両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪
第27回定例会
嶋宮をめぐる諸問題
事務局作製事前散策用資料
項目
(文字は各項目にリンクしています。)
ウォーキングマップ
東橘遺跡
道の話
島庄遺跡西部地区
石舞台古墳
石舞台古墳北の石組溝
島庄遺跡第31次調査区
島庄遺跡第20次調査区
島庄遺跡北限の塀
方形池
南部地域の掘立柱建物群
石舞台古墳西の石組溝
飛鳥時代系図
蘇我氏系図
天智・天武天皇の皇子達
関連万葉集歌抜粋
島庄遺跡 遺構配置概略図
当日レポート
飛鳥咲読
両槻会
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ウォーキングルートマップ
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第27回定例会講演会前散策ルート
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東橘遺跡
遺跡は、橘寺東門から南東約200mに所在し、現状は、イチゴ栽培のビニールハウスが数棟建っています。
東橘遺跡付近(南から)
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検出された遺構は、中央の掘立柱建物(4間×3間 <桁行と梁行で寸法が違う> )に、東西それぞれに廊状の建物がとりついています。廊状の建物は、梁行1間で、桁行は7間以上が発掘調査により確認されています。
建物の方位(北で26度西偏)は、島庄遺跡で検出される7世紀中頃の遺構の方位と近似しており、同時代の遺構だと考えられています。また、柱穴掘形から出土した土器も年代に矛盾がなく、7世紀中頃には飛鳥川左岸にも大規模な施設が展開していた可能性が示されました。
建物は、中心的な建物が南に続くと考えられ、柱穴規模などから「ロ」の字や「コ」の字に廊状建物で囲まれた、庇つき正殿クラスの建物の存在が推測されています。
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道の話
飛鳥時代には、大和盆地を南北に走る3本の道がありました。その一つ「中ツ道」は、天香具山以南では確認されていませんが、その延長線は飛鳥を縦断し橘寺後方の丘陵(ミハ山)を指しています。中ツ道から続く道路は、飛鳥近郊では直進性を失うようですが、橘寺からは更に芋峠道へと繋がり、吉野へと向かう重要な幹線道路でありました。壬申の乱の序曲である大海人皇子の吉野行でも、この道が使われたと思われます。
また、治安3(1023)年、時の権力者であった藤原道長が、高野山参詣の道中に飛鳥を訪れているのですが、山田寺・飛鳥寺・橘寺と経由して吉野竜門寺に向かいます。
参考:
第7回定例会「道長が見た飛鳥」
東橘遺跡付近(正面奥は香久山)
道長一行は芋峠道へと進んだと思われますが、そのルートは事前散策で歩く東橘から玉藻橋へと続く飛鳥川左岸の道ではないかと考えました。根拠は、続き具合が良いといったところですが、東橘遺跡の北側には「道ノ下」、東側には「中道」という小字名が残っています。地名が何処まで遡る由来を持っているのかは定かではありませんが、古い時代から道路が存在していたことを裏付けるものではないかと思います。
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島庄遺跡西部地区
西部地区(2011年5月26日撮影)
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西部地区は、飛鳥川右岸に広がります。幾つかの調査区が設けられ、発掘調査が行われていますが、飛鳥時代の遺構はほとんど見つかっていません。しかし、何も無いということも情報の一つになります。建物が無いということは、水田であった可能性もあるからです。現状も水田が広がっていますので、1400年前と変わらない景観を留めているのかもしれません。
唯一検出されているのは、西部地区の北の端で、素掘溝と周辺を含めて再造成した後に造られた石組溝だけでした。
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石舞台古墳
石舞台は、通説では蘇我馬子の墓とされていますが、考古学的に証明されたわけではありません。
石舞台古墳は、一辺の長さが約50mの方墳で、周囲に空堀がめぐります。上部の封土は、おそらく江戸時代に失われていたようですが(江戸時代末に書かれた『西国三十三所名所図会』には、巨石が露出している様子が描かれる。)、墳丘は、三段もしくは二段に築成された方墳または上円下方墳とするのが有力なようです。
墳丘には、自然石の貼り石が施されており、現在でも南東部でその様子を見ることが出来ます。空堀は、幅5.9m~8.4mで、その外側に幅7.0mの外提があります。外提の一辺を復原すれば、約80mの規模となります。
石舞台古墳石室に家型石棺を安置
イメージ画像
石室は、巨石を組み上げた両袖式の横穴式石室になっており、規模は、全長約19.08m。玄室長は約7.57m、幅約3.48m、高さ約4.70mの巨大さです。
石組みは、奥壁は2段積み、側壁は3段積みで、天井は2石の巨大な石で覆われており、自然石または若干の加工が施されているものが使用されています。
床面は割石が敷き詰められており、壁に沿って三方に排水溝が設けられています。中央部にも暗渠が設けられ、羨道の排水溝を通じて外部に排水するようになっています。
羨道部は、天井石が失われています。全長は、約11.51m、幅約2.55m~2.60m、高さは約2.60mになり、壁面は一段の石で造られています。
石室内部には、出土している破片から家型石棺が安置されていたものと考えられていますが、下層古墳群の物である可能性もあり、断定は出来ないようです。
石舞台古墳北西隣接地古墳群
周辺部及び下層では、石舞台古墳が築造されるにあたって、それまでに在った数基の小古墳が破壊されています。
石舞台古墳北西部では、石舞台古墳と同時期に発掘調査が行われていますが、僅かに刳り抜き式の石棺底部だけが残っていたようです。
これらのことは、石舞台古墳被葬者の権力の強大さをうかがわせる資料だと思われます。
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石舞台古墳北の石組溝
