとひら
万葉集にはド素人の私・ももが、今更一語一句の解説をしても始まらん・・
と言う事で
ももにとってタイムリーな話題に歌を交えながらお話できたらと思っています。
続きはこちらへ♪
|
【1】 「大口の真神原」 (08.1.18.発行 Vol.6に掲載)
天候の心配された第六回定例会も好天に恵まれて無事終了。雨は嫌だけど、小雪ぐらいなら・・なんて手前勝手な事を考えてましたが。(笑)
飛鳥では、年末から年始に掛けて積もるまでは行かないものの、チラララ程度には舞ったと聞きました。
大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに 8-1636
真神の原って言うのは、飛鳥寺の辺りを言います。日本書紀崇峻天皇の条に「飛鳥衣縫造の先祖の樹葉の家をこわして、はじめて法興寺を造った。この地を真神原と名づけた。または飛鳥苫田ともいう。」とあり、そう解釈されているようです。
都移りとともに、沢山の暮らしがここ飛鳥を離れたのでしょう。けれど、「家もあらなくに」と言うほどこの時代の飛鳥が閑散としていたわけではありません。藤原遷都後も、飛鳥には役所や邸宅か?という建物が建っていたことが、発掘調査から分かってますし、平城遷都前であれば、飛鳥寺もまだ移築されずに残っていたはずですし・・・。正殿などの柱は抜き取られた痕跡があるので、宮関連の建物はなくなって「建物・溝・建物・・時々塀」何ていう風に形作られていた宮周辺の風景は、少し殺伐とした感じになっていたかもしれませんが。
この歌の「家」は、建物であれば何でも良いのではなく、気軽に立ち寄る事の出来る知人などの家をさすのでしょう。
・・・飛鳥へ来てみたら雪が降ってるやんっ。それもまだまだ降りそうな。あら、困ったやんか。頼むからこれ以上降らんといて。ここには親しい知り合いの家もないんやからぁ。・・・ってな感じでしょうか。
飛鳥にご用向きで来てみれば、雪。知人の家も数少なになった古京と言うだけでも十分寂しいのに、さらにそれを増幅させる舞台装置としての雪。心細さが一層募るのが人情ってもんですよね。
現在、小字にすらその名を残さないマカミハラ。オオカミの棲んだと言う原野。消えてしまったいにしえの都。 雪の降る何も無い飛鳥に立てば、何か見えてくるかも・・。ま、私などでは、白鳳歌人に遠く遠く・・・及ばないんですが。。。
【2】 「桃」 (08.3.21.発行 Vol.14に掲載)
春の花と言えば梅と桜。ですが、天邪鬼なももは、桃のお話をさせて頂こうと思います。(笑)
梅や桜に比べると、桃園や桃林や桃並木などの呼ばれ方をあまりしない気がするのは、同じ名をもつσ(^^)の僻みでしょうか。でも、悲しいかな万葉集中にも7首しか見当たらないんですよね。(T_T)
春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子(19-4139)
春の園に咲き匂う桃の花の道にスッと立つ若き娘。花の色が映るのかそれとも少女の美しさか・・と言うような感じでしょうか。この歌の題詞には、「天平勝宝二年三月一日の暮れに春苑の桃李の花を眺めてつくる歌二首」とあり、ここから家持邸には、桃と李の木があったことがわかります。
桃は中国原産だと言われますが、我が国にも古く縄文時代の遺跡からの出土があり、出土遺物としては取り立てて珍しくはないようです。また、お馴染みの飛鳥苑池遺跡では、薬草として用いられていただろう草木の名入り木簡や種子と共に発見されています。奈良時代には、上の歌に見えるように都から離れた貴族の邸宅などにも植えられていたようです。その後平安期には「水菓子」と言われ珍重されるようになったとも言われますが、現在のように甘くて瑞々しい「果物の桃」は、明治期頃に水蜜桃が栽培されるようになってからだそうです。果物としての格を与えられる以前のモモは、薬にもなる身近な木の実の一つとして存在していたのかもしれません。
中国では、桃にまつわる伝承や逸話が沢山あって、不老長寿や魔除けなどの力を持ち「仙果」「仙桃」などと呼ばれ珍重されたのだそうです。
参考ページ: ももの桃ばなし
日本書紀雄略天皇7年条に「桃原」と言う地名が登場します。呉の人々を上桃原・下桃原に住まわせたと言うのです。また、馬子を桃原墓に葬ったと言う記事が推古天皇34年条にあり、この事から「桃原」は、現在石舞台古墳周辺であったと考えるのが一般的なようです。大陸の文化を取り入れることに意欲的だった蘇我氏が石舞台周辺の高台に、理想の地「桃源郷」を思い描き「桃原」と名付けたと考えると色々と面白いとも思うのですが、書紀の記述によると、どうもそうではないようですね。地名は、案外安易に付けられる事が多いようですから、古代この辺りにはモモが沢山生えていたのかもしれませんね。
