飛鳥咲読
第42回定例会
飛鳥寺西をめぐる諸問題
Vol.174(13.11.15.発行)~Vol.180(14.1.24.発行)に掲載
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【1】 (13.11.15.発行 Vol.174に掲載) 風人
今号から、第42回定例会「飛鳥寺西をめぐる諸問題」の咲読を始めたいと思います。担当は、風人が務めさせていただきます。実施日が来年2月1日(土)になりますので、6回の連載になりますが、その内の1~2回程度は事務局から代打が出るかも知れません。それもまた、楽しみにしていただければと思います。
さて、次回定例会は、明日香村教育委員会の相原嘉之先生をお招きしての講演会になります。両槻会定例会では3度目のご登壇となりますし、藤原京を巡る定例回にもサポートをしてくださいましたので、皆さんにもお馴染みの先生だと思います。また、飛鳥の遺跡を一番ご覧になっている先生ですので、どうぞご期待をしていただければと思います。
では、講演タイトルの「飛鳥寺西をめぐる諸問題」についての話から始めましょう。「飛鳥寺の西」とは、何処を指しているのでしょうか。
我国で最も古い本格的な寺院「飛鳥寺」は、ここで説明をする必要はないと思います。また、その西側には「槻樹の広場」と呼ばれる地域があったのも、飛鳥遊訪マガジンの読者の皆さんならご存知だと思います。現在も「飛鳥寺西方遺跡」として発掘調査が続いており(前回の西側)、定例会までには、その新しい成果が発表されることでしょう。
しかし、次回定例会で取り上げるのは、この「飛鳥寺西方遺跡」と呼ばれる遺跡だけではありません。その北に続く「水落遺跡」、さらに「石神遺跡」、そして飛鳥寺の北に位置する「石神遺跡東地区」を含めた広範囲な遺跡群を取り上げることになります。
参考マップ
(クリックで拡大します。) |
これらの地域について、第40回定例会(9月)の説明では、それぞれの遺跡の代表する遺構や遺物だけではなく、それに前後する時期にも遺構が存在することを学びました。例えば、石神遺跡には、大きな区分として3時期の遺構が存在することを紹介し、斉明天皇の饗宴施設より古い時期の瓦が多数出土していること、その瓦が奥山廃寺式の瓦であることをお伝えしました。また、前回定例会では、青木敬先生からも教えていただきましたね。石神遺跡というと、斉明天皇の饗宴施設であったとされますが、それを遡る時期にも瓦を使った建物が存在したことが分かりました。瓦を使った建物というと、この時期には寺院であったとするのが一般的ですが、果たしてその性格付けは・・・。続きは、追々と。(^^ゞ
では、水落遺跡はどうでしょうか。水落遺跡というと、漏刻が設置された水時計の遺構だけが知られているのですが、その前後にも庇を持つ大きな規模の掘立柱建物が存在していました。これらの建物は、どのような性格の施設だったのでしょうか。水時計だけがクローズアップされるので、私は、それ以前、それ以後のこの地の利用を考えたことがありませんでした。しかし、この地は飛鳥でも一等地です。飛鳥寺の北西に位置し、幹線道路の山田道にも近い位置です。このような土地が、捨て置かれた空白地であるわけがありませんね。
また、槻樹の広場は、ずっと石敷きの広場だったのでしょうか。『日本書紀』を読むと、その性格付けは折々に変化しているように読めます。では、具体的にはどのような変化が見えるのでしょうか。それも、追々と書いて行きたいと思います。
さて、如何でしょうか。飛鳥地域の中でも一般的に知られた遺跡が中心になりますが、ガイドブックには載っていない面白さが満載であることに気付いていただけたでしょうか。
そして、次号咲読の予告として小出しにしておきますが、未だ発見されていない推古朝の山田道は何処を通っていたのでしょう。それを読み解くことによって解明されるであろう、飛鳥最大の謎「小墾田宮」の所在地が判明するのでしょうか。
次回定例会は、講師の相原嘉之先生の表現をお借りするなら、「天下の中心」を考える回になります。ご期待ください♪
【2】 (13.11.29.発行 Vol.175に掲載) 風人
第42回定例会に向けての咲読の2回目です。今回は、山田道の話を書いてみようと思います。