石舞台古墳の北約60mの地点から、長さ4m、深さ1.2~1.3m、幅0.8~3.5mの石組溝が検出されています。溝は周囲を造成して掘られており、10~80cmの石を6~8段積み重ねて護岸にしています。護岸の石積みは、丁寧に組んだ北側の岸に比べ、南側は雑に積んであったそうです。
溝の北側は棚田状ですが、緩やかな傾斜で比較的平らな場所が広がっており、建物など何らかの施設が存在する可能性が指摘されています。
2008年3月撮影
写真提供:明日香しぐれさん
この溝は、谷筋の水を西方向に流すためのもののようですが、7世紀を通じて利用されていたようです。
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島庄遺跡第31次調査区 -石舞台古墳東側隣接地-
現況(2011年7月9日撮影)
石舞台古墳の東の丘陵にある棚田で調査が行われ、細長い調査区になっています。第1調査区の大型柱穴の大きさは、一辺1.8m、深さ1.8m、径30cmで、第2調査区のものは一辺1.6m、深さ1.5m、径30cmを測ります。また、第2調査区には柱列がありますが、柱間の相違から複数の建物に復元できる可能性があるようです。柱穴列の北側に接して砂利敷きが検出されており、柱穴列と関連するものだと思われます。砂利敷き部分からは、7世紀前半の土器が出土しており、土器が示す年代は石舞台古墳の築造時期と合致しています。
柱穴列 と 大柱穴
現地説明会時撮影
大型柱穴の存在は、高い柱が立てられていたことを推測させます。『日本書紀』推古天皇28(620)年条に、「欽明天皇を葬った桧隈陵の周囲に土を積み上げて山を造り、氏ごとに大柱を立てさせた」という記述がありますが、石舞台古墳でも同様の事が行われ、その大柱の跡と考えることが出来ます。
石舞台東丘遺構模式図
また、『日本書紀』舒明天皇即位前紀(628年)には、「蘇我氏の一族がことごとく集まり、嶋大臣(馬子)の墓を造るため、墓の地に泊まっていた」という記事があることから、柱列や砂利敷きはそれに関連する施設ではないかという推測がなされました。
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島庄遺跡第20次調査区 北部地区小池など
この調査区からは、祭祀に関連すると思われる遺構が検出されています。方形の石組みで造られた小池は、長さ2.3m、幅70cm、深さ30cmの小さなもので、横長の板石を一段置いて、底には礫を敷き詰めていました。
小池・掘立柱建物模式図(Ⅲ期)
また、その小池を囲むように素掘りの溝が巡っており、池の溢れた水を北西に流しています。この池からは、土馬が出土しており、何らかの祭祀が行われた可能性が高いと考えられます。
池に沿って人工の川が造られていました。池の方位と合っていることなどから、関連した施設である可能性が指摘されています。水源として木樋で水を小池に入れていたのでしょうか。
池や川と同時期の遺構としては、掘立柱建物一棟が確認されています。
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島庄遺跡北限の塀
調査時の現地 明日香村上居より撮影
南東(下)から北西(上)に伸びる柱穴列
2006年3月8日撮影
唯称寺川の直ぐ南からは、掘立柱塀や石組溝が検出されています。塀は二つあり、南西方向から北東方向の3間分と、南東方向から北西方向に伸びる4間分が確認されています。塀のすぐ北側に川と丘陵があるため、遺跡の北端にあたると判断されたようです。
島庄遺跡の南端は、南部地域の建物群の南60m付近とみられ、また周辺の地形から東西は約250mと推定されることから、島庄遺跡は6ha以上の規模であったことが分かりました。
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方形池
畦に残る方形池の痕跡
一辺約42mの隅を丸くした正方形の池で、深さは約2m、池底には敷石が施され、石積みの護岸を備えています。周囲には、幅10mの外提を伴い、東岸では北で西に30度振れる方位を示しますが、各辺によって若干の方位のばらつきがあるとのことです。
池底の敷石は、川原石(20cm~30cm)が用いられ、池中央に向かって30cm~55cmの高低差がつけられています。また、石敷の東南の隅では、井戸が検出されており、湧水を確保するための物だと考えられるようです。
外提は、東南隅を中心に約63mが検出されており、盛土により構築され、石積みが施されていたようです。上部は削平されていて不明ですが、残存部分で約80cmの高さが確認されています。
池の北辺からは、外提に直交する木樋が検出されており、長さ7.5m、幅55cmで、板状の蓋と凹形の身からなっています。池の水を排水するための施設だと考えられるようですが、時期の詳細は不明とのことです。
また、外提上及び外側で柵と考えられる柱穴列が検出されています。
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南部地域の掘立柱建物群
現況(2011年5月26日撮影)
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方形池の南から、多数の掘立柱建物が重複して検出されています。建物の方位は5つのグループに分けることが出来るようで、大型の建物に小型の建物数棟と塀がセットになる傾向があるようです。(遺構配置概略図を参照してください)
これらの建物群は、7世紀を通して密集して建てられており、この地域の中心であったことが推測されます。また、「嶋家」や「嶋宮」との関連も大いに注目されるところです。
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石舞台古墳西の石組溝
石舞台古墳の南西隅を迂回して北西に延びる石組溝があります。この溝は、第20次調査の小池や人口の川の方向を指しています。また、南東方向は確認されていませんが、おそらく冬野川を水源とするのではないかと思われます。また、Ⅲ期には、この溝に並行する方位を持った塀跡が3条検出されています。
跡地付近現況(2011年7月9日撮影)
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飛鳥時代系図
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蘇我氏系図
