両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪

両槻会第12回定例会関連特別回


− 遥かなり朱雀門 −


下ツ道ウォーキング レポート集 1

2009年 2月 21日


 このページは、第12回定例会 講演会「飛鳥のみち 飛鳥へのみち」において、講師 近江俊秀先生の「古道を歩いてみましょう!」と言う呼びかけに応え、実際に「下ツ道ウォーキング」を体験した参加者10名によるレポート集です。

 yuka さん  ぷーまま さん  写真
 sachi さん  らいち さん
 miyauchi さん  もも
 陶邑 さん  太古
 坂井 さん  風人

この色の文字は、リンクしています。

yuka さん


 古道浪漫

 「藤原京の下ツ道を北に延長すると、平城京の朱雀大路につながる」
 知識としてはあっても、じゃあ実際に辿ってみようとは普通考えないと思います。
 いくらウォーキング好きで、飛鳥時代や奈良時代に興味のある私も、そのルートを歩くことになろうとは想像だにしませんでした。
 まして、「下ツ道」という名称の道路が、往年のままの姿で残っているわけではありません。道路をつぶして住宅街や工場地帯になっていたり、河川がその上に付け替えられていたり、そこに生きる人々の営みとともに景観も変遷していくのが通常でしょう。
 その古代の幹線道路を、そのままではないながらもできるだけ直線道となるよう忠実に辿るという、なかなか出来ない経験をする機会に今回恵まれました。
 大きな自動車道だったかと思えば、急に隘路となったり、普通の住宅地もあれば、往古を偲ばせる佇まいを残す民家が立ち並ぶ街道であったり、行き止まりとなっていて多少迂回を余儀なくされる箇所もあり…と、ただ真っ直ぐに進んでいるだけでも、様々な表情をこの古道は見せてくれました。

 写真でしか見たことのなかった八木の札の辻。
 『冥途の飛脚』の舞台・新ノ口付近。
 近江先生の著書で初めてその名を知った保津・阪手道も通りました。
 名前しか知らなかった鏡作神社や、今里の杵築神社。
 今里の「蛇巻」という風習を知ったのもこの時でした。
 有名な唐古・鍵遺跡の楼閣や稗田の環濠集落を見たのも初めて。
 佐保川の流路が下ツ道の上に付け替えられ、そのために川底に沈んでしまった平城京の羅城門跡。でもそれも歴史の一部分なんだな、と思いました。
 また、大和川の支流をいくつも渡って、大和の水運の大動脈として盛んに機能していたことを実感しました。

 1日歩いただけでも、未踏の地を踏んだり、新たな知識が増えたりと、多くのことを吸収できた実りある25kmでした。

 地図上で眺めれば、長い長い道。
 過去に、一体どれだけの人たちが往来したんだろう?
 私たちは、古代という時代を追体験すべく「古道」として歩いていたけれど、当時の人々にとっては、その時代が「現代」であり、この道もまさに生活道路であったわけですよね。
 現代の私たちが、橿原神宮周辺と西大寺界隈を行き来するのに電車や車を使う代わりに、昔の人たちはこの道をてくてくと時間をかけて歩いたんだなぁ…だんだんと過ぎてゆく遠くの山並みを見ながら、往時に思いを馳せたりもしました。
 「道」は、ある場所とある場所をつなぐもの。スピードや利便性に慣れて忘れてしまっていた当たり前のことを、自分の足で歩いてみて改めて認識しました。

 しかし…これだけ歩けば達成感もかなりのものですが、それなりに疲労も伴います(笑)。
 でも、仲間の皆さんと和気藹々とお喋りしながら楽しく完歩できたことは、何ものにも代え難い経験になりました。
 ペースが落ちて追い立てられるように早歩きになったことも(笑)、信号のない道路を横断する時や狭い道を車が通過するときのスリリングな気分も、あとになってみればよい思い出です。

 1月の講演会で、近江俊秀先生は「古道を歩いていると、『今、裴世清とすれ違ったかな?』と感じる瞬間がある」というようなことを仰っていました。
もしかしたら、この道のどこかで、裴世清ではなくとも嘗てここを往来した誰かが私たちを見守ってくれていたかもしれないな…そんな気もします。


