軽衢(術) (かるのちまた)
天飛ぶや 軽の路は 我妹子が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み
・・・・・・中略・・・・・・
我妹子が 止まず出で見し 軽の市に 吾が立ち聞けば
玉たすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
巻2−207 「柿本朝臣人麿の妻死(みま)りし後に泣血(いさ)ち哀慟(かなし)みて作れる歌二首併せて短歌」として、万葉集に掲載されている長歌です。現在の国道169号線丈六交差点付近が、古代においても下ツ道と阿部山田道の交差する地点となりますので、軽衢(術)が形成され、その周辺に市があったことが推測されます。
衢(ちまた)または日本書紀には「術」とも書かれますれ、現在では巷・千股・岐とも書きますが、道路が交差する所で、人々の往来も多く賑わいを見せる所を表しています。そのような場所ですから、市が開かれる立地条件にも適うことになります。
古代の市としては、他には海石榴市などが有名です。
また、丈六という交差点名は、丈六仏を連想させます。丈六仏をお祀りするほどの寺院が存在した可能性を示唆しているように思われます。厩坂寺などの可能性もありますが、確たる資料も考古学成果も現状では無いようです。
軽寺
大軽町の台地の上に、春日神社があります。境内には第15代応神天皇軽島豊明宮跡(古事記には軽島之明宮)の伝承地碑があり、傍らには万葉歌碑が建っています。
天飛ぶや 軽の社の 斎槻 幾代まであらむ 隠り妻そも 巻11−2656
軽寺は、この神社とそれに接するようにある法輪寺というお寺の付近に在ったとされています。現在の法輪寺は、浄土宗のお寺で、本尊として阿弥陀如来坐像を祀っています。本堂前には割れた礎石のような石が散見されます。
伽藍様式などは、不明な点が多いのですが、法輪寺境内に金堂及び講堂と推定される基壇が残っているとされています。北側にある春日神社などから見ると、法輪寺本堂の下は一段高くなっており、基壇のように見えます。推定によれば、回廊内の左に塔、右に金堂が建つ法隆寺式ではないかとする説があるようです。(橿原市教委)
近江先生の説明によれば、中心伽藍は、神社北側の台地上にあるようです。
軽寺の創建年代は明確にされていませんが、付近から飛鳥時代後期、あるいは白鳳時代前期と思われる古瓦(素弁八弁蓮華紋=軽寺式と呼ばれている軒丸瓦)が発見されていることから、7世紀後半の建立であると思われます。
橿原市教育委員会作成の案内板によれば、創建者は賀留大臣玄理で、推古天皇の時、唐から持ち帰った薬師如来像を本尊として軽寺を建てたとされています。渡来系の氏族「軽氏」の氏寺であったのでしょうか。
軽寺が最初に文献に登場するのは、日本書紀朱鳥元年(686)8月条で、軽寺に食封百戸を施入した記事になります。伝承の創建からはかなりの年月を経過していますが、その間、軽寺がどのように存在していたかは分かりません。
白鳳・奈良時代を過ぎ、次に軽寺が姿を示すのが、両槻会第七回定例会のテーマになりました「道長が見た飛鳥」とも関連するのですが、道長が最初の吉野参詣時のこととなります。御堂関白日記には次のような記載があります。
寛弘四年(1007)8月5日の条、
「終日雨降、宿軽寺、御明・諷誦、信布十端」。
付近には、飛鳥はもちろんのこと、久米寺や大窪寺などたくさんのお寺があるにもかかわらず、この軽寺を宿泊地に選んだのは、軽寺が規模を備えながら衰えることなく存続していたことを示しているのではないかと思われます。
石川精舎跡
日本書紀敏達天皇13年条に「馬子宿禰、亦、石川の宅にして、仏殿を修治る。仏法の初、茲より作れり」とあり、「大和志」「和州旧跡幽考」なども、石川精舎の場所をこの本明寺としています。
石川精舎が造られた頃は、未だ廃仏派とされる物部氏や中臣氏の勢力も強く、さすがの蘇我馬子も本格的な寺院の建設が出来ず、私邸に仏殿を造るに止まったのかも知れません。
石川精舎の候補地は、この本明寺以外にも、同町の大歳神社西側付近のウラン坊遺跡などがありますが、どれも確証のあるものではありません。ウラン坊遺跡は、7世紀後半の古瓦が出土しており、厩坂寺かともされます。