今でも、石舞台の東の丘の天辺に桃畑があります。一昨年の3月、この東の丘で巨大な柱穴列が発見され、石舞台造営に関わりのある遺構ではないかと言われたのをご記憶の方もあるかと思います。(現在埋め戻されてしまった遺構は、この桃畑の下段になります。)現在の石舞台古墳は、桜の名所になっていますが、古代この辺りは、春には桃花で埋め尽くされていたと妄想するのも楽しいかもしれません。
素人目には梅か桃か桜か判別のつかない木が沢山あります。「桜梅桃李」と言う言葉があるそうです。似て非なるもの、それぞれがそれぞれに良く、同じになる必要はない、なんて言う様な意味だそうです。桜と思おうが梅と思おうが・・木にはなんら関係ないと言うことなんでしょうね。(笑)
寒さのせいで少し遅れたと言われる今年の春も花見の対象が梅から桜へと移りつつあります。貴方は何処へ何を見に行かれますか?(^^)
【3】 「咲き 散る 桜」 (08.4.14.発行 Vol.17に掲載)
春になると歌詞やタイトルに「さくら」と入る歌は、テレビやラジオなどのメディアから沢山流れてきます。はらはらと儚げに、または吹雪のように散り際までも美しい桜は、日本人にとって昔から変わらない一番の「花」のようですね。
関西では、先日の雨で平地の殆どの桜が終わったようですが、それでも吉野などの山間部では、まだこれからのところもあるようですし、関東より北の地域にお住まいの方々にとっては、待ち遠しい春というところなんでしょうか。
こんな風に、桜が好まれるようになったのは平安時代後期になってからだと言われています。万葉集中で梅が100首を越えるのに対して、桜が40首ほどなのがその原因かもしれません。が、「詠まれなかったこと」がイコール「好まれていなかったこと」になるとは限りませんよね?
娘子らが かざしのために 風流士が かづらのためと 敷きませる
国のはたてに 咲きにける 桜の花の にほひはもあなに (8-1429)
・・・娘達や粋な男達が頭に飾るように、(天皇が)治められている国の果てにまで咲く桜の花のなんと素晴らしいことか・・・
この歌は、若宮年魚麻呂(ワカミヤノアユマロ)が誦んだとされています。「誦む」は、古歌など既存の歌を口にだして人前で歌う事を言うのだそうです。もし、この歌が口伝されたものだったとしたら、古来から「国のはたて」にまで「咲きにける桜の花」があったことになります。
かざし(頭挿)やかづら(鬘)は、草木の花や葉・実などを冠や髪などに飾ることいい、元々は植物の生命力などにあやかる呪い的な意味合いが濃かったのだそうです。
もう少し古い時代では、日本書紀・允恭天皇8年2月条に「花ぐはし 桜の愛で 同(こと)愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら」と、允恭天皇が桜の花を見て衣通郎姫を思ったと言う歌が載っています。「どうせならもっと早くから愛せばよかった」と、見事に咲く桜の花に衣通郎姫の美しさを喩えています。
この他、桜の樹皮が「桜皮(かには)」と呼ばれ、舟に使用された事が万葉集(6-942)にはみえます。けれど、漢方で桜皮(おうひ)と呼ばれる乾燥させた桜の樹皮は、江戸時代頃の民間療法が発祥だと言われますし、現在のような桜の実(サクランボ)が採取できる桜(桜桃・オウトウ)が日本に入ってきたのも明治になってからだそうです。古代の桜の利用価値は、同時期に咲く梅や桃ほどではなかったのかもしれません。
でも、歌に詠まれた数が少なかろうが、利用価値がなかろうが、在来種であった桜のその樹木や花姿は、頭挿にされる資格を持ち、容姿端麗で有名な衣通郎姫に喩えられるなど、古代の人々の生活の中で充分愛されていたように思えます。
貴方は、この春何処かへ桜を見に行かれましたか。
己が根元に散る桜。儚く薄い花びらは、白く散って茶色になり土に返ります。桜の一年は、花が散って終わるのだそうです。
新しい一年に向けて葉を広げる桜の樹のように、良き一年が貴方にも訪れますように。(^人^)
去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも (8-1430)
