両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



TOMの

飛鳥ほろ酔いがたり



TOM

 

 語りだしたら止まらない事務局員TOMの飛鳥にまつわる薀蓄・妄想etc・・
 ほろ酔い機嫌で語る、史跡・人物・遺跡・小説などなど、
飛鳥への熱い思いを込めた無責任話。

 Vol.5(08.1.4.発行)~Vol.53(09.6.5.)記事収録
春過ぎて・・ 1
春過ぎて・・ 2
香具山考 1
香具山考 2
大津皇子考 1
大津皇子考 2
大津皇子考 3
大津皇子考 4
大津皇子考 5
10 大津皇子考 6
11 大津皇子考 7
つづきは、好評連載中のこちらへ




【1】 「春過ぎて」 (08.1.4.発行 Vol.5に掲載)

 明けましておめでとうございます。今年も皆様にとって良い年になりますよう祈念致します。
 さて、明日香を歩いていると時々飛鳥時代の事でふと疑問に思ったりすることがあります。

  春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山

 有名な持統天皇の歌ですが、歌そのものからは牧歌的な風景を想像します。しかし、よく考えてみると「天の香具山」とは大和の神聖な山であって決して洗濯物、かどうかは分りませんが、白妙の衣を干すと言う行為は「何と大それたことを」と思わずにはいれません。

 もう少し考えてみると、この歌には何か他の意味があるのではないかと思えてきます。すると「皆の衆、もう休んでいる春は過ぎて働く夏になりましたよ。貴方方にはあの貴い天の香具山に衣を掛ける事の出来る(私と言う)立派な方が付いているのです。さあ安心して働きなさい」と言っているようにも伺えます。するとそこから「そんなことを言える持統天皇ってどんな人だったんだろう」と言う思いが生じます。そして「生まれは、育ちは、兄弟は、子供は」とどんどん興味が湧いて行くのです。と同時に歌にまで歌われた『天の香具山』とはどんな山なのだろうと言う気持ちになり実際に天の香具山を目にしてその小さな事に驚かされ「何故こんな小さな山が神聖視されたのだろう」と疑問は広がります。


 今回は無責任発言第一弾ですので、持統天皇が在位中、何故吉野に固執して31回もの行幸をしたのか考えてみましょう。昔、彼女の旦那、大海人皇子(天武天皇)は兄の天智天皇から次期天皇の位をどうかと問われた時、辞退し即出家して吉野に隠棲することがあります。まあ、出家すると言って奥さん連れて行くのも妙な話ですがそれは兎も角、即日飛鳥に戻り翌日彼女を連れて霙降る中、芋峠を越えて吉野に入ります。このとき大海人皇子は「わしの妃には彼女しかいない」と思ったでしょう。一方彼女は「私はこの人に賭けた」と思っていたのではないでしょうか。この思いが彼女をして31回にも及ぶ吉野行幸をせしめた一つの要因であったように思えます。
 こう言う取り留めのない話を徒然に続けて行きたいと思っています。



【2】 「春過ぎて」 (08.2.1.発行 Vol.8に掲載)

 早や二月、如月となりました。如月は寒いので着物を重ねて着た「着更着」から来ているそうです。明後日は節分です。今年の恵方は南南東です。南南東を向いて恵方巻きを、何てことはどうでもいいのですが、実は今年初めに投稿した自分の記事(1月4日発行Vol.5)の内容で気になっていたことが一つありますので、訂正と言うか一寸付け加えたく筆を取りました。

 持統天皇を想起させるところで彼女の「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣干してふ天の香具山」を引用しましたが、この歌の元歌は

  「春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有天之 香来山」
 で、これを読み下すと
  「春過ぎて夏来たるらし白妙の 衣干したり天の香具山」

 となります。この違いは次回定例会で滝川先生のお話に出てくる藤原道長の玄孫である定家が新古今和歌集を撰集、百人一首にもこの歌を取り入れた時、改作されたことによります。当時の公家文化に合せ柔らかくしたものと考えられます。

 元歌の方は「春が過ぎて夏が来ました。天の香具山には白い衣が干されているのが見えます」といった感じですが、定家の方では「春が過ぎ夏がやって来るようです。天の香具山には白い衣が干されるのでしょう」といった柔らかい感じになります。どちらが好きかは個人によりますが個人的には定家の柔らかい感じの方が好きです。

 元々この歌を引き合いに出したのは持統天皇を想起せしめんが為だったので、余り気に止めませんでしたが、このフォーラムでは「万葉集」の話がよく出てくるので、一寸気になって筆を取った次第です。次回はこの歌にも出てくる香具山に就いて思う処を書きたいと思っています。




【3】 「香具山考  その1」 (08.2.4.発行 Vol.9に掲載)

 香具山は現地に行きますと香久山と書かれています。近くにある小学校も「香久山小学校」JRの駅も「香久山」です。前回、持統天皇の歌で御紹介した「春過ぎて」の歌の元歌では「香来山」となっています。香りが来ると書いて「香来山」、中々情緒があります。語源的には説ですが、火の神であるカグツチの神のカグから来ているのではないかと言われています。即ち「光り輝く」という意味があるそうです。かぐや姫の「かぐ」と言われると少しは納得するものです。確かにカグツチの産みの親であるイザナミですが香久山の麓にイザナミを祭った祠があります。