「山田道」と書くと、マニアな方には「間違いだ!」「阿倍山田道や!」とお叱りを受けそうですが、実は私は「山田道」が良いのではないかと思っているのです。その話は、いずれまた。
古道「山田道」は、現在、桜井市阿部付近と橿原市大軽町丈六交差点を結び、飛鳥資料館の門前を通過する県道15号線に、また西部では県道124号線にほぼ合致すると考えられています。
現在、発掘調査によって確認されている古道「山田道」は、2ヶ所あります。それは、桜井市にある安倍寺跡の東側と石神遺跡の第19次調査区です。両調査で検出された道路遺構は、想定される古道「山田道」のルートに沿った場所から発見されています。しかし、この2つの道路遺構は、出土した土器の編年などから時期が異なっているとされました。
安倍寺跡東側の遺構時期は7世紀前半だとされ、石神遺跡北方に位置する第19次調査区は7世紀中頃を下らないとされました。
石神遺跡の北東、現在の県道15号線明日香村奥山の交差点西では、7世紀前半の掘立柱建物が検出されています。つまり、7世紀の前半には現在の道路下層に古道「山田道」は存在していなかったことになります。
7世紀中頃、石神遺跡は最も活発な利用が窺える時期になります。皆さんもご存じのように、斉明朝の饗宴施設が造られ、水落遺跡では漏刻が時を刻み始めました。
一方、石神遺跡の北側「山田道」付近は、湿地であったことが分かっています。道路を通すには、大規模な造成が必要になります。また、高度な土木技術の導入や絶え間ない水との戦いを覚悟しなければならなかったことでしょう。この時期に、それらの用件が整ってきたのかも知れません。「新山田道」の施工が開始され、より直線的な道路へと付け替えられたのではないでしょうか。
では、それ以前の「山田道」は、石神遺跡北方の湿地を避けるように迂回していたと思われますが、何処を通っていたのでしょうか。それを考えるのが、第42回定例会を更に面白くする重要なポイントになりそうです。
推古天皇は、593年に豊浦宮で即位されますが、後に正宮として「小墾田宮」が造営され、推古11年(603)に遷宮が行われました。
相原先生による小墾田宮構造図 |
詳しくは、あい坊先生のご寄稿を参照してください。
「推古朝の宮殿をめぐる諸問題・小墾田宮の構造」
ここでは詳しくは触れませんが、「小墾田宮」は南に門を持っていて、正方位を採っていることに注目したいと思います。南門は、大きな幹線道路に向いていたのではないか、諸外国の使節は「古山田道」を宮に向かい、南門から宮内(朝庭)へと進んだのではないかと考えられます。
相原先生が「古山田道」と呼ばれる推古天皇の時代の「山田道」ルートが、小墾田宮の所在地に大きく関わっていることが分かってきましたね。
では、「古山田道」のルートを考えてみましょう。
新旧山田道図
クリックで拡大します。 |
図を参照してください。緑の点線が「新山田道」です。ピンク色の点線が「古山田道」を示しています。上図では、「古山田道」の東で「新山田道」ルートと合流する地点を幾つかの候補を上げて併記しています。第42回定例会の事前散策では、最も東側の推定ルートを歩いてみようと思います。そして、幾つかのルートを紹介して、参加の皆さんにも一緒に考えていただければと思っています。
「古山田道」の中央部分は、現在も道路として残っているのですが、飛鳥寺の北面大垣の北側に沿っています。この道の北側には、細長い田んぼが連なっていて、ひょっとすると現在の道の南端と田んぼの北端は、「古山田道」の道路幅を示しているのかも知れません。それを東に向かうと、道が鍵の手にズレた四つ角になりますが、ズレた分と細長い田んぼの幅は同じ程度のように思えます。この辺りは、実際に参加していただいて、見ていただければと思います。
古山田道石神東地区付近(東から) |
しかし、「古山田道」の推定ルートには、他にも「新山田道」の北方に在ったのではないかとする説も有ります。その説では、奥山廃寺の西方に小墾田宮を求めるのですが、こちらにも説得力のある考え方が示されています。
私達には、一概にどちらとも言えないのですが、相原先生の「古山田道」に面する「小墾田宮石神東地区」説を、今回は注目して勉強を進めることにしましょう。
