両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



ももと

飛鳥と三十一文字と



もも
ひとしひとひら



 万葉集にはド素人の私・ももが、今更一語一句の解説をしても始まらん・・
と言う事で
ももにとってタイムリーな話題に歌を交えながらお話できたらと思っています。

七夕
古代の橋
ぬばたま
ももの宮滝
檜前
檜前2
水無月
古代の桃
明日香の風
10 志斐ばあさん
6号から51号までのももと飛鳥と三十一文字は、こちら♪


【1】 「七夕」  (09.7.17.発行 Vol.57に掲載)

 10日前の七夕の夜、牽牛と織女が無事逢えただろうか・・・と、空を見上げた方もいらっしゃると思います。お天気は、やっぱりイマイチでしたね。^^;
 さてこの七夕伝説、川を挟んで住む二人、間に横たわる天の川を一体どうやって渡っていると皆さんは想像なさっています?

 百人一首に、大伴家持の次のような歌があります。

  かささぎの渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける (6)

 この歌自体は、七夕を詠んだものではありませんが、「増水で川が渡れなくなったことを嘆く織女を見て、かわいそうに思った天のカササギが自ら橋となった」と言う中国の伝承を踏まえた歌だそうです。(中国では、川を渡るのは織女)
 カササギは、背や尾が黒っぽくてお腹が白い為に、その群れを下から見るとまるで橋を掛けたように見えるんだとか。カササギって、ご存知ですか?
 σ(^^)は、わかりません。(^_^;) このカササギ、中国では馴染みのある鳥のようですが、日本には一部地域にしか生息していないようです。あらま。ですが、この「カササギの橋」の話は、当時の貴族には当たり前の知識だったのでしょうね。

 また、旧暦の7月7日(新暦だと、今年は8月26日)は、お月様が下弦の月になるので、これを舟に見立て、天の川には渡しが現れるとも考えられたようです。(実際には、月が牽牛(アルタイル)と織女(ベガ)の間を通ることはないそうですが。)

 万葉集には、130首を超える七夕の歌があります。牽牛と織女が年に一度だけ逢うための方法は、徒歩、舟、橋など様々に描かれています。今回はこの中から「橋」を抜き出してみようと思います。なぜに橋?って? 歌数が一番少ないんです。^^;

 天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ(10-2081)
  ― 天の川に棚橋を渡そう。織女が渡ることのできるように。

 この「棚橋」は、辞書によると「仮の橋」または「棚板のように岸にのせただけの橋」となっています。一夜限りの逢瀬の橋は仮の橋で充分、いや、仮の橋でないと意味がないのかもしれませんね。で、七夕に関係する橋は、この「棚橋」以外には、

 機物のまね木持ち行きて天の川打橋渡す君が来むため(10-2062)
  ― 機織の踏み板を持って行って天の川に打橋を渡しましょう。貴方が来られるように。

 織女は、“まね木”(機織り機の踏み板)で橋を架けます。毎日仕事に使っている機織り機の一部を橋に転用するんですから、これに勝る仮の橋はないでしょうね。
 「打ち」には、「ちょっと・軽く」なんていう意味もあるんだそうですから、「打橋」には「ちょっと簡単に渡した橋」という意味もあるのかもしれません。とすると、「打橋」も「棚橋」もどちらも似たような「ささっと架けられる橋」ということになります。
 万葉集中で「橋」が詠まれたものは25首を越えるんですが、「棚橋」と言うのは、七夕関係の歌の中に2首あるだけです。タナバタとタナハシ。この音の響き・・何か意味があるのか?と思わず考えてしまいませんか?織女が棚機津女(タナバタツメ)と呼ばれたことに関係するのかとも思えるのですが。どうでしょう?
 また、「打橋」の方は、七夕以外の歌にも出てきます。有名なところでは、柿本人麻呂が明日香皇女の死に際して詠んだ

 飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡す 下つ瀬に 打橋渡す・・・
                                             (2-196)

があります。ここに出てくる「石橋」は、石製の頑丈な橋のことでではなく、飛鳥・稲淵にある飛び石のように浅瀬に石を並べたものをいいます。
 この他、万葉集には「継橋」「舟橋」「浮橋」などの橋も出てきます。が、これらもみな先の三つの橋と同じような簡易な橋になります。

 はて?万葉時代の橋は、こんな簡易な橋ばかりだったのでしょうか。ということで、七夕から始まるももの橋探しは、次回につづく・・・か?(^_^;)



【2】 「古代の橋」  (09.9.4.発行 Vol.61に掲載)

 前回(57号)に続き、七夕から始まるももの古代の橋探しにお付き合いのほど、よろしくお願いします。(^^ゞ

 古代の橋ということで万葉歌ではありませんが、日本書記の壬申の乱のところに面白い記事があります。
 まず、近江側が宇治橋の橋守に命じて、大海人皇子側の舎人が運ぶ荷を妨害しようとする話。そして、乱も終盤の頃に東から侵攻してくる大海人軍を阻止しようと、近江軍が瀬田橋に細工をする話。

 宇治橋は、大化2年(646)に、僧・道登と道昭によって始めて架設されたとする説が有力です。また瀬田橋は、現在よりわずかに北で古代橋脚の遺構(唐橋遺跡)が検出されています。この遺構は、7世紀後半のものとされ、壬申の乱時の瀬田橋ではないかと言われています。この瀬田橋・宇治橋は、山崎橋(山城国山崎?橋本間に架かっていたとされる橋で、現在はありません)と合わせて日本三古橋とよばれるそうです。

