両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第35回定例会


片岡山辺をあるく





事務局作製資料

作製:両槻会事務局
2012年11月3日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
散策ルート 西安寺跡 達磨寺 達磨寺古墳群
片岡王寺跡 薬井・瀧ノ北遺跡 尼寺廃寺跡 下牧瓦窯跡
平野窯跡群 平野古墳群 平野塚穴山古墳 平野1・2号墳
久渡2号墳 牧野古墳 三吉3号墳 巣山古墳
ナガレ山古墳 寺戸廃寺 敏達王家関連系図 関連史料
牧野古墳・赤坂天王山古墳 比較表 「片岡」「木上」に関わる『長屋王家木簡』
関連万葉集 関連用語一覧 関連用語図解 史跡マップ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

散策ルート


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西安寺跡(久度寺)・王寺町舟戸

 聖徳太子創建46ヶ寺に数えられ、仁安3(1168)年の 『大和国大原吉宗田地売券』にみえる「広瀬郡久戸十条寺岡一里四十五坪西安寺」が現在の舟戸神社の所在地にあたることから、大和川の南約200mにある舟戸神社周辺に西安寺があったことは、ほぼ間違いないとされています。


舟戸神社付近の小字名

 また、付近には「西安寺」の小字をはじめ、西側に道があったことを想起させる「馬場ノ脇」「門ノ脇」などの小字が残ることから、道に面した西向きの伽藍配置が推定されます。以前は、礎石なども見られたそうですが、現在確認することはできません。

 『類聚国史』の仏道部 天長10(833)年閏7月29日条に「太政官処分、在大和国広湍郡西安寺 俗号久度 宜 令僧網摂之」とあり、西安寺は久度寺とも呼ばれていたことがわかります。

 西安寺の北西約1.5kmには、久度神社(王寺町)があり、「クド」は竈に通じることから渡来系のカマド神を祀った人々が近隣に居住していたことをあらわしているとされます。

 また、先にあげた『大和国大原吉宗田地売券』には、この地は大原吉宗が先祖代々受け継いだものだと記されています。大原を名乗る氏族は、敏達天皇の後裔とされる大原真人氏や百済の王族の後裔とされる大原史氏などがあげられるようですが、西安寺をこれらカマド神を奉じた渡来系氏族に関係する寺院とすれば、大原吉宗の祖先は、大原史氏であった可能性が考えられるようです。


忍冬葉単弁蓮華文軒丸瓦

単弁十六葉蓮華文軒丸瓦(単弁・片岡王寺式)
帝塚山大学附属博物館 収蔵品

 西安寺の所用瓦には、忍冬葉(にんどうよう)単弁蓮華文軒丸瓦という蓮弁(花びら)とパルメット(葉)を交互に配した特異な文様の軒丸瓦があります。これは、約300kmも離れた神奈川県の相模・宗元寺と同笵です。


参考:川原寺式軒丸瓦
泉南市埋蔵文化財センター 収蔵品

ほかには、中房内に三重の蓮子・蓮子の周環、傾斜縁上に鋸歯文を持つなど川原寺式軒丸瓦の特徴を受け継いだ単弁形式の瓦も使用されています。これは、8世紀に主に片岡地域で用いられた単弁蓮華文軒丸瓦(単弁・片岡王寺式)の祖形となった可能性があるそうです。これらの瓦から西安寺は、7世紀中頃には既に造営が開始されていたと考えられています。
西安寺は、片岡王寺や尼寺廃寺と同笵・同系の瓦を持つことから、同じ  広瀬地域の寺院よりも、片岡地域の寺院と強いつながりが感じられます。反面、片岡地域の他の寺院のように、宮など官との同笵関係は見られないようです。


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達磨寺・王寺町本町


 山号を「片岡山」といい、現在は臨済宗南禅寺派の寺院になります。
 『日本書紀』や『日本霊異記』などにみえる聖徳太子の片岡飢人伝説を創建由緒に持ちます。由緒では、太子が片岡で出会った飢人は達磨大師の化身であり、その墓を達磨墓と呼んだのが起源であるとしています。これは、奈良時代の太子信仰を土壌とし、片岡飢人伝説の飢人と類似する故事を持つ達磨大師とが結びついて生まれたものだと考えられているようです。

 寺院としては、13世紀前半、勝月房慶政が達磨太師の墓であると伝えられていた墳墓上に三重塔を建立し、聖徳太子像や達磨像を安置して達磨寺を開基したとされます。1277年(建治3年)に院恵・院道により、現在の木造聖徳太子坐像(重要文化財)が作られます。その後、東大寺や興福寺などによる焼討ち・破壊に遭い荒廃するも、永享年間(1429~1441)には室町幕府の保護で大規模な復興がなされます。戦国時代には、松永久秀による兵火が原因で衰退しますが、天正5(1577)年に正親町天皇より再興の綸旨が下され、慶長7(1602)年には、徳川家康より寺領30石と境内竹林を寄付することを記した「徳川家康朱印状」が与えられ、慶長10(1605)年には、豊臣秀頼により本堂が改修されるなど、幾度もの荒廃・復興を繰り返し現在に至ります。

 2002年の橿原考古学研究所による発掘調査で、現本堂に先行すると思われる基壇盛土が検出されています。その位置や規模などから、平安時代に築かれた土塔の盛土であった可能性が考えられるようです。また、現本堂の基壇上面から、2期に分かれる礎石建ち建物跡が検出され、それぞれ15世紀前半と17世紀前半の再建時のものだと推定されています。

