【1】 古代の国道1号線 (10.4.30.発行 Vol.79に掲載)
『日本書紀』推古天皇21年(613)11月条に、「自難波至京置大道。」の文字が見える。これは、通常、「難波から京に至る大道を置く」と読まれており、史料に見える確実な作道記事のうち最も古いものであると位置づけられている。
この道路が造られた当初の宮は、推古天皇の小墾田宮、難波とは当時の外交窓口であった難波津(大阪市法円坂付近)であり、両者の位置関係から推定される路線は、近世には竹内街道と呼ばれた路線とほぼ合致するとする見方が有力である。そのため、竹内街道は、しばしば「古代の国道1号線」と評され、「歴史の道百選」や旧建設省による「歴史国道」にも選定されている。また、沿線には江戸時代の道標が点在するだけでなく、道路に竹内街道と記されたプレートとが埋め込まれていたり、石碑が建てられていたりしている。
私も何度か、この街道を歩いている。竹内峠の奈良県側にあたる竹内の集落は、近世の町並みをよく残している。
このあたりは、作家司馬遼太郎の母の出身地であり、「街道をゆく」の中でも、特別な思い入れをもってこの道を紹介している。また、竹内街道を下った太子町大道付近は、近世の街道の面影をよく残しており、町立竹内街道歴史資料館では、この道路の歴史に関して工夫を凝らした展示がなされている。羽曳野市にはいると街道は、いくつかの巨大前方後円墳を見ることができるだけでなく、古市大溝の痕跡や、野中寺などの古代寺院をはじめとする遺跡の密集地帯を通過している。
このように、竹内街道は古代から現代に至るまでの歴史が、街道沿線のところどころに凝縮されており、私のような道路愛好家としては、歩いていてなにやら楽しくなる道なのである。皆さんにも、是非一度、歩いていただきたい道である。
しかし、今回、私がこの道路を取りあげる理由は、何も竹内街道を宣伝するためではない。むしろ、その逆でこの道路が本当に「古代の国道1号線」なのか、言い換えれば、推古天皇が造った道路なのか、疑問を持っているからである。
いままでの連載をお読みいただいた皆さんの中には、もう気づかれている方もいらっしゃるかもしれないが、どうも私は皆がそうだということに関して疑いを持つ、言わば「へそまがり」であり、この道路に関しても違う評価ができないか考えてみた。まず、私が最初に持った疑念は、そもそも『日本書紀』でいう「大道」とは、本当に国道のことを指すものなのか、ということである。
(一部の写真は、事務局で付けました)
【2】 竹内峠を歩く (10.6.25.発行 Vol.83に掲載)
いくら私でも、通説に対して唐突にケンカを売ろうとしているわけではない。もちろん、疑問を持つのにはきっかけがあり、そのきっかけとは案外、身近なところにころがっている。酒を飲みながら誰かとしゃべったり、○の書とか○○のすさびとかの記事を読んだりとか・・・である。
「大道」に対する疑問は、「歩いてみたこと」が、きっかけになっている。このことは、以前、書いた『道路誕生』の中のコラムに記した。長くなるが、数回にわたって掲載しよう。
推古21年11月条に見える「難波より京に至る大道」とは、横大路から竹内街道を通過するルートであるという見方が、定説化している。私もこの考えに従って論を進めてきた。しかし実際、竹内峠を越え、河内まで歩いてみると「もしかしたら、推古天皇の大道は竹内峠ではなく、別の峠を越えて難波へ続いていたのでは?」という疑問が芽生えてきた。ここでは、このことについて少し触れておきたい。
近世の竹内街道は堺市を起点とし、奈良県葛城市長尾神社あたりを終点としている。長尾神社から西へ向かい、長尾街道との交差点をすぎると、道は次第に傾斜をきつくしながら、竹内の集落に入る。
竹内集落は江戸時代の街道筋の街並みをよく留めており、集落内には松尾芭蕉ゆかりの綿弓塚などがある(区間1)。一方、街道と並行して走る国道166号線沿いには、古墳時代後期の群集墳である奈良県史跡竹内古墳群がある。
綿弓塚 |
竹内集落を過ぎると、街道は国道166号線と重複する。平石峠越えの道との分岐点を過ぎると、再び、国道166号線と分岐し国道の直下の谷筋を縫うように、頂上へと向かう。峠の頂上が奈良県と大阪府の府県境(区間2)となり、大阪側の街道は、道の駅近つ飛鳥の里・太子までの間は、国道と重複するが(区間3)、そこから先は、二上山麓に沿うように蛇行し、飛鳥川に架かる六枚橋付近からは、飛鳥川の流れに沿うように駒ケ谷付近まで北西方向に伸びる(区間4)。沿線には、竹内峠を見下ろす形で八世紀頃につくられた鹿谷寺、飛鳥川に至るまでの間に、孝徳天皇陵、官衙的な性格が考えられる駒ケ谷遺跡、隼人石がある式内社杜本神社などがある。
竹内峠 |
私が不審に感じた点は以下のとおりである。
