両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第23回定例会
磐余・天香具山から飛鳥へ

真神原 風人
Vol.89(10.9.17.発行)~Vol.93(10.11.12.発行)に掲載





【1】 (10.9.17.発行 Vol.89に掲載)

 今回は風人が担当させていただきます。5回程度を予定していますので、よろしくお付き合いください。

 第23回定例会は、ウォーキングになります。真夏の定例会は講演と決めていますので、5月の高取城址以来の歩くイベントになります。定例会当日には、「磐余・天香具山から飛鳥へ-伝承・伝説の地から歴史の地へ-」というタイトルに沿ったウォーキングとお話で構成したいと思っています。

 コース概要は、以下のとおりです。
  近鉄大福駅(集合・出発)→吉備池(吉備池廃寺)→青木廃寺→稚桜神社→磐余池推定地→御厨子神社→万葉の杜→香久山(蛇繋ぎ石→月の誕生石→天香山神社→国見丘万葉歌碑→山頂→上の御前→下の御前→天岩戸神社→日向寺→興善寺→奧山集落→飛鳥資料館前バス停(解散)

コースマップ
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  全長は、おおよそ11kmですが、香久山ではアップダウンを繰り返しますので、やや健脚向きだと思っていただいた方が良いと思います。

香久山ウォーキングマップ
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 今回のウォーキングでは、皆さんが普段足を踏み入れることが少ないと思われるポイントを中心にコースを作りました。例えば、青木廃寺、御厨子神社、蛇繋ぎ石、上の御前・下の御前などです。背景になる時代は神話時代から奈良時代までとバラエティーに富んだ構成になる予定です。

 予定していますポイントの中で、吉備池廃寺は、第22回定例会事前散策にて訪れました大官大寺などの前身寺院である百済大寺の可能性が極めて高い寺院跡です。第22回定例会の資料などを再読していただいて、関連性を頭に入れて現地に立っていただくと、より興味をお持ちいただけるのではないかと思っています。また、青木廃寺は、次々回第24回定例会:両槻会主催講演会で行います「山林寺院」に分類される寺跡になりますので、講演会を楽しみにしていただいている皆さんにも是非ご参加いただければと思っています。言わば22回と24回の橋渡しのウォーキングと言っても良いかも知れませんね。

 コース概要では書いていませんが、磐余では飛鳥時代以前の天皇の諸宮伝承地も訪ねようと思っています。用明天皇・継体天皇・清寧天皇・履中天皇などの宮処になります。また、吉備池廃寺が百済大寺だとすると、近辺には舒明天皇の百済宮も存在したはずですので、どのような地形なのかを見ていただき、現地に立って想像をめぐらせるのも楽しいのではないでしょうか。
 また、出発地点から吉備池までの道中は、桜井市吉備という地名です。ピンと来る方も居られるかと思いますが、吉備真備などにも所縁の伝承を持つ土地柄ですので、そのような案内も当日には出来るのではないかと思っています。
 集合場所の「大福」も面白い歴史的地名伝承があります。お楽しみに♪

 また、おそらく実際にご覧になった方は少ないと思う物が他にもあります。それは、磐坐と思しき石達です。「月輪石」、「蛇繋ぎ石」、「月の誕生石」などなどです。時間の余裕が有れば、「鎌研ぎ石」もご案内出来ればと思っています。こちらもお楽しみにしてください。ただし、案内人は風人ですので、専門的な知識は持ち合わせていませんので、お許し願いたいと思います。特に神様の系譜など分からないことだらけですので、期待はしないで下さいね。(笑)

 次回からは、訪ねますポイントの個々の話を始めたいと思います。



【2】 (10.10.1.発行 Vol.90に掲載)

 第23回定例会は、「伝承・伝説の地“磐余・天香具山”から歴史の地“飛鳥”へ」のウォーキングを企画しました。咲読では、ウォーキングルートに従い、順次ポイントをご案内して行こうと思っています。

