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蘇我一族考 大化の改新

過去ログ・「大津皇子考」はこちら♪


「蘇我一族考」
【1】  「その1」  (09.9.18.発行 Vol.62に掲載)

 香具山を南に下りて畑の中の農道を進むと飛鳥小山辺りに「大官大寺跡」と言う案内が見えます。「大官大寺」は、舒明天皇が百済川の畔に建てた「百済大寺」を後に天武天皇が高市郡に「高市大寺」として移築し、後に名称が「大官大寺」となったものです。「大官大寺」は九重の塔を持った高さ90m以上にも及ぶものだったとされています。90mと言われてもどれほどのものか簡単には想像できませんが、現存する日本で一番高い塔は東寺の五重塔で、その高さが約55mですからその約倍とみて良いでしょう。まさに大寺であったわけです。即ち天皇が権威を持って建てた「官寺」だったわけです。すると舒明天皇の時代に仏教を公的に取り入れていったことが分かります。仏教を進んで取り入れていこうとしたのは、蘇我馬子であったことはよく知られていることですが、それを舒明天皇は国家として取り入れていくことが得策であると判断したものと考えられます。そうした下地を作った蘇我一族とはどんな一族だったのかこれから見ていきたいと思います。

 蘇我一族は色々な説がありますが、竹内宿禰を祖とする事が書紀に見えます。竹内宿禰は仲哀天皇が亡くなられるとき神功皇后と一緒にいたことや、兄弟の讒言に盟神探湯をしたことなどで有名です。明治のお札にも彼の肖像が描かれています。しかし五代の天皇、景行、成務、仲哀、応神、仁徳に仕えたという非常―に長寿な人であったとされますが、その余りの長寿ゆえ伝説上の人物ではないかとさえ言われています。すると蘇我氏は伝説上の人物を祖にもつ何やら得体の知れない一族になってしまいそうですが、書紀ではこの竹内宿禰を祖とする氏族が七氏族いたことになっています。即ち、蘇我氏、羽田氏、巨勢氏、平群氏、紀氏、葛城氏、若子氏等が竹内宿禰を祖とすることとなっています。それは兎も角として宣化天皇の時代、蘇我稲目は大臣として抜擢されます。そして引き続き欽明天皇の代でも大臣として活躍すると共に娘の堅塩媛と小姉君を後宮に入れることに成功します。
 堅塩媛は7男6女を産み、小姉君は4男1女を産みます。このようにして蘇我稲目は天皇の外戚となることで豪族の中で最も天皇に近い存在として力を蓄えていきます。

 一方この時代、蘇我に対抗する勢力として物部氏がいました。古来物部氏や大伴氏が朝廷の軍隊として活躍していましたが、大伴氏は物部尾輿によって韓国内での不手際を指摘され役を降ろされてしまいます。従い正規軍として力を持っていたのは物部氏だけだったと見ていいと思います。そこに蘇我氏と言う新興勢力が台頭してきた訳です。物部尾輿にとっては蘇我稲目の存在は面白くないものだったに違いありません。それも天皇の外戚となり、渡来系の技術兼武装集団、東漢を配下に置いています。何かと対立していたと思われます。丁度その頃、百済から欽明天皇に仏像が贈られてきます。天皇はその仏像を礼拝して良いものかどうかを家臣に問います。稲目は「よその先進国で礼拝しているものを日本だけしないと言うのは可笑しい。礼拝すべきだ。」と言います。一方尾輿は「蕃神を礼拝すれば国神の怒りを招く。礼拝すべきでない。」と奏上します。このときから蘇我と物部は仏教導入の点で対立し、その対立は夫々の子供の馬子、守屋へと引き継がれていきます。そしてこの馬子のときに蘇我一族は全盛を誇ることになります。次回はこの馬子の時代を見ていきたいと思います。お楽しみに。



【2】  「その2」  (09.11.27.発行 Vol.67に掲載)

 飛鳥と言えば石舞台、石舞台と言えば蘇我馬子と言うくらい馬子は飛鳥では避けて通れない人物です。彼の住んでいた家の庭には、嶋を浮かべた池があったことから「嶋大臣」とも呼ばれていました。敏達天皇のときに大臣となります。以後、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇と4代の天皇にわたり仕え、「在官55年」(公卿補任)に及び蘇我一族の最盛期を築いた人物です。ここで一寸馬子の容姿を見てみましょう。書紀に敏達天皇の殯の場での馬子と守屋の遣り取りが書かれています。

 『馬子宿禰大臣は、刀を佩びて死者を慕う誅をのべた。物部弓削守屋大連はあざ笑って「猟箭(けものを射る大きな矢)で射られた雀のようだ」といって、小柄な身に、大きな太刀を帯びた馬子の不恰好な姿を笑った。次に弓削守屋大連は、手足を震わせわなないて誅を読んだ。馬子宿禰大臣は笑って「鈴をつけたら面白い」といった。』(宇治谷孟訳より)

