両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第15回定例会資料集


飛鳥時代の戦いと武器に関する記録


この色の文字は、リンクしています。
講演会前散策資料 ・ 定例会レポート 

西暦

和暦

項目

591

崇峻4年

11月、任那再興のため兵二万余を筑紫に出兵。紀男麻呂宿禰・巨勢猿臣・大伴クイ連・葛城烏奈良臣 (推古三年帰着)

600

推古8年

2月、任那を助けるため新羅討伐する。万余の兵。 境部臣(大将軍)・穂積臣(副将軍

602

  10年

2月、新羅征討 二万五千の兵動員 来目皇子(将軍)筑紫駐屯 
 (翌年二月に皇子薨じ、中止。)

603

  11年

4月、新羅征討将軍に当麻皇子を将軍に任じる。皇子の妻が薨じたのを理由に征討を中止。

618

  26年

8月、高句麗の使者が、隋の滅亡を伝える。隋の捕虜二名と鼓吹・弩・拠石・など十種のもの、また駱駝などを奉る。

623

  31年

7月、新羅に使者を派遣。一方、数万の兵を新羅征討として派遣。境部臣雄麻呂・中臣連国を大将軍とする。

637

舒明9年

3月、蝦夷征討、上毛野君形名(将軍)に派遣するが敗退。妻が勢いを盛り返し、蝦夷を大破、多数の捕虜を得る。

643

皇極2年

11月、蘇我入鹿、斑鳩宮を襲う。巨勢徳太大臣・土師娑婆連など。山背大兄皇子自害。

644

   3年

11月、蘇我蝦夷・入鹿、甘樫丘に家を建て並べる。「蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並べ建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよんだ。また、その男女を王子とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。」

「大臣は、長直(ながのあたい)に命じて大丹穂山(おおにおのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を造らせ、また畝傍山の東にも家を建て、池を掘ってとりでとし、兵庫を建てて矢を貯えた。大臣はまた、いつも五十人の兵士をつれ、身の周囲にめぐらして家から出入りした。これらの力の強い男たちを、東方の儐従者(しとべ)と名付けた。諸氏の人々の、入ってその門に侍する者を、おやのこわらわ(原文漢字)と名付けた。漢直たちは、大臣と入鹿との二つの門に侍するのをもっぱらとした。」

645

   4年

6月、乙巳の変「中大兄は、みずから長い槍をとって大極殿のわきにかくれ、中臣鎌子連らが弓矢をもってそれを護衛した。中大兄は、海犬養連勝麻呂に命じ、箱のなかの二つの剣を佐伯連子麻呂と葛城稚犬養連網田とに授け、‘ぬかるなよ。いっきに斬るのだ’といわれた。」

「ヤアとさけんで、子麻呂らとともにおどり出し、いきなり剣で入鹿の頭や肩に切りつけた。入鹿は驚いて立ち上がった。子麻呂も剣をふるって入鹿の片方の足に切りつけた。・・・・」

「佐伯連子麻呂と稚犬養連網田とは、入鹿臣を切り殺した。」

「中大兄はすぐ法興寺に入り、ここをとりでとして備えを固めた。皇子・諸王・諸卿大夫・臣・連・伴造・国造のことごとくが、みなそれに従った。中大兄は、人を遣わして鞍作臣の屍を大臣蝦夷に賜った。このとき漢直たちは、族党をみな集め、甲をつけ、武器をもって、大臣を助けて陣を張ろうとした。・・。」

中大兄は、巨勢徳陀臣を遣わして、東直たちを説得させます。漢直は、「剣をはずし、弓を放りだして去ってしまった。」

「蘇我蝦夷らは、誅殺されるにあたって、天皇記・国記、および珍宝をことごとく焼いた。」

孝徳天皇即位「・・・・、軽皇子は固辞することができず、壇にのぼり、皇位におつきになった。そのとき、大伴長徳連が、金の靫を付けて壇の右に立ち、犬上健部君が、金の靫をつけて壇の左に立った。」

645

大化元年

8月、東国国司への詔「・・・略・・・、また、人の家から離れた空き地に武器庫を造り、国・郡内の刀・甲・弓・矢を集めてそこに収めよ。辺境の国で蝦夷と境界を接するような地方では、いったんその武器をすべて集計した上で、もとの持ち主にかりにあずけるようにせよ。」