 まず、タイトルにもあります「磐余(いわれ)」を考えてみたいと思います。地理的に「磐余」というと、おおよそ桜井市中西部から橿原市南東部にかけての地域を言うようですが、現在の地名では「桜井市桜井磐余町」にその名を残すのみとなっています。近鉄・JR桜井駅の南側付近なのですが、近辺には「磐余橋」が寺川に架かり、また南の丘の上には、寺伝によると崇峻天皇の頃に創建されたと伝えられる「磐余山東光寺」があります。磐余の地域は、この辺りから香久山東麓までと考えて良いように思います。橿原市西部に磐余神社があり、そこまでを含める広大な範囲の説もあるようですし、明治時代に橿原神宮を建造するにあたって、畝傍山の東南の麓であるタカハタケ(高畠)の付近に「イワレ」という小字名があったことが選地の根拠となったようで、その意味では畝傍山の東南地域を「磐余」に含めても良いとも考えられます。しかし、今回は、ざっと桜井駅の南から香久山の東まで。南に丘陵を背負う地域を対象として咲読を進めて行きたいと思います。

 皆さんは、初代天皇とされる神武天皇の名(和風諡号)が、『古事記』では神倭伊波礼琵古命(かむやまといわれひこのみこと)、『日本書紀』では神日本磐余彦尊とされているのをご存知だと思います。どちらにも「イワレ」が入っており、磐余地域との関わりを連想させます。東征の末に大和に入った到着地点が磐余だったことを考えると、そこが支配地を広げる最初の根拠地であったからこそ、名前にも取り入れられたのかも知れません。「謂れ」というと由来や来歴を意味するようですが、関連があるのかも知れませんね。もちろん神武は伝承どおりに実在していたわけではないのですが、後世、そのように記されたのには、それなりの意味があったのかも知れません。地名伝承でも神武東征の中で「イワレ」と名付けられたことになっています。地名伝承の常ですが、親父ギャグのような駄洒落地名説話によると、日本書紀(神武即位前紀)では「兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き満(いわ)めり」、「それ磐余に地の旧の名は片居(かたい)。亦は片立と日ふ。我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満(いわ)めり。因りて改めて号けて磐余とす。」とあります。「満めり」から「いわれ」になったのだということですが・・・。(^^ゞ

 磐余の地には、神功皇后、履中天皇、清寧天皇、継体天皇、用明天皇などの宮が所在していました。

  神功皇后 磐余稚桜宮
  履中天皇 磐余稚桜宮
  清寧天皇 磐余甕栗宮
  継体天皇 磐余玉穂宮
  用明天皇 磐余池辺雙槻宮

 伝承の時代のものも含まれますが、継体天皇以降に磐余を冠する宮処は、プレ飛鳥時代と呼べる時代になります。また、「百済」という地名が、磐余地区に含まれるか、あるいは隣接するのであれば、舒明天皇の百済宮や敏達天皇の百済大井宮、また敏達天皇の訳語田幸玉宮なども同一地域内に在ったと考えても良いかも知れません。「百済」については、吉備池廃寺のところでお話したいと思います。

 さて、ぼちぼち歩き始めねばなりません。(笑)ですが、集合場所の駅名のお話をしておきたいと思います。「大福駅」、めでたい駅名です♪この一帯は、「大福村」と呼ばれていました。元の地名は「大仏供村(庄)」であったと言います。それが転訛し、さらに良い字を当てられたようです。大仏供庄は興福寺の荘園だったようで、興福寺雑役免帳には「十市郡東郷大仏供庄三十町」とあり、大仏供米などを備進した地域であったようです。ですから本来は「ダイブク」と濁音になるのだと思います。

 駅の北側には大福遺跡があり、橿原市東部の坪井遺跡と合わせて大規模な弥生時代の集落であったようです。破壊されていない銅鐸の出土や木製甲、また多量の炭化米や木製のはしごの一部が出土し、米を保管していた高床式倉庫が火事で焼けたのではないかと考えられました。

 駅の西側を南北に通る道路は、近世には橘街道と呼ばれていました。古道「中ツ道」を踏襲した直線道路であったのですが、この辺りでは香久山を迂回するために中ツ道から東に逸れたようです。橘街道は、横大路と交わる所から先は山田道に繋がるようなルートもあったようですが、迂遠となりますので香具山の東から北に抜け大官大寺方向に向かう間道のようなルートもあったのではないかと風人は思っています。

