両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第16回定例会レポート



飛鳥瓦の源流


− 百済、新羅、高句麗、そして中国南朝−

この色の文字は、リンクしています。
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 第16回定例会のテーマは「瓦」です。瓦というと、考古学や歴史を好きな方でも敬遠されるマニアックな物と思われがちで、博物館の展示会などでも人気薄だと言われるそうです。そんな瓦ですが、両槻会は、その面白さを少しでもお分かり頂ければと、チャレンジすることにしました。古代瓦から見えてくる飛鳥は、きっと今までの視点とは違う飛鳥を見せてくれるように思いました。
 事務局では、担当スタッフを中心に、6ヶ月前から準備を始めていました。どうすれば皆さんに興味を持って、定例会に足を運んでいただけるだろうか。第16回定例会は、そこから始まることになりました。

 講演をしていただく先生は、現在の瓦博士 清水昭博先生(橿原考古学研究所主任研究員)です。ご著書「蓮華百相」を拝見した時が、先生と風人の出会いの最初になります。それから数年、実際にお会いする機会があり、今回の講演会を依頼する運びとなりました。清水先生なら、きっと楽しいお話をして下さるだろう、分かりやすくお話してくださるだろうとの期待が、数々の論文を拝読し、また準備を進める中で、日に日に大きくなっていきました。

 さて、定例会当日です。2日前までの天気予報では、雨の心配は全くなかったのですが、突然に雨予報に変わりました。それも所によっては雷雨になると・・・。事務局では、大至急雨予定の確認作業をするという慌てぶりになりました。しかし、午前中に予定していた散策の間には、雨は降ることもなく、無事に予定を進行することが出来ました♪清水先生の見解によれば「瓦は雨を防ぐ物」だそうです。(笑)

 散策には、講演会の講師とは別に、橿原考古学研究所の岡田雅彦先生が、各ポイントで解説を担当してくださいます。まことに贅沢な定例会になりました♪
 定刻に橿原神宮前駅東口を出発、丈六交差点から東に仏教揺籃の地を辿りながら明日香村を目指します。散策参加者は、27名。先生方を含めますと29名のちょっとした団体です。




豊浦寺の説明を聞く参加者

 橿原神宮前駅から剣池を通り、住宅地の中から和田池に出るコースを進みます。バス路線を離れ、飛鳥へ向かう両槻会のお決まりのコースです。豊浦寺跡向原寺の裏に出てきますが、お寺を回り込むように正面に出ると、物部守屋が仏像を投げ捨てたという「難波池」とされる小さな池があります。今回は、ここで第一回目の解説がありました。



豊浦寺の塔を飾った新羅系(高句麗新羅系)軒丸瓦 瓦当文様

  各解説の行われるポイントを予め予定ページに発表していましたので、予習をされている方も居られたようです。約10分のご説明は、簡潔にまとめられた大変分かり易いお話でした。現地で聞く楽しさも相まって、参加者の皆さんは熱心にお話をお聞きでした。
 (豊浦寺に関しては、両槻会が作成しました散策資料集をご参照ください。)

 
豊浦の路地を抜けて塔心礎を見学の後、平吉遺跡に向かいます。平吉遺跡?と思われる方も多いと思うのですが、この遺跡名は「へいきち」ではなく「ひきち」と読みます。小字名を遺跡名にしていますので、音と字の違いで別の遺跡のように思ってしまいますね。平吉遺跡からは、豊浦寺と同笵の新羅系軒丸瓦や鬼板なども出土しており、また炉跡もあることから、豊浦寺の工房や関連施設があったのかも知れません。また、付近にあった西念寺瓦窯のおおよその場所なども、岡田先生に示していただきました。



平吉遺跡 ここで昼食になりました。

 説明の後、公園化されている平吉遺跡のベンチを使って、昼食になりました。それぞれに参加者同士のお話も弾み賑やかなベンチもありました。雨が降らなかったお陰です。万一降った場合は、甘樫丘北麓に出来た休憩所を使う予定だったのですが、やはりウォーキング中は、自然の中で食事をしたいものです。
 
 35分間の昼食休憩の後、飛鳥寺跡へ出発です。両槻会では、出来るだけ飛鳥寺跡と書いています。安居院は飛鳥寺の法灯を継いでいるのかもしれませんが、飛鳥寺の寺域には、現在、他のお寺も建っており、こだわりを持って飛鳥寺と呼ぶのは避けています。安居院を通り抜け、東金堂跡付近の駐車場で岡田先生の説明を聞きました。


 我国で最初に瓦が葺かれた大伽藍の寺院であった飛鳥寺。一塔三金堂の壮大な建築物は、当時どのような威容を誇っていたのでしょう。想像すら難しいその姿の中に、花組・星組と呼ばれる瓦が軒先を飾っていました。そこから派生する我国の瓦の歴史。それは、我国の国家としての形成と時を同じくして広まって行くことになります。



