飛鳥咲読
第35回定例会
片岡山辺をあるく
Vol.144(12.9.28.発行)~Vol.146(12.10.26.発行)に掲載
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【1】 (12.9.28.発行 Vol.144に掲載) もも
第35回定例会は、11月3日(土)文化の日に「片岡山辺をあるく」と題し、帝塚山大学准教授の清水昭博先生にお話を伺いながらご案内いただけることになりました。
両槻会は、久しぶりに明日香村近郊を離れます。JR王寺駅(近鉄 新王寺駅)をスタート地点として南下し、西安寺跡・達磨寺・片岡王寺跡・尼寺廃寺跡・平野瓦窯群・平野塚穴山古墳・牧野古墳・三吉3号墳・ナガレ山古墳・寺戸廃寺と、この地域の主な寺跡や古墳を巡る予定になっています。総距離約15kmと少し長めのウォーキングになりますが、散策には丁度良い季節だと思います。飛鳥からは約15km、斑鳩の南にあたる片岡でのまた違う「飛鳥」探しの秋を是非ご一緒しましょう。
第35回定例会用の咲読は、今号から3回にわたり もも が担当します。訪れる予定の史跡を全てご紹介することは無理ですが、少しでも「片岡」の面白さをお伝えできればと思っています。
さて、「片岡山辺をあるく」と言うからには、「片岡山の周辺を散策する」ことになるのですが、この「片岡山」はもとより「片岡」と言う地名を現在の地図上に見つけることが出来ませんでした。どうしてこの辺りが片岡と呼ばれるのかは定かではないようですが、付近には今回訪れる予定の片岡王寺跡をはじめ、片岡神社や孝霊天皇陵とされる片岡馬坂陵など「片岡」の名を冠した所があります。
「片岡」は、現在の北葛城郡北部、「片岡山」は西側の丘陵地を指すとされています。また、古代には大和国葛下郡と呼ばれた地域になります。
この辺りの西側には、南から金剛・葛城から続く山並みが、北からは生駒山に続く山並みがそれぞれまるで自然の要塞のように立ちはだかっています。くねくねと蛇行した大和川が南北の山並みの間をすり抜けるように流れ込んでいます。飛鳥川をはじめとする奈良盆地を流れる中小の河川が集まって大和川となる合流地点にあたることから、斑鳩も含めたこの辺りは交通の要所だとされています。・・・と、こんな文字の羅列よりも下記のルートマップを航空写真バージョンにして御覧頂く方が分かり易いと思います。(^^ゞ
方向音痴のうえに土地勘のないσ(^^)は、このGoogleマップを何度大きくしたり小さくしたりしたか知れません。そうして、山並みの東側に広がる平地部分を見ていると、片岡は、飛鳥よりも住みやすかったんじゃないのか?と思ったりするのですが、この辺りも宅地開発などでかなり造成されているようですので、古代はもっと丘陵の裾が広がっていた可能性はあります。だとすれば「片岡」という呼び名は、「丘の傍ら」と案外何の変哲もないものかもしれませんね。あ!そうすると片岡山は、「丘の傍らの山」なんていうミョウチクリンなことになっちゃいますね。じゃ・・この案は却下だな。。。(^_^;)
片岡といえば、片岡飢人説話が一番有名になるんでしょうか。推古21年12月1日、聖徳太子は片岡へ遊行に出かけ、飢人と出会った後に詠んだとされる歌が『日本書紀』に載っています。
しなてる 片岡山に 飯に飢て 臥やせる その旅人あはれ 親無しに 汝生りけめや さす竹の 君はや無き 飯に飢て臥せる その旅人あはれ
万葉集にも同じような歌が聖徳太子作として載っています。(3-415)
この時の聖徳太子の御用は何だったのでしょう?片岡を経て・・・と考えると、この辺りは斑鳩から科長へ続く太子葬送の道が想定されていますから、太子が自らの陵墓造営を視察に行ったとも考えられるようです。また、「遊行」は、「ゆぎょう」と読み、僧などが修行をすることだそうですから、太子が何かしら特別な思いを持って片岡へ出掛けたからこそ、聖と出会ったと考えるべきなのかもしれませんね。
この片岡飢人説話を、今回訪れる達磨寺が創建の由緒としています。聖徳太子が片岡で出会った飢人が達磨大師の化身で、その墳墓上に寺を建立したというものです。境内には、達磨寺古墳群と言われる3基の小古墳があります。本堂下にある達磨寺3号墳の小石室から、水晶製の五輪塔形舎利容器やハート型の舎利が見つかっていますので、記憶にある方もいらっしゃると思います。
参考:達磨寺石塔埋納遺構(現地見学会資料 2002年9月23日)
達磨寺については、アジクさんが好評連載中の「飛高百新」にお書きくださってます♪