 さて、漸く出発です。と思ったのですが、これ以上長くなってしまってはいけませんので、続きは次号とさせていただきます。(^^ゞ ウォーキングの咲読なのに、2号使ってまだ歩き始めていないという異常な展開になってきました。(笑) 



【3】 (10.10.15.発行 Vol.91に掲載)

 足止めになっていた第23回定例会の咲読も、いよいよ予定コースを歩き始めます。
 まずは、橘街道を南に向かいます。数分も歩けば、古代の官道として知
られる東西に走る横大路を渡ります。近江先生の連載で皆さんもよくご存知だと思いますので説明は省きますが、両槻会サイトの遊訪文庫に近江先生のこれまでの原稿をまとめて収録していますので、そちらを参考にしてください。
 「飛鳥のみち 飛鳥へのみち3」近江俊秀先生(遊訪文庫)

 横大路は伊勢街道・初瀬街道として残り、古街道の風情を今に伝えています。

 さて、横大路を越えると大福から吉備という町名に変わります。桜井市・橿原市・高取町には、吉備のような古い国名を持つ地名がたくさんあります。これは、国号地名などとも呼ばれるようですが、飛鳥や藤原京建設に動員された諸国の人々が住まいしたり、本国の出先機関がおかれたり、物資の集積や作業場があった場所だと考えられるようです。高取町にも吉備という地名があるのですが、これもその一つなのではないかと思います。
 桜井の吉備は、吉備真備の別業地ともされ、数多くの伝承が伝えられています。その中の一つ蓮台寺が、橘街道の西側に見えてきます。

 蓮台寺は、寺伝によれば行基により天平年間に創建され、吉備真備が帰依し、一宇の浄刹を建立したと伝えられる寺院です。また、持統天皇の遺勅によりご遺体を火葬にした飛鳥岡の遺跡をここに移して創建した霊場ともされるようです。
 境内からは飛鳥時代末から奈良時代にかけての瓦(八葉複弁蓮華文軒丸瓦・八葉単弁蓮華文軒丸瓦・均整唐草文軒平瓦)が出土したと伝えられ、それを模した瓦が現在の本堂の屋根を飾っているようです。蓮台寺は、吉備氏の氏寺(吉備寺)とする考えもあったようです。
 境内の南側に大きな「石造五輪塔」があり、吉備真備の墓とも伝承されるそうですが、地輪(最下段)に銘があり「為一切衆生、奉造立者也、徳治二年(1307年)卯月八日、願主当麻秀清」と彫られていますので、鎌倉時代後期の作であるようです。本居宣長も菅笠日記中に、この五輪塔をさほど古い物ではないとしながらも、その伝承を記しています。

 なお、ご存知のように吉備真備は、持統9年(695年)の生まれとされ、吉備地方の豪族出身で、安倍仲麻呂らと供に遣唐使として二度入唐して、帰国後は聖武天皇の時代の活躍を切っ掛けに、称徳天皇の天平神護2年(766年)72歳で右大臣にまで上り詰めた人物です。

 蓮台寺を出て国道165号線吉備交差点まで来ると、右前方(南西)に竹薮と雑木林が見えてきます。大臣藪とか大臣屋敷などと呼ばれています。大臣は吉備真備を指しているようにも思いますが、建物の礎石が運び出された記録がある事や、ここから出土したとされる古瓦が伝わっている事、所在がはっきりしないそうですが磚仏も2個出土している事などから、蓮台寺と同様に吉備氏の氏寺である吉備寺跡ではないかと考えられていました。
 10年ほど前に発掘調査が行われており、実際には中世の城砦跡であったそうです。この城砦は14世紀の中頃には廃絶したようですが、当時この付近は南北朝期の南朝と北朝の勢力圏の境にあたることから、この城館も南朝方の砦の一つとして築かれ、1340年頃の「戒重の合戦」の際に南朝方の敗戦とともに廃絶したと考えられるそうです。この付近には、国民吉備氏が居たようですから、大臣というのは「吉備のお大尽」のことなのかも知れませんね。

