飛鳥咲読
第47回定例会
飛鳥ビューポイントウォーク
Vol.197(14.9.19.発行)~Vol.201(14.11.14.発行)に掲載
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【1】 (14.9.19.発行 Vol.197に掲載) 風人
今号より、第47回定例会の咲読を始めます。5回の連載を予定しています。担当は風人が務めますので、よろしくお付き合いください。
第47回定例会は、「飛鳥ビューポイントウォーク-飛鳥資料館写真コンテスト上位入賞者の撮影ポイントを巡る-」と題したウォーキングを計画しています。知られざる飛鳥のビューポイントを、皆さんと巡り歩ければと企画した定例会です。
飛鳥資料館が主催し、両槻会が協賛しています写真コンテストは、今夏5回目のコンテストを終え、6回目の予定発表が行われています。今では、飛鳥の恒例行事になってきました。今回の定例会では、その優れたカメラアイで私たちの知らない飛鳥の魅力を切り取られた作品の中から、特に個人では行きにくい場所を中心にコースを設定しています。そこに、両槻会らしく歴史・考古の味付けをして、楽しい一日にしたいと思っています。
飛鳥資料館HPの写真コンテストのページには、過去の入賞者の作品が掲載されていますので、参加申し込みに際して、ご覧いただければ良いかと思っています。
11月実施のこのウォーキングは、大変複雑な行程となるため、予定のページやチラシにルート説明を省いてきました。コースの総距離は、約26kmに及びます。この内、歩行距離は10kmを予定しています。現在、机上のプランですので、事務局の下見が終了した時点で確定したコースを発表したいと思っています。皆さんには、奥飛鳥を満喫していただける良い機会になるのではないかと思っています。
予定していますコースをご紹介します。
コースは奥飛鳥の二つの谷筋を極めるのですが、歩行距離は僅かに約10kmという短距離に納めています。そして、コースの大部分は緩やかな下りになります。というのは、可能な限り上りにバスを使うからです。上り坂が全くない分けではありませんが、最大限減らすように計画をしました。
集合場所は、飛鳥駅前です。ここから赤かめバス、金かめバスを乗り継いで、上(かむら)集落まで行きます。両槻会らしく、上2号墳(移築)や気都和既神社の見学もしたいと思っています。気都和既橋からは、上集落の棚田風景などを撮影ポイントとしてご紹介する予定です。
風人が命名した「試みの石舞台」を経て、新道を阪田集落内の金かめバス停へ向かいますが、途中で細川の棚田の撮影ポイントを紹介します。飛鳥資料館写真コンテストでも、お馴染みの撮影ポイントです。第5回コンテストの観覧者投票で1位となった作品も、ここから撮られた作品でした。
阪田集落まで下り、坂田寺跡を見学して後に、栢森までは金かめバスで の移動になります。集落の東端まで上り坂になりますが、大した距離ではありません。加夜奈留美神社境内付近で昼食を済ませ、集落を一周することにしています。ここでは、第5回のコンテスト「飛鳥の甍」でも民家として一番多く撮影されたお家と、興味深い瓦の話を紹介する予定です。
その後、バスで上ってきた道をだらだらと下ることになりますが、途中、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社前の渕、飛び石、請安墓を巡り、男綱下から案山子ロードへ向かいます。案山子ロードは、上りになります。朝風峠から展望ロードを経て祝戸荘、そして石舞台バス停へ向かいます。
石舞台からは、赤かめバスに乗車します。甘樫丘バス停まで乗車し、大堰下の撮影ポイントをご紹介した後、甘樫丘豊浦展望台に上ります。ここが、一番急な坂道になるでしょう。終盤ですので厳しいですが、頑張りたいと思います。展望台を下り、豊浦寺跡から古宮土壇に向かい、撮影ポイントの紹介後、豊浦駐車場バス停で解散となります。
解散は、16時40分を予定しています。解散後は、バス(16:46発)で橿原神宮前駅に戻りますが、古宮土壇は夕景の撮影ポイントとして知る人も多いと思いますので、天候によっては、居残って撮影をしていただければと思っています。(日の入り16:52) ただ、定例会としては、解散後になりますので、自己責任の上でお残り下さい。
このコースは、全体として三つのパートに分けて歩くことになります。次号の咲読からは、順番にもう少し詳しくご紹介をして行きたいと思います。
秋の奥飛鳥を、存分に楽しみましょう!
