両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛高百新


アジク さん



12 ネタバレを煙にまいて
13 海の向こうでも
14 ひょうごの古代朝鮮文化
15 久々の韓国訪問
16 だるまさんは とんできたけど・・
17 見えないもの 見えているもの
18 飛鳥の石
19 坊の名は・・
20 陵墓ぞくぞく
21 音楽祭
22 見上げてみれば
23 おとなりさんが世界遺産へ


2011年までの飛高百新はこちら


【12】 「ネタバレを煙にまいて」  (11.2.17.発行 Vol.127に掲載)

 編集長によると、今回のテーマは、事務局長の読みどおりやったようで・・・見透かされてる~、恥ずかしい~っちゅう気持ちをグっとこらえて、

 煙に巻く?
 土煙に巻く?ってなわけで、(←どんな訳?)めげずに話を続けますね。

 今回のテーマは黄砂です。
 前回の定例会の日はすごく霞んでいて、二上山なんかもぼんやりしていましたが、そんな時、参加者のお一人から飛鳥時代に黄砂の記録はあるのか?というご質問がありました。古代朝鮮三国の歴史書『三国史記』に記録があることは知ってましたけど、飛鳥のことは知らなかったので調べてみることにしてみました。

 結論から言うと、『古事記』と『日本書紀』には黄砂の記録は、どうも無いようです。

 で、終わってしまうんも何ですから、少し話しを広げてみましょう。古代の日本の記録にはありませんでしたが、韓半島はどうでしょうか。
 実はあるにはありますが、それほど多くはありません。『三国史記』では、高句麗が0、百済が1、新羅が8カ所の記述だけでした。(アジク調べ)本文では、今のように「黄砂」ではなく、『三国史記』の記述計9件のうち、7件が「雨土」で、2件が「黄霧」と記述されています。百済武王7年(606)の記録には、昼も暗いとも書かれていました。

 新羅は、韓半島の東海岸、百済や高句麗は韓半島の西海岸にありましたから、山に遮られない百済や高句麗の方が地理的には黄砂が圧倒的に多いはずなんですけど、記録がほとんどないのはなぜなんでしょうか?

 当たり前のことすぎていちいち記録されなかった。亡国ゆえ記録が残っていなかった。いろいろ考えられますが、みなさんはどう思われますか?

 ちなみに、私は以前に一度ひどい黄砂に見舞われたことがあります。それは、北朝鮮との国境の町、中国遼寧省丹東市という所で高句麗の山城の踏査をしていた時のことです。山頂から中朝国境の鴨緑江を眺めていると、ある異変に気付いたのです。

   何かが近づいて来る・・・

 しばらくして、その正体がわかりました。
 土煙の壁だったのです。それもあまりにも巨大な・・・

 次の瞬間、私たちはのみこまれてしまいました。それまでの晴天はどこへやら・・早々に車に退散したことを覚えています。

 さて、話を変えましょう。
 日本では『古事記』と『日本書紀』に黄砂の記録が無いと先程述べましたが、ホンマに全く無いんでしょうか。

 実は、万葉集の歌の中に黄砂のことを詠んだものがあるかもしれないのです。

 それは、「霞」という表現です。とりあえず、「霞」を検索してみると、なんと100件以上も!!(ただし、歌だけでなく、題目に「霞」があるものも含みます。)
 表記は漢字の「霞」と、万葉仮名の「可須美」の大体2種類で、種類としては、ただの「霞」の他に「朝霞」や「春霞」などがありました。「霞」はそもそも大気中の水分によるものが主で、万葉歌にも多くみられる山や野に立ったり、たなびいたりする「霞」はこれに当たると考えられます。いわゆる神奈備山の「霞」はその山の霊気を象徴している場合もあるようです。
 ただ、黄砂によって視界が悪くなる状況も「霞む」と表現することから、「霞」の中に黄砂を表したものが含まれることは否定できないようです。
 つまり、これこそ黄砂を表していると断定できる例もない?ということのようです。

 ちなみに黄砂は、「霾(つちふる・バイ)」とも呼ばれ、この言葉や漢字を使った熟語「霾風(ばいふう)」や「霾曇(よなぐもり)」は俳句の季語としても使われていたようです。が、この漢字は残念ながら万葉集には使われていないようです。

 最後に、万葉集から一首

 風交じり 雪は降りつつ しかすがに 霞たなびき 春さりにけり(10-1836)

 今年は、まだまだひどい寒波が続きますが、春はそこまで来ていると信じたいもんです。
 ほな、今回はこのへんで



【13】 「海の向こうでも」  (12.4.13.発行 Vol.131に掲載)

 海の向こうでは、銀河なん号とやらがホンマに銀河を目指してるのやら、どこを目指してるのやら、ようわかりませんが、とにかく何も被害がでないことを願う今日この頃です。

 さて、週末の特別回「紀路踏破」が迫ってきましたが、この回は「有間皇子追慕の道を行く」とゆう副題がついてるように、有間皇子の変をテーマに25キロ歩きます。

 飛鳥時代は、この事件をはじめ未遂や陰謀も含め多くの政変や争乱がありましたが、当時の韓半島はどうだったんでしょうか?

