両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪


両槻会第24回定例会レポート



飛鳥をめぐる山の信仰


-大和の山林寺院を中心に-



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2011年 1月 8日  

  第24回定例会レポート
  主催講演会 「飛鳥をめぐる山の信仰 -大和の山林寺院を中心に-」
  講師:橿原考古学研究所 主任研究員 大西貴夫先生

 

 第24回定例会は、奈良県立橿原考古学研究所 主任研究員 大西貴夫先生をお招きし、「飛鳥をめぐる山の信仰 -大和の山林寺院を中心に-」と題して、講演をいただきました。

 若干のキャンセルがあったものの、26名の方が新春間もない定例会にご参加を下さいました。今回は、両槻会設立4年目の最後を飾る回となりますので、記念式典も合わせて執り行うことにしていました。多数のご参加ありがとうございました。

 ご講演は2時間にわたり、大西先生にはお忙しい中、A3用紙4枚半分の資料もお作りいただきました。この場を借りまして、改めて御礼を申し上げます。

 山林寺院という、あまり馴染みのない言葉ですので、どのようなお話の展開になるのか分かりませんでしたが、その分また楽しみでもありました。
 まず、山林寺院とは何か?からお話をいただきました。山寺・山林寺院・山岳寺院と、色々な呼ばれ方もあるようですが、山岳寺院ほども高山・深山でもなく、丘陵上や山麓に立地するお寺を、山寺という呼び方で今回は取り上げてお話が進みます。

 山寺は、丘陵上や斜面の小高い所や、谷の奥などにも立地し、行場となる地形(滝や岩窟など)や、信仰の対象に繋がる岩や水源などが近くにあり、同じ時代の都城や集落・交通路、また墓地などと一定の距離を保つ場所に建てられました。

 研究史から話を進めていただいたので、山寺がどのように定義付けられてきたかが、よく分かりました。


 続けて、大和盆地周辺の古代の山寺を具体的に示していただきました。掲載していただきました資料は広い範囲を示す地図でしたので、個々のお寺の位置を探すのが大変でしたが、奈良盆地との位置関係が分かったと思います。両槻会事務局が作成したイラストマップと合わせて見ていただくと、より分かりやすかったかも知れません。サイトの資料編には、グーグルマップ地形図を加工して掲載しましたので、立地が更に分かりやすくなっていると思います。是非ご覧下さい。 飛鳥周辺の山寺分布図 Ⅰ(グーグルマップ)

 名前が挙がった山寺には、義淵創建による岡寺(龍蓋寺)、龍門寺、加守寺(龍峯寺)、龍福寺、龍華寺、などのいわゆる五龍寺や、行基創建の恩光寺、隆福寺、頭陀寺、生馬千房などがありました。また、役行者の大峰山、葛城山、生駒山なども紹介されました。他にも名を知られる寺院としては、長谷寺、南法華寺(壺阪寺)、室生寺、高宮廃寺、毛原廃寺などもパワーポイントを使って地形なども示していただきました。

 山寺について学ぶには、様々なアプローチがあると思いますが、先生は考古学者でありますから、まず発掘調査で確認された堂塔を説明してくださいました。講演会後に実際に現地を訪ねました岡寺の堂基壇や、加守廃寺(六角堂・塔)、地光寺跡(塔基壇・双塔心礎)などを、画像や資料図を示しながら分かりやすく説明してくださいました。


加守廃寺 塔跡
(2009年9月19日撮影)

 更に、出土遺物からの検討がなされます。用語に馴染みがないと難しく聞こえてしまうかも知れませんが、岡寺式軒丸瓦や葡萄唐草文軒平瓦のお話に進みました。これらは、瓦や模様の名称ですから、これを難しいと思ってしまうと先には進めません。飛鳥遊訪マガジン咲読のコーナーをお読みいただいておれば、この辺りは楽にクリア出来たのではないかと思います。