【2】 (14.10.3.発行 Vol.198に掲載) 風人
第47回は、飛鳥ビューポイントウォーク と名づけた奥飛鳥を中心にしたウォーキングを予定しています。前回の咲読では、ウォーキングの概要を書かせていただきましたので、今回はもう少し細かく予定を説明したいと思います。
下見が出来ていないため、まだ確定した予定ではないのですが(申し込まれた皆さんには、10月10日までに確定した詳細案内を送信します。)、飛鳥駅前集合は9時35分です。吉野行急行が飛鳥駅に到着する9時34分に合わせて設定しています。
受付後、飛鳥駅9時43分発の赤かめバスに乗車し、健康福祉センターバス停(9時53分着)に向かいます。ここで奥飛鳥への足である金かめバスに乗り換えるのですが、この金かめバスの発時間が9時50分になっているのです。(^^ゞ どう考えても乗り換えは不可能なのですが、これが乗り換えられるのだそうです(村役場に確認済み)。だったら、時間を変更すれば分かりやすいと思うのですけど、どうしてなのでしょうね!疑い深い私は、下見で実際に乗り換えてみないと、まだ信じられません。ですから、予定が確定できずにいるのです。(>_<)
上(かむら)という集落まで登るのですが、この集落は、談山神社から飛鳥(石舞台)に下ってくるハイキングコースの急坂を下ってきた最初の集落にあたります。バスの到着は、10時05分の予定になっています。ここから、ウォーキングの開始です。バス停から、気都和既橋(きつわきばし)を渡ります。上は、第37回定例会「謎の石切場を訪ねる-石舞台古墳の石材採取場か?-」で訪れましたので、ご記憶の方も多いと思います。
気都和既橋北詰からは、上・細川・阪田の棚田や遠く佐田・真弓丘陵が展望できます。写真コンテストでは、毎回のように撮影ポイントとして選ぶ方が居られます。特に6月の田植えの頃が、多いように思います。風人の下手な写真ですが、ご紹介しておきます。
気都和既橋より |
この上からの眺望でいうと右側になるのですが、多武峰御破裂山から西方に派生する尾根(主に北側尾根の南斜面)には、約200基の古墳が点在しており、細川谷古墳群と呼ばれています。この中で、県道見瀬-多武峰線の工事に先立って行われた調査によって確認された古墳は、字名に連番を付けて上○号墳と呼ばれています。その中で、気都和既橋北詰のほど近い所に移築された上2号墳を訪ねてみることにします。本来は、北西約60mの地点に築造されていたのですが、工事の際に移築されたものです。
この2号墳は、6世紀末から7世紀初頭に築造されたと考えられており、径約15mの円墳で、右片袖式の横穴式石室を主体部としています。石室全長は6.8m、玄室長3.4m、玄室幅2.3mを測ります。玄室床面は、比較的大ぶりで平坦な石を据え、その上に礫を敷き詰めています。出土遺物には、須恵器5点(内1点に漆の残留物)、土師器1点がありました。また、鉄釘2本が発見されていることから、木棺が納められていたと推測することが出来るようです。
さて、気都和既神社まで戻りましょう。
この神社は、明日香村大字上字茂古森(大字かむら字もうこの森)にあります。祭神は気津別命で、延喜式内社に比定されています。現在は、曽・細川の春日神社を合祀していることから、天児屋根命を合わせてお祀りしています。気津別命は、飛鳥川に合流する冬野川の守護神だと思われますが、『新撰姓氏録』には饒速日命(にぎはやひのみこと)に連なる系譜を持った神様であると書かれており、物部氏との関連が興味を引きます。この茂古森(もうこの森)には、乙巳の変に関わる伝承があり、飛鳥板蓋宮で切られた蘇我入鹿の首に追われ、藤原鎌足がこの森まで逃げてきたというものです。ここまで逃げれば「もう来ぬだろう」と言ったことから「もう来ぬのもり」が「もうこの森」に転訛したと言われています。境内には、逃げて来た鎌足が腰掛けたという石がありますが、蘇我氏の天敵であった物部氏所縁の神が住まう森だから、危機を脱することが出来たのでしょうか。
風人命名の「試みの石舞台」を経て、細川の棚田の撮影場所に向かいます。ここは、飛鳥の夕景撮影スポットとして有名になりました。田植えの頃には、三脚に乗せた一眼レフの砲列が並びます。
細川の棚田 |
この写真の棚田が夕陽に染まるのですから、飛鳥を代表する夕景スポットと言えるでしょう。