 国道を南に渡り、造り醤油屋さんの角を東に折れます。暫らく集落の中の緩やかな坂道を進むと、吉備春日神社の森が見えてきます。神社の北側には「神武天皇聖跡磐余邑顕彰碑」が建っています。咲読の前号でお話した磐余地名伝説などを思い出していただければと思います。また、境内には、吉備池を磐余池に見立てて、懐風藻に掲載された大津皇子の漢詩の碑があります。

 金烏臨西舎 (金烏 西舎に臨み)
 鼓声催短命 (鼓声 短命を催す)
 泉路無賓主 (泉路 賓主無し)
 此夕誰家向 (この夕 誰が家にか向ふ)

 神社自体は別の場所から引っ越してきたらしいのですが、この神社が所在する小字名が実は重要になってきます。小字名「高部」を記憶していただきたいと思います。この付近には、似た地名が幾つかあります。「コヲベ」「カウベ」などがそれに当たります。

 さて、吉備池堤防に上がってみましょう。景色が一変します。真南には、この後訪れる稚桜神社が、南西方向には香久山が、南東方向には多武峰(御破裂山頂)が見えています。そしてほぼ真西には二上山の姿を見ることができます。吉備池では、吉備池廃寺の話がメインになりますが、ここは古代史の中でも人気の高い大津皇子にも関連するスポットになります。まず歌碑をチェックしておきましょう。

 池堤北西角に、大津皇子の辞世の歌
 「ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」

 池堤西に、二上山に移葬されたとき、大来皇女が作った歌
 「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背と我が見む」

 古代史・万葉ファンには、言うまでもなくお馴染みの歌だと思います。今は存在しない磐余池をこの灌漑用の池に見立てて歌碑を設置したのでしょう。大津皇子の宮は訳語田(おさだ)にあったとされます。藤原宮から訳語田の邸宅に向かう道中として、この辺りだと矛盾無くイメージ出来るのではないでしょうか。定例会では、磐余池の跡だとされる場所にも行きますので、当日はそちらで磐余池の話をしたいと思っています。

 さて、いよいよ吉備池廃寺です。10年ほど前から行われた継続的な発掘調査によって、吉備池の南堤に接して金堂と塔と思われる基壇があることがわかり、これらを中心伽藍とする巨大な寺院の存在が明らかになりました。厳重な基礎工事(掘込地業)の上に、東西37m、南北28m、高さ2mの金堂のものとされる基壇が造られていました。その巨大さは、比肩するものが無いほどです。創建年代も近く、基壇がはっきり見える例として山田寺金堂と比較してみると分かりやすいと思います。山田寺金堂は、東西19.5m、南北16.8mですので、各辺が倍とは行かないまでもそれに近いサイズを持っていることが分かります。
 このような巨大な寺院が一氏族の氏寺だと考えるのは、やはり無理なように思います。そう考えると、場所が特定されていない7世紀半ばの官の寺院ということになり、現在、ほぼ百済大寺だと考えられています。
 そのためには、この地が百済と呼ばれ、百済川が流れ、近くに百済宮が建設される場所柄でなくてはなりません。・・・・

 今回も字数が限界にきてしまいました。続きは次号に致します。いよいよ吉備池廃寺の核心部分に迫りたいと思います。お楽しみに♪



【4】 (10.10.29.発行 Vol.92に掲載)

 日本書紀:舒明天皇十一年七月条
  「詔日、今年造作大宮及大寺。則以百済川側為宮處。是以西民造宮、東民作寺。便以書直縣為大匠。」
  同十二月条
  「是月、於百済川側、建九重塔。」

 大安寺伽藍縁起并流記資材帳
  「(舒明)十一年歳次己亥春二月、於百済川側、子部社乎切排而、院寺家建九重塔、入賜三百戸封、号曰百済大寺、此時社神怨而失火、焼破九重塔並金堂石鴟尾、天皇時崩賜時、勅大后尊久、此時如意造建」