 この建物跡の内側で近世以前の礎石列と並ばない板石が一枚発見され、その下から一辺約50cm・深さ約80cmの小石室が発見されました。小石室は、上部を花崗岩の自然石乱積み、下部を平瓦で構築し、中には小石塔が納入されていました。小石塔は、幅約31.5cm・総高約73.5cmで、二上山周辺産出の流紋岩質凝灰角礫岩製の笠部・塔身部・基礎部の3部材からなり、立方体の塔身部に彫り込まれた方形の孔に土製の合子が納められていました。

 合子は、最大径9.0cm・高さ7.5cmで、中に水晶製五輪塔形舎利容器が1点納められていました。五輪塔形舎利容器は、幅約1cm・高さ約2.5cm・重さ約4.4gで、「地輪・水輪・火輪」と「風輪・空輪」の2部材からなり、火輪上部から水輪にかけて舎利孔が穿たれ、風輪の下部に作り出されたほぞが栓の役目を果たします。舎利孔の中には、ハート型の水晶製舎利(幅約2.8mm・厚さ約1.3mm)が入れられていました。この遺構の年代は、石室に用いられた瓦や石塔などから14世紀前半と考えられるようです。
 参考:達磨寺石塔埋納遺構(橿原考古学研究所 現地見学会資料)


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達磨寺古墳群

 達磨寺の境内には3基の古墳があり、達磨寺古墳群と呼ばれています。


達磨寺境内案内図より

 本堂の東北隅にある達磨寺1号墳は、直径約16m・高さ3m以上の円墳に復元できるようです。東に開口する自然石を積上げた両袖式の横穴式石室で、全長は約5.8mになります。玄室からは組合式石棺の破片・鉄鏃・ガラス玉・ガラス管玉・須恵器などが出土し、石室の形式や出土遺物から6世紀後半に築造されたと考えられるようです。
 南に開口している2号墳は、径16mの円墳で横穴式石室を持つ後期古墳と推定されています。


達磨寺1号墳

達磨寺2号墳

 達磨寺3号墳は、達磨寺本堂下にあります。直径約15mの円墳で、6世紀後半に築造されたと考えられています。また、7世紀から8世紀に掛けて開削されたと思われる長径16mの隅丸方形の周溝が検出されています。




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片岡王寺跡(放光寺) ・王寺町本町

 別名を放光寺と言い、西安寺跡の南西約1km、現在の王寺小学校付近にあったとされ、王寺という地名の由来に関わる古代寺院だとされています。明治20年頃までは基壇跡や礎石が残り、付近に「塔屋敷」「金堂屋」と呼ばれる芝地も残っていたことから、南から塔・金堂・講堂を配する四天王寺式伽藍配置が想定されています。


片岡王寺遺構概略図

 正安4(1302)年に僧・蕃盛が記した『放光寺古今縁起』には、塔・金堂・講堂の他にも、回廊・門・経蔵・鐘楼・僧坊・倉などの建物があり、永承元(1046)年に、落雷によって金堂・回廊・東中門・南大門が焼失したとあることから、主要伽藍はもとより寺院経営に必要な各種建物を備えるに相応しい広い寺域を持っていたと考えられます。

 2004年度から橿原考古学研究所によって行われた発掘調査で、東側の国道168号線付近から、中心伽藍を囲む北面の塀とそれに伴う石組の雨落溝、同じく東面の塀に伴うと思われる雨落溝と推定される石組溝などの遺構が検出されています。
 石組の雨落溝から、片岡王寺式を含む大量の瓦が出土したことにより、掘立柱塀は瓦葺きで奈良時代に整備されたと推定されています。また、北面塀より北でも古代の掘立柱塀跡や掘立柱建物跡が確認され、この付近まで片岡王寺に属する施設が存在したと推定されています。

 『放光寺古今縁起』には、敏達天皇第三王女である片岡姫によるものだと記されています。しかし、敏達天皇に該当する王女の記録はなく、この「片岡姫」を聖徳太子の子(山背大兄の妹)にあて、上宮王家に関わる寺院だとする説があります。また、法隆寺に残る「観音像銅板造像記」の「鵤大寺徳聡法師、片岡王寺令弁法師、飛鳥寺弁聡法師」と記された寺院の中で、この「片岡王寺」だけ造営者が不明だということ、銅板に記された3人の僧が「百済の王族の後裔で大原博士」の一族だと記されていることから、「大原史氏」を片岡王寺の造営氏族だとする説などがあります。

 史料には、「片岡王寺」のほかに「片岡寺」「片岡僧寺」などの寺名が登場します。片岡地域の寺院創建に関しては、これらの史料の読み取り方で様々な説があるようです。

単弁・片岡王寺式(西安寺出土品)
帝塚山大学附属博物館 収蔵品

 片岡王寺には、片岡王寺式と呼ばれる独特の風貌を持つこの地域で顕著にみられる2種類の瓦当文様があります。(どちらか一方だけが「片岡王寺式」と言われる場合が多いですが、本資料では、「素弁・片岡王寺式」「単弁・片岡王寺式」と双方を呼び分けたいと思います。)

 素弁・片岡王寺式は7世紀初頭に用いられた文様で、中房周囲に溝という新羅系瓦当の特徴を持ちます。同じ頃に、斑鳩寺で補足瓦として用いられた瓦も同様の特徴を持つことから、片岡王寺の造営氏族と上宮王家との繋がりを想定することも可能かもしれません。一方、単弁・片岡王寺式は7世紀後半以降にこの地域で採用された文様になります。

 この他、片岡王寺では平城宮式・興福寺式など、官との関わりが考えられる瓦が多く使用されています。特に平城宮大極殿所用の鬼瓦との同笵品が出土していることは、奈良時代における朝廷と片岡王寺の関係を考えるうえで重要な役割を果たすと考えられます。

