両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第42回定例会

両槻会主催講演会

飛鳥寺西をめぐる諸問題



事前散策資料

作製:両槻会事務局
2014年2月1日

  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
山田道 (阿倍山田道) 山田道と葛城氏・蘇我氏 二つの山田道 丈六
剣池 豊浦ヒブリ 豊浦寺 甘樫坐神社
平吉遺跡 雷丘 雷内畑遺跡 雷丘東方遺跡
石神遺跡 水落遺跡 飛鳥寺西方遺跡 石神東地区
小墾田宮 竹田遺跡 山田寺 雪冤碑
蘇我氏系図 関連年表 関連系図 当日レポート
相原嘉之先生寄稿 「飛鳥寺西をめぐる諸問題」 飛鳥咲読 両槻会


散策ルート

より大きな地図で 第42回定例会事前散策 を表示

この色の文字はリンクしています。

山田道(阿倍山田道)


図1 大和盆地古道図

 古代の大和盆地には、国家によって建設・整備された幾つかの幹線道路がありました。主なものには、東西道路である横大路と、上ツ道、中ツ道、下ツ道と呼ばれる2.1km等間隔に並んだ南北三道や左図のような道路網が存在したようです。阿倍山田道もまた、そのような官道の一つでした。

 「山田道」は、近鉄橿原神宮前駅東口付近、現丈六交差点を西端として、下ツ道との交差地点から直線的に約1.5km東進し飛鳥川に至ります。飛鳥時代の渡河地点が問題になりますが、その点に関しては後の項に譲ることにします。
 飛鳥川を越えた東岸の雷丘からは再び直線道となり、飛鳥資料館の東まで約1kmの直線道路となります。その後は、桜井市山田付近で丘陵や寺川支流の山田川に沿って北東方向に緩やかなカーブを描き、安倍寺跡の東側でほぼ南北の直線道路になります。横大路と交差してから以北は、上ツ道と呼ばれ、道路は更に北に続きます。
 この山田道は、現在においても西は県道124号線、東は県道15号線にほぼ合致しており、今尚地域を繋ぐ道路としての役割を果たしています。

 山田道沿いには、推古天皇の豊浦宮・小墾田宮といった飛鳥時代初期の宮殿が存在したと考えられ、その東端には飛鳥時代以前の歴代天皇の諸宮があった磯城・磐余地域があります。軽・飛鳥・磐余・磯城という古代の重要地点を結ぶ幹線道路が山田道だと言えます。
 また、山田道の両端には幹線道路が交差し、衢(ちまた)が形成されていました。衢の付近には、西では軽市、東では海石榴市という往古から栄えた市が存在し、古代の繁華街が形成されていたことが推測されます。

 山田道が、文献に登場する例としては、9世紀初めに書かれた『日本霊異記(日本現報善悪霊異記)』が上げられます。上巻の第一縁に雄略天皇の時代の話として、山田道らしき道路が登場します。雄略天皇の命令を受けた少子部栖軽(ちいさこべのすがる)が、雷神を求めて磐余宮から「阿倍山田の前の道」「豊浦寺の前の道」を通って「軽の衢」に至ったことが書かれています。
 『日本霊異記』の記述が正しく事実を語っているかどうかは別にして、平安時代には、古来より「山田道」が存在していたという認識があったことが分かります。

【参考】
 『日本霊異記』上巻 第一縁「雷を捉へし縁」
栖軽勅(みことのり)を奉りて宮より罷(まか)り出づ。緋の縵(かづら)を額に著け、赤き幡桙(はたほこ)を擎(ささ)げて、馬に乗り、阿倍の山田の前の道と豊浦寺の前の路とより走り往きぬ。軽の諸越の衢(ちまた)に至り、叫囁びて請けて言(まう)さく、「天の鳴電(なる)神、天皇請け呼び奉る云々」とまうす。


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山田道と葛城氏・蘇我氏

 古代大和盆地には、盆地南端から豪族葛城氏の本拠地である葛城・金剛山東麓へ向かう道路の存在が推定され(葛上斜行道)、山田道は西端の丈六付近で、これに接続する道路であったと考えられます。言い換えれば、山田道は磯城・磐余と葛城山東麓を結ぶ道路の東半分であったと言えるかも知れません。雄略天皇の宮と葛城氏の本拠地を結んでいた道路になりますので、その役割は重要なものであったことでしょう。また、このルートはさらに延長して考えることが出来、紀の津に向かう、当時の「紀路」を構成する一部分であったと言えるかも知れません。

 視点を飛鳥に戻すと、6世紀頃には蘇我氏が飛鳥方面に進出を開始します。橿原市曽我町(式内社宗我坐宗我都比古神社)付近を拠点としていた蘇我氏は、徐々に東に開発を進め、山田道沿いから飛鳥地域へと歩みを進めました。

 蘇我氏の台頭は、渡来人を抱え込み、その技術力に支えられた大規模開発による経済力の裏付けがあったためだと考えられます。


図2 山田道と蘇我氏勢力図

 図2を参照してください。蘇我稲目の小墾田の家・向原の家・軽の曲殿、馬子の石川の宅、蘇我蝦夷・入鹿父子の甘樫丘の邸宅など、歴代の蘇我本宗家の邸宅が山田道沿いに並んでおり、それらと連携するように支族の諸領地が配されていました。図2にはありませんが、馬子の嶋の邸宅なども考慮すると、飛鳥への入口はことごとく蘇我氏一族の領地となっている感があります。また、南部には、蘇我氏の支配下に置かれ密接な関係にあった東漢氏の居住地が、飛鳥を南から包んでいるかのように存在していました。

 山田道は、飛鳥とそれ以前の諸宮を繋ぐ道だと書きましたが、もう一つ別の言い方も出来るかも知れません。それは、「蘇我氏と天皇の宮を結ぶ道」であるということです。磐余や磯城に置かれた欽明天皇(磯城島金刺宮)から始まる磯城磐余の諸宮に、稲目や馬子は「山田道」を通って参内していたことになります。また、推古天皇は、山田道を通って飛鳥へ遷宮したと言えるでしょう。

 


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二つの山田道

 『日本書紀』推古16年(608)、聖徳太子の「日出処の天子・・・」の書き出しで始まる書簡で有名な遣隋使に対して、大唐の使者(隋使)として裴世清が入京します。瀬戸内海を船で難波津に着け、2ヶ月の滞在の後いよいよ飛鳥へ入ることになります。
  同8月の条に「・・この日、飾り馬七十五匹を遣わして、唐の客人を海石榴市の路上に迎え、・・・。」という『日本書紀』の記述は、海石榴市から当時の宮殿であった小墾田宮へ歓迎のパレードが行われたことを示しています。