 では、万葉集に出てくる大きめの橋はというと、

 しな照る 片足羽川の さ丹塗りの 大橋の上ゆ・・・(9-1742)
 石上布留の高橋高々に妹が待つらむ夜そ更けにける  (12-2997)

などが挙げられるようです。

 1首目は、「さ丹塗りの大橋」が赤く塗られた立派な橋のことだと考えられ、片足羽川の候補としては、題詞に「河内の大橋を・・・」とあることから、河内を流れる大和川、もしくは石川とされています。また、2首目の「布留の高橋」は、同名の橋が今も石上神宮付近にあります。が、古代のものと同じ場所かどうかはわかりません。

 で、これらが事実だとすると、壬申の乱時の「瀬田橋」や「宇治橋」は、7世紀代、歌にある「河内の大橋」や「布留の高橋」も、万葉の時代には存在していたことになります。

 ではその頃、肝心の飛鳥地域に、橋は掛かっていなかったのでしょうか。

 橋や橋脚で遺構を調べてみると、飛鳥・藤原地区でも結構あるんですが、大抵は藤原京の条坊路の側溝などに架かる小規模なもので、それでも飛鳥古京内では今のところ見当たりませんでした。

 ここでまた、壬申の乱の記事になりますが、飛鳥古京の戦いで古京を死守する為に大海人側の荒田尾直赤麻呂らは、道路の橋の板を剥がして道に立てかけ、盾に見せかけて近江側を騙すくだりがあります。

 「赤麻呂等詣古京、而解取道路橋板。作楯、堅於京辺衢以守之。」

 原文にも、確かに「橋板」と言う文字が出てきています。でも、この時剥ぎ取られたのは「道路の橋板」。あれ?橋が架かるのは川ですよね?道路に橋って何か妙な表現だと思いませんか?

 飛鳥・藤原地区で検出されている側溝などに掛かる小規模の橋のことでしょうか。遺構としては、まだ発見されてなくても、飛鳥浄御原以前の飛鳥にも溝ぐらいあったでしょうしね。それを渡るための小さな橋(いわゆるどぶ板ですね。(^_^;))があってもおかしくはないだろうし、そういう溝に架かったものを道路の橋といったとしたら・・と。
 でも、これだとあちこち走り回らないと沢山の「橋板」は集められませんよね。相手は、八口の高台から飛鳥古京を見て、立てかけられた橋板製の盾を沢山の伏兵の存在だと勘違いして退却までしているんですから、それなりの数が要ったはずです。

 橋と呼べるかどうかは謎ですが、ヌカルミに板を敷いて足元の安全確保などを図ったと思われる遺構があるんだそうです。ほぉ♪それならまさしく「路上の橋」ってことになりません?
 ヌカルミに敷かれた道の上の板。まさしく「道路の橋」ですよね。「橋」って、川を渡るためのものだとばかり思い込んでいましたが、「あっちからこっち」「こっちからあっち」と場所移動の為に使用される設備を「橋」って言うのか?と。そういえば、「水道橋」なんていうものもありますよね。あれも、水の為の橋ですよね。あ!陸橋なんていうのもありましたね。どうしてもっと早く気付かないかなぁ・・。(溜息)

 飛鳥が石の都と言われる由縁は、もともと水捌けのよくない土地だったと言う話を聞いたことがあります。確か石神遺跡の北側辺りもそうだったはずですし、飛鳥川も度々氾濫して氾濫源なんて遺構もあったりします。ヌカルミの上の板切れ。これって可能性として一番高いと思いません?(^^)

 残念ながら、飛鳥地域では今のところ大きな橋の痕跡はないんだそうです。歌にはいくつか詠まれていますが、それは前回七夕のときにお話したように、簡易な橋が殆どで実際に使用する近隣の人々によって架けられた生活密着型の橋であったと考えられます。

 明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心に思ほえぬかも (11-2701)

 万葉集に出てくる橋は、現実に目に見え渡れる橋をいうよりも、空間・時間的距離を「越えるもの・越えようとする意思」の表れとして用いられたようにも思えます。

 古代、隔絶された土地と土地を恒常的に結ぶことは、防衛の意味であまり好まれなかったのかもしれません。宇治橋や瀬田橋などの大きな橋には「橋守」と言う番人が置かれたことがその証でしょう。

 飛鳥地域で橋が架かっていたとしたら・・・どこ?どんな橋?なんてことを考えながら、飛鳥を歩くのも面白いかもしれません。(^^)



【3】 「ぬばたま」  (09.10.16.発行 Vol.64に掲載)

 あちらこちらで秋の気配が感じられるようになりました。飛鳥散策で見かける柿の実も青からオレンジへと移ろい始めています。暖かい色をした柿の実を眺めていると、日が短くなったことに対するお天道様からの少しばかりのお裾分けなのかなとも思えます。

 さて・・・この時期らしい話題ってなんだろうかとつらつらと考えていると、万葉集なんかで枕詞として使われる「ぬばたま」のことをふと思い出しました。


ヌバタマ

 というのもですね・・先日、久しぶりにお訪ねした橘寺の宝物殿脇で、見事にムラサキシキブが実をつけて枝をしならせているのを見かけまして。で、同じ丸い実をつけるものに、「ぬばたまなんていうのがあったなぁ~」と思い出したというわけでして。(^_^;)本当に、唐突で脈絡のない展開で申し訳ないと思いつつ、ま、秋の話題だから良いかってことで、今回はこの「ぬばたま」をお題に決めました。(笑)