 参考:片岡王寺 記者発表資料(橿原考古学研究所)



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薬井・瀧ノ北遺跡(香滝・薬井遺跡 薬井瓦窯跡) ・王寺町畠田 河合町薬井

 北葛城郡の王寺町畠田から河合町薬井一帯に広がる遺跡です。発掘調査により、土坑・溝・掘立柱建物跡・杭列・灰原と多数の瓦片が検出され、周辺に複数の瓦窯とそれに伴う建物があったと推定されています。出土した瓦は、奈良時代に長屋王邸や関連する寺院に用いられた瓦と同じものが多くありました。

 周辺は、長屋王家の「片岡御薗」があったとされる地域で、薬草や瓦等の建築資材や生活用品の生産・製造所としての役割があったのではないかと考えられています。




尼寺廃寺跡 (尼寺北廃寺・尼寺南廃寺) ・香芝市尼寺

 南北に約200mの距離をおいて、北廃寺・南廃寺の2つの遺跡が存在します。


 北廃寺は、香塔寺(王寺町畠田)の東側にあたります。発掘調査により、金堂・塔・回廊、また東面築地のほぼ中央から門が検出されたため東面する法隆寺式伽藍配置であったとされています。寺域は、南北110m以上・東西約80mと推定されています。

 1995年度に、添柱孔(てんちゅうこう)を持った約3.8m四方の巨大な塔心礎と古墳の副葬品を思わせる荘厳具が出土しました。心礎に彫り込まれた柱座の底に約5cmの厚さで炭が敷き詰められ、その中から金銅製耳環12点、水晶玉4点、ガラス玉3点、刀子1点が出土しました。
(参考:尼寺廃寺塔跡舎利荘厳具/香芝市)

心礎の規模(m) 添柱孔 心礎位置
尼寺北廃寺 3.8×3.8 半地下
久米寺 3.9×2.9 地上
西琳寺 3.2×2.6 不明
野中寺 3.4×2.1 地上
若草伽藍 2.7×2.4 地上
飛鳥寺 2.6×2.4 地下
橘寺 2.8×1.9 地下

尼寺北廃寺 塔基壇平面模式図

 添柱孔を持つ塔心礎は、橘寺・若草伽藍などにもみられますが、尼寺北廃寺のように、半地下式で荘厳具を伴うものは、他に見られないようです。


 南廃寺は、般若院(香芝市尼寺)周辺にあったとされます。般若院周辺や東にある薬師堂あたりに礎石や土壇が残り古瓦が散見されたことから、古くから寺跡とされていたようです。発掘調査により、金堂跡と塔跡と思われる遺構の一部が検出され、南面する法隆寺式伽藍配置であったと推定されています。


尼寺南廃寺 遺構概略図

 北廃寺・南廃寺からは坂田寺との同笵瓦、また北廃寺では四天王寺、南廃寺では斑鳩寺との同笵瓦が確認されています。これらは7世紀前半から中頃の瓦になります。両廃寺で確認された坂田寺との同笵瓦は、笵傷から南廃寺の金堂で先行して用いられた後、北廃寺の塔造営に使用されたと考えられています。その後、北廃寺では川原寺式を用いて金堂が、南廃寺では単弁・片岡王寺式が用いられて塔が造営されたと推定されています。


尼寺北廃寺出土 単弁蓮華文軒丸瓦
坂田寺(6A)同笵瓦
帝塚山大学附属博物館 収蔵品

 尼寺両廃寺は、7世紀中頃には既に造営が着手されていたと考えられます。これらの瓦を見る限り、尼寺両廃寺は、片岡地域の他の寺院より飛鳥や斑鳩と言った早期に寺院造営を開始できた地域との関係が深いと考えられます。

 北廃寺は、古くは聖徳太子建立の葛木尼寺にあてる説もありましたが、上記の出土瓦の状況に加えて、造営時に使用された基準尺が7世紀中頃以降に採用された唐尺であることから、聖徳太子創建とするには時代にズレがあると考えられます。また、他の片岡地域の寺院同様、百済系の渡来人説や敏達天皇に連なる王族説、片岡王寺(片岡僧寺)に対する尼寺説など、造営氏族に関しては諸説あります。

 南廃寺は、般若院にある毘沙門天像に「華厳山般若院片岡尼寺」と墨書きが残ることから「片岡尼寺」と呼ばれていたと考えられます。現在の地名「尼寺」もこれに因むと考えられるようです。

 平安末期の『七大寺巡礼私記』にある「件般若寺号亦片岡寺」の記載や、飛鳥池遺跡出土木簡に残る「波若寺(般若寺)」の文字などから、北廃寺を片岡寺(般若寺)、南廃寺を片岡尼寺(般若尼寺)であるとする説がほぼ通説となっています。しかし、約200mの至近距離での二寺並立はありえないとして、両廃寺を合わせて一寺院とする説もあるようです。


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下牧瓦窯跡・上牧町下牧

 奈良時代初め頃の瓦窯跡になります。
 出土した瓦片の中に、長屋王邸や青木廃寺で使用されたものと同じ瓦があり、北約1.5kmにある薬井・瀧ノ北遺跡と同様に長屋王家に関わる瓦窯であったと考えられます。

 また、奈良時代から平安時代にかけての『弘福寺文書』や『弘福寺牒』などに、広瀬郡にある川原寺所用の瓦窯の四至として「御立路」「成相」など下牧瓦窯周辺の地名がみえることから、下牧瓦窯が川原寺の瓦窯のひとつであった可能性も考えられるようです。