【参考】
『日本書記』推古16年(608)条に見える、隋使の大和入国までの行程

4月    遣隋使小野妹子、隋使裴世清と12人の下客らとともに、筑紫に到着。
       難波吉士雄成が出迎える。難波に、隋使を迎え入れるための館を建設する。
6月15日 隋使ら難波に到着。飾船30隻をもって出迎える。先の館に宿泊する。
8月 4日 海石榴市街で額田部連比羅夫が飾馬75匹をもって出迎える。

 海石榴市から小墾田宮までは山田道以外のルートは考えにくく、この期に山田道は整備や改修が行われたと考えられます。
 これを裏付ける発掘調査の成果があります。2002年桜井市教育委員会によるもので、安倍寺跡の直ぐ東から小礫や土器片によって舗装され、さらに石組の側溝を伴う道路遺構が検出されました。また、出土した土器片などから7世紀前半の遺構であることが判明しています。この道路遺構は、山田道推定ルート上に在りました。
 『随書』巻八一東夷伝倭国条に、次のような文章があります。「今故清道飾館以待大使」で、「今故(ことさ)らに道を清め館を飾り、以て大使を待つ」と読めば良いでしょう。これは、推古16年(608)4月に隋使裴世清が、我国を訪れた時の隋側の記録とされています。「道を清め」は、清掃をしたということではなく、道路の補修や整備を行ったことを示すと考えられるようです。

 山田道が発掘調査で見つかった事例を、もう一つ紹介します。2007年、奈文研が行った石神遺跡第
19次調査で、山田道の南側溝と路面が検出されました。それ以前の調査結果と合わせて、路面幅は約18mで、両側に側溝を持つ立派な道路であったことが分かりました。また、道路は敷葉工法という基底部に木の枝葉を敷き詰めて土を盛る基礎工事を行っており、石神遺跡北方にあった沼沢地に道路を建設する工夫がなされていました。また、過去に近接する場所でおこなわれた発掘調査では、地中の水分を除去するために大がかりな石組みの暗渠が造られていることも確認されています。
このように様々な工夫がなされていたことは、それだけ重要な道路であったと言えます。これらの遺構は、出土遺物から7世紀中頃のものであるとされました。 

 2つの発掘成果は、山田道の遺構ではありますが、時期が異なります。安倍寺付近の舗装道路は7世紀前半、石神遺跡の北方は7世紀中頃の遺構ですので、裴世清が通った山田道は飛鳥に掛かる地点、つまり「小墾田宮付近」では、まだ発見されていないことになります。それは、小墾田宮の所在地にも大きく関わってくる興味深い問題になります。


図3 古山田道経路推定図

 図3を参照してください。石神遺跡を中心に描いた山田道のイラストマップです。現在、一般的に「山田道」と言われる道路を緑色の点線で示しました。飛鳥資料館の西から雷丘までの間に、道路建設には不向きな状況が有ることが分かります。それは、マップでは湿地と書いた沼沢地と7世紀前半の掘立柱建物の存在です。道路の上に家は建てませんので、7世紀前半には、この地点には山田道が無かったことになります。
 石神遺跡の北部域(現山田道まで)の調査では、7世紀前半の山田道探しが大変注目されたのですが、付近からは道路遺構はついに発見されずに終わりました。

 では、7世紀前半の山田道、今回の定例会では「古山田道」と書き表しますが、どこを通っていたのでしょうか。考察のヒントとなるのは、飛鳥川の渡河地点です。北流してきた飛鳥川は、雷丘の南で急激なカーブを描きます。その屈曲地点に架橋することは考えにくいように思われますし、技術的にも困難を極めそうです。そうすると、雷丘の西か現在も橋が架かる水落遺跡の西付近が有力な渡河地点となります。道路の続き具合などを見ると、やはり水落遺跡西方が有力なようです。

 マップで示す古山田道は、飛鳥寺北限大垣に沿った道路で、水落遺跡と石神遺跡の間を抜けて飛鳥川に至ります。また、東では八釣集落から桜井市山田や高家へと繋がるのですが、竹田遺跡の存在から古代より使用されていた道路であることが分かります(竹田遺跡については後述)。
この道路は、石神遺跡の南で現在も農道として痕跡を残しています。その農道と接する位置に細長い田んぼが続きます。この田んぼを含めた範囲が、道路幅になるのかも知れません。古代の様子が現在の地形に影響を与えることは、飛鳥では度々見かけることです。
 推古天皇の遷宮の道、蘇我氏が磐余諸宮へ通った道、隋使裴世清が小墾田宮を目指した道、少子部栖軽が雷神を求めた道、その古山田道が見えてきたのではないでしょうか。

歴代宮都  (近江俊秀先生作成による)

天皇 宮の所在地 大臣 大臣の家 所在地 大臣没年
宣化天皇 檜隈廬入野宮 明日香村檜前 蘇我稲目 向原家 明日香村豊浦 欽明31没
欽明天皇 磯城嶋金刺宮 桜井市金屋 軽曲殿 橿原市大軽町
敏達天皇 百済大井宮
訳語田幸玉宮
橿原市?
桜井市戒重
蘇我馬子 石川宅
槻曲家

橿原市石川町
橿原市大軽町
または西池尻町
明日香村島庄
推古34没
用明天皇 磐余池辺双槻宮 桜井市池之内?
崇峻天皇 倉橋柴垣宮 桜井市倉橋
推古天皇 豊浦宮
小墾田宮
明日香村豊浦
蘇我馬子
蘇我蝦夷

豊浦

明日香村豊浦
舒明天皇 岡本宮
田中宮
百済大宮
明日香村岡
橿原市田中町
桜井市吉備?




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丈六

 丈六というのは、一丈六尺(約4.8m)の長さを表します。また、立像の高さ一丈六尺の仏像そのものを示すこともあります。釈迦の身長が常人の倍の高さで一丈六尺あったとの信仰に基づくものだとされ、座像の場合は立てば丈六になるとして八尺の高さに造られるようです。

 丈六という交差点名は、丈六仏を連想させます。丈六仏をお祀りするほどの寺院が付近に存在した可能性を示唆しているように思われます。
 丈六交差点西側の東西道路の南北両側は一部発掘調査が行われており、丈六北遺跡からは、掘立柱建物・竪穴式住居・井戸などが検出され、遺物としては、須恵器や土師器が出土しています。また、丈六南遺跡からは、礎石が検出され、瓦・土師器・須恵器が出土しています。これらは、遺物の年代観から飛鳥時代の遺構であると考えられるようです。このような発掘調査の成果から、付近に古代寺院が存在した可能性があり、厩坂寺などがその候補に上がっているようです。厩坂寺は、興福寺の前身寺院だとされるお寺です。
 また、清水昭博先生の考察による、有間皇子の邸宅の存在も忘れてはいけません。


