第12回両槻会定例会は、「飛鳥のみち、飛鳥へのみち」と題して、橿原考古学研究所主任研究員の近江俊秀先生にご講演をいただくことになりました。飛鳥遊訪マガジンをお読みいただいているみなさんには、「阿倍・山田道」の連載記事でおなじみの古代の道路に関する第一人者です。
講演会に先立ち、阿倍・山田道とその周辺に点在する遺跡、遺構を先生自らのご案内で巡るという貴重な機会に恵まれました。
一転厳しい冷え込みとなったこの日にもかかわらず、34名の参加者が元気よく橿原神宮前駅東口に集合しました。
今回も初めて定例会に参加される方が9名もあり、両槻会の輪が回を重ねるたび広がってゆくのを実感できる新年初の定例会のスタートとなりました。
皆さんが集合したところで、さっそくご案内と講演をいただく近江先生をご紹介、ご挨拶をいただきます。「人見知りするタイプなもので…」とややはにかみながらご挨拶される先生ですが、その流暢な語り口を少し聞いただけで、考古学者とは思えない気さくで柔和な印象を抱かせる方で、生まれながらに語り部の素質をお持ちではないかと思い込ませる雰囲気をまとっていらっしゃいます。
皆さんが集合されたこのあたりが、まさに古代の厩坂の中心であったところです。と、簡潔に印象付けるご案内で、予定のコースに向かってスタートです。
集合場所になった橿原神宮前東口のロータリーから国道169号線に出る信号が「丈六」と呼ばれる交差点です。信号を渡ってまっすぐ東に向かうと、飛鳥へと続く古代の「阿倍・山田道」です。そして南北に走る国道169号線が古代の幹道下ツ道と重なっています。この丈六の交差点付近は古代においても主要道路が交差する交通の要衝であり、賑わいを見せたと思われる「軽衢(かるのちまた)」にあたるとされています。
この軽衢から交通量の激しい国道169号線に沿ってしばらく南下し、次の訪問地「軽寺跡」を目指します。国道を東に左折し、緩やかな上り傾斜の大軽町の集落を辿ると、一段小高くなった台地上に甍が見える法輪寺という寺の境内に出ます。この地が「軽寺」の跡だと推定されています。現寺の本堂も土壇のような上に築かれているところから、礎石が見えているのではと思われましたが、先生のお話では確認はできないということでした。寺の境内には第15代応神天皇の宮跡もこの付近にあったとする伝承碑が建てられていました。境内の森を少し抜けると、北に開けた一角があり、古代寺院の跡を思わせる土檀状の起伏が見渡せます。
軽寺跡の台地を下り、蘇我馬子が石川の自宅を改装して仏殿としたとされる石川精舎に出ます。現本明寺の奥には馬子塚とも伝えられている五輪塔がありました。この五輪塔の背後には、先ほど訪ねた軽寺跡の森が見渡せました。
石川精舎と言われるように、仏教が我が国に伝わった当初は、激しい廃仏の勢力があったため本格的な寺院を建てることが憚られ、石川の地の自宅を仏殿とするしかなかったことから「精舎」とされたようです。
ただ、日本書紀に記された蘇我馬子の石川の宅が、この地を指しているかどうかは疑問もあり、同じく蘇我氏の支配下にあった河内の石川にあったという説もあるようでした。
石川精舎跡から再び古代の阿倍・山田道とされる県道124号線に戻り、しばらく県道を歩いた後、県道の北側の和田町の住宅地を抜けると、田んぼの中の東端にぽつんと巨大なかまぼこ型をした土山が見えてきました。次に目指す和田廃寺です。これが和田廃寺だと説明を受けなければ、気付かない土壇でした。
発掘調査の結果、この土壇は塔基壇の西半分が残ったもので、現在では聖徳太子七ケ寺の一つ「葛城寺」ではないかとされているようです。蘇我氏と葛城の関係は、微妙に交錯しているところがあり、興味をひかれるところがあります。
この土壇の田んぼの北側彼方には、今回訪ねる時間がなかった田中廃寺の藪が見ています。