小墾田宮の推定地には、上の二つの候補地の他に豊浦にある古宮土壇周辺説や雷丘東麓遺跡などが知られているのですが、次号では、ちょっと変わった説をご紹介したいと思っています。郷土愛に燃える“らいちさん”が、紹介してくれますので、お楽しみにしてください。
【3】 (13.12.13.発行 Vol.176に掲載) らいちさん
今回の咲読は『小墾田宮・大福説』について書きます。両槻会をご贔屓にしていただいている皆様には、最新の発掘調査結果などで、小墾田宮は雷の丘の東側という説が有力視されているのはよくご存じのことと思います。雷の丘の東側のさらにどこなのか、(新)阿倍山田道の北なのか南なのか、石神遺跡の東なのか、石神遺跡そのものなのか、が諸説分かれるところで、(古)阿倍山田道がどこを通っていたのかをも含め、そのあたりが今回の定例会のテーマにもなりそうです。ここに『大福説』なんて持ち出してくると、何を今さらとあきれられそうですが、「小墾田宮―おはりだのみや―」がどこにあったのかというのは、長い間古代史の謎で、これまでいろんな論争が繰り広げられてきました。少し前までは豊浦の古宮土壇だとするのが定説だった、ということはご存じだと思います。もっと前には、「飛鳥の岡説」や「桜井の大福説」があり、また、「小墾田」はもっと広い場所を指していて、その中に飛鳥全体が含まれるとする説もあったそうです。
『小墾田宮・大福説』というのは、桜井市大福にある三十八柱神社の宮司であった石井繁男氏が提唱し、「小墾田の宮とその大福説」という本にまとめられました。発行は昭和61年です。今ではあまり知られることもなくなり、石井氏もすでに故人となられています。このまま、この説が埋もれていってしまうのは桜井市民としてちょっと残念な気がします。この機会に、いったいどういう説だったのかということを飛鳥好きの皆さんに知っていただきたいと思います。定例会の事前勉強としての咲読みというよりも、番外編くらいの気持ちで軽く読んでいただければと思います。
日本書紀の推古天皇21年(613)11月条に「自難波至京置大道」とあります。これは「難波から京に至る大道を置く」と読まれ、大道は横大路と考えられています。その年から数えて、今年は1400年という記念の年になるということで、「大道」がずいぶんクローズアップされています。この「京に至る」の「京」とはどこのことでしょう。書紀によれば、推古天皇は豊浦宮で即位してのち、11年(603)10月に小墾田宮に遷ったとあります。「難波から小墾田宮までの道」を敷設したということになりますが、横大路の沿道に飛鳥はありませんね。横大路の東の端といわれている小西橋から南へ阿倍山田道を通って雷の丘まで4~5kmあります。「難波から京に至る大道」という言葉からはもっとストレートな道をイメージしませんか?『大福説』による小墾田宮の場所は桜井市大福にある三十八柱神社です。横大路から北へ700m、上つ道と中つ道のちょうど中間あたりに位置し、すぐ北には寺川が流れています。推古16年に小野妹子が連れてきた随使裴世清を飾騎75頭で出迎えたという海石榴市や、敏達天皇の訳語田幸玉宮からも至近の距離にあります。
石井氏は三十八柱神社の宮司の家に生まれ、伝承として幼い頃から「大福の氏神様は、昔、推古天皇・聖徳太子が都せられた小墾田の宮の地である」と聞かされていたそうです。定年退職後にこのことを研究しようと思い立ち、あらゆる文献を読んで丹念に検証され、やはり小墾田宮の地は大福にあったと確信したと自著に書かれています。
その根拠の主なものに、「聖徳太子伝暦」の記述があります。ちょっと話がややこしくなるのですが、文安5年(1448)に法隆寺の大僧正訓海という人が書いた「太子伝玉林抄」の中で、「聖徳太子伝暦(917年藤原兼輔著)」の裏書や注記に次のような記載があると書かれているそうです。「大仏供」とは桜井市大福の古名です。
裏書云・・・今小墾田者河井ノ里ノ西大和河ノ南辺ニアリト云フ。
注云・・・ 小墾田宮者当時大仏供ト云フ里ニ、ヲハル田宮トテ小社アリ、其レ宮所也云々
ただ、どちらも原本は今に伝わっておらず、訓海の弟子の尊英という人が書き写した物が「玉林抄尊英本」として法隆寺に伝わっています。が、この本も長く秘蔵本とされていて一般には読むことの出来ない書物でした。