平野窯跡群・香芝市白鳳台

 尼寺廃寺の南約750mの尾根上の北斜面にある須恵器窯4基と瓦窯1基の合計5基からなる窯跡群になります。須恵器窯は、6世紀代後半に操業していたと推定されています。瓦窯である平野5号窯は、尼寺南廃寺のすぐ南方に位置することから、尼寺廃寺の瓦窯であったと考えられています。


1~4)須恵器窯跡 5)瓦窯跡 6)1号墳 7)2号墳 8)4号墳
9)3号墳 10)平野塚穴山古墳 11)消滅古墳(岩屋)

史跡案内板に11消滅古墳を加筆




平野古墳群

 平野窯跡群と同じ尾根の南側に約6基の古墳からなる古墳群で、7世紀代に横穴式石室から横口式石槨へ変遷・変質していく過程を辿れる貴重な古墳群だとされています。古墳群中央部の 3・4号墳は、現在消滅しています。また、江戸時代後期絵図に「岩屋」と書かれた石室状の構築物が、平野塚穴山古墳の南に記録されていることから、付近には古墳が存在したと推定されています。現在は1号墳(平野車塚古墳)・2号墳と西端の平野塚穴山古墳が残っています。

 『延喜式』によると、片岡・広瀬地域には、孝霊天皇・顕宗天皇・武烈天皇・押坂彦人大兄皇子・茅渟王・高市皇子の陵墓があるとされています。江戸時代末期の『御陵之絵図』には、4基の古墳が描かれており、それら絵図や古文書から、江戸時代には平野塚穴山古墳が顕宗天皇陵に、平野3・4号墳が武烈天皇陵に治定され、平野1・2号墳は御廟所として陵墓に準じる扱いを受けていたことがわかります。
(参考:平野古墳群関係文書/香芝市)



平野塚穴山古墳

 平野古墳群の中で一番西に位置し、一辺約21m・高さ約4mの方墳と推定されています。凝灰岩切石による横口式石槨で、南に開口しています。石槨の構造に百済陵山里古墳群との類似がみられることから、百済系の技術が導入されたと考えられています。


 江戸時代は、顕宗天皇陵(片岡磐杯丘南陵)に治定されていましたが、山陵図などでは既に開口している様子が描かれており、早くに盗掘を受けていたと思われます。石室内からは、夾紵棺や漆塗籠棺の破片に耳環1点・中空玉1点・絹製品・歯牙・銅製品の破片11点が検出されています。


史跡案内板より

 内部は、高さ約1.76mで、玄室(長さ約3.5m・幅約1.5m)と羨道(長さ約0.8m・幅約1.5m)に分かれ、その間に玄門(長さ約0.5m・幅約1.2m)が造りだされています。玄室の床は21枚の小形の切石が敷かれています。石槨は、内面が丁寧に磨き上げられた切石を用いて、奥壁1枚・側壁各2枚・天井石2枚で構成されています。


 築造時期は、横口式石槨であることや墳丘より7世紀中頃過ぎの須恵器が出土していることなどから、7世紀後半頃に推定されるようです。また、野口王墓古墳(天武・持統陵)・牽牛子塚古墳(斉明天皇陵?)などに見られる夾紵棺が納められていたと推定できることから、高貴な人物が埋葬された古墳であったと考えられるようです。

 現在は、周辺に葦田(芦田)の地名が確認できることなどから、茅渟王の片岡葦田墓とする説が通説となっているようですが、先にあげた百済陵山里古墳群との類似性から百済系渡来人の王族クラスの墳墓だとする説、尼寺廃寺と至近距離にあるためその造営者の墳墓であるとする説などもあります。



平野1号墳(平野車塚古墳)

 平野古墳群の東端に位置し、平野車塚古墳とも呼ばれます。南に開口する両袖式の横穴式石室で、径約26mの円墳と推定されています。
 石室は全長約9.2m、玄室は幅2.8m・長さ約3.5mを測るとされます。石室には、切石ではないものの面の整った花崗岩の巨石で構築されています。7世紀前半頃に築造されたと考えられています。


平野2号墳

 直径約26m・高さ約6.5mの円墳と推定されています。南東に開口する全長約10mの両袖式の横穴式石室になります。内部は、玄室長約3.8m・幅約2.5m・高さ約2.2mで、玄室床面全体に二上山産の凝灰岩切石を敷き詰め、中央には土と凝灰岩で造られた棺台の基礎が設けられていました。羨道部は幅約2m・高さ約1.6m(約6.8m分残存)で、床には厚さ約10cmにわたり小礫が敷き詰められていました。盗掘により遺物は殆どありませんが、棺の外容器と考えられる土師質の受台と塼が出土しています。築造年代は7世紀中頃と推定され、横穴式石室から横口式石槨への過渡期の状況をしめす古墳として重要な位置を占めるとされています。(参考:平野2号墳棺台/香芝市)



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久渡2号墳(久渡古墳群) ・上牧町上牧

 平成23年から行なわれた現地踏査や航空測量調査の結果、久渡古墳(久渡1号墳)の周辺で新たに発見された3基のうちの1基になります。久渡2号墳は、丘陵南側で発見された直径約16mの円墳で、墳丘の背後に東西約30m・高さ約3mの背面カットを有し、凝灰岩片が採取されたことから終末期古墳と推定されています。これを受けて『延喜式』に「大和国広瀬郡にあり」とされる高市皇子の三立岡墓とする説が出ています。「三立岡墓」は、その名から広陵町三吉の小字「見立山」付近に推定地を持ちますが、該当する古墳は今日まで発見されていません。