この廃寺の説明を受けた参加者の中で、以前から寺跡と廃寺の名称区分は何か基準があるのかという素朴な疑問をお持ちでしたので、この機会に先生にお尋ねしました。先生のお話では、文献等により確認できるものが寺跡で、文献等では確認できないものが廃寺と区分されているということでした。何気に名称を見ていましたが、なるほど和田廃寺跡とは言わないのかと、妙に納得した気分でした。
和田廃寺を後に農道を辿り、次は古宮土壇を目指します。バス停豊浦駐車場の北東隅の田んぼの中に一本の木が目印のように立っている土壇が「古宮土壇」と呼ばれています。この土壇付近が推古天皇の小墾田宮跡とされてきたシンボル土壇です。余談ですが、この土壇周囲の田んぼに田水が張られる頃の落日のシルエットは、印象に残る景観を見せてくれます。
この推古天皇の小墾田宮については、その後に古宮土壇と飛鳥川を挟んだ右岸で「小治田宮」と書かれた墨書土器が出土したことから、この土器が出土した雷丘東方遺跡が推古朝の小墾田宮ではないかという見解が有力になっています。
先生が主張される推古朝の阿倍・山田道はこの小墾田宮の南門に接していたはずとする論拠の一つの要めとなる遺跡だけに、この雷丘東方遺跡(小墾田宮跡)は注目される遺跡です。
古宮土壇から再び県道を南に渡って、豊浦寺跡を訪ねます。現在、豊浦寺跡には向原寺という本願寺派のお寺が建っています。この寺の西側に甘樫坐神社という古社があり、まずはこの神社の境内に置かれている飛鳥の謎石の一つ、巨大な立石の前に集まりました。せっかくですので、この立石の前で、毎年4月に行われる盟神探湯(くがたち)神事が話題となりました。豊浦寺跡についてはその前で説明を受けることになりました。蘇我稲目が自宅を改修して仏殿とし、後に豊浦寺となった遺構が現向原寺境内に眠っています。豊浦寺の伽藍配置も発掘調査によってほぼ分かっていて、現向原寺境内が豊浦寺の講堂で、寺の南側の集会所建物の下に金堂があり、その南側の民家の庭先に塔の礎石が遺っていることから、四天王寺式の伽藍配置であったとされています。
さらに、この豊浦寺跡の下層からは推古天皇が小墾田宮に遷る前の豊浦宮跡遺構が検出され、今も向原寺に申し込むと見学可能な状態で遺構が保存・公開されています。時間の制約上、遺構そのものを見ることはできませんでしたが、集会所の南側の民家の庭先にある塔心礎だけでも見ていくことになりました。
ともあれこの豊浦の地は、本格的な飛鳥を都とする時代の始まりと、仏教伝来の揺籃期を象徴する地であると印象づけられました。
豊浦からは飛鳥川をわたり、石神遺跡を目指します。飛鳥資料館前から雷丘まで東西にまっすぐに伸びる古代山田道を眺望できる遺跡の前で、これまでの数次にわたる道路に関する発掘状況の説明を受けました。とくに午後からの講演の重要なポイントになる7世紀前半の阿倍・山田道の推定位置となる古代飛鳥寺の北限に沿って東西に今も残る里道と、漏刻があった水落遺跡の位置を確認し、飛鳥川の蛇行状況と古代幹道の渡河地点の合理性についての説明を現地で受けたことは、講演会の事前企画ならではの有益なウォ−キングだったと思われました。
近江先生推定 推古期阿倍・山田道 (明日香村大字飛鳥) |
そろそろ、予定していた飛鳥庵での昼食時間も迫ってきましたので、蘇我入鹿の首塚がある飛鳥寺西門跡をめざします。昼食をとる場所になる飛鳥庵では、先行していた事務局スタッフが温かいお茶を配り、庵の中に入りきれない方のために用意した断熱シートを座布団代りに配ります。両槻会ならではの手作りのオモテナシです。
午後からの講演会時間の予定もありますので、飛鳥庵での昼食時間は25分ほどしかとれませんでしたが、それでも弁当をとりながら参加者同士や、近江先生との歓談が始り、短い時間にもかかわらず、有意義なひとときとなったことだと思われました。
