両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第23回定例会レポート


磐余・天香具山から飛鳥へ


―神話・伝承の地から歴史の地へ―

この色の文字はリンクしています。
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2010年 11月 13日  
 
月の誕生石
(10月2日下見時撮影)

 去る11月13日土曜日に、第23回定例会「磐余・天香具山から飛鳥へ」を開催しました。
当日は、黄砂のせいで薄ぼんやりとした空模様となりましたが、太陽が薄いヴェールの向こう側からスタッフと参加者の思いを柔らかく応援してくれているんだと思うことにしました。(^^)

 集合場所の近鉄大福駅に、続々とお集まりくださる参加者。順に受付を済まし、出発までの僅かな間を惜しむように配布資料に目を通してくださる方々もいらっしゃいました。両槻会の当日配布資料、毎回結構力が入っています♪事前にさっとでも目を通して頂くと、散策時の解説の理解を助けると思います。(^^)  第23回定例会資料(当日配布資料とは若干異なります。)

 今回も遅刻なしで全員集合♪さて、ここで「季刊 明日香風」を参加者全員にプレゼントさせて頂きました♪両槻会では、スタッフ3名が飛鳥応援大使として活動しています。明日香風の配布は、この大使活動の一環として行わせて頂いたものです。今回は、参加者の飛鳥応援大使の方々からのご協力もあり、参加者全員への配布が叶いました。ご協力下さった飛鳥応援大使の皆さん有難うございました。m(__)m
 この活動は、今後の定例会でも継続していく予定にしていますので、参加される皆さんは、楽しみにしていて下さい。(^^)

 軽くウォーミングアップ後、いよいよウォーキング開始です♪

 第23回定例会 ウォーキングマップ


横大路
(橘街道から西を望む)

 大福駅南出口の西には、橘街道が南北に走っています。今回はこれを南下します。今は往時の面影の薄い路地のようになってしまっている横大路を越えると吉備というところに入ります。

 ここは、その名の通り、吉備真備にまつわる伝承の多い地域で、最初に訪れた蓮台寺も、寺伝に真備の名を止めます。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」


蓮台寺境内

創建は天平年間とされるこの蓮台寺、屋根には当地から出土したとされる複弁蓮華紋軒丸瓦と均整唐草文軒平瓦が復古瓦として葺かれています。こういうのを見ると、自寺の歴史を大事にされてるんだなぁ〜と、瓦好きのσ(^^)は、ひとり嬉しくなったりするのです。(^^ゞ

 境内には、真備のものだとされる五輪塔もあり、また参加者の方のお話では、本堂横にある金茶花という黄色い椿の花でも有名なお寺なんだそうです。


大臣藪

 真備に絡んでもうひとつ。蓮台寺から少し行った「吉備」という交差点の前方右側に、こんもりとした雑木林の先っぽが工場や民家の屋根越しに見えてきます。長い間吉備寺跡だとされていた場所らしいですが、調査の結果どうも中世の城砦跡だそうで、南北朝の頃に重要な役割を果たしたんじゃないかとか・・・。「大臣藪」なんていうご大層な名前が付いているそうです。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」


(10月2日下見時撮影)

 大臣藪を右横手に眺めつつ、静かな集落に入ってしばらく進むと、前方に神社ならではのこれまたこんもりとした雑木林が見え始めます。ここ春日神社境内には、「神武天皇聖跡磐余邑顕彰碑」と大津皇子の漢詩碑があります。これらをささっと見学ののち、神社脇の道から吉備池の堤へと進みます。


吉備池から二上山を望む
(2010年11月27日 よっぱさん撮影)

大来皇女 歌碑                  大津皇子 歌碑
(10月2日下見時撮影)

 吉備池の堤上にも、2基の歌碑が立っています。ひとつは、大津皇子の有名な「百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ」の歌碑。吉備池を大津皇子ゆかりの磐余池になぞらえたんでしょうね。そして、もうひとつ同じ堤上に、弟の大津皇子の非業の死を悼む姉大来皇女の「うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟背と我が見む」の歌碑が歌そのままに二上山を背景にひっそりと立っています。万葉好きの方々には、悲運の姉弟に思いを馳せるポイントのひとつなんでしょうか。


吉備池廃寺
(塔跡から金堂跡を望む)