牧野(ばくや)古墳 ・広陵町馬見北


史跡案内板より

 馬見丘陵の西端にある直径約60m・高さ約13mの三段築成の円墳になります。墳丘二段目で南に開口する大型の両袖式の横穴式石室です。玄室は長さ約6.7m・幅約3.3m・高さ約4.5m、羨道は長さ約10.4m・幅約1.8mで、全長約17.1mを測ります。玄室内には刳抜式と組合式の家型石棺が2基納められていたと考えられています。大部分が破壊されていましたが、奥壁付近に安置されていた刳抜式石棺は長さ約2.1m、前方の組合式石棺は長さ約2.6mに復元できるようです。
(参考: 牧野古墳・赤坂天王山古墳 比較表

 副葬品は、金環や金銅製山梔玉・ガラス小玉・粟玉などの玉類と、木心鉄地金銅張の壺鐙(つぼあぶみ)・縁金具のある障泥(あおり)・雲珠(うず)・心葉形鏡板・杏葉などの馬具類が二組分、銀装大刀や400本近い鉄鏃などが出土しています。また、羨道では木心金銅張容器や須恵器が58点出土しています。

 築造年代は、石室や石棺の形態・出土遺物などから、6世紀後半から末頃だとされ、『延喜式』に「大和国広瀬郡にあり」と書かれた押坂彦人大兄皇子の「成相墓(ならいのはか)」である可能性が高いとされています。



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三吉(みつよし)3号墳 ・広陵町三吉

 巣山古墳の西側にある一辺約12mの方墳になります。埴輪円筒棺を埋葬主体に持ち、5世紀後半に築造されたと推定されています。

 古墳の周濠より、古墳時代から飛鳥時代の遺物とともに7世紀前半代のものと思われる軒丸瓦が出土しています。径約14cmと小ぶりでポッテリとした文様は、飛鳥の花組・星組とは別系統の百済直系のものと考えられます。巣山古墳の西側付近一帯からも同時期の瓦が出土することから、周辺に小さな寺院や窯の存在が推定されています。




巣山古墳 ・広陵町三吉

 馬見丘陵の中央部に位置する北向きの三段築成の大型前方後円墳です。墳丘は全長約220m、後円部径約130m・高さ約19m、前方部幅約112m・高さ約16.5mを測ります。前方部西側から周濠に張り出す出島状遺構(南北16m・東西12m)と広大な外堤を持ちます。埋葬施設は後円部中央に竪穴式石室2基と前方部に小石室が造られています。築造は、4世紀末から5世紀初め頃と推定されています。

 多数の埴輪(円筒・鰭付・朝顔・家・囲・柵・蓋・壺・盾・水鳥)や勾玉・管玉・棗玉などの玉類、鍬形石・車輪石・石釧などの石製品、滑石製の刀子や斧、靫形・鋤形木製品、被葬者の遺体を運んだと推定される木製の喪船(復元長約8m)が見つかっています。

 また、前方部の周濠外部で古墳と思われる土壇(縦約20m・横約45m)から国内最大級の船形埴輪(復元長約1.4m・約高さ50cm)と鉄剣などを副葬品に持つ埴輪円筒棺が出土しています。巣山古墳の被葬者に従属する人物の墓であると推定されています。



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ナガレ山古墳 ・河合町佐味田

 馬見丘陵の東に位置する南向きの二段築成の前方後円墳です。全長は約105m、後円部径約65m・前方部幅約70mを測ります。築造は、5世紀前半頃と推定されています。 


 1975年の調査で、後円部東側の墳丘裾に、円筒埴輪列(27本分)が検出されました。埴輪列は、径約30cmの円筒埴輪約10本毎に径50cmほどの大形形象埴輪が配置されていたと推定されています。東側のくびれ部から前方部よりに斜面を直線に登る通路状遺構(幅約2.5m)と刀子形・斧形・紡錘車形などの滑石製模造品・勾玉・臼玉などが検出されています。また、墳丘裾部には葺石がみられ、埴輪列の外方約1.5mの位置に、板状安山岩を2〜3段重ねて基底としています。くびれ部には埴輪により区切られた方形区画が発見され、埴輪の配置から1辺10mほどの規模と推定されています。

 また前方部の南端上面から粘土槨が検出され、 棺外から刀形・鋤先形・鎌形の鉄製品や食物供献に関わる土製品などが出土しています。




寺戸廃寺(広瀬寺) ・広陵町寺戸

 馬見丘陵の東側に飛鳥時代から平安時代にかけての集落跡(寺戸遺跡)があり、瓦の散布が数箇所にわたってみられることから付近に寺跡があると考えられています。また、瓦とともに炭層や焼土の痕跡もあり、瓦窯の可能性も考えられるようです。

 延久2(1114)年の『興福寺大和国雑役免坪付帳』の記載によると、広瀬町寺戸付近には「広瀬寺」と呼ばれる寺があり、天平19(747)年の『正倉院文書』に「広瀬寺」の名がみえることから、広瀬寺は奈良時代まで遡ると考えられます。これに該当する寺院跡が寺戸廃寺以外にないことから、寺戸廃寺が記録に残る広瀬寺である可能性が高いとされています。

 寺戸廃寺からは、素弁蓮華文軒丸瓦(船橋廃寺式)や鴟尾片、単弁蓮華文軒丸瓦(西琳寺式)、唐草文軒平瓦などが出土しています。素弁蓮華文軒丸瓦(船橋廃寺式)は7世紀前半代にあてはまり、河内の西琳寺(羽曳野市)の瓦と製作技法などが類似しています。単弁蓮華文軒丸瓦(西琳寺式)は奈良時代のもので、西琳寺の単弁蓮華文軒丸瓦を祖形とし、太子町の妙見寺や萬法蔵院と同笵だと推定されています。これらの出土瓦から、寺戸廃寺は近隣の広瀬・片岡地域よりも、南河内と密接な繋がりを持っていたと考えられ、その創建は7世紀前半と推定されています。