それでも、その秘蔵本を読むことの出来た学者もいたらしく、林宗甫は延宝9年(1681)に書いた「大和名所記(和州旧蹟幽考)」のなかで「玉林抄伝、大仏供の里という所に小治田宮とて小社あり、それ宮所なり今に是在りと云々、今たずねしに、大仏供の里は、桜井村の町のいぬいにあり、十市郡なるべし・・・」と、玉林抄の中に大福説のあることを伝えています。また、本居宣長も古事記伝の小墾田宮についての記載で、「・・・小治田宮は今の雷土村・飛鳥村・岡村・坂田村などのあたりの地にぞありけむ。又、或説に十市郡の大福村其地なりと云るは違へり。」と否定しながらも大福説の存在はみとめています。
貝原益軒の「大和めぐり記(和州巡覧記)―元禄9年(1696)」の中で「大仏供村は大なる邑なり。推古天皇の都小治田宮の所也。・・・」とあることからも、少なくとも江戸時代の終わり頃までは「大福説」は通説として知られていたことがわかります。
また、三十八柱神社の由緒記に「奉迂宮小治田宮五穀豊穣氏子安全 享保三戊戌年八月二十三日 祭主 大神朝臣富房 代勤土屋左近」と書かれた棟札があることを伝えていることや、本殿の御神鏡の銘に「奉納大春田(オハル田)大明神 安政五年八月二十五日 施主大坂住人、取次当村村島弥平次」と記されていることから、玉林抄のいう「大仏供の里の小社」とは三十八柱神社のことであるとされています。社名については、幕末から明治維新にかけて神社祭神の明確化が重視されるにおよび、小墾田宮の名を三十八柱神社に改めたという経緯が記録にあるそうです。
文献以外にも地理的な根拠や、神社付近の字名に「ミカド・トネリ・ミヤノマエ」や「コンドウ・コノンドウ・シモンドウ」「ショウコンデン」など宮都や寺院を思わせる名があることなどをあげられています。昭和60年当時通説とされていた豊浦説はじめ諸説についても丹念な検証を述べながら否定し大福説を立証されています。その全部をここで紹介するわけにはいきませんので、もし興味を持たれたら桜井市立図書館にありますので読んでみてください。(「小墾田の宮とその大福説」石井繁男著)
石井氏のこの説を支持した人に梅原猛氏がいます。聖徳太子伝記を執筆中の梅原氏が、当時通説だった小墾田・豊浦説に疑問を持ち、思案しているときに石井氏の論文を読んで、大福の地を訪れ石井氏の説明を受け、小墾田宮が大福の地なら全てのつじつまが合うと思われたそうです。それは梅原氏の著書「聖徳太子Ⅱ憲法十七条」に詳しく書かれています。
隣接する大福遺跡は銅鐸が出土したことで有名ですが、弥生時代だけでなく古墳時代や藤原京の時代の遺物も見つかっています。飛鳥時代の建物跡でも出て、なにか発掘による考古的な立証があればもっと面白いと思うのですが・・・、神社の下を調査されることがもしあれば、また、何か新しい発見があるかも知れませんね。
近鉄大福駅から北へ向かい、ちょっと幅の広い車道を越えた所に交番があります。そのあたりから北東を見るとこんもりした小さな森が見えます。そこが大福の氏神である三十八柱神社です。すぐ東隣は桜井市立西中学校のグラウンドで、駅からは歩いて20分ほどでしょうか。樹齢を重ねたケヤキなどの巨木が何本か立ち、本殿にむかって左には梅原猛氏の揮毫による「小墾田宮伝承之地」と書かれた立派な碑が建っています。右手前には、大伴坂上郎女の万葉歌碑が建っていて、その向こうには悠然とした三輪山が望めます。
三十八柱神社境内の碑 |
横大路ハイキングのついでにでも、足を伸ばして訪ねてみてください。ここに小墾田宮があったらちょっと面白いかも、なんて思っていただけるかもしれません。
【4】 (13.12.27.発行 Vol.177に掲載) 風人
今年最後の咲読です。第42回定例会に向けては、4回目になりました。前号では、小墾田宮大福説の紹介をしました。トンデモ説と思われがちなのですが、小墾田宮かどうかは別にして、何か公的な重要施設が在ったと考えてみるのも面白いかもしれませんね。
さて、今号は、石神遺跡と水落遺跡をテーマに書いてみました。今回の定例会では、配布資料とパワーポイント資料用に石神遺跡付近の時期変遷図を作成しています。4期に分けて描いているのですが、それらは「推古・舒明朝」、「皇極・孝徳朝」、「斉明・天智朝」、「天智・天武朝」の4つの区分になります。当然のことながら、時期区分やイラスト遺構図は相原嘉之先生のご指導の下に作成しています。
