両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪
第二回飛鳥検定
− それぞれの飛鳥 3−
2008年 9月 13日
このページは、第二回飛鳥検定の解説の一環として行った事務局員の発表内容をまとめたものです。
この色の文字は、リンクしています。
目次
河内太古
橘寺の伽藍配置と二面石について
飛鳥の謎石の「立石」について
もも
心礎と埋納物のお話
戯笑歌の達人・長忌寸意吉麻呂
風人
元興寺の鬼と弥勒石
富本銭とアンチモンと飛鳥池遺跡
漏剋の不思議
壁画でないキトラのお話
元嘉暦と草壁皇子
P-saphire
野草とその利用法について
TOM
斎王と斎宮と斎宮制度
笑いネコ
木簡の話
帰化植物の話
若葉
伎楽について
風人
元興寺の鬼と弥勒石
・
富本銭とアンチモンと飛鳥池遺跡
漏剋の不思議
・
壁画ではないキトラのお話
元嘉暦と草壁皇子
「
元興寺の鬼と弥勒石
」
平安時代初期に作られた「日本霊異記」(正しくは「日本国現報善悪霊異記」)は、我国最初の仏教説話集として知られています。仏教に関する異聞・奇伝を書いた短編物語が、雄略天皇から嵯峨天皇まで時代順に110余編集められています。
日本霊異記は、飛鳥遊訪マガジンでもお馴染みになりました「少子部栖軽と雷」の話が最初の物語として登場します。そして、第3話が、ここでご紹介する『雷の憙(むがしび=よろこびの気持ち)を得て生ましめし子の強き力在る縁』というお話です。
この話は、元興寺の鬼の話として有名です。鬼を古い言葉で、「ガコジ」や「ガゴウジ」などと呼ぶのは、この日本霊異記の説話に由来するものです。ただ、元興寺が奈良町の元興寺と思われていることが多いのですが、この物語を読むと、それはより古い時代のお寺・飛鳥寺(本元興寺)であることが分かります。(時代背景や設定は違いますが)
では、『雷の憙を得て生ましめし子の強き力在る縁』のあらすじをご紹介します。
『昔敏達天皇の御世、尾張の国阿育知の郡かたわ(原文漢字)の里に一人の農夫有り。』
敏達天皇御世は、572年〜585年となり、都は「百済大井宮」や「訳語田幸玉宮」にありました。大臣は蘇我馬子、大連は物部守屋が居り、崇仏派と廃仏派の争いが激しさを増していた時代になります。この設定の中に飛鳥寺があるのは変なのですが、古いということを強調したかったのでしょう。
『農作業をしていた男の前に、雷が落ちてきます。雷は農夫に天に戻る助けを請います。「楠の木で船を作って、その中に水をいっぱいに入れ、そこに竹の葉を浮かべてください」。農夫は早速作業を始めました。雷の言うとおりに完成すると途端に霧が湧き出し、辺りは白一色に覆われました。大気を裂くような轟音が聞こえ、霧が晴れるとそこに雷の姿はなく、楠の船だけが残っていました。
そしてしばらくすると、農夫が望んでいた子供が誕生しました。その子は頭に蛇を巻きつけ、その首と尾を背に垂らした姿で生まれたのですが、蛇はすぐに消え失せ、後には首から背中にかけて青い痣のような物が残ったのだそうです。
10数年の歳月が過ぎたある日、都に怪力の者がいるという噂が聞こえてきます。そうすると、この子供は、都へと飛び出してしまいます。都でしばらくする内に、怪力の者(豪族の王)の話が聞こえてきました。その王は、大宮の北東の角に邸を構えていました。王は、外出するときには、八尺四方もある大岩を門のところに投げつけて、誰も入れないようにして出かけて行きます。子供は、夜になると邸まで行き、王が投げた距離よりも一尺遠くへ投げます。こうして子供と王の力比べが始まるのですが、王は相手が子供であることを知り、恐ろしくなってしまいます。