ここでの昼食の間にも、スタッフの一部はさらに飛鳥資料館に先行し、午後からの受付と会場準備に回ります。限られた事務局スタッフの動きは参加者の皆様方には目立たないかと思いますが、定例会参加者と楽しく過ごすために、それなりに奔走しています。スタッフもみなさんとご一緒に定例会を楽しむための必要最小限の役割だと思っています。それでも、今回は一部の参加者の動向を把握していなかったため、出発時の人数確認を失念し、不快な思いをおかけしたことが反省です。別行動をとられる場合は、予定の時間きっちりに戻られる場合であっても、事前にスタッフにお声かけをいただければ、このような場合のミスも避けることができるかと思いますので、今後ともよろしくお願いしたいと思います。
さて、食事を終えた後は、飛鳥庵から北に再び7世紀前半の阿倍・山田道と想定される里道に戻り、竹田道を東に辿り、竹田遺跡の手前を左折し、中世の飛鳥城が置かれていたとされる砦跡の小山の裾をめぐって今日の講演会場となっている飛鳥資料館前に、予定より少し早めにたどり着くことができました。
直接講演会場にお越しになる方も、事情で少し遅れる方1名を除いて皆さんがお揃いになりましたので、いよいよ今定例会の本番である講演会「飛鳥へのみち、飛鳥へのみち」が予定通り始まりました。
古代の道路というものにどれほど皆さんが関心をお持ちなのか、定例会講演会を企画したものの、参加者は限定的になるのではないかとの不安がありました。予備知識がなければ、歴史上著名な人の宮跡や屋敷跡とは縁のない土木技術や現在道路との比較検証という地味で退屈なものと思い込まれているのではないかと。かく言う私も、どちらかといえばその類でした。事務局長の風人さんが石神遺跡の現地説明会が行われるたびにがっくりしているのを見ていると、彼が抱いている妄想が何なのかに少し興味が湧いてきました。
桜井から弧を描くように山田寺跡の脇を通り飛鳥の奥山に出て来た道路が、そこからは東西方向の直線道路となって雷丘にぶつかっています。この県道が飛鳥川を越えて丈六の交差点で下ツ道と交わる古代の山田道であることは、知識としては知っていましたが、その古代道路がいつごろ作られたのかについてはそれほど深い関心がありませんでした。その古代道路は推古天皇の時代にまで遡り、その当時の道路痕跡は必ず現在の直線道路の南側にあるはずで、石神遺跡の調査が進むときっとその痕跡が出てくるに違いないという確信に近い妄想を持っていたのです。
そのことを自らのサイトで自分に納得させるように詳細に検討しているのです。そのサイトが本日の講師である近江先生の目にもとまり、そこから近江先生と意気投合、飲むことも古代道路にひけを取らない興趣のあるお二人の交流が始まりました。飲めば熱く語る事務局長の話に耳を傾けているうちに、近江先生が一般向けにも読み易い「道路誕生」(青木書店刊)を刊行されているのを知りました。彼が古道に関心を抱き、大和の古道を辿ってひたすら歩き続けていることは知っていましたので、彼を惹きつけて止まない古代道路についての書物も一度は読んでみようと手に入れました。
この本を読んで、古代の道路をめぐる壮大なロマンと現在にも繋がる道路の持つ濃密な政治的背景を知ることができ、その歴史的な展開を考古学的知見だけでなく、文献史学、歴史地理学との共同作業として捉えていらっしゃる先生の枠にとらわれない柔軟な思考、そして大胆な発想に、もとより深くは理解できなものの、とても新鮮な読後感を持ちました。
近江&風人コンビで実現した今日の講演会は、時間無制限でお願いすることになりました。属されている組織や専門研究者の目を忘れて、先生の思いのたけをずぶの素人相手に存分に聞かせていただきたいと思ったからです。もちろん、両槻会の活動に日ごろから一方ならぬご理解をいただき、会場を提供していただいている飛鳥資料館の門限がありますので、そのぎりぎりの時間までを唯一の制限として、およそ3時間に及ぶ熱い講演内容となりました。
発掘によって古代の道路遺構が検出されても、その道路がいつごろ作られたものかを調べるのはとても難しいものだと先生は仰います。
