両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第42回定例会レポート

飛鳥寺西をめぐる諸問題



飛鳥資料館ロビー ジオラマ
(転用・転載禁止)
この色の文字はリンクしています。
第42回定例会資料
2014年2月1日

 第42回定例会の講演会に先立つ恒例の事前散策は、初参加の方11名を含む34名で開始です。2月としては、暖かいこの日、集合時間の9時40分を前に皆さん次々と集合してくださいました。30名を超える人数は、やはり存在感が大きいようで、「両槻会じゃないみたいーーーっ!」と、いつもご参加くださる方からお声が上がるほどでした。(笑)


出発式

 出発式を済ませ、ひと塊となって皆で東へと移動を開始します。
 橿原神宮前駅ロータリーから丈六交差点を越え、剣池も横目にドンドンと歩いていきます。(丈六や剣池については、資料をご覧ください。)



 住宅街を通って和田池畔で、本日第一回目の説明に立ち止ります。和田池はいつの時代からあったものなのでしょう。その辺りは不明ですが、谷を堰き止めて池とするのは古代に見られると言う話が事務局長からありました。



その後、視線を北に転じ山田道と以前は小墾田宮跡と考えられていた古宮遺跡の位置を遠目に確認しました。
 甘樫坐神社の前では、この場所で再現神事として毎年4月に行われている盟神深湯神事の話を聞きました。参加者の中から、「嘘ついてなくても熱湯は熱いよね」という声も聞こえてきました。(笑)
 向原寺の後を抜け、金堂跡の集会所、塔跡の碑を見学し、甘樫丘豊浦休憩所へと抜けます。


豊浦休憩所から西を望む

 ここから、塔跡とされる基壇を望みつつ、豊浦寺の説明と今回の定例会で重要な「古山田道」の話を聞きました。西と南に丘陵を控えて建つ豊浦寺。門跡は発掘されていませんが、もしかしたら東に古山田道に繋がる門があったんでは?と、事務局長の妄想は膨らむようです。(笑)
 加えて、豊浦寺金堂の発掘調査に携わられた清水先生が、ご参加くださっていましたので、事務局長からの突然のフリにも関わらず、豊浦寺に関するお話をして頂きました。清水先生有難うございました。

 次は、飛鳥川を渡って、いよいよ飛鳥へと足を踏み入れるわけですが、ここで少しだけ橋とは反対の方向に進み、飛鳥川の渡河地点について考えました。甘樫丘麓を迂回するように湾曲する飛鳥川。何処で越えるのが一番良いか。これも今回の定例会では重要な問題となるようです。飛鳥川越しに東の景色を確認した後は、水落遺跡へと向かいました。


水落遺跡にて

 漏刻台のあった場所として有名な水落遺跡では、漏刻台が約十年しか存在していなかったことから、その他の時期はどんな遺構があったのか、また北に広がる石神遺跡も含めた話となりました。水落遺跡から南下し、いよいよ今定例会の主題である飛鳥寺西へと向かいます。


西方から飛鳥寺を望む

 2013年12月に行われた直近の飛鳥寺西方遺跡の調査区をはじめ、槻の木の根の検出が期待された発掘現場跡などの位置確認をして、飛鳥寺西方遺跡をぐるっと一周回りました。飛鳥寺西門跡では、案内板の写真を見ながら土管列などの確認をし、北へと進みます。


飛鳥寺寺域 北西角付近

 10分ほど前に通った水落遺跡のもう一本東側の農道で、飛鳥寺の寺域北西角の話や、石神遺跡東地区の話、ここの東西道がほんの少し東に向かって傾斜していることなど、また不自然に細長い田んぼが残っていることから古代の道幅はここまであったのか?という事務局長の話に合わせ、参加者の方々は忙しく首を右に左に動かしたり、遥か彼方を見渡したりと大忙し。


道に沿って残る細長い田

 続いて飛鳥寺北限に沿って東進しました。この道が東に向かって行くほど、少し高く(微高地)なっているというのを感じていただけたのなら良いのですが。微高地を確認するには、徒歩よりも自転車が良いそうです。機会があれば、是非自転車で飛鳥微高地巡りをしてみてください。(^^)



竹田遺跡にて

 中の川を越え、八釣に上がる道路の手前で、竹田遺跡や北西にみえる飛鳥城の話、「竹田道ヨリ北」という小字の残ることから、この道はかなり古くから「竹田道」と呼ばれていた可能性などの話を聞きました。竹田遺跡では正殿クラスの建物跡は検出されていないとのこと。新田部皇子のおうちは、少し高台の方にあったんじゃないか?とか。(調査は、されているらしいんですが、後世の掘削で削られいてるんだそうです。あらま・・)


