両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


第21回定例会資料集


キトラと高松塚の壁画について



  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
高松塚古墳とキトラ古墳 比較表 終末期古墳 キトラ古墳 高松塚古墳
古墳の構築方法(高松塚) 阿不幾乃山陵記 遣唐使年表 飛鳥地域の主要古墳マップ 飛鳥地域の主要古墳一覧
第21回定例会当日レポート 参加者アンケート集計ページ 両槻会

この色の文字はリンクしています。
 高松塚古墳とキトラ古墳

 高松塚古墳もキトラ古墳も7世紀末から8世紀初めに築造された終末期の古墳(注1)に属する小円墳です。双方とも壁画古墳で星宿図(注2)や四神が描かれた、極めて似通った古墳と言えます。装飾古墳(注3)は九州地方に多く見られますが、これらと区別して、石槨(注4)に星宿図や四神が描かれた高松塚やキトラ古墳は壁画古墳と呼び、国内では他に例を見ないものです。

 高松塚古墳では副葬品として海獣葡萄鏡(両槻会第3回定例会レポート参照)が発見されており、同型鏡が中国の7世紀末の古墳(独弧思貞(どっこしてい)墓(689年)・十里鋪337号)から出土しているので、704年に帰国した遣唐使が持ち帰ったものではないかと推測されています。
 この推測が正しいとすると、築造されたのは704年以降となり、中に描かれている人物像が、左襟となっていることから719年(養老3年)までの間に作られたものと考えられます。(続日本紀 養老3年2月「初めて天下の百姓をして襟を右にせしむ」)


男子群像 漆紗冠の着用 天武11(682)年6月6日 〜 持統元(687)年
白袴の着用 天武11(682)年6月6日 〜 朱鳥元(686)年7月
持統4(690)年4月    〜 大宝元(701)年3月
慶雲3(706)年12月   〜
褶の未使用 天武11(682)年6月6日 〜 大宝2(702)年1月
女子群像 結髪の実施 天武11(682)年4月23日 〜 朱鳥元(686)年7月2日
慶雲2(705)年12月19日 〜
襟の左前                 〜 養老3(719)年2月3日
明日香村HP 発掘情報・キトラ古墳情報より 

 そうすると被葬者はその間に亡くなった人かと限定されてしまいそうですが、「遣唐使が持ち帰ったかも」なので、断定は出来ません。朝鮮半島の人々が献上物として、日本にもたらせた可能性もあります。

- 高松塚古墳 キトラ古墳
猪熊 兼勝氏 忍壁親王(705年没) 高市皇子(696年没)
王 仲殊氏 忍壁親王(705年没) 高市皇子(696年没)
門脇 貞二氏 穂積親王(715年没) 長皇子(715年没)
白石 太一郎氏 石上朝臣麻呂(717年没) 阿倍御主人(703年没)
直木 孝次郎氏 忍壁親王(705年没) 阿倍御主人(703年没)


 二つの古墳を比較してみましょう。(キトラ古墳・高松塚古墳比較表)
 これだけ見ると、この二つの古墳は大きさが違うだけで内容は殆ど変わらない古墳であることが分ります。しかし、詳しく見ていくと理由は不明ですが、いくつかの違いがあります。

 まず、高松塚古墳では臼歯は見つかっているものの、頭蓋骨が見つかっていません。盗掘者が持ち去ったのでしょうか。また太刀飾りなどの外装品は見つかりましたが、肝心の太刀が見つかっていません。盗掘者は刀を抜いてその部分だけを持ち去ったのでしょうか。更に、何故か玄武の頭の部分と日像・月像は故意に削られたようになっていました。盗掘者の仕業でしょうか。では、何故そんな事をしたのでしょう。また漆喰を調べてみると鉛の含有量が非常に多いことが分りました。何か特別な意味があったのでしょうか。

