両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第36回定例会
片岡山辺をかたる

Vol.147(12.11.16.発行)~Vol.150(12.12.28.発行)に掲載





【1】 (12.11.16.発行 Vol.147に掲載)     もも

 第36回定例会は、「片岡山辺をかたる」と題して、帝塚山大学准教授の清水昭博先生にお話いただくことになっています。前回第35回定例会では、第36回の事前散策の意味も込めて、同じく清水先生のお話を聞きながら片岡・広瀬の主な遺跡を巡りました。今回から始まる第36回にむけての咲読では、「飛鳥と片岡や広瀬が繋がるといいなぁ~」の もも の願望を込めまして、これらの遺跡をご紹介できればと考えています。果たして、上手くいきますやら。

 飛鳥時代と言えば、推古朝を始まりとして飛鳥に都が置かれた100年程だと言われます。推古天皇が豊浦宮で即位したのが592年、6世紀末になります。

 それよりも少し前の6世紀後半、敏達天皇の崩御後、用明・崇峻と在位の短い天皇の御代が続きます。その間、崇仏廃仏戦争に天皇暗殺など、皇位継承に関わると思える様々な事件が起こった時代でもあります。

 崇峻元(588)年、我が国初の本格寺院である飛鳥寺の造営が開始されます。推古朝に入ると、推古2(594)年に出された仏教興隆の詔の影響もあってか、氏寺なども次々と建立され始めます。

 片岡・広瀬地域ではこの頃、1基の大きな古墳が築かれます。牧野古墳です。片岡で6世紀後半に築かれた達磨寺古墳群と規模を比較してみると、その大きさがよくわかると思います。牧野古墳は、崇峻5(592)年に暗殺された崇峻天皇の倉梯岡陵か?とも言われる桜井の赤坂天王山古墳との類似性が指摘されていますので、手っ取り早く考えれば、牧野古墳は592年前後に築造されたということになります。この時期の天皇陵に劣らない規模ということもあるのかもしれませんが、被葬者は押坂彦人大兄皇子だと言われています。

 押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の長男にあたるそうですが、『日本書紀』には数回しか登場しません。記録では影の薄そうな人物なのですが、σ(^^)には、欽明天皇以後崇峻天皇に位が移るまでの間には、かなりの存在感を放っていたように思えます。お母さんにあたる広姫が亡くなって豊御食炊屋姫(後の推古天皇)が皇后にならなければ、蘇我氏がここまで台頭することもなく、押坂彦人大兄皇子の即位もあったかもしれないと思えてきます。よくある謀反の疑を掛けられたとも『日本書紀』には見えないようですから、時流に逆らわずその後の人生を送られたのかなぁ~と、妙に入れ込みたくなります(暗殺説もあるようですが)。が、ここで、押坂彦人大兄皇子の話ばかり書いている余裕はありませんので、話を戻します。(^^ゞ

 牧野古墳が築かれたと思われる6世紀後半、牧野古墳から少し離れた西の尾根上にある平野窯跡群では、須恵器窯4基が操業していたようです。また、窯跡群と同じ尾根上の南側には、7世紀前半に平野車塚古墳(平野1号墳)が築かれたようです。この尾根では東西300mの範囲で、約6基の古墳が築かれていたと推定され、平野古墳群と呼ばれています。窯も古墳も斜面利用が基本ですから、尾根の南北両斜面を使いわけて有効利用したんでしょうね。

 7世紀に入ると、飛鳥では豊浦寺や奥山廃寺(小墾田寺?)などが造営されますし、斑鳩の斑鳩寺も、『日本書紀』推古14(606)年の「斑鳩寺に播磨の水田百町を納める」の記事から、606年には造営に着手されていたと考えられます。

 一方片岡では、片岡王寺の造営が始まっていたと考えられます。斑鳩寺の金堂で使用された補足瓦とよく似た瓦が、片岡王寺から出土していることがその理由とされているのですが、西安寺跡でも同様の瓦が出土しています。西安寺跡の現地名である舟戸は、交通の要所や分岐点に祀られた岐(ふなど)の神が由来だとされています。また、西安寺跡から東約3kmにある広瀬の長林寺も、7世紀前半には造営が開始されたと推定されています。長林寺は、穴闇寺(なくらでら)や長倉寺の別名を持つことから、朝廷の倉(長倉)に由来しているとも考えられるそうです。西安寺や長林寺が比較的早い時期に造営された理由は、奈良盆地の大小河川が集まる大和川が重要視された結果とも考えられそうです。