 今回は、有間皇子の変に似ているとゆう指摘もある新羅の内乱を紹介しようと思います。

 有間皇子の変からさかのぼること12年の647年にその乱はおこりました。首謀者は貴族のビダム(田へんに比と曇)、時の王は新羅最初の女王(つまり韓国史上初)の善徳女王でした。ビダムは善徳女王14年(645)12月に上大等とゆう位に就任しました。この上大等とは統一以前の最高位でした。この最高位にあった人物が、就任からわずか1年あまりの善徳女王16年(647)1月に同じく貴族と考えられる廉宗らとともに女王の廃位を主張して突如挙兵したのです。

 挙兵した日付はわかりませんが、王都の東の防衛の要であった明活山城に兵を駐屯し、王宮であった月城との間で10日ほど戦闘が繰り広げられたようです。そして乱のさなかの1月8日に善徳女王は亡くなってしまいます。死の原因については記されていません。しかし、乱の最中ですから、普通の死ではないことは推察されます。

 その後、金ユ信らの奮闘もあり、ビダムは敗走、追走されて1月17日に誅され、30名が連座して処刑、九族を滅ぼした(つまりは一族皆殺し)とゆう記述もあります。

 そもそもビダムが挙兵の理由とした女王の廃位はビダムの思いつきではありません。その発端は、4年前の643年の唐の皇帝太宗の発言にありました。このとき新羅は百済攻撃の援軍要請を唐にしていたのですが、そのときに太宗が出した策の一つが女王だから隣国に侮られる。女王を廃して、唐の皇族を王とすべしとゆうものだったのです。

 ビダムが唐からホンマに王を迎えようとしてたかはわかりませんが、とにかく唐の言うとおり女王はやめようとしたわけです。しかし、亡くなった善徳女王のあとを継いだのは、いとこの真徳女王。そう、ふたたび女王が擁立されたのです。

 唐ちゅう古代東アジアの大帝国の周辺で、女王(女帝)の廃位を目論んで、片や敗れ、片や未遂で討たれた二人の胸中はどんなもんやったんでしょうか?

 さて、そろそろ週末の歩きに備えて、まわりせなあきませんな。なにやら一番しゃべらなあかんようですし・・

 ほな、このへんで



【14】 「ひょうごの古代朝鮮文化」  (12.8.3.発行 Vol.139に掲載)

 ごぶさたしております。タイムリーなネタを提供しつづける某坊さんと比べるまでもなく、さぼり過ぎのアジクです。

 さぼり癖が高じて、今回は宣伝だけです。ええ加減に怒られそうですが・・・

 今回のタイトルは、わたしの大変お世話になってるTさんが最近に出版された本のタイトルです。正式には『ひょうごの古代朝鮮文化-猪名川流域から明石川流域』(むくげ叢書6)といいます。神戸方面の「朝鮮・韓国に関するすべての分野に関心(好奇心)を持つ“むくげの会”が隔月に刊行する『むくげ通信』への連載をまとめられたものです。

 私がTさんに出会った20年前にはとうに始まってましたから、ホンマに長い時間続けてこられたライフワークの結晶です。こないだは、出版お祝いと古希のお祝いを兼ねました。ホンマにお元気で、この場をお借りして、今後のご健勝とご活躍をお祈りしたいとおもいます。(さぼり過ぎの私にゃ、頭が痛いけど・・・)

 中身は、怒られるんを覚悟して、ざっくりと言うと、タイガースの本拠地近くから、自転車か電車・バスを使って歩いて数々の遺跡に出かけて、まとめられたもの。弥生時代から、平安時代までの、この地域の渡来人や渡来系集団の足跡を、最近の韓国の発掘事情や成果もまじえて紹介されています。

 私も中学時代の恩師に、考古学は「歩けオロジー」やと教えられました。それ以来、基本は歩き、地形を感じたい時は自転車のスタイルでいたはずでしたっちゅう、そんな自分自身の原点を思い出しつつ、拝見しています。ぜひ、皆さんにもこの本片手に、ひと味ちがった阪神間を旅してほしいなぁって、思います。書名をググってみてくださいね。

 さて、来週は、およそ1年ぶりに韓国へ
 扶余とか行ってきます。
 今度はまじめにレポートいたしませう。

 ほな、今回はいつもより更に短く、このへんで



【15】 「久々の韓国訪問」  (12.9.14.発行 Vol.143に掲載)

 韓国大統領の竹島(韓国名、独島)上陸以来、日韓関係がかなりぎくしゃくしており、先日は、ついに親日発言などをネットでした13才の少年が検挙されたり、スマートフォンで親日活動の検索アプリができるなど、異常な事態になっており。韓国に友人の多い私はとても心配な日々です。

 韓国の方々はこういった対日の問題には非常に敏感で、私も過去に韓国の学生達に「独島はどこの領土か?」と議論をふっかけられたことがあります。資料によっては韓国領と認めることも可能との見解を示すと、とたんに「あなたに愛国心はないのか!!」と言われ、「歴史を学ぶものは客観的な視点が必要なんだから、できないなら研究から足を洗いなさい。」と諭したことを思い出しました。
 曲がった愛国心で、友を失うことにはならないよう、今後の沈静化と韓国国民の理解を願うばかりです。