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天智・天武天皇の皇子達
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関連万葉集歌 抜粋
日並皇子尊の殯宮の時に、柿本人朝臣麻呂が作る歌一首
02-0167
天地の 初めの時 ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神分り 分りし時に 天照らす 日女の命 [一云 さしのぼる 日女の命] 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき別きて [一云 天雲の八重雲別きて] 神下し いませまつりし 高照らす 日の御子は 飛ぶ鳥の 清御原の宮に 神ながら 太敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩戸を開き 神上り 上りいましぬ [一云 神登り いましにしかば] 我が大君 皇子の命の 天の下 知らしめしせば 春花の 貴くあらむと 望月の 満しけむと 天の下 食す国 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさぬ 日月の 数多くなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 ゆくへ知らずも
反歌二首
02-0168 ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
02-0169 あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
或る本の歌一首
02-0170 嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
皇子尊の宮の舎人等、慟傷しびて作る歌二十三首
02-0171 高照らす我が日の御子の万代に国知らさまし嶋の宮はも
02-0172 嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも
02-0173 高照らす我が日の御子のいましせば島の御門は荒れずあらましを
02-0174 外に見し真弓の岡も君座せば常つ御門と侍宿するかも
02-0175 夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ桧の隈廻を
02-0176 天地とともに終へむと思ひつつ仕へまつりし心違ひぬ
02-0177 朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ我が泣く涙やむ時もなし
02-0178 み立たしの島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる
02-0179 橘の嶋の宮には飽かぬかも佐田の岡辺に侍宿しに行く
02-0180 み立たしの島をも家と棲む鳥も荒びな行きそ年かはるまで
02-0181 み立たしの島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
02-0182 鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね
02-0183 我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも
02-0184 東のたぎの御門に侍へど昨日も今日も召す言もなし
02-0185 水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも
02-0186 一日には千たび参りし東の大き御門を入りかてぬかも
02-0187 つれもなき佐田の岡辺に帰り居ば島の御階に誰れか住まはむ
02-0188 朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの島に下り居て嘆きつるかも
02-0189 朝日照る嶋の御門におほほしく人音もせねばまうら悲しも
02-0190 真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも
02-0191 けころもを時かたまけて出でましし宇陀の大野は思ほえむかも
02-0192 朝日照る佐田の岡辺に泣く鳥の夜哭きかへらふこの年ころを
03-0193 畑子らが夜昼といはず行く道を我れはことごと宮道にぞする
07-1260 時ならぬ斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども
10-1965 思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずと
07-1315 橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣
13-3223
かむとけの 日香空の 九月の しぐれの降れば 雁がねも いまだ来鳴かぬ 神なびの 清き御田屋の 垣つ田の 池の堤の 百足らず 斎槻の枝に 瑞枝さす 秋の黄葉 まき持てる 小鈴もゆらに 手弱女に 我れはあれども 引き攀ぢて 枝もとををに ふさ手折り 我は持ちて行く 君がかざしに
13-3230
みてぐらを 奈良より出でて 水蓼 穂積に至り 鳥網張る 坂手を過ぎ 石走る 神なび山に 朝宮に 仕へ奉りて 吉野へと 入ります見れば いにしへ思ほゆ
13-3231 月は日は変らひぬとも久に経る三諸の山の離宮ところ
或本の歌に曰く、古き都の離宮ところ
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島庄遺跡 遺構配置概略図
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東橘遺跡
道の話
島庄遺跡西部地区
石舞台古墳
石舞台古墳北の石組溝
島庄遺跡第31次調査区
島庄遺跡第20次調査区
島庄遺跡北限の塀
方形池
南部地域の掘立柱建物群
石舞台古墳西の石組溝
飛鳥時代系図
蘇我氏系図
天智・天武天皇の皇子達
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