 推古朝に盛んになった寺院の建立。大小の規模は様々だったでしょうが、推古32(624)年には、その数46箇所と『日本書紀』には記されています。片岡でも、前に書いたように片岡王寺や西安寺が造営されていたと考えられますが、もうひとつ趣きの異なる寺院が広瀬地域にあった可能性があります。出ているのは瓦だけで、寺名も跡地もはっきりとは分からないのですが、この瓦が面白いんです♪

 7世紀前半、古代日本の瓦はまだ飛鳥寺に始まる「花組」「星組」におよそ大別することができるのですが、この枠組に入らない瓦が三吉3号墳の周濠から出土しています。飛鳥とも斑鳩とも無縁のこの瓦は、独自ルートで技術を入手できる力を持つ誰か(氏族?)が、この時期の広瀬には存在したということを表しているのかもしれません。

 おっと、忘れるところでしたが、『日本書紀』の中に数少ない「片岡」の文字が見つけられるのがこの頃です。推古15(607)年冬に「高市池・藤原池・肩岡池・菅原池を造る」という記事が出てきます。飛鳥に程近い地域と同時期に片岡にも池が造られたのは、この時期にこの地が重要だと思われていたからじゃないでしょうか。こんな風に思うのは、今のσ(^^)が少し片岡贔屓になっているせいでしょうか?(^^ゞ

 飛鳥で推古天皇と聖徳太子、蘇我馬子によって冠位十二階や十七条憲法、遣隋使など様々な政策が執られていた頃、片岡・広瀬地域でも寺や古墳が築かれていました。





【2】 (12.11.30.発行 Vol.148に掲載)     もも

 628年、治世36年で推古天皇は崩御し、推古朝が終焉を迎えます。天皇に先立って聖徳太子と蘇我馬子も亡くなっていますから、まさに一時代が終わったという感じでしょうか。

 推古の後を受けて即位した舒明天皇ですが、即位に関するゴタゴタはご他聞に漏れず、火災によると思われるものも含めて宮を移ることは一度や二度ではありませんでした。そんな中、舒明天皇は初の王家勅願の寺と言われる百済大寺の建立を宣言します。舒明11(639)年のことです。

 片岡では、7世紀中頃に尼寺両廃寺の造営が本格化していったようです。この時に使用された瓦が、飛鳥の坂田寺との同笵品になります。この坂田寺式の瓦は単弁と呼ばれるもので、百済大寺の最有力候補地になっている吉備池廃寺から出土した吉備池廃寺式が始まりだとされています。単弁形式の瓦は、四天王寺や海会寺、山田寺や安倍寺などでも採用されています。(坂田寺式は、百済大寺などで採用されたものとは少し趣きが異なるために、別系統のものだとする説もあります。)

 この時期までに片岡・広瀬地域で確認できる瓦の文様は、飛鳥ではなく斑鳩の影響が濃く窺えるように思います。では、なぜ突然飛鳥の、それも坂田寺の瓦が採用されたのでしょう。

 その頃の飛鳥はというと、舒明13(641)年に百済宮で舒明天皇が崩御し、舒明天皇の皇后であった宝皇女が即位し皇極天皇となります。そして、皇極2(643)年に山背大兄王が蘇我入鹿によって殺害され斑鳩の上宮王家が滅び、皇極4(645)年には、乙巳の変によって蘇我本宗家も滅んでしまいます。推古朝には手を取り合って進んできた(と もも は思っています)蘇我本宗家と上宮王家がお互いを滅亡へと導いたこれらの出来事によって、それまで進出を果たせなかった片岡にも飛鳥の影響が及ぶようになった―つまり、坂田寺の瓦が片岡で使用されたのは、坂田寺の造営氏族であった鞍作氏の活動・活躍の場が蘇我氏滅亡によって変わり、清水先生が144号にご寄稿くださったように尼寺のネットワークが作られていったと考えるのも面白いんじゃないかと。ま、これは全部 もも の裏付けなしの思いつきなんですけど。(^^ゞ

