飛鳥咲読
第38回定例会
藤原京体感ツアー
-藤原京の広さや大路間の距離を体感しながら知られざるポイントを巡る-
Vol.156(13.3.8.発行)~Vol.160(13.5.3.発行)に掲載
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【1】 (13.3.8.発行 Vol.156に掲載) 風人
今号から、第38回定例会の咲読を始めます。5回の連載を予定していますので、よろしくお願いします。担当は、風人です。
第38回定例会は、「藤原京体感ツアー」と題しました。頭では知っているつもりの藤原宮や京も、現地で古代の様子をイメージしたり、条坊を現在の風景と重ねて把握するのは難しいと思います。第38回定例会では、それにチャレンジしてみたいと思っています。古代の藤原宮・京を自身の足で確認しながら歩いてみましょう。
藤原宮跡に行かれた方は多いと思いますが、「な~んにも無いよ!」とか「だだっぴろいだけやん!」って、声が聞こえてきそうです。歴史的にも飛鳥宮と平城宮に挟まれた僅か16年の都ですので、影の薄い存在かも知れませんね。しかし、この藤原京に都が置かれた時代に、我国は確たる国家として産声を上げました。飛鳥時代から模索されてきた律令という新たな国家運営のシステムを導入し、貨幣を使った経済システムも軌道に乗せています。これらは、明治維新を遥かに超える大改革の時代であったと言えるかも知れません。京域もこれまでと違い条坊を持った大規模な都城が建設され、恒久的な都とすることを目指しました。それが藤原京です。
藤原宮・京のお話は、回を追って綴っていきたいと思っていますが、今号では、実際に計画しています定例会について案内をさせていただきます。
定例会当日は、両槻会らしく遊び心満載のウォーキングを企画しています。参加の皆さんには、下級役人になりきっていただき、大宝元(701)年にタイムスリップしていただきます。藤原宮に通勤する下級役人が、宮で執り行われる元日朝賀儀に参列するという設定を作りました。名前は 「両津部槻麻呂 ふたつべのつきまろ」です。覚えてくださいね! 皆さんの名前です。(笑) そして、ポイントごとに寸劇を演じながら、藤原の地を巡ってみようと思っています。両槻会特別回「紀路踏破」でも、有間皇子護送劇をやりましたね。あれほど凝ったものではありませんが、案内の導入部として取り入れてみることにしました。
登場人物としては、槻麻呂の上司で「藤原不比等」も出演しますし、σ(^^)も「風使部風雨止 かぜつかいべのふうと」で登場します。(^^ゞ 風雨止は、台本の執筆者(サポートスタッフ
yukaさん)によると、槻麻呂を案内 するガイド役だそうですが、私は1300年前の前世でもガイドをしていたようです。(笑) 台本は、ほぼ出来上がっていますので、後日、公開を考えています。
スタート地点は、畝傍御陵前駅の東口広場です。ここからは、出来るだけ藤原京の条坊に沿った道を選んでいます。
最初のポイントは、本薬師寺です。藤原京の先行条坊と呼ばれる計画道路が下層から検出され、藤原京の造営時期を考える上で重要なポイントとなっています。また、条坊道路との位置関係を押えておきたいと思っています。次は、鷺栖神社を経由して、推定復元されている藤原宮西面南門跡や大垣の復元基壇を見学します。ここには、大垣の柱列を再現した展示が有ります。また、近くには、大垣の南西角と外濠が復元された公園があり、藤原宮のイメージを膨らませていただけるのではないかと思っています。この地点から、朱雀門の内側になりますが朱雀大路(宮の中軸線)までの距離(ほぼ1坊分の長さ)を、実感ウォーキングしたいと思います。そして、朝堂院殿、大極殿院を通り抜け、槻麻呂さんは特別な密命を受けに大極殿へと向かうのでした。(笑)
大極殿での宴の後、藤原京資料室に立ち寄り、藤原京の大ジオラマを見ていただきます。ここでイメージを持っていただき、北上して北面西門跡(礎石)を見学します。そして、内裏を通って再び大極殿院に戻ってきます。東面大垣に設けられた門跡を意識しながら南下し、奈文研調査部の展示室を見学します。藤原京での日常生活が分かる展示と、宮に葺かれていた瓦や他の出土品も見ていただく予定です。