 それはさておき、
 前回予告してましたように、8月におよそ10か月ぶりに韓国に行ってきました。相変わらずのハードスケジュールやったんで、今回もおみやげの買い物をする時間すら無かったんです。かなり不満やったわけですが、それもさておき、今回の訪韓で感じたことを少しご紹介したいと思います。

 ここ2年は訪韓しても籠の中の鳥(建物の中のアジク)やったわけですが、今回は1日だけ6年ぶりの扶余に行くことができました。扶余は、皆さんもよくご存じのように百済最後の都だった場所で、「飛鳥・藤原」と同様に「公州・扶余・益山」の3地区で「百済歴史遺蹟地区」として世界遺産の記載を目指しています。

 時間の関係で訪れることができた場所はわずかしかありませんでしたが、初めて「百済文化団地」(地元では、百済再現団地とも呼ばれていました。)に行くことができました。
 その名のとおり百済時代を実物大で再現した施設です。新羅の都だった慶州では、最近、月精橋が復原されたり、皇龍寺址の九層木塔の復原計画などがあり、遺跡の現地に建物を復原建設することには賛否両論あります。その点、ここは遺跡ではなく、扶余の中心部から少し離れたところに建設されていますので、古代の建築物が元寇や秀吉の朝鮮出兵などで全て失ってしまった韓国で古代を体感するという意味では、この上ない施設だと思います。ただ、建設には韓国の人間国宝にあたる方々を集結していたんですが、復原が大胆すぎるのか建築様式など細かいところで疑問符が付きまくる1時間でした。

 その点、飛鳥も倒壊したままの姿で発掘された山田寺跡の回廊を除いて現存する飛鳥時代の木造建築は残ってません。しかし、飛鳥から車で30分で法隆寺を、1時間で古都奈良の建造物を目にすることができ、古代をよりリアルに思い描くことができる私たちは本当に幸せなんだろうなと感じました。

 それでも、そんなことを思い描くことができるのも、歴史が好きなごく一部の愛好者だけやと世間からは言われてしまうわけで、やっぱり大部分の方たちには当時の姿が目に見えない遺跡の価値を伝えるのは難しいですよね。

 さて、飛鳥のどこに再現団地を造成しましょうか・・・
 と、日々悩んでいる最近のアジクでした。(いや、絶対に建てませんけどね)

 ほな、今日はこのへんで



【16】 「だるまさんは とんできたけど・・」  (12.10.26.発行 Vol.146に掲載)

 次回の定例会では、みなさんは王寺町にある達磨寺も訪れる予定になっていたかと思います。達磨寺とは、その名のとおり達磨さんに因んだお寺です。達磨大師は禅の始祖ですから、禅宗のお寺は全部達磨さんに関わりがあるわけですけど、この達磨寺さんの関わり具合は他とは比べもんにならんくらい深いものなんです。そんな達磨寺の創建由緒をご紹介します。

 『日本書紀』推古天皇21年冬12月の条に、一般には「片岡山の飢人伝説」とも称される「片岡山尸解仙説話」が記述されています。その内容は、

 聖徳太子が片岡を通りかかられた時に道端に飢人が倒れていたんですが、太子はその飢人に水と食べ物を与え、着ていた衣服を脱いで飢人にかけてやり、

 「しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て 臥せる その旅人あはれ」

 と歌われました。
 翌日、太子が使いをやって飢人の様子を見に行かせると、その飢人はすでに亡くなっており、太子は悲しまれて、飢人が倒れていた場所に墓を作って埋葬させました。その数日後、太子は、「あの飢人は凡人(ただびと)ではない、きっと真人(ひじり)であろう。」とおっしゃった。はたして、使いが墓を訪れると棺の上に太子の与えた衣服が畳んで置いてあり、屍はなくなっていたのです。すると、太子は使いに衣服を取りに行かせ、元のようにその衣服を身につけられました。世間の人々は、それを聞き、「聖(ひじり)が聖を知るというのは、本当なんだ」と恐れかしこんだ。

 というものです。『日本書紀』には、この飢人が何者かは触れていませんが、それから500年ほど後の平安時代終り頃には、飢人は達磨大師の化身で、聖徳太子は達磨大師の弟子の生まれ変わりであると解釈されるようになりました。飢人の墓は、当然、達磨大師の墓であると理解され、そこを寺院としたのが今の達磨寺なわけです。

 現在の本堂を新築する際の発掘調査や、それに先駆けて境内の整備に伴っておこなわれた発掘調査の結果、『日本書紀』に説話が記録された奈良時代に、現在も境内に存在する3基の古墳のうちのひとつが飢人の墓に選定されて、周囲に濠を新たにめぐらせるなど何らかの人為的な働きかけがあったことが判明しています。これは、今も続く聖徳太子信仰の萌芽だと考えられています。