 どうやら馬子は小柄だったと見ていいのでしょう。上のような話の遣り取りが本当にあったかどうかは定かではありませんが、馬子の容姿を思い浮かべるには良い資料となります。

 書紀ではこの後、続けて「それから二人は段々怨みを抱きあうようになった」とありますが、何か書紀編者の作為があるような気もします。敏達天皇が亡くなったのは585年ですから、公卿補任の記事から、もし馬子が550年の生まれとすると上の話は馬子35歳のときの話となります。既に結婚して子供もいた筈です。そしてその結婚した相手とは守屋の妹だったと言われています。馬子から見て守屋は義理の兄だった訳です。政略結婚にしろ何にしろ蘇我と物部は血縁関係にあった訳です。お互い争わずに職務を所掌していこうとの気持ちがあったのかもしれません。人柄を示すものとして馬子の死亡したときのことが書紀の推古34年5月20日の記事として載っています。『馬子大臣が亡くなった。桃原墓に葬った。大臣は蘇我稲目の子で、性格は武略備わり、政務にも優れ、仏法を敬って、飛鳥川の辺りに家居した。』(宇治谷孟訳より)即ち、戦をすれば戦略に長け且つ政治家として優れ、また仏教を崇拝していたといった人物像が浮かんできます。

 先ず、「戦略に長け」と謳われていますから、戦上手だったことから守屋との戦いを思い浮かべますが、具体的にどう上手かったのかは書紀からだけでは読み取れません。守屋の軍勢は強く3度引き返したとある位で、何処が戦略に長けていたのか分かりません。寧ろ、物部氏以外の諸豪族を纏め上げた政治的な力の方が、評価されても良いのではないかと思っています。守屋との戦に勝利した馬子の周りには敵対する勢力はなくなっていました。守屋との戦いに勝利して直ぐに始めたのが法興寺(飛鳥寺)の創建です。百済から建築技師や瓦職人を呼び寄せ、我が国初の仏教寺院を建立することになります。推古朝に完成しますが、寺司には馬子の長子、善徳臣を任命します。仏教に対する並々ならぬ意気込みが感じられます。

 もう一つ、馬子のことを考えるとき重大な出来事があります。崇峻天皇弑逆事件です。用明天皇亡き後、物部守屋が穴穂部皇子を立てて天皇としようとしていたのを先回りし穴穂部皇子を殺害、蘇我の血を引く泊瀬部皇子を立てて崇峻天皇とします。しかし、天皇が猪を献上されたとき「憎く思う奴をこの猪みたいにしたいものだ」と呟いたのを馬子が聞き付け、東漢直駒をして天皇弑逆事件を起こします。このとき既に守屋はおらず、諸豪族達は任那復興の目的で九州に行っていました。普通なら天皇が弑逆される事件が起これば家臣は飛んで帰るところですが、馬子は早馬を使って筑紫にいた将軍達に「国内の乱れで外事を怠ってはならぬ」と伝令します。そして崇峻天皇はその日のうちに埋葬されます。これだけ見ても馬子の権力がいかに絶大なものであったかが分かります。これには後日談があり、馬子の差し向けた刺客、東漢直駒が崇峻天皇の妻となっていた馬子の娘、河上娘を妻としたかどで殺されてしまいます。念には念を、死人に口なしを徹底して実行した人物だったようです。

 次回は馬子の息子蝦夷と、その息子入鹿の時代の蘇我氏を見ていきたいと思います。お楽しみに。



【3】 「その3」  (10.1.22.発行 Vol.72に掲載)

 推古天皇と二人三脚の政治を執り行ってきた蘇我馬子でしたが、彼が亡くなるとその息子の蝦夷に番が回ってきます。馬子が亡くなって程なく推古天皇も亡くなります。しかし、推古天皇は死を前にして、彼女の後継者の候補であった田村皇子と山背大兄皇子それぞれを呼び、田村皇子には 「天下を治めることは大変なことです。慎重に見通すようにしてやりなさい。」と言い残し、また山背大兄皇子には「群臣の言葉に従って慎んで道を間違えないようにしなさい。」と言い残します。そこで問題が発生します。「推古天皇は果たしてどちらを後継者に選んだのだろう?」と。

 それぞれの皇子は、自分が選ばれたと思っています。後は群臣に諮るしかなくなってきました。田村皇子を推したのが蘇我蝦夷など、山背大兄皇子を推したのが蘇我境部摩理勢などで、圧倒的に田村皇子を支持した方が多かった次第です。同じ蘇我同士で推す相手が違うのは、どうやら摩理勢が聖徳太子の影響を受けていたからのようで、その息子の山背大兄皇子を推したようです。しかし多勢に無勢、山背大兄皇子に勝ち目はありませんでした。蘇我蝦夷の説得に自らも引き下がってしまいます。一方、納得が行かないのが摩理勢、「何でやねん。お前らワシの言うことが聞けへんのか。」と当時兄馬子の墓を造営中であったのを放棄してしまいます。職務放棄ですね。そして斑鳩の地に篭ってしまいます。蘇我蝦夷は説得に当たりますが言うことを聞きません。摩理勢の方も篭った先の泊瀬王が亡くなり、山背大兄皇子も引き下がり孤立無援になってしまいます。ここで蘇我蝦夷はどういう命を下したか定かではありませんが、書紀には「境部臣を殺そうと思って兵を遣わした」とありますから、殺意を持って対処したようです。要は、蝦夷は彼の意に背くものは力を以って、喩え相手が叔父であっても、排除した専制君主的な性格を持った人物であったようです。そして、田村皇子は舒明天皇として即位します。

