寺戸遺跡説明風景 |
第35回定例会は、帝塚山大学人文学部准教授清水昭博先生にご案内をいただき、「片岡山辺をあるく」と題したウォーキングを実施しました。秋晴れの下、集合場所に集まった参加者は、30名。お申し込みがあったのは33名だったのですが、3名の方がキャンセルでした。両槻会のウォーキングで設定している定員は30名ですので、定員をオーバーする方にお申し込みをいただきました。ありがとうございます。
今回は初参加の方が多く、これは内緒の話ですが、地域的に飛鳥を外すと増えるのか?と、若干複雑な心境にもなりました。(^^ゞ 個人では、なかなか行けないコースだったからでしょうね。
さて、スタッフは9時少し前に集合したのですが、早くから先生を始めとして参加者も集まってくださいました。今回は、配布物がたくさん有ったので受付作業も大変だったのですが、定刻には簡単でしたが先生の紹介と道中の注意事項を伝えて出発することが出来ました。
まず、第1ポイントの西安寺跡(舟戸神社)を訪ねました。神社北にある池の畔で、地形や伽藍についての説明がありました。今に残る小字名などから西向きの伽藍配置が想定できることなど、地形を見ながらの説明ですのでイメージが膨らみます。また、近くには王寺町久度と言う地名があるのですが、この「久度」は「おくどさん=竈」の転訛したものだと考えられ、渡来系氏族が居住していた地域だと考えられるようです。舟戸神社境内では、出土瓦に関しても詳しく教えていただきました。詳細は、両槻会事務局作製資料を参照してください。
風人の理解では、瓦の同笵関係などから西安寺は片岡地域のお寺との関連を強く持つが、国家がバックアップした形跡は薄いと思わるので、7世紀中頃までに渡来系氏族の大原史氏によって創建されたと考えられます。また、伽藍配置は西を走っていた大きな道に影響を受けた可能性が高いと思われますが、この道の本道は片岡地域の谷筋を南北に延び、これから訪れる寺院の伽藍配置や向きに影響を及ぼしているように思いました。この道が、当時どのような名で呼ばれていたかは分かりませんが、このレポートでは、仮に「片岡道」と呼ぶことにしましょう。
舟戸神社は、塞(岐)の神を祀ります。村外れや衢に祀られることが多い神様ですので、やはり道との関係は見逃すことが出来ないように思いました。「岐の神」を「ふなどのかみ」あるいは「くなどのかみ」と読むのですが、「久度」と音が近いので、実は個人的に気に掛かっています。
舟戸神社 北から |
10分ほどの説明の後、第2ポイントに向かって出発です。コースは、王寺町の街中探検をするかのように、小さなトンネルを潜ったり、葛下川に掛かった橋から巨大な鮒や亀が泳ぐのを見たり、迷路のような住宅街を抜けて達磨寺に到着しました。面白いコースです♪ 参加の方々もワイワイと楽しそうでした。
達磨寺は、聖徳太子にかかわる片岡飢人伝説を創建由来に持つお寺です。(資料参照)
境内には3基の古墳があり、その1基の上に本堂が建てられています。この古墳が、達磨さんとも結びつき、達磨大師の墓であるとされるようです。
達磨寺1号墳石室 |
今回は欲張ったウォーキングでしたので時間の余裕がありませんでしたが、再訪して本堂下に埋納されていた「水晶製五輪塔形舎利容器」なども、じっくり見学したいものです。
飛鳥遊訪マガジン146号のアジク先生のご寄稿を参照してください。