さて、ここから両槻会らしいマニアックさが増します。(^^ゞ 香久山の裾を伝って中ツ道の延長線に出るのですが、途中に膳夫寺跡などに立ち寄る予定です。聖徳太子が妃の膳夫人(菩岐岐美郎女)のお母様の菩提を弔って建てたというお寺ですが、膳氏は古代豪族
膳(かしわで)臣として知られます。元々は、天皇の膳部を司る職責にあったとされる氏族です。斑鳩にも根拠地を持ち、聖徳太子との関連が強く、藤の木古墳の被葬者候補にも挙がりましたね。橿原市膳夫町一帯もまた拠点の一つであったと考えられていますが、阿部氏と同一の祖先神を持つとされますので、こちらが本拠地であったのでしょうか。
中ツ道に出来るだけ沿うように北上し、横大路との交差点を目指します。ここには、藤原京の東市が在ったとされています。京外へ伸びる幹線道路の交差する衢(ちまた)ですから、市の存在も考えられるわけです。付近には三輪神社が在り、大きな礎石が用水路脇の祠の下に見えています。また、近くには市の存在を示すともされる市の守護「市杵島神社」もあります。これらの神社も巡りながら、横大路を西に進みます。橿原市山之坊町に入ると、横大路の北側溝が検出された地点が在り、往時の横大路の広さを実感していただこうと思っています。
現在に残る横大路は、狭い生活道路となっているため交通量が多くウォーキングには適しませんので、北に進路を変え耳成山に向かいます。耳成山は、万葉歌に「耳成の
青菅山は 背面の 大御門に よろしなへ 神さび立てり」と詠まれました。槻麻呂さん一行は、この神なる山にも登ってみます。下山後、西に進み下ツ道に出ます。横大路と下ツ道の交差点「札の辻」から、ゴールの八木駅までは、もう直ぐです。
今回は、ウォーキングのポイント毎に、藤原京のどこに当たるのかを条坊図と常に対比して歩いてみたいと思っています。皆さんも古代にタイムスリップして、両津部槻麻呂となって藤原京を歩いてみませんか。
次回からは、藤原京やポイントのもう少し詳しい案内を書きたいと思います。
【2】 (13.3.22.発行 Vol.157に掲載) 風人
藤原京体感ツアーの咲読、第2回目です。今回は、第38回定例会でもっとも厄介な事柄を書いてみたいと思います。多くの方は、この煩雑さが嫌になられると思うのですが、頑張って分かりやすく書いてみますので、よろしくお付き合いください。
というわけで、2回目は条坊の話をさせていただきます。藤原京は、近年まで南北十二条東西八坊の長方形の京域と考えられ、宮はその北端近くに置かれているとされてきました。また、京の周囲は京外に延びる幹線道路「横大路」「下ツ道」「中ツ道」「山田道」が走り、それらが東西南北の京極大路として理解されてきました。長らくこの説が支持されてきたことから、京内のポイントを示す場合、この説の条坊の呼び方が現在も使われています。両槻会定例会の資料も、多くはこの条坊呼称を使ってきました。(岸説)
しかし、近年の発掘調査では、この説の京外(条坊道路の延長線にあたる地点)から、道路遺構や道路側溝が多数検出されるようになりました。中でも、橿原市土橋町では西京極道路と思われるT字路が検出され、また桜井市上ノ庄では、東京極道路とされる道路と両側溝が発見されました。二つの道路跡から更に京外へ続く道路跡や側溝跡は発見されず、それが藤原京の京極であるとされています。このようにして藤原京は、平城京を超える大きな京域を持っていたことが分かってきました。これを、大藤原京と呼んでいます。京域は5.3km四方で、十条十坊に復元する案が近年では有力になっています。
ただ、この説に問題が無い分けではありません。東西の京極道路は検出されましたが、南北の限りが未発見であること、南東部や南部が丘陵地帯になってしまうこと、また、山田道と条坊道路が僅かな距離で並走していたことなどが挙げられます。
参考Bを参照してください。