図面の作成途中で思ったことは、この地域が実にダイナミックに変化しているということです。また、変化しながらも重要性という意味では、少しも変わらない地域であることが分かってきました。これまでの定例会での説明では、奈良文化財研究所の見解に基づいて、石神遺跡をA・B・Cの3期に分けて見てきました。
A期は、斉明天皇の饗宴施設とされる建物群や石敷遺構を含み、7世紀前半から中頃と考えられる時期です。B期は7世紀の後半にあたり、天武天皇の時代に相当します。C期は、藤原宮に遷都された後の時期とされ、7世紀末に始まる時期区分になります。これらの3時期は、さらに細分して考えられてきたのですが、今回の定例会では、いわゆるA期を3つの時期区分に分けて見ていくことになります。「推古・舒明朝」、「皇極・孝徳朝」、「斉明・天智朝」の3区分です。
これまでは、「A期とされる遺構は、大規模な長廊状の建物や四面庇建物・方形池・井戸・石組溝などで、一連の施設としてまとまった形で配置されていました。これらは斉明朝の饗宴施設と考えるのが有力とされており、須弥山石や石人像もこの時期のものであるとされています。」と言うような説明をしてきました。また、「これらの施設群に先行する、瓦を伴った施設の存在が推測されている」ことなども、お伝えしてきたと思います。
石神遺跡全体からは相当数の瓦が出土しており、下層には寺院か仏教関連施設が存在したのではないかと推測されてきました。しかし、それにしては瓦の出土総数が少ないようにも思われます。寺院には膨大な瓦が葺かれますので、伽藍を伴うような寺院の可能性より、一堂宇、あるいは仏教関連以外の建物を考えることも出来るかも知れません。
石神遺跡から出土する瓦は、奥山廃寺式と呼ばれる瓦(角端点珠の素弁八弁蓮華文軒丸瓦)です。飛鳥寺に用いられた星組の後継と考えられる素弁の瓦ですので、「推古・舒明朝」の時期区分に入ることになります。この時期に、飛鳥寺北方に別の寺院が有ったことは『日本書紀』には書かれておらず、文献からそれを裏付けることは出来ません。
では、この瓦は、何を示しているのでしょうか。第42回定例会では、 相原先生が新たな謎解きをしてくださるようです。
是非、講演を聴講してください。咲読は、講演の予習や、皆さんに興味を持っていただくことを目的に書いていますので、ここでは結論は省きたいと思います。定例会終了後の資料やレポートには掲載しますので、ご参加いただけない皆さんには、申し訳ありませんがお待ちいただきます。
次は、水落遺跡を見てみましょう。ここまでは、石神遺跡が興味深い遺跡であり、その下層には未知の遺構が眠っている可能性を書いてきました。では、隣接する水落遺跡はどうでしょうか。
水落遺跡は、あまりにも漏刻が注目されるため、その前後の遺構に着目 することは少なかったように思います。しかし、古山田道に面した飛鳥の 一等地が、他の時期区分に空白地であったわけがありません。
漏刻は、『日本書紀』によると近江遷都に伴って大津宮に移されたようにも読めますが、石神遺跡から出た火災の延焼により焼失した可能性もあるようです。ともかく、漏刻の存在した期間は、実は短かったことになります。漏刻の無くなった水落遺跡には、何が在ったのでしょうか。また、それ以前はどのような施設が在ったのでしょうか。
今回の時期区分でいうと「天智・天武朝」には、2期に分かれるようですが、四面庇の建物を中心にした掘立柱建物数棟が検出されています。また、『推古・舒明朝』には、やや南(少し東より)に四面に庇を持つ建物や掘立柱建物・塀などが検出されています。これらは、どのような性格の建物なのでしょうか。
四面に庇を持つ建物は、それを含む建物群の中心的な建物だと考えられますので、重要な役割を持つことは確実です。飛鳥において、未だ所在の不明な重要施設を当て嵌めてみると面白い推理が出来るかも知れませんね。皇子の諸宮・飛鳥川辺行宮・留守司・飛鳥浄御原宮の北方官衙群など、皆さんはどのような場所にそれらを求められるでしょうか。相原先生のご考察がどのようなものであるのか、とても興味を覚えます。