1)区間2は、深い谷筋であり広い道幅を確保することが困難であること、また切り通しの痕跡等が認められず、路線は自然地形に合致していること。
2)区間3における竹内街道は、丘陵斜面を切り崩して作道されており、場所によっては道路と道路西側の宅地の間に大きな段差を有しているなど、現在の道幅以上の道路が存在していた可能性は低いと考えられること。
3)区間4は平野部を通過しているのにも関わらず、路線は直線的でなく飛鳥川に沿って蛇行しているのみならず、路線選定までもが飛鳥川を基準として行われていること。
参考地図(大和・河内の古道と旧河川・関連地名)
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近江先生の著書「道路誕生」は、2008年に青木書店より発行されています。副題にある「考古学からみた道づくり」のとおり、考古学成果から導き出された古代の道路の成り立ち・発展などが分かり易く書かれてあります。 【道路誕生 ─考古学からみた道づくり─】(青木書店・2800円)
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【3】 竹内峠を歩く 2 (10.9.3.発行 Vol.88に掲載)
大和や河内では六世紀後半には直線道路が敷設されていた可能性が高く、「難波より京に至る大道」であるならば、規模が大きく直線的な道路であったと考えるのが妥当だろう。しかし、今に残る竹内街道は、山間部はさておき平野部でさえ、飛鳥川(南河内郡太子町)という自然河川に路線そのものまでもが規制されているなど、今まで見てきた横大路をはじめとする直線道路のイメージとは大きくかけ離れているのである。
このことは、現在の路線とは別の古代竹内街道が、このあたりに眠っている可能性と「難波より京に至る大道」が通った峠は、竹内峠ではなく別の峠であった可能性を想像させるのである。
河内平野には古代にさかのぼる三つの東西方向の道路がある。北から八尾街道、長尾街道、竹内街道である。これらは、河内国分を通過し、大和川に沿って亀ノ瀬を越える龍田道、同じく西名阪国道・近鉄大阪線に沿った田尻峠を越える長尾街道、近鉄上ノ太子駅付近で竹内街道から分岐し、近鉄南大阪線に沿って穴虫峠を越えるルート、そして竹内峠がある。
参考地図資料(近江先生作成の資料に事務局で飛鳥川を描き込みました。)
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仮に、難波の位置を大阪市法円坂付近とすると、小墾田宮との距離関係、最高地点の標高の関係は表のとおりになる。
難波津から飛鳥への路線比較表
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この表で示すとおり、単純に地理的な関係で言えば、八尾街道-長尾街道-横大路というルート(ルートA)が最も短いが、難波大道-長尾街道-横大路というルート(ルートB)と難波大道-竹内街道-横大路というルート(ルートC)も大差ない。その中で、難波大道-竹内街道-穴虫峠越え-長尾街道-横大路というルート(ルートD)のみが三キロメートル程度路線延長が長くなることから、最も迂回的な路線と言える。比高差は、延長距離が短い上位二者が最も平坦であるが、延長距離では三位の竹内街道越えは、比高差では他の三つのルートより、はるかに大きい。
また、史料の中でも竹内峠越えのルートよりも、重要視されているルートの存在が浮かび上がる。壬申の乱の河内における戦闘記事は、そのことを如実に物語る。
近江軍が、河内から大和に進行しようとしているという情報を得た、大海人方の将軍大伴吹負は、少ない手勢のうち三〇〇余りを裂いて、坂本臣財らに率いらせ防衛にあたらせた。この軍は、まず龍田に進軍し、そこで百人を裂いて大坂(穴虫峠付近・香芝市には今でも逢坂の地名が残る)の警護にあて、さらに百人に石手道(竹内峠付近か)を守らせた。坂本臣財らは、近江方が放棄した高安城に入るが、そこで大津(長尾街道)・丹比(竹内街道でも古市付近か、別路線説もある)の両道を進む近江軍を発見する。坂本臣財らは大和川と石川の合流地点付近で戦闘に挑むが、多勢に無勢、敗れて懼坂道(柏原市峠付近)まで退却する。
【4】 竹内峠を歩く 3 (10.10.15.発行 Vol.91に掲載)
壬申の乱の記事から分ることは、河内からの進軍の情報に対し、真っ先に軍を派遣したのが龍田道方面であったことから、龍田道が大軍の移動に最も適した主要ルートであったこと、激戦地となったのが大和川と石川の合流地点付近であったことから、近江方の主力は長尾街道から龍田道を越えて大和に入るか、そのまま長尾街道を進み、横大路へと出て、飛鳥を突こうとしていたことである。さらに、大和における戦闘のすべてが終結した後、将軍大伴吹負は、大坂道(ただし、この大坂道とは田尻峠を越えたのか、穴虫峠を越えたのかは不明である)をとおり難波へと向かっている。つまり、壬申の乱の記事の中では、龍田道や大坂道が主役であり、竹内峠は脇役であった。これは、恐らく、この当時の道路としての重要度を反映しているのであろう。