図の左右を比較してください。従来の説が左側、十条十坊と考えた大藤原京説が右側になります。一坊とされる面積に違いがありますね。もう少し良く見ていただくと、岸説の奇数条坊が、大藤原京では、条・坊間路となって大路とはされていません。これは、発掘調査によって岸説条坊の偶数大路は幅が広く、奇数条坊大路の幅が狭いことが分かってきたことでも補強されている考えです。一坊は、平城京と同じく十六町で構成され、当時の一里という距離=530m四方の範囲となります。京全体としては、十里四方となり、その中央の位置に四坊分(実際の宮域は約1km四方)の宮域があると考えられています。
さて、今回の定例会では、このように大藤原京説を支持するのですが、困ったことが起こります。現在、藤原京の条坊呼称は大変複雑で、その理解を困難にしています。
未だ確定できない要点があるためと思われますが、このように研究者(機関)によって条坊呼称が違っています。ややこしい条坊が、なおさら分かりにくくなってしまいますね。そこで、今回の定例会では藤原京は「十条十坊」としながらも、呼称は岸説の延長で数えて行くことにしました。この呼び方では、結果的に「二十条二十坊」の藤原京になってしまいますが、混乱が少ないと思います。
参考図Aを再びご覧ください。これを基本として咲読を進めて行きたいと思いますので、皆さんも出来れば頭の整理をお願いします。
藤原京の場合、本来はこのような条坊呼称で場所を特定していたのかどうかは分かりません。というのは、朱雀門の南約300mの地点から出土した木簡には「軽坊」と書かれていました。また、『続日本紀』には「林坊」、平城京から出土した木簡には藤原京の地名だとされる「左京小治町」の表記がありました。これらの史料から、当時は条坊名で場所を呼ぶのではなく地名で呼んでいたことが分かります。
先ほども触れましたが、条坊道路をもう少し見てみましょう。
藤原京で最も広い道路は、横大路(路面幅30m以上)です。朱雀大路(路面幅17.7m・約7mの両側溝中心間約24m)が最大ではありません。平城京の朱雀大路は幅約75mもありましたので、朱雀大路の意味するものが違っているのかも知れませんね。藤原京の朱雀門も、宮を取り巻く大垣に設けられた十二門と変わらず、特別な建築物ではなかったようです。
他の大きな道路としては、下ツ道、中ツ道があり、両側溝の中心間で幅約24mになります。下ツ道は、橿原神宮前駅の東側では現在の国道169号線とほぼ同一の地点を走りますが、その幅は二倍以上であったことになります。橿原神宮前駅から飛鳥に向かう時に最初に渡る信号のある道路(丈六交差点)ですので、皆さんも実感として分かっていただけると思います。
条坊道路の大路は幅約16m、条・坊間路で約9m、町を分ける小路で約6.5mを測ります(ともに側溝中心間)。
このような条坊を持つ藤原京は、従来、唐の長安や北魏の洛陽がモデルになったのだと習ってきました。(私の世代では) しかし、正方形の大藤原京説が有力な現在、長方形のこれらの都城がモデルであったとは思えません。中国の『周礼(しゅうらい)』という書物には、正方形の都城の中心に宮を置くのが理想とされ、藤原京はこの理想の京に倣って作られたと考えられるようになりました。
では、こうして理想に向かって造られた藤原京が、なぜ短命に終わったのでしょう。次号では、その辺りを考えてみたいと思います。
(東アジアの都城における方格街区の呼称については、アジク先生の飛高百新第19話をご覧ください。)
【3】 (13.4.5.発行 Vol.158に掲載) 風人
「藤原京体感ツアー」の咲読、3回目です。前号では、いきなり細かなことに走り過ぎた感も有り、皆さんの読む意欲を削いだのではないかと心配をしています。今号では、出来るだけそのようなことがないように書いてみたいと思いますので、引き続きよろしくお願いします。
藤原京への遷都は、持統天皇8(694)年のことでした。『日本書紀』には、持統天皇4(690)年10月条に「壬申に、高市皇子、藤原の宮地を観す。公卿百寮従なり」とあり、同年12月の条に「辛酉に、天皇、藤原に幸して宮地を観す。公卿百寮、皆従なり」とあって、同8年12月の条に「藤原宮に遷り居します」とあります。