 歌碑を見学し堤の南西角に集合すると、事務局長から磐余の伝承話から百済大寺の話まで、今回のウォーキングの大きなテーマでもある「伝承の地から歴史の地へ」の導入とも言える話が始まります。百済川のほとりに建てられたとされる古代日本初の官の大寺・百済大寺は本当にここ吉備池廃寺なんでしょうか。塔を西に金堂を東に配置したとすると、法隆寺式伽藍配置と呼ばれる形態は、ここ吉備池廃寺が初めということになります。
 吉備池廃寺伽藍概要図

 今は池の堤の一部となっている塔と金堂の大きな土壇跡を踏みしめながら、何処までが伝承・伝説で何処までが歴史としての事実か・・・参加者の方々は、この後も訪れる各見学ポイントで各々に想像の羽を広げていただけたのではないでしょうか。想像こそ歴史の醍醐味。(笑)

第23回定例会資料 「見学ポイント概要」


吉備池廃寺 案内板

 そうそう♪吉備池廃寺の案内板が新しくなっていました。新しい案内板は、吉備池廃寺の遺構図入りです。(^^)

 吉備池廃寺を後にして、集落の中を抜け辿り着いたのは、なんだか山深い感じのする濁った池のほとりです。


(10.2.下見時撮影)

 池の傍には「泥掛け地蔵」と呼ばれるお地蔵さんの祠があります。このお地蔵さんは、池の底から引きあげられたために、この池の泥が大層お気に入りなんだそうです。
 この池の泥をお地蔵さんの体に塗ってお願いすると、瘡やデキモノを治してくださるんだとか。お願いする時には、お地蔵さんのお好きな池の泥で作った泥団子を、願いを聞き届けてくれたら、お礼に本当のお団子をお供えしたんだそうです。せっかく願い事をよく聞いて下さるので、もっと良い場所へと移して差し上げようとしたら、なかなか動かない・・・と言う事で、今もこの池の傍にお祀りされているんだとか。
 この泥掛け地蔵さんのお話も今では知る人も少なくなっているようです。風化とは、形あるものばかりではないということなのかもしれませんね。

 おっと、いけません。ここへ来た目的は、泥掛け地蔵さんへの願掛けではなくて、その前にある丘陵上にある青木廃寺です。(^^ゞ 青木廃寺に関しては、資料や咲読に詳しくかかれてありますのでそちらをご覧下さい。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」

 
青木廃寺案内板

 高市皇子に長屋王。古代歴史上の有名人が名を連ねる寺跡として、ここはどうなんだろう?と思うようなところにあります。確かに120mほどのこの山の向こう側は、古代の幹線道路・山田道になりますが、丘陵上の限られた狭い土地に寺を立てた理由は、本当に父の菩提を弔うというだけのものだったのか?と思える場所です。創建を長屋王とするなら、時は奈良時代。当時のこの辺りの歴史的位置付けは、どんな感じだったんでしょうね。


安倍寺跡から青木廃寺の丘陵を望む
(2010年11月27日 よっぱさん撮影)

 色んな謎を抱えたままですが、まだまだ先は長いので、次の目的地へと向かいます。(^^ゞ


稚桜神社遠望

 丘の天辺に建つ稚桜神社は、神功皇后や履中天皇の宮跡だとされ、「稚桜」の名の由来も履中天皇時代に遡るのだそうです。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」 ・ 「磐余近郊の諸宮」
 
 鳥居を潜って石段を上っている途中に可愛らしい花が咲いていました。コウヤボウキというんだそうです。この後綿毛となってそれもとても可愛らしい様子だと参加者の方に教えて頂きました。(^^) 両槻会には、色々とお詳しい参加者の方もお見えになっていて教えていただけることが多いです。


稚桜神社にて解説を聞く参加者

 ここでも神社境内で、磐余に関する様々な伝承や跡地の話などを聞き、伝承の地・磐余をさすらい始めた定例会の一行は、いよいよ磐余池か?と思える周辺へのウォーキングに入ります。


稚桜神社から推定磐余池方面
(2010年11月27日 よっぱさん撮影)
 
 次の目的地である御厨子神社は、くねくねと曲がった道を進んで行くので、すぐ目の前に見えているのに、なかなか着きません。御厨子神社下に到着すると、そこにも大津皇子の歌碑があります。ここもまた磐余池の跡地のひとつとされている場所なんだそうです。


