2009.1.10 |
飛鳥のみち、飛鳥へのみち
―すべてのみちは、飛鳥に通ず− |
近江 俊秀 |
P1
1.道路を調べるのは難しい!?
- (1)考古学だけからのアプローチは、困難
- 道にゴミを捨てては、いけません!
道路はいつもきれいに!
- (2)だから、いろいろな視点での検討が必要
- @史料から道路の存在を読み取る −文献史学的方法
影姫あわれ
A地図などから道路を復元する −歴史地理学的方法
近世の街道・小字・行政界 これらももしかしたら古道かも?
B道路がつくられた社会的背景を考える
- −文献史学と考古学の共同作業
道路をつくるには理由があります。
2.史料に見える大和のみち。
- (1)小子部栖軽 阿部・山田道を走る
(2)隋使 裴世清 難波から小墾田宮へ
(3)将軍 大伴吹負 あなたは古道研究の恩人です。
3.すべてのみちは、飛鳥に通ず。 大和古道物語
- (1) 隋使は、果たして大和川を舟で遡って、海石榴市に来たのか?
- @見つけた!新しい古道
A太子道って、本当に聖徳太子の道?
- (2) 古代の国道 1号線 竹内街道は本当に国道1号線?
- @古代の女帝は、みんな土木好き?
A推古天皇の土木工事 果たして黒幕は馬子?太子?
- (3) 将軍 大伴吹負
4.道路を調べる楽しさ・歩く楽しさ
P2
天皇と宮
天皇 |
宮 |
宮の所在地 |
大臣 |
大臣の家 |
所在地 |
大臣没年 |
宣化天皇 |
檜隈廬入野宮 |
明日香村檜前 |
蘇我稲目 |
向原家 |
明日香村豊浦 |
欽明31没 |
欽明天皇 |
磯城嶋金刺宮 |
桜井市金屋 |
軽曲殿 |
橿原市大軽町 |
敏達天皇 |
百済大井宮
訳語田幸玉宮 |
橿原市?
桜井市戒重 |
蘇我馬子 |
石川宅
槻曲家
嶋 |
橿原市石川町
橿原市大軽町
または西池尻町
明日香村島庄 |
推古34没 |
用明天皇 |
磐余池辺双槻宮 |
桜井市池之内? |
崇峻天皇 |
倉橋柴垣宮 |
桜井市倉橋 |
推古天皇 |
豊浦宮
小墾田宮 |
明日香村豊浦
明日香村雷 |
蘇我馬子
蘇我蝦夷 |
豊浦 |
明日香村豊浦 |
舒明天皇 |
岡本宮
田中宮
百済大宮 |
明日香村岡
橿原市田中町
桜井市吉備? |
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史料1
- ●『日本書紀』武烈即位前紀
石の上 布留を過ぎて 薦枕 高橋過ぎ 物多に 大宅過ぎ 春日 春日を過ぎ妻隠る 小左保を過ぎ 玉笥には 飯さへ盛り 玉盛に 水さへ盛り 泣き沽ち行くも 影媛あはれ
史料2
- ●『日本霊異記』上巻「雷を捉へし縁」
栖軽(すがる)勅(みことのり)を奉(たてまつ)りて宮より罷(まか)り出づ。緋(あけ)の縵(かづら)を額に著け、赤き幡桙(はたほこ)をフ(ささ)げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道と豊浦寺の前の路とより走り往きぬ。軽の諸越(もろこし)の衢(ちまた)に至り、叫囁(さけ)びて請けて言(まう)さく、「天の鳴電(なる)神(かみ)、天皇請け呼び奉る云々(しかしか)」とまうす。
史料3
- ●『日本書紀』応神天皇三年十月条
三年の冬十月の辛未(かのとのひつじ)の朔(ついたち)癸(みずのと)酉(とり)日(のひ)に、東の蝦夷(えみし)、悉に朝貢(みつきたてまつる)る。即ち蝦夷を役(つか)ひて、厩(うまや)坂道(さかのみち)を作らしむ。
●『日本書紀』応神天皇一五年八月条
十五年の秋八月の壬(みずのえ)戌(いぬ)の朔丁(つきたちひのとの)卯(うのひ)に、百済の王(こきし)、阿直伎(あちき)を遣(まだ)して、良馬二匹を貢る。即ち軽の坂上の厩に養はしむ。因りて阿直伎を以て掌(つかさど)り飼はしむ。故、其の馬養ひし処を号けて、厩坂と曰ふ。
P3
史料4
- ●『日本書紀』推古二〇年(612)二月条
皇太夫人(おほきさき)堅塩媛(きたしひめ)を檜(ひの)隈(くま)大陵(のおほみささぎ)に改め葬る。是の日に、軽の術(ちまた)に誅(しのびごとたてまつ)る。
史料5
- ●『日本書紀』天武元年(672)七月条
則ち軍(いくさ)を分(くば)りて、各(おのおの)上中下(かみなかしも)の道に当てて屯(いは)む。唯し将軍吹負(ふけい)のみ、親(みづか)ら中道(なかのみち)に当れり。
史料6
- ●『隋書』巻八一東夷伝倭国条
今故(ことさ)らに道を清め館を飾り、以って大使を待つ。
史料7
- ●『日本書紀』斉明天皇二年是歳条
