両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第16回定例会
飛鳥瓦の源流
-百済、新羅、高句麗、そして、中国南朝-

もも
Vol.57(09.7.17.発行)~Vol.61(09.9.4.発行)に掲載





【1】  (09.7.17.発行 Vol.57に掲載)

大好きな古代瓦の話を書いても良いぞ♪と言うことで、今回の咲読担当になったももです。ももなりにそれなりに、瓦のお話を出来たらと思います。お付き合いのほど、よろしくお願いします。(^^)

 さて、今では極当たり前に目にする瓦屋根ですが、瓦が一般にも普及したのは、江戸時代に「桟瓦」という簡易な瓦が開発されてからだそうです。それまでは、丸瓦と平瓦で葺き上げる本瓦葺きだったために、建物の荘厳や権威を現す道具のひとつとして、寺院や城郭などでの利用が殆どだったようです。


丸瓦と平瓦と桟瓦の関係

 なんてことを言ったって、所詮土から出てきたただの土くれの古代瓦。色気も無いし、出土品のサダメで時には欠けていたりもしますし。「かわらぁ?」「何それ?」「あんな屋根にのっかってるだけのもんの何が面白いねん!」と思われる方がたぶん大半を占められるんでしょうね。^^; 「瓦と鏡をテーマにすると人が来ない」と展覧会などではよく言われたりするそうですが・・・。むぅ・・・。
 でも、これがもし古代瓦ではなく、道端に咲く花だとしたら?(話の展開が物凄く強引。^^;)道端に咲いている花を「何かな?」なんて、眺めますよね。遠くてよく分らないときは、色や形を手掛かりに花の名を思い出そうとしますよね。花には詳しくないけど・・っておっしゃる方でもタンポポやレンゲ、蓮や桜の違いはお分かりになると思いますし、季節から花の名へと思いが巡ることもあると思うのです。
 そうなんですよ!そういう風に瓦にもちょっとだけ目を向けていただけたら・・。そうすれば、無粋なただの土くれの瓦も、少しは喜ぶというもんです。

 古代日本で最初に瓦が使用されたのは、飛鳥寺。これは、皆さんも良くご存知だと思いますし、百済から瓦博士がやってきていることも有名な話です。彼らの指導で、古代日本の造瓦は始まったとされています。

 古代の瓦には、花のような文様が施されている箇所があります。軒丸瓦と呼ばれるものの一部分で、現地説明会などで、出土遺物として机の上に並べられていたりする円形のアレです。「〇〇式」とか「△△窯産」なんていう名札があったり、時には「☓☓時代」なんていうひどく大雑把な扱いを受けていたりします。(☓☓時代のいつ頃やねん!と、心の中で叫んだりしているのは内緒です。(笑))
 ま、かなり語弊はありますが、この円形の部分を「土の造花」だと思ってもらうと、いくらか分かりやすいと思います。(え?思えないって?^^;そこを何とか・・(^^ゞ) この「土の造花」の部分を「瓦当(ガトウ)」と呼びます。瓦当は花のように鮮やかな色を持たないものが殆どですが、それぞれの時代に寺院や宮などの軒先を飾りました。そして、その文様は、時代や地域、場所などによってもこれまた様々です。軒先に面を揃えて、ずらーーーっと並ぶ花の模様。綺麗♪・・・なんて思うのは、やっぱりσ(^^)ぐらい?^^;

花には、花びらをはじめ、オシベ、メシベ、ガクなんていう部分名がありますよね。紫陽花の花だと思っている部分が実はガクなんだよ!と教えて貰っても、この呼び名を知らないと意味は通じません。それと同じで、土の花(瓦当)にもそれぞれの箇所に当然名前がついています。例えば・・・花びらにあたるところは「蓮弁」と呼び、「葉(ヨウ)」または「弁(ベン)」とあらわされ、蓮弁が8枚あれば「八葉(ハチヨウ)・八弁(ハチベン)」となります。(この咲読中では「葉」で統一させて頂きます。)
その他の各部分の名称についてご興味のある方は、下の参考画像をご覧ください。



瓦当の各部名称(現・四天王寺軒丸瓦瓦当)

 こんな名称を知らなくても、(というか、殆ど意味ないかも。^^;)パッと見の文様だけでも、瓦は楽しいです♪
 次からは、ぼちぼちそんな話をさせて頂こうかと思います。(^^)   (もも)



【2】  (09.7.31.発行 Vol.58に掲載)