 清水昭博先生 飛鳥遊訪マガジン144号特別寄稿
  「今夏、坂田尼からの宿題~飛鳥と片岡をつなぐもの~

 片岡の平野古墳群では、この頃平野車塚古墳(平野1号墳)のすぐ西隣に2号墳が築かれたようです。1号墳・2号墳ともに径26mほどの円墳とされていますから、牧野古墳や同時代の天皇陵とは比較にならない規模かもしれませんが、2号墳は、床一面に方形の切石を敷き詰め棺台が設置されるなど、終末期古墳では他にあまり見られない珍しい構造をもっているようです。

 皇極4(645)年、乙巳の変を切っ掛けに退位した皇極天皇の後を受けて、弟の軽皇子が即位し孝徳天皇となります。新政府を発足させて都も飛鳥から難波へと遷し、改新の詔や薄葬令をはじめとする様々な政策を行ないます。しかし、白雉4(653)年には、皇太子・中大兄皇子が皇祖母尊(皇極前天皇)・間人皇后・皇弟(大海人皇子)とともに飛鳥へ戻り、難波に置き去りにされた天皇は翌年崩御してしまいます。

 7世紀後半に入ると、平野古墳群では尾根の西端に平野塚穴山古墳が築かれます。また、古墳群の北にある平野窯跡群では、瓦専用の平野5号窯で尼寺廃寺の瓦が焼成されていました。現在は、古墳や窯跡のあった尾根全体が白鳳台という住宅地になっていますので、古代の面影は全くありませんが、窯跡のある公園から平野塚穴山古墳へと回りこむと、僅かながら古代の地形の一端が感じられるように思います。南に開口した石室前からは、今でも二上山や葛城・金剛の山並みが見え、見晴らしの良さは格別です。

 平野塚穴山古墳は、横口式石槨であることや夾紵棺の破片が出土していることから、茅渟王の「片岡葦田墓」の有力な候補地とされています。茅渟王は、舒明天皇には兄であり義父、皇極・孝徳天皇には父、天智・天武天皇には祖父にあたります。7世紀代の天皇位の殆どを子孫が占めていますので、見晴らしの良い地に立派な墳墓を持っていたとしても何ら不思議はないかもしれません。

 古墳には疎いのですが、横口式石槨という形態が平野塚穴山古墳の辺りから始まったのだとしたら、その後の天皇陵(牽牛子塚古墳や野口王墓古墳など)に受け継がれて行った理由をそこに求るのも面白いと思うのですが、きっとそんな簡単な話じゃないんでしょうね。(^^ゞ

 ただ、推定されている平野塚穴山古墳の築造年代が7世紀後半から末にかけてというのが一般的なようで、そうすると、茅渟王はどれだけ長生きするねん!って話になる可能性もあるわけでして。資料を横目に電卓を叩きながら、あれこれ妄想している もも です。(^^ゞ







【3】 (12.12.14.発行 Vol.149に掲載)    もも

 片岡では、7世紀後半に尼寺北廃寺の金堂造営に着手されたようです。この時に使用された瓦が、川原寺式と呼ばれる飛鳥の川原寺と同じ形式の瓦になり、尼寺廃寺のほか片岡王寺でも使用されたようです。


 川原寺式軒瓦は、その名のとおり飛鳥の川原寺から始まる瓦の形式です。川原寺は、斉明天皇の菩提を弔うために川原宮の地に建立されたとされています。孝徳天皇の後を受けて即位した斉明天皇は、百済の救援要請を受けて出向いた九州の行宮で斉明7(661)年に崩御してしまいます。菩提を弔うための寺院ですから、川原寺の建立も川原寺式軒瓦の成立もこれ以降だと考えられます。川原寺式軒瓦は、初期のものが近江の主要寺院で使用されていることから、天智朝の大津京造営との関連があると考えられています。また、美濃・尾張地方などにもその影響が窺えることから、こちらは壬申の乱の功労者に対する報酬として天武朝との関係を示すとも言われています。これらのことを踏まえると、川原寺式軒瓦は天智朝から天武朝にかけての王家所縁の瓦で、尼寺廃寺や片岡王寺もこの頃に王家と縁があったと考えていいのかもしれません。