 そして、鎌倉時代の初め頃には、京都の松尾山の僧であった勝月房慶政(法隆寺の中世の大修復や聖徳太子の事蹟の整備に大活躍した人。この人のことだけでもかなり語れます(笑))が、その古墳(達磨寺3号墳)を再び整備しました。その時のものと考えられる遺構として、墳頂に小石室を築いて中に仏舎利を奉籠しているのが発見されました。この発掘で発見された仏舎利、水晶製の五輪塔型舎利容器、石塔などは、王寺町の町指定文化財にもなり、本堂で拝観することができます。

 定例会の日、わたくしは既に仕事が入っており、ご案内することができませんが、ぜひ多くの方にご覧になっていただきたいと思っています。

 達磨さんは国とか関係なく、御仏の教えを伝えるために自力で飛んで来はったのに、都城の遺物は空港で足止めとは、嫌な時代ですね。
 ほな、今回はこのへんで



【17】 「見えないもの 見えているもの」  (12.12.28.発行 Vol.150に掲載)

 飛鳥・藤原地域の遺跡に限らず、日本の考古学的遺跡の多くは地下に埋没していて、本来の姿を見ることはほとんどできません。でも、両槻会に参加された皆さん、このメールマガジンを読んでおられる皆さんは、明日香村(特に大字岡から大字飛鳥にかけて)に残る田畑の畦道や道路、その段差なんかの多くが、はるか1300年前の飛鳥宮跡の宮殿などの区画をほぼ踏襲していることを知っておられると思います。後飛鳥岡本宮や飛鳥浄御原宮とみられる飛鳥宮跡のIII期の内郭南正殿や北正殿、エビノコ大殿がちょうど田んぼ1枚に収まって発見されているのも、まさに飛鳥時代の土地造成が現代まで受け継がれていることを証明していると言えますよね。飛鳥時代の建物がなくなってしまっただけで、今、私たちが目にすることができる地形は飛鳥時代そのものやと言うたら言い過ぎでしょうか・・・そして、これらの地形は飛鳥時代以降、中世、近世と集落化せずに水田として脈々と受け継がれてきたからこそ遺跡が残されてきたと言えるのやないでしょうか。

 さて、世界遺産のジャンルに文化的景観というものがあります。文化的景観とは、世界遺産条約では、「自然と人間の共同作品」と位置付けられているもので、大きく三つの種類に分けられています。

  1.人間によって意図的に設計され創造された文化的景観
  2.自然と共生する人間の諸活動の結果、形成され有機的に進化してきた景観
  3.文化的な物的証拠よりも自然の要素との宗教的・芸術的・文化的な関連付けが認められる景観

  このうちの2は、
 2-1.過去のある時期に発展過程が終了した残存する文化的景観と、2-2.棚田などの農業景観のように現代も生き続け、社会的役割を有している継続する文化的景観に分類されています。

 難しくて、なんのこっちゃですが、私の勝手な理解では、1は兼六園とか後楽園、3は大峰奥駈道などが当てはまるのかなと考えています。

 で、個人的には2-2のように農耕が続けられてきたからこそ、2-1のような飛鳥時代の遺跡を包含する地形を現代まで守り伝えることができたのかなぁと思っていますが、皆さんはどう思われますか?

 いたずらに発掘し、整備を進めることは、遺跡の意義をより理解し、人々に分かりやすく伝えることなのかもしれません。でも、整備することで(特に日本で主流のかさ上げによる復元整備)その土地の継続してきた歴史を停止させてしまうような気がしてるんです。伝え方はいろいろまだまだ工夫の余地もあるでしょうから、飛鳥は今のままがえぇんやけどなぁと思う今日この頃です。

 今年もありがとうございました。事務局の皆さんにはいつも(今回も)ギリギリでご迷惑をおかけしまして m(_ _)m

 ほな、また来年  皆さんよいお年を



【18】 「飛鳥の石」  (13.2.22.発行 Vol.155に掲載)

 次の定例会のテーマは、「謎の石切場を訪ねる」ですので、今回はそれに関連して。

 飛鳥は「木の文化」の日本にあって「石の文化」かと思うほど石でつくられた遺跡や遺構がたくさんあります。特によく知られているものとして例をあげると、「飛鳥石」、「二上山白石」、「石上砂岩」などがあります。

 「飛鳥石」とは、明日香村東部から桜井市にかけての竜門山地に分布する領家花崗岩類で、石英閃緑岩、角閃石黒雲母閃緑花崗岩などの岩石のことです。その名のとおり、飛鳥地域で最も目にする石材で、石舞台古墳などの石室や墳丘の貼石、飛鳥の宮跡の石敷、寺院建築の礎石、そして石神遺跡の石人像や酒船石遺跡の亀形石造物、猿石など飛鳥に数多くある石造物も飛鳥石でつくられています。

 「二上山白石」とは、二上層群ドンズルボー累層などに分布する流紋岩質凝灰角礫岩のことで、古墳時代には大和や河内で石棺の石材として非常に多く利用され、飛鳥時代には、高松塚古墳やキトラ古墳などの石槨の石材や寺院の建物基壇を外装する化粧石の石材として利用されました。

 「石上砂岩」とは、奈良盆地東辺の藤原層群豊田累層に分布する凝灰質細
 粒砂岩のことで、酒船石遺跡の石垣や湧水施設などに用いられました。
 『日本書紀』斉明紀に記述があることは皆さんもよくご存じですよね。