 第16回定例会で講師をして下さる橿原考古学研究所の清水先生が、百済からやってきた4人の瓦博士のお話から、同笵瓦のお話や、考古学から何処まで辿れるか・・など、とても興味深いお話を、飛鳥遊訪マガジン58号に特別に寄稿下さいました。ありがとうございます。m(__)m
 参照: 「瓦と向きあう~瓦博士の実像を求めて~」清水昭博先生
  ので・・このももには、今更も何も書く事がない・・・と言うわけにもいかないので、ぼちぼちと引き続き、瓦の呼称などのお話をさせて頂こうと思います。懲りずにお付き合いくださると嬉しいです。(^^ゞ

 清水先生がおしゃっておられるように、創建飛鳥寺の「花組」「星組」は、本当に分かり易い命名で、σ(^^)が瓦に興味を持ったばかりの頃、覚え易いこの名前にかなり助けられました。下の画像をご覧頂ければ、命名の絶妙さがお分かりいただけると思います♪


花組・星組
(画像:明日香村埋蔵文化財室展示品 無断転載・転用禁止・イラスト:もも

  でも、「花組」「星組」なんていう可愛らしい名前が付いているのは、この飛鳥寺創建瓦ぐらいで、この他の瓦当は、大抵「〇〇式」や「〇弁〇葉〇〇文軒丸瓦」と言われることが殆どです。余談ですが、豊浦寺や中宮寺などで出土している軒丸瓦も「雪組」と命名されたようなんですが、こちらはあまり使われることはないようです。^^; で、この「雪組」と言われる系統の瓦は、以前は「高句麗系」と呼ばれていましたが、近年の調査研究で新羅にその祖形が求められることから「新羅系」とされるようです。


雪組(風人画)

奥山廃寺式(明日香村埋蔵文化財室展示品)
無断転載・転用禁止

「〇〇式」は、「藤原宮」や「川原寺」など、宮や寺院名を入れて書かれますので、比較的取っ付きやすいと思います。なかには「〇〇廃寺式」と呼ばれるものがあります。この「廃寺」は、遺構や出土状況などで寺院跡だとされるものの、寺としての存在が資料などで確認・立証ができず、地名などを冠して便宜上つけられた名前になります。
 「吉備池廃寺式」や「船橋廃寺式」、そして以前飛鳥遊訪マガジン53号からのゆきさんの連載記事にも登場した「奥山廃寺式」などがそれにあたります。

 一方、漢字だらけで分かり難い「〇弁〇葉〇〇文〇〇瓦」の方は、「〇弁・〇葉・〇〇文・〇〇瓦」と、区切ってみてください。これだけで瓦の大まかな文様が浮かび上がってくるという、実はとっても優れものなんですよ♪ 
  最初の「〇弁」は、蓮弁の形で、種類は大まかに「素弁」「単弁」「複弁」などがあります。



素弁・単弁・複弁それぞれの蓮弁イメージ図(もも画)

 「葉」は、蓮弁の枚数です。このお話は咲読の一回目にさせてもらいました。次の「○〇文」は、瓦当の文様部分をさします。飛鳥時代の花のようにみえる瓦当文様は、「蓮華文(レンゲモン)」と呼ばれています。最後の「〇〇瓦」は、使われている場所から付けられた瓦の名前です。軒の丸い瓦だから「軒丸瓦」。軒の細長い瓦なら「軒平瓦」。
 この言い方に当てはめると、先にあげた参考画像の花組の瓦当は「素弁十葉蓮華文軒丸瓦」となり、星組の瓦当は「素弁十一葉蓮華文軒丸瓦」となります。漢字が沢山並んでいるだけで何だか難しそうに見えますが、分解してみると何のことはない♪って言う名前なんですよ。(^^)



【3】  (09.8.7.発行 Vol.59に掲載)