イザナギ命神社 イザナミ命神社

 さて、この香久山ですが近鉄大和八木から一つ桜井よりの駅、「耳成駅」から真っ直ぐ南に20分ほど歩いた左手に見えます。言わずと知れた大和三山の一つです。又、唯一「天の」と言う修飾語を冠した山です。ところが大和三山の内で最も山らしくない山で、丘と言えば丘と言えそうな山です。何故ここが「天の」と言う言葉を冠し古来神聖視されてきたのでしょう。天照大神が天岩戸に篭った時岩戸の前で踊ったアメノウズメノミコトの手には天の香具山の笹の葉が持たれていましたし、神武天皇が戦をする時八十枚の平瓮(ひらか)と、厳瓮(いつへ)を天の香具山の土をもって作っています。舒明天皇は香具山に登って国見の歌を作っています。現在、香久山に単に登っても三輪山のように襷をかける訳でもなく登山道に注連縄があるでもなく何故神聖視されてきたのか分かりません。

  その悶々としていた所、風人さんから「香久山案内しても良いよ」という願ってもいないお誘いを受けました。持つべき物は「良き飲み友達」、いや失礼良き師です。次回その結果を踏まえて舒明天皇の国見の歌を考察してみたいと思います。




【4】 「香具山考 その2」 (08.3.7.発行 Vol.12に掲載)

 雪のちらつく中、風人さんに案内して頂き何人かのメンバーと一緒に香具山に登って来ました。「案内して貰うほどの山か?」と思われる方がおられるかもしれませんが、これはもう「案内して貰わなければ分らない」山でした。と言うより、寧ろ結果、混乱を極めたと言っても過言ではありません。
 「ほろ酔い気分」など吹っ飛んでしまいます。ゆっくり整理しないと簡単に「はい、これが香具山です。」とは、とても言い切れるものではありません。あんな小さな丘の山ですが、その奥深い事、並のものではありません。唯一つ言えることは、香具山は飛鳥時代以前より崇められてきた山だと言う事がよく分りました。


国見の丘から畝傍・二上を望む

 混乱した頭では話が進みませんので、今回は前回に述べましたように舒明天皇の国見の歌を考えてみます。舒明天皇は皇極天皇のダンナさんです。天智・天武天皇のオヤジさんです。「国見」と言うのは一種の天皇の儀式の様なものだったようです。高いところから自分の治めるところを見渡しそれを褒め称える儀式だったようです。
  ではその歌を見てみましょう。

 やまとには むらやまあれど とりよろう あめのかぐやま のぼりたち
 くにみをすれば くにはらは けむりたちたつ うなばらは かもめたちたつ
 うましくにぞ あきつしま やまとのくには


 「とりよろう」とは「取り分け素晴らしい」とか「都の側にある」とか色々な解釈がありますが、定説はありません。また、ある小学校の校歌では「とりよろう山々」と言う歌詞があり、整然としている様子を表しています。色々な意味があるのでしょう。でもここでは「取り分けて素晴らしい」と言った意味を当てたいと思います。それが最もあの山に相応しい表現ではないかと思うからです。それほど神聖視された山だったのです。

 その神聖視された拠り所は何だったのでしょう。それは磐座にあったのではないかと考えています。
 香具山には驚くほど多くの磐座、或いは磐座らしき岩があります。それらは今では伝承で「月の誕生石」とか「蛇繋ぎ石」とか「月の輪石」とか呼ばれていますが、昔は磐座ではなかったかと思われます。古代未だ仏教が我が国に伝わっていない頃、我が国の神様は遍在するものでした。その神が降り立つ所が磐座と呼ばれました。このような所が多くあれば、信仰の対象に必然的になって行ったのではないでしょうか。その神々の中で人々に水の潤いを与えてくれる竜神も祀られたことも、より山全体の神格を高める相乗効果になったのではないかと考えています。

 次回は、香具山の麓にあった大津皇子の碑について考えてみたいと思います。

 参考
      飛鳥三昧内 「天香具山考」風人作成地図・写真など




【5】 「大津皇子考 その1」 (08.5.2.発行 Vol.20に掲載)

 香久山の北の端に、今では見られなくなった飛鳥時代に磐余(いわれ)の池と呼ばれた池の跡があります。 そこに大津皇子の辞世の歌の碑が立っています。


 『ももつたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ』と言った悲しい歌です。普通辞世の句と言えば一句ですが、彼にはもう一句漢詩のものが懐風藻にあります。
 『金烏臨西舎 鼓聲催短命 泉路無賓主 此夕離家向』と言うものです。
 読み下しますと 『金烏西舎に臨み 鼓聲短命を催す 泉路賓主無く 此夕家を離れて向かう』 大体の意味は、「陽の光が西の舎に射してきた 太鼓の音(時を知らせるもの)は自分の短命を催しているようだ 冥土への路では主人とか客人とかの区別はないそうだ 今日の夕方には家を離れてその路に向かうのだなあ」と言ったやはりもの悲しい歌です。時に大津皇子24歳の時の歌と言われています。

 さて今日は、大津皇子が何故死ななければならなかったか色々な書物から推測してみたいと思います。全ての書物が正しく記載されているかどうか分かりませんが、先ずは日本書紀を見てみます。