 大安寺縁起
  「(舒明)天皇践祚之初、百済河側、択勝地移精舎、(熊凝精舎)、号百済大寺、復以封邑三百戸、良田二百町、種々財宝一々施入」

 すみません。いきなり漢字ばかりが並んでいて。m(__)m 風人もちゃんとは読めないのですけど、少しでも字を追いかけていただければと思います。

 舒明天皇の11年は、西暦639年に当たります。舒明天皇が、天皇として我国で初めて寺院の建立を宣言された記事になり、その官営寺院と宮殿の建設が百済川の畔で着手されたことが分かります。その寺院は、九重塔を持つ巨大な寺院として計画されたことも読み取ることが出来ます。また、聖徳太子が建立された熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)に由来を持つ事、そして建設の地は子部社と呼ばれる神社を取り壊して建設されたことが書かれており、その寺院を「百済大寺」と名付けたことが分かります。

 吉備池廃寺が巨大な寺院跡だということは、前号で書きました。回廊に囲まれた中心伽藍の面積は、土手を含めた吉備池とほぼ同じ大きさであったように思われます。位置的には、お寺の方が若干南東にずれていますが、大きさの実感を持っていただくには池と比べてみると良く分かるように思います。吉備池廃寺概略図をご覧下さい。

吉備池廃寺概略図
(クリックで拡大)

 吉備池廃寺は、断定は出来ませんが、百済大寺だと思います。飛鳥時代の我国には、このような巨大な寺院は、その後身である大官大寺以外にはありません。

 では、なぜ百済大寺だと断定出来ないのかを見てみましょう。まず、古代においてこの地を百済と呼んだかどうかが分かりません。現在、付近には百済という地名(小字を含む)は無いようです。香久山の北や北西部にはそのような地名があったとも聞きますが、風人は確認できませんでした。また、香久山の北を含めるなら地域は大きなものになってしまいます。百済川と呼ばれる川も流れていませんし、「側」と言えるほど近くに川はありません。南を流れる米川は遠すぎるようにも思えます。

 さて、ここで、前号を思い出してください。池の北側にある春日神社付近が小字「高部」と言い、周辺には、「コヲベ」「コウベ」という小字が残ることを書きました。上に書きました大安寺伽藍縁起并流記資材帳には、「子部社」を切り開いてお寺を造った事が書かれています。現在、この「高部」などの小字名だけが文献と合致する地名になるのですが、百済大寺を吉備池廃寺だとする一つの材料になっているのは間違いありません。また、吉備池の南からは、埋没した河川の南岸が検出されているようです。この河川が百済川と呼ばれていた可能性があります。現在、更に南には米川が流れているのですが、あるいは埋没した川は米川の旧流路なのかも知れません。風人などは、建立に際して河川の付け替えがされたのかなと妄想を膨らませています。これらのことも、吉備池廃寺が百済大寺である傍証にはなるように思います。

 しかし、なぜ官営寺院の最初の大寺が、百済という名前なのでしょうか?その地が渡来系の人々が多く住む地「百済」だったからと言えばそれまでなのですが、例えば現在において、国家がアメリカや中国と言う諸外国の名前を持つ公共施設を建てるでしょうか?古代だから感覚が違う?そうなのでしょうか。とても不思議な気がしています。お寺の名前ですから地名でなくても良いのですよね。何故「百済大寺」であり「百済宮」なのでしょう?

 まっ、それは置いておいて、吉備池廃寺が発掘調査をされる前までは、北葛城郡広陵町に在る百済(百済寺)が、百済大寺の比定地でした。また、吉備池廃寺から出土する瓦と同范の瓦が出土することから、香久山南西麓の木之本廃寺も候補地として考えられていました。実は、近年まで吉備池廃寺の在る場所は木之本廃寺の瓦窯だとされていて、現在も変わることなく桜井市の説明板が残っています。もう、何とかしないといけませんね。(^^ゞ

 さて、吉備池廃寺の不思議な点を書いておきましょう。概略図をもう一度ご覧下さい。どう見てもこの伽藍は変な構造をしています。中門が伽藍の東西中軸線からずれています。中軸線上からは回廊の跡が検出されていますので、正面(南)中央に門が無かったことになります。中門は、金堂の前(南)に在りますが、金堂の東西中軸線からもずれています。特殊な地形の寺院ならあるのかも知れませんが、官の巨大寺院として創建されたお寺なのですから、何か特別な事情があるのかとも考えたくなります。