子供は、元興寺に居つき、寺の童子となります。しばらく時が経った頃、元興寺の鐘楼で夜毎に人が死ぬという事件が起こりました。そこで、この童子が解決を申し出ます。鐘楼の四隅に燈を灯し他の童子を配するなど段取りを整えて、鬼を待つことになりました。明け方近くに鬼が戸を開けて入ってきました。童子は目を見開き、鬼の髪をむんずと捕まえて引っ張ります。その恐ろしい光景に、他の童子はすくみ上がって我を忘れてしまいます。いつしか夜も明け始めた頃、ぶちぶちという凄い音がしたと思うと、童子の手には銀色に光る髪の毛だけが残っていました。鬼は、自分の頭髪を残して逃げ去ったのですが、床には点々と血の痕が残っていました。「鬼已頭髪所引剥而逃」。
童子は、寺の法師と共にこの血の痕を追って行きます。すると寺から程近い衢(ちまた)に至ります。鬼の血は、その傍らにある小さな石碑の所で消えていました。法師の話によれば、そこはかって元興寺になっている地に住んでいた豪族の墓だと言い、その豪族は権勢を欲しいままにし、悪事を働き、仏罰によって死んだと言うことです。法師らは法会を行い、豪族の怨念が二度と現れないように祀ってやりました。
童子の引き抜いた鬼の頭髪は、今なお寺宝として元興寺に納められています。「今在元興寺為財也」』
藤原道長は、治安3年(1023)10月19日、高野山参詣の途上に飛鳥の諸寺を巡拝しています。飛鳥寺にも立ち寄り宝倉を開けさせて、この鬼の頭髪を探させるのですが、結局見つからずに立ち去ったと「扶桑略記」に書かれています。(此和子陰毛なるものは見ているのですが・・・(笑))
童子の話は、ここで終わりではありません。『王の妨害を退け、寺の田に水を引く』話へと続いて行きます。
『童子は、いつしか優婆塞(正式に仏教信者となった男子。在家のままで仏道修行にはげむ人。)となり、元興寺領に水を引いて、田を作り、米を作っていました。しかし、ある時に水が来なくなってしまい、田が干上がってしまいました。調べてみると、水門口が塞がれていました。どうやら豪族の王らの仕業らしいことが分かりました。優婆塞は十人がかりでようやく持ち上がるような鋤を作らせ、王らが作った水門の代わりに鋤を突き立てます。しかし、再び王らは鋤を引き抜き、水門口を塞いでしまいます。優婆塞も黙っていません。動かすには百人がかりでないと動かないような大石「優婆塞亦取百余人引石」で、水門下流を塞いでしまいます。石が水を遮ってしまいますので、水は下流に流れず寺の田は水で潤うことが出来ました。以来寺の田は干上がることがなくなったそうです。これらの功徳が認められ、優婆塞は出家得度し、法名は道場法師とされました。「聴令得度出家。名号道場法師。」』
この物語をもとに、江戸時代には、木葉堰に近い弥勒石が件の大石だと考えられたようです。弥勒石は道場塚と呼ばれていたとの記録が「大和名所記・飛鳥古跡考」(宝暦元年・1751)に書かれています。真相は分かりませんが、弥勒石の謎解きには面白い説話です。
「
富本銭とアンチモンと飛鳥池遺跡
」
富本銭や海獣葡萄鏡に含まれるアンチモンという物質は、その辺りの分野に非常に疎い私にはそれが何であるのかも分かりませんでした。今まで、アンチモンという名前を聞くことは、まず無かったからです。第三回定例会「講演-海獣葡萄鏡について-」で、飛鳥資料館学芸室長杉山先生から初めてそのお話を聞きました。海獣葡萄鏡の成分分析のお話から、飛鳥池工房産の銅製品にはアンチモンという物質が含まれている特長があることを教えていただきました。
さて、そのアンチモンなのですが、調べてみても良く分かりません。金属なのだと思っていましたが、半金属だの元素だのと書いてあるものもありました。で、最も適切なのが先にも書きましたように「物質」と呼ぶのが良いそうです。分かったようで分からない話なのですが。(^^ゞ
アンチモンの主な鉱石は、輝安鉱というのだそうです。明治頃までは日本でも採掘されていたそうで、愛媛県の市之川鉱山などが有名だったそうです。飛鳥時代のアンチモンも国内産の物だったのでしょうか。