 「ぬばたま」は、ヒオウギという草花の実のことで、黒くてまん丸の実になります。ヒオウギは、扁平な葉がその名の通り扇のように根元から葉先に向かって広がり、花のない春の時期にはその姿が目印にもなります。夏には緋色の花びらに一段濃い緋色の斑模様のある花が咲きます。


ヒオウギ

 草花が花から実へと色を受け継いでいく科学的な根拠などは全くしりませんが、ヒオウギのこの変化見ていると、花の緋色が実の黒に凝縮されたようにも思えてきます。「ぬばたま」が黒いのは、夏の熱気を閉じ込めたせい?なんてね(^^ゞ

 子らが家道やや間遠きをぬばたまの夜渡る月に競ひあへむかも (302)

 「ぬばたま」は、その色ゆえにでしょうか、万葉集などでは「黒」や黒から連想される「夜」や「髪」などの枕詞になり、秋という季節自体を呼び起こすものではないようです。枕詞というのは、訳す必要のない音の響きや字数合わせのものだと言われることもあるようですし、中には今ではあまり意味のわからない言葉もあります。ま、言葉って時代と共に移り変わるものですしね。

 芸術、読書、食欲と様々な言われ方をする秋ですが、今も昔も変わらないとすれば、それは日の短さ。人工の灯りが今ほどない昔は、今以上に日の短さが身に迫るものであったと思います。寄せる風が涼しく、早く訪れる闇は心細く人恋しく・・・この「人恋し」の「人」は「人肌」のことで、「人恋しい」は「人肌の熱が恋しい」ということなのかなと思えます。

 「ぬばたま」に託して愛しい人の髪を詠む、逢えない長い夜を詠む。それは人肌の恋しい秋の夜長、温かさを閉じ込めたぬばたまだからこそのように思えるももの秋の夜長です。

  ぬばたまの妹が黒髪今夜もか我がなき床に靡けて寝らむ (2564)
 
  ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を (3007)

 「ぬばたま」は、ただの黒ではなく艶のある黒で、あえていうなら漆黒になり、枕詞の「ぬばたまの」があらわしたいのは、この漆黒のイメージなんじゃないでしょうか。「ぬばたま」って、そのまま和の色名としても使えませんかね?ぬばたま色・・・これはちょっと不気味かな?(笑)

 秋の夜長の「ぬばたまの夜」貴方はどう過ごされますか。



【4】 「ももの宮滝」  (09.12.11.発行 Vol.68に掲載)

 今では何の不思議もなく通じる「宮滝」という呼び名ですが、この言葉は、万葉集には出てきません。歌や題詞にある「たぎつ河内の大宮ところ(921)」「滝の宮処(36)」などが吉野の離宮をさすと考えられて、「たぎつ宮処」が「宮滝」に転じたとされているようです。
 明日香川をはじめ、他の川でもしばしば使われる「たぎつ」や「滝」ですが、大和盆地内の川とは明らかに違う吉野川の「たぎつ」は、訪れた人々に強烈な印象を与えたと思えます。

 宮滝へ行かれたことがある方はご存知だと思いますが、宮滝周辺の川と岸壁は共に緑色を呈しています。石のせいか、川の深さのせいか、それとも水質の問題なのか・・・、、水も岩も緑色というのが、緑好きのσ(^^)にはたまらない魅力です♪(歴代の天皇や上流階級の貴族達が、果たして緑が好きだったかどうかは分かりませんが。(^^ゞ)

 吉野川流域の岸壁は、結晶片岩(緑色片岩)という緑を帯びた石です。2005年に発掘調査された明日香村・カヅマヤマ古墳の石室がこの結晶片岩のセン積みであったと言うほうが分かり易いかもしれませんね。この種の石材は、叩けば容易く板状に割れる性質だそうで、磚状に加工するには持ってこいだったのかもしれません。


宮滝付近

 上の画像は、三年ほど前の秋のものです、今回の特別回に参加したスタッフに聞いたところ、当日は雨にもかかわらず水量が少なかったそうです。どうやら、上流に出来たダムのせいで、近頃は鏡面のように凪いだ川面のことが多いんだそうです。そうなんだとしたら、少し寂しいです。。ですが、吉野の川は、深い緑色で滔滔と流れているという私の中のイメージは、いまだ変わりません。

 で、万葉集で吉野や宮滝の歌というと、前に風人さんが取り上げられた「み吉野の 耳我の嶺に 時なくぞ」や「淑き人のよしとよく見て」など天武天皇作だと言われる歌が飛鳥時代好きにはお馴染みでしょうが、この「み吉野の 耳我の嶺に・・」とそっくりな歌が巻13にありまして。

 み吉野の 御金の岳に 間なくぞ 雨は降るといふ 時じくぞ 雪は降るといふ その雨の 間なきがごと その雪の 時じきがごと 間もおちず我れはぞ恋ふる 妹が直香に (13-3293)
  ・・・美しい吉野の金峰山(か?)に間も置かず時も置かず降る雨や雪のように私は恋しく思っている。愛しい人を。