 自分が田村皇子を天皇に就けたくらいにしか蝦夷は思っていなかったのでしょう、次第に朝廷と対立していきます。ある時、敏達天皇の皇子が蝦夷に「役人が出仕をなまけているので時を知らせて出てくるように」と諭しますが、蝦夷は言うことを聞かなかったと書紀にあります。その内に舒明天皇も亡くなり、皇后が皇極天皇として即位します。ここでも蝦夷は大臣の位で推移します。そして、その専横振りは一層酷くなって行ったと書紀は記しています。葛城の地に祖廟を建て、中国では天子しか行えないと言う「八(や)つらの舞」を舞わせたり、同じく今来(いまき)に自分と息子の入鹿の墓を作り、これらを大陵、小陵と呼ばせたり(陵とは「みささぎ」と読み、天皇と皇后の墓のことで一般人には使わないものです)またその墓を作るのに「民を徴発」し(民の徴発は天皇の権限)上宮大娘姫王(かみつみやのいらつめのみこ:山背大兄王の妻、聖徳太子の娘)の叱責を買ったと記されています。曰く「蘇我臣 專擅國政、多行無禮。天無二日、國無二王。何由 任意、悉役封民」 (蘇我臣は国政を欲しいままにして、無礼の行いが多い。天に二つ日無く地に二人の王は無い。何の理由で皇子の封民を思うがままに使えたものか<宇治谷 孟 訳>)と。
 更に「甘樫の丘に家を建て、蝦夷の宅を上の宮門と呼び、入鹿の宅を谷の宮門と呼び子供たちを王子(みこ)と呼ばせた。家の外には砦の柵を作り、門の脇には武器庫を立て力のあるものに武器を持たせ、用水桶を準備して火災に備えた。畝傍山の東に家を建て、中に池を掘って砦とし武器庫を作って矢を貯えた。常時50人の兵士で護衛した。」と書紀は記しています。何のためにそこまでする必要があったのでしょう。もしこれが本当なら、遅かれ早かれ朝廷側からの反感を買うに決まっています。そして、その時は乙巳の変となって歴史に名を残すことになります。次回は蝦夷の息子、入鹿の生涯を見ていきたく思います。お楽しみに。



【4】 「その4」 (10.4.2.発行 Vol.77に掲載)

 乙巳の変や入鹿の首塚などで一躍有名になった蘇我入鹿ですが、今回はその蘇我入鹿とはどんな人物だったのか見ていきたいと思います。書紀に入鹿のことが最初に現れるのは皇極天皇の即位のときに「大臣(蝦夷のこと)の子、入鹿-またの名、鞍作-が自ら国政を執り、勢いは父よりも強かった。この為、盗賊も恐れをなし、道の落し物さえ拾わなかったほどである。」(宇治谷 孟訳)として颯爽と現れます。是非の程は兎も角、書紀は蝦夷、入鹿を極端に逆賊として扱っていますので、その辺りも注意して見ていく必要があると思われます。いくら怖い政治家がいたとしても「道の落し物さえ拾わなかった」と喩えられたのは世界広しといえども彼位じゃなかったでしょうか。

 後に出る藤原家伝と言う書物に彼のことを表す箇所があります。中臣鎌子(後の藤原鎌足)と同じく僧旻の学校に通っていた頃のことです。入鹿と鎌子は今で言う同級生だったんですね。授業の終わりほどに鎌子が見えたときのことです。こんなことが書いてあります。

「寵幸近臣宗我鞍作 威福自己 権勢傾朝 咄咤指麾 无不靡者 但見大臣 自粛如也 心常恠之 甞群公子 咸集于旻法師之堂 讀周易焉 大臣後至 鞍作起立 抗禮倶坐 講訖將散 旻法師撃目留矣 因語大臣云 入吾堂者 无如宗我大郎」

 意味は概略ですが『特別に可愛がられている臣下の入鹿は威厳と福徳が備わっており、権力と勢いは時の政治を左右するほどである。彼の命令に背くものはいないが、ただ鎌子に対しては自粛している。入鹿の心は常に疑問を持っている。かつて僧旻のところで皆集まって周易を読んでいたとき鎌子が後から入ってきたとき、入鹿は立ち上がり鎌子に一礼し共に座った。講義が終り解散しようとするとき僧旻は鎌子に対し「ここに来るものの中で入鹿ほど優れたものはおりません。」と言った。』と言ったものでしょう。誰に可愛がられているのか主語がはっきりしませんが(鎌子?)、大筋このような意味ではないかと思います。藤原家伝とは当然、藤原家のことを良いように綴ってある訳ですが、上の文からは入鹿と言う人物は「学業優秀、質実剛健、思慮深く礼儀正しい立派な人物」像が浮かび上がってきます。わざわざ藤原家伝に入鹿が立派な人物であったことを載せる必要はないように思われますが、これが入鹿の本当の姿であったかもしれません。

