両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第16回定例会 散策資料集



飛鳥瓦の源流


− 百済、新羅、高句麗、そして中国南朝−

この色の文字は、リンクしています。
豊浦寺 平吉遺跡 飛鳥寺 飛鳥寺瓦窯
奧山廃寺 散策ルートマップ 関連資料集 レポート
事前散策用資料集
2009年 9月 12日

豊浦寺

・史料の中の豊浦寺
 『日本書記』の欽明天皇条や敏達天皇条にある蘇我物部の崇排仏論争の記事中にあらわれる「向原の家(欽明13年)」や「大野丘の北の塔(敏達14年)」、蘇我氏が建てたとされる「桜井寺(崇峻3年?)」などが、その前身にあたるのではないかとも言われます。が、これらは、今のところ考古学的な裏づけがなく、私邸内の仏殿や草堂のようなものであった可能性が高いと考えられています。

 創建時期に関わる記録では、『日本書記』舒明天皇即位前記(628)の山背大兄皇子が「かつて叔父の病気を見舞おうと豊浦寺にいた」と言う記事が一番古いものになります。次に『聖徳太子伝暦』の舒明6(634)年に、塔の心柱を建てた記事があり、『日本書記』の朱鳥元(686)年12月に「天武天皇のために、無遮大会を五つの寺−大官大寺・飛鳥・川原・小墾田豊浦・坂田で行われた」とする記事へと続きます。
 これらの記事を流れとして捉えると、628年には、滞在の為の施設などはあるもののまだ全伽藍完成には至っておらず、634年以後に塔などその他の堂宇整備を経て、遅くとも無遮大会の行われた686年には、寺として名実ともに完成されていたと考えることも出来ます。(参考: 関連年表

・考古の中の豊浦寺


豊浦寺推定伽藍図
 発掘調査で判明している豊浦寺は、明日香村豊浦にある向原寺周辺に、東西80m、南北150m以上の寺域を持つ四天王寺式伽藍配置であったとされています。南北150mと言えば、甘樫丘の丘陵裾から、集落北側の東西道付近までとなります。
 金堂は、東西17m・南北15m(飛鳥寺の約8割の規模)、塔が周囲に石敷きを伴う東西約14m(基壇規模)で南北規模は不明、講堂が東西30m以上・南北22m前後(飛鳥寺講堂とほぼ同規模)だとされています。この他、回廊や尼坊と推定される遺構が講堂跡の西から検出されています。

 これら堂宇の造営年代を推定する手段のひとつとして、軒丸瓦など瓦の年代観が用いられます。

星組(飛鳥寺出土品)
明日香村埋蔵文化財室展示品
船橋廃寺式(参考)
 現・法輪寺
新羅系(豊浦寺出土品)
 明日香村埋蔵文化財室展示品

 豊浦寺創建には、30種類近くの瓦が使用されたと言われています。その中で、主となる瓦当文様は、上の3種類になります。
 金堂は、主に飛鳥寺と同じ星組の瓦(素弁九葉蓮華文軒丸瓦・素弁十一葉蓮華文軒丸瓦など)が、飛鳥寺に遅れて使用されていることから、6世紀末から7世紀初頭の間に造営が開始されたと考えられます。
 講堂は船橋廃寺式を主体として、塔は特徴のある新羅系軒丸瓦を主体として、それぞれ7世紀中頃までには造営が開始されたと考えられます。
(参考:瓦当文様 推定出現年表

 これらを史料と照らしあわせてみると、『元興寺伽藍縁起并流記資材帳』にある推古元 (593)年の「等由等宮を寺と成す」の記事が、造営開始を宣言したものとも思えます。が、推古天皇が小墾田宮に遷るのは、『日本書記』では推古11(603)年になります。豊浦宮を寺として、新たに小墾田宮に遷ったとすれば、どちらかの記事の年代が誤記ということになるのでしょうか。それとも、豊浦宮の一角を寺として整備しつつ、新しい宮(小墾田宮)を造営していたなんていうことも有り得るのでしょうか。


 ともかく、豊浦寺跡には下層に豊浦宮と思われる遺構が認められることから、蘇我氏の邸宅が宮になり、その後に寺となったとする説は、支持される方向にあるようです。(向原寺本堂の南側で、石敷きと版築断面の遺構が公開されています。底に見える石敷き部分が豊浦宮の遺構、その上層の断面部分が講堂造営にあたって施された版築だとされるようです。)