 一方キトラ古墳では、何故か三種の神器の一つである「鏡」が見つかっていません。
盗掘者が鏡も持ち出したのでしょうか、それとも中国の風水神仙思想のみに基づいており、鏡などは最初から入ってなかったのでしょうか。もしそうだとすると、同時代に作られた高松塚古墳に海獣葡萄鏡が副葬されていた意味が分らなくなります。そして天井に描かれた星宿図は高松塚古墳より遥かに詳しく緻密に描かれています。星宿図の示す描かれる場所は平壌辺りのようですが、そこまで詳しく描かれた理由は何だったのでしょう。またキトラ古墳では白虎は北を向いています。青龍が南を向いているのでキトラ古墳では四神の顔は、皆右側を向いていることになります。各四神の「気」の循環を永遠なものとして組み入れられたのでしょうか。すると、高松塚古墳とは被葬者に対する見方が異なっていたと考えられます。

 概して四神の絵だけを比べると、キトラ古墳の方が高松塚古墳より躍動感があるようです。それにはどういった意味が含まれているのでしょう。ところが、高松塚古墳の壁画は国宝に指定されていますが、キトラ古墳の壁画は国宝に指定されていません。何故でしょう。今日は、この二つの終末期古墳から特に壁画を中心とした講話を聞かせていただくことになります。お楽しみに。

MEMO
  1. 終末期古墳:高松塚古墳の壁画発見を期に、考古学者 森 浩一氏らが唱えた古墳の分類。現在の主流で前期、中期、後期、終末期と分けられる。風水思想を取り入れた古墳とも言える。(大和の終末期古墳・河上邦彦著 参照)
  2. 星宿図:中国の思想に基づき、中央に「天極(てんぎょく)」と「四輔(しほ)」、周辺の東西南北に「昴(すばる)」など七つずつ二十八宿(星座)を描いた天文図。(朝日新聞より)
  3. 装飾古墳:全国で約800基ほど見つかっており、九州に500基が集まっている。幾何学模様が多い。(装飾古墳データベース参照)
  4. 石槨:石室のような大きな部屋ではなく一人分の棺の収納施設。
    (佐古和枝氏 講演会より)
  5. 版築工法:堅固な構築とするため突棒で土を固めながら積み重ねたもの。
    (明日香村発掘調査報告会参照)

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 キトラ古墳・高松塚古墳比較表

- キトラ古墳 高松塚古墳
所在地 明日香村阿部山ウエヤマ136−1 明日香村平田高松444
墳丘 二段築成の円墳
直径下段13.8m、上段9.4m
高さ 下段面から2.4m 
墳丘面から0.9m
西側で約3.3m
墳丘南斜面に石詰暗渠がある
二段築成の円墳
直径下段23m、上段約18m
高さ 約5m
(下からの見かけの高さ約8.5m)
南面に石詰暗渠2本
墓道幅約3m
盛土 数cm単位の版築
上段の墳丘裾に板状痕跡と杭の跡
数cm単位の版築
幅5〜6cmの溝が板状痕跡の可能性
石材 凝灰岩切石
(二上山屯鶴峰)
凝灰岩切石
(二上山屯鶴峰)
石材個数 床石4・扉石1・奥壁2・天井石4
西側3・東側4(計18石)
床石3・扉石1・奥壁1・天井石4
側石各3(計15石)
石槨規模 長:240cm
幅:104cm
高:114cm
 石槨内は家型(高さ10cm)
長:265.5cm
幅:103.5cm
高:113.4cm
漆喰 石槨内全面(厚さ数mm) 石槨内全面(厚さ2〜7mm)
壁画 北壁 玄武
東壁 青龍・日像 
    男女子群像
西壁 白虎・月像 
北壁 玄武
東壁 青龍・日像 
    男女子群像
西壁 白虎・月像 
    男女子群像
天井 星宿図
遺物 漆塗木棺
金銅・銅製棺金具
金象眼帯執金具
銀製大刀金具
鉄製大刀
琥珀・ガラス玉
人骨(熟年男性)
漆塗木棺(身底部) 202×57×45cm
金銅・銅製棺金具
銀製大刀金具
海獣葡萄鏡
琥珀・ガラス玉
人骨(熟年男性)
明日香村HP 発掘情報・キトラ古墳情報を参考に加筆・編集