 また、講堂が在ったとすれば建物配置のバランス的には池の中のように思えるのですが、北岸の南(池の中)の調査からは建物の跡は発見されませんでした。小さなトレンチのようですから、たまたま引っ掛からなかっただけかも知れませんし、溜池を造る時に破壊されたのかも知れませんが、講堂が無かった(未建造)可能性もあると思います。  さらに、出土する瓦は、山田寺式の単弁軒丸瓦によく似たデザインですが、やや古い特徴を持つ吉備池廃寺式と呼ばれる瓦当文様を持ちます。その軒丸瓦を含めた瓦が、お寺の規模に比べて少量の出土に止まっていることです。

 これらのことは、何を意味しているのでしょうか。そもそも百済大寺とはどのようなお寺だったのかを考えてみたいと思っています。次号咲読に続きます。
 今定例会の咲読は、残すところ後1回なのですが、別枠を使って記事を続けたいと考えています。よろしくお付き合いください。



【5】 (10.11.12.発行 Vol.93に掲載)

 第23回定例会は、もう明日に迫っていますが、咲読は依然として吉備池廃寺に止まっています。参加の皆さんに読んでいただくには、余りに過酷な状況を作ってしまいました。まず、お詫びいたします。m(__)m 
 ただ、この吉備池廃寺は、現在、事務局でも注目している遺跡ですので、どうしてもその謎だらけのお寺の面白さをお伝えしたいと思った次第です。

 舒明天皇は、治世の11年に我国で最初の官営寺院を建てようとして、この地を選びました。関連系図をご覧下さい。

関連系図1
(クリックで拡大します。)

 舒明天皇の母親(糠手姫皇女)は、伊勢大鹿首小熊の娘だとされています。また、祖母の広姫は、息長真手王の娘ですので、近親父系・母系の中には当時の権力者である蘇我氏に血縁を持つ者が居ないことになります。そのことが重要な意味を持つのではないかと、風人は思っています。

 即位に至る状況は、聖徳太子の長子である山背大兄皇子との間で、複雑な経緯を辿ります。「大兄皇子」とは一般的には皇位継承資格のある皇子というような意味だと思いますが、舒明天皇=田村皇子vs山背大兄皇子では、山背が有利であると思えるにも拘らず、田村皇子が即位を果たしています。その裏には、蘇我蝦夷が傀儡にしようとしたという説、蝦夷が有力豪族との摩擦を避けるためにあえて蘇我氏の血を引く山背大兄皇子を回避したなどという説が知られます。実際には、どうであったかは想像する他はありませんが、大臣蝦夷としても難しい判断をしなければならない理由があったのでしょう。

 舒明天皇の最初の宮は、飛鳥の真神原に造られました。飛鳥岡本宮です。現在、飛鳥京跡として知られる史跡公園の三層四期に重層する宮跡の最下層の遺構が、それに当たるとされています。まさに、蘇我氏の領域のど真ん中と言えます。そして、蝦夷は、馬子の子供であり自らの姉妹である法提郎女を舒明の夫人として送り込みました。

 舒明天皇の8年、飛鳥岡本宮が焼失します。それを機に、舒明天皇は蘇我氏の勢力範囲の中で、田中宮・厩坂宮と点々と宮殿を移って行きます。また湯治の旅に出向くことが増えてきます。湯治は実際に健康を害していたのかも知れませんが、あるいは蘇我から距離をとるためだったのかも知れませんね。この頃から、蘇我氏専横の記事が増えてきます。風人は、この頃から舒明(敏達天皇系)対蘇我氏の構図が見えてくるように思うのですが、如何でしょうか。乙巳の変で有名な中大兄皇子は、まさに舒明の子供であることも、大変興味深いように風人は思います。

 舒明11年、「大宮と大寺を建てる」と言う記事が書紀にはあります。大宮と書かれますので、飛鳥岡本宮に替わる「正宮」にしたいとの意志が強いのだと思います。
 この百済の立地は微妙です。飛鳥の内であるように書かれる専門書籍などもありますが、風人は違うと思います。香久山を北東に越えれば、そこは飛鳥ではなくて磐余だと思っています。そして、それは、祖父敏達天皇の宮(百済大井宮<所在地は諸説あり>・訳語田幸玉宮・他田宮)が在った場所でありました。継体(磐余玉穂宮)・欽明(磯城島金刺宮)・敏達と続く父祖(非蘇我系血筋)の地としての意識があったのではないでしょうか。蘇我包囲網からの脱出、舒明天皇の治世後半は、それへの戦いであったように感じます。
 飛鳥寺に対抗する巨大な官寺の創建、飛鳥を離脱し父祖の地に戻ること、そして没した後も、蘇我系天皇の多くが葬られた方墳ではなく、八角形の墳墓に眠り、皇后や子供たちがその墳形を引き継いで行く画期となったのも、今私達が知る以上に、この敏達天皇の系統は意識されていたのかも知れませんね。