アンチモンには、凝固すると膨張するという特性があるのだそうです。鋳造では、溶かした金属を型に流し込んで製品を作ります。金属が固まる際、通常では体積は減少します。このときに補完的な役割を果たすのがアンチモンです。金属にアンチモンを混ぜると固まる際の体積変化をお互いに消し合い、体積変化の少ない製品が出来上がります。現在でも、活字金にはアンチモンを含んだ鉛の合金が使用されるのだそうです。
飛鳥で作られた海獣葡萄鏡や富本銭もまた、文様や意匠の狂いを防ぐためにアンチモンを使用したのでしょうか。踏み返し鋳造などは、製品が小さくなっていく欠点がありますが、それを補う意味もあったのでしょうね。
また、もう一つの特徴は、アンチモンを含む合金は、金色の光沢を増すということがあります。このこともやはり意識されていたのではないかと思われます。
しかし、そうすると藤原京の地鎮具から出土した数枚の富本銭が、アンチモンを含まなかったのはなぜなのでしょう。飛鳥池工房が遠くなったということでは、理由にもなりません。
ある資料に、輝安鉱は硬くて脆いという記述があるのを目にしました。合金にもそれが反映されるのでしょうか。飛鳥池工房から、富本銭が欠片としてたくさん出土している点にも関係しているようにも思いました。製造面での大きな欠点になるかも知れませんね。
また、アンチモンの生産量がどの程度のものであったのかは分かりませんが、富本銭が流通貨幣としての目的が増せば、その製造量も増すことが想像できます。 その過程で原材料としての供給量に問題があったのかも知れません。その時期が、藤原京遷都の頃とすれば、時代背景と推測が一致するようにも思えます。
藤原宮大極殿院南門前から出土した地鎮具の中に富本銭が2種類あったことは、律令体制の下、貨幣を経済の主軸として活用していくという意気込みを示す物であったのかも知れないなどと、妄想するのも楽しいものです。
そのことを裏付けるかのような日本書紀の記述があります。「持統8年(694)3月2日の条、直広肆大宅朝臣麻呂・勤大弐台忌寸八嶋・黄書連本実らを鋳銭 司(ぜにのつかさ)に任じた。」 鋳銭司という役所を創設したことを示す記事です。まさに、藤原京遷都の9ヶ月前のことでした。
天武12年(683年)4月の条に記されている「今より以降、必ず銅銭を用いよ。銀銭を用いることなかれ」から、一歩進んだ段階を示しているように思います。
藤原京の地鎮祭は、この二つの記事の間に行われています。(持統5年(691)と6年(692)) 二種類の富本銭は、この間の経緯を表しているのかも知れませんね。
貨幣に関する日本書紀の記載及び無文銀銭について
日本書紀
顕宗2年(486年)10月6日
「稲斛銀銭一文」
無文銀銭
天智7年(668)創建の崇福寺塔心礎から無文銀銭が出土。
天武12年(683)4月15日
「詔日、自今以後、必用銅銭。莫用銀銭。」
天武12年(683)4月18日
「詔日、用銀莫止」
持統8年(694)3月2日
「以直広肆大宅朝臣麻呂・勤大弐台忌寸八嶋・黄書連本実等、拝鋳銭司。」
崇福寺塔心礎納置品
中尾根の塔基壇の地表下1.2mにある塔心礎側面の小孔から舎利容器や荘厳具が出土した。舎利容器は金銅製外箱、銀製中箱、金製内箱と瑠璃壷からなり、それを中心に、周囲に鉄鏡・無文銀銭・銅鈴・硬玉製丸玉などが置かれていた。
崇福寺
扶桑略記によると、天智7年(668)に天智天皇の勅願で建てられた寺院。
無文銀銭
大和7遺跡、近江6遺跡、摂津・河内・山城・伊勢の地域で各1遺跡、合計17遺跡から約120枚出土している。
銀の延べ板を裁断加工して作られ、小さな孔が空けられている。「高志」「伴」「大」と刻まれたものも出土。重さを揃えるため銀片を貼り付けてある。(流通の根拠か?) 天武12年の記事に該当する銀銭か?