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剣池

 現在の名称は「石川池」です。一見すると孝元天皇陵(剣池嶋上陵)の周濠の様に見えますが、孝元天皇の実在性はともかくとして、天皇陵とされる古墳自体が確認されたものではありません。自然丘陵上に造られた円墳2基と前方後円墳1基(中山塚1~3号墳)が陵内に存在するとされていますので、一つの墳墓とは考えられないようです。よって、池自体も別の目的で、別の時代に築かれたものかも知れません。

 日本書紀の応神天皇11年(281)冬10月の条に、「剣池・軽池・鹿垣(かのかき)池・厩坂池を作った。」とあります。付近に4つの灌漑用の池が造られたようです。孝元天皇の在位とされるのは紀元前3世紀頃ですので、池の造営とは約500年の時代差があります。

 剣池は、もう一箇所『日本書紀』に記載があります。皇極天皇3年 (644) 6月、「剣池の蓮のなかに、一本の茎から二つのうてなの出ているものがあった。豊浦大臣(蝦夷)は、『これは、蘇我臣が栄えるというめでたいしるしだ』とかってに考えて、金泥でそれをえがき、大法興寺の丈六の仏に献上した。」とあります。歴史の皮肉なのでしょうか、翌年の乙巳の変で蘇我本宗家は滅びてしまいます。


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豊浦ヒブリ


 和田池の北東岸に小さな竹薮になった丘があります。「火振山」または「摩火振山」と呼ばれているようです。飛鳥地域には、「ヒフリヤマ」「火振山」「フグリ山」「張山」「火振塚」やそれが転訛した地名がたくさん存在しています。「ヒフリ」の地名は、飛鳥を取り囲むように点在し、それらの多くは、重要な幹線道路を見下ろすような位置にあります。

 斉明6年(660)に唐・新羅連合軍の攻撃によって百済が滅びた後、百済遺臣の鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の動きが起こります。また、倭国に滞在していた豊璋王を擁立しようと倭国に救援を要請します。我国の実権は皇太子中大兄皇子にあり、皇子は総数42,000人の大部隊を派遣しますが大敗を喫します。
 天智2年(663)、この大敗を受けて、我国に軍事的な緊張感が高まります。北部九州の水城の建設や防人の配置、また瀬戸内海の沿岸には、山城が次々と築かれます。そして、都は近江に移されます。
また、時代が過ぎて、壬申の乱後の天武政権は、「政の要は軍事なり」との記載が『日本書紀』にあることなどを考えると、飛鳥にも何らかの防衛上の構想があったように思えます。

 南の紀路方面には、森カシ谷遺跡など、軍事的な意図を持ったと思われる施設の遺構が発見されています。これらの事柄に合わせて考えるならば、豊浦火振山は、官道「山田道」を間近にする位置にあり、飛鳥の北西端にあります。北から北西に視界が開け、飛鳥の喉元を押さえる重要な位置に存在します。 この豊浦の「火振山」は、飛鳥を取り囲む烽火台ネットワークの一つだったのかも知れません。

 ただ、雨乞い神事の中に「火振」と呼ばれるものがあり、在所の山頂付近で松明を振る神事があります。「ヒフリ山」の全てが、烽火台であったかどうかは確証が持てないところです。
 

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豊浦寺


図5 豊浦寺伽藍図
 豊浦寺跡には、現在、浄土真宗本願寺派の向原寺が建てられており、周辺の発掘調査から、下層に古代寺院の存在が明らかになっています。向原寺の境内は、ほぼ古代の豊浦寺の講堂であったと思われます。また金堂は、南側の豊浦集落の集会所付近に建立されていたことが明らかにされています。塔跡は、塔心礎とされる礎石の存在する付近に石敷をめぐらせた基壇が発見されていますが、位置や他堂宇との方位の違いがあり、塔と確定するには疑問も残ります。

 豊浦寺は四天王寺式伽藍が推定されていますが、地形に影響された特異な伽藍配置であった可能性も残るのではないかと思われます。

 豊浦寺の南門は確認されていないのですが、地形的に南に丘陵が迫ること、また古山田道が東を通ることが考えられ、東門が主要な門とされていた可能性が考えられます。

 豊浦寺は、我国の仏教公伝と深く関わる非常に古い歴史を持ちます。『日本書紀』には、欽明13年(552)10月、百済・聖明王の献上した金銅仏像・幡蓋・経論などを授かった蘇我稲目が、小墾田の家に安置し、また向原の家を寺としたことが書かれています。
また、『元興寺縁起并流記資材帳』によれば、戊午年(538)に牟久原殿に初めて仏殿が設けられ、これが敏達11年(582)に至って桜井道場と呼ばれ、15年には桜井寺と改称し、推古元年(593)、等由羅寺へと変わって行ったとされています。
両記事から、蘇我稲目の向原の邸宅が寺(仏殿)として改修され、それが豊浦寺へと発展していったことが分かります。

 推古11年(603)冬10月、天皇は豊浦宮から小墾田宮に遷ります。豊浦宮の跡地に豊浦寺が建てられることになります。この移り変わりを物語る遺構が、向原寺境内に存在しています。
(遺構は、見学可能です。)

 豊浦寺創建時講堂は、南北約20m、東西約40mの基壇の上に建てられた礎石立建物で、南北15m以上、東西30m以上の規模を持ちます。(飛鳥寺講堂とほぼ同規模)
建物は、北で西に約20度振れる方位を示しています。そして、その建物に先行する遺構が講堂の下層に在ることが確認されました。南北4間以上、東西3間以上の掘立柱建物で、柱の直径が30cmの高床式南北棟建物として復元出来るようです。建物の周りには石列がめぐり、建物の外側に約4m幅のバラス敷が検出され、特殊な建物であったことが容易に想像できます。
 バラス敷は、講堂の下層全面から金堂下にも及んでいたようです。また、この遺構時期と思われる6世紀後半の石組遺構や柱列が、回廊や尼房下層からも発見されています。
 これらの遺構は、豊浦寺に先行する豊浦宮の可能性が高いと推測できます。また、稲目の向原の家の一端を見せているのかもしれません。

 金堂は、東西17m・南北15m(飛鳥寺の約8割の規模)、塔が周囲に石敷きを伴う東西約14m(基壇規模)で南北規模は不明です。この他、回廊や尼坊と推定される遺構が講堂跡の西から検出されています。


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甘樫坐神社

 社伝によると、この神社の祭神は大禍津日(おおまがつひ)神、神直日(かむなおび)神・大直日(おおなおび)神、他2座と推古天皇の6柱としています。主祭神は推古天皇となっていますが、推古天皇が祀られるようになったのは、江戸時代からだそうです。推古天皇以外の神名を見ると、詳しくは分かりませんが、この神社で行われる盟神探湯の神事を連想させる神名になっています。