 創建に関しての詳細は不明ですが、奈良時代に広瀬郷に居住していた記録のある栗前氏とみる説、この栗前氏を養育氏族に持つと考えられる栗前王(敏達天皇の孫・難波皇子の子)とみる説、また、広瀬の地名から広瀬王(敏達天皇の孫・春日皇子の子)などが候補にあがるようです。



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敏達王家関連系図





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関連史料

『放光寺古今縁起』   正安4(1302)年 僧 蕃盛著
銘寺生起大功皇矣。 磐余彦尊治國以降継躰承基三十一世太玉敷皇生多皇子。所謂王子六人姫宮九人。第三姫宮葛木下郡片岡中山擇地造営。名片岡宮號片岡姫。・・・(中略)・・・故本尊名放光佛寺號放光寺。

『上宮聖徳法王帝説』    奈良時代初期
 又聖王、娶蘇我馬古叔尼大臣女子、名刀自古郎女生児山代大兄。此王有賢尊之心棄身命而愛人民也。後人与父聖王相濫非也。次財王。次日置王。次片岡女王。巳上四人。

『法隆寺伽藍縁起并流記資財帳』   天平19(747)年
  ・・・又戊午年四月十五日、請上宮聖徳法王、令講法華勝鬘等經岐、其儀如僧、諸王公主及臣連公民信受無不喜也、講説竟高座爾坐奉而、大御語止爲而、大臣乎(爾カ)香爐乎手 而誓願弖、事立爾白左久、七重寶毛非常也、人寶毛非常也、是以、遠岐須賣呂岐乃御地乎布施奉良久波、御世御世爾母不朽滅可有物止奈毛、播磨国佐西地五十万代布施奉、此地者、他人口入犯事波不在止白而、布施奉止白岐、是以聖徳法王受賜而、此物波 私可用物爾波非有止爲而、伊河留我本寺、中宮尼寺、片岡僧寺、此三寺分爲而入賜岐、伊河留我寺地乎波、功徳分食分衣分寺主分四分爲而、誓願賜波久、功徳分地乎持者、在坐御世御世・・・

飛鳥藤原第84次 飛鳥池遺跡北地区 出土木簡 
 (表)  軽寺 波若寺 涜尻寺 日置寺 春日部 矢口
      石上寺 立部 山本 平君 龍門 吉野
 (裏)  【『□〔耶ヵ〕○耶○耶○耶○〈〉』】

法隆寺蔵 『観音像銅板造像記』   持統8(694)年
(表)甲午年三月十八日鵤大寺徳聡法師片岡王寺令弁法師飛鳥寺弁聡法師三僧所生父 母報恩敬奉観世音菩薩像依此小善根令得无生法忍乃至六道四生衆生倶成正覚
(裏) 族大原博士百済在王此土王姓

般若院 毘沙門天像 墨書
 華厳山般若院
 片岡尼寺  開山
 皇太子勝鬘菩薩ナリ
(梵字) 毘沙門天
       皇太子作



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牧野古墳・赤坂天王山古墳 比較表

古墳名 牧野古墳 赤坂天王山古墳
墳  丘
墳丘形体 三段築成 円墳 三段築成 方墳
墳丘規模 径48~60m 高さ13m 東西45.5m 南北42.2m 高さ9.1m
埋葬施設 両袖式の横穴式石室 両袖式の横穴式石室
開口方向
築造年代
6世紀末から7世紀初頭 6世紀末から7世紀初頭
石  室
全長 17.1m 17m
玄室長 左側壁6.73m 右側壁6.7m 6.34m
奥壁幅 3.3m 約3m
玄門幅 3.2m
高さ 4.5m 4.2m
羨  道
全長 左側壁10.24m 右側壁10.7m 約8.5m
玄門前1.8m 羨門前1.77m 約1.8m
高さ 約2m 約2m
玄室構造
壁面 持ち送り・石材間には粘土詰め 持ち送り・石材間には小石詰め
床面 礫敷 礫敷
排水施設 玄室側壁付近を巡り玄門部で合流
石  棺
形式 刳抜式家形石棺(竜山石) 刳抜式家形石棺(二上山産凝灰岩)
安置位置 主軸に直行
手前に組合式家形石棺が存在
主軸に平行
身部長 約2.1m 約2.4m
不明 約1.7m
高さ 不明 約1.2m
副 葬 品
馬具・武具・玉類など多数 盗掘により不明
被葬者候補
押坂彦人大兄皇子 崇峻天皇



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「片岡」「木上」に関わる『長屋王家木簡』

「・符片岡司等 春日□ ・十一月四日□」
「・片岡進上蓮葉卅枚 持人都夫良女  ・御園作人功事急々受給 六月二日真人」
「・片岡進上菁六斛二斗束在 ・十尺束駄六匹 /持丁木部足人/ 十月十八日真人」
「・片岡進上交菜二斗 奴奈波五把右二種 ・持人宿奈女 十二月廿五日真人 」
「・片岡進上蓮葉卌枚 /持人/都夫良 ・女 六月廿四日 真人 」
「・片岡進上菁□□□□人 ・ □月十二日□□□□」
「・片岡進上菁三斛束四尺束 /駄/二匹 ・/桧前連/ 寸嶋  十月十四日 /真 人 白田古人/ 倭万呂 」
「・片岡進□菁七斛八斗束二尺束駄四匹 ・持人□□□万呂 十三日 / 真人/倭万呂◇」
「・片岡進上菁七斛七斗束三尺束駄四匹 ・持人木部百嶋 十月十一日真人 倭万呂 」
「・片岡進菁三斛二斗/束五尺束/駄二匹 ・/丁木部百嶋 十月二十四日/真人/古 人 倭万呂」
「・←□□□□□六斛四斗束八尺束 ・駄四匹 /□□□□  古人 」
「・片岡□□□八斛 □匹各二斛 駄四匹 ・持人木部百嶋 /大万呂/二 人  十月十七日 真人 倭万呂」
「・片岡進上□三斗五升 /持人/□□良女 ・ 月廿七日 道守真人 」
「片岡□□」
「片岡進上菁廿四□□」
「・ □□進上物 」
「・片岡進上菁 ・□ □□□」
「・□岡司□ ・□□□」
「片□納」
「片岡進上」