・・・去年の春に出逢えた貴方への募る恋心のせいかな? 今年は桜の花が貴方を迎えるように咲いてるようですね。
【4】 「卯の花くたし」 (08.5.16.発行 Vol.21に掲載)
新緑の季節になってきましたね♪春を楽しませてくれた梅や桜は既に葉だらけで、どれがどれやら?何が何やら?の状態で・・・私には、さっぱり分からなくなってしまいました。^^;
でも、お日様に透ける若葉を見上げると、何だかホッとした気分になります。四季のある日本では、この時期を過ぎるといよいよ梅雨に入り、ついつい憂鬱な気分になりがちです。
この時期に梅雨の走りのように降る雨は、「卯の花くたし」と呼ばれるようです。
卯の花(ウツギ) |
「卯の花」は、卯月と呼ばれる旧暦の4月(今の5月から6月頃)に見頃を迎えるウツギの別称で、「くたし」は「腐し」と書いて、文字通り腐るようにものが痛んでしまう事を言います。「卯の花くたし」は、「盛りのウツギの花を傷めてしまう雨」と言うような意味合いでしょうか。
卯の花を腐す長雨の始水に寄る木屑なす寄らむ子もがも(19-4217)
・・・卯の花のダメにしてしまうような長雨。流れてゆくその流れの先の方に木屑が集まってくるように、私にもまとわりついてくれる子があればいいのになぁ。
「卯の花くたし」とそのままの言葉で詠まれてはいませんが、「霖雨(ながめ)の晴れぬる時に作る歌」とある大伴家持のこの歌の「卯の花を腐す長雨」が「卯の花腐し」と言う名を生んだと言われているんだそうです。
長雨で川なんかが増水したんでしょうね。そういう流れの先の方には、流されてきた様々な物が集まってきます。家持さんって、愛妻家でいらっしゃったようですが、そんなに子沢山ではなかったみたいです。
この歌は越中赴任中の歌になるんだそうです。雨に降り篭められた数日間、やっと見えた晴れ間に口には出さない日頃の思いが目の前の風景と重なったと言う感じがしないでもありません。
実は、肝心の「卯の花くたし」の言葉がきちんと歌の中に入ったのが万葉集にあってですね・・^^;
春されば卯の花ぐたし我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも(10-1899)
・・・春になると、垣根の卯の花を無茶苦茶にしながらも私が通ったあの人の元。その垣根も今はもうすっかり荒れてしまったろうなぁ。
確かに「卯の花ぐたし」と出てきます。ですが、これは雨の異名(名詞)としてではなく、垣根の卯の花を「痛めて」と言う意味(動詞)になるようです。上の家持の歌以前「腐す」は、人が「痛めさせてしまう。ダメにしてしまう」などの意味で使われる事が多かったそうです。
ざぁざぁ・・しとしと・・雨の降る日は静かです。水が音を吸うのでしょうか。それとも、雨が人を無口にするのでしょうか。時々轍が跳ね除けてゆく水音だけが聞こえてくる・・・。暫く続く卯の花くたし。この間に何かひとつ事がなればいいな♪(^^)
わがやどのかきねや春をへだつらん夏きにけりとみゆる卯の花 (源順 拾遺集)
卯の花は、春と夏との境を知らせる花でもあったようですね。春の次は、夏を待ちますか♪(笑)
参考ページ: 万葉の花「うつぎ」について 笑いネコの部屋
【5】 「赤駒のはらばふ田居」 (08.8.1.発行 Vol.27に掲載)
飛鳥藤原第145次発掘調査の現場と言っても、ピンと来られる方は少ないと思います。が、雷の交差点の東、山田道沿いの石神遺跡第19次発掘調査地、7世紀中頃の山田道が出た所と言えば、かなりの方がお分かりになると思います。
西から |
調査が終わり、報道発表も一段落すると、あれだけ騒がれた事が嘘のように現場は静寂を取り戻し、当然埋め戻され、後は元の田んぼに戻るのをただ待つ剥き出しの地面は、そのうちに丈のある草が地面を覆うようになっていました。
昨年の秋、いつものように飛鳥資料館からの帰り道、橿原神宮前駅を目指して山田道歩いていました。「いつごろ田んぼに戻るんやろね」なんて話をしながら通り掛かったその場所は、遠目には次の耕作時期を待っている普通の休耕田のように見えました。
が、段々と近づいてきて・・よく見ると・・生い茂った草の間にキラっと光るものが見えるのです。
昨年秋の石神遺跡(東から) |
あれ?水??畦道を挟んだ周りの田んぼには、そんな光景は見られませんでした。
ほんの一瞬、ほんとーに頭の中をいろんな事が駆け巡りました。 ・・・七世紀以後封じ込められていた地下水がまた現代に現れたんやない?
飛鳥の平地の殆どは、こんな状態やったんやない?