 他にもカヅマヤマ古墳の石室に用いられた吉野川で産出される「結晶片岩」や、川原寺の金堂の礎石に用いられた「白瑪瑙」と称されてきた「珪灰岩」(結晶質石灰岩とも)など様々な石が飛鳥地域には見られます。

 さて、これらの石はどのように産地から採取されたのでしょうか?
 「二上山白石」はいくつか石切場の遺跡も発見されています。この石はそれほど硬くなくて加工もしやすく(その分風化もしやすいんですが)、古墳時代には石棺として多量に利用されていたことから採石や加工の技術は確立されていたと考えられます。

 先日、高松塚古墳の壁画修復施設の一般公開がありましたが、石材の加工痕跡が石槨石材の底面などに明瞭に残っていて、私の目は壁画よりもそこに釘付けでした。(笑)

 「石上砂岩」も加工しやすい硬くない石で酒船石遺跡から出土した石材にも鑿による加工痕跡が非常に良く残っています。使用する場所で若干の違いはあるもののほぼ統一された規格の直方体をしているので、きっちりとした採石から加工にいたるシステムがあったことが想像されます。ただ、石材の表面に残る鑿の痕跡は、加工の最終段階のものですから、どのように採石したか、どのように石を割ったのかを知る手がかりとなる痕跡はまだ見つかっていないようです。

 では、「飛鳥石」はどうでしょうか?
 「飛鳥石」も石切場は発見されていません。そのため、飛鳥川やその支流に多くある転石を利用したという見方が主流です。しかし、本当に転石の採取だけだったのでしょうか?私は飛鳥の需要からすれば、転石の採取だけでなく、もっと積極的な採石が行われていたと思っています。

 その候補地なのが、今回の定例会の見学地になっている「不動の滝」です。巨大な花崗岩の露頭です。しかし、よく観察してみるとひとつの巨岩ではあるのですが、無数のひび割れが見られます。これは石の目というもので、その石の目に沿って石が割れた結果、現在の滝の地形が形づくられたのでしょう。

不動の滝

 石切というと以前、第5話「穴のかたち」でも紹介しましたように、矢を石に打ち込んで割るという技術が飛鳥時代の韓半島にはすでにありました。

 飛高百新 第5話「穴のかたち」

 しかし、「不動の滝」の露頭を見るかぎりは、ここからの採石は矢を打ち込むよりも、石の目にそって石を割るというか採った方が効率的に思えます。では、矢は用いられなかったのか。私は飛鳥時代には既に矢で石を割る技術は伝わっていたと信じたいと思っています。

 だって、複雑な模様や造形を彫刻する技術や、須弥山石の噴水の穴など穿孔の技術が伝わっているのに、一番基本の石割の技術だけ鎌倉時代まで伝わらなかったなんて、感覚論でしかないんですけど、おかしいですよね。

 さあ、皆さん。定例会、また飛鳥を訪れたときは石造物をじっくり見てください。特に人目につかない裏面とか下の方とか、今なら日本最古の矢穴の発見者になれるチャンスです!!

 古代の矢穴があるとしたら、その形はきっと正三角形です!吉報をお待ちしてます。(笑)

 ほな、今回はこのへんで



【19】 「坊の名は・・」  (13.4.5.発行 Vol.158に掲載)

 藤原京の条坊にややこしい問題があることは、前回の風人さんの咲読で皆さんお分かりになったと思います。ただ、当時の坊の呼称は「二十条二十坊」でも「十条十坊」でもなく、「軽坊」や「林坊」、「左京小治町」という固有名詞による条坊呼称が用いられていたことが文献や木簡などから分かっています。それに対して、平城京では「○京○条○坊○坪」と、平安京では「○京○条○坊○町」と数詞による条坊呼称が用いられていました。

 ところで、当時の東アジアの他の都城にも日本と同様に条坊制のような方格の街区が整備されていましたが、これらではどのように呼ばれていたのでしょうか?

 日本の都城のルーツである中国の場合、唐の西京長安城では「修徳坊」や「新昌坊」、東都洛陽城でも「積善坊」や「履道坊」のように固有名詞で呼ばれていました。ただ条坊区画する道路については、朱雀大路にあたる「朱雀大街」を中軸に「朱雀街東第二街」、「朱雀街東第三街」のように数詞も用いた呼称があったようです。

 次に、朝鮮の事例を見てみましょう。古代三国のうち高句麗の長安城と、統一後の新羅金京に方格の街区が整備されたことが判明しています。韓国では、「坊里制」と言われています。

 552年に高句麗4番目の都城として造営されたのが、現在北朝鮮の首都となっている平壌にあった長安城です。この都城は自然地形を利用したものですが、外城の部分に方格の街区が整備されていました。しかし、その坊がどのように呼称されていたかは、文献や金石文、出土資料からも明らかとはなっていません。