田(た)身(むの)嶺(みね)に、冠(かうぶ)らしむるに周(めぐ)れる垣を以(も)てす。田身は山の名なり。此をば大務と云ふ。復(また)、嶺の上に両(ふた)つの槻(つき)の樹の辺(ほとり)に、観(たかどの)を起つ。号けて両槻(ふたつきの)宮(みや)とす。亦(また)は天宮(あまつみや)と曰ふ。時に興事(おこしつくること)を好む。廼(すなわ)ち水工(みずたくみ)をして渠(みぞ)穿(ほ)らしむ。香山(かぐやま)の西より、石上山(いそのかみのやま)に至る。舟二百隻を以って、石上山の石を載みて、流(みづ)の順(まま)に控引(ひ)き、宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす。時の人の謗(そし)りて、曰はく、「狂(たぶれ)心(ごころ)の渠(みぞ)。功夫(ひとちから)を損(おと)し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材(みやのき)爛(ただ)れ、山椒(やまのすえ)埋(うずも)れたり」といふ。又、謗りて曰く、「石の山(やま)丘(おか)を作る。作る随(まま)に自づからに破れなむ」といふ。若(も)しは未だ成らざる時に拠(よ)りて、此の謗を作(な)せるか。
史料8
- ●『日本書紀』大化二年(六四六)三月甲申条
復、役はるる辺畔の民有り、事了りて郷に還る日に、忽然に得疾して、路頭に臥死ぬ。是に、路頭の家、乃ち謂りて曰く、『何の故か人をして余路に死なしむる』といひて、因りて死にたる者の友伴を留めて、強に祓除せしむ。是に由りて、兄路に臥死ぬと雖も、其の弟収めざる者多し。
P6
【参考資料1】
『日本書記』推古16年条(608)に見える、隋使の大和入国までの行程
4月 遣隋使小野妹子、隋使裴世清と12人の下客らとともに、筑紫に到着。
難波吉士雄成が出迎える。難波に、隋使を迎え入れるための館を建設する。
6月15日 隋使ら難波に到着。飾船30隻をもって出迎える。先の館に宿泊する。
8月 4日 海石榴市街で額田部連比羅夫が飾馬75匹をもって出迎える。
関連年表1
時代 |
元号 |
西暦 |
主な出来事 |
道路関係 |
飛鳥時代 |
推古元年 |
593 |
推古天皇、豊浦宮で即位する。 |
この頃、奈良盆地に直線道路網が造られる。 |
推古16年 |
608 |
隋使裴世清来朝 |
|
推古18年 |
610 |
新羅使来朝 |
|
推古20年 |
612 |
堅塩媛改葬 |
軽街の文字がみえる |
推古21年 |
613 |
|
難波から京に至る大道が開かれる。 |
皇極2年 |
643 |
山背大兄王家滅亡 |
|
大化元年 |
645 |
乙巳の変 蘇我本宗家滅亡 |
|
大化2年 |
646 |
改新の詔 |
駅制に関する記載 |
白雉4年 |
653 |
|
官道の整備? |
斉明元年 |
655 |
斉明天皇即位
首都飛鳥の建設 |
飛鳥の道路網整備か? |
天智2年 |
663 |
白村江の戦い |
|
天智6年 |
667 |
近江遷都 |
|
天智7年 |
668 |
近江令成立? |
近江令成立? |
天智9年 |
670 |
この頃までに戸籍が作られる |
|
天武元年 |
672 |
壬申の乱 |
上・中・下南北三道の史料上の初現 |
天武5年 |
676 |
天武天皇、藤原京の造営を開始する。 |
この頃から、七道駅路の整備はじまる。 |
持統3年 |
689 |
飛鳥浄御原令 |
|
持統7年 |
694 |
持統天皇、藤原京に遷都する。 |
|
大宝元年 |
701 |
大宝律令成立 |
|
奈良時代 |
和銅3年 |
710 |
平城京遷都 |
|
P7
P8−9
路線名 |
概算延長(難波〜下ツ道) |
最高所 |
標高 |
八尾街道 |
40.9km |
田尻峠 |
120 |
長尾街道 |
41.9km |
田尻峠 |
120 |
竹内街道〜長尾街道 |
44.9km |
穴虫峠 |
140 |
竹内街道 |
42.2km |
竹内峠 |
310 |
P10
作道関連年表(日本書紀・続日本記) |
西暦 |
年 |
内容 |
273 |
応神天皇三年 壬辰 |
厩坂道を造る。 |
326 |
仁徳天皇十四年 丙戌 |
京の中に大道を造る。 |
326 |
仁徳天皇十四年 丙戌 |
猪甘(大阪市生野区)の津に架橋する。 |
470 |
雄略天皇十四年 庚戌 |
呉の客のために、磯歯津路に通じる道路を造る。 |
613 |
推古天皇二十一年 |
難波から京に至る大道を造る。 |
653 |
白雉四年 |
処々の大道を修理させる。 |
702 |
大宝二年 |
木曾山道を造る。 |
713 |
和銅六年 |
木曾路開通。 |
715 |
霊亀元年 |
都祁山道開通。 |
723 |
養老七年 |
木曾橋を造る。 |
737 |
天平九年 |
大野東人が蝦夷地に新たな道路を造ることを上奏。 |
737 |
天平九年 |
大野東人の作道。 |
741 |
天平十三年 |
木津川に橋を架ける。 |
742 |
天平十四年 |
恭仁京から東北へ行く道路を造成し、甲賀を結ぶ。 |
742 |
天平十四年 |
恭仁京に大橋を造る。費用は諸国司の負担。 |
768 |
神護景雲二年 |
交通網等の整備。 |
784 |
延暦三年 |
無位の三宅連笠雄麻呂を役人として登用。道路・橋の修造を行った事を評価したため。 |
789 |
延暦八年 |
皇太后の葬儀、陵墓の造営のため様々な司が設けられるが、この中に作路司がみえる。 |
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