他の遺跡であれば、出土した土器や瓦などの遺物からある程度の年代を推定できるのだが、道路の場合、生活痕を留めるような遺物が少ない。道路は公共のものとして掃き清められ、側溝にもゴミが捨てられて残ることは少ないことが、年代決定を困難にしている遺構だということになります。そういえば、現在でも地域の生活道路や側溝は共同体の奉仕活動で溝をさらえ、堆積物やゴミは定期的に取り除かれ、清掃されていますし、幹線道路は国や自治体によって維持管理されていますよね。
古代の道路を調べてゆくには、考古学的アプローチだけでなく、日本書紀などの文献史料に残された地名などを手掛かりに道路の存在を読み取り、近世の街道・小字・行政界をもとに地図上で道路の復元を試みると、これらがかっての古代道路を示しているかもしれないのです。周辺遺跡を加えたこうした図上作業を丁寧に行ってゆくと古道の姿が見えて来ます。こうして手作りした地図をもとに実際に現地を歩き、今に残る古道の痕跡を訪ねるのを楽しそうにお話になりました。
両槻会メールマガジン「飛鳥遊訪マガジン」の「飛鳥咲読」にも紹介されましたが、かって風人さんも同じような作業をしながら古道歩きを行っていました。そこには、古道探訪を通じてその道を辿ったであろう古代の人々の日常や歴史の姿が見えてくることに大いなるロマンを感じるのかもしれませんね。まるで他人事のように書いていますが、先生のお話を聞いていて、古道の持つ魅力をあらためて認識させられた気になりました。
古道を調べるには、考古学的アプローチに加え、文献史学や歴史地理学といった方法によって、さらにはその道路が作られた社会的な背景を考えてゆく、多面的なアプローチが欠かせない作業だということでした。
先生が用意された講演会資料の保津・坂手道の一部と思われる田原本町宮古付近の地割図を見ると、城下郡と十市郡の郡界線上に沿って一筋の道路の痕跡を見ることができます。道路が交わるあたりには、大道、千股(巷、衢)などの小字名が残っていることがあるそうです。
日本書紀や日本霊異記などの文献資料からも古代道路のおおよその道筋を読み取ることができると、いくつかの記述とその内容の紹介がありました。
多くは覚えていませんが、武裂天皇即位前記の影媛の悲歌に、恋人が皇太子時代の武裂の横恋慕によって乃楽山(ならやま)で刑殺されると知って、北山の辺の道を刑場まで泣きながら駆け抜けた影媛のルートを辿る地名が残されています。歌の中に、石上、布留、高橋、大宅、春日、小佐保の地名が見えます。
日本霊異記の説話に出て来る小子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、知らずに天皇の寝所に紛れ込み、唐突に閨を見られた雄略天皇が照れ隠しに命じた詔を真に受け留めて雷を捕えに走った阿倍・山田道の話は、飛鳥遊訪マガジンの先生の連載記事でも、忠誠心旺盛ながらどこか抜けていて周囲の笑いを誘う栖軽の人柄を好ましく紹介されています。阿倍の山田の前の道、豊浦寺の前の路、軽の諸越の衢と、阿倍・山田道に相当するルートが書き留められています。
日本書紀推古天皇16年(608年)の条には、隋からの使者・裴世清が難波から小墾田宮に入京するまでの行程が記され、飾り馬75匹を設えて海石榴市(桜井市金屋付近?)に迎えています。海石榴市に至るまでのルートは大和川を遡ったのか、陸路を辿ったのかは定かではありませんが、推古18年の新羅からの使者が大和国城下郡の阿刀の川辺の館に迎えられていることから、裴世清も陸路をとって海石榴市に至った可能性もあるようです。その陸路を辿ったとすれば、地割や屯倉との関係で確認できる、海石榴市から王寺に至る保津・阪手道の斜向の直線路をとったのではないかと、先生は思われているようです。