達磨寺に限らず、片岡にはこうした伝承や遺物などから聖徳太子(上宮王家)と関わりが想定出来る場所が他にもあります。
そうそう、言い忘れておりましたが、今回の第35回定例会は、年明け1月に行う第36回定例会とも関連しています。第36回は「片岡山辺をかたる」と題して今回ご案内頂く清水昭博先生がご講演くださいます。第35回は、次回第36回の事前散策豪華バージョンと言ったところでしょうか♪もちろん、どちらか一方だけの参加でも充分楽しんで頂けると思いますが、こういう予定になっていると言うことを覚えておいてくださいませ。(^^)
【2】 (12.10.12.発行 Vol.145に掲載) もも
「片岡山辺をあるく」の咲読2回目は もも には珍しく古墳のお話から始めたいと思います。
この8月に「高市皇子墓か?」とニュースが出たのを、皆さん覚えておられるでしょうか。ニュースでは、画文帯環状乳神獣鏡の出土が大きく報じられましたので、高市皇子墓の話は印象に薄いかもしれません。
久渡古墳群から出土した画文帯環状乳神獣鏡について/上牧町教育委員会
この鏡が出土した久渡3号墳と同じ丘陵上の南端で新たに発見された久渡2号墳が「高市皇子墓か?」と言われた古墳になります。久渡2号墳は、直径約16mの円墳で、背後に東西30m・高さ3mに及ぶ背面カットを持つことや凝灰岩片が採集されたことなどから、終末期古墳だと推定されています。
片岡や隣接する広瀬地域には、延喜式によると、片岡馬坂陵(孝霊天皇陵)・片岡磐杯南陵(顕宗天皇陵)・片岡磐杯北陵(武烈天皇陵)・成相墓(押坂彦人大兄皇子墓)・片岡葦田墓(茅渟王墓)・三立岡墓(高市皇子墓)の6基の陵墓があったとされています。今回のニュースは、墳墓の背面を大規模にカットする築造方法が飛鳥時代の皇族などの墓に見られる特徴だということもあって、この地域でまだ此処だと言う推定地のない高市皇子墓が候補にあがったんだと思われます。(茅渟王墓は平野塚穴山古墳、押坂彦人大兄皇子墓は牧野古墳と考えられているようです。ちなみに、高市皇子墓も「ミタテ」の音から馬見丘陵の南東の方にある「見立山」辺りにあったんじゃないか?と言われてたりするんですが・・)詳しくは掘ってみないと分からない、いや掘ってみても分からないかもしれませんが(笑)。ともかく、来年度から始まる久渡2号墳の調査を楽しみに待ちたいと思います。
さて、両槻会のテーマは「飛鳥」、そして今回の定例会のテーマは「片岡」ですので、ここで片岡・広瀬地域にあるとされる陵墓の中で、ちょっと飛鳥とは縁が遠そうな天皇陵を省かせていただくことにします。そうすると、「成相墓」「片岡葦田墓」「三立岡墓」が残り、これらの墓に埋葬された人物は、押坂彦人大兄皇子・茅渟王・高市皇子となります。この3人は一体どんな方々なんでしょうか。人物を把握するには、まず系図だろう!ということで、悪戦苦闘して系図を作成してみました。
系図を見ていると、面白いことが浮かび上がってきました。(^^)
「敏達王家」という言葉をお聞きになったことがあるかと思います。敏達王家は、文字通り「敏達天皇を筆頭とする王統」なんですが、これに「蘇我の血を持たない・蘇我氏の影響力外にある王統」を加えて考える必要があるようです。系図では左側に蘇我を置きましたので、前述の三人が右寄りに繋がる系統の人々であることがより分かり易いと思います。(敏達天皇より左側に書いた歴代天皇は、蘇我の血が濃いということになります。)
押坂彦人大兄皇子から高市皇子までの約5代にわたり墓の築かれたこの地は、この王統が勢力を持っていたと考えられるように思います。が、「墓があったら勢力地盤なのか?」「ただの偶然なんじゃない?」と、思われる方もいらっしゃると思います。実はσ(^^)も初めはそう思いました。なにしろ、もも
はとってもアマノジャクですから。(笑)
では、その脇を固めるお話をひとつ。
高市皇子の子・長屋王の邸宅跡から出土した多くの木簡(長屋王家木簡)の中に、この「片岡」も登場するようです。これらの木簡には、長屋王の御田・御薗などを管理する「片岡司」から、長屋王邸にカブ・ハス・ジュンサイなどが運ばれた(進上された)ことが記されてあるそうです。さらに、長屋王の御田のあった「片岡」が北葛城郡近辺だと考えられる理由のひとつとしては、達磨寺の西南約1kmのところにある薬井・瀧ノ北遺跡(北葛城郡河合町)から、長屋王邸で使用された瓦が出土していることも傍証となるようです。