ここからは、細川集落に下り冬野川を渡って、都塚古墳に寄ってみることにします。本年8月16日の現地説明会には、4000人を超える見学者が長蛇の列を作ったことはご存じのとおりです。蘇我稲目の墓だ! 日本のピラミッドだ! という喧噪も納まった今、現地を改めて訪ねてみましょう。
坂田寺跡にも足を止め、阪田バス停で金かめバスを待ちます。上集落から阪田バス停までを第1区間と呼ぶことにします。この区間の歩行距離は、約3kmになります。
【3】 (14.10.17.発行 Vol.199に掲載) 風人
今号の咲読は、第47回定例会に向けての3回目になります。先日(10月4日)、事務局の下見を実施しましたので、それを踏まえての若干の変更点なども書きたいと思います。(参加を申し込まれた方々には、詳細案内を送信しています。届かない方は、お知らせ下さい。)
変更点に関して、まず前号でご紹介した「移築 上2号墳」なのですが、雑草が繁茂しており近づくことはおろか、石室すら確認できない状態になっていました。
上2号墳現況(2014.10.4.撮影) |
移築石室とは言え、石室内を見学できる希少な機会になると考えていたのですが、今回は断念することにしました。このような状態で放置していては、何のための移築なのかと疑問に思います。せめて、通路だけでも草刈りをするべきです。
また、細川の棚田の撮影場所として知られるポイントは資材置き場なのですが、マナーの悪いカメラマンが多いのか、付近を含めて立ち入りが禁止されていました。撮影の絶好のポイントは車で塞がれており、このポイントでの撮影は不可能になりました。写真を撮るくらい良いではないかという考えは間違っています。多数になると、たばこの吸殻を捨てる、ゴミを出す、踏み荒らすなどのマナー違反が、このような悲しい現実を作っています。どうか、カメラを手にされる方は、この場所だけではなくマナーを守って撮影をしてください。他人の邪魔をしていないか、撮影して良い場所なのか、充分に考えて行動していただくようにお願いします。
このような事になりましたが、それでもこの第1区間の眺望は素晴らしいものです。上から続く棚田の曲線の美しさなどは、きっと皆さんに満足していただけることでしょう。
上の気都和既橋から |
さて、徒歩第2区をご案内しましょう。阪田バス停から栢森バス停までは、再度金かめバスに乗車します。乗車時間は僅かなのですが、これを歩くと上り道の4kmになりますので、この金かめバスのありがたさが分かります。奥飛鳥への貴重な足ですね。
栢森集落にある神社は、式内社加夜奈留美命神社に比定されていますが、異説も多く有ります。祭神は、加夜奈留美命とされています。『出雲国造神賀詞』という祝詞に書かれているのですが、内容は国譲り神話に関連しています。大穴持命(オオナモチノミコト)が国土(大和)を天孫に譲って出雲へ去るのですが、その時、自らの和魂(にぎたま)と子女の御魂を大和に留めて皇室の守護とします。祝詞には「賀夜奈流美命の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて」とあり、これがこの神社の創始とされます。詳しくは咲読では書けませんが、この神社の所在地は飛鳥の神奈備と深くかかわっています。定例会配付資料に記載することにします。
バスを下車してから、栢森集落を一周します。この集落では、毎年4月から5月にかけて鯉幟がたくさん泳ぐのですが、大和棟の民家や山村の風情に良くマッチしているように思います。また、飛鳥写真コンテストには、両槻会ではお馴染みの岡先生の「蓮花咲く奥飛鳥」という作品が有りました。この作品も、栢森集落の雰囲気が良く出た私の好きな作品の一つです。
また、集落の中には、清水昭博先生が飛鳥遊訪マガジンに寄稿してくださった江戸時代の瓦職人「常門 新兵衛」作の瓦を乗せた民家もあり、この家をテーマにされた作品が、第5回写真コンテスト「飛鳥の甍」にも多数出品されていました。新兵衛さんの瓦の説明も、当日説明や配付資料にて詳しくご紹介したいと思います。
「午後4時47分の幸運」清水昭博先生(飛鳥遊訪マガジン187号掲載)
第2区は、この後、女綱、飛鳥川上坐宇須多伎比売命神社前の川淵などを巡り、撮影ポイントの紹介をしたいと思っています。淵の近くでは、川原に下りる段差が雨の影響でか、足場が以前より悪くなっていました。そのため、川原に下りるのは希望者のみにします。しかし、川瀬を見ていただける所までは下りることにしましょう。気をつけてくださいね!