この保津・阪手道と、同じく斑鳩と飛鳥の京を斜向の直線路で結んでいたとされる太子道との関連について、先生は太子道と称される道の部分の確認はできても、斑鳩に繋がっていたとする確証は得られていない。おそらくは聖徳太子没後に高まった太子信仰から名付けられたもので、聖徳太子が摂政時代からこの道が存在していたとは言えないとされ、参加者との質疑応答でもかなり明確に否定されていたのが印象に残りました。
また、聖徳太子が斑鳩の地に居を構えたのは、難波から飛鳥の京に至る外交上の交通の要所を押さえることにあったとされるが、保津・阪手道を活用すれば斑鳩の地を通る必然性は見当たらず、むしろ仏教導入をめぐる戦で滅んだ物部氏のルートを引き継ぐか、屯倉を引き継いだのではないかと考えられています。
古代史最大の内乱となった壬申の乱については、日本書紀がかなり詳細に行軍ルートや、大友軍と大海人軍の交戦地となった地名を書き記しています。とりわけ、大海人方について名門一族の命運をかけた勝負に出た将軍大伴吹負が、先走った交戦によって早々と飛鳥京を制圧し、余勢をかってやや調子に乗ったような戦いぶりが記録されています。この吹負のおかげで、われわれは大和の古道のかなりの部分を記録によって確認することができ、吹負様さま、古道研究の恩人だと先生は仰います。
この壬申の乱には大和の主要幹線道路がいくつも出てきます。奈良盆地を南北正方位に貫く直線路の上ツ道、中ツ道、下ツ道、東西方向の直線道路である横大路などです。
この日本書紀の記述によって、これらの正方位の直線道路が壬申の乱(672年)には存在していたことが明らかになります。したがって、藤原京や平城京以前にこれらの道が計画的に作られていたとすれば、遡っていつの頃にこれらの道路が敷設されたのかが議論の分かれるところになります。とくに、南北正方位に2.1キロ間隔で3本も直線道路が併走して敷設された上中下道は、門外漢であってもかなり興味をかきたてられる道だと思われます。
いったい何のために、このような道路を造る必要があったのか。これほどの道路が作られる以上、相当な国家権力と財政基盤がなければなりません。壬申の乱以前といえば飛鳥時代になります。奈良盆地の東南隅の狭隘な地に都があった時代に、本当にこのような道路があったのかは、やや現実感に欠けるような気がしないでもありません。とくに飛鳥京時の建物跡は飛鳥寺などの一部を除いては、ほとんどが地形に合わせて正方位から西に20度ほど振れていると、現地説明会などで何度も聞く話です。これらの道路が、将来の藤原京や平城京を想定して、飛鳥京の時代から計画的に整備されていたとすると、驚くべき構想だと思われます。実際にも、その後の藤原京や平城京はこれらの基幹道路を基準として造営されています。
発掘の結果、幅員が23〜24メートルもあったという道路が、成立当時からその規模を備えていたのか、また、成立時からすべて正方位の直線道路であったかどうかまでは分からないようです。
飛鳥時代の天皇でこのような構想を抱いた人物となると、日本書紀が記す「狂心の渠」と謗られ、多くの土木工事を好んで興した斉明天皇(皇極天皇)が直ぐに思い起こされます。斉明天皇(皇極天皇)の時代とすれば7世紀半ばとなりますが、日本書紀の推古天皇20年(612)の二月の条に、欽明天皇の妃堅塩媛(蘇我稲目の娘)を檜隈大陵に改葬し、軽の衢にしのびごとを奉ったという記述があり、すでに下ツ道と阿倍山田道の交わる殷賑の衢があったことが推測されます。また、推古21年冬11月の条には難波より京に至るまでに大道を置いたと記録されています。この推古天皇の時代・7世紀初めは蘇我氏全盛の時期でもあり、外交上の権威の必要性や屯倉(天皇家の直轄地)の整備を進めるうえからも、飛鳥から佐保丘陵に至る奈良盆地内の土地区画整理事業の基準となる計画道路が整備されたとも考えられます。
