両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第40回定例会レポート



飛鳥ど真ん中を歩く!



光の地上絵を作りましょう!



この色の文字はリンクしています。
第40回定例会資料
2013年9月14日


水落遺跡にて

 第40回定例会は、新しい試みに挑戦しました。第1部では、5人の案内者がウォーキングで立ち寄るポイント毎に順次解説を務めることにしていました。初体験となる案内人の緊張感が、集合場所に漂っていたかもしれません。
 14日は、曇り空ながら一部に青空も見える天候になりましたが、蒸し暑い一日になりました。しかし、15日は台風の影響で終日雨が降り、光りの回廊そのものが中止となってしまいました。それに伴って両槻会定例会も第1部・第2部のみの実施ということなってしまいました。イベントの中止は全体的に見るなら残念なことなのですが、14日に光のボランティアを務めた両槻会としては、体力的に助かったというのも実感でした。

 スタッフと共に午前10時過ぎに飛鳥駅に到着すると、早めに来てくださった参加者もおられ、受付手続きも順調に流れて行きます。常連の皆さんや初参加の方々を含め、そこここに談笑の声が流れてきます。初参加の方も、こういうアットホームな雰囲気を分かっていただければ、きっと会に馴染んでいただけるのも早いのではないかと思いました。

 到着したバスに乗り込み、川原バス停に移動です。ここからがいよいよ第1部のスタートになります。バス停付近で簡単な出発式を終え、川原寺跡へ移動します。


川原寺跡

 川原寺を担当するのは、ももです。光の回廊の準備が進む南門跡から説明がスタートしました。飛鳥時代の大寺院である川原寺の伽藍配置の説明があり、回廊に沿って奥に進んでいきます。今まで、あまり取り上げて来なかった東南院の説明や、南門よりも大きな東門の話などがありました。さらに草むらを踏み分けながら境内を進み、僧坊の復元遺構を見ながら構造を考えたりしたのですが、具体的な説明でしたので皆さんにも理解していただけたかと思います。


川原寺跡 草むらでの現地説明

 さらに、鐘楼や経蔵の基壇跡や位置関係の説明があり、講堂基壇の向こうに寺域北限を視野に捕えることが出来ました。寺域の規模を実感として把握できたと思います。草茫々の中で、解説を聞くのは、栄枯盛衰を感じるには面白かったのではないでしょうか。参加者の方にも、そのように思っていただければ良いのですが。


中金堂跡の礎石

 中金堂跡に戻り、白瑪瑙とされていた礎石の説明がありました。説明時間が15分と僅かでしたので大急ぎの解説となりましたが、皆さんに興味深く見学していただけたかと思います。最後に南門跡に戻り、橘寺との間を走る東西道路の位置や規模を話して、川原寺跡の説明が終わりました。


川原寺跡南 古代東西道 付近(東から)

 橘寺西門跡では、西に広がる寺域の説明がありました。工房跡の存在や小字名に残る西門の名残から、往時の西門の位置や北門の所在地を推測しました。境内では、旧伽藍の説明や橘寺の伽藍が四天王寺式伽藍であるか山田寺式伽藍かの検討などが語られ、塔心礎の位置から見た建設時期の考察などが語られました。

 その後、休憩所で昼食だったのですが、10分ほど予定時間を押してしまい、昼食時間を20分しか取れなかったのは、参加の皆さんには申し訳なかったです。
 昼食後は慌ただしい出発となりましたが、東門を出て直ぐの所でお昼の一回目の説明がありました。橿考研が行った昨年の発掘調査で、橘寺の東限を示すかも知れない溝が検出されていることが紹介され、小字東門が指示されました。

 ここから、第1部終了までのレポートは、ももが担当します。自分の担当を終えて、腑抜けになっていましたので、聞き間違い聞き逃しもあると思います。そのあたりは、ご勘弁ください。(^_^;)

 飛鳥宮跡の担当は、事務局長・風人です。ここは、両槻会では幾度となく訪れている場所になります。そして、大抵は、南門から宮跡を巡る順路です。天武天皇に拝謁する気分を味わうという事務局長の趣向なのかもしれませんね。
 飛鳥宮跡は、3層4期の遺構に分けられていて・・との基本的な話から始まり、飛鳥浄御原宮の南門跡、宮の中軸線の把握、前殿や南北正殿の位置確認を、豊かに稔った緑の稲穂がそよぐ田の位置で確認しつつ北上しました。