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 終末期古墳

 古墳時代は、遷都などを区切りとする奈良時代や平安時代などとは違って、明確な年代の境目があるわけではありません。古墳時代の終末期は、飛鳥時代とほぼ重なっています。
終末期には、墳丘は方墳や円墳、多角形墳で作られ、羨道と玄室からなる横穴式石室や、羨道がなくなり玄室に代わる横口式石槨などに変化していきます。時代は、主に7世紀以降、飛鳥時代に作られたとされています。

 飛鳥地域では、飛鳥時代後期以後と推定できるものだけでも、その数は軽く十基を上回り(牽牛子塚古墳・マルコ山古墳・中尾山古墳・キトラ古墳・高松塚古墳・束明神古墳など)、天武持統合葬墓(檜隈大内陵・野口王墓古墳)以南、西飛鳥とも言われる近鉄吉野線以西に多く分布します。これは、天武・持統合葬墓が藤原宮の東西中軸(朱雀大路)の延長線上に位置することから、この古墳がこの時代の陵墓地の基点とされたとする説もあります。(参考地図参照

 終末期古墳のほとんどは、盗掘に遭い埋葬時の様子を詳しく知ることは困難です。
 その中で、天武・持統合葬墓に比定されている野口王墓古墳は、鎌倉期の盗掘の際の記録である
阿不幾乃山陵記・あおきのさんりょうき」(資料参照)や藤原定家の「明月記」に残されており、内部や墳丘の様子を伺い知ることが出来ます。また、壁画保存のための石室解体に伴い墳丘の発掘調査が行われた高松塚古墳からは、古墳築造に関する技術の一端をみることが出来ます。

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 キトラ古墳

キトラの名は周辺の字名「北浦」が転訛したのだとされています。


キトラ古墳墓道
 キトラ古墳は、南東から北西に伸びる尾根の南斜面を平に削り、版築によって築かれた2段築成の円墳です。埋葬施設は、二上山の凝灰岩切石で作られた横口式石槨になります。墳丘には、版築の際に用いたと思われる径10cmの杭と4〜5cmの厚みのある幕板の痕跡があります。
 墳丘の南側には、石詰暗渠の排水溝と、棺や閉塞石を運び入れるためコロレールの跡が墓道上面に残っていました。
  
 他の殆どの終末期古墳と同じく、キトラ古墳も鎌倉時代頃に盗掘を受けています。
 南壁にある壁画・朱雀の鼻先を掠めるように空けられた盗掘口から流れ込んだ土砂は、数ミリの粘土層・2〜5cmの漆塗木棺の断片・粘土層の順に上から堆積していたようです。この漆塗木棺の断片は、中心の木質部分が腐食し内外面に塗った漆の層だけが残存したもので、表面に布を巻き朱漆を重ね塗ったものと、黒漆を直接塗り重ねたものの二種類が、ほぼ同数検出されました。1万点を越えるこれらの漆片の分析に加え、木棺外側の縁部分とみられる朱の漆片が確認されたこと、棺の側面に打たれた釘隠の裏側からも朱漆片が検出されたことなどから、キトラ古墳の石室には、黒い棺台に朱の木棺が安置されていたと推定されています。

 木簡に附属する金具としては、金銅製飾金具1点と銅製釘隠5点、金銅製板状金具1点が検出されています。金銅製飾金具は、透彫りでハート形の忍冬文を3単位連結させ直径7.5cmを計ります。表面には渡金が施され、中心に方形孔を持つことから、円環付きの釘で棺の小口側に取り付けられた鐶座金具であろうと推定されています。銅製釘隠は、直径4cm程度の六花形金具で、くぼんだ皿状の裏面には径2mmの釘が3本付いています。この他に用途不明ですが、3×2cmの金銅製板状金具も検出されています。

