下ツ道 |
下ツ道は、奈良盆地の中央を南北に縦走する直線道路で、南端は橿原市五条野(見瀬)丸山古墳、北端は平城宮太極殿付近、総延長は約26kmにも及ぶ。このみちの名前は、古くは、『日本書紀』「天武紀上巻」すなわち、「壬申の乱」の記事に見え、平安~鎌倉時代の文献にも、下津道あるいは下津路の名が見える。また、この頃には、中ツ道、上ツ道、横大路とともに、聖徳太子によってつくられた道路であると伝承されていたようだ。
室町時代になると、別名「高野街道」と呼ばれており、高野山への参詣道としての役割を強め、それが、江戸時代になると、「中街道」と呼び名を変えると同時に、一部、路線変更がなされた。中街道の路線は、天理市二階堂町以南は、それ以前の下ツ道の路線を踏襲しているが、二階堂を通過したあたり(菅田神社の鳥居のあるあたり)で、西へ屈折し、菅田神社に突き当たるところで、再び屈折して北上し、筒井・郡山というふたつの城下町を縦断する。この路線の付け替えは、筒井城下町形成に伴うもので、新たにつくられたまちの中に、昔からの街道を取り込んだのである。 また、下ツ道は奈良盆地の条里地割りの基準線になっていることが知られている。つまり、奈良盆地に見られる方位に則った整然とした水田区画は、いつの時代かに下ツ道を基準につくられたのだ。
このように、下ツ道は時代により、呼び名や路線の一部を変更しながらも、現在に至るまで、連綿と生き続けている古代のみちである。と同時に、古代から近世に至るまで、奈良盆地を縦走するもっとも大事な幹線道路であり続けたみちなのだ。
(←クリックで拡大) |