飛鳥の南側に配置されている渡来系の人々の居住地。渡来の灌漑技術や鉄製農機具の力。飛鳥が石と水の都と言われる由縁。頻繁に氾濫したと言う飛鳥川と地下からの湧水との戦いこそが今へと続く飛鳥の歴史なのかもしれない・・。
氾濫する飛鳥川を、湧き出る地下水を、如何に取り込み操作するかが飛鳥の都造りの基本であったのかもしれないと。
大君は神にしませば赤駒のはらばふ田居を都となしつ 19-4260
「壬申の年の乱の平定まりし以後の歌」と言う題詞を持つこの歌は、乱の有名な功臣馬来田・吹負の甥である大伴御行の歌とされています。だとすれば、この歌の「大君」は天武、「都」は飛鳥浄御原宮一帯と言う事になります。「赤駒のはらばふ田居」は湿地や泥炭地の事をさすと言われています。
飛鳥での現地説明会に出向かれたことのある方は、現場の片隅で青いホースをご覧になったことがあると思います。湧き出る地下水を汲み上げるためのこの設備は、飛鳥ではよく見かける光景です。発掘作業中からジクジクと湧き出していた水は、一枚の田んぼを元の湿地に変えたのでしょうか。
大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都となしつ
上記の歌の続いて万葉集に収められている一首で、「水鳥のすだく水沼」も、「赤駒のはらばふ田居」と似た様な状景をさすと考えられます。
これら2首の歌に関しては、様々な取り様があるようですし、勿論、この歌が飛鳥のこの場所を特定して詠ったものだというつもりもありません。けれど、歌には時折り、ほんとうに何気なくさりげなく原風景が記録されていたりするんじゃないかと。
古代の風景の、それも一部が私たちの目の前に姿を現すのは、それこそ調査中のほんの一時にしかすぎません。
何故に湿地が道に成り得たか・・当時の権力者たちの意向を窺い知ることは難しいのかもしれません。が、此処を道にし得た・・古代の人々の知恵と技術の一端を覗かせて貰うことは、現代に生きる私たちにも可能です。
【6】 「秋の風」 (08.9.5.発行 Vol.30に掲載)
朝夕は、日増しに秋めいてきた今日この頃の関西ですが、皆さんのところはいかがですか。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる
と詠んだのは平安歌人の藤原敏行ですが、今でも一番に秋を知らせてくれる のは、やはり「風」なんじゃないかと思います。
カーテンを膨らませて窓の下に落ちる風、すり抜けてくる風。熱気を孕んだ夏の風とは違い、初秋の風はこちらの熱をさらっていってくれるような気がします。
万葉歌人の額田王も秋風の歌を残しています。
君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く 4-488
目の前で起こったことをただ詠んだだけのように思える歌ですよね。「貴方を待って」ると、目の前の「簾を秋風が動かした」だけですからね。『だから何なんだ!』って話ですよね。(これ)
そう思わないためには、次に載せられている鏡女王の歌と対で読むと面白いと思います。
風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ 4-489
・・・たとえ風でも恋しく思えるのは羨ましい。たとえ風でも必ず来るものだと待てたのなら何を嘆きましょうか。
「たとえ風でも待てるだけ・・・」と鏡女王が語ったのは、額田王の家の簾を動かした秋の風です。そのうえ「待つ甲斐のある風があれば何を嘆く」と言っています。
「待つ甲斐のある風」と「待っても甲斐の無い風」。この二人の間で「風」は、対照的に詠われています。そして、その「風」に託され隠されているのは、言わずと知れた「愛しい人」。
では、その愛しい人とは誰なんでしょうか。
額田王の歌の題詞に「額田王、近江天皇を偲ひて作る歌一首」とあります。鏡女王と額田王は姉妹だとされ、額田王は大海人皇子(後の天武天皇)の後に天智天皇に嫁し、鏡女王も一時、天智天皇の妻であったと言われています。(勿論異説もあります。)
もはや寵を得られない者が寵を受ける者の歌に和す。何だかちょっと背筋が寒くなる設定ですが(笑)、これらの歌にそういう鬱々としたものを感じないのは、私だけでしょうか。
仲の良い姉妹が秋風に寄せて互いの近況を詠みあった・・その程度の軽い日常会話なんじゃないかと。
妹「家の簾をもう秋風が揺らしていくのよ。」 姉「あら・・。貴女のところにはもう秋風が吹くのね。」 ・・・と言う具合に。
