両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



飛鳥咲読




第41回定例会
飛鳥時代の土木技術

Vol.170(13.9.20.発行)~Vol.173(13.11.1.発行)に掲載





【1】 (13.9.20.発行 Vol.170に掲載)     もも

 第41回定例会は、奈良文化財研究所 都城発掘調査部の青木敬先生をお招きして、「飛鳥時代の土木技術」と題した講演会を11月2日に行います。今回の咲読は、いつのまにか土木好きになっていた(笑) もも が担当します。よろしくお付き合い下さい。

 青木先生には、3年前の2010年に「石神遺跡について」と題した第18回定例会でもお話して頂いています。第18回定例会でテーマとなった石神遺跡も素人には難しい遺跡でしたが、今回のお題目「飛鳥時代の土木技術」も、もっと掴みどころがなくて「土木技術なんて言われてもなぁ~」と思われた方もいらっしゃるでしょうね。担当のσ(^^)がこんなことを言ってはいけないんですが、「ドボク」って、イマイチ花がありませんよね。(^_^;) だいたい「土木」が何を指すのかということが、分かりにくくないですか?土木好きを自称するσ(^^)も、興味を持ったものが「土木」という範疇に入ることを最近ようやく知ったばかりでして、今でも 「これが土木だ!」とはっきり分かっているわけではないんですよね。(^^ゞ

 でも、大丈夫です!青木先生は、第18回定例会で3時間にもわたり、あのややこしい石神遺跡の時代区分や遺構などをとても分かりやすく面白く話して聞かせてくださいましたので、今回も時間制限のある他の講演会ではなかなか語り尽くせないことを、興味深く聞かせていただけるに違いありません。σ(^^)は今からとても楽しみにしています。(^^)

 飛鳥遊訪マガジンをお読みくださっている皆さんなら、両槻会の“埋もれた古代を訪ねるシリーズ”は、知ってくださっていますよね?! この目に見えない埋もれた遺構巡りをテーマにした定例会は、「何気なく通り過ごしていた道や農地の下にも古代が息づいていることが分かって楽しかった」と、参加者の方に好評を頂いているシリーズなんですが、考えてみれば「土木技術」も、立派に“埋もれた古代”の仲間と言えるかもしれません。

 じゃぁ、土木って何なんだ?って話ですが、土木工事は、道路・鉄道・河川・橋梁・港湾などの建設工事のことを指すんだそうです。あら、橋や道路も土木工事になるんですね。ということは、σ(^^)は自覚するかなり前からの土木好きになりますね。(笑)

 とまぁ、こんな感じでざっと調べてはみたんですが、余計に訳がわからなくなってきました。結局、個々の言葉の意味にとらわれても仕方ないという結論に達しかけた頃、土木工事は公共事業を指すと書いてあるものを見つけました。ちょっと端的すぎる表現ですが、飛鳥時代で考えると、土地の私的利用なんてほぼないでしょうから、この説明は良いかもしれません。飛鳥時代の公共事業(土木工事)を担ったのが飛鳥時代の土木技術!ちょっと、無理やりですかね。(^^ゞ

 飛鳥時代には、コンクリートもアスファルトもありませんから、土地を改良・利用する際に使われたモノは、自然由来の土や木や石などになります。まさしく、“土”と“木”による土木工事です。

 飛鳥は石の都とも言われますから、伝板蓋宮跡で復元されている石敷の井戸跡をはじめ、発掘調査などで整然と並んだ石敷きなどを見る機会が多くあると思います。表面の舗装や化粧に用いられたこれらの石は、現地説明会やニュースでもかなり脚光を浴びますよね。ところが、土はなかなか日の目を見ることがありません。木も、文字が書かれた木簡と部材として柱穴に残った柱根などでは、注目度が違ってきますよね。綺麗で目立つものだけでは何事も成り立たないのに、使われた場所の違いとは言え、何だか可哀そうに思えてきます。

 地味で目立たない。けれど、担う役割は凄い。そんな古代飛鳥の縁の下の力持ちである“土くん”にも、たまにはスポットライトを当ててあげても良いと思いませんか? 地面の下で頑張っている土がなければ、それこそ飛鳥は、「いにしえの都」には成り得なかったかもしれません。この機会に、土が古代飛鳥の地で果たした重要な役割に注目して欲しいと思います。