 『日本書紀』天武4(675)年に、「風神を竜田の立野に、大忌神を広瀬の河曲に祭る」の記事があり、天武天皇は大和川を挟んだ竜田と広瀬の神を祭っています。大忌神は、水の神様のことだそうです。その後、不幸事が無い限り、毎年4月と7月に竜田・広瀬の神祭りは行なわれたようです。天武天皇は、壬申の乱に勝利し飛鳥へ都を戻していますから、大和盆地の河川が集まるこの地は、やはり押さえておくべき重要な土地だったんでしょうね。

 この辺りの『日本書紀』をパラパラと捲っていると、天武天皇は壬申の乱の最中に天照大神を遥拝したり、即位して間もなく大来皇女を伊勢斎王に決定したりする記事がみえます。当時の経済の基盤となる農耕を初めとする生産活動や生活そのものを左右する太陽・風・水の神の祭祀権をまず押さえ、その地を掌握しようとしたんじゃないでしょうか。

 話がそれましたね。(^^ゞ
 つまり、片岡・広瀬地域で、7世紀後半以降に川原寺の瓦が使用された理由は、この天武4年の広瀬の神祭りの前後に天武天皇からの助力だとは考えられないのかな?と思いますが、如何なもんでしょ?

 とは言うものの、川原寺式軒瓦は片岡・広瀬地域全般で採用されたわけではなかったようです。その代わり・・・と言ってはなんですが、川原寺式の特徴を濃く受け継ぎつつ独自の変化(複弁から単弁へ)を遂げ、単弁・片岡王寺式の基礎となったと思われる瓦が西安寺で誕生しています。

単弁・片岡王寺式(西安寺出土)
帝塚山大学附属博物館 収蔵品

 単弁・片岡王寺式は、7世紀後半から8世紀初頭にかけてこの地域で広く見られる瓦で、特に西安寺は、そのまま独自路線を突っ走っていくようです。造瓦に限らず寺院の造営・維持・管理には、技術は勿論、経済力も必要だったはずですから、西安寺には、独自の道を歩み続けられるだけの力を持った人達(造営氏族)が存在したのかもしれません。一方、片岡王寺や尼寺廃寺では、西安寺に始まる単弁・片岡王寺式も採用されていますが、その後は、宮や官との繋がりが感じられる藤原宮や平城京、興福寺などの瓦が使用されたようです。

 さて、平野塚穴山古墳で築造が終わってしまった感じがする平野古墳群ですが、現在確認できない消滅してしまった古墳も幾つかあります。まず、1・2号墳と平野塚穴山古墳の丁度中間辺り・杵築神社の北東には3号墳と4号墳がありました。このうち、4号墳は土取り工事で破壊され、残されていた花崗岩の石材から横穴式石室の可能性が考えられているだけで詳細は不明のようです。3号墳は残る石材から石室の復元が試みられ、横口式石槨が小規模であった可能性があることから、平野塚穴古墳よりは新しい古墳だと考えられるようです。
 あと、江戸時代の絵図には平野塚穴山古墳の南方に「岩屋」と呼ばれる開口した横穴式石室とも見える構築物が描かれていることから、これが古墳だったとも考えられるようです。付近には「七石(七ツ石)」と呼ばれる巨石も存在し、これが「岩屋」とともに石室を構成していた石材の一部であった可能性もあるそうですが、今は、民家が建っているためにそれ以上の詳細は分からないようです。

 これらの消滅古墳も含めて平野古墳群は、約1世紀にわたって同一尾根上に築かれ続けたことになります。よく古い古墳を破壊して新たに古墳が築かれたり、一部が窯に利用されたりしていることがありますが、平野古墳群では近接して築かれているのにそういう形跡がないため、古墳も窯も同一血族によるものだと考えられるようです。平野塚穴山古墳が、推測されているように茅渟王墓だとしたら、この丘陵地の南側は、彼の一族の墓域だったのかもしれませんね。



