両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第12回定例会

飛鳥のみち 飛鳥へのみち

− すべてのみちは、飛鳥に通ず −

両槻会第12回定例会 近江俊秀先生作成 講演会資料

 この資料は、近江先生がご準備してくださった資料の一部を許可をいただいて掲載しています。当日資料としては地図等の添付資料もありましたが、ネット掲載に際し、容量の問題もあり掲載出来ないものがありました。また、一部は加工または画像化して掲載させていただいています。ご了承ください。近江先生がご準備くださいました資料は、総ページ数14ページと大判地図資料2ページに及びます。
 この資料の著作権は、近江俊秀先生にあります。無断転載は固くお断りします。

この色の文字は、リンクしています。
2009.1.10  
飛鳥のみち、飛鳥へのみち
 ―すべてのみちは、飛鳥に通ず−
近江 俊秀    
P1

1.道路を調べるのは難しい!?
  • (1)考古学だけからのアプローチは、困難
    • 道にゴミを捨てては、いけません!
      道路はいつもきれいに!
  • (2)だから、いろいろな視点での検討が必要
    • @史料から道路の存在を読み取る −文献史学的方法
        影姫あわれ
      A地図などから道路を復元する −歴史地理学的方法
        近世の街道・小字・行政界  これらももしかしたら古道かも?
      B道路がつくられた社会的背景を考える 
    •   −文献史学と考古学の共同作業
        道路をつくるには理由があります。
2.史料に見える大和のみち。
  • (1)小子部栖軽 阿部・山田道を走る
    (2)隋使 裴世清 難波から小墾田宮へ
    (3)将軍 大伴吹負 あなたは古道研究の恩人です。
3.すべてのみちは、飛鳥に通ず。 大和古道物語
  • (1) 隋使は、果たして大和川を舟で遡って、海石榴市に来たのか?
    • @見つけた!新しい古道
      A太子道って、本当に聖徳太子の道?
  • (2) 古代の国道 1号線 竹内街道は本当に国道1号線?
    • @古代の女帝は、みんな土木好き?
      A推古天皇の土木工事 果たして黒幕は馬子?太子?
  • (3) 将軍 大伴吹負
    • @壬申紀は、道路の宝庫
      A大和での最終決戦
4.道路を調べる楽しさ・歩く楽しさ


P2

天皇と宮
天皇 宮の所在地 大臣 大臣の家 所在地 大臣没年
宣化天皇 檜隈廬入野宮 明日香村檜前 蘇我稲目 向原家 明日香村豊浦 欽明31没
欽明天皇 磯城嶋金刺宮 桜井市金屋 軽曲殿 橿原市大軽町
敏達天皇 百済大井宮
訳語田幸玉宮
橿原市?
桜井市戒重
蘇我馬子 石川宅
槻曲家

橿原市石川町
橿原市大軽町
または西池尻町
明日香村島庄





推古34没
用明天皇 磐余池辺双槻宮 桜井市池之内?
崇峻天皇 倉橋柴垣宮 桜井市倉橋
推古天皇 豊浦宮
小墾田宮
明日香村豊浦
明日香村雷
蘇我馬子
蘇我蝦夷
豊浦 明日香村豊浦
舒明天皇 岡本宮
田中宮
百済大宮
明日香村岡
橿原市田中町
桜井市吉備?
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史料1
  • ●『日本書紀』武烈即位前紀
    石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ妻隠る 小左保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盛に 水さへ盛り 泣き沽ち行くも 影媛あはれ
史料2
  • ●『日本霊異記』上巻「雷を捉へし縁」
    栖軽(すがる)勅(みことのり)を奉(たてまつ)りて宮より罷(まか)り出づ。緋(あけ)の縵(かづら)を額に著け、赤き幡桙(はたほこ)をフ(ささ)げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道と豊浦寺の前の路とより走り往きぬ。軽の諸越(もろこし)の衢(ちまた)に至り、叫囁(さけ)びて請けて言(まう)さく、「天の鳴電(なる)神(かみ)、天皇請け呼び奉る云々(しかしか)」とまうす。
史料3
  • ●『日本書紀』応神天皇三年十月条
    三年の冬十月の辛未(かのとのひつじ)の朔(ついたち)癸(みずのと)酉(とり)日(のひ)に、東の蝦夷(えみし)、悉に朝貢(みつきたてまつる)る。即ち蝦夷を役(つか)ひて、厩(うまや)坂道(さかのみち)を作らしむ。

  • ●『日本書紀』応神天皇一五年八月条
    十五年の秋八月の壬(みずのえ)戌(いぬ)の朔丁(つきたちひのとの)卯(うのひ)に、百済の王(こきし)、阿直伎(あちき)を遣(まだ)して、良馬二匹を貢る。即ち軽の坂上の厩に養はしむ。因りて阿直伎を以て掌(つかさど)り飼はしむ。故、其の馬養ひし処を号けて、厩坂と曰ふ。
P3
史料4
  • ●『日本書紀』推古二〇年(612)二月条
    皇太夫人(おほきさき)堅塩媛(きたしひめ)を檜(ひの)隈(くま)大陵(のおほみささぎ)に改め葬る。是の日に、軽の術(ちまた)に誅(しのびごとたてまつ)る。

史料5
  • ●『日本書紀』天武元年(672)七月条
    則ち軍(いくさ)を分(くば)りて、各(おのおの)上中下(かみなかしも)の道に当てて屯(いは)む。唯し将軍吹負(ふけい)のみ、親(みづか)ら中道(なかのみち)に当れり。