 「土木技術って何だ?」と、思われたなら、是非第41回定例会にご参加ください。今回も恒例の事前散策を行いますし、講師の青木先生もご同行くださることになっています。講演会とそれに先立つ事前散策で、ぜひ皆さんも飛鳥時代の土木技術に迫ってみてください♪





【2】 (13.10.4.発行 Vol.171に掲載)   もも

 第41回定例会に向けての咲読2回目ですが、はて何を書きましょう・・・と思案にくれている もも です。

 飛鳥時代の土木と言えばやはり、『日本書紀』に工事を好むと書かれた斉明天皇が浮かびますよね。宮の東の山の垣には人夫7万人、狂心の渠と言われる大溝には人夫3万人を動員し、σ(^^)の持っている現代語訳の『日本書紀』には、人夫数の前に「むだな」という文字まで付いていました。この度重なる造作に民は疲弊し、時の人の誹りをうけたと言われる斉明天皇。『日本書紀』を見ていると、他の天皇の治世にも池を造ったり橋を架けたりと、様々な土木関係の記事を見ることができますが、ここまで悪く書かれているのは斉明天皇ぐらいじゃないでしょうか。記録とは人が残し、書かれた時代の思想が反映されるものだそうですが、行われた工事が池や橋などのように人々の生活に密着するものではなかったというのが大きいのか?と、思わず色々考えてしまいました。

 ・・・と、書き始めておいてなんですが、第41回定例会で取り上げる飛鳥時代の土木技術は、彼女が造ったとされるものでありません。(^^ゞ
 前号から「両槻会からのお知らせ」に記載している青木先生に頂いた講演概要にもあるとおり、基壇の内部に使われた土木技術を主にお話くださることになっています。また今号には、青木先生が、「第41回定例会を前に」としてご寄稿くださっていますので、もう眼を通して頂けてますよね?(^^)(まだの方は、すぐにリンクを飛んでくださーい!)

 基壇については、σ(^^)も前々回の第39回用咲読 最終話で少し触れました。第39回定例会で取り上げたのは基壇の外装でしたが、本定例会は、その内部構造のお話になります。

 基壇は、瓦葺きの場合沢山の瓦・瓦を乗せる屋根・屋根を支える柱などすべての重みを受け止めることになり、特に堅牢でないといけません。いくら表面を綺麗に覆っても、土台がお粗末では話になりません。基壇外装がファンデーションや頬紅・口紅なんだとしたら、今回取り上げる基壇の中身は、皮膚内部ってことになるのかもしれませんね。この表現で、土台が大事だと感じていただけるのは、女性だけかもしれませんが。(^^ゞ土台作り、頑張りましょうね♪(って、話が違うか(笑))

 頑丈な基壇は、たいてい版築によって築かれています。版築とは、数センチの単位で土を突き固めていくものです。内部構造になりますので、なかなかお目にかかる機会がないのが残念なところです。

 皆さんは、現地説明会で、溝状に深く掘り下げられた地面をご覧になったことはないでしょうか。この縦割りと呼ばれる溝の側面に、版築の痕が見られることもあるんです。σ(^^)が最近見たのは、平城薬師寺の食堂の現地説明会でのことです。「何見てるの?」と同行者に不思議がられたうえに、「やっぱり、食堂クラスの建物だとこんなもんかなぁ~」と発言して、呆れられてしまいました。^^; あれって、版築面じゃなかったのかな?(^^ゞ でもね!溝の側面の部分がさながらバームクーヘンのようになっていて、調査のためにか、説明用にか、うっすら異なる層の境界に線が引かれていることもあるので、少し斜に構えて覗くと、層が見られて楽しいですよ♪ あ、縦割りは、地層確認のためにも掘られるみたいですので、いつも版築断面が見られるわけではないようです。建物跡の現地説明会なら、可能性大ってことですかね。・・・って、そんなところを眺める人は、あまりいないでしょうが。(^^ゞ