【4】 (12.12.28.発行 Vol.150に掲載)    もも

 第36回定例会まで、あと一週間になりました。この咲読も第36回としては4回目、第35回からだと7回目、咲読の片岡シリーズもいよいよ最終回になります。

 両槻会が、飛鳥近郊を離れた地域を取り上げる初めての定例会となったこの2回、咲読を書くことになってまず思ったことは、「こりゃ、まずい!」。σ(^^)は飛鳥近辺の、それも初期の瓦や寺に興味があるだけで、天皇の即位順はおろか飛鳥の宮の順でさえ未だにうろ覚えなのに、馴染みのない片岡を面白く紹介することなんてできるのか?!と。もう最初の頃は胃が痛くて痛くて(笑)、とりあえず集めた資料の山を見ては、ただひたすらウンウン唸るという感じでした。出てくるお寺の名前は覚えられないわ、人名は覚えられないわ・・・押坂彦人大兄皇子なんて、「彦人?いや、人彦か?」と、いまだに悩んでいるような始末です。馴染みがないならこれから馴染めば良いと開き直れるようになったのは、ホントつい最近です。まことに、情けない担当で申し訳ないことです。(^^ゞ

 σ(^^)が片岡に馴染めなかった理由のひとつに遺跡や遺物の推定年代がありました。推定年代って言うのは、「〇世紀前半」なんて風に前半・後半に分けられたものや、たまに「中葉」や「後葉」なんていうのもありますし、他にも「〇世紀第●四半期」なんて1世紀を4分割したものまであります。この表記違いは、年代決定の際に基準にされたものによるのだと思うのですが、「はっきり書いてくれよ!」と何度思ったことか。(^_^;) 

 古墳も寺も窯跡も集落も、遺跡としての主なものがほぼ揃っている片岡・広瀬地域。ひとつひとつの遺跡を調べてみても、ここに古墳があった、あそこに寺があったと、ただそれだけのことが積み重なっていくだけで、全く先の展開が見えてきません。このままじゃあ、飛鳥に拘る両槻会が片岡へ目を向けた意味がないんじゃない?とこれまたウンウン唸ってばかりいました。

 が、ある時はたと気付いたんです。今回取り上げる飛鳥は、地域としてではなく「時代としての飛鳥」で「飛鳥時代の片岡」なわけです。なんということでしょう~(笑)、スタッフのくせにσ(^^)は定例会の大きなテーマを忘れていたわけです。じゃ、飛鳥時代の出来事を片岡の遺跡の時期と比べて対応させていけば、少しは片岡の飛鳥時代が分かるかもしれないと思いました。時代の流れを知るにはやっぱり年表だ!と、年表を拵えてみたり・・・。これが結構楽しくて(笑)、片岡で寺が建つ少し前に、飛鳥で寺が建っていたり大きな出来事が起こっていたりすると、これが原因か?これが原因でこの瓦が使われたのか?なんて色々と妄想する楽しさを知りました。また、寺も古墳も窯も、それらの造作で実際に労働した人達が確かにいたんだという凄く当たり前のことを、初めて感じることができたんです。記録には残っていない市井の人々というんでしょうか、そういう人たちを初めて意識することができたのが、今回の定例会を担当したσ(^^)の一番の収穫かもしれません。瓦や礎石、土くれや石などの目に見えるものだけに興味のあったσ(^^)には画期的なことです。(笑)

 この楽しさに皆さんも引き込んでしまおう!ということで前回までの3回で、飛鳥と片岡・広瀬がカワリバンコに登場するなんていうややこしい咲読を書いてしまいました。きちんと読んで下さった皆さんは、余計に頭がこんがらがったかもしれませんね。やってる本人だけが楽しくても仕方ないんですよね・・・すいません。もう少しわかり易く書ける技量があれば良かったんですが。(^^ゞ

 最終回ということでもう少し総まとめのようなものを書くべきなんでしょうが、きちんとした片岡山辺のお話は講師の清水先生が語ってくださいますので、定例会当日にそのお話にしっかり耳を傾けて頂くのが一番だと思います。(^^) 

 片岡にも飛鳥はある。そして、こちらも面白い。つい「片岡・広瀬」で、ひとまとめに出来るように思ってしまいがちですが、「片岡」も「広瀬」も、「飛鳥」と同じ古代の地域の名前なんですよね。「飛鳥」が一括りに出来ないように、「片岡」も「広瀬」も一括りにはできない・・・こんな当たり前のことに気付くのに、なんと時間の掛かったことでしょう。(^^ゞ

 纏まりのない もも の片岡話に長らくお付き合いくださいまして本当に有難うございました。m(__)m 第36回定例会への参加申し込みは、只今受け付中です♪皆さんのお申込をお待ちしております。(^^)


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