東池尻町の集落
 
 そういえば、集落内を歩いている時に事務局長から示された電信柱には「東池尻町」との表記がありました。資料にもあるとおり、この辺りには、水辺を連想される地名が数多く残っているようですし、今歩いてきた道が池の堤だったという話にも、実際歩いてみると頷けるものがあります。歌碑のある位置のすぐ左側の集落は確かに一段高くなっています。
 第23回定例会資料 「磐余池推定復元図」
 先程の灌漑用の四角い吉備池よりも、こちらの方がはるかに磐余池としては雰囲気があるように思います。履中天皇が両枝船を浮かべて皇后と宴を催したのは、ここだったのでしょうか?
磐余池への妄想はこの程度にして、御厨子神社へと向かいます。が、ここも元々は「水尻神社」と書かれていたそうで、やはり池や水の匂いがプンプンします。


月輪石

 御厨子神社の境内には、「月輪石」と呼ばれる巨石があります。大きさは長さ3.7m、高さ1.4m、幅1.9m。中央部の亀裂は40cmに及ぶそうで、根折石(ねさくいし)という呼び名もあるのだそうです。御厨子神社の祭神が根折神・石折神とされるのに関連があるのでしょうね。

 今回のウォーキングは、この月輪石を初めとする香久山周辺の巨石を探訪するのも目的のひとつです。注連縄の張られた月輪石を遠巻きに眺め撮影する参加者の方々。標を越えなければ大丈夫ですって。^^; 二つに割れた巨石は、神社脇の竹林の中で独自の空間を有していました。

 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」


香久山万葉の森

 さて、本日の行程もここでようやく半分ほど。これから香久山に向けて足を進めます。香久山万葉の森公園では、色づき始めた木々の下で参加者全員車座になって和気藹々と昼食。その後休憩の間に少しお時間を頂いて懇親会も開催しました。今回は、初参加の方も含めて関東方面から、両槻会の定例会の為にわざわざお越しくださった方が多くいらっしゃいました。遠路遥々有難うございました。m(__)m

 昼食後は、いよいよ神話の世界・香久山へ突入です。
 香久山詳細マップ

 さて、「かぐやま」を書き表わすときの漢字ですが、「香久山」は現在の地域名称による漢字表記になります。万葉の時代からその名を伝える「かぐやま」は、「香山」「高山」の他、「あま」の字を冠して「あまのかぐやま・あめのかぐやま」とも称され、「天芳山」「天芳来山」「天香来山」「天加具山」「天降山」とも書かれ、その懐に今も沢山の神話・伝承の謎を抱えています。

 香久山山中の見所は沢山あるのですが、当日の解説をここに列挙していると本当にキリがありませんので、これもまた、詳しくは資料や咲読などリンク先をご覧頂ければと思います。そんなこといわずに・・・という方は、是非当日限定の配布資料と生の解説を聞きに一度定例会へ足をお運び下さい。(^^)
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」 ・ 「民話 月の誕生石」


            
蛇繋ぎ石 月の誕生石

 万葉の森公園から、いよいよ香久山山中に足を踏み入れます。ここから、蛇繋ぎ石、月の誕生石と謎の巨石を巡り、天香山神社を目指します。数年前までは下草や笹が繁っていた巨石に至るまでの道は、分かれ道に道標が立てられるなどして、少し分かりやすくなっていました。
 香久山の山肌に突然現れるこれらの巨石は、香久山が神聖視されることと何か関係があるんでしょうか。


天香山神社

 天香山神社は、古代祭祀の形態を止めた神社だそうです。本殿後ろには、古墳の閉塞石か?と思えるような板状の巨石を見ることが出来ます。また境内には、古事記などに登場する天真名泉(あめのまない)や波波迦の木なども見ることが出来ます。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」

波波迦の木 天真名井

 天香山神社を後にして一端香久山を下り、北西にある興福寺八釣地蔵尊、畝尾坐健土安神社、畝尾都多本神社へ向かいます。


興福寺 八釣地蔵尊

 興福寺と言う名ですが、現在中金堂再建中のあの興福寺ではありません。(^^ゞ ここも、聖徳太子建立の寺伝を持つようですが、今はリュウーマチや神経痛に効果があるとされ崇敬されているようです。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」