 装身具と考えられる玉類は、直径8.5〜9.5mmのほぼ球形で穿孔のある琥珀玉が6個、ソーダ石灰ガラス製の3〜4mmのガラス玉18個と沢山の鉛ガラス製微小玉が発見されています。琥珀玉の幾つかは、久慈産の可能性が高いことが保存処理の過程で分かっています。

 大刀類は、楕円形環状の金具に2列のS字形の金象眼が施された帯執金具を持つものと、銀製刀装具つけたものの少なくとも2本は副葬されていたと推定されています。このうち銀製刀装具をつけた大刀は、黒漆で仕上げられたヒノキ製の鞘に、鮫皮を巻いた柄を持つ長さ約90cm、幅4.4cm、重さ672gの
「黒漆塗銀装大刀」に豊島直博先生(当時:奈良文化財研究所、現:文化庁)が復元されています。
 (帯執金具=大刀を腰に下げるため鞘に取り付けた刀装具)
 (第15回定例会咲読関連資料集参照

 人骨は、左右の上顎骨・右頬骨と、犬歯・中切歯・側切歯・第一臼歯など23本の歯が見つかっています。これらの分析から、熟年(40〜60歳代)の男性で、50代の可能性が高いとされています。

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 高松塚古墳

 高松塚古墳は、尾根の南西斜面を平に削り、南側の小規模な谷を深さ2.7mほどを埋め立てて造成されたあと、版築によって築かれた2段築成の円墳で、墳丘周囲には幅2.5mの周溝が巡ります。石槨は、キトラ古墳と同じ二上山の凝灰岩切石で作られた横口式石槨になります。

 墳丘の版築層では、地震による地割れや亀裂が確認されています。この地割れは、震災後、漏斗状に墳丘表面で口を開いていたと推定されるようです。
 亀裂は石室の輪郭に沿って走り、さらに放射状に広がりをみせていました。地震により石室が揺さぶられ、その影響で石材の継ぎ目や石室と版築などの境界部分に亀裂が生じたと考えられるようです。
 高松塚古墳に影響を与えた地震は、90〜150年周期で起こる南海・東南海地震の痕跡だと考えられていますが、実際どの時代に起こったものが直接の被害となったのかは不明です。
(南海地震の記録:887年、1099年、13c初頭、1361年、1498年、1605年、1707年、1854年、1946年)

 高松塚古墳もまた鎌倉時代前後に盗掘を受けています。南壁の東上側に開けられた盗掘孔によって漆喰が失われ南面の壁画は残されていません。石室内は盗掘によって荒らされ、中央に安置されているはずの木棺は、202cm×57cmを計る木棺身底部だけが西側に残存していました。木棺は、杉材を芯に漆と麻布が交互に塗り張りされ、外面は漆が3回塗られたうえに、少なくとも底部には金箔が貼られていたと推定されています。内面には漆が5回塗られた後に朱が塗られていました。また、復元修復作業後、木棺の底には、手足を真っ直ぐに伸ばして埋葬された被葬者の痕跡が認められたそうです。


高松塚古墳出土 海獣葡萄鏡
無断転載・転用禁止
両槻会第3回定例会参照
 木棺に附属する金具として、八葉パルメット系の金銅製透飾金具や金銅製円形飾金具・金銅製六花文座金具・銅製座金具・銅製角釘などが検出されています。
装身具は、中国製の白銅製海獣葡萄鏡1枚と、玉類では琥珀丸玉2個とガラス丸玉6個、ガラス粟玉約千個が検出されています。

 大刀類では、把の外装部である冑金・留鋲・露金物・俵鋲と、鞘金具である透彫り唐草文に走獣文の山形金具・石突などの金具類が検出されています。刀身は検出されなかったもののこれらの刀装具から、正倉院宝物にある金銀鈿装唐大刀の系譜をひく銀装唐様大刀だとされています。(これらの主な出土品は飛鳥資料館第1展示室で見学できます。)