詳しくは、橿原考古学研究所の岡田雅彦先生が、今から3年前にご寄稿くださった「瓦からわかること~長屋王と瓦~」に書いてくださっていますので、是非お読みになって下さい。
【3】 (12.10.26.発行 Vol.146に掲載) もも
前回の咲読では、片岡は敏達王家の地盤だったと考えられると書きました。菜園や薬草園と思われる御田や御園に邸宅の瓦を焼いた窯などを考えると、長屋王がこの地を経営基盤として持っていたことは確実でしょうね。有力な豪族が滅ぶと、勢力地は接収されることがあります。が、反対に存続すればその地は、継承されていくようです。これは、王家とて例外ではないはず。とすれば、片岡・広瀬の地域は、もしかしたら押坂彦人大兄皇子が父・敏達天皇から譲り受けた地に水派宮を営み(水派宮の所在地については、諸説あるようです)、それが茅渟王や舒明天皇から天智・天武天皇へ、そして高市皇子を経て長屋王の代まで、順に受けつがれていったと考えるのも面白いかもしれません。
片岡を追いかけて早何ヶ月。初っ端から、ずっと付いて回ってきた「片岡=敏達王家」の図式が、ここへきてやっと、σ(^^)にも少し理解できたように思います。ふぅー。
さてここで、咲読一回目に、片岡には聖徳太子の影響が読み取れると書いたことを覚えてくださっていたら嬉しいです。「おい、一回目と二回目で話がおかしいぞ!」と思われたら、これまた嬉しいです。(笑)
上宮王家が斑鳩に宮と寺を造営したのが、7世紀初頭。崇仏廃仏戦争に敗れた物部氏の後、その勢力地であった斑鳩を手に入れたのが上宮王家だという説もあります。だとすれば、片岡・広瀬地域に進出していた敏達王家の更なる勢力拡大を阻むべく、上宮王家が対岸の斑鳩から片岡への進出を図ったと考えられないでしょうか。聖徳太子と同世代の人物を考えると、生没年は定かではないものの同じ欽明天皇の孫にあたる押坂彦人大兄皇子や茅渟王がいます。王家同士の勢力争いなんて、あんまり考えたことがないσ(^^)には、とても面白い構図に思えるのですが、いかがでしょうか。
こんな妄想を裏付けることになるかどうかは分かりませんが、瓦の文様も面白い展開をみせます。
斑鳩寺創建の際に補足的に使われたものとよく似た特徴をもつ「片岡王寺式」と呼ばれる独特の軒丸瓦が使用されたり、斑鳩寺所用として有名な型押忍冬紋軒平瓦との同笵品が尼寺南廃寺から出土していますし、西安寺からは葉っぱと花びらを交互に配した「忍冬葉単弁蓮華文軒丸瓦」という上宮王家の影響か?と思える瓦なんかもが出土しています。全てが斑鳩からの影響とは言いきれないようですが、σ(^^)には、「上宮王家さん、何かした?」って思えて仕方ありません。
特別寄稿で清水先生が「瓦の関係の背後には人の関係がうかがえるのです。」とお書きくださったように、瓦の文様や製作技術の類似は造営者同士の交流を示す材料になります。つまり、飛鳥時代初期には、片岡と上宮王家とは何らかの繋がりがあったと考えてもいいんじゃないかと。ところがこれも、せいぜい7世紀前半から中頃までの話。7世紀も半ばを過ぎ後半になると、この地域は川原寺とよく似た軒瓦、もしくはこの地域独特の単弁形式へと移行して行きます。瓦の文様は上宮王家に縁のあるものから、天智・天武天皇に縁のあるものへと代わっていくとも言えます。この変化に対応するようにこの時期大きな出来事が起こっています。それは、643年の上宮王家滅亡。
こんなことを少しずつ繋げていくと、敏達王家に対抗して上宮王家が斑鳩から片岡へ勢力拡大を目論んで進出するもあえなく・・・ということになるんでしょうか?天智・天武以降、長屋王に至るまでの敏達王家がその勢力範囲を広げることが出来たのも、この上宮王家滅亡のお陰とも言えるのかもしれません。片岡で両勢力が拮抗できたのは―聖徳太子(上宮王家)が片岡へ影響を与えられたのは―物部氏衰退から上宮王家滅亡までの約半世紀だけと考えると何だか切ない気持ちにもなってきます。
有力な豪族が滅ぶと、勢力地は接収されると先にも書きましたが、長屋王の変以後、片岡の一部は藤原氏の所領とされたようです。栄枯盛衰・・・ですね。
今回の咲読は、「片岡って一体何?」と、ゼロから始まったもも の素朴すぎる疑問をひとつずつ潰していく過程のご報告のような形になりました。すいません。m(__)m
個々の史跡や背景などの深いところは、当日の清水先生のお話を耳をダンボにして聞いていただければと思います。第35回定例会は、11月3日開催です。皆さんのご参加をお待ちしています。(^^)
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