橿原神宮前駅から明日香村までのバス路線沿いは、石川精舎や大野北塔や豊浦寺が並び、飛鳥時代初期の仏教揺籃期にあっては、その中心的な場所であったように思います。またそれは蘇我氏の勢力圏を示しているようにも思えます。
境内にある五輪塔は、馬子塚五輪塔とも呼ばれているようですが、そのような土地柄の中に生まれた伝承の一つなのかも知れません。
この五輪塔には、橿原市史によると越智氏所縁のものとする説もあるようです。
和田廃寺
橿原市和田町の住宅地の北端に「大野塚」と呼ばれる土壇があります。和田廃寺はこの土壇を中心とする寺院跡です。周辺にはトウノモト・堂の前といった小字名が残っているようです。
現在の大野塚土壇は南北約14m、東西約9.5m、高さ約1.7mの規模ですが、発掘調査では礎石を抜き取った痕跡や根固め石が見つかり、一辺が12.2mに復元が出来る塔基壇の西半分が残在したものであることが分かっています。この塔は、基壇の版築土中から出土した瓦などから、7世紀後半に創建され8世紀後半まで存続していたことが分かっています。
出土した軒瓦には、単弁無子葉蓮華文軒丸瓦や川原寺式などの複弁八弁蓮華文軒丸瓦、重弧文軒平瓦や均整唐草文軒平瓦がみられます。また、土壇の南で実施された発掘調査では、寺の南限かと考えられる柵が見つかったほか、その北で7世紀後半に位置づけられる鴟尾が出土しました。
以前には、この大野塚土壇は、敏達14年(585)に蘇我馬子によって建てられた大野丘の北塔とされてきましたが、最近では「葛城寺 (葛城尼寺)」と考えられるようになっています。『聖徳太子伝暦』推古天皇29年(621)条には、聖徳太子創建七ヶ寺の中に「葛城寺」の名が見られ、また「この寺を蘇我葛木臣に給う」と記されています。蘇我氏にも葛城(葛木)を名乗る一族が居たのかも知れません。またこの蘇我葛木臣を馬子と考える説もあるようです。
『続日本紀』光仁天皇即位前紀の童謡に、「葛城寺乃前在也、豊浦寺乃西在也、於志止度、刀志止度、桜井爾」とあり、桜井の地が葛城寺の前であるとともに、豊浦寺の西であったことが分かり、言い換えれば、葛城寺が豊浦の西に在ったということになり、和田廃寺が葛城寺で在る可能性が高いと言えそうです。
大野丘北塔
敏達天皇13年(584)9月、鹿深臣と佐伯臣が、弥勒石像2体を携えて百済から帰国しました。蘇我馬子は、槻曲の宅に仏殿を作って、2体の石像を祀るとともに、修行者を求め、求めに応じた高麗僧恵便と、司馬達等の娘善信尼と、その弟子禅蔵尼・恵善尼を、先の仏殿に招き法会を行いました。その折り、司馬達等の食事の上に舎利が現れ、舎利は馬子に献上されました。翌14年(585)の2月に、大野丘の北に塔を建て、法会を催すとともに、先の舎利を塔の柱の先端に納めました。しかし、その1ヵ月後、大野丘北塔は物部守屋によって破壊されています。
同じ頃、馬子は石川の宅にも仏殿を設けました。それが先に見た石川精舎ということになります。
田中宮・田中廃寺
橿原市田中町の集落内には、舒明天皇の田中宮やその後に建てられたという田中廃寺が在ったとされています。
舒明天皇の主たる宮殿は飛鳥岡本宮ですが、636年8月、岡本宮に火災が起こったために宮を移すことになります。その地が、この田中町付近であるとされています。仮の宮であったのか、本格的な宮地を定められなかったのか、この後、舒明天皇は厩坂宮や百済宮に移られ、そこで亡くなられました。
この集落には、土壇と思われる場所が二ヶ所あり、それは舒明天皇の宮殿や蘇我氏の一族である田中臣(稲目の子・馬子の兄弟)に関わる寺院の痕跡ではないかとされています。
1990年に発掘調査が行われており、田中廃寺と呼ばれる古代寺院の存在が確実になりました。この調査では、南北棟の総柱建物や東西棟の四面廂をもつ大型建物、また回廊状の建物が想定できる柱穴列なども検出されたそうです。フイゴの送風口・坩堝・鉄くず・銅くずなどの鋳造関係遺物や瓦が大量に出土した土坑なども検出されました。出土した瓦には、単弁蓮華文軒丸瓦や単弁有子葉蓮華文軒丸瓦(山田寺式)重孤文軒平瓦の組み合わせが使用されていたようです。そのことなどから、創建は七世紀中頃ではないかと推測されています。また、田中廃寺は藤原京建設によって、その寺域を条坊に合わせて縮小していることも分かったようです。