9月、「使者を諸国に遣わして武器を管理させた。」

古人大兄皇子の変「若干(ある書には四十名)の兵をひきいさせ、古人大兄皇子を討伐させた。」

646

大化2年

1月、大化の詔「その二にいう。京師を創設し、畿内・国司・郡司・関塞・斥候・防人・駅馬・伝馬を置き、鈴契を造り、山河を定める。・・・」

「その四にいう。・・・中略・・・。およそ武器は、各自刀・甲・弓・矢・幡・鼓をさし出させる。・・・」

647

3年

渟足柵(新潟県沼垂)を造り、柵戸を置いた。

648

4年

「磐舟柵(新潟県村上市)を造って蝦夷に備えた。越と信濃との民を選んではじめて柵戸を置いた。」

649

5年

3月、蘇我倉山田石川麻呂の変

658

斉明4年

4月、阿倍臣(比羅夫?)が、軍船百八十艘をひきいて、あぎ田・淳代二郡の蝦夷を討伐。7月に淳代・津軽の蝦夷投降。

11月、有間皇子の変 

「この歳、越国守阿倍引田臣比羅夫が粛慎を討ち、生きた羆二頭と羆の皮七十枚とを献上した。」

「沙門智踰が指南車を造った。」

659

   5年

3月、「阿倍臣を遣わし、軍船百八十艘をひきいて蝦夷を討った。」

660

   6年

3月、「阿倍臣を遣わし、軍船二百艘をひきいて粛慎国を討った。」

5月、「また、国中のあらゆる百姓が、何事もないのに武器をもって道路を行ききした。(古老は、百済が滅びる前兆ではないかといった。)」

10月、百済の将鬼室福信、使いを遣わせて救援を乞う。

12月、百済救援のため難波宮に移り、戦備を整える。

661

   7年

1月、天皇・皇太子ら、百済救援のため難波をたつ。

5月、朝倉橘広庭宮に遷座。

7月、斉明天皇崩御。中大兄皇子が称制する。

8月、安曇比羅夫・阿倍比羅夫らを百済救援の将軍をして派遣。

9月、「狭井連檳椰と秦造田来津とに軍兵五千余人を率いさせ、豊璋を護衛して本国に送らせた。」

662

天智元年

1月、百済の鬼室福信に、矢十万隻・絲五百斤・綿一千斤・布一千斤・韋(なめしがわ)一千張・稲種(種籾)三千斛を賜った。

・3月、高麗の救援要請にこたえて、将軍を派遣。

5月、安曇比羅夫、軍船百七十艘を率いて豊璋を百済に送り、王位につかせる。

この歳、百済を救援するために、武器を修繕し、船舶を整備し、軍兵の食料をたくわえた。

663

天智2年

3月、前軍の将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中軍の将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後軍の将軍阿倍引田臣比羅夫・大宅臣鎌柄を遣わし、二万七千人を率いて新羅討征に向かう。

8月、日本の水軍、白村江の戦いで、唐の水軍に大敗を喫する。

9月、日本軍、百済の遺臣と共に帰国。

664

   3年

2月、「冠位二十六階・氏上などを定め、大氏の氏上には大刀、小氏の氏上には小刀を、伴造らの氏上には干楯と弓矢とを賜った。」

5月、「百済鎮将劉仁願が、郭務悰らを遣わし、上表文をおさめた函とささげ物とをたてまつった。」

この歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国などに、防人と烽とを置いた。また、筑紫に大きな堤を築いて水を貯えさせ、これを水城と名付けた。

665

   4年

8月、「百済遺臣達率答本(火偏に本)春秋を遣わして、城を長門国に築かせ、達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣わして、大野および椽の二城を築かせた。」

9月、劉徳高・郭務悰ら(等というのは、・・・計二百五十四人である)を遣わし、上表文をおさめた函をたてまつった。

10月、莬道で大がかりな閲兵を行った。

666

   5年

10月、「倭漢沙門智由が、指南車を献上した。(斉明四年条の異伝か)」

667

   6年

3月、近江大津宮に遷都

11月、「倭国の高安城、讃岐の山田郡の屋嶋城、対馬国の金田城を築いた。」

668

   7年

7月、「このころ、近江国で武術の訓練を行い、また牧場を数多く作って馬を放牧した。」

669

   8年

この冬に、高安城を修築し、畿内の田税をそこに収めた。

12月、大唐が郭務悰ら二千余人を遣わしてきた。(10年11月条の重出か)

670

   9年

2月、「戸籍(庚午年籍)を造り、盗賊と浮浪とを取り締まった。」

2月、「高安城を修築し、穀と塩とを集積した。また、長門に城一つ、筑紫に城二つを築いた。(四年八月条の重出か)」

この歳、水碓を造って鉄を鋳た。

671

  10年

大友皇子を太政大臣とし、五人の重臣を大臣・御史大夫に任命する。また冠位・法度を施行する。(近江令)