飛鳥浄御原宮 南門跡にて

 田んぼ一枚が一つの遺構である可能性が高い飛鳥。土地の高低や区画などは、この時期が一番解りやすいかもしれません。発掘された遺構は、良好な状態のものが上層にあると、その保全のために下層の遺構の全体像が明確になり難いという難点があります。
 飛鳥京跡で言えば、Ⅰ期と呼ばれ、舒明朝に該当するとされる遺構がそれにあたります。Ⅱ期(斉明・天智朝)の下層にあり、火災の痕跡があることから、現在Ⅰ期の遺構とされている柱穴や土抗などの数少ない遺構が、果たして舒明朝の岡本宮なのか?という疑問が事務局長から提示されました。前代の推古朝で既に正南北が意識された宮が、舒明朝で再び西に傾むく宮を造営したのか?と。そう言われればそうですよね。


伝板蓋宮跡にて

 あと、Ⅰ期だけではなく、ある程度解明されていると思われるⅡ期(斉明・天智朝)の遺構も、吉野川分水路の改修で見つかったダンプカー何千台分もの造成がⅢ期だとされると、Ⅱ期の飛鳥板蓋宮の北限の位置に検討の余地が出てくるんではないかとのことでした。この辺りについては、あい坊先生の寄稿をお読みください。
 「舒明朝の王宮と寺院
 「飛鳥宮北方官衙域の建設 -飛鳥宮跡・内郭北方地区の調査から-
 
 さて、多くの謎を抱えたままですが、それもまた歴史の醍醐味ということで、我々は次の飛鳥京跡苑池遺構へと向かいました。


飛鳥京跡苑池遺構にて

 ここの解説・案内は、院生“ガッキー君”の担当です。
 去年の12月に7次調査を終え現在は史跡整備に向けて埋土の中に埋もれている苑池遺構ですが、北池と南池とさらに北に繋がる排水路?の位置と大きさ、各遺構の役割に加え、出土遺物からみえてくる苑池遺構の利用のされ方などを、別に準備してくれた資料などを手掛かりに、分かりやすい解説が進みます。参加者の皆さんの目前には、豊かに水を湛えた苑池の光景が広がったと思います。


飛鳥京跡苑池 南池 (第7次調査 現地説明会にて)
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 そうそう・・ここが『日本書紀』天武14年にある「白錦後苑」だと言われている理由は、遺構時期と規模からだけで推察されているんだと思っていたんですが、「白錦後苑」とは、宮の後ろ、つまり背後の北に位置するからそう呼ばれたであろうという説明を聞いて「なるほど!」と。単なる名前だとスルーしちゃダメなんですね。(^^ゞ


弥勒石

 そのまま、飛鳥川沿いに北上し、途中にある「木の葉堰」辺りでは、飛鳥川からの取水や用水路の分岐など、水にまつわる解説を聞きながら弥勒石を目指しました。
弥勒石と木の葉堰の担当は、“つばきさん”です。


弥勒石の解説を聞く

 まずは、弥勒石の外観をよ~く観察するところから。今も地元の方々に手厚く祀られ、弥勒さんと呼ばれている弥勒石。定例会当日も村の方がお参りに来られていました。覆屋があるので、背後や側面は観察できないからと、昔の写真を回覧しつつ、弥勒さんをみんなで眺めまわします。(笑)
 弥勒石は、もともとなんだったのか?記録や伝承に調査、今に残る字名、日本霊異記に残る道場法師の逸話など様々な視点で、基準石説・橋脚説・井堰説などの紹介があり、弥勒石の謎にせまるお話がありました。なぜこの場所なのか、なぜミロクなのか?弥勒石の西を流れる飛鳥川や傍にある木の葉堰との関係などを含めて、その謎説きはなかなか難しいようです。


木の葉堰

 そして、飛鳥の水にまつわる謎も、まだまだ追い続ける必要がありそうです。(^^)
 最後に、ご本人(?)を目の前に、あれこれ噂話をしたお詫びにと、皆で弥勒さんに手を合わせました。ナム(-人-)


飛鳥寺西方遺跡の解説を聞く

 飛鳥西方遺跡です。ここでは、最新の調査成果を交えて遺跡全体の説明が事務局長からありました。
中大兄と鎌足が出会った場所と言われ、饗宴の場にもなり、有事の際には軍営まで置かれたと言われる「槻の樹広場」である可能性が高いとされながら、確たる証拠が検出されないところが、古代史ファンをヤキモキさせていますよね。