しかし、創建当初の伽藍や寺域は不明な点が多く、集落内に在る土壇がおそらくは金堂や講堂など中心伽藍ではないかと思われます。この土壇がある竹薮は、「天王藪」または「弁天の森」等と呼ばれています。また集落の東に在る法満寺と言うお寺には、塔心礎とも伝えられる礎石が残っています。
古宮土壇
田んぼの中のこんもりとした盛土の上に、一本の木が立っています。古宮土壇として知られるものですが、周辺を含めて古宮遺跡と呼ばれます。
この古宮遺跡ですが、以前は小墾田宮跡ではないかと言われてきました。現在も推定地の一つとして案内板に書かれています。小墾田宮というのは、推古天皇が603年「豊浦宮」からこの「小墾田宮」へ移られ、628年に崩御されるまでの25年間を過ごされた宮です。小墾田宮は、宮の構造が推測できる初めての宮と言えます。書紀には、608年に隋の裴世清が来朝した際、宮の「庭」に迎えて、外交儀礼を行なったことが記されています。宮には、南門を入ると「庭」(朝廷)があり、その左右には「庁」(朝堂)が建っていたことが分かります。
また、庭の奥には大門があり、さらに奥には大殿があったようです。天皇の住まい(内裏)と朝堂(朝堂院)が分離する原形だとも言われています。
ところで、1987年に行われた雷丘東方遺跡の発掘調査により、奈良時代から平安時代にかけての井戸跡が検出され、そこから「小治田宮」・「小治宮」と書かれた墨書土器が出土しました。このことから、小墾田宮は古宮土壇から飛鳥川を東に越えた雷丘東麓であるとする説が有力となりました。ただし、確認されたのは、奈良時代以降の小墾田宮ではあるのですが。
では、古宮遺跡は何だったのでしょう。周辺は、1970年に発掘調査が行われています。土壇の南側からは、7世紀初頭を中心に、7世紀前半にかけての遺構が検出されています。石組の小さな池と、そこから流れ出るS字状をした25m以上続く石組溝や、その周辺を囲む石敷きを含む庭園遺構が確認されました。これらの庭園遺構は、規模や様式からみて、宮や豪族の邸宅に相応しいものだと思われます。時期的にも、これらの遺構は推古天皇の時代と矛盾するところはなさそうです。山田道が南を走る点など、小墾田宮とする状況証拠はあるようにも思われます。しかし、最近では古宮土壇を含むこの遺跡は、地理的に豊浦と隣接することや出土瓦の検討などからも、蘇我氏邸宅の苑池跡ではないかとする見方が有力となってきました。
また、西側の駐車場周辺では、8世紀前半の掘立柱塀による大規模な区画施設と掘立柱建物群が検出されています。
古宮遺跡が庭園遺構だとするならば、古宮土壇は何なのでしょうか。庭園には、あの土壇は不似合いのようにも思われます。
この土壇も発掘査が行われており、築造時期は12世紀末ごろと判明しているそうです。平安時代末から鎌倉時代初期ということになります。土壇の周辺からは、1879年に金銅製四環壺が掘り出されています。現物は宮内庁が収蔵しているようですが、7・8世紀に作られた火葬蔵骨器と推定されるそうです。想像でしかありませんが、12世紀末に土壇は供養塚として作られ、当時は木の代わりに、五輪塔が建っていたのかも知れません。もし、五輪塔が残っていたならば、稲目塚などと、今日呼ばれていたかも知れません。
豊浦寺
豊浦寺跡には、現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられており、境内の発掘調査から、下層に古代寺院の存在が明らかになっています。境内は、ほぼ古代の豊浦寺の講堂であったと思われます。また金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に存在したことがほぼ明らかにされています。塔跡は、塔心礎とされる礎石の存在する付近に石敷をめぐらした基壇が発見されていますが、位置的に塔と確定するには疑問も残ります。これらのことにより、豊浦寺は四天王寺式伽藍が推定されていますが、塔の位置などから、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残るのではないかと思われます。
