この資料集では、今回のウォーキングの近辺に存在する遺跡や、参考資料として掲載しておきたい史跡をご紹介します。定例会のテーマから外れますが、今後の散策にお役立てください。
赤坂天王山古墳
崇峻天皇陵からは尾根を東に越えた所に位置し、北西に延びる尾根上に築かれた3段築成の方墳です。東西45.5m、南北42.2m、高さ約9mで、各辺がほぼ正方位を向いています。
南に開口する両袖式の横穴式石室を持っており、全長17m、玄室の長さ8.5m、幅約3m、高さ4.2m、羨道の長さ8.5m、幅1.8m、高さ約2mを測ります。石室は花崗岩の自然石で造られており、壁面は持ち送りされています。玄室の中央に凝灰岩製の刳抜式家形石棺が残されており、棺蓋には6個の縄掛突起があります。
日本書紀によれば、崇峻天皇は暗殺された後に倉橋の地に葬られたと記されており、赤坂天王山古墳を崇峻天皇陵と考える説が有力なようです。また実際に、明治時代に現在の崇峻天皇倉梯岡陵に治定されるまでは、江戸時代以降、赤坂天王山古墳が崇峻天皇陵だとされていたようです。
蘇我氏との血縁が濃い天皇の陵墓は、方墳であることが多く、赤坂天王山古墳もその中に入ると考えることも出来ますが、所在地が河内飛鳥ではなく、倉橋であることに暗殺された経緯が反映されているのでしょうか。また、やや小振りではありますが、他の天皇陵に比しても遜色のない規模であることから、倉橋に葬られたのには別の意味が秘められているのかもしれません。
遺物は残されていなかったようですが、石室や石棺の形式などから築造時期は6世紀末とされています。全てのデーターは、崇峻天皇陵とするに矛盾は無いようです。
今井谷八講桜
崇峻天皇倉梯岡陵から西に500mほどの所に、今井谷集落の会所寺「満願寺」があります。寺の境内隅にはエドヒガンの枝垂れ桜の大木があり、その推定樹齢は300年といわれています。満願寺の山号が「八講山」であることから「八講桜」と呼ばれ、一木桜の名木として知る人も多くなってきました。
近年まで、桜井市や明日香村などの多武峰周辺では、「八講さん」(「明神講」「藤原講」)と称する鎌足供養の民間行事が行われていたそうです。これらの講では、鎌足像(掛軸)を掲揚して、お祭りを執り行うのだそうです。
八講は、元は法華経を講読する仏僧の研究集会であったのですが、民間に受け入れられると、死者の冥福を祈るとか、生存者の祝宴などにも八講会の形式を採用する風習が高まって行くようです。そもそも「八講」は、天暦元年(947)多武峰座主となる実性僧都が、翌年、法華八講を興したのが始まりとされます。多武峰周辺では、その八講に、大織冠鎌足公の神威と信仰に結びつく風が強かったようです。談山神社のお膝元ということでしょうか。神仏混淆の風潮も相まって、講は定着して行ったのでしょう。
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また、興味深い記録として、建久8年(1197)に成立した多武峰略記末寺の条には、次の記事があります。
『 安置十一面観音像、長五尺、検校善妙当大臣之忌日、始修法華八講、堂塔鐘楼経蔵等跡、今猶在之 』
上記は、山田寺に関する記事ですが、当時、山田寺は多武峰寺の末寺となっていました。法華八講の法要が、多武峰周辺で盛んに行われたことがわかります。
(堂に長五尺の十一面観音像を本尊として安置しており、検校の善妙が蘇我倉山田石川麻呂の命日に、法華八講の法要を営んでいます。) |
高家古墳群
桜井市高家地区には、今なお埋没している古墳もあると推定勘案して、100基を上回る古墳が存在するとされています。古墳群中では、長瀬藪1号墳や平野古墳などが知られますが、さらに高家地区の上方の神社内にも露出した石室口を見ることが出来ます。