しかし、我が国初の条坊を備えた巨大な都市が、僅か4年の歳月で完成したとは思えません。現在、藤原宮跡は平坦な土地ですが、宮内の発掘調査から元は起伏のある地形であって、自然流路や湿地があったことも確認されています。また、京域には古墳が在ったことも知られています。この広大な土地を造成するだけでも、並大抵の労力では賄えなかっただろうと思われます。ましてや宮内の主な建物は、寺院建物以外で初めて瓦葺が採用され、200万枚もの瓦が必要であったとされています。京内には新たな寺院も建設されたわけですから、生産された瓦の総数は膨大な量であったことでしょう。もちろん瓦だけで宮が建設できるはずもありません。木材は、滋賀県の田上山から運ばれたとされます。その山は、別の要因もあるのでしょうけど、禿山になったとの話もあります。少し前のことですが、橿原市のとある小学校が田上山に毎年植林のイベントをしていたように聞きました。数万本という木材を筏に組み、水運を使って搬入したことが分かっていますが、その距離は約100kmにも及ぶようです。
資材の確保や運搬、また実際に作業する人員の確保も必要ですし、それらに伴う財源も必要になってきます。よほどしっかりした計画が無ければ、遷都は実行できなかったのではないでしょうか。
では、いったいいつ頃から藤原京は計画され、その造営に着手されたのでしょう。『日本書紀』の天武朝や持統朝の記事を読みますと、それらしい記載が幾つか見つかります。最も早くは、天武天皇5(676)年条に「この年、新城に都を造ろうとされた・・・、しかし、中止された。」と書かれており、これが藤原京造営の開始だと考えられるようになりました。藤原宮内の発掘調査では、宮内施設の遺構の下層から条坊道路の延長線となる道路遺構が発見されており「先行条坊」、それより遡る道路遺構もあり「先々行条坊」などと呼ばれています。これらの道路遺構は、宮の造営のために掘られた運河よりも古く、また先行条坊は本薬師寺の下層からも検出されたことから、天武9(680)年の薬師寺建設より以前に、藤原京造営が着手されていたことが分かりました。また、先々行条坊は、京域全体には及んでいないことも判明していることから、天武5年の造営開始と中止に関わる遺構であると考えられるようになっています。
詳細は定例会の資料に譲りますが、(本)薬師寺に葺かれた瓦は、藤原宮所用瓦を改笵して用いていることから、藤原宮所用瓦の生産は680年代前半まで遡ると考えられます。
これらのことから、藤原京造営は天武天皇の初期に計画され、一部はその5年から着手され、9年頃からは瓦の生産も始まったと考えることが出来るのではないでしょうか。
このような巨大都市の建設が、なぜ必要だったのでしょうか。東アジアの勢力図は、7世紀に大きく変わりました。大陸には、巨大国家「隋」が誕生し、「唐」がそれに代わります。7世紀後半の韓半島では、新羅が三国時代に終止符を打ち「統一新羅」として体制を整えつつありました。我国も、これらの国々と外交や交戦を経て、中央集権体制の強化や律令制度という国家運営システムの導入が急務となってきました。
これまでのような宮殿のあり方では、このような情勢に対応することは適いません。飛鳥のような狭い地域では、もはや役所の建設すら難しくなっていたのではないでしょうか。「藤原京」という言葉は、後世の造語で『日本書紀』には「新益京」という言葉が使われました。律令体制を支える新たな京域が、必要になったことを意味しているように思います。
しかし、そのように考えても、なぜ正方形の京域が生まれ、中国大陸にもない都城が造られたのでしょう。遣唐使が中断されていたので、最新の情報が伝わっていなかったのだとする考え方も有ると思いますが、7世紀初頭に遣隋使を派遣して以降、数度の正式な使節団を送り出し、あるいは韓半島との交流も有るわけですから、全く情報が無かったとは考えにくいように思うのですが如何でしょうか。
この咲読を書くにあたって、また定例会資料を作成するために、何度も藤原京図を見てきました。そこで、気づいたことがあるのです。藤原京へは、京域外からどのように入ってきたのでしょう。京外に通じる幹線道路である横大路や下ツ道、中ツ道を通って入ってくると思うのですが、全て宮の裏(北)からになってしまいます。いったん大きく南下して、朱雀大路に出なくてはなりません。その朱雀大路も、平城京のように広い道路ではありませんでした。このことに、当時、地元に住んでいた人達が気付かなかったのでしょうか。そのようなことは無いはずです。私には、不思議に思えました。