なお、天武天皇八年には大坂山と龍田山に関が置かれるが、竹内峠に置かれることはなかった。このように、少なくとも天武初年以降は竹内峠越えのルートは、大坂道と龍田道の脇道的な位置にあったと考えられ、先の難波と飛鳥との地理的関係から考えられる竹内峠を通過しないルートを、「難波より京に至る大道」とあてることも可能であるように思えてくる。さらに、『日本書紀』履仲即位前記には、竹内峠越えルートは「当摩径」とある。径は小道の意味を指す場合が多いことから、この頃の竹内峠越えルートは大坂道に対する間道であったことを示すのかも知れない。
参考地図(大和・河内の古道と旧河川・関連地名)
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「難波より京に至る大道」とはどのルートか?現在では、中世以降の竹内街道とほぼ同じルートということが定説になっているが、それを疑う余地は、まだまだ残されているように思える。
以上、長々と前稿を転載したが簡単に言えば、大和と河内を結ぶ主要道路の中で竹内峠を越えるルートが最も険しく、かつ、史料に見える竹内峠越えのルートはいずれも間道という扱いで、とてもメインルートとは思えないのである。
次回から、いよいよ「大道」をめぐる私の考えを述べていきたい。
【5】 そもそも「大道」って何? (11.1.7.発行 Vol.98に掲載)
歴史地理学の研究者の検討によると、古代国家が造った官道(今で言う高速道路)の沿線には、大道という地名が見られる場合がしばしばあるという。竹内街道沿線にも、大道の小字が残っているところがあり、「大道」という地名と官道とは、関係があることは事実であろう。
だから、今までの多くの研究者は、「大道」のことを、漠然と官道のことととらえていた。しかし、あくまでもこれは地名の話。当時の人たちが、官道を大道と呼んでいたかどうかは、史料の中から読み取るしかない。
堺市北区金岡町大道として地名が残る。 |
意外にも、『日本書紀』の中で「大道」の文字が見られるのは、わずか三カ所しかない。
ひとつは、仁徳14年 丙戌条「是歳。作大道置於京中。自南門直指之、至丹比邑。」、もうひとつが、推古天皇21年(613)11月条「自難波至京置大道。」、そして白雉4年(653)6月条「脩治処処大道。」である。また、「大道」に類する言葉である「大路」という文字も、天武10年(681)10月是月条の「天皇将蒐於広瀬野。而行宮構訖。装束既備。然車駕送不幸矣。唯親王以下及郡卿。皆居于軽市。而検校装束鞍馬。小錦以上大夫皆列坐於樹下。大山位以下者皆親乗之。共随大路自南行北。」だけである。
たったこれだけの記事から、「大道」とはどんな道を指しているのか読み取ることは、困難であるが、ここで私はあることに気づいた。それは、この4つともに「大道」の文字の上に固有名詞を冠していないことである。逆に言えば、前回までお話してきた下ツ道などは、明らかに官道であるにもかかわらず、『日本書紀』では、「上中下道」「中道」のように表記され、「中大道」とは記されていないことである。このことをさらに検証するために『続日本紀』まで検討対象を広げてみたが、やはり同様のことが言えた。
『続日本紀』には、大道の文字こそ見えないものの、大路という表現は2例ある。いずれも京内の複数の道路を指しているため、固有名詞は冠さないのは当然であるが、注目されるのが、和銅3年(710)1月条の
三年春正月壬子朔。天皇御大極殿受朝。隼人蝦夷等亦在列。左將軍正五位 上大伴宿祢旅人。副將軍從五位下穗積朝臣老。右將軍正五位下佐伯宿祢石 湯。副將軍從五位下小野朝臣馬養等。於皇城門外朱雀路東西。分頭陳列騎 兵。引隼人蝦夷等而進。
の記事と、天平16年(744)12月条の
度一百人。此夜於金鍾寺及朱雀路。燃燈一万坏。
の記事である。ここに見える朱雀路については、前者は藤原京の朱雀大路、後者は金鍾寺に向かうメインストリートとする説などがあるが、いずれにせよ、大路クラスの規模を有するものであるにも関わらず、「大」の字を冠さない。
以上、わずかな事例であるが、大道・大路とは、固有名詞を冠さない場合に限定された呼称法であると言え、国により施工された道路を、固有名詞を冠さずに表記する場合の呼称法か、あるいは、その中でも特に重要な路線に限って用いられる呼称法と考えられるのである。
【6】 道と寺との接点 「大道」と「大寺」 (11.3.18.発行 Vol.103に掲載)