風は、待ち人を連れてくると思われたころもあったそうで、この歌にもそういう感情が潜んでいるのかもしれません。
暑い夏の終わりを告げてくれる初秋の風は、他のどの季節の風よりも、心待ちにされたんではないでしょうか。
そこで「心待ちにするもの」の例として、「愛しい人」が引き合いに出され、案外二人は薄笑みしながらこの歌をやり取りしたのかも・・と思ってみたりするσ(^^)です。
そうそう・・秋と言えば、「飽き」と掛けることで、寂しい気持ちが詠われているようにも取れますが、万葉の時代には「秋」はそのような意味を持ちません。
参考ページ:飛鳥遊訪文庫・伏見の飛鳥やぶにらみ
また、額田王・鏡女王のこれらの歌自体が、後世の仮託だとする説もありますが、これからの秋の夜長・・・歌は歌として楽しめれば、そんなことはどうでもいいような気がするももでした。(笑)
【7】 「朝なぎに・・」 (08.11.7.発行 Vol.35に掲載)
朝なぎに来寄る白波見まく欲り我はすれども風こそ寄せね
これは何でしょう?・・・って、歌ですよね。(^^ゞ
訳すと、だいたい「朝なぎに寄せてくる白い波を見たいと思うけど風すら吹いてはくれない」というようになって、想っている人がなかなか振り向いてくれない嘆きを詠った歌、つまりは辛い片思いの歌でしょうか。
この歌は万葉集におさめられているもので、冒頭にあたる14文字が、先月半ばごろ飛鳥・石神遺跡出土木簡から、発見されました。といっても、新たな発掘現場ではなく、2003年の調査で出土した木簡になります。 「留之良奈●麻久(●=人偏に尓)」「阿佐奈伎尓伎也」と2列に書かれた文字は、当初「歌木簡かも?」と言われていたようですが、左から読むことによって「あさなぎの・・」の歌だと判定されたようです。この歌木簡が、現在万葉集に掲載された歌の書かれた最古の木簡となります。
「歌木簡」といわれるものには、「難波津の歌」と呼ばれる「難波津に咲くやこの花冬ごもり今は春べと咲くやこの花」と推定される歌の書かれたものが特に有名です。この歌は、土器や法隆寺五重塔の落書きなど木簡以外からも発見されていて、全部あわせると30例は超えるそうです。この他、「皮留久佐乃皮斯米之刀斯(はるくさのはじめのとし)」の難波宮跡出土のものや、「阿之乃皮尓之母(あしのはにしも)」と読める歌木簡か?といわれる石神遺跡出土のものなど、多数あるようです。
この歌(らしきもの?)が書かれた「歌木簡」と呼ばれる中で、万葉集の歌が記されているものが「万葉歌木簡」と言われ、とりわけ脚光を浴び、特別扱いされることになるみたいですね。
さて、木簡と言えば、木片に墨で書かれたものを普通思い浮かべますよね。ところがです!石神の万葉歌木簡は、木片に墨ではなく、小刀のようなもので文字が刻み付けられていたんだそうです。刻書とよばれるこの方法が、どれだけ一般的であったかは知りませんが、お仕事や公的な場所で使用されたものでないことだけは確かだと思います。
墨でなく、1字1字・・ひと彫りひと彫り・・刻みつけられたこの歌。墨が手近になかったのか、墨を使える立場になかったのか・・けれども文字を知る人間。この歌の書き手は、一体どんな人だったのでしょう。
歌とはあまり縁のない暮らしをしている誰かが、叶わぬ恋に夜も日も開けず・・
甲:「今のお前とよく似た歌があるぞ」 乙:「歌?どんな?」 甲:「朝なぎに来寄る白波見まく欲り・・・」 乙: ・・・絶句・・「書いて帰ろう・・」
何ていう会話が交わされて、聞き覚えた歌を手近の不要になった木簡に刻みつけては溜息を・・。なんていうのは、想像力逞し過ぎですね。(^^ゞ
話は随分逸れましたが。
この石神の万葉歌木簡発見の意義は、万葉集が完成したとされる8世紀後半よりも、約1世紀近く前、既にこの歌が存在していたというところにあります。
この歌は「海に奇する」として括られた巻7の6首のうちのひとつで、詠み人しらずとされています。「詠み人しらず」という、「誰が」「いつ」詠んだものかよくわからない歌。人から人へと伝わってきた歌が石神では文字となり、やがて万葉集となり、今現在に残る。
飛鳥でこの歌を書きつけた彼(勝手に彼にしちゃいました(笑))が、千年以上も経ってから、自分の書き記したものが、こんなに取り沙汰されるとは思ってもいなかったでしょうね。(笑)
もしかしたら、ラブレターの書き損じ?彼女の前で歌を諳んじるためのカンニングペーパー?