 お話は佳境に入ります。瓦の文様により、いろいろなことが分かります。編年といえば良いのでしょうか。創建年代や同范瓦の使用状況によって、各お寺間の繋がりや創建順も分かります。
 特に今回は、葡萄唐草文という山寺に多く使われた文様が注目されました。岡寺に始まるこの軒平瓦の文様は、山寺であることの証明であるかのごとく多くの山寺で採用されました。つまり、意図的に採用された瓦であると言えるかも知れません。そうすると、各お寺がそれぞれにと言うよりも、より大きな力、即ち国家が関与していたことが推測されるわけです。なぜ山寺に国家の力が? 平地寺院との関係は?など、多くの疑問が湧きあがってきますが、答えは直ぐに見つかるものではありません。

 山寺の範疇に入れられながら、この岡寺式軒瓦セットが使用されないお寺も存在します。平城京周辺を除けば、高宮廃寺、南法華寺などがあるとの事です。またまた疑問が出てきますね。


南法華寺(壺阪寺)
(2010年4月3日撮影)

 山寺には、興福寺式の瓦を葺いた例もあるのだそうです。また、両方の瓦を使用した例もあるので、ここらは落ち着いて考えねば、何がなにやら分からなくなってしまいます。(笑) 奈良時代になると、藤原氏や法相宗の中心的存在となる興福寺そのものの影響力が大きくなるからなのでしょうか。
 また、出土遺物としては、せん仏が有り、方形三尊せん仏が2系統に分かれることも説明していただきました。
 詳細に検討を重ねれば、これらのデータから分かることは多いのだろうと思うのですが、当然ですが風人には荷が重いことです。ですので、現時点では軽くスルーすることにしました。(^^ゞ

 山寺とはどのような目的で建てられたのでしょうか。ここからは、風人の妄想や誤った聞き取りが入っています。(笑)
 研究史のところで話されたのですが、古代において「僧侶は、月の上半は深山に入り、下半は本寺に滞在する」。そのような山林修行を行った僧侶達がいたそうです。僧侶としての修行に必要な場として「山寺」の存在が考えられます。唐から帰ってきた学問僧道昭や智鳳などが居た飛鳥寺に入った義淵は、玄奘が西域から持ち帰った最新の仏教思想「法相宗」を学び、その影響の下で山林修行の必要性を説くようになったのかも知れません。

 飛鳥寺の建立以来増え続けるお寺と僧侶。彼等の修行の場が必要になったため、飛鳥時代後半に岡寺を始めとする山寺の建設が急がれたのではないでしょうか。そのためには、国家のバックアップが必要です。鎮護国家思想の基盤を強固にするこれらの考え方は、直ぐに受け入れられたのでしょう。岡寺式軒瓦が多く使用されるのは、このような背景が有ったのではないでしょうか。

 葡萄唐草文の葡萄は、西域や玄奘を象徴する物としてデザイン化されたのかも知れないと、これは風人の妄想です。(^^ゞ 先生が示して下さった軒平瓦の文様が、時代を経るにしたがって葡萄らしさを失って行きます。本来持っていた意味合いも共に失われるのかと思うと、義淵さんの心まで忖度したくなるのは妄想癖のなせる業です。(笑)

  

大窪寺

 講演の中で疑問も湧き出しました。岡寺式の瓦が出土しているのですが、山寺とは思えない立地のお寺の存在です。例えば大窪寺です。畝傍山の麓と言うには余りにも平地ではないかと。また、丘陵上に在るのですが、飛鳥の中心部からは低いのではないかと思う定林寺なども、現在の感覚からすると山寺には入らないのではないかと思いました。山寺と言うからには、当時の都や主な平地寺院からは高い位置にないと変じゃないでしょうか。

 他にも、第24回定例会で訪れた青木廃寺や加守廃寺についても疑問が起こります。青木廃寺は高市皇子の菩提を弔うため、加守廃寺は大津皇子の菩提を弔うためとされています。そういうことが「山寺」とどう結びつくのか。奈良時代初めに、大津皇子の菩提を弔う機運が起こったという話を聞きましたので、加守寺に関してはそのような事もあるのかと思うのですが、青木廃寺は長屋王創建という説を採ると個人の創建になり、先の「山寺」の考え方と相容れないものがあるように感じました。