前回までお話ししたように、『日本書紀』における「大道」とは、国により施工された道路を、固有名詞を冠さずに表記する場合の呼称法か、あるいは、その中でも特に重要な路線に限って用いられる呼称法のようである。
このようなミチにおける「大」の字の用法と類似するものは、『日本書紀』の中では、寺院の表記に認められる。両者の類似点は詳述することとし、まず大寺の文字が見える記事を列記しよう(大官大寺を除く)。
崇峻即位前紀(587)七月条 平乱之後、於摂津国、造四天王寺。分大連奴半与宅、為大寺奴田庄。以田一万頃、賜迹見首赤檮。蘇我大臣亦依本願、於飛鳥地起法興寺。
舒明11年(639)七月条 秋七月、詔曰、今年、造作大宮及大寺。則以百済川側為宮処。是以西民造宮、東民作寺。便以書直県為大匠。
皇極元年(642)七月庚辰条 於大寺南庭、厳仏菩薩像与四天王像、屈請衆僧、読大雲経等。于時、蘇我大臣、手執香鑪、焼香発願。
皇極元年(642)九月乙卯条 九月癸丑朔乙卯、天皇詔大臣曰、朕思欲起造大寺。宜発近江与越之丁。〈百済大寺。〉復課諸国、使造船舶。
大化元年(645)八月癸卯条 癸卯、遣使於大寺、喚聚僧尼、而詔曰、於磯城嶋宮御宇天皇十三年中、百済明王、奉伝仏法於我大倭。(以下略)
天武2年(763)一二月戊戌条 戊戌、以小紫美濃王・小錦下紀臣訶多麻呂、拝造高市大寺司。〈今大官大寺、是。〉時知事福林僧、由老辞知事。然不聴焉。
天武9年(680)四月是月条 是月、勅、凡諸寺者、自今以後、除為国大寺二三、以外官司莫治。唯其有食封者、先後限三十年。若数年満三十則除之。且以為、飛鳥寺不可関于司治。然元為大寺、而官司恒治。復嘗有功。是以、猶入官治之例。
これらの記事で「大寺」と称されているものには、四天王寺、飛鳥寺、薬師寺、川原寺と大官大寺の法灯である。賢明な読者の皆様はもう気づかれただろう。大官大寺の法灯連なる寺を除くと、いずれも「大寺」とのみ表現されているだけで、寺名を欠いているのである。また、「大寺」と呼ばれた寺院は、すべて官寺というわけではない。例えば、飛鳥寺とともに接収された豊浦寺は、大寺と呼ばれた形跡はなく、官による造営が考えられる橘寺、造塔以降の伽藍造営を官が行った山田寺なども大寺には含まれない。つまり大寺とは、単に官により造営、または官により維持・管理が行われた寺院の総称ではなく、これらの中でも重要度が高い、あるいは特定の役割を課せられた寺院に限って、呼称されるものであったと考えられる。
このことから、同じような表現がとられている大道も、王権・国家主導で作道された道路を総称するものではなく、それらの中でも特別の道路のみに用いられた呼称法であると考えるべきだろう。つまり、大道とは国家によって造られた道路の中でも、特別な役割を果たす道路を指すものなのである。そう考えると、『日本書紀』に見える3つの道路が、いずれも大和と難波を舞台とする記事に現れていることが気になってくる。
仁徳紀に見える「是歳。作大道置於京中。自南門直指之、至丹比邑。」は、難波高津宮から南へ向かう道路、推古紀の「自難波至京置大道。」は、小墾田宮と難波津を結ぶ道路、そしてもうひとつの白雉4年(653)の「脩治処処大道。」は、難波に宮が置かれていた時の記事なのである。
「大道」の謎を解く鍵のひとつは、どうやらこのあたりにあるらしい。
また、大寺の表現の中で注意すべき点は、複数の大寺を指す場合は、「国大寺二三」「四大寺」のように数を明記し、単一寺院を指す場合は、「大寺」とのみ表現している点である。この点は、「大道」の記事を解釈していく上で大きなヒントになる。
【7】 作大道置於京中。自南門直指之、至丹比邑。
(11.5.13.発行 Vol.107に掲載)
表題の記事は、最初の「大道」の記事、つまり仁徳紀の記事である。 『日本書紀』の記事をそのまま理解しようとすると、仁徳天皇の宮は高津宮であり、丹比邑は、旧丹比郡と考えられるので、高津宮の推定地とされる大阪市法円坂から南下する直線道路ということになる。この路線は、発掘調査で検出され「難波大道」と名付けられた幅18mを測る南北直線路と合致することから、この道路のことを指すと考えるのが妥当だろう。
しかし、難波宮で行われている発掘調査では、高津宮と考えられる遺構は未だ検出されておらず、また、難波大道の調査でも、その敷設時期は7世紀中頃に前期難波宮と一体のものとして造られたとされており、仁徳朝敷設とする見方は、現状では難しい。
しかし、宮の造営と宮正面から真っ直ぐ伸びる道路建設とを一体のものとして行う例は、都城では平安京が最初の事例であり、それ以前には認められない。磯城・磐余の諸宮は、東西方向の主要交通路(横大路)沿線に分布し、飛鳥でも宮中央を起点とする道路は認められず、基本的には東西道路に面して宮が立地する。その後の藤原京や平城京の位置の決定は、下ツ道、横大路をはじとする既存道路網を基準としている。つまり、平城京の時代までは、道が先、宮が後なのであり、前期難波宮で指摘されるように、宮と京外まで続くメインストリートを一体的に施工するという方法は採られていない。