さて、次回は、飛鳥時代の「飛鳥」の範囲を考えてみたいと思います。それが、今回の定例会のテーマを考える重要な要素になってくるのではないかと考えるからです。次回咲読は、来年になります。良い年をお迎えください。
【5】 (14.1.10.発行 Vol.179に掲載)
今号は、飛鳥の地理的な範囲を考えてみようと思います。両槻会では、一番広い意味での「飛鳥」をキーワードに定例会の企画を作ってきました。地域的には、橿原市、桜井市、高取町を含めた地域を主な活動の範囲としています。では、一番狭い意味、つまり飛鳥時代に実際に「飛鳥」と呼ばれた地域は、どこを指しているのかを考えてみたいと思います。
それを考えるには、『日本書紀』に記された諸宮の名前が重要なヒントになるのではないかと思います。「飛鳥」が付く宮名には、飛鳥岡本宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮、飛鳥浄御原宮があります。一方、小墾田宮、豊浦宮、川原宮などには、「飛鳥」は付けられていません。このことから考えると、「飛鳥」はどうやら現地名としては明日香村大字飛鳥と大字岡に限られるように思われます。また、これらは、飛鳥川の右岸に位置していることにも気づきます。
地域の境界になるのは、川であったり大きな道路であったりする様相は、現在も飛鳥時代も変わりはないのかも知れません。小墾田宮の推定所在地各説は、いずれも古山田道北方域が推定されていることも、それを裏付けているように思います。古山田道は、「飛鳥」と「小墾田」を分けていたのでしょう。
前回の咲読でも書きましたが、小墾田宮は大きな道路に面して造営されていたと考えられます。その大きな道路が古山田道であったと考えると、小墾田宮の推定地が目に浮かんできます。事務局では、とある土壇に注目しているのですが、事前散策で指し示してみたいと思っています。お楽しみに! この妄想には、相原先生は関わっておられません。あくまでも事務局の勝手な妄想ですので、お断りをしておきます。(^^ゞ
さて、一つ付け加えておかねばならない事柄があります。両槻会定例会でも3度ばかり訪ねているのですが、稲渕宮殿跡遺跡を思い出してください。一般的には、ここは7世紀中頃の宮殿遺跡だと考えられており、『日本書紀』孝徳天皇紀に記された「倭飛鳥河辺行宮」ではないかとされています。
白雉3年(652)9月、難波長柄豊碕宮が完成しますが、その翌年 (653)、中大兄皇子は「倭京に移りたい」と天皇に奏上しました。しかし、天皇は許可されませんでした。皇太子は、皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを従えて倭飛鳥河辺行宮に移り、公卿大夫や百官なども皇太子に付き従ったとされています。この倭飛鳥河辺行宮の有力な候補地とされるのが、稲渕宮殿跡遺跡なのです。稲渕宮殿跡遺跡は、4棟のコの字型に配された建物跡とそれに囲まれるような広い石敷が確認されており、一般の建物ではなく宮殿クラスの建物跡であると考えられました。
しかし、これまでの定例会では「ここは狭義の“飛鳥”ではないと考えます。」とコメントを付け加えてきました。飛鳥河辺行宮の比定地には、川原寺の下層とする説もあるようですが、川原も狭義の飛鳥ではありません。飛鳥は、大字飛鳥と大字岡の範囲に推定されますので、その内側に候補地を求めなければならないと思われます。これまでの咲読と合わせて考えると、なにやら推測出来そうなところまでやってきましたね。是非、只今作成中の石神遺跡・水落遺跡の時期変遷図をご覧いただき、飛鳥河辺行宮の候補になる建物群を確認いただき、飛鳥の中心であったこの周辺の地域に思いを馳せていただければと思います。
次号は、第42回定例会に向けての咲読の最終回になります。今回は、6回の連載となったのですが、最後は、そのまとめの記事を書きたいと思います。
【6】 (14.1.24.発行 Vol.180に掲載) 風人
第42回に向けての咲読も、今回が最終回になりました。6回の長期連載になりましたが、読み続けていただいた皆さん、ありがとうございました。是非、定例会に足を運んでください。お待ちしております。