 ところで、舒明が反蘇我の烽火としたかったのではないかと風人は思う百済大寺ですが、僅か34年で、高市大寺として移築されているようです。関連年表をご覧下さい。(別ウィンドウが開きます。)
 関連年表 「1」「 2」「3」


 皇極天皇の2年に、百済大寺の造営のために近江と越の人夫を動員しており、同時に大安寺伽藍縁起并流記資材帳には「造此寺司を任命」した記事があります。これは、舒明没年まで百済大寺は完成していなかったことを示唆しているように思います。

 考古学的にも、これらのことは証明されつつあるようです。例えば、瓦の出土数が僅かであることや小片が多いことなども、使用された瓦のリサイクルが考えられます。また、補修用と思われる別時代に製造された瓦がない点なども、それを補強するように思います。同時に、礎石や基壇外装の化粧石などが見つからず、石材も共に運ばれて再利用された可能性が高いことを推測させます。

 年表の皇極天皇元年の項をご覧下さい。大臣の蝦夷が、乞雨祈願に大寺の南の広場で経典を読ませたことが書かれています。また、大臣自らも手に香炉を持ち発願したが、小雨が降っただけに終わったとあります。「寺」という表現が、一般的な「大きな寺」を指すのではなく、この時代においては「百済大寺」という国家筆頭の官寺を指していることは以前にも書きました。この時点で、どの程度の建物が建っていたのでしょう。お寺を建てる順番としては、当時は金堂が最初に建てられるケースが多いと思います。そうすると、この時点で建物の前で儀式が行える程度に完成していたのは金堂だけだったのかも知れませんね。ここからは、風人の妄想です。中門が変な位置にあるのは、金堂だけが存在した時点での仮の門であったのではないかと。伽藍規模に比べて小さな中門は、そのようなこと思わせます。

 講堂が発見されていないこと、南側に川の痕跡があること、塔はどの程度完成に近づいたのか、また、移転した高市大寺は何処にあるのでしょうか。飛鳥時代に国家第一であったお寺ですが、謎はまだまだ残ります。
 吉備池廃寺跡は、難しいので面白いといえるお寺の跡です。皆さんも、是非想像をたくましくして、この吉備池に対面していただければと思います。



【6】 (10.11.12.発行 Vol.93に掲載)

 咲読最終話を、お届けします。

 吉備池をぐるっと一周して、僧房の在った辺りから一端東に向かいます。東には阿倍文殊院の在る丘陵がほぼ正面に見えています。ここからは、吉備池が尾根上にあるのが良くわかっていただけると思います。
 直ぐに南に曲がり、青木廃寺を目指します。橋本の集会所から更に細い道を南下し、狭い谷筋の池畔を進みます。このような所に何が在るのかと思われるでしょうが、実は東側の山(120m)のすぐ向うは古道「山田道」が走ります。決して山奥に入ってきたわけではないのです。そして、三つ目の池端に立つ「泥かけ地蔵」が見えてくると、目的地に到着です。

 皆さんは、青木廃寺をご存知だったでしょうか。正直に言いますと、風人も第2回飛鳥検定問題に触れるまで、どのようなお寺なのかを知りませんでした。名前だけは聞いたことがあるという程度だったように思います。メルマガでお馴染みの近江俊秀先生が作成してくださった問題の解説を作る時に、その内容を知ったようなことです。

 池の東側に低い山が連なっています。その上に奈良時代まで遡るお寺が在りました。青木廃寺とか橋本廃寺、また青木千坊などと呼ばれたこともあるようですが、歴史好きには興味深いお寺になると思います。もちろん廃寺ですので、現在は建物はありません。
 この小さな山からは、古い時代の瓦が発見されています。その瓦から得られる情報が、とても面白いのです。