10月、大海人皇子、東宮を辞して出家、吉野に入る。

11月、対馬国司の使いが筑紫の大宰府に遣わされ、沙門道久等四名が唐からやって来て、「唐国の使人郭務悰ら六百人、送使の沙宅孫登(百済人)ら千四百人、総計二千人が船四十七隻に乗り、ともに比智嶋に着きました。前もって、来朝の意を明らかにさせることにしました。」と報告した。

12月、天智天皇崩御。

672

天武元年

弘文元年

5月、朝廷は、筑紫に居た郭務悰らに、甲・冑・弓・矢を郭務悰らに賜った。他に賜ったもの、絁(ふとぎぬ)千六百七十三匹・布二千八百五十二端・綿六百六十六斤。郭務悰らは、帰途についた。

6月、大海人皇子、吉野で決起する。(壬申の乱勃発)

   22日、安八麿郡(湯沐令の多臣品治)や東国の兵をもって、不破の道を塞ぐことを指示。

    24日、東国へ向かう。

    26日、美濃の軍勢三千人を発して、不破の道を塞ぐことに成功。高市皇子を不破に派遣。東海・東山の軍を徴発させた。

    27日、尾張国司の守小子部連鉏鉤が、二万の軍兵をひきつれて帰順。軍事を高市皇子に任せ、大海人皇子は野上の行宮に入る。

    29日、大伴吹負、飛鳥に蜂起する。「このとき、留守司の高坂王と、徴兵のための使者の穂積臣百足らとは、飛鳥寺の西の槻の木の下に軍営をかまえ、百足だけは小墾田の武器庫にいて、武器を近江に運ぼうとしたが、・・・破れた。」

7月

     1日、吹負、乃楽へ侵攻

     2日、大海人皇子軍、美濃から近江に進軍。

     7日、息長の横河(米原町醒ヶ井付近?)の戦、大海人軍勝利。(将軍 村国連男依)

    9日、鳥籠山(坂田・犬上郡界付近?)の戦、大海人軍勝利。

   13日、安川(野洲川)の戦、大海人軍勝利。

   17日、栗太(栗太郡)の戦、大海人軍勝利。

    22日、瀬田の戦、大海人軍大勝。

   3日、大友皇子、山前(京都府大山崎町?)にて自害。

    24日、左右大臣や罪人を捜索・逮捕。

  26日、将軍たちは、不破宮に向かい、大友皇子の頭を捧げ、天皇(大海人皇子)の軍営の前にたてまつった。

・ 古京の戦い

   4日、各地で近江軍の勝利。吹負、2日に発せられた大和方面軍の騎馬兵と合流。軍を再編後、上ツ道・中ツ道・下ツ道の三道に軍を分け配置。

    上ツ道、箸墓の戦で大海人軍が大勝。各道とも勝利し、近江軍を大和から一掃する。

   22日、大伴吹負、大和を平定し、大坂を越えて難波に向かう。別将は、三道を進んで、山前に着き川の南で集結した。吹負、以西の諸国の国司に命じて、税倉・武器庫の鍵や駅鈴。伝印をたてまつらせた。

9月

     12日、大海人皇子、古京凱旋。

    15日、嶋宮から岡本宮に移る。

「この歳、宮殿を岡本宮の南にお造りになり、冬にそこにお移りになった。 これを飛鳥浄御原宮という。」

673

天武2年

2月、大海人皇子、飛鳥浄御原宮で即位。(天武天皇)

675

   4年

2月、「天皇は高安城におでましになった。」

676

   5年

9月、「「王卿を京および畿内に遣わし、ひとりひとりの武器を調査させた。 」

679

   8年

2月、詔して、「辛巳の年(天武10年)に、親王・諸王および百寮の人々の武器と馬とを検閲する。それゆえ前もって準備するように。」

11月、「はじめて関を竜田山と大坂山とに置き、難波には羅城を築いた。」

680

   9年

9月、「朝嬬におでましになり、大山位以下の者の馬を名柄の森でご覧になり、馬的を射させになった。」

681

   10年

2月、浄御原令の編纂開始。

10月、「天皇は広瀬野で観閲を行おうとされ、行宮も作りおわり、すべての 用意が整えられたが、天皇はけっきょくおでましにならなかった。それでも  親王以下、および群卿は、みな軽市で、よそおいをこらした乗馬を検閲した 。小錦以上の大夫は、みな木の下に座を連ね、大山位以下の者はみな馬 に乗って、そろって大路にそって南から北に行進した。」