このことから考えると、難波大道の敷設も前期難波宮に先行した、さらに言えば難波宮の位置が、既存道路によって決定された可能性が考えられよう。
ここで注目されるのが、難波宮に近接する法円坂遺跡で検出された、5世紀後半の正方位を指向する大型の倉庫群である。この性格については諸説あるが、いずれにせよこの倉庫群の存在は、難波津との関係で理解すべきだろう。『日本書紀』には道路敷設記事の他に、難波堀江の開削(仁徳紀)、猪甘の津の架橋記事(同)など、難波に関わる開発記事が散見される。これらのことも、この地域の重要性を示す記事として注目される。
次に注目されるのが、堺市長曽根遺跡で検出された、「竹内街道」の敷設時期である。この調査成果によると、竹内街道の敷設時期は6世紀後半以前、道路の規模は幅17mを測り、難波大道とほぼ同じである。このことを重視すれば、竹内街道と難波大道が同時期に敷設された可能性も考えられよう。
現在の限られた史・資料では、仁徳紀に見える「作大道置於京中。自南門直指之、至丹比邑」は、発掘調査で検出された難波大道と呼ばれている道路である可能性は高いものの、その敷設時期は、考古学的には前期難波宮の時期までしかさかのぼり得ない。しかし、法円坂遺跡の倉庫群の存在や、長曽根遺跡の調査成果などから考えると、前期難波宮成立以前に存在した可能性も十分に考えられるのである。「仁徳紀」の記事も、あながちウソと決めてかかるわけにはいかない。
【8】 自難波至京置大道 (11.7.8.発行 Vol.111に掲載)
今回の連載の最初に紹介した(79号に掲載)記事であり、通説によると、横大路~竹内街道のルートのことを指す。
これに疑問を持ったことも最初にくどくどと述べたが、結論を言おう。
「やっぱり、推古21年の記事は、通説どおりだった!!!!」
私にとっては、残念な結論であるし、ここまで気を持たせておきながら、「通説どおりだったとはなにごとだ」とお怒りの方もいらっしゃるかも知れない。でも、少し待ってほしい。通説では、推古21年の記事が最古の官道敷設の記事であるということであったが、前回、述べたようにそれよりも前に「大道」は存在しているのである。それも、堺市付近の「竹内街道」や難波津と「竹内街道」を結ぶ路線は、推古21年以前に成立している可能性が高いのである。となると、推古21年にできた「大道」とは、どこからどこまでのこと?という新たな疑問が生じるし、また、紹介したようになぜ標高が高い険しいルートに道路を造ったのかという疑問もまだ残ったままである。このことについて、これから私の考えを述べていきたい。
竹内峠越えのルートが推古21年の官道である。という考えを具体的に記したのは岸俊男先生である。先生の論拠は、
1)『古事記』崇神段に見える宇陀墨坂神と大坂神が、それぞれ大和の東と西の門戸にあたり、その位置関係から、両者が横大路によって結ばれている。
2)「壬申紀」に見える金綱井が、横大路と下ツ道の交差点付近にあたること、大伴吹負の軍事活動の記事から推定される、金綱井から当麻衢というルートが、横大路にあたる。
この2点から、遅くとも近江遷宮以前には、横大路が南北三道とともに、奈良盆地における主要道路網を形成していたと考えた。さらに巨視的にみると、柳本―馬見―古市―百舌鳥という大和と河内の大古墳群は、横大路とその延長ライン上で東西一直線に並ぶことから、4~5世紀には、横大路の前身となる道路が存在した可能性を指摘している。
また、史料に見える大坂は、穴虫峠を指すことを認めながらも、横大路との接続は竹内峠が自然であり、かつ竹内峠は、蘇我氏の河内における本拠地である磯長を通過すること、孝徳天皇の大坂磯長陵の治定陵が、竹内峠越えルート上にあたることから、ある時期、竹内峠を越えるルートを大坂道と呼んだ可能性を指摘した。ここに、竹内越のルートの意味を考える上で、最も大事なキーワードである「蘇我氏」が登場している。
参考地図(大和・河内の古道と旧河川・関連地名)
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【9】 自難波至京置大道 2 (11.9.2.発行 Vol.115に掲載)
前回、少し触れたように、史料に見える大坂は穴虫峠を指す。このことは、本連載の最初の方でも触れたと思う。(『「大道」を考える2 竹内峠を歩く」に記載)岸先生も、そのことが気になっていたらしい。先生は、竹内峠が大坂と呼ばれた可能性を示すのは、孝徳天皇の大坂磯長陵が、竹内街道に面した太子町山田に治定されていることのみであることも紹介されており、史料からというよりも路線構成や磯長谷、言い換えれば蘇我氏との関係を意識した上で、竹内峠越え=推古21年の大道という論を展開されているのである。