素弁十葉蓮華文軒丸瓦(花組)


素弁十一葉蓮華文軒丸瓦(星組)

 飛鳥寺跡を後にして、散策はその飛鳥寺の瓦を焼いたとされる瓦窯跡に向かいました。飛鳥寺瓦窯は、飛鳥寺の南東直ぐにある丘陵の斜面にあります。説明板がなければ、それに気付くことも無いでしょう。普通の竹の生えた丘です。道路に面したその丘の前でも丁寧な説明をお聞きすることが出来ました。岡田先生は瓦のご研究をされていますので、瓦の説明になると目の輝きがキラリとひと輝き増すように思います。(笑)
 飛鳥瓦窯では、飛鳥寺使用瓦の内、花組の瓦が焼かれたとされ、百済の扶余に同構造の瓦窯があることのことです。詳しくは、散策資料をご参照ください。


 ここで、このレポートを書いている風人は、皆さんと離れて、講演会場であります飛鳥資料館へ先行しました。続きは、事務局スタッフ若葉が引き継ぎます。

 資料館に先行します風人に代わり、途中若葉が担当致します。
 飛鳥寺瓦窯を後にし、参加者どうしお話も弾みながら奥山の民家の間を通り、最後の散策地である奥山廃寺に向います。
 遺跡は現在の奥山久米寺の境内と重なっていて、鎌倉時代のものだとされる十三重石塔が建っている土壇は塔跡になります。様々な説が考えられて来ましたが、近年の調査により出土した瓦が、飛鳥寺や豊浦寺などの蘇我氏の寺院の創建瓦と同笵の物が含まれる事から、同系の氏族の寺院だと考えられるようです。
 その後、推定伽藍の東北隅の井戸跡から、「少治田寺」と書かれた可能性の高い墨書土器が出土した事から、小墾田氏の寺院だという説も上がってきています。
(飛鳥遊訪マガジンVol.060 ゆきさんの「ただ今、飛鳥・藤原修行中!」の中で詳しく書かれています。)遺物や遺構から平安時代初期まで存続したようですが、その後はよく解らないそうです。



奧山廃寺の説明を聞く参加者

 発掘では、塔の基壇には掘込地業と地覆石の抜き取りの痕跡が見つかっている事から、およそ一辺12mだと解っているそうです。創建は7世紀後半になるそうで、基壇には礎石が残っています。
 金堂は現在の本堂の下で確認されており、東西約23m 南北約19mに推定されています。基壇周囲に巾70cmほどの犬走りがあり、塔よりも早い7世紀前半頃の創建であるようです。一部には奈良時代の軒瓦が含まれる事から、その時代に改修されたと思われます。

 特長としては軒丸瓦の種類が多く、各建物に単一の軒瓦を用いず様々な瓦を使っているようですが、ある程度の傾向があるそうで、塔には山田寺式、金堂では奥山廃寺式と船橋廃寺式が主に出土しているそうです。
 「塔の北側のこの辺りに石敷きの参道があって‥」と、両手で教えて下さったり、「丁度真ん中だからこの辺に灯篭があって‥」などと、示して下さると私などにもイメージが湧きやすくなります。

 多くの説明をして頂いた後は、それぞれ塔跡を確認したり先生に質問したりと、短〜い時間を有効に使い、飛鳥資料館に早足に向ったのでした。
 では、再び風人さんにレポートを続けてもらいま〜す。

 もろもろの準備をするために風人が飛鳥資料館に到着すると、早くも講演会のみに参加される方々が来られていました。資料館の皆さんにご挨拶をし、会場の受付準備を整えます。お馴染みの常連さんたちにお手伝いをいただきながら、本隊の到着を待ちます。
 ほどなく到着された皆さんを会場に誘導して、荷物を置いていただいた後は、この日、両槻会主催講演会としては、初めての試みとなりますギャラリートークが始まります。本物の展示品を前にしての解説は、より分かりやすいのではないかと岡田先生にご無理を聞いていただきました。散策から休憩無しの解説で申し訳なく思ったのですが、お若い先生ですので強引にお願いした次第です。


 素弁・単弁・複弁と名前だけでは、難しそうな話になりますが、目の前にその本物が展示されていますので、理解を大きく助けてくれます。岡田先生の的確なご説明で20分ばかりの時間が瞬く間に過ぎて行きます。参加者からは熱心な質問も飛び出し、瓦の面白さを少しずつご理解いただけてきたかなと、スタッフとしては嬉しく思いました。