  次に、飛鳥遊訪マガジン58号で清水先生がお書き下さった記事の中にも出てきた同笵瓦(ドウハンガワラ)のお話をさせてもらおうと思います。

 瓦当は、木製の瓦笵(ガハン)と呼ばれる雌型に粘土を入れて成型されます。渡来の造瓦技術は貴重だったでしょうから、瓦笵も当然貴重品だったと思われます。沢山の瓦を作るため、度重なる使用で傷んでしまった瓦笵は、彫りなおしなどの修理(これを「改笵:カイハン」と言います。)をして使用されました。そして、あちらこちらで同じ瓦笵を使った同笵品といわれる瓦が出土しています。例えば、飛鳥寺の中門などに使用された「星組」と同じものが、豊浦寺の金堂にも使用されています。このときは、文様だけでなく製作時の技術や土の成分なども飛鳥寺と同じであることから、これらは製品として飛鳥寺(飛鳥寺の瓦を焼いた瓦窯〈ガヨウ〉)から豊浦寺に供給されたことを示しています。飛鳥寺と豊浦寺はそれぞれ蘇我氏の僧寺と尼寺の関係にあると考えられていますので、別段不思議なことではないかもしれません。
 ですが、飛鳥寺と豊浦寺で使用された「星組」の瓦笵のうち、改笵された後に、飛鳥を離れ斑鳩へ移動し、斑鳩寺の創建にも使用されたものがあります。この星組の瓦当が、飛鳥寺→豊浦寺→斑鳩寺と動くのにそんなに時間をかけていないことも分っているそうです。

 下は、移動したとされる星組の「素弁九葉蓮華文軒丸瓦」のイラストです。改笵時に中房内の蓮子(真ん中の円の中にある小さな丸)が5個(1+4)から7個(1+6)に増えています。型崩れを起こした瓦笵を修理する際に、文様にも若干手が加えられたようです。


星組(素弁九葉)の移動

 このように、実際に動くのは製品としての瓦であったり瓦笵であったりと様々です。同じ瓦笵から作られる瓦当は同じ文様で、当然傷をもつ型で作られた製品には、同じ場所に傷が残るというわけです。(これを、笵による製品の傷=笵傷〔ハンショウ〕と言います。)

 それぞれの遺跡から出土する瓦を詳細に比較していくことで、飛鳥寺・豊浦寺・斑鳩寺に見られるような前後関係を抑えていくことができ、これは史料などで目にする古代初期寺院の建立順が瓦の文様や製作技術を追うことで考古学的に裏づけられることにもなるのです。
 ここに出てくる寺や瓦窯などそれぞれの関係をもう少し詳しくお知りになりたい方は、σ(^^)のサイト「ひとしひとひら」の下記ページをご覧頂ければと思います。
 参考:豊浦寺跡 

 「星組」は、飛鳥から斑鳩などへ飛びました。では、「花組」はどうなったのでしょう。
 飛鳥地域では、豊浦寺や和田廃寺などからも出土していますが、極僅かだとされていて、星組のように明らかな移動の痕跡が辿れないのが「花組」なんだそうです。突然消えるか?花組(笑)・・・そんなわけはなくて、ちろちろと他でも出土していたり、製作技法が似通っているものがあったりと、細々とした痕跡はあるらしいんですが、ももは専門家ではないのでそこまで詳しくお話できません。(^^ゞ
その代りといってはなんですが、京都・山背の北野廃寺や高麗寺で、飛鳥寺との同笵瓦が出土しています。(下の画像は、高麗寺出土品としての参考です。飛鳥寺との同笵品なのかまでは、わかりません。m(__)m)


高麗寺出土軒丸瓦(2006年12月2日現地説明会にて)

 北野廃寺は、北山背でも初期に造営された寺院で、創建は渡来系の秦氏だとされています。秦氏は、応神14年に百二十県の民を引き連れて百済からやってきた弓月君が祖先だとされ、飛鳥時代には聖徳太子と親交もあり、土木や機織などの技術力を基盤に本拠地の北山背では、かなりの力を持っていたと考えられます。

 木津川に面した高麗寺もまた、南山背では早い時期に造営が開始され、こちらも創建は渡来系の狛氏であろうといわれています。狛氏の渡来の経緯はよくわからないようですが、高麗寺跡からは、渡金された塔の部品(擦官)が出土しています。古代においての渡金は、かなり高度な技術であり、このことから狛氏も鋳造や渡金など金属加工に関する高度な技術を持っていたと考えられます。
 渡来の技術力を背景に京都・山背の南北で、力を持っていただろう秦氏と狛氏に、蘇我氏は技術面などでの協力を求め、その代わり造寺技術の早期提供をした。だからこそ、高麗寺や北野廃寺は、早い段階での氏寺建立が可能となった・・・何ていうのは、考えすぎでしょうか?(^^ゞ