 何かここでご紹介できないかと、過去の画像を漁っていて見つけたものがありました。かなり前になりますが、藤原宮の大極殿南門の現地説明会での画像になります。色が違って見えるので版築の層が分かりやすいと思います。
 

藤原宮大極殿南門の版築(2007年9月撮影)

 どうしても現物の版築面を確認したいという奇特な方(笑)は、明日香村の向原寺で公開されている遺構を見学されるのは如何でしょう。実際には、もう少し分かりやすかったと記憶しているんですが、手元には小さい画像しか残っていなくて。豊浦宮の石敷きだとされる上に切り立った状態での豊浦寺講堂の基礎部分である版築面が、確認できたと思います。


豊浦寺下層遺構(向原寺)

 次回の咲読は、事前散策で訪れる予定の史跡をご紹介させていただこうと思います。





【3】 (13.10.18.発行 Vol.172に掲載)     もも

 3回目の咲読では、事前散策で訪れる予定の史跡・遺跡で、σ(^^)が見ておいて欲しいなぁ~と思うところを書いておきます。せっかく現地に行くんだから、体感しないと勿体ないですよね♪

 既にご案内していますが、今回の事前散策には、講師の青木先生もご一緒してくださることになっています。講演だけじゃなく散策でも先生のお話を聞けるなんて、とっても贅沢♪是非楽しみにしていてください♪

 さて、吉備池廃寺が百済大寺の有力な候補地で、大官大寺跡が文武朝の大官大寺だとされているのは、皆さんもよくご存じだと思います。どちらも当時の寺院としては、破格の規模の金堂と塔を持ちます。吉備池廃寺の金堂は、東西約37m・南北約28m、塔は、1辺約32m四方。大官大寺跡は、吉備池廃寺のものよりも大きくて、金堂は東西約53m・南北約28.5m、塔は一辺約35mの基壇に初層が一辺15mにもなるとされています。・・・こんなこと言っても、なかなか大きさって実感しにくいですよね。跡地にも見渡せるような平らな基壇がそのまま残っているわけじゃないし。

 ということで、今の時代どこででも目に出来る駐車場に置き換えてみました。(^^ゞ 一般的な駐車場は1台分に2.5×5mの敷地が必要なんだそうです。単純計算では、吉備池廃寺の金堂と塔の基壇上にはそれぞれ40台近い車が、大官大寺跡に至っては、金堂・塔ともに100台近くの車をずらっと並べることが出来るようです。想像すると結構圧巻です。実際には、駐車場内にも道が必要ですから、こんなに台数は止まらないんですがね。(^^ゞ

 広さよりも分かりにくいのは、高さじゃないでしょうか。今回の講演会では、基壇や塔の高さのお話も出てくると思います。高さって言われても
 ・・・平屋のおうちの軒がだいたい3mぐらいか?と想像するか、見上げるのが精一杯で、上から見下ろすなんてなかなか出来ないんじゃないでしょうか。ですので、今回は事前散策で吉備池の堤に上がったら、西の堤から西方を見てください。遥か二上山を眺めるんではなく、出来るだけ近場を。堤の際に立って下を見て頂くのが良いかと思います。堤の高さは、2~3mほどにはなると思いますので、推定されている吉備池廃寺の塔の基壇の高さに近いものを感じられると思います。

 これだけの広さと高さを版築でこつこつと土を積み上げていく作業がされていたことになります。版築の単位は、だいたい数cmから多くても十数cmと言われますし、ただ土を平らに敷き広げるんじゃなくて、搗いて固めてその厚みにするんだそうですから、気の遠くなるような作業ですよね。^^; 古代ですから当然人力ですし、一日にどれぐらい進んだんでしょう。一人あたりのノルマとかあったのかな?現場監督さんが怖い人だったらいやだな~とか、つい考えてしまいます。

 飛鳥には多くの寺院跡がありますが、農地や宅地とされるときに削られたりして、明確に基壇跡が残っているところは、あまりありません。吉備池廃寺の基壇跡が池の堤に取り込まれているのは、基壇の版築が固くて崩せなかったからだとされていますし、大官大寺では、金堂跡の上に畑が作られています。畑ならわざわざ切り崩す必要もなかったということでしょうか?

