飛鳥咲読
第54回定例会
都城の造営と造瓦
Vol.230(15.12.11.発行)~Vol.233(161.8.発行)に掲載
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【1】 (15.12.11.発行 Vol.230に掲載) 風人
師走に入り慌ただしくなってきましたが、今号より第54回定例会に向けての咲読を開始いたします。定例会当日までに3回の予定で、毎号、書き手を換えて定例会内容をお伝えして行ければと思っています。トップバッターは、暫く咲読を休憩させていただいていた風人が務めさせていただきます。よろしくお願いします。
第54回定例会は、年が明けた1月16日(土曜日)に、奈良文化財研究所都城発掘調査部の石田由紀子先生を講師にお迎えし「都城の造営と造瓦」と題した講演会を開催します。石田先生は、藤原宮や平城宮の屋根を飾っていた瓦を中心とした研究をされており、また現在は主に平城京を中心にした発掘調査に従事されておられます。実際に二つの宮の所用瓦を一番見ておられる先生だと紹介しても、過言ではないでしょう。
出土する瓦や発掘調査の成果から何が分かるのかといいますと、宮殿の造営時期が推定出来ます。また、どのような順番で宮の建物が造営されてきたのか、さらにどのような造営体制が整えられてきたのか、どのような人たちがそれに携わったのか、史料ではなかなか見えてこない都造りの様子を知ることが出来ます。
今回のテーマに当てはまる瓦は、どのような顔(瓦当文様)を持っているのか、どのように変わって行くのかという事も大変興味深い事柄になります。定例会では恒例となりました事前散策を行いますので、是非、ずらっと並べられた瓦を藤原宮跡資料室にて見比べていただく機会になればと思っています。
さて、今回の咲読は、事前散策にて訪れますポイントを、簡単にご紹介したいと思います。
事前散策コース
近鉄畝傍御陵前駅→本薬師寺跡→日高山瓦窯→朱雀大路跡→藤原宮朝堂院南門→奈文研藤原宮資料室→大官大寺跡→飛鳥資料館
畝傍御陵前駅東口から、本薬師寺跡を訪ねます。春には蓮華、夏にはホテイアオイが一面に咲き、近年、細い畦道に溢れるほどの人が訪れるようになりました。
本薬師寺は、天武天皇が後に持統天皇となる皇后の病気平癒を祈って建立を誓願した官寺です。天武天皇9年(680)11月に発願されたことが、『日本書紀』や平城薬師寺の「東塔サツ銘」に書かれています。これまでに、数次にわたる発掘調査が行われていますが、今回の定例会のテーマに沿って考えると重要な要素となる発掘成果があります。
それは、1993年に行われた調査で、中門の真下から藤原京西三坊坊間路が検出されました。このことは、薬師寺造営開始に先行して、藤原京の条坊道路が敷設されていたことを示します。言い換えれば、藤原京の造営は、天武天皇9年以前に開始されていたということになります。詳しい話は、先生からお聞きすることにしましょう。
本薬師寺を後にして次に向かうのは、日高山瓦窯跡です。現在、窯跡を見ることは出来ませんが、日高山の斜面を利用して登窯が造られていた場所を見ていただきます。皆さんに把握していただきやすいように、配布資料ではイラストまたは画像で示したいと思っています。また、奈文研藤原宮跡資料室にて日高山瓦窯と再現された瓦工場のジオラマをご覧いただきます。
日高山瓦窯は、藤原宮に使用された200万枚と言われる瓦の生産拠点の一つになります。もちらん、一つの瓦窯だけで全量を生産することは考えられず、畿内や遠隔地でも生産が行われました。定例会では、その点も深く掘り下げて教えていただくことになるでしょう。