 天武記下に9月9日天武天皇が亡くなられたことが見えます。そこで発哀(みね:声を出して泣く儀式)が11日から行われます。
 「9月24日南庭で殯をし発哀した。」 と言う記事に続き、 「このとき大津皇子が皇太子に謀反を企てた。」 と言う記事が見えます。この皇太子とは勿論、草壁皇子なのですが、その謀反の内容については触れていません。
 次いで持統天皇記に10月2日大津皇子の謀反が発覚し同時に大津皇子に 「欺かれた」30数名が逮捕されたことが書かれています。
 翌3日には、「訳語田の舎で死を賜った。時に年24。妃の山辺皇女(天智天皇の娘)は髪を乱し裸足で走り出て殉死した。見る者は皆すすり泣いた。皇子大津は天武天皇の第3子で威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に文筆を愛された。この頃の詩賦の興隆は皇子大津に始まったと云える。」と言った罪人を褒め称えたような文章が載っています。
 この後2年半程で亡くなった草壁皇子の場合は「4月13日、皇太子草壁皇子尊が薨去された。」としか記されていません。この違いは何なのでしょう。

 そして同月29日には逮捕者への沙汰が降ります。「皇子大津は謀反を企てた。これに欺かれた官吏や舎人は止むを得なかった。今、皇子大津は既に滅んだ。従者で皇子に従った者は、皆赦す。」と言った異例のものでした。但し、舎人の礪杵道作(ときのみちつくり)が伊豆(現在の下田市)へ流罪、そして新羅の沙門行心(こうじん)が飛騨の寺(寿楽寺:飛騨市古川町か)に移されています。この二人にのみ実刑が降りた訳です。
 これだけの記事からだけでは大津皇子がどんな謀反を企てたのかさっぱりわかりません。寧ろ博学で才長けた人物像を思い浮かばされます。

 それでは告ぎに彼を取り巻く環境から考えてみましょう。
1. 父親は天武天皇、母親は持統天皇の実姉太田皇女。
2. 同母兄弟は2才年上の姉 大伯皇女。
3. 異母兄弟として9才年上の高市皇子、一つ年上の持統天皇の実子 草壁皇子、他。
4. 妃は年を同じくする天智天皇の娘 山辺皇女
5. 漢詩作りでの友人として3才年上の天智天皇の息子川島皇子。
6. 新羅の僧、行心
7. アイドル的存在だった石川郎女

 太田皇女は大津皇子が5歳の時早世していますから、この事件の時にはいませんし、
事件は天武天皇の殯の時ですから、当然天武天皇もいません。姉の大伯皇女は斎宮として15歳の時伊勢に出されていますから、普段は会えません。しかし事件の前に何故か大津皇子は、密かに姉大伯皇女に会いに伊勢に行ったと万葉集に書かれています。但し何をしに行ったのかに付いては、触れていません。唯、大伯皇女は大津皇子を都に帰すには忍ばれない旨の歌を作っています。何か相談に行ったことは、想像に難くありません。

 持統天皇と草壁皇子は、天武天皇崩御の3ヶ月ほど前に天皇から大権を委譲されていますから、このままの路線で行けば持統天皇から草壁皇子へと自然の流れはあったようです。

 高市皇子は年長ですが母親の出自から高位にはなれず、壬申の乱では多大の功績があったにも拘わらず、草壁・大津に次ぎ3番目の地位で本人も納得していたようです。最後は太政大臣まで上り詰めますが43才の若さで亡くなります。終始天武天皇の右腕、持統天皇の右腕として政治に携わってきたようです。

 大津妃の山辺皇女は蘇我赤兄の娘で天智妃・常陸娘の娘です。大津皇子の死を知り裸足で飛び出して殉死する様は、まさに悲劇のヒロイン的役割をしています。

 川島皇子は天智の皇子ですが、吉野の盟約にも参加させられている仲間であり、漢詩作りの朋友であったとされています。
 新羅の僧、行心とは急に出てくる名前ですが、懐風藻に占いをする旨描かれています。天武記で天武天皇が亡くなる前、6月10日に占いをすると「草薙の剣の祟りがある」と出て、即日熱田神宮に送った記事がありますが、この占いも行心によるものなのかもしれません。尚、懐風藻では大津皇子の顔相を占って「下位に甘んじるものではない。」と言ったそうですが、実質No2の位置にいる者に「下位」と言って謀反を唆したとするのは少々考えさせられます。因みに彼の息子は神馬を朝廷に贈ったことで、皇子の変後16年で赦され京に戻ることが赦されます。

 石川郎女とは、相聞歌が万葉集に見られます。草壁も贈ったようですが、その返歌があったかも知れませんが万葉集には見られず、恰も大津には気があったように書かれています。彼女は他の男性と結婚するのですが、大伴安麻呂に引かれ離婚して彼と再婚します。二人の子供をもうけ、晩年は悠々自適な生活をして過ごしたようです。尚、大伴旅人は義理の息子になります。

 さて、此処まで見てきましたが、この中の誰もが「どうしても大津皇子がいては困る」と言った人物は見当たりません。では本当に大津皇子は謀反を企てたのでしょうか。次回はもう少し、大津皇子がいない方が良かったと思った人物について見ていきましょう。



【6】 「大津皇子考 その2」 (08.7.20.発行 Vol.26に掲載)