「
漏剋の不思議
」
日本書紀斉明6年(660)条に、中大兄皇子がはじめて漏剋(水時計)を作ったという記事があります。この水時計を据えた時計台の遺跡が、飛鳥寺の北西方(石神遺跡南方)で発見され、小字名を採って「水落遺跡」と呼ばれています。
貼石のある方形の土壇に、堅固な造りの4×4間の楼状建物が建設されていたことが推定されています。この建物遺構からは、黒漆塗りの木箱、木樋暗渠、枡、銅管など、水の利用に関わる施設や遺物が発見され、日本書紀の記述に該当する漏剋が置かれた場所であるとされました。これらのことは、皆さんも良くご存知だと思います。
飛鳥検定の解説を考えていた時に、ふと気づいたことがありました。それは、近江遷都(天智6年(667)3月)と漏剋の設置時期(天智10年(671)4 月)の間に、4年のブランクがあることでした。中国などの思想では、時を管理することが天子の条件の一つであったと思われていた時代です。白村江の大敗戦 の後の混乱期とはいえ、皇太子ではなく天皇に即位した天智天皇にとって、「時の管理」は象徴的な意味でも重大な要件であったように思います。その時期に4 年間も漏剋がなかったのは、なぜなのでしょうか。
漏剋を作り、時を支配し、民を支配するという意図からも、飛鳥古京にはあるものの近江京に漏剋が無いというようなことが、ありえることなのでしょうか。天皇になった天智には、新しい都での新しい体制作りの時期にこそ、漏剋は必要な物だと思えます。
先にあげた『日本書紀』天智10年の記事を読めば、天智天皇が皇太子の時に製作した漏剋を新しい台に置き、鐘と鼓で時刻を知らせたという意味にもとれます。このように読めば、飛鳥から漏剋を移送したことになります。このことは、漏剋の設置を急いでいる証ともとれるように思います。台というのが漏剋を設置 する建物と考えれば、その建設に4年を経るには長すぎると言わざるをえません。やはり、腑に落ちないところがあります。
また、水落遺跡では、時期を特定することは出来ないようですが、全ての柱が抜き取られていたそうです。残っていた物の中に、ラッパ状銅管があったのですが、木樋の蓋にくい込んでいたためか、途中で折れたような状態であったそうです。これらのことは、漏剋や漏剋台もまた撤去され、近江へ移送されたことを推測させるように思えます。
(水落遺跡には、天武天皇の時代の柱穴も確認されていますので、漏剋の撤去が天武天皇の時期であった可能性もあるとのことです。)
疑問は元に戻ります。だのになぜ、4年もの間、漏剋は無かったのか。
飛鳥資料館に漏剋の模型が展示されていますが、木製の水槽を階段状に4段に組み(水槽は全部で5個)、それを銅管で繋いでいます。このような方式の漏剋は、唐の時代の呂才(627〜649)という人物が考案した物だとされます。
水槽から流れる水を一定量に保つことは、微妙な調整が必要であったのかも知れません。水温の調整が必要なことも想像が出来ます。そのようなことからも、最新の特別な技術を持つ人のみが作りえたのかも知れません。東アジアの緊迫した状況や朝鮮半島の戦乱の時期には、技術者の確保が難しかったと推測することが出来るかもしれません。4年のブランクを、今、そのような憶測でしか埋めることは出来ませんでした。
大津京の漏剋の完成は、天智天皇が亡くなる僅かに8ヶ月前のことでした。
飛鳥宮や近江大津宮の発掘調査や研究を通して、漏剋に関するこの謎もやがて解明される日が来るかもしれません。それまでは、謎を楽しみたいと思います。
漏剋(漏刻)に関する日本書紀の記述
『日本書紀』天智天皇十年夏四月丁卯朔辛卯条(671年6月10日(旧暦4月25日))
「置漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏剋。此漏尅者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。」
(漏剋を新しい台に置き、時刻を知らせ、鐘・鼓を打ちとどろかせた。この日初めて漏剋を使用した。この漏剋は、天皇が皇太子であられたとき、御自身で製造されたものである、云々と伝える。)