平城宮復元朱雀門
sachi さん

 心配していたお天気も、これ以上はないウォーキング日和となり、雨女の私としてはホッと胸をなでおろしました。

 集合は朝の9時半。橿原神宮前駅のすぐ目の前、丈六交差点が出発点。ここからひたすら、奈良市内の平城京跡・朱雀門まで、真っ直ぐ北上開始です。
 メンバー10人で、和気藹々とおしゃべりしながらのウォーキング。あっという間に畝傍御陵前を行き過ぎ、万葉ホール前に下ツ道の石碑を見つけました。まだ新しい碑でしたけど、下ツ道を歩いてるな〜という実感もわいてきました。
 交差点を渡ると、そこは小房町。境内のバラを見に行った、おふさ観音のあるところですね。何度か通って見覚えのある古い町並みですし、すいすいと歩いて行けます。
 八木では、同じ古代道の横大路と交差。さらにどんどん北へ北へと歩いて行きます。ここまでは、明日香通いをしていると、わりと馴染みのある風情の場所ばかりでしたが、その先は、私にとっては未知の世界(笑)。ウォーキングではベテランの皆様に、ついて行くのみです。

 新ノ口では、歌舞伎や浄瑠璃で有名な心中物の主人公、梅川と忠兵衛のお墓と言われているという場所の近くを通りました。しかしこのお墓、どう見ても田んぼの中のただの盛り土・・・(苦笑)。以前は看板みたいなものもあったらしいのですが、今はそれも見当たらず、言われないと何だかわかりません・・・。

 大和川へとつながる寺川沿いを、ずっと北上。堤には、桜の木がず〜っと植わっていて、春になったら綺麗でしょうね。
 さすがにちょっとくたびれてきたな〜という頃、田原本町の役場でトイレ休憩。役場の外壁の垂れ幕には、せんとくんがお出迎え(笑)。正面玄関前のモニュメントに、いったいこれは何??と首をひねりましたが、よく見ると古代の鏡をかたどってあるみたいでした。田原本町には、弥生時代の遺跡、唐古・鍵遺跡があるので、そういうイメージなんでしょうね。歩いていく足元をよく見れば、マンホールの蓋にもそういう絵が描いてありました。
 役場近くの鏡作神社の境内を通って、さらに北へ。しばらく歩いていくと、右手に唐古・鍵遺跡の復元された楼閣が、住宅などの隙間からちらっと見えました。

 歩き始めて3時間余り、天理市に入り、そろそろお昼休憩ということで、街道をちょっと東にそれて、国道沿いのファミレス探し(笑)。結局、牛丼屋さんで30分ほどの昼食休憩となりました。
 いったん座ると、ふえぇぇ・・・と疲労が襲ってきましたが、しばらく休めば、まだ歩けるだろうと思える程度。予定の半コースでは、この先の二階堂駅で皆さんと別れることになります。まだ行ける?と自問自答(爆)。だって、ここまで楽しく歩いてきたんですから、やはりほかの皆さんと別れ難くなるというものです。
 よっこいしょ、と腰を上げて、ウォーキング再開。もとの下ツ道へ戻り、しばらく行くと、近鉄の線路が見えてきました。そこが二階堂駅。周りからの強引な(?)誘惑の声と(笑)、やっぱりもうちょっと歩きたいし〜という思いから、行けるところまで行ってみよう!と決心しました。
 この時点で行程のほぼ半分。先は、まだまだ長い!

 二階堂駅を通り過ぎてしまった以上、もうあとへは引き返せません。歩き続けるのみです。
 しばらくは、延々と単調な田んぼや畑の風景が続きますが、遠く西に広がる山並みが信貴山から生駒山へと続くんだと思うと、その向こうはまだ河内・・・四条畷もまだまだ先か〜などと、古代から離れて南北朝に思いを飛ばしたりもしていました(笑)。

 足がだいぶ疲れてパンパンになってきた頃、古事記を編纂したとされる稗田阿礼を祀る売太神社に到着。ここでしばらくトイレ休憩。
 この稗田町は、環濠集落になっていて、文字通りお堀に囲まれています。遡ると、中世の古市氏や筒井氏の戦の舞台ともなっていたところらしい。中世となると好奇心も湧きますので、またじっくり調べてみようと、心の中にメモメモ・・・。