 『日本書紀』には、応神天皇紀と允恭天皇紀、また誓湯(うけいゆ)として継体天皇紀にも関連の記事があります。盟神探湯は煮えた湯の入った釜に手を入れ「正しき者には火傷なし、偽りし者は大火傷あり」という裁判が行われたと書かれています。裁判と言って良いかどうかは疑問ですが、神事という形を借りた心理的な尋問方法ではなかったかと思われます。『日本書記』にも「ことさらに偽る者は、恐れて、あらかじめ退いてしまって釜の前に進むことがなかった。」と書かれています。

 応神天皇9年(279)4月条に、武内宿禰が弟の甘見内宿禰の讒言を受けて殺されそうになり、武内宿禰が潔白を主張したので、天皇は2人に磯城川で探湯(くがたち)をさせたとの記事があります。
また、允恭天皇4年(416)9月条には、上下の秩序が乱れて、むかしの姓を失ったり、わざと高い氏を名乗る者も出てきたので、それを正すために甘樫丘で盟神探湯を行ったという記事があります。
各自が沐浴斎戒し、木綿の襷をつけて探湯(くがたち)を行い、正しく姓を名乗っている者は何ともなく、詐りの姓を名乗っている者は皆火傷をしたので、後に続く者の中で詐っている者は恐れて先に進めなかったので、正邪がすぐにわかったとあります。この条の註記には、「盟神探湯 あるいは泥を釜に入れて煮沸して、手でかきまわして湯の泥を探り、あるいは斧を真赤に焼いて、掌に置いたりした。(日本書紀注釈)」と書かれています。

 継体天皇24年(530)9月条には、任那人と日本人との訴訟を決することができなかったので、誓湯(うけいゆ)を行った記事があります。


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平吉遺跡


図6 平吉遺跡遺構図
 甘樫丘の北西麓部、南から北へ緩やかに傾斜する台地上にあたり、甘樫丘麓として初めて発掘調査が行われた場所になります。

 1977年の奈良文化財研究所による調査で、遺構は6世紀から9世紀にわたるA・B・C・の3期に分類されています。

A期(6世紀)では、遺跡中ほどに東西約4.6m・ 南北約4.7mの床面に柱穴4個が確認された竪穴式住居。B期(7~8世紀)では、掘立柱建物8棟、塀5基・井戸2基・長方形石組炉3基と石列など。
また、8世紀(奈良時代)の遺構として、池と護岸石列や導水石組溝が検出されており、庭園遺構だとされています。現在、芝生広場にある石組溝などは、この遺構の復元であると思われます。

 C期(9世紀以降)では、木棺墓(冠・石帯・砥石・土器などを副葬する)が検出されています。
 B期(奈良時代)の遺構は、さらにⅠ類・Ⅱ類の2期に分類することができるそうです。
 Ⅰ類は、遺跡の西側にほぼ一列に並んだ建物群で、北に対して東に約20度触れる方位を持っています。遺跡中ほどに炉跡が3基あることから、上記の掘立柱建物跡は鉄や銅製品の製造に関わっていた工房跡だと考えることも可能かもしれません。また、この遺構の東側にあたる部分には、排水用の護岸かと思われる石列が断続的に検出されたため、この時期、遺跡東側は谷筋に当たっていたと推定されています。
 Ⅱ類は、遺跡中央の東西塀のほかに、西と南にそれぞれ一棟ずつの建物跡と井戸跡のみになります。南の掘立柱建物と井戸は作り替えられているそうです。
瓦類の出土は、主に豊浦寺と同笵の新羅系軒丸瓦や鬼板などで、谷筋の中央部分からの出土になります。
 遺構の変換や出土遺物などから考えると、北西約200mにある豊浦寺と縁のある施設(瓦窯や鋳造関連の工房)があったと考えるのも面白いと思います。


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雷丘

 雷丘は高さ約20mの丘です。平安時代初期の説話集「日本霊異記」に、雄略天皇の侍者である小子部栖軽に呼びつけられた雷神が雷丘に落ち、その雷神は捕らえられたとあります。また栖軽の死後に墓を建てたとの記述もあります。

 2005年に発掘調査が行われ、雷丘西斜面から雷神伝承と同時期となる5世紀後半の円筒埴輪片
約500個が出土しています。雷丘東方遺跡や山田道沿いの調査からも円筒埴輪が出土しており、雷丘には5世紀後半~6世紀前半に丘上に古墳(群)が存在していた可能性があります。


図7  雷城図

 また、丘の西斜面からは、7世紀と推定される小型石室らしき石組みが3基検出されていますが、これらは他の用途の石組ではないかとの見解もあり、現在、その見方が有力になっているようです。 

 丘上には、15世紀頃の中世城砦跡が発掘調査によって見つかっており、名前だけが知られていた雷城の構造が分かりました。 丘上の飛鳥時代の遺構は、この中世城砦が造られた時の大規模な削平によって破壊されたものと思われます。


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雷内畑遺跡

 この遺跡は、雷丘(城山)と上ノ山の間にある遺跡です。7世紀中頃以降の池の護岸(庭園遺構)や掘立柱遺構が検出されており、池は、その後に石積みと石敷広場に作り替えられているようです。遺跡の時代推定から、皇極天皇の小墾田宮に関わる苑池の一画とも考えられ、雷丘東方遺跡と合わせて興味深い遺跡ですが、小さな調査区であったため詳細は不明です。 (7図参照)


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雷丘東方遺跡

 雷丘東方遺跡は、これまでの調査で、計画的に配置された奈良時代の倉庫群や礎石建物が検出されており、役所あるいは宮殿であった可能性が高いと推定されています。また、「小治田宮」・「小治宮」と書かれた墨書土器のまとまった量の出土は、奈良時代以降の小治田宮がこの地に在った可能性を更に高めています。  
 付近には飛鳥時代の遺構も存在することから、遡って推古天皇の小墾田宮も同地付近に在ったのではないかとの推測もあります。


雷丘周辺遺構図
(明日香村埋蔵文化財室展示パネルより)

 また、奈良時代の井戸枠が発見されているのですが、木材の年代を測定した結果、758年に伐採された木材であることが判明しました。『続日本紀』には、天平宝字4年(760)、淳仁天皇が「小治田宮」に行幸されたことが書かれており、井戸や周辺の建物跡は、この時に合わせて整備された小治田宮の付帯施設であると考えられるようです。

 これらの発掘成果によって、従来は豊浦にある古宮遺跡(古宮土壇付近)を小墾田宮としていたのですが、この雷丘東方遺跡を推古天皇の正宮小墾田宮とする説が脚光を浴びました。しかしながら、古代の幹線道路山田道との位置関係や地形上の制約があることなど、疑問点も多く残ります。