畝尾坐健土安神社

 八釣地蔵尊のほぼお向かいにあるのが、畝尾坐健土安神社です。下八釣の集落内にこじんまりと鎮座するこの神社もやはり香久山に関わりある神社のようで、神社名にある「土安」は、「はにやす」と読み、香久山にあるとされる埴土に関わる神社になります。


 先に訪れた天香山神社内と、この後訪れる国見丘万葉歌碑付近には、それぞれ「天香山
赤埴聖地」「天香山白埴聖地」の碑が建てられています。

 次に訪れた畝尾都多本神社は、ここも古事記の神話部分と古代史が混在する場所になります。


檜隈女王の歌碑

 万葉集をお好きな方には、泣沢神社としての方が耳に馴染みがあるかもしれません。境内には、檜隈女王が高市皇子の死を嘆き悲しんで泣沢の神を怨んで詠ったとされる「哭沢の神社に御瓶据ゑ祈れどもわが大君は高日知らしぬ」の歌碑が建っています。
 この神社の南方には、現在は奈良文化財研究所 飛鳥・藤原調査部の建物が建っていますが、古代この辺りには、高市皇子の香具山宮があったとされています。

 神話・伝承・歴史・万葉…と、テンコ盛りのウォーキングは、まだまだ続きます。(^^ゞ


復元道路を行く

 ここから、奈良文化財研究所 都城発掘調査部(飛鳥・藤原地区)の建物前を通って、香久山へも舞い戻って行くわけですが、その時に通ったこの道は、発掘調査で検出された古代の坊間路が復元されているんだそうです。当日は、見事に色付いた紅葉を鑑賞しながら、全員で古代飛鳥へと思いを馳せ、香久山への上り口へと進みました。

 目指すは、舒明天皇が国見をしたと言われる国見丘。「どうして1回降りた山をまた登るの?!」何ていう言葉もちらほら聞かれます。(^^ゞ ここから登ると国見丘から見る風景が一段と身に染みるのです。皆さん頑張って登りましょう♪


国見の丘より耳成山を望む

 万葉歌碑の前に辿り着き前方の耳成山を見て一息付くと、事務局長の解説に耳を傾けます。
 はたして、舒明天皇は本当にここから国褒めをしたのでしょうか?ここからだと、午前中に散策した吉備池廃寺や磐余は、背後になります。歌にどこまで現実性を求めるか…。今後の定例会の話なども含めて色々と話が膨らんでいきます。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」

 さて、一息ついたのも束の間、背後に視界を転じれば香久山山頂へと続く階段が続いています。はい!ここから香久山山頂を目指しひたすら階段を上ることに・・・(^_^;)


香久山山頂へ

 やっと登りきった山頂には、小さなお社が二つ。国土の安定を祝福する神と水神の二柱の神さんがお祀りされているんだそうです。事務局長から解説のあった神社の由来やそれぞれの神さんの話、または雨乞いなどの行事の話など興味の赴くままあちらこちらでそれぞれに話に花を咲かせつつ山頂で休憩をとりました。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」


国常立神社

 さぁ!山頂まで行けば、今度は本当に下るだけです。(笑)
 皆さん、本当にご苦労様でした。m(__)m

上の御前(伊邪那岐命神社) 下の御前(伊邪那美命神社)

 下山途中にある上の御前・下の御前にお参りして、今日一日流離った神話の世界の主人公であるイザナギ・イザナミの二柱の神様にご挨拶です。鬱蒼としたこんなところに何故この二つの社が祀られているのか・・・それもまた謎のようです。

 さて、ようやく平地に戻ってまいりました。(笑)

 次に訪れたのは、日向寺。「日向」と書いて「ヒムカ」と読みます。こちらも聖徳太子の名が寺伝に残るお寺だそうです。出土した瓦から藤原京期の創建とされ、敷地の奥には塔心礎が出土したとされる土壇のような高まりもみられますが、詳細は不明のようです。飛鳥で日向と言えば、乙巳の変後に兄・蘇我倉山田石川麻呂を陥れた蘇我日向の名が浮かびますが、これも関わりはわかりません。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」