南淵請安墓や有銘石塔で知られる龍福寺は川越しになりますが、反って写真撮影ポイントとしては良いと思える場所を通ります。ここでは、若干の説明を加えたいと思っています。
次のポイントは、飛び石です。万葉集に詠われる石橋(いわはし)は、川にポンポンと並べて置かれたこの飛び石を指します。以前は、明日香村内にも5~6ヶ所の飛び石が在ったとされていますが、実際に渡れるものは、現在、稲渕の1~2ヶ所だけになっているようです。痕跡を残すものとしては、東橘と島庄を繋ぐものがあります。
さて、これから稲渕の棚田に向かうのですが、この先は、次号とさせていただきます。
【4】 (14.10.31.発行 Vol.200に掲載) 風人
第47回定例会に向けての咲読、4回目です。突然のコースの変更など、皆さんも混乱されたのではないかと思います。事務局としましても、どうしようもない事でしたので、ご了解をいただきますようにお願いをいたします。今号では、その変更しましたウォーキング第2区の中盤を紹介しようと思います。
稲渕の勧請綱(男綱)の下から、案山子ロードに入ります。11月半ばの実施になりますので、はざ掛け(稲木)の棚田風景を楽しめるのではないかと思います。
棚田稔りの風景 |
皆さんは、この「はざ掛け」をどのように呼ばれるでしょう。地域によって違いがあるのですが、飛鳥では「すすき」と呼ぶ地域があると聞きます。私が育った地域では、「いなき(稲木)」と呼んでいたように記憶しています。読者の皆さんの所では、「はざ掛け」をこう呼んでいますよと教えてくださいね。また、棚田の道路は案山子ロードの名の通り、多数の案山子が道路沿いに立てられています。一体ずつ見ている時間は有りませんが、力作に目をやりながら峠を目指しましょう。
この棚田一帯は、古来「朝風」という地域名で呼ばれていました。案山子ロードの最上部の公園には、「朝風」と書かれた碑と長屋王との関わりを説明する石製の説明板が有ります。奈良時代の有名人である長屋王、あるいは彼の近親者と思われる竹野王(女王)と朝風(旦風とも書かれます)はどのような繋がりが有ったのでしょうか。
稲渕の集落が現在のように形作られたのは、室町時代頃だとされています。南淵請安墓や竹野王石塔なども、元は朝風に在ったのを移転したとの記録があるようです。朝風千軒と表現される賑わいは、いつの時代の事なのでしょうか。
奈良時代のこの一帯は、どのような風景を作り出していたのでしょう。朝風廃寺はどこに在ったのでしょう。それは、稲渕の龍福寺に法灯を繋ぐお寺なのでしょうか。今は静かな棚田風景ですが、それ以前の時代を異にした朝風という土地に興味が尽きません。
また、7月定例会の資料の中に、藤原宇合の子供で「田麻呂」という方が、蜷淵(明日香村稲淵)の山中に隠棲し仏教修行に努め、約20年後に政界復帰し従二位・右大臣にまで上り詰める事を紹介しました。修行を積んだのは、朝風廃寺(龍福寺)なのかも知れませんね。
今回は、予定を変更しましたので行けなくなったのですが、塚本古墳に触れておきたいと思います。
棚田を二分する車道の中頃に、塚本古墳が在ります。知らないと見つけるのは難しいかも知れませんが、遠くからでも何となく墳形が想像できる程度には見えています。
一辺約40mの2段に築成された方墳ですが、ほぼ全壊と言えるほど形を失っています。石室は南東に開口し、両袖式横穴式(全長12.5m以 上)玄室長4m、幅2.5m、高さ2.7m、羨道長約8m、幅1.9mで、室内には比較的扁平な割り石で棺台が造られ、床下には排水溝の施設がありました。築造時期は、7世紀前半とされているようです。
被葬者を巡っては様々な説があるようですが、蘇我氏や南淵請安、また舒明天皇の最初に葬られた陵墓とするという説も有るのだそうです。
案山子ロードの頂上部に在る小さな公園を後にして西に上ると、朝風峠の鞍部に着きます。ここを南に進むと、山中に浅鍛冶地蔵尊があります。朝風廃寺の候補地ともされる場所なのですが、現地形ではそれを想像するのは難しいようにも思います。しかし、このお地蔵さんが存在することは、旧道が通っていたことを示し、明日香村栗原と朝風(稲渕)を結ぶ峠道が有ったのでしょう。現在は、上平田を結ぶ峠道が使われることから、先の栗原を結ぶ峠道は、いつしか廃道となったように思われます。
この付近からは、植林の合間から葛城・金剛の山並みや、佐田・真弓の丘陵が良く見えます。ポイントをご紹介しながら、下ることにしましょう。続きは、次号で紹介することにしましょう。
【5】 (14.11.14.発行 Vol.201に掲載) 風人
早いもので、第47回定例会が明日になりました。事務局では準備も整い、明日を待つばかりになっています。ご参加の皆さん、明日は楽しみましょうね!