 さて前回は大津皇子がいなかったら良いと思う人物に付いて考えてみたいと書きましたが、この連載も長く続くことを考え大津皇子と関係のあった人物一人一人に就いて考えてみたいと思います。今回は大津皇子の実姉・大伯皇女から見てみたいと思います。大伯皇女は天武天皇の長女です。書紀によれば、斉明天皇を筆頭として国を挙げて百済の救援に当たろうとした行軍に於いて「御船、大伯海に到る。時に大田姫皇女、女を産む。仍りて、この女を名づけて大伯皇女と曰ふ。」とあります。船に乗って博多に向かっていた太田皇女が岡山沖で出産します。そこでその場所をあやかって、大伯皇女と名付けられます。大津皇子もそうですが、当時生まれた場所から呼び名を命名することは極めて珍しいことです。太田皇女は翌々年、今度は博多(大津)で大津皇子を出産しますが、産後の肥立ちが良くなかったのでしょう、ほどなく亡くなります。その後二人は天智天皇のもとで育てられたと考えられます。書紀には大津皇子を評して「天智天皇に可愛がられた」とあります。

 さて、それから十数年後、壬申の乱が勃発します。戦に当たり天武天皇は、名張の地で伊勢神宮に必勝祈願をします。勝利した天皇は長女、大伯皇女を斎王として伊勢神宮に遣わせます。斎王とは伊勢神宮の祭神である天照大神に天皇に代わって仕える(御杖代ミツエシロと言います)という皇室にとっては非常に重要、且つ神聖な役割を持っているものです。斎王は精進潔斎をして天照大神に仕えるので、天皇といえども普段は会うことは許されていませんでした。その斎王である大伯皇女に、万葉集に依れば、大津皇子は会いに行っているのです。不謹慎な行為ですが、万葉集には「密かに」会いに来たと書かれています。何をしに来たのか、何を話したのか、何処にもその内容に就いては触れていません。しかし、大伯皇女が弟を大和に送り帰すときの歌が残されています。

  我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし

  二人行けど行き過ぎ難き秋山を如何にか君が独り超えなむ

 これら二つの歌からは弟を心配する気持ちは伝わってきますが、これから死刑に処せられるであろう弟に対する悲壮感は伝わってきません。即ちこの時点では彼女は弟のことを心配しながらも、まさか「死を賜る」とまでは考えていなかったと思われます。大伯皇女は姉として弟を諭し大和へ帰りなさいと促したものと思えます。上の歌で「大和へ遣る」とはそういう意味だったんだと思います。さて彼女は父親である天武天皇が亡くなったので御役目御免です。大和に戻りますが、戻る前に弟の死を知らされます。大和への道中でしょう彼女は歌を残しています。「今では弟のいない大和へ帰っても何の楽しみも無い」といった主旨の歌です。そして大和に帰ると弟を偲んで又歌を残しています。

  うつそみの人なる我や明日よりは 二上山をいろせ(弟)と我が見む

  磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君が在りと言はなくに

 都に戻って、しばらくは上の歌のような気持ちですごした事と思われます。彼女が都に住んでいた事実は、7月12日の定例会で市先生が木簡の写真を示されその中に「大伯皇子宮」と書かれた物があり印象深い物でした。また謀反の罪を着て処刑された大津皇子の姉、という遠慮もあったのかも知れませんが、その後彼女は結婚していません。都では藤原京への遷都の話が持ち上がっています。彼女には、時代に流され藤原京へ移る気持ちはなかったのかもしれません。勅願して天武天皇の菩提寺、昌福寺の建立をします。今の名張にある夏見廃寺です。勿論、弟大津皇子への弔いの意味もあったことと思われます。その地で彼女は41年の生涯を閉じます。昌福寺に移った彼女はどんな気持ちで過ごしたのでしょう。実際に夏見廃寺を訪れて見ると、その落ち着いた雰囲気になんとなく彼女の生涯が見えてくるように思われます。夏見廃寺には上の 磯の上に生ふる馬酔木を の歌碑がひっそりと建っています。

  大津皇子を取り巻く人々、次回も続きます。



【7】 「大津皇子考 その3」 (08.10.3.発行 Vol.32に掲載)

 突然ですが皆さん「莫逆の契り」って言葉ご存知でしょうか。「莫逆」と書いて「ばくげき」或いは「ばくぎゃく」と読み「心に逆(さから)うこと莫(な)し」という意味で、非常に仲のいい友達のことを言います。実はこの言葉が懐風藻の川島皇子のところに出てきます。川島皇子と大津皇子は、「莫逆の契り」を交わしていたというものです。

 今回はこの川島皇子について考えてみたいと思います。書紀には大津皇子の謀反に係った者の中に川島皇子の名前は見えません。しかしこの懐風藻には川島皇子は大津皇子に謀反の意があったことを朝廷に密告したように書かれています。懐風藻ができた750年ごろにはそのような風評があったのかもしれません。果たして「莫逆の契り」をした者がそう簡単に裏切るような行動をとるものでしょうか。

 彼に関する資料として書紀と懐風藻及び万葉集は次のように伝えています。

 「天智天皇の第2皇子、壬申の乱に幼少の為不参加、“吉野の盟約”に参加、妃は天武天皇皇女の泊瀬部皇女、忍壁皇子と共に帝紀及び上古諸事の編纂を下命される、691年増戸100戸 同年死去」

 しかしこれだけでは彼がどんな人物であったか計り知ることはできません。ところが懐風藻では更に彼を評して「志懐温裕、局量弘雅」即ち「心穏やかで度量があり雅やかであった」としています。彼は、万葉集と懐風藻に夫々歌を残していますので、その歌を基に彼の性格を推測してみたいと思います。