「・木上進供養分米六・各田部逆 七月十四日秦廣嶋\ 甥万呂」
「木上進 竹百六根 /付 十二月廿四日□」
「・木上進糯米四斛 各田部逆 ・ 十二月廿一日忍海安麻呂」
「・木上司等十一月日数進/新田部形見 日廿七夕廿一 秦廣嶋 日卅夕廿七/忍海安万 呂 日卅 夕廿六  ・ 十一月卅日」
「城上進□」
「木上 進 焼米二瓮 /阿支比/棗  右三種 稲末呂 八月八日忍海安万呂 」
「進御飯米三斗/曽女 五月十五日忍海安末呂」
「・木上進 /□斗/  右二種 稲末呂  ・  月十五日□海安末呂 」
「・木上御馬司大伴鳥九月常食・請申/一日分一升 卅日分米三斗」
「木上□」
「・木上司進採交四斗   ・ 十二月十日忍海安麻呂 」



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関連万葉集

 明日香皇女の城上の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首
2-0196
飛ぶ鳥の 明日香の川の 上つ瀬に 石橋渡し 下つ瀬に 打橋渡す 石橋に 生ひ靡ける 玉藻もぞ 絶ゆれば生ふる 打橋に 生ひををれる 川藻もぞ 枯るれば生ゆる なにしかも 我が大君の 立たせば 玉藻のもころ 臥やせば 川藻のごとく 靡かひし 宜しき君が 朝宮を 忘れたまふや 夕宮を 背きたまふや うつそみと 思ひし時に 春へは 花折りかざし 秋立てば 黄葉かざし 敷栲の 袖たづさはり 鏡なす 見れども飽かず 望月の いやめづらしみ 思ほしし 君と時々 出でまして 遊びたまひし 御食向ふ 城上の宮を 常宮と 定めたまひて あぢさはふ 目言も絶えぬ しかれかもあやに悲しみ ぬえ鳥の 片恋づま朝鳥の通はす君が 夏草の 思ひ萎えて 夕星の か行きかく行き 大船の たゆたふ見れば 慰もる 心もあらず そこ故に 為むすべ知れや 音のみも 名のみも絶えず 天地の いや遠長く 偲ひ行かむ 御名に懸かせる 明日香川 万代までに はしきやし 我が大君の 形見かここを

高市皇子尊の城上の殯宮の時、柿本朝臣人麻呂が作る歌一首
2-0199 
かけまくも ゆゆしきかも言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に ひさかたの 天つ御門を 畏くも 定めたまひて 神さぶと 磐隠ります やすみしし 我が大君の きこしめす 背面の国の 真木立つ 不破山超えて 高麗剣 和射見が原の 仮宮に 天降りいまして 天の下 治めたまひ食す国を 定めたまふと 鶏が鳴く 東の国の 御いくさを 召したまひて ちはやぶる 人を和せと 奉ろはぬ 国を治めと皇子ながら 任したまへば 大御身に 大刀取り佩かし 大御手に 弓取り持たし 御軍士を 率ひたまひ 整ふる 鼓の音は 雷の 声と聞くまで 吹き鳴せる 小角の音も 敵見たる 虎か吼ゆると 諸人の おびゆるまでに ささげたる 幡の靡きは 冬こもり 春さり来れば 野ごとに つきてある火の 風の共 靡くがごとく 取り持てる 弓弭の騒き み雪降る 冬の林に つむじかも い巻き渡ると 思ふまで 聞きの畏く 引き放つ 矢の繁けく 大雪の 乱れて来れ まつろはず 立ち向ひしも 露霜の 消なば消ぬべく 行く鳥の 争ふはしに 渡会の 斎きの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇に 覆ひ賜ひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして やすみしし 我が大君の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 木綿花の 栄ゆる時に 我が大君 皇子の御門を 神宮に 装ひまつりて 使はしし 御門の人も 白栲の 麻衣着て 埴安の 御門の原に あかねさす 日のことごと 獣じもの い匍ひ伏しつつ ぬばたまの 夕になれば 大殿を 振り放け見つつ 鶉なす い匍ひ廻り 侍へど 侍ひえねば 春鳥の さまよひぬれば 嘆きも いまだ過ぎぬに 思ひも いまだ尽きねば 言さへく 百済の原ゆ 神葬り 葬りいまして あさもよし 城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ しかれども 我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや 天のごと 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はむ 畏かれども

上宮聖徳皇子、竹原の井に出遊す時に、龍田山に死人を見て悲傷びて作らす歌一首
3-0415 家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ

7-1099 片岡のこの向つ峰に椎蒔かば今年の夏の蔭にならむか

8-1431 百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも

13-3324
かけまくも あやに畏し 藤原の 都しみみに 人はしも 満ちてあれども 君はしも 多くいませど 行き向ふ 年の緒長く 仕へ来し 君の御門を 天のごと 仰ぎて見つつ 畏けど 思ひ頼みて いつしかも 日足らしまして 望月の 満しけむと 我が思へる 皇子の命は 春されば 植槻が上の 遠つ人 松の下道ゆ 登らして 国見遊ばし 九月の しぐれの秋は 大殿の 砌しみみに 露負ひて 靡ける萩を 玉たすき 懸けて偲はし み雪降る 冬の朝は 刺し柳 根張り梓を 大御手に 取らし賜ひて 遊ばしし 我が大君を 霞立つ 春の日暮らし まそ鏡 見れど飽かねば 万代に かくしもがもと 大船の 頼める時に 泣く我れ 目かも迷へる 大殿を 振り放け見れば 白栲に 飾りまつりて うちひさす 宮の舎人も栲のほの 麻衣着れば 夢かも うつつかもと 曇り夜の 迷へる間に あさもよし 城上の道ゆ つのさはふ 磐余を見つつ 神葬り 葬りまつれば 行く道の たづきを知らに 思へども 験をなみ 嘆けども 奥処をなみ 大御袖 行き触れし松を 言問はぬ 木にはありとも あらたまの 立つ月ごとに 天の原 振り放け見つつ 玉たすき 懸けて偲はな 畏くあれども

13-3326
礒城島の 大和の国に いかさまに 思ほしめせか つれもなき 城上の宮に 大殿を 仕へまつりて 殿隠り 隠りいませば 朝には 召して使ひ 夕には 召して使ひ 使はしし 舎人の子らは 行く鳥の 群がりて待ち あり待てど 召したまはねば 剣大刀 磨ぎし心を 天雲に 思ひはぶらし 臥いまろび ひづち哭けども 飽き足らぬかも

≪補≫
霧立ちて雁そなくなる片岡の朝の原は紅葉しぬらむ (古今集・詠み人しらず)
明日からは若菜摘まむと片岡の朝の原は今日ぞ焼くめる (拾遺・人麻呂)
片岡の朝の原をうちくれば山ほとゝぎす今日ぞ鳴くなる (伊勢集・伊勢)



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関連用語一覧

語句 読 み 意  味
漆塗籠棺 うるしぬりかごかん 竹・蔓などで編まれた籠に漆が塗られた棺
唐草文 からくさもん 蔓のような文様
 ・偏行唐草文 へんこうからくさもん 一方方向に転回する唐草文様
 ・均整唐草文 きんせいからくさもん 中心から左右に転回する唐草文様
瓦当 がとう 主に軒先に葺かれる瓦の文様を持つ部分
瓦笵 がはん 瓦の形や文様を作るための型
瓦窯 がよう 瓦を焼成するための窯
側柱 がわばしら 建物の外周りの柱
夾紵棺 きょうちょかん 麻・絹などと漆を塗り重ねて作られた棺
四天柱礎 してんちゅうそ 塔の心柱を囲む四本の柱のための礎石
四天王寺式伽藍配置 してんのうじしきがらんはいち 塔・金堂・講堂を一直線に置く伽藍配置
単弁 たんべん 一枚の蓮弁に子葉が一つの蓮華文
添柱孔 てんちゅうこう・そえばしらあな 心柱の補強の為に添える柱のための孔
同笵瓦 どうはんがわら 瓦当製作時の型(瓦笵)が同じ瓦
粘土槨 ねんどかく 埋葬施設の周囲を覆う厚い粘土層のこと
柱座 はしらざ 柱を立てるために礎石上面に作り出された部分
花組 はなぐみ 百済を起源とした飛鳥寺に始まる瓦当文様の通称のひとつ。桜花系・弁端切込式とも。
星組 ほしぐみ 百済を起源とした飛鳥寺に始まる瓦当文様の通称のひとつ。弁端点珠とも。
笵傷 はんしょう 瓦笵に付いた傷。または、瓦に現れたそれらの痕跡のこと。
複弁 ふくべん 一枚の蓮弁に子葉が二つある蓮華文の形態
閉塞石 へいそくせき 古墳の入り口を封鎖するための石
法隆寺式伽藍配置 ほうりゅうじしきがらんはいち 右に金堂・左に塔・その奥に講堂を置く伽藍配置
横穴式 よこあなしき 墳丘側面に入口を持つ古墳の形態
横口式 よこぐちしき 墳丘側面に入口を持ち、古墳時代終末期に玄室が石槨(四角い箱状)となったものを、「横穴式」と別に呼び分ける場合がある
両袖式 りょうそでしき 羨道の両サイドに玄室が出っ張りを持つもの


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関連用語図解




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史跡マップ



1.西安寺跡  2.達磨寺  3.片岡王寺跡  4.尼寺北廃寺  5.尼寺南廃寺  6.平野窯跡群
7.平野古墳群  8.平野塚穴山古墳  9.平野1号墳  10.牧野古墳  11.三吉3号墳
12.ナガレ山古墳  13.寺戸廃寺  14.薬井・瀧ノ北遺跡  15.下牧瓦窯跡  16.久渡2号墳
17.字 見立山(高市皇子墓推定地?)  18.巣山古墳  19.寺戸遺跡  20.寺戸鳥掛遺跡



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  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
散策ルート 西安寺跡 達磨寺 達磨寺古墳群
片岡王寺跡 薬井・瀧ノ北遺跡 尼寺廃寺跡 下牧瓦窯跡
平野窯跡群 平野古墳群 平野塚穴山古墳 平野1・2号墳
久渡2号墳 牧野古墳 三吉3号墳 巣山古墳
ナガレ山古墳 寺戸廃寺 敏達王家関連系図 関連史料
牧野古墳・赤坂天王山古墳 比較表 「片岡」「木上」に関わる『長屋王家木簡』
関連万葉集 関連用語一覧 関連用語図解 史跡マップ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


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