 百済から招来された瓦をはじめとする造寺技術、掌握していたのは、確かに蘇我氏だったのでしょう。が、百済からやってきた技術者だけでは、寺院を建立することは、不可能だとも思えます。瓦の製作にあたっては、在来の須恵器の工人が動員されたとも言われます。技術と人を動かすだけの力があって初めて寺院造営に着手できるんじゃないでしょうか。

 話が思いっきり逸れましたが。(^^ゞ
こんな風に、瓦の同笵関係から浮かび上がってくる氏族や寺院の名を見るにつけ、よく言われる飛鳥時代の「蘇我氏の専横」という言葉に疑問を持つももなのです。



【4】  (0..8.21.発行 Vol.60に掲載)

 さて、ここまでに花組・星組に始まる古代の初期瓦のお話をざっとさせて頂きました。飛鳥寺創建に始まる「素弁」の次には、「単弁」と呼ばれる極短い期間だけ使用された瓦当文様の時期をむかえます。ここまで約半世紀。



瓦当文様の変遷

 明日香村の外れ、住所で言うと桜井市山田にある「大和・山田寺跡」をご存知でしょうか。飛鳥時代の回廊が三間分丸ごと出土したことで有名なあの山田寺です。発願者は、649年に謀反の罪で自害して果てた持統天皇の祖父・蘇我倉山田石川麻呂。
 今から十年ほど前、整備されたこの山田寺の跡地を訪れたことが切っ掛けで、σ(^^)の瓦好きが始まりました。この瓦当文様が「単弁」と呼ばれ、「山田寺式」と言われるなんていうことは、ずっと後に知るのですが。この山田寺の瓦、とっても綺麗なんですよ♪(この感覚がおかしいとよく言われます。^^;)


山田寺式軒丸瓦(飛鳥資料館展示品)
無断転載・転用禁止 

(海会寺出土品:史跡海会寺古代史博物館収蔵品)
 無断転載・転用禁止

 先に書いたように、この山田寺式が現れるまでの瓦当文様は「素弁」と呼ばれるもので、山田寺式の「単弁」を挟み、その後に「複弁」と呼ばれる皆さんよくご存知の川原寺や藤原宮で使用された文様へ移っていきます。

 山田寺は、「上宮聖徳法王帝説」という平安時代の書物の裏書に創建次第が書き残されています。それによると、造営開始は641年。出土遺物や遺構、各種史料ともほぼ一致する年代で、これは間違いないだろうとされています。つまり、山田寺式と言われるこの瓦当文様が現れたのもこの頃。古代史で年代を把握するのが苦手なσ(^^)は、これを知って狂喜乱舞。(大げさ(笑))

 ま、こういう風に瓦の文様などで年代を抑えられるものは、当然この山田寺の瓦当文様だけではないのは、ここまでにも書かせて頂きました。
この他に、出土瓦から創建年代が推定できる寺院として有名なところでは吉備池廃寺なんていうのがあります。近年では、ここが百済大寺跡だと言われていますが、ここから出土した軒丸瓦の瓦当文様(吉備池廃寺式)がこれまた山田寺のものとよく似ています。

 違いは、「蓮弁」の先っちょの尖がり具合程度。とある本に、「先端の尖がった方が古い様式」なんて風に書いてありまして、ヒネクレ者のσ(^^)は、「そんなの誰が決めてん!百済大寺の建立が639年って言われてるから、そういうことにしたんちゃうん!?」なんて、畏れ多いことを心の中で思ったりしてました。(笑)

 が・・この吉備池廃寺と山田寺で使用された軒平瓦の間にも、これまた面白い前後関係があることが別の本に載ってましてですね。こういうのが楽しいんですよね。(笑)
ま、これも話せば長くなるので、ご興味のある方は、うちのサイト「ひとしひとひら」の中の「単弁」のページをご覧頂ければと思います。m(__)m

 参考:単弁

 「なんか分かり易いやん♪」と安易な思いで、山田寺を出発点としたももの瓦追いがここから始まります。
 他の古代寺院が伽藍整備や修復の度に瓦当文様が変わるのに対し、山田寺の瓦は、乙巳の変や発願者石川麻呂の死をはじめ、壬申の乱、白村江の戦いなど様々な時勢の変化を越え、発願から約40年後に、堂宇すべての瓦当文様を「単弁蓮華文(山田寺式)」で統一して完成されているんです。なんか凄いやん♪と、ここでまたまた狂喜乱舞(笑)(この背景には、孫の持統天皇の存在が大きかったともされていますが・・真相は、どうなんでしょう?)