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石神遺跡

 石神遺跡は、奈良文化財研究所の2009年春までの継続調査で、7世紀を通して利用され続けたことが分かっています。検出された遺構は、建物や石敷広場や池・溝などですが、敷設された時期によってそれぞれ性格を異にするようです。これらは、大きく分けて3時期に区分されると考えられていますが、遺構は造成や改変が繰り返されていることから、各期は更に細分された時期区分で考えられます。

 まず、これまでの復習をしてみましょう。
 A期(7世紀前半~中頃)とされる遺構は、大規模な長廊状の建物や四面庇建物、池・井戸や石組溝が配置されていました。これらは斉明朝の饗宴施設と考えるのが有力とされており、須弥山石や石人像もこの時期のものであるとされています。
 B期(7世紀後半)になると、大規模な土地利用の変更が行われます。塀で区分された土地に、掘立柱建物が配置されました。これらは、天武朝の官衙であろうとの見解が示され、鉄鏃が出土することなどから小墾田兵庫の可能性も指摘されています。
C期(藤原京期)になると、再度、建物は方形の区画に再配置されています。出土遺物などや藤原宮東方官衙の建物配置との類似から、同様の官衙であると推定されています。

 2009年春の第21次調査では、A期に含まれる遺構が検出され、斉明期の饗宴施設が造られる以前に、瓦が使用された建物があったことが分かってきました。
使用された瓦は舒明朝に作られたと考えられる奧山廃寺式の瓦で、石神遺跡には斉明朝を下る時代から重要な瓦葺の施設が存在したと考えられるようになりました。

 では、次の4枚のイラスト遺構図を順次ご覧ください。(クリックで別ウィンドウが開きます。)


 今回の定例会で示す四つの時期区分による変化が、ダイナミックなものであったことが分かります。
推古・舒明朝のイラスト遺構図では、SD4345と表記される溝が、上記の奥山廃寺式瓦が多数出土した地点になります。この他にも、第3・第4次調査においても奥山廃寺式軒丸瓦が多数出土していることが知られています。
 第21次調査区のクランク状に曲がる溝は、門に伴うものだと考えられ、その西側に何らかの施設が在った事が推測されます。また、その東側には、遺構の存在しない区画があり、飛鳥中心部に延びる南北道路ではないかと考えられました。
 また、図面の大部分が空白になっており溝以外には遺構が無いかのようですが、上層遺構の保護のため下層の調査が充分ではないためで、何も施設が無かったということではないと考えます。

皇極・孝徳朝になると、まず水路が整備されているのが分かります。方位の整った掘立柱建物が増え、総柱の倉庫ではないかと思われる建物が建てられています。
  そして、ここで注目しなければならないのが水落遺跡の周辺ですが、その点に関しては水落遺跡の項で書くことにします。

 斉明・天智朝では、活発な土地利用が窺われます。饗宴施設とされる施設群が建ち並び、石敷き広場には石人像や須弥山石という墳水石が置かれ、海外からの使節への饗宴や蝦夷などの服属儀礼が執り行われたと考えられています。また、それに関わる物品の収蔵に用いられたのか、北部には倉庫群と思われる総柱建物群が見受けられます。
 さらに、南部の水落遺跡では、漏刻台とされる建物群が建てられました。

 天智・天武朝では、前時代の建物群が全て廃却され、塀によって区画された新たな南北建物群が建てられています。また、水落遺跡では、四面庇の建物を中心にした建物群が存在しました。

 今回は、取り上げませんでしたが、石神遺跡からは様々な遺物が出土しています。中でも多数(約3,700)出土している木簡は、それぞれに重要なもので、歴史観を変えるようなものまでありました。また、『日本書紀』の記述を裏付けるもの、また記述との違いを明確にしたものもありました。土器では、饗宴の場であったことを示すような完形に近い新羅式土器や東北地方で使われていた内面黒色土器などが出土しています。我国最古の暦や鋸なども発見されており、その数点は飛鳥資料館や明日香村埋蔵文化財展示室に展示されています。是非、ご覧ください。


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水落遺跡


図12  水落遺跡 漏刻台図 斉明・天智朝

 飛鳥川東岸に位置し、北では石神遺跡と接しています。また、南は槻の樹の広場に接することから、飛鳥時代を通してその折々に重要な意味を持った施設が置かれたものと考えられます。
『日本書紀』斉明6(660)年条に、「皇太子(中大兄皇子)がはじめて漏剋(水時計)をお造りになり、民に時を知らせた。」という記事があります。この漏刻を据えた時計台ではないかとされる遺構が検出され、小字名を採って「水落遺跡」と呼ばれています。

 遺跡の中心遺構(SB200)は、貼石のある方形の土壇に四間四方の正方形の平面プランを持つ建物です。中央部を除いた礎石建ちの24本の柱による総柱の楼状建物が建設されていたことが推測されています。柱の据え付けには地中梁が見られ、堅牢な建物であったことが窺えます。
 この建物遺構には、花崗岩切石を台石にして1.65m×0.85mの黒漆塗の木箱が置かれていた痕跡がありました。また、建物の東からは木樋暗渠が伸びており水時計への給水に用いられたと考えられます。枡、銅管なども建物中央付近から検出されており、水時計を構成する部材だと思われます。またやや東では木樋から上方に取り付けられたラッパ状の銅管が出土しており、高い位置への給水に使っていたと考えられています。

 このように水を利用したであろう施設の遺構や遺物が発見され、『日本書紀』の記述に該当する漏刻が置かれた場所であるとされました。

図13 漏刻イラスト

 水落遺跡に設置された水時計(漏刻)は、唐の技術に倣ったもので、7世紀の前半に呂才によって開発された4つの水槽を重ねて水位の変動をおさえる仕組みが導入されていたと考えられます。具体的には、箭を浮かべた最下段の水槽に一つ上の水槽からサイフォン管を通って水が滴り落ち箭を押し上げるのですが、一つ上の水槽の水位が変われば水圧も変わって滴る水の量も一定ではなくなってしまいますので、これを防ぐために更に上に水槽を置き滴った分の水を補充するように工夫されました。また、水の凍結などを防ぐために用いられたと思われる炭も建物内から検出され、様々な工夫がなされていたことが窺えます。これらの技術は、時期的に考えると白雉5年(654)の第3次遣唐使によって持ち帰られたものだったかも知れません。

飛鳥水落遺跡では、1階に漏刻が置かれていましたが、2階には時を告げる鐘や鼓(太鼓)が置かれていたと考えられています。しかし、堅牢な建物であることから、2階には水槽が置かれ石神遺跡に設置された石人像や須弥山石の水源になっていたとする説もあるようです。

 また、水時計は誤差もあるため、それを補正する天文観測所が置かれていたとする説も有力です。水落遺跡周辺には、少なくとも同時代の建物が4棟あったようですので、後の陰陽寮のような役割を担った施設群であったのかも知れません。