ここで、トイレ休憩を設けました。長いウォーキングで一番気を遣うのは、トイレの問題です。適度な間隔で使用可能なトイレがあれば良いのですが、そんなに上手くいくものではありません。達磨寺を出ると、次のトイレは昼食をはさんだ3時間後になりますので、全員にご利用いただきたいとお勧めしました。
さて、達磨寺を挟んで国道168号線の向こうには、次のポイント「片岡王寺跡(放光寺)」があります。説明場所の関係もあり、また全体の位置関係を見ていただくために、達磨寺の駐車場付近で説明を聞きました。
王寺小学校の敷地と重なるように、古代には「片岡王寺」が建てられていたようです。創建からは時代が移りますが、鎌倉時代の史料によると伽藍が整った大規模な寺院であったようです。伽藍配置については、明治時代には基壇跡や礎石が散見されたこと、また付近に残る寺院に関連すると思われる小字名から推測すると、南面する四天王寺式伽藍配置であったと想定できるようです。
創建者は、敏達天皇第三皇女「片岡姫」とする縁起もあるようですが、正史には敏達天皇の皇女として片岡姫の存在を示す記載がなく、聖徳太子の皇女である「片岡皇女」ではないかと考えられるようです。それは、「素弁片岡王寺式」と呼ばれる軒丸瓦と酷似したものが斑鳩寺でも使用されていたことからも上宮王家との強い関係が推測され、創建者を示しているのではないかと考えられるそうです。そうすると創建時期は古く、飛鳥時代前半かと思われます。
また、敏達天皇の皇女と誤って記載されたのは、上宮王家が滅んだ後、この地が敏達王家の所領となった事に起因するのではないかと考えられます。時代が進んで、この寺院に官営寺院が所用する瓦が多く使われる点なども、このような事情を物語るのではないかと考えられます。清水先生の丁寧な説明で、複雑な展開も少しは理解できたように思いました。
また、鎌倉時代の「放光寺古今縁起」には、「南大門」の他に「東中門」の文字が見え、寺の東に道路が走っていたことが推測できます。西安寺跡で書きました「片岡道」が、国道168号線や葛下川西岸に沿うように続いていたと考えられるのではないでしょうか。
先生のお話も、熱を帯びてきました♪ 今回は、新アイテムのハンドフリー拡声器を使っていただいているので、168号線を行交う車の騒音にも負けず、皆さんにも聞き取りやすかったのではないでしょうか。高出力なのに安かったんですよ! 貧乏な事務局には大助かりのアイテムです。(笑)
片岡王寺からは、国道から離れて集落の中の道を進みます。狭い道なのですが車もよく通り、「車が来まぁ~す!」と注意喚起の声が列の前後から頻繁に掛かりました。
尼寺北廃寺は、初めて訪れる方にとっては、ただの荒れ地に見えたようです。建設資材や廃材なども敷地の隅(続いた別の土地か?)に置かれていましたので、そう見えたのでしょうね。塔基壇や金堂基壇が見て取れるのですが、もう少し綺麗にしていただければと思ってしまいます。これでも草が枯れて下見時より、よほどそれらしく見えていたのですが。
伽藍は、東面する法隆寺式伽藍が想定されています。このお寺も東側の片岡道が意識されているのでしょう。北廃寺は、今に残る地形などを見ていると巨大寺院と言うほどではなく、比較的小ぢんまりとしたお寺であったように見えました。しかし、塔心礎は巨大で、我国最大級であるとの説明がありました。心礎は四つの添柱孔を持っており、基壇上に残る四天柱礎を上に乗せているほどの表面積であったようです。半地下式ですので、大きさを実感するのは難しいですね。とにかく、巨大です。そうそう!地表に見ることが出来る久米寺の巨大塔心礎より大きいのです。久米寺の心礎を見ると、その大きさにびっくりしますよね。それよりデカい!