さて、咲読5回目は、朝風峠(上平田峠)を越えた所からのスタートになります。稲渕の棚田と上平田を分ける丘の西側のビューポイントを、まず紹介することにします。
大きな写真ですが、是非クリック・スクロールしてご覧いただければと思います。 複数枚の写真を繋いでいますので、画質が悪くなっています。7~8年前に撮ったものなのですが、当時は、飛鳥の西側の広い展望が楽しめました。「ました」と書いたのは、残念ですが現状ではこのように見えなくなっているからです。ビューポイントの手前の杉木立が成長して、視界を狭くしています。しかし、ウォーキングの途中からは、やや視界は狭いものの、これに近い展望を楽しむことが出来ます。
周辺はミカン畑になっており、ウォーキングは果樹園の中を縫うように下って行きます。この状況を覚えておいてくださいね。
峠道を下り切ると、上平田の集落に出ます。ここでは、珍しい建物を何棟か見ることが出来ます。
一般的には、煙抜きかと思われる小屋根が四つ並んでいます。飛鳥では所々で見ることが出来るのですが、単に煙抜きだとは思えません。中で火を使うような建物ではないと思われます。
これは、周辺で作られている温州ミカンの貯蔵庫なんです。現在は、流通や貯蔵方法も改善され、実際にはあまり使われなくなっているようです。温州ミカンは高温多湿を嫌い、腐りやすくなるんですね。他の地域では、土壁の建物に入れて除湿効果を高めるなどの工夫も有るようですが、飛鳥地域では、この換気のための小屋根を設置することで、腐敗を防止したものと思われます。この小屋根は、「越屋根」と言うそうです。もちろん、温州ミカンの貯蔵用だけではなく、全国的に見ると換気や採光の目的で設置される例も多いようです。若干の構造の差はありますが、タバコの葉の乾燥や養蚕用の建物などにも用いられていたそうです。
読者の皆さんにも、この連続して設けられた越屋根を見られる場所をご紹介しておきましょう。それは、欽明天皇陵・吉備姫王墓に南から続く道路と飛鳥周遊道路の交わる所にあります。
google map ストリートビュー
次に歩かれるときには、屋根にも注意して歩かれると面白いかも知れません。上平田の集落を抜け、中尾山古墳を目指します。
中尾山古墳は、八角形の墳丘を持ちます。対角の長さは、19.4m(裾部の平坦面を含めると30mほどの規模であった考えられます。墳丘外周には、二重の敷石が巡っていたようです。墳丘の高さは、4mを測り、3段以上に築成されていたと考えられるようです。
墳丘の東からは「沓形石造物(鴟尾)」が出土しており、墳丘上にあった施設の装飾として用いられていた可能性が有ります。埋葬主体部の構造は、横口式石槨(1辺90cm四方)合計6石の石材で構成されており、大きさから火葬墓であったと考えられています。
中尾山古墳石槨(現地案内板を加工) |
中心部には、火葬墓であることから、遺骨を納める骨蔵器があったと考えられます。中尾山古墳は、八角形の墳丘を持ち、火葬墓であることなどの理由により、文武天皇の檜隈安古岡上陵ではないかと考えるのが妥当なようです。
この中尾山古墳は、明日香村中心部では唯一紅葉が綺麗な所です。古墳を包み込むように紅葉が覆いかぶさり、見る者の目を楽しませてくれます。
定例会当日は、まだ紅葉には少し早いかも知れませんが、12月初旬に掛けて再訪していただければと思います。
中尾山古墳からは、飛鳥歴史公園館に立ち寄りトイレ休憩にしましょう。この際に、事務局からの連絡事項なども合わせてお知らせします。解散場所となる飛鳥駅までは、10分ほどで到着します。皆さん、お疲れ様でした。
これにて、長い咲読も終了となります。お読みいただき、ありがとうございました。次号からは、第48回に向けての咲読を開始します。
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