こういう風に、一片の木簡から色々と思いを馳せ妄想を膨らませるのもまた楽し♪ってとこでしょうか。(笑)
あ・・最後になりましたが、万葉歌木簡は現在のところ3例あり、全て今年になってから発見されたものになります。今後、昔の木簡をひとつづつ当たり直すことで、また新たな発見があるかもということです。
削り屑だと思われていた厚さ1mmの木簡から万葉歌が見つけられた滋賀県甲賀市の宮町遺跡の例もありますから、それこそ気の遠くなるような作業ですよね。^^;ご苦労様です。m(__)m(誰に言ってる??(笑))
・・・ですが、あらたな発見を密かに(笑)期待しております♪
***万葉歌木簡データ***
*朝なぎに来寄る白波見まく欲り我はすれども風こそ寄せね 「阿佐奈伎尓伎也」「留之良奈●麻久」の刻書による14文字 (●=人偏に尓) 9.1×5.5×0.6cm 石神遺跡第16次調査区(2003年出土) 年代:7世紀後半 *秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ゆけば風をいたみかも 「阿支波支乃之多波毛美智」の墨書きによる11文字。 23×2.4×1cm(推定長60cm) 京都府木津川市木津の馬場南遺跡から出土。 年代:760~780年
*安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに 「阿佐可夜」「流夜真」の墨書きによる7文字 7.9×2.2×0.1cmと14×2.2×0.1cm (推定長60cm) 滋賀県甲賀市の宮町遺跡(1997年出土)
年代:745年前後
【8】 「初春の・・」 (09.1.4.発行 Vol.40に掲載)
あけましておめでとうございます。
・・って、こういう改まった時のご挨拶ってどうも苦手なんですよね。(^_^;)ま、社会生活をするうえでの潤滑油なんだからと、諭されたこともあるんですが、相変わらず苦手意識は消えません。(笑)
苦手だ苦手だと言っているだけじゃ一向に始まらないので、昔の人はどうなんだろう?と、少し新年らしい歌を探してみました。
「はつはるに~」とか「はつはるの~」なんて言う言葉で始まるのは、ありきたりな気がして面白くないなぁ~と思いつつ、とりあえず手始めに探してみると・・・・。「はつはる」で始まる歌は、万葉集には一首しかありませんでした。あらま。で、三十一文字の中に「はつはる」を含むのも他に一首だけ。あらま! 4500首近くある歌の中で「初春」と入るのは、たったの2首しかありません。・・珍しいんや♪と、何となく興味の出てくるももであったりします。(笑)
さて、その2首ですが、どちらも大伴家持の作になります。
初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒 (4493)
新しき年の初めの初春の今日降る雪のいやしけ吉事 (4516)
一首目は、「初春の初子(はつね)日の今日。玉箒を手に取るとすぐに揺らめいて音を立てるこの玉の緒」となります。玉箒はホウキに玉飾りのついたもので、正倉院南倉に「子日目利箒(ねのひのめとぎぼうき)」と言うのが現存していて、枝に色とりどりの小さなガラス玉が嵌め込まれている・・そうです。が、模造品の画像を見ても・・わかりません。(^_^;) ま、箒と言ってもこれは実際に使用したのではなく儀式用だということです。
参考:子日目利箒模造品
話が思いっきり逸れちゃいましたが。^^;
箒の飾りが揺らめいて音を立てたからなんやねん?!って話ですが、正月早々幸先が良いというか、何だか良いことがありそうな予感がする何ていう意味を含むようです。ま、寿ぎの歌ってことになるんでしょうか?
2首目は、万葉集の最後に載る有名な歌ですので、ご存知の方も多いと思います。万事を褒めて事をおさめるというか・・。ま、どちらの歌も簡単に言ってしまえば、お目出度い歌と言う事になるんでしょうね。
2首とも、三句目までが新春(おついたち限定?)であることを言い続け
てます。
「初春」「初子」「今日」と「新しき年」「初め」「初春」
こんなにまで重ねなくても、「初春」っていやぁ新年やろ!「初の子の日」って言うからには1月初旬やろ!と思わなくもないですが、この重ね具合が家持なんだそうです。家持さんて重ねるのが好きなんでしょうか。(笑)
「この日」と、殊更重ねて言う事で日を限定し、「その日」をより重要なものだと認識させる意味があるんだそうです。確かに・・へ理屈をこねずにこの歌を口にしてみると、間に入った「の」のお陰か結構スラスラと違和感なく読めてしまうもんです。さすが家持さん♪
この「はつはる」と言う表現は、漢語の正月をさす「初春(しょしゅん)」の翻読語だそうです。「初」と言う表現は、家持さんが好んで使ったんだそうですから、この「はつはる」も家持さんが好んだ結果使い始めたってことになるんでしょうかね。
家持さんの歌は歌でいいんですが、今の私たちの生活にはちょっとピント来ない部分もあります。ということで、こんな歌はいかがでしょう?