 吉備池廃寺と大官大寺跡の二か所の基壇の残りが良いというのは、破格の規模の堂宇を建てるために施された版築が強固なものだったということになるんでしょうか?吉備池廃寺が百済大寺だとしたら、やはり官の大寺は、基礎工事から意気込みが違うんでしょうか?この辺りのお話は、当日の青木先生のお話にしっかり耳を傾けないと!と、気持ちを新たにする もも です。
 ただ、吉備池廃寺は完成していなかったと言われています。あまりに堂塔が大きすぎて当時の技術が追い付かなかったのか、それとも造営者側の都合だったのか、この辺りも気になるんですがね。(^^ゞ

 版築の技術は、寺院造営の技術として伝えられたと考えられるんだそうですが、寺の造営以外にも使われました。
 それが今回吉備池廃寺の後に向かう磐余池か?と言われているところになります。発掘調査で確認された堤は、6世紀後半以前に構築されてから7世紀末までに数度改修が行われたようで、検出された遺構の中に7世紀末頃(藤原京期)の版築遺構があります。それまでの堤は、ただの盛り土で築かれていたようですから、版築の技術が伝わる以前以後の技術の差が表れていると言えるんじゃないでしょうか。

 さて、最後に立ち寄る奥山廃寺は、廃寺ですから往時の名はわかりません。ので、造営者は勿論発願理由なんかも全く不明、まさしく謎の寺です。ここは、先に訪れる吉備池廃寺や大官大寺に比べると金堂や塔の大きさも小さくなります。が、造営された時期を考えると・・・ちょっと面白いんですよね。

 吉備池廃寺を百済大寺だと考えれば、こちらは639年。大官大寺は文武朝ですからこちらは8世紀。そして奥山廃寺は、瓦の年代観からは7世紀前半、たぶん吉備池廃寺よりも先行すると考えられます。破格の規模の金堂や塔を持つ吉備池廃寺より前に造営された寺院の中では、この奥山廃寺の金堂が一番の大きさになるんだそうです。残念ながら、金堂跡は奥山久米寺の本堂と重複しているので、現在確認することはできないんですが。

 基壇を構築している版築や掘り込み地業と言われる地盤工事の様子などは、先に訪れる予定の吉備池廃寺や大官大寺ともども、講師の青木先生のお話に耳をダンボにして頂く以外にはないのですが、現地に立って、大きさや高さなどを少しでも体感するのとしないのとでは、理解度も違うと思うのです。だから、両槻会では講演会前の事前散策を出来るだけ行いたいと思っています。

 土木技術がテーマだと、有名な歴史上の人物は登場しない・・・そんなことはありません。古代に寺を造り、池を掘り、道を通したのは、歴代の天皇であり力を持った氏族であったはずです。一般民衆には、そんなこと出来ませんもんね。

 今、この目に出来るものから如何に想像を膨らませられるか。なかなか目にする機会のない土木技術の粋を少しでも感じることが出来たら、感じていただければ、そして飛鳥へ思いを馳せる縁の一つに加えていただけたらと思います。飛鳥は「見るべきものは何もない」わけでは決してなくて、「見て感じてそこから思うこと」が大事なんだとσ(^^)は思うのです。(^^)






【4】 (13.11.1.発行 Vol.173に掲載)    もも

 いよいよ明日が定例会当日。さて、第41回定例会の咲読も今回で最終回になります。前回の咲読で、事前散策で訪れる史跡のご案内をざっとさせていただきましたが、他にも飛鳥で版築の技術が使用されている場所がありますので、そちらをご紹介したいと思います。

 まずひとつ目は、飛鳥好きなら何方でもご存じの高松塚古墳。ここは、石室の解体作業が行われて墳丘も詳細に調査されましたから、版築層が出ていることもかなり有名だと思います。古墳は、寺とは違って上に重たいものを乗せるわけでもなく、墳丘の中に埋葬のための石室が埋められればそれでいいんですから、版築なんて面倒なことをしなくても良いように思うんですが、大事なものを埋める「お山」は、頑丈であった方が良いってことなんでしょうね。