ここでの説明は比較的簡単に行われ、尼寺南廃寺跡で二つの寺院の説明が丁寧に話されました。
南廃寺は、北廃寺から200mほど南に位置しており、寺域を含めると隣接すると言っても過言ではない距離です。南廃寺の伽藍様式は、南面する法隆寺式伽藍配置だとされ、現「般若院」付近に中心伽藍を置き、東の薬師堂辺りにも関連施設を持つ寺院であったようです。
私達は、尼寺公民館の前で説明を聞きました。南廃寺は「片岡尼寺」と呼ばれていたようで、それが地名として「にんじ」となったのでしょう。説明場所に掲げられた「尼寺公民館」の看板の文字が、雰囲気を盛り上げます。清水先生のウィットに富んだ、解説場所の選択でした♪
先生は、南廃寺の金堂や北廃寺の塔に飛鳥坂田寺と同笵の瓦が使われていることに着目され、尼寺ネットワークという考え方を示されました。詳細は、飛鳥遊訪マガジンの特別寄稿を参照してください。
尼寺北廃寺では、その後、川原寺式の軒丸瓦が用いられて金堂が造られ、南廃寺では単弁片岡王寺式の軒丸瓦が使われて塔が建立されました。これらの事から、尼寺両廃寺は飛鳥時代前半から中頃にかけて創建され(坂田寺式軒丸瓦の笵傷の状態から、南廃寺の金堂の着工後、北廃寺の塔が建造されたことが分かる。)、その後、官(国家)から瓦(笵)の供給などのバックアップを受けながら存続したのではないかと考えられるようです。尼寺北廃寺は「片岡僧寺」、尼寺南廃寺は「片岡尼寺(般若院)」と、史料に見られる寺名に相当するのではないかとのことでした。
この後に訪れました平野窯跡群や平野古墳群などを考え合わせると、尼寺両廃寺と敏達王家との繋がりは決して無視出来るものではなく、創建に深くかかわっている。風人は、それが結論のように聞き取りました。詳細は、事務局作成資料を参照してください。
さて、そろそろお腹も空いてきました。定例会一行は、昼食場所である平野窯跡群の一角を占める公園へ向けて足を急かせました。
尼寺廃寺から南に、尼寺川を底にする谷筋を挟んで東西に走る尾根があります。その丘陵北斜面を利用して造られた5基の窯跡が発見されています。その内4基までは須恵器窯だそうですが、1基は瓦窯であったそうで、その5号窯は尼寺南廃寺の直ぐ南に位置することから、尼寺廃寺の瓦窯だと考えられています。
公園には遊具としか見えない状態で登り窯が示されている(保存?)のですが、これを窯跡だと思える人はどれほど居るでしょうか。
保存された平野3号窯跡 |
公園内にはトイレが無いので短めの昼食時間としたのですが、おやつの交換会なども有って、皆さんリラックスして楽しい昼食時間を過ごしていただけたのではないでしょうか。止まると寒く感じましたね!
昼食後、歩き始めてすぐに平野塚穴山古墳がありました。細かなデータは、資料を参照してください。
この古墳は、終末期に属する古墳です。石槨の構造が、百済の陵山里古墳群東下塚古墳に似ていることから、渡来系氏族の首長墓ともされるようですが、同一丘陵の南斜面に築かれ時代を追うように東西に造られた古墳群を合わせて考えるなら、この地に所縁のある人たちの墓であると考えるべきではないか。また、その規模や構造、丘陵の南北反対側にある窯跡群の存在も含めて考えるなら、敏達王家に強い繋がりのある方々の墳墓であると考えたいとの説明がありました。渡来の技術を使う、あるいは形式が似ているからと言って、被葬者を渡来人と決めつけるのは早計かも知れませんね。
また、出土している夾紵棺の破片などから、渡来系氏族よりも更に身分の高い被葬者が想定できるように思います。先生の説明では、『延喜式』に「片岡葦田墓」に葬られたと書かれる敏達天皇の孫(押坂彦人大兄皇子の子)茅渟王が、被葬者の筆頭候補であるとされました。