平城京では、南の羅城門を入り朱雀大路を通って宮内に入ります。藤原京の朱雀大路は、日高山では切り通しを造っていますが、それ以南の確認が出来ていません。羅城門が在ったとすれば、甘樫丘から西に延びる丘陵地帯に在ったことになります。なにか、決定的に他の都城とは違う意図を持って、正方形の京域が造られたのではないかと思えて仕方がありません。それがどのような意図であるのかは、まだまだ私には分かりそうもありませんが。
藤原京が短命に終わったのは、藤原不比等が飛鳥の旧勢力から京を切り離し藤原氏主導の国家を造ろうとしたため、また南東が高く北西に低い土地柄であるので汚水が宮に流れ込んだため、あるいは京の形状が唐とは違うため国際的な体面を保つために建て替えが必要だった、などの説が知られます。
先にも書きましたが、私は天武・持統天皇が意図した京と、それ以降の京が意図したものが決定的に違ったのではないか、そこにこそ完成直後に平城遷都が決断された原因があるのではないかと思うのですが、皆さんはどのように考えられるでしょうか。
今回も、全くまとまりのない終わり方になってしまいました。藤原京は、素人にはあまりにも大きな謎です。一から勉強するには、定例会までの僅かな日数では無理だと思い知らされました。次号では、切口を変えて再チャレンジをしてみることにします。
【4】 (13.4.19.発行 Vol.159に掲載) 風人
藤原京体感ツアーの咲読、4回目です。今回は、趣向を変えて藤原京の時代を考えてみることにします。
皆さんは、かぐや姫の話をご存じだと思います。昔話として知っておられる方から、竹取物語を精読された方まで様々だと思うのですが、この物語の時代設定が藤原京の頃であったことはご存知でしょうか。
物語には、かぐや姫に求婚する公達5人組が登場するのですが、その内の3人は実名で、残りの2人もそのまま該当する人物はいないのですが、モデルとなった人物が特定出来るような名前になっています。
これらの公達は、石作皇子、車持皇子、右大臣阿倍御主人、大納言大伴御行、中納言石上麻呂の5人で、皇子の2人を除けば、飛鳥では何やら有名な方たちですね。そうです、高松塚古墳やキトラ古墳の有力な被葬者の方々です。つまり、かぐや姫も、そのような時代に舞い下りた天女だったわけです。
車持皇子は、藤原不比等ではないかとされています。母親が車持与志古娘であることが、その根拠になります。石作皇子は、多治比真人嶋だとする説があるようです。根拠は明確ではないようですが、宣化天皇の4世孫にあたり、同族に石作氏という一族がいるためだとされているようです。欽明天皇の皇后となった石姫や同じく妃となった小石姫など、一族に石の字を含む名前が目立つことも関連があるのかも知れませんね。
実名の3人は、右大臣、大納言、中納言という官職が書かれています。これを参考に考えてみましょう。
阿倍御主人の右大臣在任期間は、大宝元(701)年3月21日から同3年4月1日まで。(死亡)
大伴御行の大納言在任期間は、大宝元年1月15日から同18日まで。(死亡)
石上麻呂の中納言在任期間は、大宝元年3月19日から同21日まで。(大納言昇進)
一方、皇子のモデルとなった二人はどうだったでしょう。
多治比嶋の大宝元年の官職は、左大臣。(文武元(697)年から大宝元年7月21日まで。死亡)
藤原不比等の大宝元年の官職は、中納言。(3月21日大納言昇進)
竹取物語に書かれている官職を検討すると、ややズレがあるものの大宝元年を舞台背景にしていることが分かります。正に、今回の定例会で行います寸劇「槻麻呂の一日」の設定と同じです。
この5人の公達を推測する根拠がもう一つあります。『日本書紀』持統天皇10(696)年10月22日条には、「正広参位右大臣丹比真人に、資人百二十人を仮に賜った。正広肆大納言阿倍朝臣御主人・大伴宿祢御行にはならびに八十人、直広壱石上朝臣麻呂・直広弐藤原朝臣不比等にはならびに五十人。」という記事があり、この五人が同時に褒賞を賜っているのです。初めに書きましたように、なにやら五人組っぽい感じがします。(笑)