 書紀によると、冬に蝦夷が病気で登朝出来なかったとき、蝦夷の紫冠を誰の断りもなく入鹿に授けたとあります。真意の程は兎も角(TOMさんは蝦夷が独断で勝手に入鹿を大臣にしたとは思っていません。周りは既に入鹿こそ大臣の地位にいて相応しいと了解している状態であったと思っています。)実質大臣になった入鹿は、書紀によりますとこれも独断で、上宮家を滅ぼし古人大兄を立てようとしたとあり、山背大兄皇子を部下に殺させに向かわせたとあります。思慮深い人間のすることとは思えませんので、この箇所も何らかの書紀編纂者の意図があるように思えます。当時、次期天皇候補の一人である山背大兄皇子がいない方が都合が良いと考えていたであろう人物には、中大兄皇子、軽皇子、古人大兄皇子、皇極天皇と沢山いた筈で彼等と相談の上のことだと思っています。入鹿の独断であたかどうかの程は兎も角、上宮家は滅びます。これを書紀では入鹿の独での行動とし、蝦夷がそれを知って「馬鹿者が、お前の将来も危ういものだ」と言ったと記しています。本当にそうでしょうか、寧ろ「よくやった、これで蘇我一族も安泰だ」と褒めたのではないかとさえ思われます。

 その翌々年乙巳の変が起きます。書紀には活劇の場面が、あたかも見て来たかのように事細かに記されています。中大兄皇子が「やあ」と声をかけて飛び込んでいった様子も記されています。談山神社にある絵巻にもその描写が生々しく描かれています。武力による政変、所謂クーデターが起こったのです。これを書紀では美化し「中大兄皇子らによる勇気ある正義の為の行動」のごとく記しています。まあ、クーデターなどと言うものは4-5人で出来るものではありませんから相応の準備と計画が練られていたのでしょう。いずれにしても入鹿はあっけなく暗殺され蝦夷も家に火を放ち、ここに蘇我本宗家は滅びます。

 しかし、上の事象だけを見ても「極悪人入鹿」のイメージは形成されません。一体何処でこの「極悪人」のイメージが付いていったのでしょう。次回はそのイメージは何処から出たのかを考えてみたいと思います。お楽しみに。



【5】 「その5」 (10.5.28.発行 Vol.77に掲載)

 前回は乙巳の変に至る経緯を見てきましたが、今回は何故こうも入鹿だけが悪者扱いされるようになったかを考えてみたいと思います。

 書紀は乙巳の変に際し、中大兄皇子をして「入鹿は王子たちを全て滅ぼして、帝位を傾けようとしています。入鹿をもって天子に代えられましょうか。」と言わしめています。これをそのまま受け取った読者は一様に入鹿を逆賊のイメージで捉えたでしょう、しかし当時一般庶民が、漢字で書かれた国記である日本書紀に精通していたとは思えません。いつの頃から入鹿は悪役としてのイメージが付いていったのでしょう。

 江戸時代、庶民が楽しんだものに人形浄瑠璃や歌舞伎があります。この人形浄瑠璃や歌舞伎の中に、入鹿に悪役としてのイメージを与えた「妹背山婦女庭訓」(いもせやまおんなていきん)と言うものがあります。この話は入鹿を成敗した大職冠の話ですが、婦女庭訓とは「女性が鑑とすべき姿」の意味で人情物を取り入れた江戸時代中期過ぎの作品です。この辺りから人口に膾炙するようになった入鹿は世間一般に悪者としてのレッテルを貼られたのではないかと思われます。今日はこの「妹背山婦女庭訓」に描かれた入鹿の姿を見ていきたいと思います。物語のストーリーは概略次のようなものです。ここにはTOMさんの主観も入っていますので、妹背山婦女庭訓をよくご存知の方は「違う」と言わずに「当たらずとも遠からず」くらいに思って読んでください。

 子供の中々出来なかった蝦夷は、占いで妻に白い牡鹿の血を飲ませればよいとされ、そうすることにより子を授かります。授かった子は、鹿の血が入ったと言う意味で「入鹿」と名付けられます。入鹿は生まれたときより魔性の血を持っていたのです。時の帝は天智天皇(浄瑠璃の中での時設定です)、病に冒され目が見えなくなっており、政治も乱れています。その隙を突いて蝦夷が政権を握ろうとします。藤原鎌足も蝦夷の謀略により失脚させられます。これを諌める入鹿は自分が即身成仏したように見せかけ、蝦夷を陥れ自らが政権を取り帝位を称しています。この魔性の血を持った入鹿を倒すには、爪黒の牝鹿の血と疑着の相を持った女の血で塗った笛を吹く必要があります。こうすると入鹿の中の魔性が消え、容易く打てると言う訳です。疑着の相とは、嫉妬に狂い普通の人格を離れた相のことです。鹿は当時神聖な動物として扱われていましたので「爪黒の牡鹿」を射ることは容易ではありませんが、人に見つからないように捕まえることは出来ない相談ではありません。