道路遺構は遺物が少なく、道路成立の決め手となるような遺物がほとんど検出されて来なかったのですが、平成19年7月、平城遷都1300年記念事業の一環の発掘調査で、先生も当者として直接調査に当たっておられた平城京三条一坊四坪の下ツ道東側側溝から、なんと7世紀初頭頃の須恵器の杯蓋が一点出てきたのです。
平城京左京三条一坊四坪(朱雀大路・三条大路・下ツ道)記者発表資
(橿原考古学研究所HP)
「なんじゃ、こりゃ?」 本日の講演会にもゲストとして参加しておられる先生の愛弟子・奥井智子さんが須恵器を発見した時の第一印象を、橿原考古学研究所の土曜講座の初デビュー講演でこのようにつぶやいたと語っています。先生の持論である6世紀末から7世紀初めには成立していたと思われる下ツ道遺構から、それを実証できる決め手の土器を検出したまさにお手柄の貴重な発見だったのです。にもかかわらず、彼女は最初、その重要性の意味が分からなかったと、先生はご愛嬌たっぷりに披露されました。須恵器発見者としての土曜講座の初デビュー講演は、とても初々しく、場慣れした古参の先生方にはない新鮮さを感じたのを覚えています。とても小さな調査区で、先生もどうせ下ツ道の側溝を確認する程度の調査だと考えておられたようで、まさかそんな遺物が出て来るとは予想もされなかったそうです。
しかし、たった一点の出土だけでは、たまたま古い土器が側溝に紛れ込んで残った可能性も否定できないとする研究者も多く、下ツ道が7世紀初頭には存在したとするには、直線の道路網が建設された歴史的、政治的理由をさらに明らかにしてゆく必要があるが、今回の須恵器の検出は、道路の成立時期が7世紀初頭に遡る傍証になることは確実だと仰います。
先生の古道にまつわるお話を聞いていると、古代の女帝はみんな土木好きのように思えてきますが、そこには女帝を支え、あるいは操った黒幕の権力者がいたに違いないでしょうね。また、土木技術などの渡来系の技能集団を積極的に抱え込んだ氏族が、血みどろの権力抗争を繰り返し、自ら一族の繁栄と生き残りを画策しながらも、結果としてはこの国のかたちを生み出していった歴史の大きな流れが見えてくるようで、壮大な歴史ロマンを感じる講演会となりました。
最後に先生は、飛鳥へ続く大和の古道を訪ね歩きながら、「ン?…今、裴世清とすれ違ったな」と想像するのも、古道歩きの楽しみだと結ばれました。
このレポートは、先生の3時間にもわたる講演の内容を正確に記述したものではありません。お話になった内容の断片を講演当日の資料をもとに思い起こしながら、一参加者としての受け取った印象を、前後の脈絡もなくまとめたものです。したがって、「おれはそんなこと話してないぞ」という部分も多いかと思いますが、ご容赦ください。また、その他にも語っていただいた多くの貴重なお話もあったはずですが、あいまいな記憶しかないのが残念です。(実は勉強不足を露呈している言い訳♪)
最後に質疑応答の内容をいくつかご紹介して、近江先生のご講演印象記を終わります。
Q 太子道はなかったのでしょうか?
A 斜行する道の一部は確認されていますが、斑鳩まではつながっていません。おそらく太子信仰の高まりとともに後世に名付けられたものだと思われます。
Q 北の横大路は確認されているのでしょうか?
A 確認されていません。
Q 下ツ道の西側には南北に直行する道はなかったのでしょうか?
A 的を射た疑問ですね。地図をご覧になるとわかりますが、西側では河川の合流点と重なるため、下ツ道以西には敷設できなかったと考えられます。
A 18メートルもの道幅の道路を作る必要性があったのでしょうか?
Q 下ツ道では23.5メートルもあります。これくらいの道路を作れる国だということを見せつけたかったという要素もあるでしょうね。
Q 道路の造作技術はどの程度のものだったのでしょうか。
A 雨が降ればぬかるむ程度だったと思われます。
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