加守廃寺 長六角堂跡
(2009年9月19日撮影)

 司会進行を担当していましたので、自らの疑問点は質問出来ずに残念ではありましたが、またいずれかの機会に大西先生にお話を聞きたいと思っています。


岡寺 本堂

 飛鳥をめぐる山々に築かれたお寺。それは、外来の仏教の教義にもとづく修行の場や聖地というだけにとどまらず、先生が初めに説明されたように、我国固有の深山霊峰への畏怖の念と相まって、独自の山の信仰へと繋がって行くのではないかと風人は考えました。
 今回の講演では、飛鳥時代の信仰に関する多くのデータを与えていただき、新たな視点を教えていただいたように思います。風人にとりましても、現在にまで続く信仰のお寺として少し距離を置いていた「岡寺」に対する見方も変わったように思います。個人的には、義淵という人間に興味があります。少しですが追いかけてみたいと思いました。ご参加の皆さんは、如何だったでしょうか。

 一つの謎が解ければ、また新たな謎が生まれます。それが楽しいのです。いつか、全てが分かる日を夢見て謎を楽しみたいものです。
 風人にとっては、これだけ楽しめれば、講演会として大満足でした。大西貴夫先生、ありがとうございました♪

                                担当:風人


定林寺跡
(2008年5月撮影)

 橿原考古学研究所の大西先生から「飛鳥をめぐる山の信仰」と題する講演を聞いた後、いつもは講師への質疑応答や懇親会が行われますが、その時間を利用して今回は来る2月14日に設立4周年を迎える両槻会の記念式典を執り行いました。事務局長として風人から、この4年と言う長い期間素人の集まりである両槻会を続けてこられたのは、偏に御支援頂いている先生方並びに両槻会に参加してくださる皆様方のお陰です、と言った趣旨の挨拶があり、その御支援頂いている先生方一人ひとりの名前が披露されました。お名前を披露させて頂いたのは次の先生方です。

近江俊秀先生 豊島直博先生 あい坊先生 大西貴夫先生 山田隆文先生 岡田雅彦先生 鈴木裕明先生 平松良雄先生 奥井智子先生 杉山洋先生 加藤真二先生 青木敬先生 ゆき先生 山本崇先生 成田聖先生 丹羽崇史先生 滝川孝司先生 清水昭博先生 市大樹先生 井上さやか先生 鹿谷勲先生 (順不同で掲載させていただきました。) 他にも、見守ってくださる先生多数。

 引き続き特別会を含む定例会の延べ参加人数が740名を超えたことが報告され、特に参加回数の多かった、ぷーままさん、yosioさん、せいぶんさん、sachiさん、miyauchiさん、らいちさん、yukaさんに感謝状が贈られ、更に遠路回数を重ねて下さっている、どるねろさんに特別感謝状が贈られました。

 また両槻会が発行するメルマガ「飛鳥遊訪マガジン」の発行部数も434部となり多くの方々に両槻会を知って貰えるようになった謝意があり、100号を記念して読者から投稿を募集していることの報告がありました。投稿が掲載された方4名の方に事務局より感謝状に添えて、オーダーエンブレム町田さんのオリジナル四神ピンバッチ(賞にあった神獣の物1個、朱雀賞1名、青龍賞1名、白虎賞1名、玄武賞1名)と両槻会定例会の参加割引優待券(有効期限1年の半額券1枚)が進呈されることも報告されました。オーダーエンブレム町田さんは下記を参照して下さい。オーダーエンブレム町田さん

 式典・懇親会と続けた後、引き続き参加は自由と言うことで講演会参加者26名のうち18名が実際に山林寺院の代表格である「岡寺」へと大西先生と共に足を運びました。

 岡寺は西国三十三箇所観音霊場第7番札所として有名ですが、創建者とされる義淵僧正に就いては余り分かっていません。一説には百済聖明王の末裔とも言われています。奈良時代には僧正まで出世し、その弟子たちに行基や良弁等がいたことから実在の人物であることは分かっています。義淵は天智天皇に幼い頃引き取られ、岡宮にいた草壁皇子と共に育ったとも言われています。後に天智天皇から岡宮を与えられ、そこを岡寺としたと言われています。