丘陵に沿って東に向かい、平野1号墳(車塚古墳)の近くで古墳群の説明を受けました。1号墳・2号墳は残存していますが、残念ながら3号墳・4号墳は消滅しています。東から西へと時代が移り、横穴式石室から横口式石槨墳への変遷過程が見て取れるとされていますが、消滅してしまっているのが残念です。これらの古墳には、茅渟王・敏達王家に所縁の深い人々が葬られていたのでしょうね。茅渟王の弟の桑田王なども葬られているのかな?と、系図を見ながら束の間のタイムトラベルです。
平野1号墳 |
暫く歩くとJR志都美駅に近くなるのですが、国道沿いには大型小売店が並びます。それらの店のトイレを使わせていただき、2回目のトイレ休憩です。
さて、ここからは馬見丘陵を越えなければなりません。片岡を離れ広瀬に向かうことになりますが、机上プランではアスファルト道の急坂を登ることになっていました。しかし、下見時に快適なコースを発見でき、本番は長閑な丘陵越えを楽しんでいただけたのではないかと思います。暫くはのんびりとした里山ウォーキングとなりましたので、参加者の方々との会話も弾みました♪
小1時間のウォーキングの先に待っていたポイントは、牧野古墳です。牧野を「ばくや」となぜ読むのかという質問には答えられず、どうしてなんでしょうね!とお茶を濁す風人でした。(^^ゞ この辺り一帯が、牧や馬に関連する地名が多いことは、ちゃんとお伝えできたのですが、なぜ「ばくや」なのかは知りませんでした。今も分かりませんので、誰か教えてください!
牧野古墳では広陵町教委に石室内の見学許可をいただいており、職員の方が鍵を開けてくださいました。ありがとうございます! やはり、柵外から暗い石室を覗くことに比べると、格段に臨場感が増すように思いました。また広陵町教委からは大量の資料をいただき、参考資料とさせていただきました。この場を借りまして、お礼を申し上げます。m(__)m
牧野古墳石室見学申込要領
石室内は狭いため、10名ずつの班に分かれて見学をすることにしました。石室内では、清水先生の説明を聞きながらの見学です。各自懐中電灯などをお持ちいただいていたので、不自由なく隅々まで見ていただけたのではないでしょうか。
順番を待っていただいている皆さんには、風人が説明役となって概要や出土遺物について話をさせていただきました。また、ももが、馬具などを丁寧に説明させていただいたようです。(その間、風人は石室内に居ましたので、ももの解説が聞けず残念でした。滅多にない事なので!(笑))
事務局の説明の折に皆さんに見ていただいた写真ですが、両槻会では西飛鳥古墳巡りの定例会でも案内役になっていただいた「さきもりさん」が送ってくださったものです。皆さんに貴重な写真を見ていただけ、有効に使わせていただきました。さきもりさん、ありがとうございました。
牧野古墳は、押坂彦人大兄皇子が葬られていると考えられます。平野塚穴山古墳の被葬者茅渟王の父親にあたる方で、敏達天皇の第1子です。大兄と付きますので、皇位継承資格のある有力な皇子であったことが分かります。しかし、そのような方なのですが没年がはっきりしません。おそらくは、6世紀末から7世紀初頭に亡くなったのだろうと考えられています。その押坂彦人大兄皇子を牧野古墳の被葬者と考える理由の一つに、崇峻天皇陵とされる赤坂天王山古墳との石室の類似があります。事務局が比較表を作りましたので、資料編をご覧ください。図面が付けられないので分かりにくいかも知れませんが、墳形の違いはあるものの、石室を含めて規模はほぼ同等です。両古墳の石室に入った人は、似ていると直感的に思うかもしれませんね。顕著な違いは、石棺の置かれた位置と向きくらいでしょうか。
つまり、牧野古墳は、天皇クラスの被葬者が葬られたと考えられます。崇峻天皇の没年は592年ですから、それに近い没年の高貴な身分の人物。それだけでも押坂彦人大兄皇子は被葬者の候補に挙がってきます。