 とまぁ、こんな風に山田寺の瓦を切っ掛けに「蓮華文」や「唐草文」なんていう文様を追いかけはじめて、まるでパズルのピースをはめていくように「この文様はいつ?どこ?」なんてことばかりやっておりました。(笑)

 最初にも書きましたが、飛鳥寺創建から、つまり古代日本で造瓦が始まってから、この山田寺までは60年ほど。歴史と言う長いスパンで見ると、60年なんてほんの束の間の出来事になってしまいます。が、この半世紀あまりの間に、瓦はコロコロと瓦当文様を変えるのです。でもそのお陰で、素人にも分かり易い!(^^) ・・・ちなみに、この後に現れる「複弁」の代表である「藤原宮式」なんて、パッと見は同じに見えるし、識別のために付けられた名前は4桁の数字だし。もう手も足も出ません。(>_<)

 土から出てきた直系20cm前後の古代の焼き物である瓦は、何か言葉を話してくれるわけではありません。でも、じっと図録なんかを眺めていると、人の意思の入った文字記録よりも、ホッとするように思うんですが。変ですかね。(^^ゞ



【5】  (09.9.4.発行 Vol.61に掲載)

 さて、脱線しつつ本当に大雑把に古代瓦のお話をさせて頂きました。少しは瓦に馴染んで頂けましたでしょうか?^^;

 直接「瓦」の話ではありませんが、少し前に百済と古代日本の寺院との関連がニュースになっのをご記憶にある方もいらっしゃると思います。
そのうちのひとつは、王興寺。こちらは、名前の類似と伽藍配置などが取り上げられて、飛鳥寺のモデルは百済の王興寺ではないかというものでした。もうひとつは、百済の弥勒寺。こちらも舎利容器の銘文から創建が639年と推定されたことで、舒明天皇発願の百済大寺が取り上げられていました。こういう報道を見ると、ヒネクレ者のσ(^^)は、「またすぐ百済かい!」と思ってしまうのです。

 仏教は、大陸→高句麗(372年)→百済(384年)→新羅(450年)、と言う順で公伝したとされています。きっと、寺院建立に関する知識・技術も同じような経路で伝播していったのでしょう。けれど、こんな風に「同じ」だと言われるものだけがやたら強調される報道のされ方はどうなんだろうとずっと疑問に思っていました。「同じもの」と「異なるもの」の二つを比べてはじめて分かることがあるんじゃないかと。

 で、あれこれと調べるのにも、興味を持続させるのにも限界を感じ始めていた頃、今回の定例会の予習にと出かけたあすか塾での清水先生の講演会で、この王興寺と飛鳥寺のお話を伺うことができました。(^^)

 当日の演題は、「飛鳥の古代寺院のなかの東アジアの世界」。
 清水先生は、報道された飛鳥寺と王興寺との関係をワイドショー風に言うと、「橿考研の明日香さんと扶余の王さんの交際発覚?!」となると表現されました。しかし、2時間に及ぶお話で、この見出しは、現在のところ「橿考研の明日香さんは百済に恋人が?」くらいにとどまり、今後の調査・研究で「百済のどこに恋人がいるのか」が、わかる日もくるかもしれないとお話くださいました。
 古代日本の造瓦や造寺に影響を与えたのは、よく言われるように百済一色なんでしょうか?そんなはずはない、とももは思うのです。
 はい、ここで第16回定例会のタイトルを思い出して頂けますか?(^^)
 今回、清水先生にお話頂くテーマは、「飛鳥瓦の源流」。そして、なんと!!サブタイトルが「百済、新羅、高句麗、そして中国南朝」となっています。韓半島の三国とそれ以前の中国南朝にまでお話が遡るようです。何でもかんでも、百済じゃないんですよ♪というお話になることを一番楽しみにしているσ(^^)です。(^^)(只今ももは、「中国南朝って??」と、慌てて付け焼刃の予習中です。間に合うんだろうか・・。)
 長い長いももの「瓦咲読」もようやく終わりました。最後までお付き合いありがとうございます。 m(__)m

 瓦は、仏教施設であった寺の部材の一つにすぎないですが、この“ただの土くれ”から、本当に色んなことが分かります。今後、各展示室や現地説明会などで瓦を見かけたとき、ほんの少しだけ瓦を眺める時間を増やしてやってくださると嬉しいです。    (もも)




遊訪文庫TOPへ戻る  両槻会TOPへ戻る