 水落遺跡の水時計施設は、石神遺跡の斉明・天智朝に該当します。では、天智・天武朝の水落遺跡はどのようになっていたのでしょうか。


図14 水落遺跡 天智・天武朝図
(上図は、斉明・孝徳朝の図と同縮尺で描いています。)

 同時期の石神遺跡では、斉明・孝徳朝の饗宴施設が取り払われ大造成が行われた上で、天武朝の官衙(小墾田兵庫)が置かれました。水落遺跡でも同様な事が行われたようです。
中心的な建物を含めて、周辺の建物群は全て柱を抜き取られ、抜取穴の特徴や埋土の様子から同時期に解体されたことが分かるそうです。また、抜取穴の埋土には、炭化物や焼土が含まれるようで、火災で廃絶した可能性も指摘されています。石神遺跡斉明・孝徳朝の建物(長廊状建物)が火災にあっており、その火が延焼していることも分かっているようです。水落遺跡の建物群も、この火災に巻き込まれた可能性は無視できません。

 天智・天武朝の遺構は、大規模な整地の後、造営されています。遺構の重複関係などから、遺構は2時期に細分されるようです。
1期は、掘立柱建物が2棟、掘立柱塀2条、東西溝1条。2期は、掘立柱建物2棟が検出されています。 2期の建物は、1期の建物を壊した後に建てられました。

 石神遺跡の天智・天武期が、飛鳥浄御原宮の北方官衙群、または小墾田兵庫だとすると、水落遺跡の同期の建物群は、それに関連する建物であったことも推測されますが、2期の庇を持つ大きな掘立柱建物は、東に続く建物群の正殿的な役割を担っていたのかも知れません。あるいは、近江朝廷の飛鳥京留守司であった可能性も高いと思われます。


 では、次は遡って皇極・孝徳朝の水落遺跡を見てみましょう。

図15  水落遺跡 皇極・孝徳朝図
(図12、図14の3分の2縮尺で掲載しています。左上の調査区が漏刻の在った区画になります。

 長廊状の建物に囲まれた、大規模な四面に庇が付く掘立柱建物が検出されています。この一画の正殿であることは間違いがありませんが、その性格については確証のある説はこれまでに出されていませんでした。

 宮殿クラスの規模を持つ施設なのですが、次の斉明・天智朝になると消えてしまいます。そのあたりも、この建物の性格を考える上には重要な要件になるのかも知れません。

 『日本書紀』の記述によれば、白雉3年(652)9月、難波長柄豊碕宮が完成しますが、その翌年 (653)、中大兄皇子は「倭京に移りたい」と天皇に奏上しました。しかし、天皇は許可されませんでした。皇太子は、皇極上皇・間人皇后・大海人皇子らを従えて倭飛鳥河辺行宮に移り、公卿大夫や百官なども皇太子に付き従ったとされています。
 この倭飛鳥河辺行宮の有力な候補地とされるのが、一般的には稲渕宮殿跡遺跡とされることが多いと思います。稲渕宮殿跡遺跡は、4棟のコの字型に配された建物跡とそれに囲まれるような広い石敷が確認されており、一般の建物ではなく宮殿クラスの建物跡であると考えられました。

 しかし、ここは狭義の意味で「飛鳥」ではありません。狭義の飛鳥は、飛鳥川の右岸、大字飛鳥と大字岡の範囲を指します。飛鳥河辺行宮の比定地には、川原寺の下層とする説もあるようですが、大字川原も狭義の飛鳥ではありません。
水落遺跡の皇極・天智朝の遺構こそが、最も相応しい候補地であると言えるのではないでしょうか。

漏刻に関する日本書紀の記述

『日本書紀』斉明天皇6(660)年5月是月条
「又皇太子初造漏尅。使民知時。」
(また、皇太子が初めて漏剋を造る。民に時を知らしむ。)

『日本書紀』天智天皇10(671)年夏4月丁卯朔辛卯条 (旧暦4月25日<6月10日>)
「置漏剋於新臺。始打候時動鍾鼓。始用漏剋。此漏尅者、天皇爲皇太子時、始親所製造也、云々。」
(漏剋を新しい台に置き、時刻を知らせ、鐘・鼓を打ちとどろかせた。この日初めて漏剋を使用した。この漏剋は、天皇が皇太子であられたとき、御自身で製造されたものである、云々と伝える。)

 天智10年の記事は、飛鳥の水時計を運んで新しい時計台に設置したように読めるのですが、上記のように延焼により消失しているとなれば、この漏刻は新たに作られた漏刻であると言えるように思われます。遷都から4年の時間を要して漏刻が設置されたのも、新造であったからなのかも知れません。

 皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寝ねかてぬかも  巻4-607
 時守の打ち鳴らす鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくも怪し  巻11-2641

 これらの万葉歌からは、律令制下において時を告げる漏刻の鼓や鐘の音が、すでに日常の中に溶け込んでいることが窺えます。時守とは、律令制下の役人で、漏刻を守り時刻を報ずることを司ります。彼らは、陰陽寮に属しました。



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飛鳥寺西方遺跡


図16 飛鳥寺西方及び南方遺跡

 飛鳥寺西方地域は、『日本書紀』において「飛鳥寺西槻」としてたびたび登場します。次ページの表2は、『日本書紀』の「槻樹の広場(槻の木の広場)」に関わる記事の抜粋です。どのように表記されているかを見るために原文で書いています。


表2  『日本書紀』に見る「槻樹の広場」

 これらの記事から、飛鳥寺の西には槻の樹があり、大勢の人が集まることのできる広場があったと考えられています。
これまでの発掘調査で、土器や瓦が出土し、掘立柱塀や土管暗渠、石組溝、石敷遺構、礫敷遺構などが確認されています。石敷、礫敷は、広場全体に及んでいたと思われます。
また、塀や溝で区画され、飛鳥川に向けて数段の段差のある広場であったようです。直近の調査
(2013)では、柱穴列が検出され、建物または塀だと考えられました。これは、槻樹の広場では初めての建造物の検出例となります。

 「槻」とは欅(ケヤキ)の古名なのですが、名称が変わったのは室町時代だそうです。樹勢が盛んで巨木になること、また大きく枝を広げることが特徴です。一般的には常緑樹が多い神木ですが、槻の木は落葉樹であるにもかかわらず神聖な樹木とされ、その幹や枝の下は聖域と考えられたようです。「槻の木」の語源は、「強き木」が転訛したものだとする説があるようです。また、「欅」は「けやけき木」を意味するとされています。
現在でもしめ縄の巻かれた欅が多くあります。また、神社の建築材や和太鼓の素材としても利用されているようです。
 泊瀬の 斎槻(ゆつき)が下に 隠したる妻 あかねさし 照れる月夜に 人見てむかも 
万葉集巻11-2353 柿本人麻呂歌集