 豊浦寺の瓦は、紋様もさることながら、焼かれた窯もバラバラだと言う特徴があります。
 特に新羅系や船橋廃寺式を生産していたそれぞれの窯と豊浦寺との直線距離は、主に新羅系軒丸瓦を製作した京都の隼上り瓦陶窯で約50km、船橋廃寺式を製作した兵庫の高丘窯では約80km、同じく岡山の末ノ奥窯では、約180kmも離れています。



平吉(ひきち)遺跡



平吉遺跡遺構図
 甘樫丘の西北麓部、南から北へ緩やかに傾斜する台地上にあたり、甘樫丘麓として初めて調査された場所になります。

 1977年の奈良文化財研究所による調査で、遺構は6世紀から9世紀に渡るA・B・C・の3期に分類されています。
 A期(6世紀)では、遺跡中ほどに東西約4.6m・ 南北約4.7mの床面に柱穴4個が確認された竪穴住居、B期(7〜8世紀)では、掘立柱建物8棟、塀5基・井戸2基・長方形石組炉3基と石列など、C期(9世紀以降)では、木棺墓(冠・石帯・砥石・土器などを副葬する)が検出されています。

 特にB期の遺構は、さらにT類・U類の二期に分類することができるそうです。T類は、遺跡の西側にほぼ一列に並んだ建物群で、北に対して東に約20度触れる方位を持っています。遺跡中ほどに炉跡が3基あることから、上記の掘立柱建物跡は鉄や銅製品の製造に関わっていた工房跡だと考えることも可能かもしれません。また、この遺構の東側にあたる部分には、排水用の護岸かと思われる石列が断続的に検出されたため、この時期、遺跡東側は谷筋に当たっていたと推定されています。
 U類は、遺跡中央の東西塀のほかに、西と南にそれぞれ一棟ずつの建物跡と井戸跡のみになります。南の掘立柱建物と井戸は作り替えられているそうです。
 瓦類の出土は、主に豊浦寺と同笵の新羅系軒丸瓦や鬼板などで、谷筋の中央部分からの出土になります。

遺構の変換や出土遺物などから考えると、北西約200mにある豊浦寺と縁のある施設(瓦窯や鋳造関連の工房)があったと考えるのも面白いと思います。



飛鳥寺

・史料の中の飛鳥寺
  『日本書記』によると、用明2(587)年いわゆる蘇我物部の崇排仏戦争の際、馬子が「勝利することが出来たなら、諸天王、大神王のために、寺塔を建て三宝を広める」と誓願を立てます。そして、物部守屋に勝利した馬子は、翌崇峻元(588)年に、衣縫造の祖・樹葉の家を壊し、そこに法興寺(飛鳥寺)を建てます。
 この年、絶妙なタイミングで造寺に必要な工人らが百済から派遣され来朝しています。
 『日本書記』はその後も、崇峻3(590)年「用材の調達」、崇峻5(592)年「仏堂・歩廊を着工」、推古元(593)年「仏舎利を塔心礎に安置し、塔の心柱を建てた。」、推古4(596)年「法興寺落成。」と飛鳥寺建立の様子を記録しています。
(参考:関連年表参照

・考古の中の飛鳥寺


飛鳥寺推定伽藍と寺域図
 1956〜57年に3次に渡って行われた発掘調査により、伽藍配置は一塔三金堂形式であることが判明しています。推定される中枢伽藍内(回廊内)の面積は、法隆寺・西院伽藍の約1.8倍、四天王寺の約1.4倍になり、南北の寺域も、以前は200m四方だと言われていたものが、1977年と1982年の調査で、300mに及ぶことがわかりました。創建当初の飛鳥寺は、初の瓦葺き・基壇建物として飛鳥の地で堂々たる姿を誇っていたようです。

 現在も飛鳥大仏を安置する安居院が中金堂を、安居院の北にある来迎寺が講堂の位置をそれぞれ踏襲していることになります。

 創建飛鳥寺で使用された瓦は約10種類あり、蓮弁の先に切れ込みの入る「花組」と、弁端に珠点を置く「星組」との大きく2つのグループに分けることが出来ます。これらの文様は百済の軒丸瓦にもみられることから、祖形は百済に求めることができるようです。(花組に酷似する百済瓦当を示しておきます。)