 先ず万葉集巻1-34の歌から見てみます。

  白波の浜松が枝の手向け草 幾代までにか年の経ぬらむ

 手向け草と言うのは旅人が航路の安全を祈るために神に供える品のことで、布、糸、木綿などのことを言います。松の枝に掛かった手向け草を見て、旅人がまだ帰っていないことを知り「どのくらい経つのだろう、旅人はどうしているのだろう。」といった思いに駆られる極めて繊細かつ感傷的な歌です。
 懐風藻の「山斎(しま)」と題する歌を見てみましょう。

  塵外 年光満ち
  林間 物候明らかなり
  風月 遊席に澄み
  松桂 交情を期す


 塵外とは人里はなれたところの意味です。物候とは物事や気候のことです。そして「松や桂のようにこの友情が続いたら良いな」と歌っています。このような歌を歌える人物が自らをして裏切り行為に走るとは考え難いものがあります。

 ここからはTOMさんの無責任発言です。
 天武天皇が亡くなり大津皇子に対する噂が立っています。東国の伊勢にも行ったそうだとか余り好ましくない噂です。それを打ち消すために川島皇子は義理の姉である持統天皇のところに「大津皇子には謀反の意などない」旨告げに行きます。それが逆に朝廷内で「大津皇子には謀反の意があるから態々川島皇子が打ち消しに来たに違いない」と取られてしまいます。「いい機会だ、これを使って大津皇子を陥れよう。」世間には川島皇子が密告しに来たように流します。そして天武天皇の殯が始まって未だ大津皇子が誄をする前に、兎に角身柄を拘束します。

 謀反の意があることにして大津皇子を亡き者にするには「大津皇子の仲間」を作っておかなければなりません。一人で謀反を起こすなど考えられないからです。計画は可及的速やかに実行に移されました。

 新羅の僧行心には「悪いが飛騨に行ってもらうこととなる」と打ち明けておきます。行心は「分かりました。では倅も連れてまいります。」と返事し実際にそのように振舞っていきます。一方、川島皇子はたまったものではありません。濡れ衣を着せられ密告者のレッテルを貼られ、挙句は友を亡くしてしまいます。これを助長するかのごとく行われたのが川島皇子への100戸の褒賞です。「大津皇子のことを知らせに来たことは大儀であった」との理由からの褒章ではなかったかと思われます。公に「密告者」として表彰されては愈々もって川島皇子の立場がなくなります。このことをもって朝廷は、大津皇子のことは朝廷の一方的な処置ではなかったことを公表したかったのかもしれません。

 何れにせよ川島皇子は褒賞のあった同年9月9日奇しくも天武天皇崩御と同じ日に亡くなります。享年35歳。居た堪れなくなっての自殺かもしれません。そうすると9月9日を選んだのは彼の朝廷に対するせめてもの抵抗だったかもしれません。こう見てくると川島皇子は大津皇子殺害の黒幕とは到底思われません。
 次回は他にどんな人物が大津皇子の周りにいたか考えたく思います。今回は最後に川島皇子への柿本人麻呂の挽歌をご紹介したいと思います。

 敷栲(しきたえ)の袖交へし君玉垂(たまだれ)の越智野過ぎ行くまたも逢はめやも
                                         (2-195 人麻呂)

越智の野



【8】 「大津皇子考 その4」 (08.12.5.発行 Vol.37に掲載)

 早や、師走となりました。どたばたされておられると思います。そんな中、大津皇子の変に係わる話で一寸一息入れて下さい。今回は、高市皇子(たけちのみこ)について考えてみます。

 父は天武天皇、母は尼子娘(あまこのいらつめ)です。尼子娘は胸形君徳善(胸形一族の族長であり、現在の九州宗像神社の神主)の娘です。「むなかた」は胸に刺青があるという意味で「胸形」が古く、平安時代になって「宗像」に変わったとされます。

 宗像神社は辺津宮(市杵島姫命)、中津宮(多岐津姫命)、沖津宮(田心姫命)の三社からなっており三女神を祀っています。田心姫命は大国主命の妃となっていることからも、出雲色の強い背景があります。また沖津宮は玄界灘に位置する沖ノ島にあり、これら三宮を繋ぐ線は朝鮮半島への航路となります。即ち、当時の朝鮮半島との貿易の要衝地にあり、胸形一族はその地を統括していた海洋豪族であったと言われています

 福岡県福津市にある胸形君徳善の墓と見られる宮地嶽古墳は、横穴式石室の長さが23mにも及びます。石舞台よりも大きな石室であることから、胸形一族の強大さを窺い知ることができます。天武天皇は九州との繋がりをより強固なものとするため、徳善の娘、尼子娘を迎え入れたのでしょう。その息子が高市皇子であり天武天皇の長子となります。大津皇子より9才ほど年上となります。

 高市皇子は壬申の乱にあっては、いち早く父の元に駆けつけ、軍の陣頭指揮を任され、その大任を果たします。その功績には甚大なものがあったことは想像に難くありません。しかし、高市皇子がその功績を助長しないように天武天皇は、679年吉野の盟約のあった年の初めに、「雖母、王姓者莫拝。凡諸臣亦莫拝卑母」即ち、「母親であっても皇族以外のものを謹んで拝むよ
 うなことはしてはならない」といった内容の詔を出しています。高市皇子の母親は豪族の出であっても皇族ではないことに、釘を刺しておいたとも取れます。そして吉野の盟約では草壁皇子をNo.1の座に置きNo.2を大津皇子に、高市皇子はNo.3に置かれます。