 斎槻とは、神聖な槻の樹のことを意味します。まさに、槻の樹の広場の槻の大木は、斎槻であったのでしょう。


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石神東地区

 石神遺跡の東に接し、飛鳥寺の北に位置する地域になりますが、未だ発掘調査は行われていません。この地は、周辺地域と比べると微高地となっており、石神遺跡と比べると目視で1m近い段差が見える箇所が在ります。微高地は、建物を建てるには条件の良い土地柄になることは明らかですので、この地域に何も施設が無かったということは考えられないように思われます。それも、周辺の施設に匹敵するか、それ以上に重要な施設である可能性は高いと推測されます。
 

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小墾田宮

  小墾田宮は、推古11年(603)に豊浦宮から遷宮した王宮です。その候補地は、主に古宮土壇(古宮遺跡)や雷丘東方遺跡付近だと考えられ、近年後者が有力視されています。雷丘東方遺跡から出土した墨書土器や井戸の年代観などから考察された結論は、奈良時代の行宮小治田宮でした。しかし、飛鳥時代前半の遺構や遺物も付近に存在することから、推古天皇の小墾田宮も周辺に在ったと考えられています。
小墾田宮の構造は、隋使裴世清入京時の『日本書紀』の記載などから、岸俊男先生によって復元されており、南に門があり、そこを入ると庭が広がっていました。そして、その庭には庁と呼ばれる建物が東西に配置され、庭の正面にはまた門があります。その門を潜ると、天皇の居住していた大殿がある構造だと考えられました。

図17 史料に見る小墾田宮と飛鳥板蓋宮復元案

 相原先生のお考えでは、小墾田宮の構造を示す『日本書紀』の記事を整理すると、推古18年の記事は、別の施設の可能性があるされました。

詳しくは、遊訪文庫「推古朝の宮殿をめぐる諸問題・小墾田宮の構造」をご覧ください。


小墾田宮推定地図


図18 小墾田宮構造図
(相原嘉之先生説)
 小墾田宮は、推古天皇一代で廃絶することなく、皇極元年(642)に、一時的に遷宮された記載があり、また大化5年(649)には蘇我倉山田石川麻呂の長男である興志が、石川麻呂の変に際して小墾田宮を焼こうとした記事があることから、宮は存続していたものと考えられます。

 斉明元年(655)には、小墾田に瓦葺の宮殿を造ろうとしましたが、失敗に終わった事が『日本書紀』に書かれています。また、壬申の乱では、小墾田に兵庫(武器庫)があったことが記されています。

その後の記録としては、天平宝字4年(760)の淳仁天皇の時です。天皇は、5ヶ月にわたって小治田宮に滞在していました。『続日本紀』の記事から、奈良時代の小治田宮は天皇が長期にわたって滞在でき、その間の政治を行える諸施設があったことになります。雷丘東方遺跡からは、数棟の倉庫が検出されているのもそれを窺わせます。また、天平神護元年(756)には、称徳天皇が紀伊国への途中に小治田宮で2泊しています。

 記録からみると小墾田宮は、推古天皇の王宮として作られ、飛鳥・奈良時代を通して、改修しながらも存続していたことがわかります。
 

図19 飛鳥時代諸宮変遷図


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竹田遺跡


図20 竹田遺跡所在地図

 竹田遺跡は、現在の八釣集落方向から西に延びる丘陵南斜面にあります。丘陵はさらに北西に延び、中世の城砦である飛鳥城に至ります。南には飛鳥坐神社のある丘陵が並行に走り、南東方向に当たる大字小原には藤原鎌足公誕生地や大伴夫人之墓があり、付近が中臣氏の本拠地であった可能性が考えられています。遺跡のすぐ南の道路は、飛鳥寺北面大垣に沿う古山田道と考えられ、そのまま東へと進むと、八釣集落を経て桜井市高家方面へと続きます。小字「竹田道ヨリ北」などから、この道は古く「竹田道」と呼ばれていたことが推測されます。


図21  竹田遺跡遺構図

 竹田遺跡の調査では、7世紀後半を中心とした掘立柱建物群や平安時代から中世までの掘立柱建物などが検出されました。出土遺物としては土師器、須恵器、製塩土器、黒色土器、墨書土器、瓦器、瓦、セン、鞴羽口、鉄滓、石器、石材、土馬、埴輪などの遺物が出土しています。
注目されるのは、検出された建物群の中に、飛鳥地域の中でも比較的大形の柱穴(柱掘形一辺が90~100cm、深さ約90cm)をもつ建物があったことです。これらは皇族や高位高官の邸宅である可能性が高いと言え、地名から新田部皇子の名前が候補に挙がりました。

『万葉集』巻3-262に、「矢釣山」を詠った歌があります。
   矢釣山 木立も見えず 降りまがふ 雪にうぐつく 朝楽しも

 これは柿本人麻呂が天武天皇と藤原夫人五百重娘との間に生まれた新田部皇子に奉った歌ですが、このことから、新田部皇子の邸宅が現在の八釣集落付近に所在した可能性が指摘されていました。


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山田寺

 山田寺は、蘇我倉山田石川麻呂の発願により、蘇我家の傍流・石川麻呂系の氏寺として建立が開始されます。石川麻呂は、大化改新の直前、娘(遠智娘・姪娘)を中大兄皇子(天智天皇)に嫁がせ、後の乙巳の変に中大兄皇子に加担することになります。そして石川麻呂は、孝徳朝の右大臣になりました。しかし、同族日向の讒言により自害して果てることになります(石川麻呂の変)。
 山田寺が、伽藍完成に約40年を要したのには、石川麻呂の死、白村江の戦い、壬申の乱等が背景にあったと考えられます。

『上宮聖徳法王帝説 裏書』による山田寺創建推移
舒明13 641年 浄土寺始む、地を平す。
皇極2 643年 金堂を建つ。
大化4 648年 初めて僧住む。
大化5 649年 大臣害に遭う。
天智2 663年 塔を構える。
天武2 673年 塔の心柱を立つ。舎利を納める。
天武5 676年 露盤を上ぐ。
天武7 678年 丈六仏を鋳造す。
天武14 685年 仏眼を点ずる。
表3 『上宮聖徳法王帝説 裏書』による山田寺創建推移

伽藍配置

図22 山田寺伽藍配置図

 山田寺の伽藍配置は、早くから堂宇が一直線上に並んでいた事が分っていた為に、四天王寺式だとされてきました。しかし、講堂を回廊の外に配しているため、厳密に言うと四天王寺式とは異なります。この独自の伽藍様式を、「山田寺式伽藍配置」と呼びます。