治田神社へ向かう参加者

 創建当初の岡寺のあった場所は現在の岡寺の西方直ぐの治田神社の境内にあったそうで、先ずその堂跡の基壇の礎石を見学しました。また昭和57年の橿原考古学研究所の調査で拝殿の地覆石には凝灰岩の切石が使われていたことが明らかになっています。


治田神社境内 礎石?

 更に現地の説明板には「岡寺所蔵の寛元年間(1661-1672)の絵図には、治田神社に金堂や講堂・塔の跡地が描かれている」とありました。この跡地も橿原考古学研究所によって発掘調査が行われており、金堂跡或いは三重塔跡が検出されています。また、これらの発掘調査の結果、葡萄唐草文軒平瓦が検出され、山林寺院と平地寺院の違いを区別する大きな手立てとなりました。この地に創建当初の岡寺があったことは間違いなさそうです。治田神社境内の「福石」と呼ばれる大きな二つの石を後に、次は現在の岡寺に初詣の参拝をしました。

 この岡寺は日本最大の塑像があることでも有名ですが、当日は本堂に入るためには厄除け祈願をしてもらう人たちに限られており、(別途料金が必要)残念ながら中には入りませんでした。塑像は外から少しは見えましたが(笑)。 


仁王門に掲げられた額 

 現在の岡寺は長谷寺を総本山とする真言宗豊山派に属する末寺となっています。岡寺は別号を龍蓋寺と称し、先の大西先生の講演で説明のあった義淵僧正創建の「龍」を冠する寺院、龍門寺、龍峯寺、龍福寺、龍華寺、等の一つです。

 龍蓋寺の号は、昔、台風などを起こし悪さをする龍を法力で井戸に封じ込め上から「阿」の字を彫った大石で蓋をした説話に由来するもので、その井戸と蓋があるのが本堂前にある「龍蓋池」です。この日は快晴であったことも手伝ってか、この龍蓋池の水も澄んでいて、普段では中々拝めない池の中の蓋もはっきり見ることが出来、参加者には良い思い出になったことと思います。


龍蓋池

 参加者の中には「岡寺は初めて」と言われる方もおられましたので奥の院まで上ってみることとなりました。奥の院と言ってもそれ程の距離もなく「瑠璃井」と呼ばれる厄除けの井戸(実際に汲めますが、飲めるかどうかは分かりません。参加者も「ここまで上った所なら大丈夫だろう」とは申しておりましたが、誰も口にはしませんでした。)があります。恐らく花山法皇の御詠歌「けさ見ればつゆ岡寺の庭の苔さながら瑠璃(るり)の光なりけり」とも関わっているのでしょう。

  岡寺は日本初の厄除け寺とも言われています。そこを通り過ぎるともう目の前に石窟の奥の院があります。一人で来ると明かりこそは見えるものの中に入っていく勇気のしないところですが、そこは「皆で参れば怖くない」を地で行き皆で腰を屈めながら奥の院の弥勒仏を拝んだのでした。



 奥の院から三重塔へと回ります。三重塔までには義淵僧正の廟や仏足等が見て取れます。三重塔からの飛鳥の景色は絶景です。遠くには葛城山系を眼下には橘寺をそしてその間に甘樫の丘を一望することが出来る、まさに最高の展望台となっています。初めての方は皆「凄い、凄い」を連発していたほどです。

 又この塔の軒先には岡寺所蔵の「両部大経感得図屏風」図中の五重塔に「琴」があることに因んで小さな琴が荘厳に飾ってあります。そんな景色を楽しんでいるとき、ふと風人さんが「相輪の水煙部の天女の周りを飾っているのは葡萄唐草文ではないか」と言い出しカメラに収めたその形状を確かめ合ったりしましたが、決定打は出なかった次第です。皆さんも一緒に考えてみてください。


