橿原市小房町 下ツ道の碑 |
miyauchi さん
二月の絶好のウォーキング日和になった下ッ道探索、集合場所に到着するも誰一人居らず慌てて家に確認、1時間早かったと安心する。9時過ぎ顔馴染みに逢い集合場所も間違いないので又安心。25kmのプレッシャーが頭の中にあったのか?
以下は独断と偏見、無知、妄想、等で思いつくままに書いています。
出発前に風人さんが聖武天皇に献上物が必要と言われ缶コーヒーを購入される。薄識の頭の中が回転する、飛鳥、奈良時代に農民には「租」「庸」「調」等の義務があったこと、この缶コーヒーは「調」に当たる産物か。又頭の中が回転する、当時の陸上運送手段は手に持つ、背負う、引き摺る、担ぐ、これぐらいしか思いつかない。この運搬方法では特産物の数量も限られる、何十キロ何百キロの距離を一人か数人で都に運ぶ、地方の交通事情は都の大道と違い道幅は獣道程度だったか、多分今の芋峠道ほどと思われる。途中どんな危険があるかも知れない、郷土を出発した者の何パーセントが無事都に着き、「調」を献上納品できたか、素朴な疑問だ。今回の缶コーヒーは無事天皇に手渡すことが出来た。
昔、日光方面の旅行時、日光東照宮前の道が大型バスが楽に擦れ違いでき、歩道の外側に樹齢何百年の松林がある道に驚いた。江戸の交通機関や交通量で何故必要か不思議だった。それより約1000年前にもっと大きな道が狭い大和の地に南北3本もあること、今の官庁昔の斉明天皇、無駄な公共土木工事が好きな国民性か。それよりも何故飛鳥から北に道を作る必要性があったか不思議だ。平城京遷都時、道が何処まで出来ていたか解らないが結果的に下ッ道の北端正面に朱雀門、その北に大極殿を作った元明天皇が一番の功労者か。でも飛鳥を捨て、藤原京を捨て、25kmも離れた地に都を遷し飛鳥を廃墟にしたのも事実だ。下ッ道の南の基準点が見瀬丸山古墳、欽明天皇稜とも言われている。何処かに飛鳥への思いが残っていたかも知れない。
飛鳥、奈良時代になって大型木造建築ブームが到来、寺院や宮殿が多く築かれた。建築時の水平垂直の確認、木材の組み合わせ積み上げ方法等々高度な専門知識、技能が無ければ完成しない。 その反面、奈良盆地内の上、中、下ッ道の土木工事は簡単に出来たと思う。盆地内で最大の問題は河川だけ、これさえ解決すれば時間と労力が有れば現場監督者は楽しく大工事が完成、名誉と地位が得られた。飛鳥から北に街道を作る必要性が有ったとして、愚者が現場監督であれば、見瀬丸山古墳の高台から遙か先北方面の山を目標にする。当時は目標とする地点まで遮るものは無い、今の環境問題も無く視力の良い者であれば問題なし、目標が決まればもう完成したと同じ。以前の古墳作成マニュアルを参考に沼は埋め、雑木は切り倒し、途中にある構築物は蘇我馬子が飛鳥寺、石舞台古墳を作った時と同じく有無を言わせず取り潰し、ましてや狂心の斎明天皇やることが早い。監督は日々北上して行く原っぱを眺めてニッコリしていたに違いない。
「不思議だ」「疑問だ」「何故」独り言の繰り返し、楽しく無事に平城京に着いたことが一番幸せに思います、有難うございました。
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軽衢 (橿原市軽町165号線丈六交差点付近) |
陶邑 さん
下ッ道を踏破して
下ッ道を飛鳥から平城京まで歩いてみたいと云う願望が心の隅にあって何時か機会があればと願っていた。今回、図らずもその願いが叶えられたので企画して頂いたスタッフ皆さんにまずは御礼申し上げます。
下ッ道について特別の思い入れは無かったが山の辺の道に対し大和の国中(クンナカ)を南北に縦断する下ッ道の周辺はどんな様相をしているのかを目にして置きたかった。
169号線から別れて神道橋を渡り小房町に入ると街道が賑わった往時の面影が色濃く残って居て一瞬、昔にタイムスリップした様だった。
札の辻辺りの街道筋は実に色濃く往時の雰囲気を残している、その一角に松尾芭蕉の句碑が在り「草臥れて 宿かるころや 藤の花」の句が刻まれている。この句を知ったのは高校生の時で、何故か気に入り以来忘れたことが無かった。
八木駅周辺にこの句碑が在るとは聞いていたが今回のウオークでこの句碑に出会う事が出来、念願が叶った。
