両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第24回定例会資料集


飛鳥をめぐる山の信仰


-大和の山林寺院を中心に-



  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
飛鳥周辺の山寺分布図 Ⅰ 山寺関連史料 関連年表 岡寺式軒瓦の分布 塼 仏
事後散策用資料 アンケート集計ページ 当日レポート 両槻会


この色の文字はリンクしています。

飛鳥周辺の山寺分布図 Ⅰ



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岡寺 高市郡明日香村岡 長谷寺 桜井市初瀬
定林寺跡 高市郡明日香村立部 小附廃寺 宇陀市大宇陀区内原
朝風廃寺 高市郡明日香村稲渕 駒帰廃寺 宇陀市菟田野区駒帰
龍福寺 高市郡明日香村稲渕 掃守寺跡 葛城市加守
南法華寺 高市郡高取町壺阪 地光寺跡 葛城市笛吹地光寺
観音院 高市郡高取町上子島 戒那山寺 御所市櫛羅
興善寺 橿原市大戒外町 二光寺廃寺 御所市西北窪字地光寺
大窪寺跡 橿原市大久保町寺内 朝妻廃寺 御所市朝妻字春日
青木廃寺 桜井市橋本字地蔵谷 高宮廃寺 御所市鴨神
高田廃寺 桜井市高田 比曽寺跡 吉野郡大淀町比曽
上宮寺跡 桜井市上之宮 龍門寺跡 吉野郡吉野町山口

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「山寺関連史料」


僧尼令 第七


凡そ僧尼、禅行修道有りて、意に寂に静かならむことを楽ひ、俗に交らずして、山居を求めて服餌せむと欲はば、三綱連署せよ。在京は、僧綱、玄蕃に経れよ。在外は、三綱、国郡に経れよ。実を勘へて並に録して官に申して、判りて下せ。山居の隷けらむ所の国郡、毎に在る山知れ。別に他処に向ふること得じ。


大政官牒龍蓋龍門兩寺  (970年)

 應補任別當大法師晉称賛事
 大威議師傳燈大法師位玄延 年六十八 臈五十二 法相宗興福寺
右得彼寺別堂傳燈大法師位晉称等去五月廿八日解状偁、謹検案内、件兩寺故義淵僧正奉為國家隆泰藤氏榮昌 建立也、即興福寺一門之中、撰其人、依譲状被任兩寺別當、・・・(以下略)


扶桑略記  (1094年以降編纂)

大宝三年
三月乙酉日。以興福寺僧義淵任僧正。大和國高市郡人。俗姓阿刀氏。其父母依無子息。多年祈請觀音。然間。夜聞小兒啼音。奇出見之。柴垣之上。有裹白帖。香氣普滿。歡以取養。不日長大。天智天皇傳聞。相共皇子。令養岡本宮。至是。任僧正。造寺。号龍盖寺。俗云。造五箇寵寺。龍円。龍福寺。


薬師寺縁起  (1015年成立)
大津皇子  
持統天皇四年庚寅正月、大津親王等を禁じ、即ち害殺せらるなり云々。
今案ずるに、伝へて言ふ。大津皇子世を厭ひ、不多神山に籠居したまふ。而るに謀告に依って掃守司蔵に禁ぜらるること七日なり。皇子忽ちに悪龍と成り、雲に騰り毒を吐き、天下静かならず。朝廷これを憂えたまふ。義淵僧正は皇子平生の師なり。仍て修円に勅して、悪霊を咒せしめたまふ。而るに念気未だ平げず。即ち修円空を仰いで、一字千金と呼ぶ。悪霊承諾ふ。仍て皇子の為に寺を建て、名づけて龍峯寺と曰ふ。葛下の郡に在り。掃守寺是なり。又七月廿三日、宣旨を薬師寺に賜はり、六十口の僧を請い定め、威・従四人、七ヶ日の間、大般若経を転読せしめたまふ。其の布施は、信乃の国に在る也。


諸寺縁起集(醍醐寺本)  (1206年編纂)