  で、こっちにはご丁寧に反歌まであります。

 み雪降る吉野の岳に居る雲の外に見し子に恋ひわたるかも (13-3294)
  ・・・美しい雪の降る吉野の山々の上の雲のように遠く離れているあの子を恋続けている。

 掲載順で行くと、天武御製とされている「耳我の嶺に」が先なわけですが、後に載る「御金が岳に」の方が、先んじて恋歌として吉野地方で歌われていたんじゃないかという説もあるようです。これも、年代順に並んでるわけではない万葉集の面白さなのかもしれませんが、年号や年代が苦手のσ(^^)には、この辺りがかなり苦労の種になります。(^_^;)

 吉野と言えば、やはり壬申の乱や持統天皇の吉野行幸の話が有名ですから、どうしても吉野=天武・持統のイメージが強くなります。でも、日本書紀をパラパラとめくっていると、応神・雄略期には、国樔人が醴酒を奉げたとか、栗・茸・鮎が献上されるようになったとか、穴人部(天皇のご飯を作るお仕事?)を設けた何ていう食物や猟に関係することが書かれいます。大和や河内の平地部とは違って、山と川に囲まれた吉野は貴重な食材の調達地だったのかと。でも、それだけってことはないよね?と。(笑)
 猟というのは、ただ鳥や獣を捕ることだけを目的にしたものじゃないというのを聞いたことがあります。山や川には食料以外に価値のある何かがあったのじゃないか。そのために猟と称して、度々出掛けてはその土地との繋がりを保とうとしたんじゃないのか・・・。

 斉明天皇以前の記事が史実かどうかはわかりませんが、吉野が古来から時の権力者に好まれた地であったことには間違いないとは思えます。
 持統の30数回にお及ぶ吉野行幸は、よく言われるただ単に天武統治時代への懐古だけではないと思うのです。(余談:もし持統が女性でなかったら、こんな風な言われ方をしたろうか?と思うこともあります。ちょっとそこの観点違いません?なんてね。(^^ゞ)

 壬申の乱や天武・持統も良いですが、違う吉野も面白いと思うのです。ちなみに、σ(^^)は、和泉とともに吉野に置かれた「監」というものにちょっぴり興味があります。そのうち、何か面白いことが見つかればな・・・と、今は思っているというところですが。(^^ゞ
 いやぁ・・吉野は奥深いです。で、難しいです。(^_^;)



【5】 「檜前」 (10.2.19.発行 Vol.74に掲載)

 「今、檜前が面白い!」とσ(^^)は思っています♪
 数年前までの檜前はというと、於美阿志神社の境内に檜隈寺跡があるだけの長閑ぁ~なところでした。が、最近渡来系の人々が居住していた痕跡が少しずつ出始め、僅かな文献記録と遺物だけで寂しかった歴史的背景解明にほんの少しですが進展がありました♪それは、百済に起源を持つ大壁遺構とL字形カマド(オンドルの簡易版?)が検出されたこと。どちらも、昨年の飛鳥遊訪マガジンに、あい坊さんやゆきさんが詳しい記事を書いてくださっていますので、皆さんもご存知だと思います。

 あい坊さん「飛鳥の渡来人と古代檜隈 -檜前遺跡群の調査成果から-
 ゆきさん「7世紀前半の檜隈寺の様相 -第156次調査から-

 古代檜隈の範囲は、北は欽明天皇陵(檜隈坂合陵)、東は天武・持統合葬墓(檜隈大内陵)、西は高取川付近までは含まれるとして、南は大壁建物跡の出た高取・観覚寺辺り、もしくは清水谷遺跡や森カシ谷遺跡付近までも含まれるという説があります。ま、大雑把に言うと、「今の檜前よりは、かなり広かったんだろう」ということです。(笑)
 今のところ、この古代檜隈だったと思われる地域で検出された渡来系の住居遺構(大壁建物)の年代は、作り始められるのが南から、逆に廃絶が北から順になっているように思えます。(検出された大壁建物の時代差については、以前の記事であい坊さんがいくつかの可能性を示してくださっています♪)

 今回この他に、檜隈寺跡の北方で、工房が見つかったことを先月行われた祝戸荘のあすか塾での明日香村教育委員会・長谷川透先生の「檜隈寺とその周辺-最近の発掘成果から」と言う講演会でお聞きしました。で、その内容はあい坊さんが寄稿欄に書いてくださってるので、そちらはもうしっかりお読みになられましたよね♪皆さん。(^^) ということで、割愛です。(^^ゞ

 で、目下のσ(^^)の関心は、川原寺や飛鳥池遺跡とほぼ同じ7世紀後半に、氏寺が自前の工房を持つというのは、凄いことにならないのか?ってことです。だって、専属の施設を持つためには、当然指導者をはじめ工人達が必要ですし、完成品を調達してくるよりは、技術的にはずっと大変なことだと思えるんです。これは技術力のある東漢氏ならでは?それとも、日の目を見ていないだけでこの時代には当然のこと?だとしたらそれはそれでまた・・・と、σ(^^)はこれまた楽しくて仕方がありません。(笑)

 で、東漢一族の氏寺だと言われている檜隈寺の伽藍造営に隙間があるのは、その間に乙巳の変があったからだという説があります。時代の風向きが変わったことで檜隈寺の造営は頓挫したというのがその理由。そしてその後、白村江の戦いに近江京遷都、壬申の乱などの激動の時代を経て、日本書記天武6(677)年6月の記事にある七つの大罪による天武からの叱責を受け、氏族の結束を図るために再度本格的な造営に着手された結果、完成したのが檜隈寺だとする説があります。これらの事件によって、東漢に連なる氏族が実際どのようなことになったのかよく知りませんが、檜隈から渡来系の住居施設である大壁建物やL字形カマドが姿を消すのも丁度この頃です。より飛鳥や時代に馴染むため、生き残りを掛けて古来の風習を捨て、寺の建立に心血を注いだんでしょうか。それだけかなぁ~?と、何だかすっきりしないσ(^^)。かといって疑問もしっかり形にならない。うむぅ。。。