2013年2月 現地説明会の様子

 その後、飛鳥寺跡へ向かう前に、飛鳥寺西門跡でも、飛鳥寺と西側を隔てていた塀跡や土管暗渠など、飛鳥寺の西に広がる遺構の説明を受け、飛鳥寺跡へと歩を進めました。


飛鳥寺の解説を聞く

 飛鳥寺と飛鳥大仏は“よっぱさん”の担当です。
『日本書紀』や『元興寺縁起』に残る記載から、読み解けることや新たに出てくる矛盾などを順序だてて、説明がありました。
 日本最古の本格寺院であった飛鳥寺は、他の寺跡に比べると、記録も残り遺構なども判明している方になりますが、それでも不明な部分を数多く残します。古代日本唯一と言われる一塔三金堂形式が取られた理由や道昭が果たした役割などは、飛鳥寺の意味を考えるときに重要なことだと思います。

 また今回は、両槻会始まって以来の飛鳥大仏拝観と言うこともあって、仏像豆知識のようなお話もありました。仏像の衣の肩が出てるか出てないかなど、像を形づくる小さな要素のひとつひとつに、大きな意味が含まれているんですね。安居院の本堂内では、実際に飛鳥大仏や台座に残る左右のほぞ穴などをじっくりと観察しました。

 集落内の路地では、飛鳥寺講堂跡の礎石を見学しつつ、石神遺跡へと向かいます。


石神遺跡の解説を聞く

 水落遺跡を西に控えた道で飛鳥寺北限と石神遺跡の範囲の説明が事務局長より、突如始まりました。
石神遺跡と言えば饗宴施設と捉えられがちですが、大きく3期に分けられる遺構が存在すること、そして、今はさらにそれより以前の遺構の存在の想定も可能かもしれないことなどの説明がありました。また、事務局長の指示で、皆で目を凝らして東側を眺め、緩やかな上りとなっているのを確認します。そう、この辺りが微高地。飛鳥での微高地探しは、遺構探しに繋がるようで、ここの微高地探しは、後で回る山田道や奥山廃寺へと繋がる「小墾田宮探し」の一環のようです。(笑)


石神遺跡北方を望む

 水落遺跡は、ガッキー君の担当です。

水落遺跡の解説を聞く

 細かい遺構の配置は勿論、その意味するところを調査や研究・分析結果などを踏まえて遺構の時期などの詳しい説明と実際発掘調査時に携わられた森郁夫先生からお聞きしたという楽しい逸話を交えつつ、終始和やかなムード。^^
 記録に残る漏刻の時期は、およそ10年ほど。実際に使用されたのもその程度だということが銅管に残った堆積物から推定できるんだそうです。水落遺跡では、復元された連立する柱列に目が行きがちですが、北西の一段低く残されている地中梁と呼ばれる石列の重要性を知ることができました。


地中梁

 水落遺跡を後にして、石神遺跡を北上しつつ、 現在の山田道へと向かいます。石神遺跡では、早くも彼岸花のレッドラインが見られました。


石神遺跡のレッドライン

 山田道は、事務局長の担当です。
 「山田道はどこ?」これが、今回の説明の要点かもしれません。(笑)


石神遺跡第19次(2007年)

 「阿倍山田道」として、検出された遺構の説明と『日本書紀』にある裴世清の話から小墾田宮の位置などを踏まえ、古代の山田道は、どこを通っていたのか?と、謎解きが進みました。


石神遺跡第17次(2004年)

 石神遺跡の北部は、低地で沼沢地であったこと、敷葉工法や石組暗渠などが検出されていることから、付近の開発には地下水との戦いがあったことなどの説明を道沿いから南の石神遺跡を望みつつ話を聞きました。

 先に、石神遺跡の南端で確認した微高地に加え、山田道北方にも確認できる微高地から、推古朝の小墾田宮としてあげられる場所の候補地が示され、皆であっち向いたりこっち向いたり、これまた周囲を眺め位置を確認します。小墾田宮と推古朝の山田道探しは、まだまだ続きそうです・・・。

 さて、いよいよ第40回定例会第1部の最後の遺跡である奥山廃寺へと向かいます。


奥山廃寺の解説を聞く

 奥山久米寺の境内に入り、「皆さんもお疲れでしょうから」と、1部の案内のトリであるガッキー君からの第一声で、始まりました。そうですよね・・たかが5キロ弱とはいえ、ここまで休憩なしに歩きづめでしたもんね。^^;