 諸堂宇に関しては、スタッフ もも 個人サイト「ひとしひとひら」を参照してください。

 ここでは、門についてのみ触れたいと思います。
 山田寺には、中門と南門、また他の大垣に取り付いていたそれぞれ・北門・東門と西に二つの簡略な門があったとされています。

 中門は、後世の掘削で礎石はもとより、基壇も削り取られてしまっていますが、発掘された建設用足場の柱を立てたと思える穴から、三間三間であったと推定され、やはり一番立派な門であったようです。
創建時の南門は、掘立柱による三間の棟門で、他の大垣に取り付いた諸門と大差ないものだったようです。跡地で確認できる南門跡は、創建時の旧南門の上に建てられた7世紀後半の南門です。


図23 山田寺諸門位置図
 比較的こじんまりとしていますが、それでも一応、重層(二階屋根)だったと言うことが基壇周囲の雨落ち溝から分かっています。この時代、まだ南大門と呼べる程大きな南門は存在せず、単に寺域の南限を示す為の門だったということなるようです。外界から見て壮大に見える南大門の出現は、時代を少し下っての事になります。 
 また、扉の数も「三間一戸」と言って、真ん中の一間にだけ扉が付いていることが多いそうですが、山田寺南門は「三間三戸」の南面三間全てに扉が付く形だったようです。

 南門前には幅3mの石組溝の上に木製の橋が掛けられ、そこから幅8.6mにも及ぶ参道が南に伸びていたそうです。

参道の南には、東西道路が有りました。この東西道路と古山田道は、どのように接続していたのでしょうか。寺域を設定した時点で、周辺に存在した古山田道が意識されなかったとは考えられないように思われるのですが、如何でしょうか。


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雪冤碑

 第42回定例会の事前散策資料としては以上になりますが、山田寺跡に建てられた雪冤碑について、若干の資料を付記します。

雪冤碑碑文
『右大臣山田公雪冤碑
公武内宿禰之子蘇我石川宿禰七世之孫雄当之子也 皇極帝四年○中○権力誅蘇我入鹿及  孝徳帝即位拝右大臣於是鎌足為内臣阿倍○○為左大臣大化五年三月左大臣薨公有異母弟身刺有怨於公
・・・・・中略・・・
施封修経○冤誉忠而不孚厥命難○抑其所求於道○迂蒼蒼之意無○○誠信○感 長利後裔○斯貞珉昭無他志 越前粟田部山田重貞建』

 碑文は、江戸時代の国史学者である穂井田忠友の撰文を、同時代の名筆(江戸三筆の一人)貫名海屋(ぬきなかいおく) の筆で揮毫したものだとされます。
 雪冤と言うのは、無実の罪を晴らして潔白を証明することですが、碑文によれば越前粟田部に住む山田重貞という方による建立とされています。
この山田重貞という方は、石川麻呂の子孫(石川麻呂の息子 清彦 の家系=幼少だったために流罪となった)だという山田家53代の方だとされているそうです。1802年に生まれた方で、自分が若い頃に接した平家物語に祖先石川麻呂が大逆人として書かれているのを知り、汚名をそそごうとしたようです。
1,000年の時を経て建てられた雪冤碑、歴史が生き返った様な錯覚に襲われ、激動の飛鳥時代を思わずにはおれません。

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蘇我氏系図


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関連年表

元 号

西

雄略5

小子部栖軽、雷を捉えに山田道を走る 『日本霊異記

用明2

587

蘇我馬子、飛鳥寺建立を発

崇峻

588

飛鳥寺造営始ま

推古元

593

推古天皇、豊浦宮で即位

2

594

三宝興隆の詔

  推古4

596

飛鳥寺落

8

600

1回遣隋使

9

601

天皇、耳成行宮に滞在
厩戸皇子、斑鳩宮を造る

11

603

小墾田宮に遷る
冠位十二階の制定

12

604

憲法十七条の発布

13

605

厩戸皇子、斑鳩宮に移る

15

607

2回遣隋使

16

608

裴世清、難波から海石榴市から宮に入る
3回遣隋使

18

610

新羅・任那の使人、大和の阿刀の館から宮に入る
第4回遣隋使

22

614

第5回遣隋使

28

620

『天皇記』『国記』など史書編纂を開始

36

628

山背大兄王、小墾田宮で天皇に謁見

舒明2

630

飛鳥岡本宮に遷る

  8

636

岡本宮焼失 田中宮に移

13

641

山田寺、造営

皇極2

643

飛鳥板蓋宮に遷る

  3

644

中大兄皇子・中臣鎌足、法興寺の槻の木の下の蹴鞠で出会

  4

645

乙巳の変 
蘇我蝦夷、『天皇記』『国記』等を焼く

大化

645

天皇・皇祖母尊・皇太子、大槻の木の下で群臣を集め盟約をさせ

白雉4

653

皇太子中大兄皇子、公卿百官を率いて倭飛鳥河辺行宮に移

斉明

655

飛鳥板蓋宮火災。川原宮に遷る

  2

656

岡本宮に遷る

3

657

須弥山の像を飛鳥寺の西に作

5

659

甘樫丘の東の川上に、須弥山を造り、陸奥と越の蝦夷を饗

  6

660

中大兄皇子漏刻を造
石上池の辺りに須弥山を作る。 高さ廟搭の如し。粛慎四十七人を饗

  7

661

斉明天皇、朝倉宮で崩御 飛鳥川原にて

6

667

近江大津京へ遷

10

671

漏剋を新しい台に置く

天武

672

壬申の
近江軍、飛鳥寺西の槻下に陣営を敷
小墾田兵庫を大海人軍が抑える

  6

677

多禰人らを飛鳥寺の西の槻の木の下で饗

9

680

飛鳥寺の西の槻の枝、自づからに折れて落ち

  10

681

多禰人らを飛鳥川の辺で饗
親王以下群卿はみな軽市で装いをこらした飾馬を検閲した。・・・共に大路を通って南から北へ進んだ。

  11

682

隼人らを飛鳥寺の西で饗

持統2

688

蝦夷男女213人を飛鳥寺の西の槻の下で饗

  8

694

藤原遷

  9

695

隼人の相撲を飛鳥寺の西の槻の木の下で行な


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関連系図

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  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
山田道 (阿倍山田道) 山田道と葛城氏・蘇我氏 二つの山田道 丈六
剣池 豊浦ヒブリ 豊浦寺 甘樫坐神社
平吉遺跡 雷丘 雷内畑遺跡 雷丘東方遺跡
石神遺跡 水落遺跡 飛鳥寺西方遺跡 石神東地区
小墾田宮 竹田遺跡 山田寺 雪冤碑
蘇我氏系図 関連年表 関連系図 当日レポート
相原嘉之先生寄稿 「飛鳥寺西をめぐる諸問題」 飛鳥咲読 両槻会


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