かぐや姫に求婚した5人組の4人までが、実は高齢だったのですね。藤原不比等も42歳になっているので、若いとは言えない年齢に達しています。帝として登場する文武天皇は18歳ですので、かぐや姫には一番の似合いの年齢かも知れませんね。もっとも、かぐや姫を人間の年恰好で判断してのことですが。(笑) 定例会で「槻麻呂の一日」を演じていたら、懐かしくなったかぐや姫が私達の目の前に舞い下りて来るかも知れません。
さて、かぐや姫の次は、定例会の遊びの部分である寸劇の設定を見てみましょう。
まず、主役の両津部槻麻呂さんの紹介です。
両津部槻麻呂(ふたつべのつきまろ)
職業 民部省 主計寮 算師
官 位: 従八位下
年 収: 830,000円
宅 地: 四分の一町
住 所: 右京八条五坊
勤務地: 左京十二条三坊付近 (推定地)
年 齢: 43歳
家 族: 妻・子供二人(男女)・妻の母同居
シナリオでは、大宝元年正月に既に律令制度が施行され、官制に基づいた位階や官職になっていますが、これはシナリオ独自の設定であることをお断りしておきます。住所の呼称は、地名で呼ばれていたと思われますが、名称が分からないために数詞による呼称を使いました。また、年収などは、奈良時代の位階に合わせた全給付を米に置き換え、現在の米価で換算した数値です。
槻麻呂さんは、参加の皆さんの分身です。
シナリオでは、この下級役人である槻麻呂さんが、史実より素早く出世している藤原不比等の密命を受けて藤原京内を見て回ることになっています。時は大宝元年正月一日、大宝律令の完成を目前に控えた一日を槻麻呂さんの目を通して見てみようという趣向です。
槻麻呂さんは、民部省に勤務しています。
律令制下において、国家を運営するシステムとして官僚制度が設けられました。中央では、二官八省が置かれました。二官とは、朝廷の祭祀を担当する神祇官と国政を統括する太政官を言います。実際の行政を扱う太政官の下には、八省が定められました。(中務省・式部省・治部省・民部省・兵部省・刑部省・大蔵省・宮内省) 民部省は、租税・財政と戸籍・田畑を司る役所です。槻麻呂さんは主計寮の算師ですので、租税に関する計算が主な業務でした。数学が得意なのですね。
主計寮には、算師が2人と定められていたので、槻麻呂さんは庶民の中では出世していると言えます。槻麻呂さんは、中央官庁の主任さんか係長さんってところでしょうか。
従八位下というと下っ端のように思いますが、下位には大初位の上下、少初位の上下がありますし、官職に就いているにもかかわらず無位の者も多かったとされていますので、得意の数学の能力を発揮して、ここまで位階を登ってきた苦労人のようです。
宅地は、藤原京では小さな四分の一町です。
藤原京では、八分の一町などもっと小さな宅地も発掘調査で確認されています。また、平城京では十六分の一町や三十二分の一町などもあったようです。
一町と言いますと132m四方ですから、四分の一町(66m四方)としても、現在の住宅事情からはとんでもない大邸宅です。
藤原京の小さな宅地の発掘調査では、数棟の掘立柱建物と井戸や宅地内を仕切る塀などが検出されるようですが、一定の建物配置の規格は無いようだとのことです。
家族の人数はどの程度だったのでしょう。また、暮らし向きはどうだったのでしょうね。
設定では4人家族になっていますが、宅地内には、もっと多くの人間が住んでいたと思われます。紙背文書というそうですが、紙の裏側の再利用が行われていたために、大宝2年の戸籍が部分的に残っています。その戸籍は、『豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡』と言われるものです。戸籍は、役所内で30年間の保存期間を経て東大寺写経所に渡り裏面を再利用された後に残ったもので、国の重要文化財に指定されています。戸籍の全部が残っていたわけではありませんが、残存部分だけで一戸の住人として37人を確認することが出来るようです。戸主は、少初位上 川辺勝法師、42歳。妻と妾のそれぞれに子が有り、孫が居ることも書かれています。