 ここの屋根に上がっている鬼瓦なんですが、「これは何て読むんだろう?」とのお話になりました。
σ(^^)には、当日お答えすることが出来ませんでしたが、そこは優秀な(笑)両槻会スタッフ。帰宅後に調べ、胎蔵界大日如来をあらわす「アーンク」と言う梵字ではないかと。だから、それが何?と言われると困るんですが。(^^ゞ

次に訪れたのは天岩戸神社です。


 ここも拝殿の後ろには巨石があり、やはり古代の信仰形態を今に残すといえるようです。古墳が開口しているようにも見えますし、ここから香久山の反対側に出られるという伝承などもあるようですが・・・、真相は?
 また、天岩戸といえば、天照大神の岩戸隠れの物語をご存じない方はいないと思います。この伝説に出てくる数々の小道具(天の香山の雄鹿の肩の骨・天の波波迦の木・天の香山の五百津真賢木・天の香山の天の日影・天の柾の葛・天の香山の笹など)が、香久山ならではのモノばかりであると言う話が事務局長からあり、香久山の神秘がまた一段と深まった感じがします。
 第23回定例会資料 「見学ポイント概要」 ・ 「天岩戸伝説」

 そして次に、天宇受売命が踊る時に使ったとされる笹が生えていると言うところを見にいきました。これまた集落の中の「あら?」と言うようなところに笹薮があり、その中に小さな小さな祠がひとつ。


湯笹明神

 周囲に生える細い竹は四方竹と呼ばれ、触ると腹痛を起こすとの言い伝えがあるようです。が、当日形を確認する為に竹に触った参加者の方々・・・、その後お腹の具合は如何でしょうか。^^;
 笹を持って天宇受売命が踊ったとされるのは本当なのか?などという話題が、早いうちに参加者の中からありました。実際に「舞台」があると言う事務局長の言葉に、是非見てみたいとの声が上がります。で、その場所は…なんと、この湯笹明神のある付近の字名だと言うオチ。(笑)立派な舞踏用の舞台を想像されていた方がいらっしゃいましたら、ゴメンなさいです。(^_^;)

 湯笹明神を後にし、いよいよ本日最後の場所へと向かいます。ここは、前回第22回定例会の事前散策でも訪れた大官大寺跡です。講堂跡前の里道から、塔跡や金堂跡、講堂跡付近を見回しつつ、ウォーキングの前半に訪れた吉備池廃寺跡が、舒明天皇発願の百済大寺であるならば・・・と、本日の総纏めの話が始まります。


大官大寺跡
(講堂跡付近から南を望む)

大官大寺跡から香久山・耳成山を望む
(2010年11月27日 よっぱさん撮影)

 脈絡なく歩いたかに見える今回のウォーキングルートですが、神話・伝承の世界から、記録に残り始めた歴史の時代へと少しずつ歩を進めていくことが出来たように思います。残されているモノや言葉を繋ぎ合わせて想像することしか今の私たちには出来ませんが、そのほんの一端でも繋げ広げる手助けが出来たのなら、今回のウォーキング企画は成功であったと思います。

 参加者総勢25名、伝承・伝説の地である磐余・香久山から、歴史の地飛鳥へと入る総距離約12キロを無事歩き切ることができました。
 ご参加下さった皆さん、有難うございました。また、力不足のスタッフを支えて下さったサポートスタッフの皆さん、有難うございます。そして、1日を通し解説とウォーキング先導をした事務局長、お疲れ様&ご苦労様でした。
                                         レポート担当:もも


御礼

 今回の定例会雨天用予定に関しては、橿原考古学研究所付属博物館主任学芸員 山田隆文先生・平松良雄先生のご協力を得て、秋季特別展「奈良時代の匠たち‐大寺建立の考古学‐」を、また、飛鳥資料館学芸員 成田聖先生には、秋期特別展「木簡黎明―飛鳥に集ういにしえの文字たち」の展示解説をしていただくことになっておりました。雨天用というあやふやな予定にもかかわらず、快く引き受けてくださいました先生方に篤く御礼を申し上げます。

 両槻会は、皆様のご協力の上に成り立っております。これからもご支援くださいますようにお願い申し上げます。最後になりましたが、この場を借りてご挨拶させていただきました。
                                        両槻会事務局一同


資料編へつづく

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