 それでも、5世紀後半から耕地開拓や文化的技術を持つ渡来の人々の集合体のようにして形成されていった東漢氏が、7世紀前半から8世紀にかけて、ここ檜前に家を建て、工房や寺を造り、日々尾根上を行き交ってたかと思うと、ただの地面にも赤い血が通ったようで何だかとっても嬉しくなってしまうももでした。(笑)

 あ・・もちろん、この檜隈以外の地域にも、渡来系の人々が居住していた痕跡は飛鳥時代以前にも以後にも沢山あります。単純に、渡来=東漢氏=檜隈ではないということです、念の為。が、そんなところまで追いかけるだけの頭の持ち合わせが今のσ(^^)にはありません。(^^ゞ

 有名な人の名の出てこない檜前地域ですが、飛鳥の歴史の一端を担った渡来系の人々が居住していた地域ということで、少し注目して頂ければ嬉しいです。(^^ゞ



【6】 「檜前2」 (10.4.30.発行 Vol.79に掲載)

 前回に引き続き今回もまた檜前のお話を。・・・と言っても、特に繋がっているわけでもなく、新たに何か出た!と言うそっち方面の話でもない、ももの檜前雑感に少しばかりお付き合い頂ければと思います。m(__)m

 檜前は、「檜隈川」として万葉集に2首あります。(他に、草壁皇子の挽歌の中の1首に「檜隈」が詠み込まれているものもあります。)

  さ檜隈檜隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも 7-1109
  さ檜隈檜隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む  12-3097

 どちらも詠み人しらずの歌になり、伝承歌の部類に入ると考えられてるみたいです。檜隈川が詠み込まれた恋愛歌と思えば良いんでしょうね。

 さてこの檜隈川ですが、たいていの地図にその名は載っていません。川の名は、流れる地域の名を冠した通称名で呼ばれることもあったりするようですから仕方のないことなのかもしれませんが、やはり「今の檜隈川はここ!」とお墨付きが欲しいももであったりします。(笑)

 松坂から吉野・飛鳥を旅した本居宣長が書き記した「菅笠日記」の中の記述にも、「皆で探し歩いてみたけれど、一つ二つの小さな流れがあるだけで、これこそ確かに檜隈川だと言いきれる川は見つからず、里人さえも知らなかった。(もも訳)」とあり、ここで歌が一首詠まれています。

 聞わたるひのくま川はたえぬともしばしたづねよあとをだに見ん。
   ― 聞きおよんでいた檜隈川は、もう絶えてしまっているとしても、今暫く探してみよう。せめて跡だけでも見るために。(もも訳)

 これは、古今集の「さゝのくまひのくま川に駒とめてしばし水かへ影をだに見ん」を踏まえての歌になるようです。あら・・この古今集の歌、先にあげた万葉集の歌(3097)によく似ていますよね。これは、万葉集と古今集の間によくみられるもので、変化しつつ後世に伝わった歌のうちのひとつと言えるようです。

 結局、240年近くも前に宣長さんが訪れた際にも、檜隈川の在処がわからなかったんだから・・と、檜隈川の在処探しは諦めるしかなさそうです。現在は、大根田の三連池から発して、飛鳥駅付近で高取川へ流れ込む小川が檜隈川とされているようですし、本によると高取川の古称・別称だとする説もあります。三連池がいつの時代からあったのか何ていう細かい話も気になりますが、飛鳥駅の少し東でこの川にかかる橋の「ひのくまがわ」のプレートや、川と呼ぶには少し寂しすぎる今の檜前地域の流れにその名残りを思い流離う・・・ことにしておきましょう。川はあるんだから、贅沢言っちゃいけませんね。(^^ゞ

 さて、菅笠日記を読んでると、宣長さんが旅先で折りにふれ思い出し、訪ねる縁にしているものが、今の私達でも見聞きすることができる史料の名と大差ないことを思うと、昔の記録と思っていたこの日記との約240年の隔たりも何だか気にならなくなってきます。(言葉使いがかなり違うので、読むのには結構難儀しますが。)この菅笠日記には、檜前の辺り― それも檜隈寺跡の十三重石塔や心礎が残っていることなど ―が、かなり細かく書かれていて、もしかしたら宣長さんと同じように歩くことができるかもしれないと思わせてくれます。
 また、犬養孝先生の「万葉の旅(上)大和」の桧隈川のページには、『飛鳥の中心部が、観光の人と砂塵にまみれはじめたこのごろは、このひっそりとした山野に「あすか」はうつったような気さえする』とありました。約40年前に「あすかがうつった」と犬養先生に言わしめた檜前は、宣長さんのころからどのぐらい変わっていたのでしょうか。この本のページに挿入されている写真からは、今よりもたっぷりと土や木の香りが感じられました。

 約3週間後に控えた第20回定例会では、高取城址からキトラ古墳の前を通り、この檜前に下りてくる予定です。そこには、宣長さんや犬養先生が見た檜前がどれだけ残っているのか・・・と思いつつ歩くのも面白いかと思います。