八釣へ

 道を越え、八釣へと向かいます。途中、ちょうど見ごろになっていた蝋梅の花にカメラやスマートフォンを向ける方々。蝋梅は、数本でもとても良い甘い香りがしました。鬱蒼とした木々の中にこぢんまりと佇む弘計神社にも立ち寄ったあと、高台から進んできた道を振り返ってみます。
 登ってみて初めて分かる高低差。自力で登って初めて分かる感覚です。果たして、ここに古道を想定していいものか・・・という話があり、古山田道のルート探しはまだまだ続きます。

 次は、事前散策最終地の山田寺跡へ。


山田寺跡へ

 「道と言っていいかどうか」という事務局長の言葉の後、一行は、畔道?野道?を、ズンズンと進みます。山田寺跡に南から入ったことがなかったというお声もあり、南の高台から見る跡地には、皆さん一様に感動して頂けたようです。南門跡では、西に広がる開放的な空間を確認し(ここに東西道を想定できるのかなぁ~?)、塔跡、金堂跡と伽藍中軸線を北へ進み、跡地北にある「雪冕碑」の解説を聞きました。


南門跡付近から西を望む

 ここからは、講演会場の飛鳥資料館へと向かうわけですが、道端でこれまた事務局長より付近で行われた過去の発掘調査成果についての話がありました。

 さて、資料館に到着。昼食休憩を挟んで、いよいよ講演開始です。

 相原先生には、講演前に飛鳥資料館ロビーのジオラマを使って説明して頂けることになっていました。この機会を逃すまじ!とばかりに、参加者全員でジオラマ近くを囲みました。


ジオラマでの解説

 飛鳥寺をはじめ、飛鳥寺西、北に広がる石神遺跡などを遺跡ごとに位置を示して頂きつつお話をお聞きしました。そして、飛鳥と呼ばれた地域は、おおまかに宮の置かれた南部と飛鳥寺や石神遺跡などの公共施設の置かれた北部に分けることができ、本定例会では北部中心の話になることを伺い、これから始まる講演の予習にとお話に耳を傾け、示される遺跡の場所やその範囲を確認していきました。


 両槻会の講演会は終了時間が決まっているだけです。相原先生は、この実質制限時間なしの両槻会形式をお気に召してくださっているようです(笑)。また、本定例会では解り易いようにと休憩を挟んだ2部形式で講演内容を考えてくださっていました。ご用意くださった資料は、史料も図面も満載のA3サイズの7枚。飛鳥資料館ロビーでのジオラマ解説から含めると、時間は3時間超え!そんな濃い内容をσ(^^)が漏らさず記憶できるわけもなく・・・。このレポートはσ(^^)の中で再構築されたものであることをご承知置きください。(^^ゞm(__)m


 まず、「飛鳥寺西」と言われると、どうしても飛鳥寺西方遺跡だけを思い浮かべますが、今回取り上げる「西」はもっと広く、水落遺跡や石神遺跡をも含めた地域(飛鳥寺から飛鳥川まで)と捉えた方がいいかもしれません。飛鳥寺西地域の話に入る前に、北側に広がる地域について話さなければと飛鳥寺の北を中心にしたお話から始まりました。飛鳥に宮を置いた最初の天皇である推古天皇の時代を抑えるのが大事なようです。この時代の飛鳥の景観や歴史的出来事を踏まえながら、推古天皇の宮であった豊浦宮や小墾田宮について、史料や考古学的成果から何が分かるのかを教えていただきました。
 宮は、主に天皇の住まう場所さえあればそれで良し!みたいな感じだったそうです。確かに、事前散策でも確認した豊浦宮があったとされる豊浦寺跡周辺は、西と南に丘陵、東に飛鳥川があるあの立地では、住まう場所だけで精一杯かもしれません。

 そんな豊浦宮から小墾田宮への遷宮は、外国の使節を迎えられる宮としての体裁を整えるためのもので、そのきっかけとなったのは、日本側の記録には残っていない推古8年(600)の遣隋使にあったようです。この時の中国側の記録には、倭国にとってあまり良いことが書かれていないそうです。倭国は、自国への酷評をバネに奮起したって感じなんでしょうか。小墾田宮への遷宮を機に、施設などのハード面をはじめ、身分制度(冠位十二階)や法律(憲法十七条)などのソフト面も、当時の東アジアの情勢に対応できるものとしての整備が急ぎ進められたのではないかということです。