さて、日高山瓦窯の直ぐ東側に朱雀大路が南北に通っていました。その一部が公園化(?)されているのですが、ここから藤原宮大極殿跡を見てみましょう。この部分は日高山の北斜面にあたり、傾斜が感じられます。山(丘陵)を切り通して南北道路が造られているのが分かります。道路幅は、平城京のような巨大な規模ではなく、京内の条坊道路とさして変わらない規模だったようです。このことも、藤原京の特殊な一面であると言えるでしょう。
定例会では、藤原宮朝堂院の南門まで進みたいと思っています。南門跡からは東に進み、次の奈文研藤原宮跡資料室に向かいます。近年、橿原市のボランティアガイドさんが詰めるようになりましたので、土日でも見学できるようになりました。コミュニティーバスも敷地内にバス停を設けていますので、バスを利用することも出来ます。
展示室には、飛鳥地域や藤原宮から出土した瓦がたくさん展示されています。また、飛鳥時代の土器の編年が分かる展示がありますので、両槻会では今後も利用を考えている施設です。また、藤原京の様子が分かりやすく紹介されているスペースも有り、日高山瓦窯のジオラマもこのスペースに展示されています。
定例会当日は、予定通りに進行すると、ここで20分の見学時間を取る 予定ですので、石田先生の説明をお聞きし、短い時間にはなりますが若干 の自由見学も出来るものと思います。
次の見学ポイントは、大官大寺跡になります。今回の定例会テーマには直接関連する寺院跡ではありませんが、藤原京内最大の寺院跡ですので立ち寄りたいと思っています。ご存知の通り百済大寺から始まる官寺の歴史を継ぐ巨大な寺院であることは、その塔基壇跡や金堂跡を見るだけでも十分にうかがい知ることが出来ます。
大官大寺からは講演会場となる飛鳥資料館へ、足を速めることにしましょう。
【2】 (15.12.25.発行 Vol.231に掲載) もも
第54回定例会の咲読2回目からは、ももの担当となりました。よろしくお願いします。^^
第54回定例会では、藤原宮の話から進んでいくことになると思います。
「藤原宮」と言う呼称は、『日本書紀』持統4年(692)に「高市皇子は藤原の宮地を視察され、公卿百官がお供した」とあり、その後も同様の言葉が数度登場してくることに由来するようです。一方で、宮を含む広い範囲である京を表す言葉は、「新城」や「京師」、「新益京」などと記されることが多く「藤原京」という言葉は、『日本書紀』や『続日本紀』には一度も出てきません。この呼称は、宮に対応する呼び名として便宜上つけられたものになるようです。
藤原宮は、ご存じのとおり初めて瓦葺きが採用された宮殿で、ここで使用された瓦は、藤原宮式軒瓦という名前で呼ばれています。今までの定例会で飛鳥時代の瓦には幾度も触れる機会がありましたが、藤原宮の瓦については、一昨年の第38回「藤原京体感ツアー」の時に少しご紹介しただけだと思いますので、今号では、定例会前に少し藤原宮の瓦にも馴染んで置いて頂こうと思います。^^
藤原宮の軒丸瓦は、連弁の形は川原寺などと同じ複弁ですが、連弁の外側(外縁)に連続する点(珠文・連珠文)とギザギザの線(鋸歯文)が施されています。
軒平瓦は、唐草の文様が一方向へ流れるように施されたもの(偏行唐草文)と、少し幾何学的なデザインで唐草を現わしたもの(変形忍冬唐草文)があります。こちらも、軒丸瓦と同じように瓦の外周部分(外縁)に、点々やギザギザの文様が付きます。
必要枚数200万枚とも言われる藤原宮の瓦は、大和盆地内では事前散策で訪れる日高山瓦窯のほかにも高台(市尾)・峰寺瓦窯、西田中・内山瓦窯、久米瓦窯、三堂山瓦窯、安養寺瓦窯、牧代瓦窯があり、遠隔地では滋賀の石山国分遺跡、香川の宗吉瓦窯、淡路島の土生寺瓦窯のほか、和泉や讃岐にも瓦窯があったと推定されています。藤原宮のために新設された瓦窯もありますが、須恵器の生産実績や地元の寺へ供給するための瓦生産の実績がある窯なども藤原宮の造瓦活動に加わったようです。