『日本書紀』斉明天皇六年五月是月条(660)
「又皇太子初造漏尅。使民知時。」
(また、皇太子が初めて漏剋を造る。民に時を知らしむ。)
漏剋(漏刻)に関連する万葉集
時守の打ち鳴らす鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくも怪し 巻2−2641
皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも 巻4−607
さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の檜橋より来む狐に浴むさむ 巻16−3824(長忌寸意吉麻呂)
左注
右の一首は傳へて云はく、「ある時、もろもろ集ひて宴飲す。時に夜漏三更にして、狐の声聞こゆ。すな はち、衆諸(もろひと)、意吉麻呂を誘(いざな)ひて曰く、<この饌具(せんぐ)、雑器(ぞふき)、狐声(こせい)、河橋(かけう)等の物に関(か)け て、ただに歌を作れ>といへれば、すなはち、声に応へてこの歌を作る」といふ。
「夜漏」は、水時計の告げる夜の時間。
上記の万葉集歌は、大宝律令制定後の歌だと思われます。巻11−2641は、「物に寄せて思を陳べたる」と題されて収録された歌の中にあります。「時守」というのは、陰陽寮に属し、漏剋によって時を知らせる役人のことです。
巻4−607は、笠郎女の大伴家持に贈れる歌二十四首の中の一首です。笠郎女は、奈良時代を代表する歌人の一人です。
二つの歌から、時を告げる漏剋台の鼓や鐘の音が、すでに日常の中に溶け込んでいることが伺えます。
「
壁画ではないキトラのお話
」
キトラ古墳は、飛鳥で最も有名な終末期の古墳の一つになりました。その大半は、石槨式石室内に描かれた四神や十二支像などの壁画によって知られていると思われます。
この項は、キトラ古墳の副葬品や出土遺物を中心に、お話を進めたいと思います。キトラ古墳はおそらく鎌倉時代に盗掘されており、棺は破壊され、副葬品もほとんどが持ち出されていました。
キトラ古墳の石室内には、南側西隅に開けられた盗掘孔から流入した土砂が堆積していました。石室や盗掘孔の状況などは、明日香村埋蔵文化財展示室の模型をご覧になると分かりやすいと思います。
盗掘孔から流入した堆積土の下には、漆塗木棺の断片が2〜5cmの層をなして堆積していたそうです。その断片のさらに下の粘土質の堆積層から遺物が発見されました。
漆塗木棺は木質部が腐食し、内外面に塗った漆の層だけが残存していました。当初、外面は黒漆で、内面は朱の漆に塗られていると考えられていたのですが、出土した1万点を超える漆片の分析によって、内外両面に朱に塗られていた可能性が高いと発表されています。
漆片には、木棺の表面に布を巻いた上で朱漆を重ね塗った物と、黒漆を直接塗り重ねた物の二種類があり、黒と朱がほぼ同数が検出されたようです。木棺外側の縁部分とみられる朱の漆片が確認されたこと、また、棺の側面に打たれた釘隠の裏側にも朱漆片が付着した物が検出されました。
これらの調査結果から、棺は内側だけでなく外側も朱漆が塗られていたものと推測されました。黒漆を直接塗った木製品の欠片は棺台、布張りをしてその上に朱漆を塗った木棺が乗せられていたと推定されます。
外側も朱が塗られた木棺は、天武・持統天皇陵の木棺が確認されていますが、高貴な身分の被葬者が連想されます。高松塚古墳では、外面は黒漆が塗られた木棺が安置されていましたので、その違いも被葬者論に新たな論点を与えることとなりました。
キトラ古墳の木棺に付属する金具に金銅製飾金具1点と銅製釘隠5点、金銅製板状金具1点が検出されています。
金銅製飾金具は直径7.5cmの透かし彫り金具で、ハート形の忍冬文を連結させています。
表面に鍍金がされていて、中央には方形の孔が開いています。鐶座金具であろうと考えられています。