 そして、今また檜前は、急激に景観を変えようとしています。まだ「いにしへのおもかげ」が、わずかに残るっているであろう檜前。宣長さんから約240年、犬養先生から約40年。光陰矢のごとし・・時という矢は、加速していくものなのでしょうか。



【7】 「水無月」 (10.6.25.発行 Vol.83に掲載)

 6月ももうすぐ終わりですね。2010年も、はや半分が過ぎようとしています。6月は別名水無月とも言われ、万葉集にも「六月」と書いて「ミナヅキ」と読ませている歌があります。

  六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして(10-1995)

 「水無月の地面を裂くほどに照りつける太陽にも(涙を拭う)私の袖は乾かない。貴方に逢えなくては。」って、感じでしょうか。私はこの歌が好きで、6月になると毎年思い出します。何とかの一つ覚えっていうやつです。(笑)

 でも、6月に地面が割れるほどお日様が照るか?ていう話ですよね。これは、今と昔の暦の違いからくる季節のズレとでも言いましょうか・・・。万葉の時代は旧暦で、今は新暦。この新旧の暦は、およそ1ヶ月から1カ月半の誤差があるそうです。ちなみに今年は、7月12から8月9日が旧暦で言うところの6月、水無月にあたります。そうと分かれば、この歌の「地さへ裂けて照る日」というのも、なんとなく頷けますよね。

 水が無いと困るのは古今東西今いずこも同じで、どうにかして水を確保しなければなりません。今でも夏になると取水制限が出るところもありますし。

 日本書記には、6月から7月にかけて雨乞いをしたという記事がよく見られます。その中でも飛鳥好きに外せないのは、やはり皇極元年8月に天皇が南淵で雨乞いをして大雨を降らせた話でしょうか。この皇極元年は、6月頃からずっと日照りが続いていたようで、あの手この手を尽くした挙句、最後の手段で天皇のお出ましとなったようです。

 続明日香村史によると、昔は、村ごとに川沿いに祀られた龍神や大石水をかけたりワラで出来た蛇を淵につけたりする雨乞いの行事が行われていたそうですが、吉野川分水が出来てからは昔ほど水に悩まされることがなくなり、これらの雨乞いの行事も今では既に伝承の域に入ってしまったとか。

 今年の近畿地方は、入梅が一週間ほど遅かったようですし、それ以前からもまるでお天道様の気まぐれここに極まれり!っていう感じの妙な天候が続いています。でも、そう言いつつも暦は流れて、もうすぐ半夏生。この時期は、農耕にはとても大事な時期なんだそうです。って、田植えの経験もなくて、よく意味のわかってないσ(^^)が言うのも変ですが。(^^ゞ でも、この時期になると小さい頃の田んぼにまつわる幾つかの記憶が浮んでくるんですよね。水が張られたばかりの濁った田んぼや早苗の陰のオタマジャクシ、アスファルト横の用水路を流れる水がキラキラ光って気持ち良さ気に見えたこと。そして、それと一緒に蘇ってくる匂いがひとつ。水の匂いというか、草の、稲の匂いと言うか・・丁度この時期の飛鳥を歩いていると、ふと風が運んでくる匂いと同じ。アルバムを捲るよりも確なものがそこにある気がして、この時期の飛鳥がももは好きです。・・・何たって人が少ない。(笑)

 水無月・・・その由来は、漢字の意味そのままの「水の無い月」であると言う説と、「無」を「の」と読み「水の月」とする説などがあるようですが、旧暦の6月には「水の無い月」というのが当てはまる気もします。反対に、新暦の6月は「水の月」でしょうか。でも、「水が必要な月」だからあえて「水の月」と願望も込めて呼んでいたんじゃないかと思ったりもします。願えば叶う・・・雨乞いに通じる気もするんですがね。(^^ゞ

 皆さんは、どちらの水無月説がお好みですか?(^^)



【8】 「古代の桃」  (10.10.15.発行 Vol.91に掲載)

 先月、纒向遺跡で大量の桃の種が発見されましたね。(^^) 纒向は、場所も時代も飛鳥から離れてしまうんですが、一応名前を拝借している者として、ここはやはり素通りできないでしょう♪ ということで、今回はこのももの桃話に少しばかりお付き合い下さいm(__)m。

 σ(^^)が桃について最初にあれこれ調べ始めたのは、今からもう7年ほど前のことになります。が!いざ手をつけてみると、これがまた結構大変でして。(^^;) 
 今回のニュースにもありましたが、古代の桃の殆どは、現代のものよりかなり小さいんですよね。梅や胡桃、李などと大差ないと言われていて、これらの桃は種の大きさや形状などから、おおまかに在来種と中国原産の渡来種に分けられるようです。今と変わらない大きさの桃の種は、有名なところでは、九州の菜畑遺跡(縄文時代前期から弥生時代中期)から出土しているんだそうです。この遺跡は日本最古の水田跡として、稲作発祥の地とも言われるとっても有名な遺跡らしいんですが、縄文・弥生時代がさっぱりわからないσ(^^)は、そんなことも全く知りませんでした。(^_^;)そうそう♪飛鳥では、あの飛鳥苑池遺跡から薬草関係の木簡と一緒に桃の種が出土しています。今でも桃は、種や葉などが漢方として使われていますので、薬としての効能は昔から知られていたことになるんでしょうね。