八木を通過して田原本町に入ると大和の国中である。寺川沿いに北上すると西側に多神社の鳥居が見えてくる。多神社は太一族の発祥の地とか、この神社を中心に東に三輪山、西に二上山が一直線上に並でいる様子が分かる。多神社と東西二つの山の位置関係は眺める度に不思議な方向感覚を覚える。
さらに北上し鏡作神社を過ぎ今里地区に入ると杵築神社が在り境内の大木に藁で作った大蛇が巻付けられていた。こうした古い行事が現在も受け継がれている事には感動を覚える。
天理を過ぎて大和郡山市に入ると今度は佐保川沿いに北上する、菩提仙川を渡り北東に進むと前方に稗田環濠集落が見えてくる。集落の周りはよく整備された環濠が集落を取り巻いている。その集落の中に「売太神社」が在って此処は多神社の太安万侶と共に古事記編纂の語り部としての稗田阿礼が祀られて居る。若草山が手に取るように見えてきた。
環濠集落を抜け佐保川左岸を一直線に北上する、この辺りは郡山城築城の際、川の付替えが行われ、川筋が余にも直線的で不自然さを感じる。下三橋町北で平城京羅城門址を見学するが、実際には羅城門址は西方の佐保川の川底に在るとの事、いかに当時の工事が大規模に行われていたか想像に難くない。
羅城門跡から佐保川左岸に戻り北上する、日は西に傾き始め歩を早めながら行くと柏木公園付近からは西ノ京の薬師寺、西塔・東塔が見えてくる柏木町団地を抜け四條、三条大路を渡り二条大路を渡って朱雀門前に辿り着いた。
橿原神宮前から約25キロ、所要時間約7時間、全員無事に目的地に到着できた。下ッ道が現在も生活道路として利用され毎日多くの人々が行き交っている様子を目の当りする事が出来た。
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芭蕉の句碑 札の辻付近 |
坂井 さん
「下ッ道ウォーキングー遥かなり朱雀門―」に参加して
私が、今回の両槻会例会に参加させて頂きましたのは、2007年「藤原京ルネッサンス」イベントで、飛鳥大好きの方々の集まり両槻会を教えて頂きました。飛鳥の傍で住んでいながら、飛鳥を知らないのは大変情けない事と思い、一念発起、今後両槻会イベントに参加させて頂き勉強しようと決めました。全く無知で恥ずかしい限りでしたので、これを何とかするため、先ず実行しようと思い、飛鳥を歩くように成りました。
両槻会は、とても皆さん親切で、何をするにしても準備万端、非の打ち所がない、完璧なグループでした。とてもついて行けそうも無いので、腰が引けていました。しかし、何もかも知らないのだから教えて頂こうと思い、続けることにしました。自分の中で、恥を乗り越えた爽快感もあり、その後は色々な催しに積極的に参加出来るように成り、今では楽しく勉強させて頂いています。
今回のイベントは橿原市丈六から朱雀門まで25kmを踏破する、私にとっては過酷なものでした。5年前、駒ガ岳に登った時、膝を痛めましたので、心配しながら皆さんの後をついて歩きました。膝サポータ、スティック、登山用水筒なども準備しました。2週間程前から断酒もして体調を整えました。
平城京の羅城門・朱雀門を目指して、いよいよ出発です。途中、「壬申の乱」の大伴連吹息軍はこの道を北上したのだろうか。近江朝廷軍は、高市皇子はと、色々連想しながらウォーキングする事で歴史を追体験させて頂きました。20km過ぎると、やや疲れが出てきてゴールはまだかな〜と言う気持ちが出てきました。しかし、懸命に歩いている仲間の姿を見て励まされました。遂に10人の仲間は無事終着点の朱雀門に到着し、歓びの叫びを皆で発しました。
一人では出来ない事でも、目的を同じくする仲間とやれば出来る。頑張る状況を作ってくれた仲間に感謝します。自分に自信がつき、寿命が10年程延びた感じが致します。あと3回挑戦すれば100歳に成ります。頑張るぞ!
充分過ぎる程の達成感を味わいながら、打ち上げの宴に参加しました。全員大変明るく、大きな事を成し遂げた喜びが体中にみなぎっていました。人は健康で、大勢の仲間に囲まれる事が最大の財産であり、最高の喜びであると常々思っていましたので、今回のウォーキングは正にこの事を体験させて頂きました。皆さん有難う御座いました。
終わりに、意中を、「下ツ道、仲間と完歩、歓喜する。」
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郡山市稗田の環濠 |