 その後、日本書紀には、彼の行動は天武天皇が亡くなるまで、要人の病気見舞いや弔問に行ったくらいしか出てきません。大津皇子の変の時、何をしていたのか資料には見えませんが、彼の業績は故意に日本書紀から外された可能性が残ります。しかし壬申の乱で軍を纏めるなどしてきたからには、その後も軍事関係に携わっていたのかもしれません。或いは、天武天皇の目指した律令国家を作るための法律、飛鳥淨御原令の作成に携わっていたのかもしれません。

 大津皇子を謀反の罪で捕らえ、処刑したのは明らかに朝廷側の人物ですが、大津皇子の変に係ったとする人物の中に高市皇子の名は見当たりません。吉野の盟約でNo.3の立場を甘んじて受け、その人生を徹底して天武天皇そして持統天皇を補佐する立場に置いたのではないでしょうか。大津皇子の変のときも状況は当然知っていたでしょうが、如何ともし難い立場に置かれていたのかもしれません。しかし、高市皇子も大津皇子の変の黒幕とは考え難いものがあります

 大津皇子、草壁皇子亡き後は実質No.1になり、持統天皇が即位するや太政大臣に抜擢されています。同時に藤原京候補地を視察し、その完成に尽力したようです。しかし持統10年彼は突然の病に倒れそのまま帰らぬ人となります。

 彼の死を悼んで柿本人麻呂は、万葉集の中で最長といわれる挽歌を詠んでいます。余談ですが、この高市皇子を褒め称えた挽歌の内容のために、人麻呂は左遷されたとする説もあります。今回はこの内容には触れませんが、もうひとつ彼の死を悼んだ歌が、彼の住んだ香具山の宮の西裾にある哭沢神社に、檜隈女王が作った歌として飾られています。今回はその歌を見ながら彼の人となりを偲びたいと思います。



  哭沢の神社に三輪据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ (2-202)
・・・
 哭沢の神社に神酒をささげて、ご病気の快癒を祈ったけれど、私共の大王、高市皇子は帰って来なかったじゃありませんか



【9】 「大津皇子考 その5」 (09.1.30.発行 Vol.42に掲載)

 松の内も過ぎ正月気分も抜けて、皆さんそれぞれの生活を始められたことと思います。さて年を越してしまいましたが、もう少し大津皇子の変を見ていきたいと思います。今回はすぐ上の兄、草壁皇子について考えたいと思います。大津皇子が謀反を謀ったとする当事者です。ところが彼は自分の口から「大津皇子が謀反を、、、」等とは言っていません。書記に「大津皇子、皇太子に謀反せんとす。」と書いてあるだけです。

 父は大海人皇子、母は大津皇子の母の妹の鸕野讚良(後の持統天皇)です。皇太子として次期天皇に目されていた人物です。彼の生涯は概略次のようなものです。

 662年 大津皇子同様、斎明天皇を初めとする百済遠征の途にあった博多付近で生まれます。草壁郷と言う地名がありますので大津同様、地名から名前を取ったのかもしれません。
 679年 吉野の盟約に参加し、皇子たちの代表者であることを皆に知らしめます。この時から名称は草壁皇子尊と呼ばれるようになります。
 680年 妃、阿閉皇女(後の元明天皇)が氷高皇女(後の元正天皇)を出産します。彼女は続いて吉備皇女(後の長屋王妃)、軽皇子(後の文武天皇)を生み草壁皇子は3人の父親となります。
 681年 正式に皇太子として、世間に公表されます。
 683年 大津皇子が、朝政を執るようになります。  
 685年 新しく冠位が定まり、浄広壱を草壁皇子に、浄大弐を大津皇子に、浄広弐を高市皇子に、浄大参を川島皇子と忍壁皇子にそれぞれ与えられます。吉野の盟約通りの順位です。 
 686年 7月15日に天武天皇より「天下の事、大小を問わず悉く皇后と皇太子に啓せ」と言われたと書記には見えますが、真意のほどは不明です。
 9月9日に天武天皇は亡くなり、同月24日より殯が営まれたと考えられます。その当日、大津皇子の謀反に遭ったと記されますが、この謀反の内容に関し、彼が大津皇子から何をされ、どういう態度を取ったのか何も記されていません。天武天皇が亡くなられ、殯の参詣を先頭だって舎人を連れて行ったことのみ記されています。
 689年 薨去 享年28歳 束明神古墳を陵墓とする説があります。死後70年ほどして岡本御宇天皇の称号を与えられます。

 いつものことですが、上の記事からだけでは彼が天武天皇の皇子であり、最も尊ばれたことは分かりますが、どんな性格の人物であったか想像出来ません。それより686年7月15日の記事が本当なら、683年以来朝政を任せられていた大津皇子は、この日を以って政界からお払い箱になったと見ていいでしょう。彼の焦りの気持ちが伝わってきます。或いは、大津皇子もこの詔の信憑性を疑ったのかもしれません。

 一方、草壁皇子は立太子して次期天皇の座を約束されていた訳ですが、殯の期間舎人と共に参詣を何度も精力的にこなしています。ところが殯が明けた翌年689年4月13日突如として亡くなります。原因は詳述されていませんが、707年にはこの日を「国忌」とする旨の詔が出されています。