 でも、小墾田宮の所在地は勿論、推古朝に「小墾田」と呼ばれた地域がどこからどこまでなのかも、はっきりとはしていません。小墾田宮には、古宮遺跡や雷丘東方遺跡など幾つかの候補地がありますが、それらは、さらに、宮の構造復元案の見直しや遺物などから、もっと絞り込んでいけるようです。
 隋使裴世清が通ったとされる山田道は、当然宮の南に面していたと考えられることから、宮の位置探しには、山田道のルートや石神遺跡など周辺の遺構の変遷なども複雑に絡んでくるというから、さあ大変!


 まずは、山田道ですが、石神遺跡の第19次調査で検出されたのは、7世紀中頃のもの。古く見積もっても皇極朝は遡り得ないだろうということですし、ルート上では7世紀前半の建物跡も検出されていますから、まさか道の上に家を建てるなんてことはしませんよね。・・・とすると、推古天皇時代の山田道(古山田道)は、ここではないと言うことになります。そのうえ、現在の山田道の周辺は沼沢地、石神遺跡でも、道らしい遺構は出ていません。
 現山田道の周辺や石神遺跡にある可能性は低い。石神遺跡のすぐ南には、飛鳥寺北限がある。
 ということは・・・飛鳥寺北限に残る現代の東西道が古山田道を踏襲していると考えるべきだろうと。

 小墾田(小治田)という地名に関しては、雷丘東方遺跡の墨書土器の出土から、周辺がそう呼ばれていたと考えられています。でも、これは奈良時代のお話。一方、『日本書紀』には天武期に「小墾田兵庫」が置かれていたことがみえ、遺構状況(倉庫群や収蔵庫?)や出土遺物(鉄鏃)から、その場所は石神遺跡に想定できるようです。地名は、川原や豊浦、嶋に橘など川や道を境界としています。古山田道を飛鳥寺北限に想定すると、それより北が小墾田、南が飛鳥と呼ばれていたと考えられると言われると、なるほど・・・と言うしかありません。
 小墾田の範囲が分かったら、その中で宮はどこに?


小墾田宮所在候補地と古山田道推定地図

 小墾田宮の候補地としては、A・B・C・D・E・F・Gと7つの区画があげられるようです。それぞれの場所についての考察は、ここでは置いておきますが、石神遺跡や周辺の遺構の変遷と考え合わせると、現在のところ「G」が相原先生のイチオシのようです。

 飛鳥寺西地域については、まずは飛鳥寺の位置とその役割のようなお話がありました。日本初の本格寺院飛鳥寺は、突如飛鳥の内陸部に姿を現します。それも、天皇の住まう宮よりも先に。飛鳥の入り口の抑えとして建立された飛鳥寺は、仏教施設というだけでなく国際文化センターのような役割も担っていたんだそうです。確かに当時の僧は、様々な知識を持つ学者的な存在でしたから、σ(^^)にもとっても分かりやすい喩えでした。


 飛鳥寺西と言えば、やはり槻の木を思い浮かべます。この槻は、飛鳥寺建立以前から付近に生えていた可能性も想定できるんだそうです。その根拠は、飛鳥寺造営以前にあった家の持ち主の名前。飛鳥寺は、衣縫の祖樹葉の家を取り壊して建てられていますよね。この「樹葉」と言う名前がミソのようです。古代の名前って結構安易につけられていますもんね(笑)。槻ありきの飛鳥寺だった可能性もあるのか?と思ってみたりもします。

 槻の木以外にも、飛鳥寺の西地域には、須弥山・漏刻・軍営などが置かれていました。須弥山が置かれ饗宴の場となったり、軍営が置かれたりしたこの場所は、かなり広大であったと考えられるようです。飛鳥寺西方遺跡としての範囲は、南北220m・東西170mとされているそうで、飛鳥川に向かって雛壇状に造成されていることもわかっているそうです。

 史料を追いかけると、利用のされ方で性格の移り変わりが分かってきます。(『日本書紀』の記述は、資料ページにありますので、そちらを見て頂ければと思います。)さらに、それを発掘調査の成果と照らし合わせて考えて行くと、各遺構の性格も見えてくるようです。(遺構の変遷も資料ページを参照してください。)
 こういう行程は伺っているには楽しいですが、考えて整理して組み立てて・・・大変だろうなぁ~と思いました。先生方の頭の中ってどうなっているんでしょうね。覗けるものなら覗いてみたい(笑)