684

  13年

4月、詔して、「来年の9月にかならず観閲を行う。それゆえ、百寮の人々に動作と装備とを教えよ」と言われた。また詔して、「そもそも政(まつりごと)の要は軍事(いくさのこと)なり、それゆえ文武官の人々は、だれもが武器を使い、馬に乗れるように努めよ。馬や武器、それに本人が着用する物も、一つ一つ揃えておくように努めよ。馬のある者は騎兵とし、馬のない者は歩兵とし、それぞれ訓練をつんで集会にさしさわりのないようにせよ。もし詔の趣旨に違反し、馬や武器の扱いに習熟せず、装備にかけるようなことがあれば、親王以下諸臣にいたるまで、みな処罰する。大山位以下の者は、処罰すべき者は処罰し、杖の刑に処する者は実際に杖でうつ。訓練に努め、技術を習得した者は、たとえ死刑にあたる罪を犯しても、罪を二等減じよう。ただし、自分の才能をたのみに、それによって故意に罪を犯す者は、赦免しない。」と言われた。

685

  14年

11月、「官用の鉄一万斤を周防総令のもとに送った。同日、筑紫大宰が、官用の絁一百匹・絲一百斤・布三百端・庸布四百常・鉄一万斤・箭竹二千本を申請してきたので、それらを筑紫に発送した。

四方の国に詔して、「大角・小角・鼓吹・幡旗、および弩・抛などは、個人の家に置いてはならぬ。みな郡家に収めよ。」

686

  15年

9月、天武天皇崩御。大津皇子の変。

10月、大津皇子自害。

689

持統3年

浄御原令施行・「諸司の令一部二十二巻を班ち賜わった。」

7月、「左右京職および諸国の国司に詔して、射(射芸)を習うための所を、お築かせになった。」

8月、諸国の国司に詔して、「・・・・。兵士は国ごとに四分の一と定め、兵術を習わせなさい。」

9月、「直広参石上朝臣麻呂・直広肆石川朝臣虫名らを筑紫に遣わして、位記を送り、かつ新しい城を視察させた。」

10月、「天皇は高安城にお出ましになった。」

11月、「中市で、追広弐高田首石成が三種類の武器に熟達していることをほめ、ものを賜った。」

693

7年

10月、詔して、「今年から、親王以下進位に至るまでの人々の用意している武器を観閲することとします。浄冠から直冠までは、人別に甲一領・大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚・それに乗用の馬、勤冠から進冠までは、人別に大刀一口・弓一張・矢一具・鞆一枚、これらをあらかじめ備えておくように」と言われた。」

12月、「陣法博士らを遣わして、諸国で教習を行わせた。」

694

   8年

12月、藤原京遷都。

698

文武2年

8月、高安城を修理。

12月、越後国に石船柵を修理させた。

699

   3年

9月、高安城を修理。

9月、詔して、「正大弐(正二位)以下無位以上の者に、地位に応じて、各 人、弓・矢・甲・桙・と軍馬を用意させよ。」また京畿にも「これと同様に用意せよ。」と勅された。

701

大宝元年

8月、大宝律令完成。明法博士を西海道を除く六道に派遣して大宝令を講義させる。

・8月、高安城を廃止し、その建物や種々の貯蔵物を、大倭・河内の二国に移貯した。諸国に命じて衛士を増微し、衛門府に配属した。

702

   2年

2月、大宝律を諸国に頒つ。

10月、「唱更(辺境を守る役)の国司らが言上した。“国内の要害の地に、 柵を建て、守備兵を置いて守ろうと思います”と。これを許した。」

10月、大宝律令を全ての国に頒布した。

704

慶雲元年

4月、信濃国から献上した弓千四百張を大宰府に支給した。

6月、諸国の兵士を国別に十番に分け、武芸を習わせる。

707

慶雲4年

6月、文武天皇崩御。

709

和銅2年

3月、「陸奥・越後二国の蝦夷討伐のために、遠江・駿河・甲斐・信濃・越前・越中などの国から兵を徴発し、巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍に任じ、佐伯宿禰石湯を征越後蝦夷将軍に任じ、東山道と北陸道の両方から討たせた。」

7月、「上毛野朝臣安麻呂を陸奥守に任じ、蝦夷を討つために諸国に命じて兵器を出羽柵に運び送らせた。」

7月、「越前・越中・越後・佐渡の四国の船百艘を、征狄所(蝦夷征討の根拠地)に送らせた。」

9月、藤原房前を、東海・東山の二道に遣わして、関や柵を検察すると共に、人民のならわしを視察させた。

710

  3年

3月、平城京遷都


「 」内は、中央公論社「日本書紀」・講談社「続日本紀」を引用。 「 」の無いものは、その要約。

講演会前散策資料 定例会レポート

資料作成 両槻会事務局 風人

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