 縄文晩期か弥生早期にすでに桃の栽培がされていたって本当なの?と疑いたくなるのがアマノジャクなσ(^^)。でも、今年の2月に奈良県の観音寺本馬遺跡で縄文期の栗林も見つかってますし、桃や栗をはじめとする一部の木の実や果実の栽培は、その頃既に始まっていたと考えていいのかもしれませんね。今回のニュースを見て、大きな桃と小さな桃はどちらもかなり古い時代から栽培が始められていて、小さな方は薬用や呪い用、大きな方は食用と使い分けがなされていたとも考えられるのかなと思いました。小さい方は、あまり美味しくないそうですし。(^^ゞ

 今回の纒向で見つかった桃は、「建物の廃絶にあたる祀りの跡か?」との報道もされました。同じように集落の廃絶や地鎮などの際に桃が使用されたと考えられる遺跡は他にもあるようで、これは特に纒向遺跡に限るわけではないようです。だとすると、桃はマジナイなどの特別な力を期待されていた果実になるのかもしれません。桃が厄除けや魔除けなどの僻邪の力を持つとする神話や伝承は、古代日本にも中国にもみられます。桃は実を結ぶ確立がとっても高くて、「豊穣」や「多産」のシンボルともされていたみたいですから、古代において最も重要だったと思われる食料の確保や子孫繁栄などに沿って考えれば、そういう対象として桃が見られるというのも頷けるように思います。

 で、今回σ(^^)の妄想を一番刺激してくれたのは、3世紀中頃と言われる時期とか、卑弥呼の居館か?とか、祀りの痕跡か?というところではなく、2000個以上もの桃をどうやって集めたんだろう?っていう部分なんです。小市民のももですいません。(^^ゞ

 ちょっと調べてみると、現代の果樹園ではだいたい一本の桃の木で200~500個ぐらいの実がとれるそうです。これを少し少なめに見積もって一本あたり100個とすれば、20本ほどの桃の木があれば2000個の実は収穫できます。

 纒向の桃は、食べられた痕跡もなく未成熟のものもあったそうですから、この遺構の元になる行事は、まだ桃の実が実っている間に行われたと考えられると思います。これが建物廃絶後すぐに行われたとすれば、桃が実り終り、やがて秋から冬へとなる前に、移転先での生活基盤を作り上げようと、先々のことを考えて建物の取り壊しや引越し準備が行われた?なんてことまで妄想してしまいます。

 この桃が栽培であれ自生であれ、人の手によって集められたものには違いありません。それは、1人頭の数が決められた反強制的なものだったのか、祀りに際して自主的に持ち寄られたものなのか、それとも上位にある者が備蓄していたものなのか…そういうところにもちょっと興味が湧いたりします。ま、これは、タイムマシーンにでも乗って当時の人に聞いてみないことには分からないんでしょうが。(^^ゞ

 遺構は、ただの穴ぼこだけなんですが、それを眺めつつこんなこと考えていると、その穴ぼこに柱が建ち、建物が建ち、そして付近を人々が行きかうジオラマが頭の中に浮かんできたりするから不思議なもんです。(^^ゞ

 決まった期間に一定量の(それも大量に)物資を集めるシステムが3世紀のこの場所には既にあったと思うと、このあたりの時代に疎いσ(^^)にも、千何百年も前にあった文化や人々の生活の質の高さをあらためて感じる機会になりました。古代と大まかに一括りにされてしまう昔と現代、人というものは根本的にはそんなに変わらない生き物なのかもしれないな…とあらためて思ったももの桃から起こった雑感です。



【9】 「明日香の風」  (10.11.12.発行 Vol.93に掲載)

 先週の日曜日、遷都1300年祭が終了しました。皆さんは、お出掛けになられましたでしょうか。ももは、暑い夏が過ぎたら…なんて言っている間に行きそびれてしまいました。(^^ゞ でも、メインの平城宮跡会場の会期が終了しただけで、各地で行われるイベントなどもまだあって、遷都1300年祭自体は、今年一杯が会期なんだそうですね。会期は一年間ですが、準備から含めると長い時間と沢山の技術や労力が注ぎ込まれたんだろうなと。特に史跡や遺跡、復元に関わられた専門家の方々はご苦労されたんだろうと思います。お疲れ様でした。m(__)m
 今年、奈良一帯は、遷都祭の風、いや嵐が吹き荒れたとも言えるのかもしれませんね。なんたって、予想を大きく上回る360万人もの来場者があったそうですから。

 さて、ここで話はコロっと変わりまして(笑)、「遷都」に「風」と言えば、

  明日香の宮より藤原の宮に遷居せし後に、志貴皇子の作らす歌
 采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く (1-51)

 やっぱり、志貴皇子が詠んだこの歌ですよね。
 志貴皇子は、歌が万葉集に6首入集しているのみですが、その殆どが秀歌とされ万葉歌人の誉れ高い天智天皇の第7皇子(第3皇子の説もあり)で、あの吉野盟約にも参加しています。天智天皇の皇子ということもあったんでしょうね、天武・持統朝では、あまり華々しい活躍は見えません。ただ、大宝3年(703)に近江の鉄穴(鉄鉱石の取れる所)を賜ったり、持統天皇葬送の際に御竈を造る長官になったりと、どうも万葉歌人のイメージとはかけ離れたお堅いお仕事もなさっていたようです。…といっても、皇子自身が鉄鉱石を採取したり鍛冶をしたりするわけではないでしょうが。(^^ゞ