 百済、高句麗の滅亡後、670年代の唐との戦争を経て韓半島を掌握した新羅は、この頃に元々都であった場所に坊里制の都城を造営します。これが金京です。その形態や範囲については諸説あり、まだ確定していませんが、最終的には、現在の慶州の盆地全域に坊里が拡大したことは確実だと思われます。新羅金京の坊里については文献にいくつか記述があります。それによって「反香寺下坊」や「芬皇寺上坊」、「芬皇西里」など固有名詞による呼称が用いられていたことがわかっています。

 百済は、発掘事例がまだまだ少ないので、私は坊里制が採用されていたとは言えないと考えています。街区については、都城の内部を上部・前部・中部・下部・後部の「五部」に区分し、部の中にそれぞれ上・前・中・下・後の「五巷」に区分していたことがわかっており、木簡や刻印瓦などからその存在が実証されています。いずれにせよ、いわゆる条坊(坊里)制とは異質のものであったと私は考えています。

 このように藤原京の時代、東アジアの都城はどれも固有名詞による坊名を用いていました。しかしこの坊名も2種類に分類することができます。唐の長安城や洛陽城の坊名は嘉名という縁起の良い名がつけられていたのに対して、新羅の坊名は知られているものは全て寺院の名前に由来するものです。

 藤原京の場合は、どうでしょうか?「軽坊」は軽の衢に由来すると考えられ、「小治町」は小墾田宮に由来すると考えることができます。つまり施設や地名が坊の名となったと考えられるのです。そういう意味では、都城のプランは『周礼』に由来するというのが有力視されていますし、私も都城プランは新羅がルーツやないと主張してますけど、実際の運用には新羅の影響もあった可能性は高いかもしれません。

 さてその後、日本の場合は最初にも触れましたように、藤原宮遷宮から17年、710年に遷都した平城京では、数詞による条坊呼称が用いられるようになりました。固有名詞ですと、実際の位置を把握するためには、常に地図を携帯するか、丸暗記をしなくてはいけませんが、数詞によると法則が分かっていれば、すぐに位置を把握できます。非常に合理的なシステムといえます。このようなシステムを導入したのは日本だけのようです。

 ところで、私の中国の友人は鍋から自分の碗に入れる時に鍋の縁と碗の縁をくっつけてこぼれないようにし、「中国人は日本人と違って合理的だ。」とゆうてました。そして、韓国の友人は、熱々のうどんにお冷やを投入して、「韓国人は合理的だ。」とゆうてました。合理的とはどうゆうもんか、古代日本人の発想に感心しつつ、友人の話には首をかしげたものです。

 っちゅう、どうでもええ話を思い出したところで、今回はこのへんで。
 ほなまた



【20】 「陵墓ぞくぞく」  (13.5.17.発行 Vol.161に掲載)

 4月に韓国と中国から相次いで大発見のニュースが届きました。今回は、それを紹介してみたいと思います。

 まずは、4月3日の韓国 聯合ニュースの記事から
 中央日報の日本語版はこちら

 新羅の都であった金京、現在の慶州の中心部から私の記憶では車で30分くらい北に行った韓国慶尚北道慶州市川北面神堂里で統一新羅時代の王陵級の古墳が発見されたのです。

 丘陵をU字状にカットして造成した平坦面に築造された古墳は、直径14.7m、周囲46.3mの円形で、墳丘の外周に護石をめぐらせています。護石は新羅の王陵級の古墳の外見上の最大の特徴で、外面が長方形の切石で最下段に地覆石を1段、その上に3段の羽目石を積み上げていました。その上にあるはずの葛石は、記事や写真を見るかぎりでは遺存していないようです。周囲には支柱石が護石に立てかけられています。墳丘の背面の丘陵をカットした法面には石積があり、平坦面には排水溝も設けられていたようです。また墳丘の前面には石床という方形の檀状の石積も確認されています。

 ニュース記事には、閔哀王陵に類似すると書かれています。閔哀王陵は発掘調査が実施された数少ない王陵ですが、その結果、8世紀後半から9世紀初頭と推定されています。(実は閔哀王は839年に亡くなっているので、その古墳の被葬者が閔哀王でないことが確実視されています・・・)今回発見された古墳の年代について、発掘調査を担当した鶏林文化財研究院は8世紀中頃との見解を示していますが、一部の研究者は9世紀まで下るとみているようです。

 いずれにせよ、横穴式石室と推定される埋葬主体の調査はまだおこなわれておらず、国の指導で発掘調査は中断しているとのことですから、現状ではこれ以上はわからないようです。新羅の王陵では墓誌の例がありませんので、今後石室の調査がおこなわれたとしても、被葬者の特定は難しいかもしれません。

 で、今回はこれで終わりません。豪華2本立てです。

 10日ほど後、4月15日の中国 光明日報の記事をどうぞ
 日本語版の記事はこちら

 中国の長江流域、江蘇省揚州市から磚室墓が発見されたというものです。(何か出し惜しみ的な言い方で、すみません。)

 東西2基の磚室墓が発見されたのですが、西側の1号墓は、東西5.88m、南北4.98mと非常に小規模です。構造的にも墓室と羨道、そしておそらく羨道の両側に耳室がつくという南北朝から唐初の墓としては一般的でシンプルなものといえます。1号墓からは鎏金銅鋪首(把手付きの飾り金具)、金鑲玉腰帯、銅銭、鉄釘など10数件の遺物が出土したとのことですが、最も注目されたのが墓誌の発見です。全文の釈文が公開されていませんが、そこには冒頭に