 環濠集落をあとにして、住宅街を抜け、再び川沿いに戻ってきました。今度は佐保川の河川敷。すでに大和郡山市に入っています。
 本来の下ツ道は、現在はこの佐保川の下になっているとのこと。川の底から、平城京の羅城門跡が見つかっているそうです。
 ということは、いよいよ平城京の都が近づいてきたと思えますが、朱雀門までは、まだまだはるかな距離・・・。いかに大きな都だったか、溜息とともに実感(苦笑)。
 河原の堤から降りたところに、羅城門跡の石碑がありました。周辺は今ではすっかり工場地帯。その一角だけ、切り離されたように樹が植えられて、一応は公園整備されていますが、忘れられたようなひっそりとした風情が、なんとも淋しげです。

 橋を渡って対岸の堤を歩いていくと、田んぼの中に釣堀のように四角い池がいくつも見えました。大和郡山名物(笑)、金魚の養殖池だそうです。あんな風に池を作って、育てるんですね〜。
 昔の金魚話を聴きながら歩いていると、薬師寺や唐招提寺のある西ノ京から流れてくる秋篠川と、佐保川の合流地点にぶつかりました。・・・が、向こうへ渡れない!どうも反対側の河岸を歩いてきてしまったようで、仕方なく一つ前の橋まで500メートルほど逆戻り(苦笑)。う〜ん、行って戻って1キロほど損をしたか?そろそろ足が痛み出していた私には、ちょっと大きい距離ではありました(爆)。

 秋篠川を越えると、いよいよ奈良市へ入って行きます。さすがにだんだんと住宅が増えていく中を、あと少し〜!と思いつつ、北へ北へ。
 住宅の間にある空き地の隙間から、西の方角が見え、薬師寺の塔を遠望した時は、さすがにものすごく歩いてきたんだなぁ〜と感慨深いものがありましたね。
 あとはもはや、朱雀門が見えるまで、ほかの皆様に遅れないよう、付いていくだけで精一杯。もしどこかにつまずいてカクンとしようものなら、そのままコロンとひっくり返ってしまうだろうな〜と思いつつ、ふにゃふにゃヨタヨタと足を動かし続けました。

 痛みで足が限界になりつつある頃、ようやく朱雀門の屋根が見えました。ビルや住宅の隙間から覗く朱雀門目指して、最後のもうひと押し!
 そして、ようやくゴール!時間は、16時半を少し回っていました。
 たどり着いた〜と思ったのもつかの間、今度は大極殿へと向かってさらに歩きます(苦笑)。西日が射し込んで赤く輝く朱雀門を傍らを抜けた時に(16時半で残念ながら閉門。脇から向こう側へ抜けます)、目の前を近鉄電車がゴーッと走っていくのを見たとたん、頭も半ばぼんやり気味だった私は、別世界に飛び込んだみたいな気になりました・・・。ココはいったいドコ??(苦笑)
 ヨタヨタと歩く私を見かねたのか、風人さんがリュックを持って下さったおかげで(それにしても皆さん元気!)、足を引きずりつつも、どうにかこうにか歩き続けることができました。いやはや、平城京は広い・・・何せ宮城の中を電車が通っている(大爆)。

 やっと、大極殿に到着!全員無事に25キロを踏破し、達成感を分かち合いました。ほんと、お疲れ様でした〜!!
 こんなにたくさん歩くことは、もうないだろうと思いきや、きっとまた面白い長距離企画があったら、懲りもせず参加してるんでしょうね〜(笑)。


橿原市小房町 下ツ道の碑

miyauchi さん

 二月の絶好のウォーキング日和になった下ッ道探索、集合場所に到着するも誰一人居らず慌てて家に確認、1時間早かったと安心する。9時過ぎ顔馴染みに逢い集合場所も間違いないので又安心。25kmのプレッシャーが頭の中にあったのか? 
 以下は独断と偏見、無知、妄想、等で思いつくままに書いています。