 話が逸れましたが…、題詞にもあるとおりこの歌は、飛鳥から藤原の地に都が遷されたのちに詠まれたとされています。藤原宮への遷都は、持統8年(694)12月6日。何も寒さの厳しいこの時期に大掛かりな引越しをしなくてもと思うのですが、実際の作業はもっと早くから進められていたでしょうし、やはりこの時期は農閑期にあたるというのが最大の理由なのかもしれませんね。今更ですが、この歌は口語訳すると「采女の袖をあでやかに吹きかえす明日香風、その風も、都が遠のき今はただ空しく吹いている。(引用:万葉集釈註)」となるようです。

 人々の往来があり鮮やかな衣装を纏った采女たちの絹の衣に吹き戦いでいた明日香の風も、自らのその存在を知らしめる相手がいなければ、形なき自身だけではどうしようもなく、ただ意味もなく虚しく吹くだけである。…結局世の中は、それをそれと認めてくれる相手あればこそだと明日香風に重ねてこの世を愁いているようにも思えます。
 この歌が藤原遷都後、どれぐらい経ってから詠まれたかはわかりませんが、遷都から新年を迎えるまでの年の内に詠まれたような気がします。冬の空を風に乗って行く雲を眺めながら飛鳥にも風が吹いているんだろうなぁと思いつつ詠んだのかな?…なんて。で、このももの妄想の中での志貴皇子は、当然愁いの似合う美男子でなければなりませんが。(笑)

 さて、遷都1300年祭の風が吹き荒れた奈良、少しは飛鳥もそのおこぼれに預かったんでしょうか。
 できれば、吹き返す風に乗ってリピーターとなってくれる方々がいればいいなぁと思うももなのでした。



【10】 「志斐ばあさん」  (11.3.18.発行 Vol.103に掲載)

 「相聞」と聞くと、つい恋人同士の恋歌を連想してしまいますが、本来「相聞」と言うのは、友人・知人などもっと広い範囲で消息を遣り取りすることを言うんだそうです。つまり、相手に意を伝え、その意を受けた相手がまた返す。歌のように極々短い文字数で意思の疎通を図るには、それまでのお付き合いの深さがかなり関係してくるでしょうから、現代のメールでの短い遣り取りと似ているかもしれません。

 両槻会初の万葉の定例会、第25回定例会まで後2日となったこんな時に、歌のお話は書きにくいなぁと思っていたんですが、定例会の資料作りで万葉集を開き斜め読みをしているうちに面白い歌の遣り取りを見つけたので、そのお話をさせて頂こうかと思います。


 いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり 3-0236

 もう喋らなくても良いと言ってもずっと話続けていて、いつもは煩いと思う志斐の話も、しばらく聞かないでいるとそれはそれで寂しくて恋しくなるもんだ。(もも訳)

 いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る 3-0237

 私がいやだと言っても、「語れ語れ」と仰せになるから志斐はいやいやお話申し上げていたのに、まさかそれを「志斐の強い語り」と仰られるとは。(もも訳)


 志斐さんと言う方は、どうやら大層なお話好きの方なようで、相手が「いな!(もう結構)」と言っても構わず無理やり話し続けるようですね。(笑)が、こう言われた方にもそれなりの言い分があって、「いな」と言っているのは自分の方で、それを「語れ語れ」と言って喋らせておいて今更そんなことを!と少しご立腹のようです。(笑)

 二首目の「宣らせ」や「詔る」などの言葉使いでお分かりかと思いますが、この二首は主従関係にある人たちの間で遣り取りされた歌になります。一首目は、題詞に「天皇、志斐嫗に賜ふ御歌一首」とあり、一般的に詠み人は持統天皇だとされています。二首目の詠み人は、その天皇に仕えている「志斐」という女性。名前の「しひ」と同音の「強ふる」や「強ひ」を繰り返すことで歌にリズムがあり…、なんて言うことが本などには書かれてあったりします。

 持統天皇御製とされる歌は、万葉集にも何首か見えますが、「春過ぎて…」の香具山の歌や亡き天武への思いを詠んだとされる歌など、天皇・皇后という立場で詠ったものが多いように思います。そんななかでこの歌だけは、日常のひとコマのほのぼのとした持統さんの違う一面を垣間見られたように思えました。

 「最近顔を見ないけど、どうしているの?」という意味合いで送られたのかもしれません。いつもは煩いと思っていたけれど、いざ声を聞かないと寂しいと思えるほど、志斐さんは持統天皇のお傍近くに控えていた。また「嫗」とありますから、志斐さんはおばあさん。ふと、「ばあや」という言葉が浮かんできたりもします。志斐おばあさんは、事情で暫く天皇のお傍から下がっていたんでしょうか。

 この遣り取りは、志斐おばあさんの言い分で終わっていますが、もしこの後に天皇が歌を返していたとしたらとか、藤原宮の宮殿の奥深くで傍付きの女官や志斐さんと一緒に微笑みあっている持統さんとか、色々と想像が膨らんで楽しいです。(笑)
 そうそう、お喋り好きなこの志斐おばあさんは、天皇のお側近くにいて「語る」人であることから、「語り部」ではないかという説もあるようです。もも的には、「ばあや」の方が好きですが。(笑)
 万葉集の正式な名前の由来や成立過程などはよく知りませんが、拾い読み・斜め読みでも「あれ?」と思う歌や言葉に出会え、楽しめればいいんじゃないかとももは思っています。「よろずのことのはがつどう」と書いて万葉集。良い言葉です。(^^)




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