豊浦寺は、我国の仏教公伝と深く関わる非常に古い歴史を持ちます。欽明13年(552)10月、百済・聖明王の献上した金銅仏像・幡蓋・経論などを授かった蘇我稲目が、小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたことが書かれています。
また、元興寺縁起併流記資材帳によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達11年(582)に至って桜井道場と呼ばれ、15年には桜井寺と改称し、推古元年(593)等由羅寺へと変わって行ったとされています。
両記事から、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)として改修され、それが豊浦寺へと発展していったことが分かります。
推古11年(603)冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。
創建時講堂は、南北約20m、東西約40mの基壇の上に建てられた礎石立建物で、南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます。建物は、北で西に約20度振れる方位を示しています。そして、その建物に先行する遺構が講堂の下層に在ることが確認されました。南北4間以上、東西3間以上の掘立柱建物で、柱の直径が30cmの高床式南北棟建物として復元できるようです。建物の周りには石列がめぐり、建物の外側に約4m幅のバラス敷が検出され、特殊な建物であったことが容易に想像出来ます。
バラス敷は、講堂の下層全面から金堂下にも及んでいたようです。また、この遺構時期と思われる6世紀後半の石組遺構や柱列が、回廊や尼房下層からも発見されています。
これらの遺構は、豊浦寺に先行する豊浦宮の可能性が大きいものと推測できます。また、稲目の向原の家の一端を見せているのか知れません。
雷丘東方遺跡
雷丘東方遺跡は、これまでの調査で、計画的に配置された奈良時代の倉庫群や礎石建物が検出されており、平城京や難波宮と同じ瓦が出土することから、役所あるいは宮殿であった可能性が強いと指摘されています。
さらに、「小治田宮」・「小治宮」と書かれた墨書土器(明日香村埋蔵文化財展示室蔵)のまとまった量の出土は、奈良時代以降の小治田宮の可能性を高めています。他にも飛鳥時代の遺構があることなどから、遡って推古天皇の小墾田宮も同地にあった可能性が高くなったと考えられています。
また、奈良時代の井戸枠が発見されているのですが、木材の年代を測定した結果、758年に伐採された木材であることが判明しました。
続日本書紀には、天平宝字4年(760年)淳仁天皇が「小治田宮」に行幸したことが書かれており、井戸や周辺の建物跡は、この時に合わせて整備された小治田宮の付帯施設であると推測されているようです。
この発掘成果によって、従来は豊浦にある古宮土壇を小墾田宮としていたのですが、この雷丘東方遺跡を小墾田宮とする説が最有力となりました。
しかしながら、古代の幹線道路の山田道との位置関係など、不明な点も多く残ります。
石神遺跡
遺跡は、20次に及ぶ発掘調査が継続的に行われています(現在も21次調査が進行中)。飛鳥寺の北限と竹田道(山田道)を挟んで接し、遺跡の南西には水落遺跡があります。
石神遺跡から明治35年に出土したことで知られる石人像(道祖神像)や須弥山石は、遺跡の最南端から発見されています。 その場所は、石が敷詰められており、方形池などを伴った庭園遺構であったことが分かっています。
『日本書紀』に斉明天皇3年(657)7月15日「須彌山の像を飛鳥寺の西に作る。且、孟欄盆曾設く。暮に、覩貨邏人に饗たまふ。」、また斉明天皇6年5月 「石上池のほとりに須彌山を作る。高さ廟塔の如し。以って粛慎四十七人に饗たまふ。」とあり、石神遺跡の須弥山石が、この記述の物かどうかは別にしても、 斉明天皇の時代に作られたものだと考えられています。
石神遺跡は、これまでの調査によって斉明期、天武期、藤原京期と3期の遺構が重層していることがわかっています。3期の遺構は、それぞれに特徴を持ち、その性格は異なったものになっています。
斉明天皇の頃には、迎賓館的な建物や庭が中心となっており、須弥山石や石人像を配した石敷きの広場を持っていました。また、それに付帯する建物群が検出されています。