 出発前に風人さんが聖武天皇に献上物が必要と言われ缶コーヒーを購入される。薄識の頭の中が回転する、飛鳥、奈良時代に農民には「租」「庸」「調」等の義務があったこと、この缶コーヒーは「調」に当たる産物か。又頭の中が回転する、当時の陸上運送手段は手に持つ、背負う、引き摺る、担ぐ、これぐらいしか思いつかない。この運搬方法では特産物の数量も限られる、何十キロ何百キロの距離を一人か数人で都に運ぶ、地方の交通事情は都の大道と違い道幅は獣道程度だったか、多分今の芋峠道ほどと思われる。途中どんな危険があるかも知れない、郷土を出発した者の何パーセントが無事都に着き、「調」を献上納品できたか、素朴な疑問だ。今回の缶コーヒーは無事天皇に手渡すことが出来た。

 昔、日光方面の旅行時、日光東照宮前の道が大型バスが楽に擦れ違いでき、歩道の外側に樹齢何百年の松林がある道に驚いた。江戸の交通機関や交通量で何故必要か不思議だった。それより約1000年前にもっと大きな道が狭い大和の地に南北3本もあること、今の官庁昔の斉明天皇、無駄な公共土木工事が好きな国民性か。それよりも何故飛鳥から北に道を作る必要性があったか不思議だ。平城京遷都時、道が何処まで出来ていたか解らないが結果的に下ッ道の北端正面に朱雀門、その北に大極殿を作った元明天皇が一番の功労者か。でも飛鳥を捨て、藤原京を捨て、25kmも離れた地に都を遷し飛鳥を廃墟にしたのも事実だ。下ッ道の南の基準点が見瀬丸山古墳、欽明天皇稜とも言われている。何処かに飛鳥への思いが残っていたかも知れない。

 飛鳥、奈良時代になって大型木造建築ブームが到来、寺院や宮殿が多く築かれた。建築時の水平垂直の確認、木材の組み合わせ積み上げ方法等々高度な専門知識、技能が無ければ完成しない。 その反面、奈良盆地内の上、中、下ッ道の土木工事は簡単に出来たと思う。盆地内で最大の問題は河川だけ、これさえ解決すれば時間と労力が有れば現場監督者は楽しく大工事が完成、名誉と地位が得られた。飛鳥から北に街道を作る必要性が有ったとして、愚者が現場監督であれば、見瀬丸山古墳の高台から遙か先北方面の山を目標にする。当時は目標とする地点まで遮るものは無い、今の環境問題も無く視力の良い者であれば問題なし、目標が決まればもう完成したと同じ。以前の古墳作成マニュアルを参考に沼は埋め、雑木は切り倒し、途中にある構築物は蘇我馬子が飛鳥寺、石舞台古墳を作った時と同じく有無を言わせず取り潰し、ましてや狂心の斎明天皇やることが早い。監督は日々北上して行く原っぱを眺めてニッコリしていたに違いない。

 「不思議だ」「疑問だ」「何故」独り言の繰り返し、楽しく無事に平城京に着いたことが一番幸せに思います、有難うございました。


軽衢 (橿原市軽町165号線丈六交差点付近)

陶邑 さん

 下ッ道を踏破して

 下ッ道を飛鳥から平城京まで歩いてみたいと云う願望が心の隅にあって何時か機会があればと願っていた。今回、図らずもその願いが叶えられたので企画して頂いたスタッフ皆さんにまずは御礼申し上げます。

 下ッ道について特別の思い入れは無かったが山の辺の道に対し大和の国中(クンナカ)を南北に縦断する下ッ道の周辺はどんな様相をしているのかを目にして置きたかった。
 169号線から別れて神道橋を渡り小房町に入ると街道が賑わった往時の面影が色濃く残って居て一瞬、昔にタイムスリップした様だった。

 札の辻辺りの街道筋は実に色濃く往時の雰囲気を残している、その一角に松尾芭蕉の句碑が在り「草臥れて 宿かるころや 藤の花」の句が刻まれている。この句を知ったのは高校生の時で、何故か気に入り以来忘れたことが無かった。
 八木駅周辺にこの句碑が在るとは聞いていたが今回のウオークでこの句碑に出会う事が出来、念願が叶った。

 八木を通過して田原本町に入ると大和の国中である。寺川沿いに北上すると西側に多神社の鳥居が見えてくる。多神社は太一族の発祥の地とか、この神社を中心に東に三輪山、西に二上山が一直線上に並でいる様子が分かる。多神社と東西二つの山の位置関係は眺める度に不思議な方向感覚を覚える。