 人骨は、環椎・下骨・臼歯などがあり、これらの分析から、熟年(40〜60歳代)の男性の可能性が高いとされています。

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 古墳の構築方法(高松塚古墳)

 高松塚古墳は、劣化し続ける壁画を描かれた石材ごと取り出して保存するために、石室解体という究極の方法が採られました。前代未聞のこの調査は、墳丘や石室の構造、その他古墳築造に関する貴重な情報をもたらす結果ともなりました。

 墳丘の構築
 墳丘の版築は、杵状の突棒で突き固めながら積み重ねられて築かれています。一層の厚みは3〜5cmを測り、墳丘の高さから計算すると版築層は100層以上にも及ぶとされています。
 また、墳丘下半部には、ムシロ目の痕跡もあり、これは版築作業中の斜面の地滑りや盛土の崩落を防ぐためだと考えられています。また、土に浸透した雨水の排水にも役立ったのではないか考えられています。

 版築は、石室上方70cm(墳頂下約2.3m)のところで硬い白色粘土層に替わります。この層は、石室を包み込むように築かれおり、強度は上面の版築層の2倍以上にもなります。

 白色粘土層の版築には、上層部と同様ムシロ目や突棒の痕跡(径約4cmの窪み)も認められ、高所から下に向かって規則的に突き作業が行われた様子も伺えるようです。幅約3mを測る墓道は、白色版築層を掘り込んで作られたあと再び版築により埋め戻されています。また、墳丘の南側には、古墳中軸線を挟んで4mの対称位置にある排水用の石詰暗渠2本が検出されています。

 石室の構築


高松塚古墳石室復元模型図 
 石室は、合い欠きと呼ばれる石材同士の接合部分の仕様によって、組み上げ工程が判明しています。

@ 4枚の床石を南から順に設置
A 床石上面まで版築(水準器使用)
B 北壁、東西壁を北から順に組立
C 石材の接合部分に漆喰を塗る
D 南壁設置
E 壁石上面までを版築
F 天井石を南から順に設置
G 石材の接合部分に漆喰を塗る
H 白色粘土による版築で、石室全体を土饅頭状に覆う
I 版築層を掘削し墓道造成
J 閉塞石を開け、石室内全面に漆喰を塗り壁画を描く


 この後、石室内には棺台が設置され漆塗木棺を納棺して、葬送儀礼が行なわれます。すべて終了後に、石室は再び閉塞石で封鎖されます。版築によって墓道を埋め戻してから、新たに上部の墳丘を版築によって築いています。

 石室石材の細部にわたる加工は、石材の組立作業中に並行して行われたようで、石室内には凝灰岩の粉や小片が数ミリ堆積したようです。また、床石の設置には水準器(水測り)が使用されたと思われる杭跡の痕跡があったようです。

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 阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)

 盗人乱入の事<文暦二(一二三五)年三月廿日廿**両夜入れりと云ふ。> 件(くだん)の陵、形八角なり。石壇は一匝り、一町許(ばか)りか。五重なり。此の五重の峰に森十余株有り。南の面に門有り。門の前に石橋有り。此の石門を盗人等纔(わづか)に人の一身の通る許り切り開けり。御陵の内、内陣と外陣とあり。

 先、外陣は方丈許りか。皆馬脳(瑪瑙)なり。天井の高さ七尺許り、此も馬脳にして継目無し。一枚を打ち覆ふと、云々。内陣の広さ、南北一丈四五尺、東西一丈許なり。内陣に金銅の妻戸有り。広さ、左右扉各三尺五寸七分、扉の厚み、一寸五分、高さ六尺五寸、左右の腋柱の広さ四寸五分、厚さ四寸。マグサ三寸。鼠走三寸。冠木広さ四寸五分、厚さ四寸<已上の金銅>。扉の金物六、内小四<三寸五分許り>、大二<四寸許り、皆金なり>。已上の形蓮花の返花の如し。古不(こふ)の形は獅子なり。
 内陣の三方上下皆馬脳か。朱塗なり。御棺は張物なり<布以て張る。角を入るるなり>。朱塗にして長さ七尺、広さ二尺五寸許り、深さ二尺五寸許りなり。御棺の蓋は木なり。朱塗なり。御棺の床の金銅は、厚さ五分にして、牙上を彫り透かし、左右に八、尻と頭に四、クリ(カ)タ四<尻二、頭二なり>。
 御骨、首は普通<より少し大なり>。その色赤黒なり。御脛の骨の長さ一尺六寸(→とすると身長二メートル以上になるか)、肘の長さ一尺四寸なり。