 入鹿の暴虐振りは日本版ロミオとジュリエットとして描かれます。ジュリエットに横恋慕した入鹿は彼女を側室とし彼氏を部下としようとします。これを断る二人は自害の道を選びます。彼女が住んでいたのが背山、彼氏が住んでいたのが妹山です。妹山は吉野の大名持神社のあるところで、丁度吉野川を挟んで対岸が背山となります。お互いが自害せねばならないように仕向けたのは、他でもありません入鹿として描かれたのです。浄瑠璃を見る人は涙しながら「入鹿とは何て悪い奴だ」と憤慨したに違いありません。

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妹山背山

 一方、入鹿の妹も不比等とお互い相手が何者か知らないうちに、仲が良くなっています。相手の身分にお互いが気づいた時、不比等は彼女を切り殺そうとしますが、彼女は敢えてこれを避けず、「この気持ちのためなら殺されても構わない」態度に出ます。そこでまあ、話は入鹿の持っている雨の群雲の剣を持ってきたら結婚しよう、と言う事で落ち着きます。ところが不比等はもてたので、もう一人彼を想う女が登場します。お三輪と言う女ですが、不比等を追って祝言の場に行きますが、そこで見(まみ)えることも許されず、侍女たちになぶり者にされます。その場で奥から聞こえてくる祝言の言葉を聞き、彼女は嫉妬に狂い「疑着の相」を持った女に変わります。狂っている訳ですから、殺されても致し方ありません。狂ったお三輪は、その場で不比等の部下に切り殺されますが、殺されるとき「実はこれは不比等様の為にもなるんだ」と諭され彼女は納得して死んでいきます。これを見ているお客は「ああ、お三輪も暴虐入鹿を倒す為に殺された。」と一層、入鹿=悪者のイメージを植え付けられたのではないでしょうか。

 二つのアイテム、「爪黒の牡鹿の血」と「疑着の相の女の血」を得た不比等は無事、入鹿を倒すことができ世に平安がもたらされます。帝も病が治り、めでたしめでたしと言った内容の話です。後に残ったものは、そう、暴虐入鹿のイメージだったのです。このようにして人口に膾炙されていった入鹿は、今でも悪者のイメージが抜けきれていないのかも知れません。

 さて、蘇我一族の話は今回で終えることとします。次回はこの乙巳の変の後、即位した孝徳天皇とは、またそこで行われた大化の改新とは一体どんなものだったのか見て行きたいと思います。お楽しみに。

 参考:「妹背山婦女庭訓」(日本芸術文化振興会)





「大化の改新」
【1】「その1」 (10.9.3.発行 Vol.88に掲載)

 乙巳の変の後、皇極天皇は天皇の座を弟、軽皇子に譲り、軽皇子は孝徳天皇として即位します。同時に皇極天皇は皇祖母尊として政界に留まります。何故、中大兄皇子が天皇にならなかったのか疑問を持つ方もおられると思いますが、書紀には皇極天皇は先に中大兄皇子に「お前が私に代わって天皇をやりなさい。」と話したが、中大兄皇子は鎌足と相談した結果、時期が未だ早いと言う理由で断ったとあります。また古人大兄皇子にも天皇としての地位を尋ねましたが、蘇我の後ろ盾を失った古人大兄皇子にとっては、天皇位などとんでもなく、寧ろ早くその身を隠さねば何時入鹿と同じ目に遭うかもしれないと、その場で髪をおろし僧形となって吉野に隠棲したと記されています。

 クーデターを起こした本人が帝位を取って代わらないと言う、普通では 考えられないクーデターの結果を迎える訳ですが、軽皇子は年齢にしても皇位を相続するに十分な歳であり、且つ周りから見ても妥当な判断だった のかも知れません。軽皇子は、鎌足が中大兄皇子と組む前に品定めをされ「蘇我を討つには力量が足りない」と判断された皇子であり、そのことは彼の晩年の伏線ともなっていて、書紀の物語性を高めている気がします。

 それはさておき、ここで驚くべきことは、何と上記の一連のことが6月14日一日で行われたと言うことです。6月12日に入鹿殺害、6月13日に蝦夷自害 蘇我本宗家滅亡の翌日にこれらのことがてきぱきと行われ、決められていったのです。揉める余地のない行動です。余りにも手際が良過ぎると言わざるを得ませんが、中大兄皇子と鎌足の間で、蘇我を滅ぼした暁には、これをこうして、あれをこうしてと事前に上記行動が綿密に練られていたとしか考えられません。