新しき年の始めに思ふどちい群れてをれば嬉しくもあるか (4284)
・・新年にお互い気の合うもの同士集まっているのは嬉しいことじゃないか。
なにかと有り難いものは、気のおけない仲間なのかもしれませんね。 「新しき年の初めに」第12回定例会が行われます♪「思ふどち」の仲間に貴方も是非♪飛鳥をキーワードに「い群れてを」る仲間に加わりませんか♪お申し込みは、本日深夜まで♪ご参加お待ちしてます。(^^) (第12回定例会は終了しております。)
【9】 「高麗寺と木津川」 (09.3.6.発行 Vol.45に掲載)
高麗寺跡を、ご存知でしょうか。京都・木津川縁にある古代寺院跡で、ここ数年史跡整備の為の発掘調査が継続的に行われていました。
さて今回は、少し飛鳥の地から離れますが、時代が飛鳥近辺をウロウロすると言う事で、この高麗寺跡のお話をさせて頂きます。
まずは、高麗寺の南を流れる木津川のお話を少し。
木津川は、古代「泉川(泉河)」とも言われ、万葉集にも詠み込まれています。田上山から切り出した木材を藤原宮まで運ぶ行程を詠ったものとして「藤原の宮の役民の作る歌(1-50)」は有名です。木材運搬に利用されたぐらいですから、木津川は水量豊かな河川であったのでしょう。
では、次に高麗寺跡からの遺物などのお話を。とりあえず、主なものをざっとあげてみますと、
飛鳥寺創建瓦と同笵瓦・川原寺創建瓦と同笵瓦・渡金された塔の相輪の一
部(擦官と呼ばれる箇所になります)・瓦積み基壇・鴟尾2種・横穴式舎利孔を持つ塔心礎(崇福寺式)・築地塀・・など。 (*同笵瓦=瓦製作時に使用した型が同じ瓦。)
これらの遺物や遺構から、高麗寺の往時の姿を想像してみますと、まず7世紀前半(610年頃)に飛鳥寺創建瓦を用いて造営が開始されます。この頃のものと思われる羽を模したような紋様のある鴟尾も出土していますので、南門には鴟尾が乗っていた可能性もあります。が、この時期の伽藍がどの程度のものであったか正確には不明なようです。
その後、7世紀後半(660年以降)に川原寺創建瓦を用いて伽藍整備がされます。この時代に構築されたのが、今のところ遺構として確認された最古の築地塀になります。この築地塀が取り付く南門は、八脚門といわれるかなり立派な造りであったようで、こちらには赤土で彩色された無紋の鴟尾が乗っていたと考えられています。また、塔の相輪は黄金に輝いていたはずです。
木津川の辺縁部に建つ高麗寺は、岸壁に聳え立つように建てられています。対岸や船上の人々に対して南からの正面外観を意識して、南門や鴟尾、塔などは計画されたと考えられています。
この高麗寺、飛鳥寺と川原寺の創建瓦を使用していることが、かなり気になるσ(^^)なのです。
|
|
高麗寺出土瓦 |
通常、瓦の同笵関係からは、造営氏族同士の繋がりが推定されます。高麗寺で使用された川原寺の瓦笵(瓦の型)は、川原寺からもたらされ、その後に大津の寺院へと渡ったことが分っているようです。また、高麗寺が大津の崇福寺と同じ形態の塔芯礎を持つことも、高麗寺と大津との関係を強めるように思えます。残念ながら飛鳥寺とのつながりは、私の知る限り瓦の同笵関係だけですが、もしかしたら、他にも何か技術的な共通点があったのかもしれません。ここまでくると、氏族苦手のσ(^^)には、もう「狛氏って何者?」状態です。^^;
狛氏は、高句麗系の渡来氏族で日本海を経て、この地に地盤を持ったとも言われています。木津川周辺には「狛」と付く地名が今も残っていますし、狛氏の居館跡ではないかと思われる遺構も付近から見つかっているようです。狛氏が、奈良内陸部に進出しなかったのは、渡来の時期が遅かったためだとも言われているようですが、飛鳥で東漢らの技術力を掌握して上り詰めていく蘇我氏と木津川の際で地道に生活する狛氏・・・何ていう単純な話ではないはずです。
木津川流域も飛鳥同様にかなり地盤の悪い土地もあったそうですから、飛鳥南部に居住した渡来系の人々と同じように、狛氏も灌漑や土木などの様々な技術力を背景に此処に居を構えたとも考えられます。
奈良内陸部・飛鳥が持たない「何か」を仲立ちとして、その時々に外部と繋がりを持ちつつ、木津川の北岸から時代の動向を見つめていたのかもしれません。
古代河川交通の要所である木津川を、狛氏は「超えることが出来なかった」のか、あるいは「あえて超えなかった」のか。今も安居院として法灯を繋ぐものの早くに滅亡してしまった飛鳥寺の蘇我氏と、7世紀後半から整備され平安頃まで存続したと思われる高麗寺の創建氏族・狛氏とを比べると、どちらが勝ち組か・・なんて、流行りの言葉が脳裏をよぎります。