 「隨故煬帝墓誌」と、続けて
 「隨大業十四年」や「帝崩于揚州」、「流珠堂」などの文字が刻まれていたのです。  

 煬帝とは、隋帝国二代皇帝の楊広のことです。推古天皇15年(607)に聖徳太子が小野妹子を派遣し、あの国書を送った相手です。

 煬帝は、大業十四年(618)に江南地方への巡幸中、揚州の江都で重臣の宇文化及らの反乱によって殺害され、そのままこの地に葬られました。しかし、ここで大きな問題があるのです。実は、煬帝陵は既にもうひとつあるのです。

 それは、今回発見された墓から6.5kmほど北東にいった同じ揚州市内です。清代の大学士である阮元が発見し、修理をおこなったものです。グーグルアースでおそらから見てみると方墳に整備された様子がよくわかります。ただ決定的な証拠があったわけではなく、考証によって明らかにしたようですので、報道では今回発見されたものを「真陵」、これまでのものを「偽陵」と書いてしまっています。

 ただ、隋書には一度埋葬した後、唐が混乱を平定した後に改葬したと記述しており、限られた情報のだけで真偽を決めつけるのは早計やと思います。

 今回のふたつの発見は、ともに開発工事にともなって偶然発見されました。韓国のものはいち早く保存が決定されましたが、中国の続報はまだありません。

 今後の調査でより詳しいことが明らかになることを期待するとともに、これらが保存され、未来に残されることを願っています。

 飛鳥にもまだ知られていない古墳が眠っているのでしょうか。
 ほな、今回はこのへんで



【21】 「音楽祭」  (13.6.28.発行 Vol.164に掲載)

 今、奈良では今年2回目の「ムジークフェストなら2013」を開催しています。
 ムジークフェストとは、ドイツ語で音楽祭のこと。200を超える公演が奈良市を中心に奈良県全域でおこなわれています。

 それに因んで、今回は古代朝鮮の音楽について少しだけ紹介してみたいと思います。
 『日本書紀』には、推古天皇20年(612)に百済人の味摩之(みまし)が伎楽を伝えたと記録されています。また、今に伝わる雅楽の演目にも高麗楽(こまがく)というジャンルがあり、古代朝鮮の音楽を伝えています。

 さて、韓国では古代の音楽はどのように伝えられているのでしょうか?
 残念ながら、古代の音楽は今に伝わってはいません。最近は復元研究や実験的な再現演奏なども試みられているようですが・・・

 記録ではどうでしょうか。
 『三国史記』雑志 楽には、「新羅楽」、「高句麗楽」、「百済楽」の条があり、その内容が記されています。そのうち、「高句麗楽」と「百済楽」は国が滅亡したことによって、しばらくは唐に伝えられたようですが、やがて廃れていったようです。『三国史記』の記述は、8世紀後期に編纂された『通典』から引用されたものですが、それによると高句麗楽は、16種類の楽器と唄で編成され、百済楽は6種類の楽器で編成されていたということです。楽器は、いわゆる琴である「箏」をはじめ、竪琴である「箜篌」、「琵琶」、「篳篥」、「笙」や鼓などの名前を見ることができます。

 先のふたつよりも少し後まで伝えられたのが「新羅楽」です。有名な加耶琴や琵琶など弦楽器である「三絃」、大中小の笛である「三竹」、打楽器である「拍板」と「大鼓」、そして「歌舞」で構成されたことが記されています。いろんな曲調があり、多数の曲が存在、また舞も様々なものがあったと記されていますが、今に伝わっていないのは残念なかぎりです。
 ただ、楽器は正倉院に伝えられたものの中に「新羅琴」(伽耶琴のこと)など先にあげた楽器があり、楽器の実物をイメージすることは可能です。

 さて、冒頭のムジークフェストは6月30日(日曜日)まで開催しています。土日にも申込不要の無料公演がたくさんありますから、ドイツっぽく昼間っからビール片手に音楽なんていかが?
 ムジークフェストなら 

 ほな、今回はこのへんで



【22】 「見上げてみれば」  (13.8.9.発行 Vol.167に掲載)

 夕方の緊急地震速報の誤報(実際、和歌山では地震があったそうですが、小さくて良かったです。)にバタバタしてるさなかに、原稿を忘れてたことを思い出し、息子にえらそうに言ってるくせに、これから必死で宿題を書くことにします。

 とゆうことで、息子の夏休みの宿題にちなんで星空を眺めてみましょう。といっても、連日のゲリラ豪雨でなかなか星は見えませんが・・・

 今の季節、ようやく暗くなった午後8時頃に真南に見えるのは赤い心臓アンタレスのあるさそり座です。この星座は中国星座では心宿と尾宿という二つの星座からなります。心宿はさそり座の心臓と頭の部分で、尾宿はさそり座の尾っぽの部分やから、わざわざ分けんでもえぇ気もしますが、それはさておき、この心宿と尾宿はキトラ古墳の天文図や高松塚古墳の星宿図にも描かれています。