 高松塚古墳では、3層の固さの異なる版築が確認されているそうです。で、石室に一番近いところが一番固く造られているんだそうです。上の版築の二倍の強度。やっぱり、埋葬施設である石室は大事ってことなんでしょうね。当然、墳丘の版築ですから、寺院の基壇のように平らじゃないんですよね。微妙に山なりになってる。まさにバームクーヘンのように。(笑)均一に平らに築くのも難しいでしょうけど、丘上に傾斜を付けつつ築いていくのもかなりの技術がいるように思うんです。

 古墳の築造年代なんていうものにも、トンと興味のないσ(^^)ですが(笑)、高松塚古墳は、7世紀末から8世紀初頭ぐらいの築造だと考えられているようです。造寺の際に伝わった技術も約一世紀の間に進化したのかもしれません。・・・ということは、それ以前の古墳は、ただの盛り土だったんでしょうか?崩れてこなかったんだろうか?と、ふと疑問に思ったりもします。高松塚古墳の版築のお話は、青木先生が講演でお話くださると思いますので、楽しみにしていてください。きっと、あなたも版築に興味を持つと思いますよ♪

 さて、二つ目の版築遺跡は、酒船石遺跡。あの謎の石造物酒船石のあるところです。亀型石造物を含めて丘陵全体まとめてこう呼ぶんだそうです。亀型石造物から酒船石へと登る途中に天理砂岩の石垣が二段ほど残っています。これが、この丘陵を取り巻いていた石垣の残りになります。

 そう、『日本書紀』斉明天皇2年(656)に、「天皇は造営工事を好まれ、水工に命じて香山の西から石上山まで水路を掘らせ、舟二百隻に石上山の石を積み、流れに沿ってそれを引き、宮の東の山に石を重ねて垣とされた。」と書かれている「宮の東の山の垣」ではないかと言われているものです。

 天理砂岩が石垣に利用されたことは、皆さんもご存じだと思いますが、この石垣を築くために版築が使われていたことをご存じの方は少ないかもしれませんね。

 石垣を築くために、まず、地山をドバっと削りとってから、版築がコツコツと積み上げられていったようです。一番凄いところでは、高さ4.5mもの版築層が確認できているんだそうです。この高さ、寺院の基壇を優に超えますよね。

 そして、ここからが勿体ないと言うか、せっかく築いた版築をごそっと削り取っているんです。(>_<) 場所は、石垣の裏側に当たる部分(丘側)。1.5mほどをテラス状にして、砂岩のブロックを積み上げていく足場兼作業場にしたようなんです。高さのあるものを造るために、別に足場を組むよりは、安全で楽だってことなんでしょうか?
 そしてそして、版築された上面には、寺院の礎石さながらに、大きな飛鳥石が基礎石としておかれたそうです。

 版築の話からは、少し逸れますが、この砂岩を積み上げていく過程を講演会で聞いたときは、本当に楽しかったです♪

 砂岩のブロックは、一個ずつ削って微調整がされて、一段毎に裏込めの土を施していったんだそうです。ちなみに、裏込めの土は、版築ほど強固なものではなかったようですが、発掘調査時には、この裏込め土にもブロック一段分の層がシマシマになって見えたんだそうです。シマシマの原因は、砂岩の粒。これが、現場で微調整されながら一段ずつ積まれていった過程を物語っているんだそうです。土の上に胡坐をかいて、せっせとブロックを削っている幾人もの工人の姿が浮かんで来るように思います。

 この丘陵を取り巻く石垣は、遺構に残る地震の痕跡などから7世紀中頃には存在したんではないかと考えられるようです。

 こんな風に、寺院造営の技術の一つとして伝えられた版築は、様々に形を変え飛鳥のあちらこちらで利用されたようです。技術の一人歩きとでもいいましょうか。飛鳥での版築遺構は、探せばまだまだあるかもしれませんね。(^^) 

 たかが土、されど土。本定例会をきっかけに古代の土木技術にも興味を持って下されば嬉しいです♪明日は、皆さんと楽しい1日を過ごしたいと思います。(^^)







遊訪文庫TOPへ戻る  両槻会TOPへ戻る