 彼の死を悼んで柿本人麻呂は「草壁皇子が天下をお治めになったら、春の花のように栄え、満月のように見事なものになるだろうと、四方八方の人が期待していたものを」と言う内容の長い挽歌を詠んでいます。そして万葉集には23人もの舎人が彼の死を悼んで挽歌を載せています。このことは彼単なる凡庸の人物ではなく、人々に親しまれ惜しまれて亡くなったことの表れとも取れます。翌年、持統天皇が紀伊に行幸したとき阿閉皇女が詠んだ歌があります。(万葉集・1-35)

 これやこの 大和にしては 我が恋ふる 紀路にありと言ふ 名に負ふ背の山

 背の山の背を草壁皇子と掛けた歌と言われています。義理の姉(母でもある訳ですが)である持統天皇はこの歌をどんな気持ちで聴いたのでしょう。

 もう一つ万葉集には、彼が石川郎女に送った歌が載せられています。

  大名児を 彼方野辺に刈る萱の 束の間も我忘れめや (2-110)

 大名児は石川郎女のことです。刈った萱の「束」と、「束の間」の束を掛けて居る歌で素朴で純情な歌に聞こえます。石川郎女は前にも書きましたが、当時のアイドル的存在で大津皇子も気を遣っていた郎女です。草壁皇子もアバンチュール的な気持ちで、この歌を作ったのかもしれません。しかし、結局は双方共、彼女に振られてしまいます。

 こう見てくると草壁皇子は、大津皇子に謀反の罪を着せ、死を賜わせた張本人であるとは思えません。むしろ、仲が良かったのではないか、とさえ思われてきます。大津皇子の刑死に、川島皇子同様、心を痛めたのかもしれません。次回は、いよいよ持統天皇についてご一緒に考えたく思っています。ご期待ください。



【10】 「大津皇子考 その6」 (09.4.3.発行 Vol.48に掲載)

 大津皇子を取り巻く人々を考えるときに欠かせない人物、今回と次回は草壁皇子の母親である持統天皇について考えて行きたいと思います。この「ほろ酔いがたり」の第一回目(飛鳥遊訪マガジン5号)でも述べましたが、
 「春過ぎて 夏来るらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」を歌った本人です。彼女のことを考えるとき、時代は大化の改新まで遡る必要があります。奇しくも彼女の生まれは大化元年です。持統天皇は天皇になるまでは鸕野讚良皇女と呼ばれていましたが、ここでは「彼女」と表記します。

 彼女の母親は遠智娘、父親は中大兄皇子(後の天智天皇)です。遠智娘は、中臣鎌足の計らいで政略結婚させられた、蘇我倉山田石川麻呂の娘です。書紀には、石川麻呂の長女を貰おうと考えていたが、いざ迎えに行ったら彼女は既に一族の者に奪われており困っていたところに少女が、「私でよければ」と自らが買って出たことになっています。この少女が遠智娘ではないかと考えられています。(異説もあります。)蘇我倉山田石川麻呂は乙巳の変で、入鹿のいる席で震えながら上表文を読んだ当人で、後に右大臣まで上りますが、讒言によって山田寺で自害します。その有様を嘆き悲しんだ遠智娘も、悲嘆のうちに亡くなります。彼女がまだ5歳位のときの事です。祖父と母親を相次いで亡くしたことになります。

 その後7歳のとき、父と共に難波長柄豊崎宮に移り10歳で飛鳥に戻ってきます。この間、おそらく皇祖母尊と呼ばれるようになっていた、元皇極天皇に庇護されていたと思われます。父は、時の天皇を難波に置き去りにして、飛鳥に一族郎党を引き連れて帰ってきます。

 そして13歳のときに姉の大田皇女と共に14歳年上の大海人皇子(後の天武天皇)の妃として嫁がされます。中大兄皇子が大海人皇子を意識した、政略結婚と見られています。13歳と27歳では、恐らく恋愛感情みたいなものはなかったと思われます。大海人皇子にしてみれば、兄貴から小娘達を押し付けられたように思っていたかもしれません。或いは皇極天皇が重祚して斉明天皇となっていましたので、3人の面倒(遠智娘は亡くなる前に「建皇子」と呼ばれた、言葉に不自由な3番目の子供をもうけています。斉明天皇は、この建皇子を不憫に思って大層可愛がったことが書紀に見えますので、都合3人の面倒をみていたのではないかと思われます。)をみるのがきつくなって、息子の大海人皇子に「これからはお前が面倒を見なさい。」と彼女達を手放したのかもしれません。何れにしろ彼女たちは、大海人皇子を以前から叔父さんとして親しんでいたのかもしれません。

 ところが、大海人皇子にしてみればそれどころではありません。朝鮮半島の雲行きが怪しくなってきていたのです。660年、唐・新羅連合軍は、百済を滅ぼしたとの報が入ります。斉明天皇は百済再興を決意し、挙国一致して大軍を率いて百済遠征を試みます。遠征隊には彼女たちも含まれていました。姉の大田皇女はこの遠征のときに、長女大伯皇女と長男大津皇子を産み、彼女も長男草壁皇子を産みます。無理な長旅が響いたのか、草壁皇子誕生の前年661年斉明天皇は、九州で亡くなります。しかし、中大兄皇子によって百済遠征は強行されます。663年、白村江の戦いで敗戦をきたした日本軍は九州に舞い戻り、今度は一転して防衛に当たることとなります。彼女が19歳のときのことです。