前にも一度述べたとは思うが、竹内峠越えのルートの初見と見られる史料は、『日本書紀』履中即位前紀にみられる当麻径である。「径」は小道を意味するので、この頃の竹内峠越えの道は間道(小道)であったことがわかる。次の史料は「壬申紀」である。壬申紀には、大和・河内の道路の名が複数現れているが、このうち石手道が竹内越えのルート(岩屋峠越のルートとする見方もあるが、両ルートはともに二上山、葛城山間を通過するルートである点に変わりない)、懼坂道が竜田越えのルートと考えられ、大和の戦いで勝利した大伴吹負が難波に向かった大坂道が、穴虫峠越えあるいは田尻峠越えのルートと考えられる。さらに、竹内越えのルートを直接示すものではないが、天武8年(679)11月是月条には、
是月、初置関於竜田山・大坂山。仍難波築羅城。
とある。この時、関が置かれた竜田山と大坂山はともに、河内と大和を結ぶ主要街道が通過していたと考えられるが、ここに竹内峠が現れていないことは、先のふたつのルートに比して重要度が低かったことを示すものと言えよう。
これ以外の史料でも大坂は一貫して穴虫峠越えあるいは田尻峠越えのルートを指し、路線の重要度という点では竜田越えのルートがそれに次ぎ、竹内峠越えのルートは間道としての役割しか与えられていないことに気づく。しかし、先に述べた磯長谷に形成された古墳群の存在、また、この地が、蘇我氏の本拠地のひとつであった可能性が指摘されていることを重視すれば、推古21年の大道敷設~蘇我本宗家滅亡までの間は、蘇我氏の本拠地を通過するこのルートが、メインストリートであった可能性は捨てきれない。逆に言えば、この時期をおいては竹内峠越えのルートがメインストリートになる理由は考えられないのである。
有力氏族が自らの本拠地に幹線道路を引き込んだという事例は、葛城氏と紀路(大和と紀伊を結ぶ国道)の関係でも窺われる。葛城氏全盛期における紀路は、阿倍・山田道の西端から御所市名柄まで南西に向けて直線的に伸び、そこから南下し、風ノ森峠、荒坂峠という難所を越えて紀ノ川に出るルートであった。このルートの存在は、私自身が発掘調査で確かめたものでもある。しかし、葛城を経由する路線は後の紀路となる巨勢谷を通過するルートに比べ、路線延長も長く起伏も激しいなど、道路として有利な点は見いだせず、あえて幹線道路をとおした理由は、葛城氏の本拠地を通過するということ以外に説明がつかない。
竹内峠越えのルートと穴虫峠あるいは田尻峠越えのルートを比較すると、竹内峠越えのルートが最も比高差が大きく、特別な理由がない限り、ここに幹線道路を通す必然性は見いだせない。そういった意味で、蘇我氏の絶頂期に行われた難波から京に至る大道建設が、蘇我氏の本拠地をとおるように設定されるということは納得でき、逆に言えば、この時期以外に幹線道路をここにとおす必然性は見出し難いと言える。
前回のべたように、竹内街道の路線は、長曽根遺跡の調査成果から、6世紀後半以前には既に存在していた可能性がある。恐らく、その頃の路線も難波と大和を結ぶ路線であったと考えられ、推古21年以前の大坂と推定される、穴虫峠もしくは田尻峠を越えて大和へと向かっていたと考えられる。その場合、推古21年の大道設置のための工事とは、横大路の西端にあたる葛城市長尾から、竹内峠越えのルート・穴虫峠越えのルートと交わる、現近鉄上の太子駅までの間の路線の新設(それ以前にも間道が存在していたと考えられるので厳密に言えば大規模な整備)、並びにそれ以外の区間の再整備であると考えられる。
以上の検討の結果、難波と京を結ぶ路線の変遷は、
1)6世紀後半以前に、河内側の路線と横大路は存在していた。この頃は穴 虫峠を越えるルートであり、かつその規模は17m程度と、後の官道 (幅23m前後)と比べても遜色ない。 2)推古21年に、竹内峠を越えるルートが新設され、主要路線とされた。
という2段階の整備が想定できる。さらに、もうひとつ注目すべき点として、竹内街道を利用し難波津へ向かうことになれば、途中で北進する必要があり、この北進ルートは、先に見た「難波大道」であると考えるのが妥当ということである。
この場合、「作大道置於京中。自南門直指之、至丹比邑」の路線は、「自難波至京置大道」の路線の一部であることになり、ふたつの大道は、基本的に同じ道路を指すということになる。
【10】 脩治処処大道 (11.11.11.発行 Vol.119に掲載)
まず、この記事の全文を掲げる。