 10分間のトイレ休憩の後、いよいよ講演会の開始です。



満席の飛鳥資料館講堂

 今回の講演会のメインテーマは「飛鳥瓦の源流」です。飛鳥時代に造られた我国の古代瓦のルーツを探ろうというお話になります。
 我国の瓦は、公式記録である日本書紀によると、4人の瓦博士の登場に始まります。日本の本格的な瓦作りは、彼らによって始められました。それは、今から約1400年前、崇峻元(588)年のことでした。彼等は、韓半島に当時あった百済からやってきました。そして、花組・星組と呼ばれる瓦を作り始めます。その内の星組は、飛鳥寺から豊浦寺へ、豊浦寺から斑鳩寺へ、四天王寺へと移動して行きました。
 そうすると、我国の瓦の源流は、百済にあると言えるのでしょうか。清水先生のお話は、次第に壮大なスケールになって行きます。


 清水先生は、百済・新羅・高句麗の瓦をそれぞれの地域ごとに、系統立てて紹介してくださいました。地域による独自性や共通性などが明確に示されて行きます。
 今講演会では、両槻会主催講演会として初めてパワーポイントを使っていますので、多数の資料写真を説明の中で見せていただくことが出来ました。一目瞭然とはこのことでしょう。言葉の表現だけではとてもこのように理解を深めることは出来なかったと思います。説明は詳細に及びましたが、瓦の系譜が視覚的によく分かりました。

 また、実物の瓦をお持ちいただけ、非常に難解な瓦当面の裏側のナデ成形を手に触れて確かめることが出来ました。風人は、これをなかなか理解出来ずにいました。瓦の裏側など見ることもありませんので、想像することが難しいのです。見れば分かる♪まさにそういうことだと思います。瓦作りの職人さんのナデ跡が見えています。そっとそれを上からナデてみました。時を超えて工人の手を感じることが出来ました♪この感触はもう忘れないと思います。こうして瓦マニアが一人生まれました。(笑)

 中国南朝の瓦にお話が進みます。中国南京市から発掘された南朝梁代とされる瓦が示されました。知識の無い風人ですが、一見の感想は新羅系と言われる瓦の特徴に似ているなと思いました。つまり弁の中央に稜線があります。(豊浦寺の雪組など)

 南朝梁の大通元年(527年)に同泰寺と命名されたお寺が建立されました。このお寺において、蓮華文という文様の瓦が初めて登場するとされているようです。同泰寺は、武帝と言う崇仏心の強い皇帝の時代に仏教活動の拠点となった寺院だそうです。この大寺院建立が韓半島にも影響を及ぼし、百済では大通寺、新羅では興輪寺が同年に創建が開始されるという状況にあったそうです。これらの寺院では、それまでの独自の瓦当文様に代わり、蓮華文が採用されました。我国より大陸の影響を受けやすい韓半島は、仏教需要のシンボルとして大寺院の建立を始めなければならなかった政治的理由が存在したのかも知れませんね。瓦当文様に影響を受けたのもそのようなことの一つであったのかも知れません。瓦に蓮華文が使われるその様式は、それから60年後の588年、我国にももたらされる事になります。
 
 先ほど少し書きましたが、瓦当裏面の成形における回転ナデという技法も中国南朝に見られるそうで、我国の瓦のルーツは、中国南朝に求められると言えるようです。


 しかし、中国南朝が我国の古代瓦のルーツだからといって、単純に、またダイレクトにそれが持ち込まれたわけではなく、その伝播経路やもたらされた技術は様々な様相の中で入り混じり、変化して、我国に到来したものであると思いました。飛鳥寺の軒先を飾ったのが花組や星組と呼ばれる瓦であったことと、中国南朝の瓦が新羅系と呼ばれる瓦であったことも、そのことを物語る一つの事例であるのかも知れません。複雑な様相は、国家間の政治力学によるものなのでしょう。また、その彩を織り成してきたのが人間であったからなのかも知れませんね。
 そうした中、最終的には、百済から様々な寺院建設の工人と共に、瓦博士がやって来たといえるのだと思います。

 瓦には、大陸・韓半島・我国の複雑な状況が反映しているように思います。記録からは見えない歴史が見えるかも知れませんね。それを楽しみに、これからも瓦に注目して行きたいと思います♪

 もう少し知りたい、もっと知りたいと思いながら、気付けば時間は午後4時を回り、飛鳥資料館の閉館時間が近づいていました。


 このレポートは、清水先生のお話を聞いた風人の単なる感想です。お話いただいた何十分の一しか理解出来ていませんし、間違った解釈もしていると思います。くれぐれも鵜呑みになさらないようにお願いします。また、お話の詳細には触れず、定例会の大雑把な流れをご紹介させていただきました。

 今回の講演会では、清水先生に長時間にわたる熱心な講演をいただきました。また、岡田先生には散策の解説をしていただきました。さらに飛鳥資料館のご好意でパワーポイントを使用することが出来ました。熱意ある参加者にも恵まれております。両槻会は、幸せな会です。末文になりましたが、定例会に関わってくださいました皆様に、心よりのお礼を申し上げます。
                                    両槻会事務局 風人
       

作成 両槻会事務局 若葉・風人
写真撮影・画像作成 若葉・風人

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