桜井市教育委員会設置の説明板による。
高家古墳群
『高家地区の中央部・標高200m前後の米川の開析した河岸段丘上東岸に広がる群集墳である。平成5・6年度の圃場整備事業に先立って、橿原考古学研究所の手によって発掘調査が実施され、大小50基の横穴式石室が発見された。これらは北の阿倍地区に向かって広がる谷地形上に位置することから、古代豪族阿倍氏につながる人々の6〜7世紀の奥津城かと考えられている。』
長瀬藪1号墳
『高家地区の中央部・標高200mあたりの米川の開析した河岸段丘上に位置し、100余基に及ぶ高家古墳群の盟主墳といえる古墳。一辺が約14m、高さ4mの方墳で、西に開口する横穴式石室をもつ。全長10.9m、玄室長約6m、幅2.5m、高さ1.4mを測り、大型の花崗岩を積んでいる。石室の構造から、6世紀後半代の築造かと考えられている。』
平野古墳
『南西方向に開口する。両袖式の横穴式石室を埋葬施設とする古墳時代後期の古墳である。墳丘は円墳と思われるが、水田下に埋没し不明である。石室の規模は長さ9.3m、玄室の長さ4.1m、幅2.6m、高さは2.5mを計ることが出来る。羨道は現存長5.2m、幅1.6m、高さ1.7mが計測できる。石室および羨道には石敷が施され、羨道部の袖から約1.2m地点に、落差約15cmの段を設けている。埋納施設は木棺が考えられる。』
副葬品として、杏葉、辻金具等馬具、金環2、須恵器、土師器などがあり、造営時期は6世紀後半と考えられているようです。
八釣マキト遺跡
八釣集落南東の丘陵で、1999年から発掘調査が行われ、古墳群が発見されました。二つの支群に分けられるようですが、全部で7基の古墳が確認されています。築造期は、6世紀中頃から7世紀前半で、尾根筋に年代順に造られています。副葬品は、馬具、耳環、ガラス玉などが有りました。
近くの小原地区には、大伴夫人の墓や藤原鎌足生誕伝承地等、中臣氏所縁の史跡があることから、中臣氏一族の墳墓である可能性を指摘する説もあるようです。
7基の古墳の内、1号墳と4号墳が西に100mの小公園で、5号墳が飛鳥資料館前庭で復元展示されています。
また、八釣マキト遺跡では、これら古墳の墳丘を壊すように、謎の柱穴列が検出されました。明日香村教委の相原先生は、飛鳥の防衛システムの一つではないかと指摘されており、宮都飛鳥を守る一連の防衛施設であったのかも知れません。また、山田道からの視点だけを意識した防衛上の見せ掛けの塀であったかも知れません。どちらにしても、注目すべき遺跡の一つです。
(詳しくは、「飛鳥展望散歩」・「両槻宮をめぐる諸問題」を参照ください。)
水落遺跡
日本書紀斉明6年(660)条に、中大兄皇子がはじめて漏剋(水時計)を作ったという記事があります。この水時計を据えた時計台の遺跡が、飛鳥寺の北西方(石神遺跡南方)で発見され、小字名を採って「水落遺跡」と呼ばれています。
貼石のある方形の土壇に、堅固な造りの4×4間の楼状建物が建設されていたことが推測されています。この建物遺構からは、黒漆塗りの木箱、木樋暗渠、枡、銅管など、水の利用に関わる施設や遺物が発見され、日本書紀の記述に該当する漏剋が置かれた場所であるとされました。
しかし、時を告げる鐘を吊るだけにしては建物が堅牢過ぎる点や、銅管が西の飛鳥川の方向だけではなく北に続いている点などから、石神遺跡の石人像や須弥山石などの噴水施設の水源ではないかとの指摘もあるようです。噴水施設には圧力を掛けた水源が必要で、水落遺跡の建物の2階部分に水槽を置いていたのではないかと考えるようです。如何でしょうか?
