第15回定例会は「飛鳥時代の戦いと武器」ということで、全く知識のない分野でのレポートを仰せつかった時は「はてさて・・・私に何が書けるのだろう
か!?」と、気持ちがドヨヨ〜ンと重くなりました。風人さんからの資料と咲読をコピーして(合計21枚!)、電車の移動中、会議の合間などをぬっては読むようにしていました。しかし、書いてある文章が、歴史に興味のない私にとって、漢字の検索から入り、時代との照らし合わせ、登場人物の履歴に至るまで、まるで呪文でもあるかのように思えました。
重い気持ちのままいよいよ当日。雨の予報がピーカンに転じ、「あれ?もしかしたら、頑張って歩けるかも?」と、少し気持ちが上向き、ご常連様、初めましての方とご挨拶させて頂き、一同定例会前の散策に出掛けました。
定林寺跡への分岐点で説明を待つ参加者 |
飛鳥駅を出発し、高松塚古墳→定林寺跡→亀石→甘樫丘でお弁当→甘樫丘東麓遺跡→石神遺跡 →今回講義会場である飛鳥資料館へと進みました。昼食も含め約2時間30分の散策は、いつも歩いている道とは言え、暑さでヘトヘトになりました。用意の良い方は、ちゃんと着替えのTシャツを持って来ておられたり、お茶も多めにお持ちでした。扇子、団扇、タオル・・・え〜おせんにキャラメル〜まではありませ
んが。(笑)夏の散策は、雨具だけじゃなく、こんな用意も必要なんだな〜と思いました。
「飛鳥時代の戦いと武器〜大化の改新の時、蘇我氏はどのような武器で戦ったのか?〜」ご講演下さったのは、豊島先生ですが、資料を持って「こんにちは〜」とご挨拶下さった時、先生だとは気がつかず、お弟子さんか?と思ってしまうくらい、お若い先生でビックリ。難しいお話しだったらどうしようかと、ドキドキ土器・・・。
先生がご用意下さった図入りの資料2枚、おおよその講義の流れ1枚を頂き、いよいよ講義が始まりました。
講演会風景 |
紀元前1世紀には狩猟用だった道具(石の投げ槍)が、だんだん石の剣にとって代わり、弥生時代には、すでに戦い用の武器として確立されていたと言う。今回特別に、復元された武器や実際に出土した武器を目の当たりに見せて頂けました。キトラ古墳(7世紀末から8世紀初め)から出土した武器を復元した物は、鞘が黒漆で非常に細く真っ直ぐで美しい姿をしていました。重さは1キロぐらいだそうです。かなり細いので、そんな物で人が切れたのだろうか?と思いましたが、どうやら儀礼用で、きっと戦に参加する事のなかった高位の方が埋葬されていたのだろうと言うことがわかるそうです。
私が一番驚いたのは矢尻の細さです。見せて頂いた矢尻は幅1cmほどの細い物でした。こんな細さで人を刺す事が出来るのだろうか?と不思議に思いました。透かさず先生は「この時代鎧(よろい)を着て戦っていたので、その鎧の隙間を狙えるように」と仰って、なるほど・・・とそれで合点がゆきました。
一番興味深かったのは、環頭大刀(かんとうたち)で、単竜・単鳳、双竜、頭椎(かぶつち)と、おおまかに分けて3種類あり、中国四国地方では地域によってそれらの分布が歴然としていること。関東東北では、その分布が入り乱れること。武器(環頭大刀)の分布によって、その地の豪族がどこに属していたとか、どこに支配されていたかがわかる手がかりになるようです。しかし、そこから手柄を立てた者やなんらかの理由によって、人にあげてしまったりすると、その分布が乱れる。先生の見立てでは、藤原京あたりからボチボチ刀のようなコストの高い物での所属や支配の印をやめて、もっとコストの安いベルトのバックルや衣服で変化を付けだし、最後に冠位や位階になったのではないかと言う話でした。人間の主張みたいな物も出来て来たのかな〜と考えると、なんとも面白い。
先人の知恵・・・6〜7世紀の鉄ぞく(矢尻)には、敵に刺さってもすぐに抜けないギザギザが作ってあったり、両脇に突起を作り、握り手のストッパーの役目をさせていたりと、沢山の工夫が凝らされているのがわかりました。
質疑応答では、時間超過するのではないか?と思われるぐらい沢山の質問が飛び出し、先生とはまた違った見方をなさる人もいらっしゃって、とても面白い話を沢山聞かせて頂けました。レプリカとは言え、ガラスケースの中を、遠くから見るのではなく、間近でじっくりと説明をして頂きながら拝見出来たのは貴重な経験となりました。先生のお話は、全く知識の無い私の興味を上手く引き出し、それらを展開して下さいました。歴史をまた違う角度で見られたことに感謝申し上げて、レポートを終わらせて頂きます。ありがとうございました。
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