 御棺の内に紅の御衣の朽ちたる少々之在り。盗人の取り残せる物等は橘寺の内に移さる。石御帯一筋、其の形は、銀兵庫クサリにして、種々の玉を以て飾れり。唐物に似たり。石二あり。形連銭の如し。表手の石の長さ三寸、石の色水精の如し。玉帯に似たり。御枕金銀珠玉を以て飾れり。唐物に似たり。言語及び難きに依りて、注さず。仮令(たとへ)ば、其の形鼓の如し。金銅の桶一<一斗許りを納るるか>を床に居ふ。其の形は礼盤の如し。鎖少々。クリカタ之在り。又此の外、御念珠一連之在り。三匝の尻(琥カ)珀の御念珠を銅の糸を以て貫きたり。多武峰の法師取り了せり。又彼の御棺の中に銅のカケカケ(ネ)二つ之在り。已上、記此の如し

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 遣唐使年表

次 数 年 代 備 考
1次 630年 舒明 2 大使・犬上御田鍬、副使・薬師恵日 
632年     4 僧旻が帰国  唐使・高表仁が来日
2次 653年 白雉 4 大使・吉士長丹、大使・高田根麻呂、副使・吉士駒、
副使・掃守小麻呂、道昭、定恵(第2船が往途で遭難)
654年     5
3次 654年     5 押使・高向玄理、大使・河辺麻呂、副使・薬師恵日
655年 斉明 元 高向玄理は唐で没
4次 659年     5 大使・坂合部石布、副使・津守吉祥、伊吉博徳
661年     7
5次 665年 天智 4 送唐客使・守大石、坂合部石積・吉士岐彌・吉士針間
唐使・劉徳高を送る。
667年     6 唐使・法聡が来日
6次 667年     6 送唐客使・伊吉博徳、笠諸石、唐使法聡を送る。
668年     7
7次 669年     8 大使・河内鯨
不明
8次 702年 大宝 2 執節使・粟田真人、大使・高橋笠間、副使・坂合部大分
山上憶良、道慈
704年 慶雲 元
9次 717年 養老 元 押使・多治比県守、大使・大伴山守、副使・藤原馬養
阿倍仲麻呂、吉備真備、玄ム
718年     2 道慈が帰国
10次 733年 天平 5 大使・多治比広成、副使・中臣名代
735年     7
 894年(寛平6)の20次派遣が菅原道真の意見により中止されるまで、述べ19回に亘り遣唐使船が出航。907年に唐が滅亡。

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飛鳥地域の主要古墳マップ

(古墳マークの緑の丸印をクリックすると、概要一覧にリンクします。戻る時はブラウザのバックボタンで戻ってください。)