銅製釘隠は、裏面がくぼんだ板状の六花形金具で、直径4cm程度の物です。
他に3×2cmの金銅製板状金具が検出されていますが、用途は不明なのだそうです。
玉類では、琥珀玉6点とガラス玉18点が出土しました。
琥珀玉は直径8.5〜9.5mmのほぼ球形で穿孔があります。ガラス玉は3〜4mm程度のソーダガラスで作られた物でした。
鉄製品は2点あり、ひとつは長径3.5p、短径1.7p、厚み1cmの楕円形環状をしています。
稜線部分にはS字形の連続した金象眼が2列に施されていました。刀装具の一部で、帯執金具と推定されています。
帯執金具というのは、大刀を腰に下げるため鞘に取り付けた刀装具です。表面に金象眼されたS字文様が2列に並び、内側には銀が張ってあり、ぶらさげるための布も付着していたそうです。(高さ1.7cm、幅3.5cm、厚さ1cmの環状。)
もうひとつは一辺15cm、厚み4mmの鉄片で刀身断片の可能性があるとされます。
この他に、石室閉塞石の外側の盗掘坑内で幅2.4〜3.0cmの鉄製大刀が出土しています。
人骨は約100片が出土しており、左右の上顎骨・右頬骨や23本の歯は、犬歯・中切歯・側切歯・第一臼歯などが見つかっています。
骨や歯の分析から、被葬者は熟年(40〜60歳代)の男性で、50代の可能性が最も高いとされました。また、重複する骨の部位がないことから、一人の遺骨の可能性が考えられています。目の付近の骨が丸みを帯び、耳の後ろの骨が凸凹して頑丈なことなど、男性の特徴を示すのだそうで、頭骨は全体にがっちりしており、骨太の印象があるということです。
7世紀末から8世紀初頭の頃に、熟年を迎えた男性が被葬者としてクローズアップされることになります。
2008年4月、キトラ古墳出土黒漆塗銀装大刀が復元されました。キトラ古墳壁画「子・丑・寅」の公開に合わせて展示されましたので、ご覧になった方も多いのではないかと思います。
復元を担当された奈文研豊島先生は、甘樫丘東麓遺跡の発掘調査も担当され、飛鳥遊訪マガジンにもご寄稿くださった先生です。
復元され大刀は、長さ約90センチ、幅4・4センチ、重さ672グラム。大刀は、ヒノキ製の鞘に黒漆で仕上げられ、柄は鮫皮が巻かれていました。また、銀製の金具が取り付けられ、全体としては、シックな感じの太刀として復元されていました。
これまでの発掘調査では、鞘や大刀の破片、金具など計8点が出土しており、金具の種類から2本以上の大刀が副葬されていたと考えられています。
今回は、この内の細身の1本を、同時期の古墳で見つかった例を参考にして復元されたようです。
これらの副葬品や出土品から、皆さんはどのような被葬者を連想されるでしょうか。
皇族では天武天皇の皇子、官人では安倍御主人などが有力視されています。飛鳥に点在する終末期の古墳に、一人一人の被葬者を当てはめる作業は、とてつもなく大変だろうと思われます。
私の妄想をお話しますと、高松塚やキトラ古墳は、律令体制初期の最高の地位にいた官人ではないかと思います。根拠といって特に無いのですが、墳形が多角形ではないことを上げておきたいと思います。石上麻呂や阿倍御主人などは、如何でしょうか。皆さんは如何ですか?
キトラ古墳出土品と被葬者について
出土品
棺金具・刀装具・金銅製品・琥珀玉・ガラス玉・漆片・人骨など。
木棺付属金具 ( 金銅製飾金具1点・銅製釘隠5点・金銅製板状金具1点 )
玉類 ( 琥珀玉6点・ガラス玉18点 )
鉄製品 ( 刀装具の一部帯執金具と推定される物・一辺1.5cm、厚み4mmの鉄片で刀身断片の可能性がある物・石室閉塞石外側の盗掘坑内から幅2.4〜3.0cmの鉄製大刀 )
人骨片と歯 ( 約100片・23本の歯 [左右の上顎骨・右頬骨や犬歯・中切歯・側切歯・第一臼など])
被葬者候補
阿倍御主人 大宝3年(703)4月1日 69歳没 右大臣従二位
高市皇子 持統10年(696)7月10日 42歳没 天武天皇第一子
百済王昌成 天武3年(674)1月10日 没年齢不詳
長皇子 和銅8年(715)6月4日 没年齢不詳 天武第7皇子?