さて、今回の定例会では、飛鳥寺の西から北にかけての地域に焦点を当て、相原先生にじっくりとお話をいただきます。その地域には、飛鳥寺西方遺跡、水落遺跡、石神遺跡、石神遺跡東方地区が存在しています。それぞれに興味深い遺跡であることは、前回までに紹介してきました。そして、それらは今尚調査が進められ、あるいは今後の調査に期待が高まっている場所でもあります。
昨年12月には、飛鳥寺西方遺跡発掘調査の現地説明会が行われ、最新の成果の発表に多くの方が詰めかけました。マスコミ報道にも、「壬申の乱の軍営」や「留守司」などの文字が目につきましたね。調査区からは、石組溝、石敷遺構、また柱穴列が検出されました。柱穴列は、槻樹の広場では初めての建造物の発見になります。未だその性格は特定できないようですが、今後の調査が益々注目されます。講演会では、最新の発掘状況も、相原先生から詳しく教えていただけるものと思います。
咲読を読み続けていただいた皆さんには、この地域に従来から指摘されている迎賓館や水時計が存在するだけではなく、他に留守司、飛鳥川辺行宮、そして小墾田宮、あるいは小墾田兵庫などが存在した可能性が見え始めているのではないでしょうか。
これらは、激動の飛鳥時代を象徴する施設であり、その背景に想いを馳せる時、この時代を生きた人々の心ときめくドラマを感じ取ることが出来るように思います。σ(^^)は講演会の内容を知った日から、土器土器惑々(笑)が止まりません。(^^ゞ
私がいくら書いても、説得力のある説明は出来ません。是非、講演を直接お聞きいただき、飛鳥のど真ん中の様子を一緒に考えてみましょう!
また、事前散策では、定例会のキーワードの一つになる山田道をテーマにしようと思います。豊浦寺付近からは古山田道をたどり、上記の遺跡との位置関係を把握したいと思います。また、古山田道のコースを皆さんと一緒に考えてみたいと思っています。飛鳥好きの皆さんなら後半の一部を除いて既に何度か歩かれているコースですが、今回は説明を聞いていただくと言うより、講演テーマに沿った土地勘を持っていただくことに重点を置いたウォーキングにしたいと思います。地形や川の流れ、土地の段差や起伏などを、講演を聴きながら頭に描いていただけるように企画しました。
古山田道の東部では、竹田遺跡で足を止めたいと思っています。ここは、明日香村教委が発掘調査を行っており、飛鳥時代の掘立柱建物が数棟検出されています。中心となる建物は見つかっていないのですが、村教委は天武天皇の皇子である新田部皇子の邸宅ではないかと推測しています。遺跡の直ぐ南には今回「古山田道」と呼ぶ道路が走っているのですが、この道路はそのまま東へと進むと、八釣集落を経て桜井市山田または高家方面へと続いています。
この道路は、小字「竹田道ヨリ北」などの地名が残ることから、「竹田
道」と呼ばれていたようです。道路名は山田道ではありませんが、古い道
路の存在を示すものだと思われます。遺跡は、「八釣」という集落名と共
に立地から新田部皇子の邸宅跡だと推測されました。
事前散策では、この道路に沿って更に東進しようと思っています。八釣という集落を抜けるのですが、途中「弘計神社」に立ち寄ります。皆さんは、「をけ」と読むこの神社をご存じでしょうか。顕宗天皇の異名は弘計(をけ)皇子というのですが、その顕宗天皇(第23代)の近飛鳥八釣宮の跡だとする伝承がこの神社にはあります。『日本書紀』顕宗元年条に「ただちに、公卿百寮を近飛鳥八釣宮に召して、天皇の位にお即になった。」とあり、 また、3年の条には「天皇は八釣宮でお崩れになった。」と記しています。一方、『古事記』には、単に「近飛鳥宮」と書かれており、大阪府羽曳野市飛鳥に所在するとも考えられますが、残念ながらどちらにしても明確な根拠はありません。
さらに東に進んで行くと桜井市高家と山田への分岐点に出るのですが、それを北進すると山田寺跡の南に出ることが出来ます。
古山田道は、ここまでの間の何処かで山田道と合流するようにカーブを描くと思われるのですが、実際に意識を持って歩いてみると何らかの道路痕跡の発見があるかも知れませんね。楽しみです。
では、今回の咲読は、ここで終了します。来週末、皆さんにお会い出来るのを楽しみにしています。長い連載にお付き合いをいただき、ありがとうございました。
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