漏剋(漏刻)に関連する万葉集
時守の打ち鳴らす鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくも怪し 巻2−2641
皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも 巻4−607
酒船石遺跡
両槻会サイト内コンテンツ「飛鳥展望散歩」・「両槻宮をめぐる諸問題」をご覧下さい。
川原寺裏山遺跡
川原寺旧境内の裏山からせん仏などが採集されたことが引き金となって発掘調査が行われ、丘陵の南側斜面に長径約4.5m、短径2.6m、深さ約3mの穴を掘り、その中に火災にあった寺院の仏像や荘厳具などを埋納していたことが分かりました。
川原寺は、鎌倉時代に焼失しますが、9世紀にも大火災に遭っており、再建に向けて壊れた仏像は集められ、西北の山裾に埋められました。それが 川原寺裏山遺跡です。丘陵裾で見つかった方形三尊磚仏は千数百点、塑像は数百点に及び金銅製金具など仏教関連の遺物も出土しました。遺物は、火災による熱を浴びている物がほとんどだったようです。
川原寺は7世紀中頃、斉明天皇の菩提を弔うため、息子の天智天皇が建立したと言われますが、創建時期や建立経緯などについては、ほとんど資料もなく謎の部分が多く残っています。川原寺についての確実な資料は、『日本書紀』天武天皇2年(673年)の条になります。これには「書生を集めて始めて一切経を川原寺で写す」とあり、天武天皇の時代に大寺院として存在していたことが分かります。藤原京の時代には、飛鳥寺などと並び四大寺に数えられましたが、9世紀に大火災に遭ったようです。これは、裏山遺跡から9世紀前半の銅銭が出土していることから推定されています。
出土した塑像には、如来形・菩薩形・天部等の部分があり、丈六仏像の断片らしい指や耳の破片も多量の螺髪とともに出土しています。出土したものの中でも、特に天部の頭部の塑像断片や迦楼羅像は、美術的にも価値のあるものだとされています。
川原寺の焼失については、藤原兼実の日記である『玉葉』にも記事があり、建久二年 (1191年)に興福寺の使僧が川原寺焼失を上申したことが記されているようです。この火災は川原寺の二度目の大火災となり、発掘調査の結果、この建久の火災は伽藍全体に及ぶ大火であったようです。
甘樫丘東麓遺跡
日本書紀に書かれる、皇極3年(644)11月条、『蘇我大臣蝦夷と子の入鹿臣は、家を甘檮丘に並べ建て、大臣の家を上の宮門、入鹿の家を谷の宮門とよんだ。また、その男女を王子とよんだ。家の外には城柵を造り、門のわきには兵庫を造り、門ごとに水をみたした舟一つと木鉤数十本とを置いて火災に備え、力の強い男に武器をもたせていつも家を守らせた。』
甘樫丘東麓遺跡の発掘調査は、1994年から始まっており、道路から西に上がった駐車場の下層を中心として発掘調査が行われました。
この調査では、7世紀中頃の焼土層や炭化した木材が発見され、蘇我氏邸宅との関連が注目されました。その後、この谷が公園整備されることになり、それに先行する調査として、2005年より継続的な発掘調査が行われています。
7世紀前半の石垣や掘立柱建物、またそれを埋め立てる大規模な整地や新たな建物群・溝・炉跡・土坑・石敷なども検出されています。
遺構は、1期(7世紀前半)、2期(7世紀中頃)、3期(7世紀末)の3期に区分されています。
遺跡は、甘樫丘の東麓の谷地形を含む複雑な地形に盛土して、平坦地を造り出しています。1期には、石垣?や掘立柱建物、総柱建物が造られていたと考えられています。これが、蘇我入鹿邸(谷の宮門)の一部と考えられているわけですが、城柵や兵庫とするには決定的な証拠は検出されていません。
7世紀中頃になると、この1期の面を大規模に再度造成しています。石垣や谷地形も完全に埋め立てられ、あたかも蘇我氏の痕跡を消すかのごとく、土地利用が変更されています。それは、蘇我本宗家の滅亡を象徴しているかのような印象を受けます。この整地の上に展開するのが、2期遺構です。東麓遺跡の北西隅で、コの字型に囲む塀の中に、数棟の掘立柱建物などが検出されています。
これらの成果があった第151次調査においては、この遺跡の1期の時期が特定される遺構が検出され、東麓遺跡の性格を決定付けることになりました。それは、調査区の北東端で検出された土坑から出土した土器の年代と、土坑の検出状況により確定されました。1期と考えられる総柱建物の柱穴を壊して、土器が出土した土坑が掘られていました。ということは、総柱建物は、飛鳥時代の中頃の土器が出土した土坑より古いことが確かめられたということになります。2期の遺構は、複雑に建替えが行われ、3期へと続いていくようです。
3期には、再び造成が行われ、鍛冶炉などが造られています。この時期の建物は、地形を無視して正方位に沿って建てられていました。この時期になると、土地の利用は縮小傾向になるようです。
東麓遺跡は、甘樫丘全体に広がる「蘇我本宗家の邸宅の一部」であったのでしょう。東麓遺跡だけに止まらず、甘樫丘全体の調査が期待されるところです。 |