東漢氏首長
大伯皇女 ・ 額田王など
* 百済王(くだらのこにきし)氏は百済最後の王である義慈王直系の善光を始祖とする日本の氏族。百済を氏・姓(本姓)とする。持統朝に王(こにきし)姓を賜ったとされる。
「
元嘉暦と草壁皇子
」
元嘉暦というのは、中国・南北朝時代の宋の天文学者・何承天が編纂した暦法で、かつて 中国・日本などで使われていた太陰太陽暦(太陰暦を基にしつつも閏月を挿入して実際の季節とのずれを補正した暦)の暦法です。中国では元嘉22年 (445)から65年間用いられていました。
日本には朝鮮半島の百済を通じて6世紀頃に伝えられたとされています。推古天皇10年(602)に百済から学僧「観勒」が、暦本・天文地理の書・遁甲方術の書などを携えて来日し、渡来系氏族の子弟らにこれらを習得させました。ちなみに暦法は、陽胡史(やこのふひと)の祖 玉陳(たまふる)が習ったとされます。
平安時代の書物『政事要略』(11世紀初頭・平安時代の政務運営に関する事例を掲げた書)には、推古天皇12年(604)正月朔日に初めて日本人の手によって作られた暦の頒布を行ったとの記述があり、これは元嘉暦によるものであったと考えられています。
持統天皇6年(692年)からは、中国からもたらされた新しい暦である儀鳳暦を試用するために元嘉暦との併用を始め、5年後の文武天皇元年(697)からは元嘉暦を廃して儀鳳暦を正式に採用することになります。
我国においては、元嘉暦は、90年間使われた暦だということになります。
2003年2月26日、石神遺跡第15次調査によって、元嘉暦に基づく具注暦(暦注)を記した木簡が発見されました。検証の結果、表が持統天皇3年(689年)3月8日〜14日、裏が4月13〜19日の暦であることが分かりました。元嘉暦による暦の実物は中国にも残されておらず、大変貴重な資料です。
出土した木簡は、用済みとなり容器の蓋などに転用されたのか直径約10cmの円形になっています。その両面に一日一行の縦書きで7日分の暦が残っていました。
暦の原本は紙に書かれた巻物だそうですが、この木簡は役所で日常的に使うため、二ヶ月分を表裏に記した月めくりの壁掛けカレンダーとして書き写された物だと思われます。本来の木簡は、幅48cmと推定されました。
出土したも元嘉暦を見てみますと、列も整っていませんし、字も下手ですし、誤字もあるようです。例えば「危」を「色」に、「収」を「枚」と誤って写している部分もあるとのことです。
木簡を解読した市先生は「裏、表とも同じ人物の筆跡。忙しかったのか、かなり急いで書き写したらしい。実用品なので、意味さえ通ればよかったのかも」とコメントを出されています。
さて、表題にしました草壁の皇子ですが、たまたまでしょうが、この残された暦の中に草壁皇子の命日にあたる4月13日の記述があります。
日本書紀持統3年(689)4月13日「草壁皇子尊が薨じた。」
この日の暦注をご覧下さい。全てが凶を表す「九坎」と書かれています。人々は、この暗合を驚きをもって見つめたかも知れませんね。
暦関連年表
欽明14年(553) 百済に暦博士の派遣や暦本送付を依頼
欽明15年(554) 百済、暦博士 固徳王保孫を派遣
推古10年(602) 百済の僧 観勒が来朝、暦本・暦法等を献ず
推古12年(604) 初めて国産「元嘉暦」を頒布
持統 6年(692) 儀鳳暦を試用するため元嘉暦との併用
文武元年 (697) 元嘉暦を廃し、儀鳳暦を施行
主な暦注
上玄
月の満ち欠けを表す(上弦の月)
厭日
出行等は凶
九坎日
万事に凶
重日
吉事と凶事が重なる
帰忌日
帰宅等は凶
血忌日
出血等は凶
望
月の満ち欠けを表す(満月)
往亡日
旅行などは凶
天倉日
倉開きなどに吉
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