 兎も角、孝徳天皇、皇祖母尊、中大兄皇子、中臣鎌足の4頭立ての馬車は、蘇我本宗家を中心とする政治体制に取って代わり、新たな律令制度確立へと向かって発進します。先ずトップの人事を行います。中大兄皇子を皇太子とし、安倍内麻呂臣を左大臣に、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣に、中臣鎌足を内臣とします。国政の顧問として僧旻と高向史玄理を国博士とします。同じ年、中大兄皇子の妹、間人皇女を立てて皇后とします。孝徳天皇は既に右大臣、左大臣から夫々の娘を一人づつ娶っていますが(このことも逆に内麻呂、石川麻呂が大臣に任命された理由なのかもしれません)皇極天皇の実娘を迎えることで、天皇としての地位を確固たるものとしたと思われます。年号も皇極4年を「大化」と改めます、と言うか日本で始めて年号が定められ使われます。このように一応万全の体制を取って馬車は出発した次第です。

 翌月には高麗、百済、新羅から遣いがあり調を奉ったことが書紀に見えます。彼等にしてみれば、乙巳の変後の日本を見る一種の偵察だったかもしれません。その時の任那の調は百済が新羅に変わって行うようになっており、それに対し内容が不備であると突き返したと記されており、新政権の毅然とした態度が伺われます。年内に次々と詔を出し、天皇を中心とした体制を整えていきます。一方9月に中大兄皇子は、吉野に隠棲していた古人大兄皇子に謀反の疑いがあることを理由に、彼を討たせます。一しきり詔を出し邪魔者を片付けた新政権は12月に難波に遷都することを打ち出します。難波長柄豊崎宮の出現です。

 とここまで書いていて、ふと『歴史に興味の余りない人は「大化の改新」のことをどのように理解しているのだろう』と言った思いが浮かび、実際に30代の男性に聞いてみました。

 『「大化の改新」って知ってますか。』 
 『ええ、645年、蘇我入鹿が殺されて、中臣鎌足が中大兄皇子になっんじゃなかったですか』

 ふむ、成る程、年号とキーワードは覚えているんだ。西暦2010年までの歴史を勉強し、たかがその1点の出来事は入学試験目的、或いは社会人としての対話の中では、645年:大化の改新:蘇我入鹿:中臣鎌足:中大兄皇子が繋がっていれば十分なのかもしれません。まして、6月12日の天気はどうだったかなどと聞く方がおかしいのかも知れません。妙に納得したTOMさんでした。

 閑話休題、翌年大化2年正月、難波に移った新政権は改新の詔を発表します。4項目よりなり、第1項に今迄の豪族の土地所有を廃し、公地公民とすること、第2項にその公地はどのように管理するのか、第3項に戸籍・計帳・班田収受の法を作ること、そして第4項に従来の賦役を止め、田の調をとることを定めます。唐の制度に倣った律令国家への道を進み始めます。勿論これらの制度は孝徳天皇一人でも、鎌足と共に改革を志した中大兄皇子でも為しえなかったことと思われます。そこに国博士として選出された僧旻と高向史玄理の力が大きく寄与していたであろうことは想像に難くありません。

 飛鳥にしか興味のない読者の方々には、この孝徳天皇は難波で活動された方なので、余り興味はないと思われるかもしれませんが、もう少し大化・白雉と続く難波での政治はどんなものだったのかお付き合い下さい。次回は改新政治がどのようなものだったのか、何故再び飛鳥に戻ることになったのかなどを見ていきたいと思います。お楽しみに。



【2】「その2」 (10.10.29.発行 Vol.92に掲載)

 大阪城の直ぐ南に法円坂というところがあり、その坂を上ったところに大阪歴史博物館があります。その地下に法円坂遺跡と称する倉庫群の遺構があり、博物館への訪問者は板ガラス越しに遺構が見られる作りになっています。この倉庫群は難波長柄豊碕宮の一角と考えられています。1954年に始まった難波宮遺跡調査は、未だに続けられており都度新しい発見が報告されています。東西185m南北200mの天皇の住む内裏があり、そのすぐ南に東西234m南北263mに及ぶ政治及び儀式を司る朝堂院があり、内裏南門を出てすぐ東西に八角堂を有し続いて7棟づつの朝堂跡計14棟が検出されています。

 最近の発掘調査ではこの10月に深さ6mの谷跡から大量の白壁などが見つかっています。その作りが荒塗り、下塗り、上塗りを重ねた後、表面に白土あるいは漆喰を白く塗った丁寧な作りとなっており、その白壁は宮殿の中でも特に格式の高い内裏など中枢部の壁材とみられます。


難波宮跡出土の壁土

 難波に移り6年の歳月を掛けて作った難波宮の壮大さ、優雅さ、は書紀によると「筆舌に尽くしがたい」ほど素晴らしいものであったとのことです。難波に立派な宮を作ったのは外交使節を受け入れ易くし、その威厳を内外に見せる為であった訳です。しかし、この筆舌に尽くしがたいほど立派な宮に移った孝徳天皇はその翌年、中大兄皇子らとの意見の対立が表面化したのか、中大兄皇子らは一族と共に飛鳥へ戻ることとなります。何があったのでしょう。今回からは、大化の改新と言われてきたその内容を吟味して行ってみたいと思います。