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飛鳥地域の主要古墳一覧表

番号 古墳名称 時期 規模 所在地 備考
1 カセヤ塚古墳 明:奧山 消滅
2 庚申塚古墳 飛鳥 桜:山田
3 新沢千塚古墳群 4〜7c 総数600基以上
5c中〜6c末中心
橿:川西
橿:北越智
小規模円墳多数
4 八釣東山古墳群 後期 総数7基 明:八釣
明:東山
数基移築保存
5 金鳥塚古墳 古墳 円墳:径16m 桜:高家
6 宣化天皇陵 (鳥屋ミサンザイ古墳) 後期 前方後円墳:全長138m
後円部径83、前方部幅78m
橿:鳥屋町 身狹桃花鳥坂上陵
7 倭彦命墓(桝山古墳) 古墳 方墳:一辺85m 二段築成 橿:鳥屋町 身狹桃花鳥坂陵
8 五条野丸山古墳
 (見瀬丸山古墳)
後期 前方後円墳:全長318m、
後円部径155m,前方部幅210m
橿:大軽町
橿:五条野町
横穴式石室
9 植山古墳 後期 長方形双室墳:東西40m×南北32m 橿:五条野町 横穴式石室
10 五条野内垣内古墳 後期 方墳または長方形墳 橿:五条野町 周濠有 消滅
11 五条野城脇古墳 後期 方墳:東西24m×南北22m 橿:五条野町 横穴式石室
12 五条野向イ古墳 飛鳥 方墳:一辺32m 橿:五条野町 消滅
13 宮ヶ原1号墳 後期 方墳:一辺30m 橿:五条野町 横穴式石室 消滅
14 宮ヶ原2号墳 後期 方墳:一辺25m 橿:五条野町 横穴式石室 消滅
15 小谷古墳 後期 方墳または円墳:径30m 橿:鳥屋町 横穴式石室 切石造
16 沼山古墳 後期 円墳:径18m 橿:白橿町 横穴式石室 穹窿式
17 益田岩船 東西11m×南北8m×高4.7m 台形 橿:白橿町 石像物
18 欽明天皇陵(平田梅山古墳) 後期 前方後円墳:全長140m 明:平田 檜隈坂合陵
19 カナヅカ古墳 飛鳥 方墳:一辺58m以上 明:平田 横穴式石室 破壊
20 鬼の俎・雪隠古墳 飛鳥 外形不明 明:野口 横口式石槨
21 天武持統天皇陵
 (野口ノ王墓古墳)
飛鳥 八角形五段築成:
径東西38m×南北45m
明:野口 檜隈大内陵
22 細川谷古墳群 後期 冬野川北岸を中心に総数約200基 明:冬野川域
23 打上古墳 後期 円墳:径20m 明:細川 横穴式石室
24 石舞台古墳 後期 方墳:一辺51m 二段築成 明:島庄 横穴式石室
25 石舞台下層古墳群 後期 石舞台古墳築造に際し周辺の古墳が削平された。西側にも7基確認。 明:島庄
26 馬場頭古墳群 詳細不明 明:祝戸
27 都塚古墳 後期 方墳:一辺12m 明:阪田 横穴式石室
28 戒成組田古墳 後期 円墳:径15m 明:阪田 横穴式石室 半壊
29 岩屋山古墳 飛鳥 方墳:一辺40m 明:越 横穴式石室 切石造
30 牽牛子塚古墳 飛鳥 八角形墳:対角長18.5m 明:越 横口式双室石槨
31 真弓鑵子塚古墳 後期 円墳:径23m 明:真弓 横穴式石室 穹窿式
32 カンジョ古墳 (乾城古墳) 後期 方墳:一辺36m 高:与楽 横穴式石室 穹窿式
33 与楽鑵子塚古墳 後期 円墳:径24m 高:与楽 横穴式石室 穹窿式
34 寺崎白壁塚古墳 飛鳥 方墳(八角形か)基壇含め三段築成 高:寺崎 横口式石槨 切石造
35 与楽古墳群 後期 貝吹山丘陵南裾周辺中心に数百基 高:与楽周辺
36 スズミ1号墳 古墳 方墳:径10m 明:真弓 横穴式石室 半壊
37 スズミ2号墳 古墳 方墳:径7m 明:真弓 木棺直葬
38 カヅマヤマ古墳 飛鳥 方墳:東西24m×南北18m以上 明:真弓 磚積式石室
39 マルコ山古墳 飛鳥 多角形墳:対角長24m 明:真弓 横口式石槨
40 真弓テラノマエ古墳 飛鳥 詳細不明 磚積式石室の可能性 明:真弓 消滅
41 中尾山古墳 飛鳥 八角形墳:対角長30m 三段築成 明:平田 横口式石槨 火葬墓
42 火振山古墳 古墳 円墳:径10m 明:平田
43 高松塚古墳 飛鳥 円墳:径23m,18m 二段築成 明:平田 横口式石槨
44 文武天皇陵 (栗原塚穴古墳) 詳細不明 明:栗原 檜隈安古岡上陵
45 塚本古墳 後期 方墳:一辺39m 二段築成 明:祝戸 横穴式石室 半壊
46 斉明天皇陵(車木ケンノウ古墳) 円墳:径45mとされるが詳細不明 高:越智 越智崗上陵
47 束明神古墳 飛鳥 八角形墳:対角長30m 高:佐田 切石家型横口式石槨
48 佐田2号墳 後期 八角形墳:径8m 高:佐田
49 佐田1号墳 古墳 円墳:径8.4m 高:佐田 横穴式石室
50 出口山古墳 古墳 円墳:径10m 高:佐田
51 岡宮天皇陵 詳細不明 高:森 草壁皇子真弓岡陵
52 森カシタニ塚古墳 円墳:推定径14m 高:森 消滅
53 稲村山古墳 後期 円墳:詳細不明 高:観覚寺 竪穴式石室
54 キトラ古墳 飛鳥 円墳:径9.4m、13.8m  二段築成 明:阿部山 横口式石槨
55 カイワラ1号墳 後期 円墳:径10m 明:阿部山 横穴式石室
56 カイワラ2号墳 後期 円墳:径10m 明:阿部山 横穴式石室 切石造
57 松山呑谷古墳 飛鳥 円墳:径10m 高:松山 横穴式石室
58 市尾墓山古墳 後期 前方後円墳:全長66m 二段築成 高:市尾 横穴式石室
59 市尾宮塚古墳 前方後円墳:全長44m 高:市尾 横穴式石室
60 吉備姫王墓 詳細不明 明:平田
61 名称不明 遺跡番号17B-0211 詳細不明 明:稲渕 小字名 セイサン塚
62 名称不明 遺跡番号17B-0212 古墳 詳細不明 明:稲渕 小字名 セイサン塚
63 堂ノ前塚古墳 後期 外形不明 明:尾曽 箱式石棺 消滅
64 ドウヤマ古墳 古墳 円墳:径10m 明:真弓 結晶片岩使用古墳
65 菖蒲池古墳 後期 円墳(?) 橿:菖蒲池町 横穴式石室 家形石棺2