一、龍門寺 在大和國吉野郡、官造作了勅施僧正、巳上一乗院御経蔵内文、
有抄物云、義淵僧正龍門岡寺等本願也、件僧正者、清原天皇師壇也、彼知皇子者、受學於義淵僧正、仍 知皇子成忿怒、而成虵吸於古京昔時人万人、上下不能出行、于時天皇以義淵僧正令誘伏給、龍語僧正云、為拔苦与楽證得 、令奏聞建立佛寺等、龍蓋寺是知皇子宮也、岡寺在大和國高市郡、施於僧正也、又有龍引導寺、龍本寺 掃守寺、在大和國葛下郡、官令掃守司造、施僧正給、
又龍門寺 在大和國吉野郡、官造施僧正、
龍華寺 在河内國若江郡、僧正起基為龍、
  巳上喜國己講筆跡、龍門寺流記本縁可尋也、


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  「関連年表」

西暦 天皇 年号 事   項
624
推古  32 4 僧正・僧都などを任命して、僧尼を統べることとする。
9 寺は46ヶ所、僧816人、尼569人合せて1385人。
629

舒明  元       道昭、生誕?
630     2 9 第一回遣唐使派遣
640     12 4 天皇、伊予より帰り、厩坂宮に入る。
643 皇極 皇極  2 4 天皇、仮宮殿から飛鳥板蓋宮に移る。
      義淵、生誕? 
653 孝徳 白雉  4 5 道昭、第2次遣唐使とともに入唐。
660 斉明 斉明  6    道昭、この頃唐より帰国。(飛鳥寺の東南に禅院を建て住す。)
662

天智 元       草壁皇子、生誕
663  2       大津皇子、生誕
667 6 3 近江遷都
668 7       行基生誕?(677説あり)
679




天武  8 4 諸寺の由緒を調べ封戸の追加と停止を判定し、諸寺の名を選定。
10 僧尼らの威儀や衣の色など定め、老いたり病んだりした僧の処遇を定める。
680 9 4 凡そ諸寺は、今後、国の大寺二、三を除いて、その他は官司の管理をやめる。
11 天皇、薬師寺建立を発願する
      道昭、往生院(現泉南市)を建立。
683 12 3 僧正・僧都・律師を任命し僧尼令に従い僧尼を統括するように指示。
684 13 3 国々で家ごとに仏舎をつくり、仏像と経典を置いて、礼拝供養せよ。
      長屋王生誕(676年説あり)
686 朱鳥 元 10 大津皇子、死を賜る。
689

持統  3 4 草壁皇子没
692 6       寺の数545ヶ寺を数える。
693 7       神叡、遣新羅使とともに新羅に渡る。
694 8 12 藤原遷都
699



文武  3 11 義淵、学行褒賞で稲1万束を賜る。
700 4 4 道昭入滅。(栗原で初の火葬)
701 大宝 元 6 大安寺で僧尼令を講説させる。  
702 2       大宝律令施行
6 道慈、第8次遣唐使とともに入唐。
703 3 3 義淵、僧正に任じられる。
704 慶雲 元       道慈、帰国。
710 元明 和銅  3 3 平城遷都
716





霊亀  2 5 荒廃する諸国の寺の整備や合併、財産管理などを命じる。
717 養老 元 3 玄昉、第9次遣唐使ともに入唐。
4 僧尼令に準じ、僧の行いの乱れを正し監督することを命じる。
5 課役を逃れるための流浪や僧となることを禁じ、行基の活動を禁圧。
7 神叡、律師に任じられる。(比曽山寺に庵を結ぶ。)
718 2 10 太政官が僧の行いについて(顕彰と禁制)僧綱に告示。
719 3 11 神叡、道慈、食封50戸を賜る。
720 4 12 むやみな経典の転読・唱礼を禁止。
722 6 7 僧綱や在京の僧尼の行いに対し太政官より奏言。
727








神亀  4 12 義淵、一族に岡連の姓を賜る。
728 5 10 義淵没。
729 天平 元 2 長屋王の変。
4 幻術・妖術など独自の教習を教え、山林に篭もることを禁止。
11 神叡を少僧都、道慈を律師に任じる。
735 7       玄昉、唐より帰国。
737 9 8 玄昉、僧正に任じられる。
      神叡没。
      天然痘が流行し、藤原4兄弟没。
740 12 12 恭仁遷都
743 15 10 大仏建立の詔。大仏建立に際し行基を起用。
744 16 2 難波遷都
745 17 1 紫香楽遷都
1 行基、大僧正に任じられる。
5 平城遷都
11 玄昉、筑紫の観世音寺造営にあたらす。(配流)
746 18 6 玄昉没。
749 21 2 行基没。
758 淳仁 天平宝字 2 8 山林修行十年経過の者の得度を許可。
770 光仁 宝亀 元 10 山林修行の許可