文様は、先にあげたように軒丸・軒平ともにおよそ2系統に分類できるそうですから、これだけの瓦窯を抱えて文様が統一されているところがすごいです。宮造営のプロジェクトには、瓦のデザイン管理も当然含まれていたということになるんでしょうね。
そんな細かい瓦の違いなんてどうせ分からん・・・と、思う方もいらっしゃるかもしれませんが、大丈夫です。今回は、瓦の顔を見分けましょう♪という定例会ではありませんので。(^^)
藤原宮がどういう風に造営されていったかが分かるのは、こんな風に兄弟瓦・姉妹瓦が沢山あったからだということさえ覚えて置いて頂ければ。(^^)
藤原京や宮の造営や瓦に関するお話は、今までに発掘調査の結果や研究成果が出る度にこの飛鳥遊訪マガジンに先生方がご寄稿下さっています。このお正月休みに、是非飛鳥遊訪文庫の寄稿・特別寄稿を再読して予習して頂くことをオススメします♪
【3】 (16.1.8.発行 Vol.232に掲載) もも
第54回定例会用の咲読も今号が最終回となりました。今回の定例会前に、先に気に留めて抑えて置くと、お話がさらに楽しくなるとσ(^^)が実際に思ったことを少しご紹介しようと思います。
まず、薬師寺の発願年。これは天武天皇が皇后の病気平癒を祈ってのことですから、当然天武天皇存命中の天武9年、西暦にすると680年になります。そして、『日本書紀』に登場する「新城」や「宮地」などに関する年代。これは、藤原宮に施工された縦横の道(条坊)と密接に関わってくるので順に覚えておくと藤原宮の下層遺構・・・特に先々行条坊や先行条坊、宮内の運河などのお話になった時に、時代との関連がより分かりやすいと思います。『日本書紀』天武5年(676)に、新城の予定地であった田畑の荒廃が酷くその造営を断念したとの記事が見えますが、この頃までに造られていたのが先々行条坊にあたると考えられています。そして、6年後の天武11年(682)に、新城の地形の視察をさせ、天皇自らも新城に行幸していることから、この頃までに作られたのが先行条坊であったと考えられています。
先にあげた薬師寺は、この間に造営が開始されているんですよね。ここもポイントです♪
そして当然、藤原遷都の694年。これは持統8年のことになります。ところが、708年の和銅元年2月には、平城へ遷都するとの詔が発せられ、12月には平城の地で地鎮祭が行われます。遷都からわずか14年しか経っていないのに、もう新都計画が動き始めちゃいました。
結局、遷都から約16年と短命だった藤原京。昨年の10月に現地説明会が行われた藤原宮大極殿院の調査(飛鳥藤原第186次調査)では、階段の痕跡が確認され、藤原宮の大極殿は平城宮で第一次大極殿として移築されたことを裏付ける結果が出ていますし、藤原宮の大垣の柱が新都で木樋として再利用されていたことは有名ですよね。
藤原宮大極殿流転 -藤原宮大極殿院の調査から-(あい坊先生)
勿論、瓦も例外ではありませんでした。藤原宮に葺かれた瓦は、使用に耐えるものは平城宮へと運ばれて大垣などに葺かれ、平城宮式と呼ばれる新しい様式の瓦は、主に大極殿などの主要建物に葺かれたそうです。
こんな風に、都遷りの度に使えるものはすべて使うというこの再利用のお陰で、今はもう見ることの出来ない古代の各都城の姿が少しずつ明らかになってきています。ひとつの都、ひとつの宮だけを見ていては何も分からないということなのかもしれません。
皆さんも、第54回定例会に参加して是非流れる歴史のヒトコマを感じ取って頂ければと思います。ご参加お待ちしております♪
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