 で、さそり座は夏の星座ですから四神などの五行思想で夏を表す南の部分をキトラの天文図で探してみたんですが、見つかりません!
 あわてて星宿だけを描いた高松塚の図を見ても、やっぱり無い!!
 ぐるっと見回して北東の角あたりにようやく見つけることができました。キトラの天文図でも真東の日像に向かってすぐ左(北)側にありました。

 蠍を狙う射手は、中国星座では箕宿と斗宿(南斗六星)ですが、これが高松塚ではちょうど北東角にあたります。

 夏の星座がなぜ冬を表す北側にと思いましたが、ここでようやく気付きました。私は12月生まれのいて座です。そう、キトラの天文図も高松塚の星宿もそれぞれの季節に太陽がある位置に基づいて描かれているんですね。

 古代人って、やっぱすごいなぁってとこで、私の宿題も終わりです。

 息子もテレビゲームをしぶしぶ終えて、寝にいきました。私もビールを呑んで寝るとしましょう。

 皆さんぜひキトラ古墳の天文図とビールを手に、夏の夜空を眺めてみてくださいね。
 ほな、今回はこのへんで



【23】 「おとなりさんが世界遺産へ」  (15.5.19.発行 Vol.216に掲載)

 突然ですが、20カ月ぶりに戻ってまいりました。
 何話目で止まっていたんかと、両槻会ホームページの遊訪文庫をのぞいてみたら、連載終了分ではなく、連載中のところに「飛高百新」の名が!!!暖かい気持ちでお待ちいただいたスタッフ皆様、ありがとうございます。

 さて、本題に移りましょう。
 5月4日に韓国の文化財庁が、忠清南道公州市、扶余郡、全羅北道益山市に構成資産が所在する「百済歴史遺蹟地区」がイコモス(ICOMOS:国際記念物遺跡会議)から世界文化遺産リストへの記載が妥当とする勧告を受けたと発表しました。我が国がまだ倭国と称されていた時代の隣国百済の古都が、この勧告を受けて6月末頃には世界遺産になる予定です。

 そこで今回は、「百済歴史遺蹟地区」のどんなところが評価されて、世界遺産になろうとしているのかを紹介しようと思います。
  
 報道資料によるとイコモスから評価された点は、私の訳文をそのまま転載しますと、以下のとおりです。
●韓国、中国、日本の古代王国の間の相互交流を通じて百済が成し遂げた建築技術発展と仏教の拡散を見せてくれるという点
●首都の立地選定、仏教寺院、城郭と建築物の下部構造、古墳と石塔を通じて百済の歴史、来世観と宗教、建築技術、芸術美を見せてくれる遺産であると同時に、百済の歴史と文化の特出した証拠であるという点
●効果的な法的保護体系と保存政策を含めた現場での体系的な保存管理により保存状態が良好であるという点
 ひとつめは、世界遺産の「作業指針」で定められた登録価値基準の(Ⅱ)の項目に対する具体的な評価内容です。この項目では、ある期間または、ある文化圏の中での価値観の交流を示すものであることが求められています。

 この点について、韓国の世界遺産の主張は基本的に一貫しています。それは、「中国から先進文化を受け入れて、自国で独自発展させ、日本に伝えた。」というものです。ただ近年は、世界的に交流は一方通行ではなく相互におこなわれたものと評価すべきとの方向性も示されていますから、百済遺蹟も「相互交流」の結果であることをうたっているようです。

 次の(Ⅲ)の項目では、ある文化的伝統または、文明の存在を伝える物的証拠として唯一無二(もしくは、少なくとも希有)であることが求められています。この項目は、実は我が国では適用しにくいものなのかもしれないと、私は最近よく感じています。

 その理由は、我が国は実質的な支配層の変遷はあれ、日本国という国号と天皇制を1300年以上にわたって維持しているから。世界遺産の「作業指針」には、「現存するか消滅しているかに関わらず」と記されてはいるのですが、日本に限っては国家を全面に押し出しすぎると、じゃあ全世界195カ国という国家の全ての国家成立にも世界遺産として価値があるじゃないかという主張が成り立ってしまうのではないかという心配が、世界遺産という分野の理屈ではあるんだそうです。1300年の時を経て今なおつながる日本の「飛鳥・藤原」よりも、「百済」、「高句麗」や「アユタヤ」、「スコータイ」など昔には確かに存在したけど今は滅んじゃったものの方が、世界遺産になりやすいなんてことになるのでしょうか。

 それはさておき、「飛鳥・藤原」と「百済」とは時代背景や構成資産が非常に似通っていますので、早い者勝ちで、唯一無二や希有な物証という点で、「飛鳥・藤原」は今後かなり苦戦を強いられるかもしれません。

 私自身もまだ、「飛鳥・藤原」が世界遺産になるべきか悩ましく思っています。また、時々ここで私の考えていることをお伝えし、みなさまに考えていただくきっかけになればと思います。

 難しい話だけやなく、韓国の発掘情報もまたお伝えしますね。
 ほな、今回はこのへんで


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