宅地では戸主の建物を中心にして幾棟かの建物に家族が分住していたようですが、藤原京内の一区画にも数棟の掘立柱建物があることから、このような大家族を想定できるかも知れませんね。
定例会当日は、奈文研飛鳥藤原調査部の展示室や藤原京資料室を見学しますので、皆さんの分身である槻麻呂さんの暮らしを考えてみましょう。
定例会では、槻麻呂さんや他の登場人物から様々なことを具体的に考えてみたいと思っています。次号では、他の登場人物も紹介いたします。
【5】 (13.5.3.発行 Vol.160に掲載) 風人
第38回定例会に向けての咲読も、最終回になりました。今号では、シナリオ「槻麻呂の一日」の登場人物を紹介し、彼らが生きた時代を見て行きたいと思います。
まずは、私のご先祖さまを紹介しましょう。
≪風使部風雨止(かぜつかいべのふうと)≫ 職 業:中務省 陰陽寮 天文博士 官 位:正七位下 年 収:1,280,000円 宅 地:半町 住 所:左京二条一坊 勤務地:藤原宮内東南官衙 年 齢:30歳 家 族:母
偉いさんです。(笑) 陰陽寮というと、何やら怪しげな感じがしますが、この官職は平安時代になるとスーパースターが登場します。そう!安倍晴明です。彼も天文博士を歴任しており、その後、槻麻呂さんと同じ主計寮のお偉方を経て、次々と出世して行きます。晴明以降の天文博士は、実質的に安倍氏の世襲となって行くようです。
天文博士の話の前に、中務省を見てみましょう。
「なかつかさしょう」と読みますが、和名では「なかのまつりごとのつかさ」と読みます。「中」というのは「禁中」を意味しますので、中務省は天皇の補佐や詔勅の宣下・叙位など、朝廷に関する職務の全般を担っていた官庁になります。このことから、八省の中でも最も重要な省と考えられていたようです。
さて、その中務省に属する陰陽寮の天文博士とはどのような職務だったのでしょうか。
まず最も重要な仕事としては、天体を観測して異変(月食や彗星などの天文現象)が発見されれば、天文書に基づいて吉凶を占い、その内容を密封した上で天皇に奏聞する「天文密奏」を行うことでした。古代中国では、天上の星は地上にある国家を象徴していて、その動きに異常があれば、政治的な異変が発生する前兆現象であると考えられていました。そのため、予兆をいち早く把握する事は、国家の運営上、極めて重要な事であると考えられたわけです。ですから、天文博士は、非常に重責が課せられた機密を要するポジションであったことが想像できます。
また、普段の職務としては、天文生(定員10名)を教授することが定められていました。
両槻会定例会が雨天になる確率が低いのは、風雨止天文博士の子孫が、その能力を受け継ぎ秘術を尽くして晴天にしているからかも知れません。(笑)
陰陽寮には、天文博士の他にも博士が置かれていました。陰陽師を養成 する陰陽博士、暦の編纂・作成を教授する暦博士、漏刻を管理して時報を 司る漏刻博士が置かれ、それぞれに学生が配されていました。
宅地は、左京二条一坊、耳成山の南東麓にあり、半町の広さがありました。槻麻呂さんの倍の規模ですね。天文を見るには耳成山が邪魔になりますが、私邸では空を見なかったのでしょうか?(^^ゞ その辺りは、設定ミスかも知れません。(笑) ちなみに、風人の自宅がモデルではありません。
≪藤原朝臣不比等(ふじわらのあそんふひと)≫ 職 業:右大臣 官 位:従二位 年 収:191,100,000円 宅 地:四町 住 所:左京二条三坊 年 齢:42歳 家 族:車持与志古娘と同居 妻5人と子供9人まで確認。
皆さん、ご存じの大物です。実際には、大宝元(701)年正月には中納言でした。この頃からトントンと出世の階段を登って行きます。翌々月の3月には大納言になり、和銅元(708)年には正二位右大臣へと進み、亡くなった養老4(720)年には贈正一位太政大臣が授与されました。
シナリオでは、さらに早く出世していただいたのですが、不比等のライバルとなる重臣たちが老齢であったことを考えると、実質的には上席をしのぐ権力を持っていたかも知れませんね。
右大臣の宅地は4町と、とてつもない規模です。(本)薬師寺や小山廃寺という伽藍の整った大寺と同じ規模なのですから、私のような庶民には、なかなか実感できないほどの大きさになります。