百済・新羅・遣使貢調、献物。(a) 脩治処処大道。(b) 天皇聞旻法師命終、而遣使弔。并多送贈。皇祖母尊及皇太子等、皆遺使、弔旻法師喪。遂為法師、命画工狛堅部子麻呂・鮒魚戸直等、多造仏菩薩像、安置於川原寺。〈或本云。在山田寺。〉(c)
この記事は、「処処大道」とあることから、通常、複数の道路の整備がなされたことを示すと理解されており、奈良盆地を南北に縦走する上中下道などの敷設と関わるとする見方も強い。また、大道脩治の記事(記事b)の前段に、百済、新羅の使節の来朝記事(記事a)があることから、道路整備が外交使節の往来を契機としてなされたとする場合の根拠史料としても評価されている。
しかし岸先生は、難波宮に使節を迎え入れるために、大和の道路網を含む路線整備がなされる必然性は乏しいとの考えから、記事aと記事bとは、別のものである可能性を指摘している。私も同感であるが、果たして「処処大道」には、大和の道路網を含んでいるか否か、もっとも肝心な点に疑問を感じている。
言うまでもなく、この時期は難波宮を中心に新たな国家体制を整えようとしている時期であり、強いて大和の道路網の再整備を行う必然性は乏しいように思える。また、「大寺」の用例で見たとおり、複数の寺を指す場合は数を明記するのが通例である。その前提に立つと、この記事も「処処の大道を脩治る」ではなく、「大道の処処を脩治る」と読むべきではないだろうか。つまり、示している路線はひとつなのである。
そして、以下の記事に、この時脩治された道路とはどれか、ということと、なぜ道路網整備が必要であったのか、ということの理由があると考える。
「大道」の記事と同年の白雉4年(653)是歳条に、
是歳、太子奏請曰、欲冀遷于倭京。天皇不許焉。皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后、并率皇弟等、往居于倭飛鳥河辺行宮。于時、公卿大夫百官人等、皆随而遷。
という記事が見られる。これは、中大兄をはじめとする王族、百官らが、天皇を難波へ置き去りにして大和へ帰るという事件を記した有名な記事で、これを機に政治の中心は難波から再び大和へと移る。中大兄らが、大和に帰ったのがいつかは明確に記されていないが、「大道」の記事が見える1月前の5月に、旻法師が阿曇寺で病臥していること、6月の死の時点では、中大兄らも使者を派遣し弔問していることから(前掲記事c)、少なくとも「処処大道」の頃は、中大兄らも難波にいたと考えられる。
この難波退去という事件は、王族のみならず百官まで率いているなど、突発的な事件というよりも、あらかじめ綿密な計画が練られていたと見るのが自然であり、そこから想像すると、「脩治処処大道」という事業は、「冀遷于倭京」に向けた準備作業の一環としてなされた可能性も浮上する。つまり、政治の中心を再び飛鳥に戻すことを前提とした、大和と難波とを結ぶ道路網の再整備という見方である。
さらに想像を加えるなら、この脩治の内容とは、このころの大道、つまり竹内峠を通過するルートを、推古21年以前のルートと考えられる、穴虫峠を通過するルートに戻すものであった可能性も考えられよう。
先述のように、竹内峠を通過するルートは、蘇我氏の河内の本拠地を通過させるために、あえて比高差が大きいルートを選定した可能性が強い。その場合、蘇我氏滅亡後はこのルートを通過させる意味が消滅し、従前の比高差が少ないルートに戻した方が合理的であると言える。この想定が正しければ、「処処大道」とは道路の新設ではなく、既存ルートへの回帰ということになり、脩治という言葉の意味や、作道記事ではないにも関わらず、あえてこの記事を記載した意味も理解しやすいと思う。
【11】 大和と河内を結ぶ道 (12.1.6.発行 Vol.124に掲載)
『日本書紀』に見える3つ「大道」は、いずれも難波と京とを結ぶ道路のことを指す。ただし、これらが一貫して特定の道路を指していたのかと言えばそうではなく、その時々における最も主要な道路を呼ぶ場合に用いられたと考える。例えば、推古21年の「大道」とされる竹内峠越えの路線が「大道」と呼ばれたのは、この年から白雉4年までの間だけであって、それ以外の時期は、むしろ間道としての役割しか与えられなかった。
ここまで10回にわたって連載してきた話をまとめてみると、わずか数行で事足りてしまった。まぁー答えはシンプルな方がよいだろう。
今回の話ではあまり飛鳥の話は出てこなかった。しかし、国際化の時代でもあった飛鳥時代。外交窓口であった難波と飛鳥とを結ぶルートは、当時の国家にとって最も大事なミチであったことは間違いなく、また、そうだからこそ、時の権力者はこのミチを自らの勢力圏に置くことに躍起になったのだろう。
「大道」と呼ばれた難波と飛鳥を結ぶミチの変遷は、もしかしたら当時の権力闘争の歴史を反映しているのかも知れない。そう考えながら、ミチを歩くと何やら古代が身近なものとして感じられないだろうか?