さらに『延喜式』には、押坂彦人大兄皇子の墓は広瀬郡にあり「成相墓(ならいのはか)」と呼ばれていたことが書かれています。敏達王家の広瀬・片岡への進出や皇子の宮が「水派宮」と呼ばれ飛鳥・磐余地域を離れて営まれたことなどを考えると、やはり被葬者の第一候補と考えて間違いの無いところだと思われます。清水先生にも、その辺りを丁寧に説明していただきました。
巣山古墳に向かいます。単調な住宅地の道ですが、ワイワイと歩いていると下見時ほどの長さは感じませんでしたが、参加者はどうだったでしょう。
今回歩いたコース上には、面白い名前の病院が有りました。一つは「まえのその病院」!(^^ゞ、関西人なら「前のどの病院や!」「どこの前や!」というツッコミは当然であります。(笑) もう一つは、「さかなか動物病院」!「魚か動物かはっきりせいや!」、はい!お約束のツッコミであります。(笑)
ウォーキング中には、このようなレポにはあまり書かないけど、爆笑トークがずっと続いているのです。(^^ゞ さすが関西人が多い両槻会であります。(笑)
閑話休題
そんなことを言っている間に、馬見丘陵公園に到着です。この公園では、巣山古墳がなんと言ってもメジャーなのですが、両槻会らしく全くそれには触れず(笑)、隣にある綺麗に整備された帆立貝式古墳の三吉2号墳にも触れず、その陰にある地味な三吉3号墳の説明を聞きました。(^^ゞ 3号墳は5世紀後半に造られた一辺12mの方墳なのですが、その周濠から7世紀前半代と思われる軒丸瓦が出土しています。百済系の特徴を持つ瓦当文様だそうですが、飛鳥寺などの我国初期の瓦とは別系統の特徴を持っているそうです。つまり、百済からダイレクトに入ってきた可能性も有るとのこと、周辺に記録に残らない寺院があったのかも知れません。実は、この三吉3号墳を調査されていたのは清水先生で(瓦が出土する前に調査地を替わられたそうですが)、そのエピソードなども楽しく話してくださいました。
三吉2号墳 |
広大な公園内に入ると、もう古墳だらけと言っても過言ではないのですが、特に目を惹くのがナガレ山古墳です。全長100mを超える前方後円墳が、復元されています。当初1段目で短時間の見学の予定だったのですが、時間に余裕がありましたので10分間の休憩を取りました。参加者の多くは後円部まで登って、大和盆地を見下ろす景観を楽しまれたようです。
古墳群を抜けて、最終ポイントの寺戸遺跡に進みました。広陵町寺戸一帯には、飛鳥時代から平安時代に掛けての集落があり、瓦が出土することから古代寺院が存在すると考えられています。奈良時代の記録「正倉院文書」には「広瀬寺」の名が見えることや、平安時代末の記録にもその名が書かれているそうで、寺戸遺跡周辺に「広瀬寺」が存在した可能性は高いとの説明を聞きました。
また、出土瓦からは、河内の寺々との関連が強いことが伺えるそうです。創建者は、敏達王家に連なる方々の名前が候補に挙がっていました。
予定より少し早く、最終ポイントをクリアできました。最後に清水先生へのお礼を述べ、次回定例会などの予定を告知して、第35回定例会は無事に幕を下ろしました。この後、近鉄箸尾駅までは皆さんとご一緒に向かい、それぞれの方向へと帰途につきました。皆さん、お疲れさまでした。
今回の定例会は、次回第36回定例会の事前散策の意味があります。来年(2013)1月5日に行います講演会「片岡山辺をかたる」にも、どうぞご参加ください。
最後に、2回続けて講師を務めてくださいます清水昭博先生に深く感謝の念を表したいと思います。また、広陵町教委、さきもりさんには、資料提供など数々のご支援をいただき感謝いたします。ありがとうございました。
長いレポートにお付き合いくださいまして、ありがとうございました。第35回定例会「片岡山辺をあるく」は、これにて終了です。
使用しました瓦の写真は、帝塚山大学付属博物館の撮影・掲載許可をいただいています。転載・無断ダウンロードは、禁止します。)
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