 乙巳の変の後、大化と元号を付けた新政権は先ず東国の司を決め、その治めるところの戸籍を作ることを命じ、田畑を検地し公地公民のモデル都市を作ります。東国とは勿論、大和の東の方ですが、朝廷の権威の及んでいた地域と考えられますので名張以東のことかと思われます。また「蝦夷と境界にある国は武器の数を管理し」ともありますので越前辺りも含まれていたのかもしれません。また続いて朝廷の直轄地である「倭の国の六つの県(高市、葛城、十市、志貴、山辺、曽布)」に対しても戸籍を作り田畑を検地することを命じます。勿論、こちらもモデル都市を画策したものだと考えられます。

 続いて朝廷に鐘と櫃を置き、司る者の判断が間違っていると思うならその旨を「櫃」に書いて入れ上申すればその内容を検討してやろう、その検討結果もおかしいと思うなら「鐘」を鳴らせ、と言うものでいわば投書箱のようなものを作って人気取りのようなこともします。まあ、これは後になって実際に功を奏したこともあったようですが。また子供を男親につけるか女親につけるかも、身分や職業で決めていきます。これは戸籍をはっきりさせる為には必要なことだったと思われます。最後に仏教を政治に取り入れ「蘇我稲目や蘇我馬子は仏教を尊び偉かった」などと引き合いに出し、自らも仏教を尊ぶとして10人の師、所謂「十師」を定め、その元に寺司や寺主を任命し、各寺の持つ人員や田畑の実情を調べさせます。

 このように中央集権化を図った上で、大化元年の暮れに「難波遷都」を打ちだします。

 乙巳の変から僅か半年の間に、このように目まぐるしく詔を出すわけですが、この間、9月に吉野に隠棲している古人大兄皇子に謀反の意があるとの密告があり、すぐさま兵を出して有無を言わさずこれを討たせています。古人大兄皇子は舒明天皇の流れを汲むれっきとした天皇候補者ですが、蘇我本宗家の後ろ盾をなくし自ら髪を落として吉野に隠棲したのですから、本当に謀反の意があったかは疑問です。しかし、これだけ矢継ぎ早に詔が出される中、不満を抱いた豪族がいてもおかしくはありません。こういった不満分子を一掃する為の古人大兄皇子征討だったかもしれません。後顧の憂いを絶った政権は堂々と難波に遷都し、明くる年に「改新の詔」を発表します。

 改新の詔は前にも書きましたが、概ね次の4条からなっています。
  1.従来豪族の所有していた土地を政府が預かり公地公民とする。
  2.首都、畿内、国、郡といった地方行政組織の確立。
  3.戸籍、計帳、班田収授といった税制徴収法の確立。
  4.賦役の中止と田から調を取るといった税制改革。

 これらのことを打ち出した政府は、その実行と成立の為に邁進します。同年3月には、これらの行政が思い通りに進行しているかどうかを調べる為、各司を都に呼びその進捗状況を吟味しています。その他、薄葬令や地方での旧来の陋習を廃止するなど国家を統制していこうとする姿勢が見られます。これら一連の政策がすんなりと移行する筈もなく、新政権の苦労した様が書紀に散見します。大化3年には冠位13階を制定し、同5年には19階に改正します。それだけ職種が分かれて社会組織が複雑になってきたことを示しています。面白いことに左右大臣は、この新しい冠位に従わなかったことが書紀に見えます。これらの冠位は天皇と皇太子、それ以外をはっきりさせるものだったので、一緒に改新を進めてきたつもりの左右大臣には馴染めなかったのかも知れません。そうこうする内に、左大臣阿倍内麻呂が亡くなります。次の左大臣には巨勢徳陀古が選ばれますが、その前に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が彼の弟により讒言されます。石川麻呂はその身の潔白を示すべく、家族共々飛鳥の山田寺で自決します。乙巳の変で上奏文を読む役にあたった乙巳の変の功労者である石川麻呂に対し、いくら弟からと言っても讒言を信じてしまう方もおかしな話ですが、ここに大化当初からの左右大臣は亡くなり、新たな左右大臣が任命されます。右大臣には大伴長徳が選ばれます。ここに来て新政権の政治改革は一段落したものと見ていいと思います。次回は、その翌年年号が「白雉」となり、飛鳥へ再び戻って行く過程を皆さんと一緒に考えて行きたいと思います。お楽しみに。



【3】「その3」 (11.1.21.発行 Vol.99に掲載)

 大化6年正月、長門の国から白い雉が贈られてきます。これは目出度い事だと年号を「白雉」と改めます。この白雉が献上される様が書紀に見えます。左大臣巨勢徳陀古、右大臣大伴長徳までが白雉を輿に入れて担ぎ、天皇、皇太子はそれを見る立場、即ち、天皇と皇太子、そしてそれ以外の立場の違いを皆の前で演出して見せたものだった訳です。これで一段落したと思った孝徳天皇は、その後仏教の布教に努めて行ったようです。しかし、この方向性と皇祖母尊を含む中大兄皇子の考えとには相反するものがあったようです。白雉5年、中大兄皇子は飛鳥に戻ることを上申します。「筆舌に尽くし難いほど素晴らしい」難波の宮に落ち着いた孝徳天皇は、当然それを却下します。何故そんな事を言い出すのか、孝徳天皇には分らなかったようです。

