(このページは、第15回定例会当日、配布資料を、サイト用にアレンジしたものです。)
事前散策ルートマップ
高松塚古墳
高松塚古墳は、壁画古墳としてあまりにも有名です。壁画保存のために石槨は解体され、墳丘の調査も進められました。その調査もすでに終了しています。今では、墳丘を含めて、徹底的に調査された珍しい古墳ということが出来るでしょう。
下段直径23m・上段直径18m、高さ5mの二段に築成された円墳で、終末期に属する古墳です。最新の発掘成果によれば、墳丘盛土から出土した土器の編年から、藤原京期(694〜710年)以降に造られたものだとされました。
出土品の中には、唐様大刀の銀製金具一式(冑金・露金物・俵鋲・留鋲・銀製石突・銀製山形金物など計9個)があります。飛鳥資料館第1展示室に陳列されていますので、この機会に改めてご覧下さい。
参考図:風人作画 (高松塚古墳の副葬品の復元ではありません。) |
キトラ古墳
下段直径13.8m・上段直径9.4m、高さ約3.3mの二段に築成された円墳で、終末期に属する古墳です。近年の調査・研究から、遣唐使が帰国(704年)する以前の(7世紀末〜8世紀初頭)に造られたと考えられているようです。
飛鳥資料館で毎年展示が行われることでも知られるように、キトラ古墳の壁画も保存のために剥がされ、墳丘も保護されていますので、現状では見学することは出来ません。檜隈地域に公園化を伴う、キトラ古墳展示館の建設が予定されているようです。
出土遺物の中には、大刀片と刀装具もありました。刀装具は、鞘の先端(長さ2.5cm、幅8mm)、鞘の口金(長径3.2cm)、柄につける輪(長径3.3cm)の3点で、いずれも純度の高い銀製でした。また、帯執(おびとり)金具(径3.9cm、高さ1.7cm、厚さ1cm)は、楕円形の鉄製品で、表面中央に、金糸を埋め込んだS字形の象眼が左右対称に施されていました。S字形の両脇と金具の両側面には、それぞれ帯状の象眼が施されています。象嵌には、いずれも純度の高い金が用いられていたようです。
また、柄には、正倉院宝物の「金銀鈿荘唐大刀」に似た幾何学模様を刻んだ銀の釘が使われていたようです。
出土遺物の分析の結果、キトラ古墳には、二本の大刀が副葬されていたことが分かっています。その一本が、今回の定例会で復元品レプリカを見ることが出来る「銀装黒漆塗大刀」です。
甘樫丘東麓遺跡
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日本書紀に書かれる、皇極3年(644)11月条、『蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並べ建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよんだ。また、その男女を王子とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。』
甘樫丘東麓遺跡の発掘調査は、1994年から始まっており、道路から西に上がった駐車場の下層を中心として発掘調査が行われました。 |
この調査では、7世紀中頃の焼土層や炭化した木材が発見され、蘇我氏邸宅との関連が注目されました。その後、この谷が公園整備されることになり、それに先行する調査として、2005年より継続的な発掘調査が行われています。
7世紀前半の石垣や掘立柱建物、またそれを埋め立てる大規模な整地や新たな建物群・溝・炉跡・土坑・石敷なども検出されています。
甘樫丘東麓遺跡遺構変遷図 (図は、1期・2期のみ) |
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遺構は、1期(7世紀前半)、2期(7世紀中頃)、3期(7世紀末)の3時期に区分されています。
遺跡は、甘樫丘の東麓の谷地形を含む複雑な地形に盛土して、平坦地を造り出しています。1期には、石垣や掘立柱建物、総柱建物が造られていたと考えられています。これが、蘇我入鹿邸(谷の宮門)の一部と考えられているわけですが、城柵や兵庫とするには決定的な証拠は検出されていません。
7世紀中頃になると、この1期の造成面を、大規模に再度造成しています。石垣や谷地形も完全に埋め立てられ、あたかも蘇我氏の痕跡を消すかのごとく、土地利用が変更されています。それは、蘇我本宗家の滅亡を象徴しているかのような印象を受けます。この整地の上に展開するのが、2期遺構です。東麓遺跡の北西隅で、コの字型に囲む塀の中に、数棟の掘立柱建物などが検出されています。
これらの成果があった第151次調査においては、この遺跡の1期の時期が特定される遺構が検出され、東麓遺跡の性格を決定付けることになりました。それは、調査区の北東端で検出された土坑から出土した土器の年代と、土坑の検出状況により確定されました。1期と考えられる総柱建物の柱穴を壊して、土器が出土した土坑が掘られていました。ということは、総柱建物は、飛鳥時代の中頃の土器が出土した土坑より古いことが確かめられたということになります。これらの成果が上がった調査を担当されたのが、本日の講師「豊島直博先生」であります。
2期の遺構は、複雑に建替えが行われ、3期へと続いていくようです。
3期には、再び造成が行われ、鍛冶炉などが造られています。この時期の建物は、地形を無視して正方位に沿って建てられていました。この時期になると、土地の利用は縮小傾向になるようです。
東麓遺跡は、甘樫丘全体に広がる「蘇我本宗家の邸宅の一部」であったのでしょう。東麓遺跡だけに止まらず、甘樫丘全体の調査が期待されるところです。
石神遺跡
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2009年春までの継続調査で、石神遺跡の中枢部は、主に7世紀の建物や石敷広場や池・溝などが検出されており、大きく分けて3時期に区分されると考えられています。
A期(7世紀前半〜中頃)とされる遺構は、大規模な長廊状の建物や四面庇建物、池・井戸や石組溝が配置されていました。斉明朝の饗宴施設と考えるのが有力とされており、須弥山石や石人像もこの時期のものであるとされています。
B期(7世紀後半)になると、大規模な土地利用の変更が行われます。塀で区分された土地に、掘立柱建物が配置されました。これらは、天武朝の官衙であろうとの見解が示されています。
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C期(藤原京期)になると、再度、建物は方形の区画に再配置されています。出土遺物などや建物の配置の状況などから、官衙であると推定されています。
2009年の春の調査では、A期に含まれる遺構も検出され、斉明期の饗宴施設が造られる以前に、瓦が使用された門の遺構があったことが分かってきました。
使用された瓦は、推古期から舒明期に分類される物で、石神遺跡がより古い時代から重要な施設であった可能性がクローズアップされてきました。小墾田宮や小墾田寺との関連も注目されるところです。
これらのことは、両槻会のメールマガジンであります「飛鳥遊訪マガジン」で、「ゆきさん」が詳しく連載をしてくださっていますので、どうぞご覧下さい。
また、2010年1月(第18回定例会)には、この調査を担当されました奈良文化財研究所の青木敬先生の講演を予定しています。ご期待ください。
石神遺跡の説明を簡略に書くことは大変難しく、重要な遺物だけでも書き切れないほど多数出土しています。今講演会に関連する物をご紹介すると、これまでの調査で、整地土から鉄鏃が多数出土しています。これらの遺物は、近辺に武器庫の存在を伺わせ、小墾田兵庫を連想させます。石神遺跡の発掘調査は、その規模が確定したことで、終了した模様ですが、まだまだ分からないことが多く有ります。今後の調査研究を期待したいと思います。 |