σ(^^)の大好きな「土くれ」と、気になる「渡来」の文字がチラつく高麗寺ですが、いよいよ来年度から史跡公園としての本格整備が始まるようです。基壇、門、築地塀などが復元され、完成は2012年度の予定だそうです。すぐ横に高麗寺専門の小さな資料館が建たないかなぁ~♪
川の瀬のたぎつを見れば玉かも散り乱れたる川の常かも (9-1685)
彦星の挿頭(かざし)の玉の妻恋に乱れにけらしこの川の瀬に (9-1686)
「泉の川辺にして間人宿禰が作る歌二首」として万葉集に載るこの2首も、古代の木津川の川面の様子を良くあらわしているように思えます。(詠み人の間人宿禰は、未詳とされていますが、その姓から天武期以降の人物だと推定されています。)
【10】 「チガヤ」 (09.5.15.発行 Vol.51に掲載)
野山や里、街を新緑と色とりどりの花が彩る季節になりました。さて、そんな色彩豊かな季節にこんなお話。相変わらずヒネクレモノのももは、色気のない”草”絡みのお話を少しさせて頂こうと思います。
先日の定例会でも、ただの草が、実は如何に有効であるかの話を聞いたばかりなので言わば旬の話題かと。(かなり、違うようにも思うけど。^^;)
『茅(チガヤ)』と言う”草”をご存知でしょうか。と言っても、σ(^^)がこの”草”の存在を知ったのも、つい数年前なんですがね。(^^ゞ(話せば長くなるので、ここでは割愛(笑))
茅は、5月頃に銀色の穂を出し、パッと見は、小さめのススキか少し大きめのネコジャラシのようにも見えます。今では雑草と呼ばれる部類に入る草のようですが(「雑草と言う名の植物はない!」との声が聞こえてくるような・・・。(^_^;))σ(^^)は、銀色に靡く茅の群生、一度見てみたいと思っています♪
茅 |
この「茅」は、万葉集に30首ほど登場しますが、その殆どが「浅茅(アサヂ)」「浅茅(が)原」など、人気のない所や荒れた野などを表す決まり文句のように使われています。
つまり、わざわざ個別に取り上げるほどの”草”でも無い?^^; そんな中で、「ちょっと面白いかも?」と思える贈答歌を見つけました。
戯奴(わけ)がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食(め)して肥えませ
(8-1460)
・・・お前の為に春の野で忙しさをぬって手ずから摘んだこの茅花を食べて肥えなさい。
我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる茅花を食(は)めどいや痩せに痩す
(8-1462)
・・・ご主人様をこの私めは恋しくお慕いしているようです。賜った茅花を頂きましたけれど、ますます痩せていくばかりです。
葉よりも先に出る茅の花芽を「茅花(ツバナ)」と言い、昔は滋養のある食べ物だとされていたそうです。少し調べてみるとこの茅花、噛めば甘みが出てくるとか・・。「甘み」が貴重だった昔は、そういう意味でも滋養があるとされたんでしょうか。
1首目は、紀郎女の「合歓の花と茅花とを折り攀ぢて贈る」の左注をもつうちの1首で、2首目が大伴家持からの返歌になります。
紀郎女の歌の冒頭にある「戯奴(ワケ)」は、使用人などに対して用いられた言葉だそうで、確かに家持は彼女よりも年下ですが、主従関係にあるわけではありません。(笑)
この遣り取りとは別に、家持の方から自らを「ワケ」と呼んだ歌が紀郎女に贈られています。(4-780)この歌は、それをまた戯れに使用し詠み返したとも考えられるそうです。
「合歓や茅花の季節になりましたね。」と、ありきたりではなく、こんな風に洒落た掛け合いの歌を遣り取りできる関係が羨ましくも思います。(これらの歌は、分類では戯笑歌になるようです。)
またこの他に紀郎女と家持が遣り取りした歌には、「女性の方が年長」という背景が時折り見え隠れします。彼女の「神さぶと(年をとっていますから・・)(4‐762)」の歌が最も分かり易いかもしれません。家持よりも年長である事実が時折り彼女の寂しさを増幅させたのかもしれません。この歌に対して家持は「百年に老舌出でて(たとえ、歯が抜け腰が曲がろうとも・・)(4‐764)」という歌を返しています。が、それを手放しで喜ぶ彼女ではなかったとも思いますが、打てば予想以上に響いてくる若い家持は、年上のおばさんにとっては、楽しくもあり、時々寂しくもあり・・の人生の良いスパイスになっていたんじゃないでしょうか。(^^)
あら・・・今回は、茅の話のはずが、毎度のことで遥か彼方へ逸れて行ってしまいました・・。^^;
で、話せば長くなる違う方面からの茅のお話は、またの機会にでも。(笑)
|