  • 飛鳥地域(明日香村とその周辺市町村の一部を含む)の主な古墳を掲載しています。
  • 地図上の古墳位置は、正確ではありません。おおよその所在地を示しています。
  • 古墳群として掲載したものは、概ね掲載場所を中心にした周辺を示しています。
  • 地図の古墳マーク(緑の丸印)をクリックすると、概要一覧にリンクします。戻る時はブラウザのバックボタンで戻ってください。(クリッカブルマップになっています。)
  • 古墳を示すマークは、古墳の形状や規模や築造時期を表すものではありません。
  • 表中の所在地名の略記について (明=明日香村・橿=橿原市・桜=桜井市・高=高取町)
  • 表中の時期区分において、「−」は作成時に公式データーが見つけられなかったもの。「古墳」は時期が明確ではないものを表します。「後期」は古墳時代後期、「飛鳥」は飛鳥時代を意味します。
  • この地域には、掲載した古墳以外にも多数の古墳が存在しています。特に貝吹山南麓や西側を含む高取町域には、おびただしい数の古墳があります。掲載されていないから無いというわけではありません。むしろ書けないほど多いと理解してください。
  • この飛鳥の古墳地図と一覧は、奈良県遺跡情報地図を参考に独自に作成したものです。誤りがあるかも知れません。ご了承ください。
高松塚古墳とキトラ古墳 比較表 終末期古墳 キトラ古墳 高松塚古墳
古墳の構築方法(高松塚) 阿不幾乃山陵記 遣唐使年表 飛鳥地域の主要古墳マップ 飛鳥地域の主要古墳一覧
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