史料6
  • ●『隋書』巻八一東夷伝倭国条
      今故(ことさ)らに道を清め館を飾り、以って大使を待つ。

史料7
  • ●『日本書紀』斉明天皇二年是歳条
    田(た)身(むの)嶺(みね)に、冠(かうぶ)らしむるに周(めぐ)れる垣を以(も)てす。田身は山の名なり。此をば大務と云ふ。復(また)、嶺の上に両(ふた)つの槻(つき)の樹の辺(ほとり)に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻(ふたつきの)宮(みや)とす。亦(また)は天宮(あまつみや)と曰ふ。時に興事(おこしつくること)を好む。廼(すなわ)ち水工(みずたくみ)をして渠(みぞ)穿(ほ)らしむ。香山(かぐやま)の西より、石上山(いそのかみのやま)に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流(みづ)の順(まま)に控引(ひ)き、宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。時の人の謗(そし)りて、曰はく、「狂(たぶれ)心(ごころ)の渠(みぞ)。功夫(ひとちから)を損(おと)し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材(みやのき)爛(ただ)れ、山椒(やまのすえ)埋(うずも)れたり」といふ。又、謗りて曰く、「石の山(やま)丘(おか)を作る。作る随(まま)に自づからに破れなむ」といふ。若(も)しは未だ成らざる時に拠(よ)りて、此の謗を作(な)せるか。

史料8
  • ●『日本書紀』大化二年(六四六)三月甲申条
    復、役はるる辺畔の民有り、事了りて郷に還る日に、忽然に得疾して、路頭に臥死ぬ。是に、路頭の家、乃ち謂りて曰く、『何の故か人をして余路に死なしむる』といひて、因りて死にたる者の友伴を留めて、強に祓除せしむ。是に由りて、兄路に臥死ぬと雖も、其の弟収めざる者多し。
P6

【参考資料1】
『日本書記』推古16年条(608)に見える、隋使の大和入国までの行程

4月    遣隋使小野妹子、隋使裴世清と12人の下客らとともに、筑紫に到着。
      難波吉士雄成が出迎える。難波に、隋使を迎え入れるための館を建設する。
6月15日 隋使ら難波に到着。飾船30隻をもって出迎える。先の館に宿泊する。
8月 4日 海石榴市街で額田部連比羅夫が飾馬75匹をもって出迎える。

 関連年表1
時代  元号 西暦  主な出来事  道路関係
 飛鳥時代  推古元年 593 推古天皇、豊浦宮で即位する。 この頃、奈良盆地に直線道路網が造られる。 
推古16年 608  隋使裴世清来朝  
推古18年 610  新羅使来朝  
推古20年 612 堅塩媛改葬 軽街の文字がみえる 
推古21年 613    難波から京に至る大道が開かれる。 
皇極2年  643 山背大兄王家滅亡  
大化元年  645 乙巳の変 蘇我本宗家滅亡  
大化2年  646  改新の詔 駅制に関する記載 
白雉4年  653    官道の整備? 
斉明元年  655 斉明天皇即位 
首都飛鳥の建設 
飛鳥の道路網整備か? 
天智2年  663  白村江の戦い   
天智6年  667  近江遷都   
天智7年  668  近江令成立?  近江令成立? 
天智9年  670  この頃までに戸籍が作られる   
天武元年  672  壬申の乱  上・中・下南北三道の史料上の初現 
天武5年  676  天武天皇、藤原京の造営を開始する。  この頃から、七道駅路の整備はじまる。 
持統3年  689  飛鳥浄御原令   
持統7年  694  持統天皇、藤原京に遷都する。   
大宝元年  701  大宝律令成立   
 奈良時代 和銅3年  710  平城京遷都   


P7




蘇我氏関連系図




P8−9

路線名 概算延長(難波〜下ツ道) 最高所 標高
 八尾街道 40.9km 田尻峠 120
 長尾街道 41.9km 田尻峠 120
 竹内街道〜長尾街道 44.9km 穴虫峠 140
 竹内街道 42.2km 竹内峠 310




P10

作道関連年表(日本書紀・続日本記)
西暦 年  内容 
273  応神天皇三年 壬辰  厩坂道を造る。 
326  仁徳天皇十四年 丙戌  京の中に大道を造る。 
326  仁徳天皇十四年 丙戌  猪甘(大阪市生野区)の津に架橋する。
470  雄略天皇十四年 庚戌  呉の客のために、磯歯津路に通じる道路を造る。 
613  推古天皇二十一年  難波から京に至る大道を造る。 
653  白雉四年  処々の大道を修理させる。 
702  大宝二年  木曾山道を造る。 
713  和銅六年  木曾路開通。 
715  霊亀元年  都祁山道開通。 
723  養老七年  木曾橋を造る。 
737  天平九年 大野東人が蝦夷地に新たな道路を造ることを上奏。 
737  天平九年  大野東人の作道。 
741  天平十三年  木津川に橋を架ける。 
742  天平十四年  恭仁京から東北へ行く道路を造成し、甲賀を結ぶ。 
742  天平十四年  恭仁京に大橋を造る。費用は諸国司の負担。 
768  神護景雲二年  交通網等の整備。 
784  延暦三年  無位の三宅連笠雄麻呂を役人として登用。道路・橋の修造を行った事を評価したため。 
789 延暦八年  皇太后の葬儀、陵墓の造営のため様々な司が設けられるが、この中に作路司がみえる。 

P11




推古朝の阿倍・山田道推定ルート

第12回定例会レポート ・ 講演会前散策資料

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