今回の連載は、ちょっと手抜き気味になっていたかも知れないので、最後は情緒的な文章で締めたいと思います。
おつきあい、ありがとうございました。 おわり
【12】 葛城氏と紀路 (12.3.2.発行 Vol.128に掲載)
有力者が自らの本拠地に官道を引き込んだ事例として、葛城氏と紀路との関係を紹介した。これについても、『道路誕生』の中で散策レポートを書いているので、番外編として紹介しよう。
大和から紀伊に向かう道路は、葛城氏が権勢を誇った雄略朝までは、葛城を経由する葛上斜向道路が主要ルートで、葛城円が雄略天皇に滅ぼされた後は、巨勢谷を経由する巨勢路が主要ルートになったとされる。事実、秋山日出雄氏が指摘するとおり、葛上斜向道路沿線には五世紀後半以前の遺跡が分布し、巨勢路沿いには六世紀以降の遺跡の分布が目立つ。さらに、巨勢路は後に南海道になっている。
このように、このふたつの路線はいずれも、古墳時代の大和と紀伊を結ぶ幹線道路と考えられるが、成立時期や主要ルートであった時期が異なる。この二つの道路のあり方と、展開を考える事は、古墳時代の幹線道路のあり方を考える上で重要であると考え、実際、この二つの路線を歩いてみて、その違いについて考えてみた。
まず、両者の路線を比較してみよう。いずれの道路も軽街を経由し、現在の五條市郊外で合流すると考えられるが、この間の路線延長は、葛上斜向道路は20.8km、巨勢路は19.5km(いずれも秋山氏の復元路線に基づく)と大差はない。しかし、葛上斜向道路は標高約270mの風ノ森峠や約200mの荒坂峠を越えるのをはじめ、葛城山麓に入った途端に、いくつもの尾根と谷を越える起伏の激しい道路になるのに対し、巨勢路は標高約150mの重阪峠以外は、比較的起伏に乏しい緩やかな道路である。つまり、巨勢路の方がはるかに歩きやすい道路なのである(実際、両者を歩いてみると、疲労度は格段に異なる)。
また、作道の難易度という点からみると、巨勢路は幅の広い高取町丹生谷を通過し、御所市戸毛付近からは曽我川に沿ってつくられるなど、自然発生的に道が出来上がりやすいルートをとる。それに対し、葛上斜向道路は、御所市長柄から風ノ森の間は深い谷をいくつか越えねばならず、また風ノ森以南でもいくつかの谷筋を横断している。
つまり、単純に道路という点のみで見れば、葛上斜向道路が巨勢路よりも優位な点は、見当たらないのである。では、なぜ葛上斜向道路が巨勢路に先駆けて、紀伊へ向かう主要ルートになったのだろうか。これは、やはり葛城氏の存在なくして、語ることはできまい。
葛城の王とも称される葛城襲津彦は、娘磐之姫を仁徳天皇に嫁がせ、のちの履中・反正・允恭天皇の外戚となるなど、大きな権勢を誇っていた。『日本書紀』には仁徳天皇が、しばしば磐之姫の嫉妬に手を焼き、困惑した様子が記載されていたが、これは彼女の実家の実力を示すエピソードと考えられる。また、襲津彦は渡来人を自らの領地である桑原、佐糜、高宮、忍海に住まわせたとあり、積極的に渡来人の技術を活用していたようである。事実、葛城山麓に広がる南郷遺跡群からは、鍛冶や玉つくりをはじめとする、大規模な生産遺跡が見つかっている。当時の葛城氏の実力を見ると、例え作道や往来に困難を伴ったとしても、自らの領地内に幹線道路を引き込むことは可能であったと考えられる。このことは、古墳時代の幹線道路の路線選定には、有力氏族の力が大きく働いていたことを示しているといえよう。
一方の巨勢路はどうだろうか。沿線には巨勢氏が存在したことが知られるが、巨勢氏が自らの実力を頼んで、この場所に幹線道路を通したというよりも、幹線道路を通すにふさわしい場所に、巨勢氏の本拠地があったという印象を受ける。つまり、巨勢路は道路の本来的な目的、即ち、目的地までより早く、安全にという意図に基づいて整備された道路と言えよう。
葛上斜向道路は、葛城氏滅亡後、幹線道路としての地位を巨勢路に奪われる。しかし、風ノ森峠上には7世紀に関所的な施設がつくられた可能性があるなど、依然として主要道路としての地位を保っていた。さらに、発掘された鴨神遺跡の道路は6世紀後半に廃絶しているが、これは現在の高野街道に付け替えられたためと考えられることから、巨勢路が主要ルートになった後でも、この路線の整備は続けられていたことが判明している。
木下良氏は、大和の上・中・下南北三道のように重要な古代道路の路線は、単線ではなく複線であることを示しているが、巨勢路と葛上斜向道路の関係も、このようなものであったのかも知れない。つまり、重要な路線であるがために、主要ルートを補完する道路を同時に設け、主要ルートと同じように管理していたと考えられる。
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