 7世紀前半代に造営された寺院としては、金堂の規模が飛鳥寺に次ぐ大きさを持つということや、瓦の文様と製作技術から、飛鳥寺に始まる古代の造瓦が、奥山廃寺で使用された瓦(奥山廃寺式)で、画期を迎えたということなど、奥山廃寺の特筆すべき点をあげて説明がありました。今のところ、小墾田寺だという説が一番有力なようです。だとすれば、小墾田宮や山田道との関連も浮上してくることになります。一つの遺跡だけを詳細に分かっても所詮は点。点と点が繋がってこそ初めて古代という絵が描けるんだということを今回の定例会でしみじみ感じたももです。σ(^^)は、点ばかりを追いかけているかから、なかなか線にならないし、ましてや絵なんていつになったら描けるんだろう・・・。^^;

 続く第2部「光の地上絵を書きましょう」のレポート担当の風人にバトンタッチします。^^

 第1部は、奥山廃寺にて終了しました。第1部のみ参加の皆さんとは、奥山集落内でお別れとなりました。バス停までご案内出来たら良かったのですが、バスの発車時刻に間に合わせていただくためと、疲れ気味の2部参加者に余分な距離を歩いてもらわないための配慮でした。

 飛鳥資料館到着後は、講堂をお借りして暫しの休憩タイムとなりました。講堂に置いていただいた冷たいお茶で渇きを癒し、またトイレタイムにしました。皆さん、「僅かな距離のウォーキングなのに疲れましたね」と、それぞれにホッと一息ついた感じでした。
 今年春に着任された石橋学芸室長や成田先生の挨拶を受けた後、作業の簡単な説明や今年作ることになった光の地上絵の説明をしました。

 作業は、4時前後から開始の予定とし、残りの休憩時間を懇親会としました。参加者の方に、今回の第1部の感想を一人一人話していただきました。「1人での案内も良いが、視点の違う解説も楽しかった。」など、概して好評をいただき、第1部が成功裏に終わることが出来たことに安堵したのでした。逆に案内者の意見も「大変だったけど勉強になった」など、それぞれに体験談を語りました。度々ということは出来ませんが、またいつかこのような試みをやってみたいと思っています。
 ただ1人、事務局外から案内人となって頑張ってくれたガッキー君に、お礼を申し上げます。大変だったと思います。ありがとうございました。

4時少し前に席を立ち、いよいよ光のボランティア(飛鳥資料館会場 ボランティア)の開始です。まずは、「雪組」と呼ばれる瓦当文様の作成班と、カップロウソクの準備をする班に適宜分かれました。私は地上絵班になりましたので、そちらの方をレポートします。地上絵を描くには、設計図の他に地面にグリッドを作成することが必要ですが、これは手慣れた作業です。グリッド作成には、ほとんど無駄な時間を費やすことなく、あっと言う間に完成することが出来ました。7m×7mの大きさで、この中に雪組(有稜素弁八葉蓮華文軒丸瓦)の瓦当文様を描きます。

 何度も修正を加えながら、また対岸のビューポイントからの見た目を参考にしながらの作成です。完成した頃には、腰が痛くなっていました。運動不足の足には、スクワットのような作業がこたえてきます。


 その後も、地上絵の周りに様々にカップロウソクを並べました。3,000個というと、かなりの量ですが、これだけの量を並べられるのも飛鳥資料館の広い前庭ならではの事でしょう。


 作業は続きます。台風の余波で風が強くなることが予想されましたので、防風用のリングを嵌めたり、カップにロウソクを1つずつ入れて行きます。根気の要る作業を、参加の皆さんには、黙々と熱心に行っていただきました。作業終了は、点灯開始に間に合うかどうか難しい時間になっていたので、休憩も無いまま点灯作業が続きます。疲れました!


 しかし、いつの間にか暮れはじめた空は夕焼けに染まり、揺らめく薄明りのカップロウソクと相まって、なんとも淡い心安らぐ色合いに染まって行きます。作業を終了する頃、知人が見に来てくれたのですが、あまりの綺麗さに驚いていました。


 作業を終えた私たちは、疲れを引きずりながらも綺麗に装った光の庭を眺め、満足感に浸っていました。講堂に戻り、夕食として準備していただいた弁当を食べました。お腹も空いていたので、とても美味しくいただけました。

 疲れた定例会になりましたが、充実感も持っていただけたのではないかと思いながら、第40回の定例会を終えました。

レポート担当:風人・もも  

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