 飛鳥に戻る理由に就いては書紀は何も記していませんが、孝徳天皇亡き後、斉明天皇が行った大土木工事や蝦夷征伐、そして百済への介入を見ると、明らかに孝徳天皇の目指した国造りとは異なった国家へと向かって行ったことが分ります。これまで見てきましたように、大化の改新と言われるものは、所謂天皇を中心とした中央集権国家の確立であった訳で、その基本が出来上がった白雉5年の時点では、仏教に専念する孝徳天皇の進み方よりは、侵略と王権の繁栄を目論む皇祖母尊と中大兄皇子の意見が、朝廷内で強いものとなっていたと考えられます。また讒言を信じて蘇我倉山田石川麻呂を滅ぼしてしまった飛鳥には、未だ蘇我の息の掛かった一族が恨みを持って蔓延っていたのかも知れません。そのことも気に掛かっていたのかも知れません。皇祖母尊と中大兄皇子は一族郎党を伴って難波を後に飛鳥へ戻ることとなります。後に残された孝徳天皇は、失意の内に同年暮れに亡くなります。皇后であった間人皇女も母親である皇祖母尊と共に飛鳥に戻ったことを嘆き、孝徳天皇は次の歌を彼女に贈ったとされます。

 かなき付け 吾が飼う駒は引き出せず 吾が飼う駒を 人見つらむか
 (逃げないように金木に着けておいた私の馬は、外にも出さずに大切に飼っていたのだが、誰かが奪っていってしまった。)

 さて、肝心の書紀に中大兄皇子等がどんな理由で飛鳥に戻ったのか、何も書いてないのですから、今回は飛鳥へ戻っていった連中の心境をほろ酔い談義に任せて考察してみましょう。以下、完全な無責任発言です。皇祖母尊を「皇」で、中大兄皇子を「中」で記します。

  皇「なあ、中大兄、そろそろ飛鳥へ戻らぬか」
  中「何故、また今頃になってさようなことを」
  皇「ここ難波には山がないし、吉野のような神仙峡もない。落ち着かぬのじゃ。年のせいか、飛鳥が懐かしいて仕方がないのじゃ。」
  中「しかし、立派な宮も出来上がったことですし、このままこちらに落ち着かれては如何です。飛鳥には参りたければ何時でも参れます。」
  皇「何が落ち着くものですか。先だっても客人を四天王寺に歓待していたではありませんか。あの寺は私たちが滅ぼした、上宮家の作ったお寺ですよ。何だかしっくりきません。飛鳥寺ならまだしも。」
  中「しかし、叔父貴(孝徳天皇)がそんな事を許すわけがありません。」
  皇「分っています。しかし、最近の軽(孝徳天皇)は仏事に勤しんでいる様子だが、敢えて寺を作るわけでもなし、味経宮に人を集めて読経などをやっている。他にもすることがあろうに。あれでは大権を蔑にしているも同じ。」
  中「それは飛鳥に戻ることの理由にはなりませぬ。」
  皇「いやいや、飛鳥には吾がいたときに遣り残したことが山ほどあるのじゃ。難波の宮は難波の宮でそのまま残せば良いではないか。国使たちも一度は難波に着くのであるから、そこで迎えるようにすればよい。」
  中「そのような御勝手を申されても、私共だけで飛鳥に戻るような態度を取れば、それこそ謀反と受け取られるのではありませぬか。」
  皇「心配には及ばぬ。軽は吾が弟、昔から吾の言うことをよく聞く。それと間人も連れて行こうと思う。軽との仲はうまく行ってないよう
    じゃ。斯様なことは母の眼から見れば瞭然じゃわ。」
  中「間人はいくら母上の娘と雖も、既に皇后ではありませぬか。そのようなことまで叔父貴が許すとは到底思われませぬ。そんなことをすれば朝廷軍が追って参るに決まっています。」
  皇「そのような愚行に及ばぬよう、鎌足を見付け役に置いていこうと思う。彼なら軽の信任も厚く格好の役と考えるが。」
  中「果たして皆の者が飛鳥に戻ることに同意するでしょうか。」
  皇「何を気弱なことを。ことに就いては大海人とも話し合ってみなさい。
    間人には吾から伝えおくに、軽には中大兄から話しておきなさい。」
  中「分りました。しかし、飛鳥に戻って何をなされるのか、叔父貴にお伝えせねばなりませぬ。」
  皇「理由は何とでも。飛鳥に蘇我の残党がいて何やら不穏な雰囲気があるので、飛鳥の治安を考えて、とでも言っておきなさい。今の軽には何と申しても分かる道理がありませぬ。」

 などと言う会話が、あったかなかったか、酒の肴にでも考えてみて下さい(笑)
 



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