(2010年4月18日撮影)
(後日、過去の画像を探し、葡萄唐草文であることを確認しました。)

 岡寺を後に一行は治田神社バス停から徒歩酒船石に向かいました。酒船石は何度見ても用途の分からない不思議な溝をめぐらした石です。過去人為的に切り取られた痕跡を残しその全体像は未だに不明です。切り取られた石片は何処に持って行かれたのか記録はありませんが、高取城築城の際、その石垣に転用されたのではないかとの説も有力です。両槻会では昨年5月の第20回定例会で「新緑の高取城跡 -日本一の山城から奥飛鳥への道-」と称し実際に高取城跡に登ってきました。そこで勿論「酒船石」の石片は何処に、と目を凝らしたのですが、それと思われる転用石が無数にあり、謎はベールに包まれたままとなりました。


酒船石

 見てきた酒船石は「岡の酒船石」と呼ばれているもので、実は他にも「酒船石」と呼ばれるものが出水地区から出土しています。こちらは「出水の酒船石」と呼ばれ実物は、現在、野村財団の京都南禅寺傍の野村碧雲荘に手水として置かれています。こちらの方は本物ですが残念ながら、皇室関係と野村財団にかかわっている方しか見られない状態です。(野村碧雲荘の周りを歩いても見えません。筆者経験済みです。)しかし、精巧なレプリカが飛鳥資料館の庭に展示されています。こちらの方は明らかに液体を流す作りとなっており、「岡の酒船石」との関係に思いを馳せるところです。資料館のものはサイズも元のものを採用していますので、是非双方を見比べてその関係に読者の皆さんが一石を投じて欲しいものです。

 岡の酒船石から亀型石造物に下る道が作られています。勿論、そんな道は2000年に亀型石造物が発見された当時にはありませんでした。亀型石造物はその後も埋め戻されることなく、現在表面にコーティングを施し見学者を楽しませています。レプリカですが飛鳥資料館に同サイズのものが飾ってありますので、一度大きさ等を実感するためにも飛鳥資料館を訪問されることを推奨します。一行は亀型石造物の傍を通り抜け飛鳥寺の方向に進みました。


2010年12月18日撮影
 飛鳥寺西方遺跡と言うのがあります。呼んで字の如く飛鳥寺の西に位置し、飛鳥京跡から飛鳥寺に向かう地域です。この中を水路が流れており現在改修工事中です。水路の老朽化による整備を行っているものです。水路のコンクリートをはつり新しくコンクリートを流していく訳ですが、その工事に伴い橿原考古学研究所では遺跡の調査を行っています。実は、この水路の発掘調査を大西先生が調査中なのでした。もう大分飛鳥寺近くまで来ており直ぐ後ろから改修工事が追いかけて来ていました。調査に先立ってコンクリートは、はつって貰っているのですが現在調査中のところでは飛鳥川氾濫に伴う土砂の跡が殆どだそうです。

 遺跡調査中の現場を垣間見て一行は、水落遺跡に向かいました。この水落遺跡でも昨年暮れには、奈良文化財研究所によって水落遺跡の木桶が石神遺跡へと続いていることが確認され、水落遺跡と石神遺跡は密接な関係にあったことが報じられました。


水落遺跡 現地見学会
(2010年12月5日撮影

 参加者は色々な遺跡を巡り、水落遺跡傍のバス停「飛鳥」からバスで橿原神宮駅に至り解散となりました。散策に参加された皆さんは最初の岡寺以外は「山岳信仰」に結びつかなかったかも知れませんが、別の意味で飛鳥を楽しんで頂けたと思います。

 最後までお付き合い頂いた大西先生、有難うございました。この場を借りてお礼申し上げます。そして最後まで参加頂いた皆様、これからも両槻会をよろしく応援願います。
                                         担当:TOM



レポート担当: 風人・TOM       
写真: よっぱさん・風人・もも 


資料編へつづく

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