 飛鳥寺西の変遷は、相原先生に頂いた資料の表を基に少し追記しています。m(__)m


 飛鳥寺西は、槻の木を憑代とした呪術的な君臣統合の場から、蝦夷や新羅・百済などのもっと遠い存在の服属や饗宴の場となります。また漏刻を置いて時を支配し、最終的には軍の施設まで置かれています。
 そういう意味でも、飛鳥寺西は天下の中心なんだそうです。飛鳥寺西を中心に円を描くと、広義の飛鳥がほぼ納まるんだそうで・・・確かにパワポの画像では綺麗に円に納まっていました。(笑)
 天下を広く治めるもの(治天下大王・あめのしたしろしめすおおきみ)が、天皇であることを少しずつ具現化したってことなんでしょうか。

 本定例会は、σ(^^)の文章力では、書ききれないことが一杯あります。(>_<)
 例えば・・・、石神東地区で検出されたクランクする溝とそれに伴う大量の瓦。ここは、瓦が出たから仏教施設だろうと推定されるのが普通なんですが、飛鳥寺のすぐ北に寺があったのか?なんていう問題も出てきます。相原先生は、今回小墾田宮を石神東地区に想定されていますので、この遺構は宮に隣接する迎賓施設だろうとされました。σ(^^)には、この話が一番のツボでした。(^^ゞ 迎賓施設に瓦って不思議に思われるかもしれませんが、瓦葺きが寺院建築に始まるのは、日本だけです。中国や朝鮮半島では、寺院建築よりも先に瓦の使用が始まっています。

 あと、水落遺跡のお話も面白かったです。事前散策での事務局長の話にもありましたが、ここはどうしても漏刻台だけが注目され、他の時期の遺構は無かったかのように思われがちです。相原先生は、漏刻台より前の時期に造営されていた四面庇付の建物を、中大兄皇子が難波宮から強硬手段で飛鳥に帰京した際に入った倭飛鳥河邊行宮ではないかと推定されました。そして、斉明天皇の飛鳥川原宮ではないかとされました。古代の地名が川や道を境に異なることを考えると、「飛鳥」と付く宮がこの範囲に納まるのは至極当然のことなんだそうです。倭飛鳥河邊行宮に関しては、なるほど・・と思うのですが、ここが斉明天皇の川原宮だとすると、川原寺の下層は何になるんでしょう。定例会中に相原先生にお聞きすれば良かったと後悔先に立たず・・・。(制限時間一杯で質疑応答の時間はなかったんですが。(笑))また、近江へ遷都されて漏刻がなくなった天智朝では、ここに留守司が置かれたと想定されていました。・・・と、こんな風に、まだまだ一杯あります。なにしろ3時間超えですから。^^;



 「飛鳥寺西」と言葉にすれば短いですが、その範囲はとても広くて、私たち素人には遺構図だけでは、それが何かを判断するのは困難です。また、『日本書紀』の記述を見てもそこからの発想には限界があります。こういう機会に纏めてお話を伺うことで、理解を少し深められるように思います。
 相原先生、お忙しいところ両槻会のために貴重なお時間を有難うございました。m(__)m

 本定例会の参考に、飛鳥遊訪マガジンに連載して頂いていた あい坊先生の「推古朝のふたつの王宮」を再読されることをお勧めします。『日本書紀』や遺構図を脇に置いて読み進められるとより理解が深まると思います。(^^)

 また本定例会では、第1部と第2部の間の休憩時間を利用して、両槻会設立7周年の記念撮影をさせていただきました。今までは、出来るだけ参加者が写りこまないように写真を撮ってきましたので、真正面を向いての記念撮影などは、勿論初めてのことです。何か残しておきたいという事務局の気持ちの表れ―事務局も年を取ったということでしょうか。(笑)講師の相原先生をはじめ、ご参加くださった先生方にも入って頂きましたので、ご参加くださった方の記念になればと思います。

 そうそう・・本定例会の打上では、講師の先生へのお礼は勿論のこと、合わせて7周年と定例会開催総数50回記念とさせて頂きました。
 いつも打上会場としてお世話になっている新中華花林のマスターから、特別に「乞食鶏」のプレゼントを頂きましたので、ここで画像だけでもご紹介。(笑)美味しかったです!!マスター、いつもお世話になります。m(__)m

乞食鶏


レポート担当:もも  

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