 翌年から、唐は日本に使いを出すようになります。ピリピリした世相であったと思われます。667年、中大兄皇子は都を近江に移し、即位して天智天皇となり、大海人皇子は皇太弟となり兄の片腕として政治を司るようになります。丁度この頃、身体の弱かった姉の大田皇女が亡くなります。そして近江宮での4年後671年、天智天皇は亡くなります。翌年には壬申の乱が勃発しますが、彼女はこの乱でも、大海人皇子と行動を共にとります。まさに激動の時代を公私共に味わってきた女性だったことが分かります。

 673年、大海人皇子は即位して天武天皇となり、彼女は正式に皇后となります。ここまでが彼女の半生となります。そして686年、天武天皇が亡くなるまでの13年間、天武天皇を助けながら政務に営みます。その間、彼女が病に倒れると、天皇は病の平癒を願って薬師寺の建立にかかるなど、彼女への情愛の念が見えます。このように波乱万丈の人生を送ってきた彼女はどんな人だったのでしょう。

 大津皇子の変は686年、天武天皇が亡くなると直ぐに起きていますから、彼女が即位して持統天皇となる前のことです。大津皇子の変後、今度は最愛の息子草壁皇子を亡くします。その後即位するわけですが8年ほど天皇として政務を執った後、孫の軽皇子に譲位し、自分は太上天皇として退きます。そして702年、大宝2年暮れ、彼女は57歳の波乱に満ちた人生に幕を閉じます。

 次回は、万葉集に残される彼女の作った歌から彼女の人となりを見ていきたいと思います。何か大津皇子の変と関係がありそうなものが出てくるか、お楽しみにしてください。


二上山麓・大津皇子歌碑
あしひきの山のしづくに妹待つと我立ち濡れぬやまのしづくに(大津皇子)



【11】 「大津皇子考 その7」  (09.6.5.発行 Vol.53に掲載)

 前回に引き続き、持統天皇とはどんな人物であったか、今回は万葉集に彼女が残した歌を見ていくことにします。彼女の歌が最初に万葉集に見えるのは夫、天武天皇の亡くなったときです。

  燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずや面智男雲 (2-160)

 「面智男雲」の部分は現在のところ意味不詳となっていますから、自由に解釈して頂くとしても前のほうの部分は「燃えている火でも取って包んで袋に入れると言うではないか」位の意味です。すると凡そ後の部分は「何故それが天武天皇の魂にも出来ないんだ」位の意味かと思われます。しかし、問題は歌の意味よりこういう歌を歌う人の心情です。普通なら「悲しい」とか「涙が出て止まらない」とか歌うと思いますが、彼女は悔しさを前面に押し出しているように聞こえます。この一つの歌からでも「彼女は気の強い女であった」ことが伺えます。ところが、万葉集には彼女のこの歌の前にもう一つ歌を載せています。

  やすみしし 我が大君の 夕されば 見したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳の 山の黄葉を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見したまはまし その山を 振り放け見つつ 夕されば あやに悲しみ 明け来れば うらさび暮らし 荒栲の 衣の袖は 干る時もなし (2-159)

 天武天皇が生きておられたなら、神岳の山の紅葉はどうなったかお尋ねになるのでしょうに。私はその山を見ながら夕方になれば悲しみで一杯になり朝になればうら寂しくなり衣の袖も涙で乾くときもない位です。

 とまあ、同一人物が歌った歌なのか首を傾げたくなるような殊勝な歌を作っています。これをどう考えればいいのでしょう。双方とも彼女が作った歌だとすると「気性はきついが、夫をこよなく愛していた妻」のイメージを与えてくれます。そして続いて次の歌が載せてあります。

  向南の山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて (2-161)

 「青雲」とは天武天皇の御霊の事を指し、「星」とは残された皇子皇女達の事を指し、「月」を自分のことを指すとするとこの歌は「あなたの魂は息子娘達から離れ、私からも離れてしまったのね」と言った諦めのムードが漂います。そして藤原宮への遷都となります。

  明日香の 清御原の宮に 天の下 知らしめしし やすみしし 我が大君 高照らす 日の御子 いかさまに 思ほしめせか 神風の 伊勢の国は 沖つ藻も 靡みたる波に 潮気のみ 香れる国に 味凝り あやにともしき 高照らす 日の御子 (2-162) 

 あなたはもう伊勢の国に行ってしまわれましたが、どう思われていますか。これから藤原宮に遷都するんですよ。あなたがいないので物足りません。

 まあ意訳すれば上のようになると思いますが、やはり心細かったのかもしれません。藤原宮からは天武天皇の御陵は見えなくなってしまいます。寂しかったのではないでしょうか。このように彼女の波乱万丈な人生とその歌ってきた内容を見てきました。大津皇子の変は天武天皇の亡くなられた直後のことです。まだ彼女は持統天皇として即位していません。この時代の皇親政治は、物事を皆で諮って決めたとされています。彼女が独断で大津皇子を処刑するほど彼女には力はなかったと考えられます。天武天皇が病に倒れたころから、勿論彼女は看病したでしょうけれど、よき話し相手、相談相手を探したのではないかと思われます。大津皇子を死に至らしめたのは、その相談相手ではなかったかと思われます。次回は、いよいよその相談相手を考えて行きたいと思います。お楽しみに
                                  

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