 さらに北上し鏡作神社を過ぎ今里地区に入ると杵築神社が在り境内の大木に藁で作った大蛇が巻付けられていた。こうした古い行事が現在も受け継がれている事には感動を覚える。

 天理を過ぎて大和郡山市に入ると今度は佐保川沿いに北上する、菩提仙川を渡り北東に進むと前方に稗田環濠集落が見えてくる。集落の周りはよく整備された環濠が集落を取り巻いている。その集落の中に「売太神社」が在って此処は多神社の太安万侶と共に古事記編纂の語り部としての稗田阿礼が祀られて居る。若草山が手に取るように見えてきた。

 環濠集落を抜け佐保川左岸を一直線に北上する、この辺りは郡山城築城の際、川の付替えが行われ、川筋が余にも直線的で不自然さを感じる。下三橋町北で平城京羅城門址を見学するが、実際には羅城門址は西方の佐保川の川底に在るとの事、いかに当時の工事が大規模に行われていたか想像に難くない。
 羅城門跡から佐保川左岸に戻り北上する、日は西に傾き始め歩を早めながら行くと柏木公園付近からは西ノ京の薬師寺、西塔・東塔が見えてくる柏木町団地を抜け四條、三条大路を渡り二条大路を渡って朱雀門前に辿り着いた。
 橿原神宮前から約25キロ、所要時間約7時間、全員無事に目的地に到着できた。下ッ道が現在も生活道路として利用され毎日多くの人々が行き交っている様子を目の当りする事が出来た。



芭蕉の句碑 札の辻付近

坂井 さん

「下ッ道ウォーキングー遥かなり朱雀門―」に参加して

 私が、今回の両槻会例会に参加させて頂きましたのは、2007年「藤原京ルネッサンス」イベントで、飛鳥大好きの方々の集まり両槻会を教えて頂きました。飛鳥の傍で住んでいながら、飛鳥を知らないのは大変情けない事と思い、一念発起、今後両槻会イベントに参加させて頂き勉強しようと決めました。全く無知で恥ずかしい限りでしたので、これを何とかするため、先ず実行しようと思い、飛鳥を歩くように成りました。
 両槻会は、とても皆さん親切で、何をするにしても準備万端、非の打ち所がない、完璧なグループでした。とてもついて行けそうも無いので、腰が引けていました。しかし、何もかも知らないのだから教えて頂こうと思い、続けることにしました。自分の中で、恥を乗り越えた爽快感もあり、その後は色々な催しに積極的に参加出来るように成り、今では楽しく勉強させて頂いています。

 今回のイベントは橿原市丈六から朱雀門まで25kmを踏破する、私にとっては過酷なものでした。5年前、駒ガ岳に登った時、膝を痛めましたので、心配しながら皆さんの後をついて歩きました。膝サポータ、スティック、登山用水筒なども準備しました。2週間程前から断酒もして体調を整えました。
 平城京の羅城門・朱雀門を目指して、いよいよ出発です。途中、「壬申の乱」の大伴連吹息軍はこの道を北上したのだろうか。近江朝廷軍は、高市皇子はと、色々連想しながらウォーキングする事で歴史を追体験させて頂きました。20km過ぎると、やや疲れが出てきてゴールはまだかな〜と言う気持ちが出てきました。しかし、懸命に歩いている仲間の姿を見て励まされました。遂に10人の仲間は無事終着点の朱雀門に到着し、歓びの叫びを皆で発しました。

 一人では出来ない事でも、目的を同じくする仲間とやれば出来る。頑張る状況を作ってくれた仲間に感謝します。自分に自信がつき、寿命が10年程延びた感じが致します。あと3回挑戦すれば100歳に成ります。頑張るぞ!
 充分過ぎる程の達成感を味わいながら、打ち上げの宴に参加しました。全員大変明るく、大きな事を成し遂げた喜びが体中にみなぎっていました。人は健康で、大勢の仲間に囲まれる事が最大の財産であり、最高の喜びであると常々思っていましたので、今回のウォーキングは正にこの事を体験させて頂きました。皆さん有難う御座いました。

終わりに、意中を、「下ツ道、仲間と完歩、歓喜する。」


郡山市稗田の環濠

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第12回定例会レポート♪
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