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 飛鳥周辺の山寺・岡寺式軒瓦の分布


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岡寺式軒瓦出土状況 一覧
軒丸 軒平 軒丸 軒平
岡寺 長谷寺
定林寺跡 駒帰廃寺
南法華寺 掃守寺跡 ⑤ ⑥
興善寺 地光寺跡
大窪寺跡 戒那山寺
青木廃寺 比曽寺跡
高田廃寺 龍門寺跡
⑤:五葉  ⑥:六葉  △:同系統

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 「塼 仏 」

- 塼仏A -

川原寺裏山遺跡出土品
(明日香村埋蔵文化財室収蔵品)
(転載・転用禁止)
泉南・海会寺出土品
(史跡海会寺・古代史博物館展示品)
(転載・転用禁止)
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画像は、泉南市古代史博物館・明日香村埋蔵文化財展示室に掲載許可を頂いています。
無断転載・転用は禁止します


- 塼仏B -

夏見廃寺出土品
(夏見廃寺展示館展示品)
(転載・転用禁止)
復元品
(夏見廃寺展示館展示品)
(転載・転用禁止)
画像はクリックで拡大します。
塼仏の画像は、名張市教育委員会に掲載許可を頂いています。
画像及び文章の無断転載・転用は禁止します。

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「事後散策用資料」


【岡寺】

 西国三十三ヶ所観音霊場の第七番札所として有名な岡寺は、長谷寺を総本山とする真言宗豊山派に属し、「東光山真珠院龍蓋寺」が正式名称になります。

 奈良時代の岡寺は良質の経典を数多く所蔵し、興福寺や東大寺などの大寺院と経典を介して密接な関わりを持っていたことが、正倉院文書から読み取れます。また「扶桑略記」などの史料には、岡寺(龍蓋寺)が義淵による創建であるとの記載が見られます。
 
 西方の治田神社境内では、創建時の金堂跡だと推定された壇正積基壇跡、文明四年(1472年)に倒壊した三重塔のものと思われる礎石などが発掘調査により検出されています。
 金堂には、不空羂索観音が安置されていたとする記録もあるようです。また、東方の元岡寺と呼ばれる地域にも堂宇が広がっていた可能性があり、飛鳥時代末から奈良時代、平安時代にかけて現在の境内を上回る規模を有していたとも考えられています。

 仁王門は、礎石・柱ともに古材が転用されており、西方に位置した金堂もしくは三重塔の部材であった可能性が残るようです。本堂に安置されている本尊・如意輪観音坐像は、高さ4.85mを測り、日本三大仏(銅像:東大寺 毘盧遮那仏、木像:長谷寺 十一面観世音菩薩、塑像:岡寺 如意輪観音坐像)に数えられますが、幾度か修復を受けており、本来は左足を踏み下げて坐る半跏像であったとする説や本堂は平安時代には八角堂であったとする説などもあるようです。

 義淵が龍を封じたとの伝承を持つ龍蓋池は、13世紀中頃までは本堂近くに迫る規模大を持ち、池畔では燃灯供養も行われていたようです。

 岡寺からの出土遺物として有名な鳳凰塼と天人塼は、一辺39cm・厚さ8cmを測り、建物の壁面や須弥壇等、基壇側面等を装飾したと考えられています。新羅の文様塼の影響を受けているのではないかと考えられていますが、直接の系譜は不明です。


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飛鳥周辺の山寺分布図 Ⅰ 山寺関連史料 関連年表 岡寺式軒瓦の分布 塼 仏
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塼仏の画像は、夏見廃寺展示館・泉南市古代史博物館・明日香村埋蔵文化財展示室に
掲載許可を頂いています。
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ページ作成 両槻会事務局 風人・もも

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