その住所なのですが、左京二条三坊というのは、橿原市法花寺町付近になります。平城京の彼の住まいは、後に法華寺になったのは皆さんよくご存じの通りですね。藤原宮の東面北門は山部門と呼ばれるのですが、その外濠から「右大殿荷(または芹)八」と書かれた木簡が出土しており、門を通過するときに確認された後に廃棄された「過所木簡」であると考えられています。「右大殿」は右大臣のことですから、一緒に出土した「紀年木簡」から、不比等を指していることが分かりました。宮内から不比等邸に荷(芹)を八つ運んだ時の木簡ですから、邸宅から最も近い宮門が使われたと思われます。これらのことから、不比等の邸宅は山部門の北東方にある橿原市法花寺町である可能性が高いと言えるでしょう。定例会当日には、その門と邸宅があったと思われる辺りを現地で示したいと思います。
シナリオでは、大宝元年当時から不比等が平城遷都を企てていたように設定していますが、実際の遷都の理由はどのような事だったのでしょう。それを探るのが、槻麻呂(皆さん)の役割になります。皆さんと一緒に、考えてみましょう。
次は、紅一点、語部由香女(かたりべのゆかめ)さんを見てみましょう。
≪語部由香女(かたりべのゆかめ)≫ 職 業:式部省 大学寮 小允 官 位:従七位上 年 収:1,130,000円 宅 地:半町 住 所:右京一条六坊 勤務地:右京七条一坊 年 齢:不詳 家 族:新婚の夫 夫の職業:鋳銭司(令外官)-
主典 -
正八位上 900,000円
式部省は、文官の人事考課や叙位・任官、行賞や礼式を司る役所です。今でいう所の人事院でしょうか。また、式部省は、官僚の養成機関である大学寮を含んでいます。由香女さんは、その大学寮に勤務しており、国立中央大学の事務局長さんって感じでしょうか。なかなかの実力者です。
大学寮は、入学資格として五位以上の貴族の子供や孫に限られていたのですが、八位以上の官人の子供にも希望があれば入学が許されていたようです。また、奈良時代には、一部庶民の子供が受け入れられていた例があるそうです。
大学寮では、卒業試験も実施されています。就職試験にもなるようなのですが、式部省が実施する試験を受け、上位の成績を取れば八位~初位の官位が授けられました。また、学生の中には得業生として大学に残り、博士を目指す者もいたようです。今の大学院生のような存在でしょうか。
学科は、律令制定当時、経(儒教)・算及び付属教科の書・音(中国語の発音)の四教科だったようですが、後に紀伝(中国史)・文章(文学)・明経(儒教)・明法(法律)・算道の学科構成となって行くようです。
若者は、この時代から、数学や外国語に苦しめられていたのでしょうか!勉強が苦手だった私には、嫌な思い出がよみがえってきます。(^^ゞ
住所は、右京一条六坊ですが、現在の近鉄大和八木駅です。(笑)半町ですから、相当な敷地面積ですね。簡単に地図上で測ってみたのですが、大よそ八木駅の大阪線と橿原線のホームの長さで囲った面積より少し広くなりました。大きいですね!
旦那様の職業ですが、鋳銭司で「令外官」となっています。鋳銭司というのは、お金を鋳造している役所、いわば造幣局ですが、大宝元年ですと富本銭を鋳造していたことになります。今と違うのは、必要に応じて設けられ断続的に存続していた点です。彼は主典ですから、現場責任者のような立場でしょうか。
令外官というのは、律令の令制に規定のない官職で、当面する政治課題に対して設置されます。時代は違いますが、摂政・関白も令外官なのです。
さて、「槻麻呂の一日」の主な登場人物を見てきました。官制や宅地のことを主に書いてきたのですが、如何だったでしょうか。
定例会当日には、藤原宮ガイドブックに書かれる無機的な言葉だけではなく、具体的な事例や史跡を見ながら、この時代を体感してみたいと思います。
次号からは、7月定例会(第39回)の咲読を始めます。長い咲読を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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