 大きく分けて2種類の重要な瓦があるようです。その一つは、岡寺を始めとして、山林寺院で用いられることが多い複弁5葉蓮華文軒丸瓦があります。こちらは、第24回定例会で講師の大西先生からご説明がありますので今回は割愛しますが、平安時代に作られた同系統の軒丸瓦の中に「□□□大工和仁部貞行」、軒平瓦に「延喜六年壇越高階茂生」と瓦当面に銘文を持つものが有ることを記しておきます。これにより延喜6年(906)当時、青木廃寺は高階氏に何らかの関わりがあったと考えられます。

 高階氏は、高市皇子と御名部皇女の子である長屋王を祖とする一族が、平安時代の承和11年(844)に臣籍降下した折りに賜った姓です。「高階茂生」にまではたどり着けませんでしたが、リンク先の関連系図をご覧下さい。長屋王の変の際、長屋王と共に自害した桑田王の子・磯部王が助命され、その孫の峯緒王が臣籍降下しています。

関連系図1
(クリックで拡大します。)

 もう一つは、創建当初の瓦です。この瓦(6272-6644)は、平城京の長屋王邸宅跡から出土したものと同笵であるようです。

 これらの事から、青木廃寺は、持統10年(696)に没した高市皇子の供養の為に、長屋王が建立したと考えられるようです。

 余談ですが、高階氏には、室町幕府の執事高師直や豊臣秀吉の家臣堀尾吉晴も名を連ねるようです。

 さて、次の目的地、稚桜神社に向かいましょう。東に暫らく歩くと、こんもりした丘の上に神社の背面が見えてきます。神功皇后・履中天皇の磐余稚桜宮跡と伝えられる地です。
 祭神は、出雲色男命(いずもしこおのみこと)・履中天皇・神功皇后とされています。

 稚桜の名の由来は、書紀履中天皇3年11月条に、「天皇は皇妃と磐余市磯池に両枝船を浮かべて船遊びをされた。膳臣余磯が天皇に酒を献じたとき、桜の花が盃に落ちてきた。『咲くべき時季でないのに咲いたが、いったいどこの花だろうか。探してまいれ。』と物部長真胆連に命じられた。長真胆連は掖上の室山で見つけて、献上した。天皇大いに喜び即座に宮の名とされた。磐余稚桜宮と申し上げるのはこれによるものである。」とあります。

 関連系図2

 磐余市磯池という池が何処にあったかは不明ですが、青木廃寺の西の低地か、または稚桜神社の西にあったとされる磐余池を指すのだという説があるようです。書紀同2年12月条には、「磐余池を作った。」と言う記事があり、灌漑用の池が磐余の地に造られたようです。造ったばかりの池で自ら船を浮かべてみたのかも知れませんね。磐余に所在した諸宮の多くは、この磐余池畔に在ったとする伝承が多いようです。

 さて、その磐余の池です。桜井市と橿原市の境界付近になるのですが、東側の桜井市の地名は「池之内」、北側は橿原市「東池尻」、西側「南浦」と、池を連想させる地名があります。付近の小字を見てみますと、「樋ノ口」「樋詰」「堀切」「池尻」「中島」「池田山」「御厨子」などがあり、ますます池の存在がはっきりしてきます。御厨子観音妙法寺付近から見ると、池の堤かと思われる段差を目で追うことが出来ます。谷の出口を封鎖して出来た池があったのではないかと思います。かなりの規模になりますが、ちょうどダム湖のような造りと言えばイメージしやすいかも知れませんね。北側の集落の地層は、地山ではなくて版築の痕跡が認められるのだそうです。池の堤が築かれていたのかも知れません。

推定磐余池図
(クリックで拡大します。)

 橿原市側には、大津皇子の辞世の万葉歌碑があります。定例会では、ここから御厨子神社の階段を上っていくことになります。

 咲読としてのガイドは、ここまでとさせていただきます。香久山周辺のご案内は、「天香具山考 1 ・ 2」 を代わりとしてご参照ください。

 長い咲読をお読みいただきまして、ありがとうございました。





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