花組
素弁八葉蓮華文軒丸瓦
明日香村埋蔵文化財室展示品
星組
素弁十一葉蓮華文軒丸瓦
明日香村埋蔵文化財室展示品

 これらの瓦当文様が使用された堂宇は、花組が中枢伽藍、星組が中門や回廊などになり、時代的には花組が若干先行するようですが、ほぼ同時期に並行使用されたと言われています。

 この2つのグループは、瓦当文様だけではなく、瓦当裏面の整形の方法や伴う丸瓦の形態、軒丸瓦製作時の瓦当と丸瓦の接続部分など製作技術の面においても細かく違いが認められます。これは、花組と星組が別個の職人集団として造瓦に携わっていた証とされています。



飛鳥寺瓦窯

 飛鳥寺の南東丘陵斜面で飛鳥寺の瓦を焼いたとされる窯が2基検出されています。ここでは、飛鳥寺創建瓦のうちの花組が焼成されていたといわれています。

 飛鳥寺瓦窯は、丘陵斜面を利用した登り窯で、焚口は間口75cm、高さ90cm、奥行55cmで、アーチ状の天井の奥に間口・奥行がそれぞれ1.5m、高さ2mの燃焼室、さらにその奥に22〜25度の傾斜で高さ・幅ともに1.3m、長さ7.7mの焼成室(瓦を焼き上げるところ)が階段状に作り出され、煙や熱を逃がす為の煙突として50cmの穴が丘陵斜面上に開けられていました。この瓦窯と同じ構造のものが、百済の扶余に見られるそうです。

 また、星組を焼成した窯としては、御所市の上増遺跡や五条市の岡燈明遺跡などが想定されています。付近から星組の瓦の出土があり、地形的にも寺跡ではなく瓦窯であった可能性が高いとされています。



奥山廃寺

 その遺構が、現・奥山久米寺の境内と重なっているために、奥山久米寺跡とも呼ばれますが、最近は、その地名から奥山廃寺と呼ばれることが多くなっています。



 奥山廃寺推定伽藍図
 古くは、橿原市の久米寺の前身寺院説や高市大寺説などがあったようですが、近年では所在地や出土する瓦などから、蘇我氏傍系の小墾田臣や境部臣などに関わる寺院跡ではないかといわれているようです。

 現在の奥山久米寺の境内に入ると、すぐに目入る土壇が塔跡になります。鎌倉時代の十三重石塔建立の為に、四天柱礎が寄せられていますが、側柱はほぼ元位置を保っています。付近から山田寺式軒瓦が多く出土することから、塔はこれを用いて7世紀後半頃に建立されたとされています。また、基壇内部に7世紀前半代の瓦・土器などが多く混入している為、7世紀前半に別の建物があった可能性もあるようです。

 金堂は、塔の北側で(現在の本堂から北東にかけて)東西23.4m・南北推定19.2mの基壇が発見されています。また、東北隣接地で落とし込まれた礎石二個が発見されたことから、講堂の位置もほぼ推定できるようです。西回廊が一部検出されたことで、回廊内の東西は66mであったと推定されています。

 これらの発掘調査により、奥山廃寺は塔・金堂などが一直線に並ぶ、四天王寺式伽藍配置であったとされています。詳しい寺域は不明ですが、奥山久米寺本堂の南約130mの場所で、2度作り替えられた痕跡のある東西塀と8世紀までは機能していたと見られる東西道が検出され、これが寺域の南端であると考えられています。また、塔の北東125mで平安時代に廃絶した井戸跡がみつかり、この付近まで寺の施設が広がっていたと思われます。

奥山廃寺式(奥山廃寺出土)
明日香村埋蔵文化財室展示品
新羅系(奥山廃寺出土)
明日香村埋蔵文化財室展示品
山田寺式軒瓦
飛鳥資料館展示品
         
 金堂の創建に使用された瓦は、寺の名を冠した奥山廃寺式になります。星組よりも精緻に割り付けられた蓮弁や丸みを帯びた中房の形態、製作技術などから星組よりも時代が幾分下る(620〜630年ごろ)と考えられています。この他には、星組・新羅系・船橋廃寺式、塔に使用されたとされる山田寺式などが出土しています。  
 また、この奥山廃寺式の文様をもつ鬼板が、豊浦寺や平吉遺跡などで出土しています。


散策ルートマップ


作成 両槻会事務局 もも
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