天武期になると、遺構からは木簡が多数出土し、遺跡の性格は変わってくるように思われます。 第15次調査では、「贄」(諸国の特産物や貢ぎ物を示す)と記された木簡などが確認されています。木簡は削りくずを含めると1000点を超え、7世紀としては飛鳥池遺跡に次ぐ量になります。また朝廷へ献上する物品「調」と「五十戸」を併記した木簡も出土しており、各地から派遣され雑役に従事する仕丁の生活費にあてる「養」の荷札などもあることから、庭園を廃して、より公的な施設へと造りかえられたことがうかがえます。
藤原京の時期になると、ますます役所的な性格を強めて行くようです。第15次調査では、持統三年(689年)の3、4月の一部を記した日本最古の暦の木簡が見つかりました。中国で5世紀半ばに作られた「元嘉暦(げんかれき)」という暦で、実物の発見は中国を含めても初めてのものでした。出土品は、直径約10センチの円盤状だったのですが、もとは縦25センチ、横50センチほどの長方形の木簡で、不要になったため丸く切って容器の蓋などに再利用されたようです。
また、第16次調査では、7世紀後半の国内最古の定規が出土しています。公文書を書く際に行間をそろえるために使われたとみられ、定規は木製で端から約10センチが残っていました。それに等間隔の目盛りが切り込まれています。正倉院文書などには、定規を使い、墨で線を引いて行間を等間隔にそろえて文字を書いた奈良時代の古文書や経文が残されており、飛鳥時代も同様の方法で書いていたとみられます。
これらの出土物は、古代日本が律令制国家へと転進してゆく、その姿を示しているように思えます。
飛鳥寺西門跡
西門は、寺の四方に開いた門の中で最大の大きさだとされています。その大きさは、三間(11.5m)×二間(5.5m)の規模になります。西門は、礎石を置いて柱を立ち上げた瓦葺の門でした。今も、その地に礎石が復元設置されています。西門外には塀があり、土管を繋いだ上水道が埋まっていました。
これらのことは、西門の西に槻の木の広場があったことと無関係ではないように思われます。
入鹿の首塚
飛鳥寺を西に出ると、甘樫丘を背景に五輪塔があります。これは、蘇我入鹿の首塚と言われるものです。伝説では、乙巳の変(大化改新)の時に切られた蘇我入鹿の首が、飛鳥板蓋宮からこの地まで飛んできたとされます。五輪塔そのものは、鎌倉時代に建てられたものだそうです。
また、切落とされた入鹿の首は、鎌足を細川の上流にある明日香村字上の「もうこの森」(気都倭既神社付近)まで追い掛け回したという伝承があります。あるいは高見山に落ちたとの伝えもあり、高見山東麓の舟戸集落には入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔もあります。
五輪塔は、創建当時の飛鳥寺に住持した恵慈・恵聡の墓だとする伝承もあるのだそうです。恵慈は高句麗僧、恵聡は百済僧で、共に聖徳太子の仏教の師ともされる人物です。
近年まで、五輪塔は二基あったという話もあり、二人の偉大な僧の供養塔だと言うのも面白い話になるかもしれません。五輪塔の形がややアンバランスに見えるのは、下から二つ目の水輪が逆向きになっているのではないか、また二基の石塔を足して一つの物に作り変えたからだとも言います。
槻の木の広場
大化改新の序曲となる中大兄皇子と藤原鎌足の出会いを始め、日本書紀に数々のエピソードが綴られる槻の木の広場ですが、実態は解明されていません。
古地図の小字名を見ると、入鹿の首塚から東に二枚目のやや南の田んぼが、「土木」と呼ばれていることが分かります。ドキ ⇔ ツチノキ ⇔ ツキノキ なのでしょうか。 確証のある話ではありませんが、槻の木の広場のおおよその位置を示しているように思えます。
飛鳥城
飛鳥城も明日香村にある中世城郭の一つです。 低い丘に築かれた小規模の砦様の城郭です。「国民」と呼ばれるほどの勢力ではない村落レベルでの土豪の城郭(砦)であるとされています。 飛鳥地域の他の中世城郭でも同様ですが、城主を特定することは難しいようです。 ただ、飛鳥城は飛鳥氏ではないかとする説もあるそうです。
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