両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第45回定例会レポート

さらば飛鳥

ー平城京の宅地からみた氏族社会解体へのみちのりー



この色の文字はリンクしています。
第45回定例会 事務局作成資料
2014年7月19日
 両槻会主催第45回定例会は、講師に近江俊秀先生をお招きして「さらば飛鳥―平城京の宅地から見た氏族社会解体へのみちのり―」と題する講演会を2014年7月19日(土)に、飛鳥資料館講堂にて開催しました。

 近江先生には、2009年の1月に「飛鳥のみち 飛鳥へのみち―すべての道は飛鳥に通ず―」の講演をして頂きましたので、今回が二度目。もう5年も経つんですね。

 前回のテーマは「みち」でしたが、今回の主な舞台となるのは平城京、そして開催が7月半ばということで、恒例の午前中の事前散策は行わず、午後からの講演のみとなりました。熱中症になりたくありませんもんね。^^;

 そんな両槻会の予定を知ってか(笑)、飛鳥京苑池遺跡第9次発掘調査の現地説明会開催のニュースが数日前に流れました。「ご都合のつく方は、是非見学してください」と現説ご案内メールを参加者の方に送信し、スタッフも数名の参加者の方々と現地説明会に参加してきました。


南北に続く柱穴列

石敷きと石組溝

 苑池の南東の高台に並ぶ柱穴と、その西に綺麗に並んだ石敷きと石組溝。飛鳥京跡苑池の全貌解明にまた少し近づいたのかな?

 さて、現地説明会の後は、定例会準備のために飛鳥資料館に移動。途中、暑い中元気に現説会場から資料館へと徒歩で向かう参加者の方にもお会いしました。皆さんお元気です。^^;・・・・定例会用の資料など荷物の多いスタッフは、今回はスタッフの車での移動です。情けない奴らですみません。(^^ゞ

 講堂に設置した受付に、皆さん順にご到着。
 参加者一人一人のお顔を拝見して「こんにちは」「ご無沙汰しています」などとご挨拶をしつつ運営協力金を頂き、参加証と配布物をお渡しする受付作業を、こんなにゆったりした気分で行ったのは初めてかもしれません。まずは、散策ありきの両槻会定例会。いつもバタバタしていて本当に申し訳ない・・・と、反省しました。(汗)

 さて、講師の近江先生がご用意くださったレジュメは、A4で15枚♪
 系図に宅地図に表など、理解の助けとなる資料も沢山つけて下さっています。講演に先立って、レジュメに目を通されている熱心な参加者の方々。

 皆さんが、予定時刻までに無事お集まり下さったお蔭で、定刻2分前に定例会を開始することができました。事務局長の挨拶の後、講師の近江先生の簡単なご経歴とご著書などをご紹介させて頂きました。近江先生のご本は、とても読みやすいですので、皆さんも是非♪


 さて、お話は何から始まったんでしたっけ?そうそう・・本定例会のタイトルについて先にご説明してくださったんでした。(^^ゞ

 「さらば飛鳥―平城京の宅地から見た氏族社会解体へのみちのり―」
 両槻会が拘ってる飛鳥。その飛鳥時代と奈良時代の違いは、天皇に仕え奉仕するという形態が、集団から個人へと変わっていったということなんだそうです。副題にある「氏族社会」は、飛鳥時代まで存在していた奉仕の形。これが、奈良時代には少しずつ解体されていく-近江先生曰く「ウジからイエへ」なんだそうです-、社会の在り方の変化が平城京の宅地の変遷から読み取れるんですよ・・・ってことなんですが、何だか難しい?いや、結構面白いかも?

 旧来、血や出自なんかで結びついて、それぞれに役割を振られ仕事の持ち場が決まっていたのが、奈良時代以降は、個人主義というか各々の能力によって、直系のイエとしてそれぞれが別々の道を歩み出す・・ので、同族同士で潰しあいなんてことにも発展することになるんだそうです。言われてみれば、奈良時代以降は、結構同じ苗字の人が敵味方になったりしますよね。

 飛鳥時代でいえば東漢氏、奈良時代でいえば藤原氏がそれぞれが解りやすい事例だそうで、ウジ?イエ?奉仕の仕方が変わる?と、そういう話が苦手なσ(^^)は、ちょっと頭が痛かったんですが、例をあげて説明して頂くとσ(^^)にもわかるような気がしました。


 今回頻繁にでてくることになる藤原四家(南家・北家・式家・京家)なんていうのが、その始めだと考えていいんでしょうかね。
 そういえば、橘諸兄も臣籍降下して別にイエを作ったみたいなもんですし、藤原仲麻呂も恵美押勝なんて名前になって、藤原から離れようとしているようにも思えますもんね。「血だけで全員の面倒なんて見てられるか!俺は俺の道を行く!」ってことなんでしょうかね(笑)
こういう変化が、平城京の宅地の変遷からわかると。何処に誰がいつ住んだか、何に利用されたかで、そういうことが分かるんですね。すごっ・・・。


 平城京の宅地と言えば、有名なのは長屋王邸。この場所-平城京左京三条二坊-が長屋王邸だと発表されるまでには紆余曲折あったようです。

 京内におうちを建てるのには、宅地班給っていうのがあって、位によって広さなどが決められていたことが分かっています。長屋王は、平城遷都時には従三位。これって結構位が高いんじゃない?と思うんですが、長屋王より、上位で年配の人たちもいる。加えて、長屋王のおうちとしては、佐保にあった「作寶楼(作宝宅)」というのが既に見つかっていて、京内に二個もおうちを持っていたのか?いくら高市皇子の忘れ形見とは言え若輩者の長屋王がこんな一等地に住めたのか?と、色々問題点もあるんだそうです。

 σ(^^)は、氏がどうのとか、位階がどうのっていうお話より、こういうお話を聞いている時が一番楽しいです。(^^ゞ

 結局は、左京三条二坊のおうちも長屋王邸だということに落ち着くわけですが(詳細は書いていられませんので、割愛(^^ゞ)、長屋王って、長屋王の変でいなくなっちゃいますよね。

 じゃこの後、左京三条二坊のこの家はどうなったかというと・・・皇后宮になったんだそうです。そう、あの聖武天皇の皇后で藤原不比等と橘三千代の娘である光明皇后の宮。つまり、長屋王の変の後、主のいなくなったこの土地は、接収された。与えられた土地だから、使わなくなったら返す・・当たり前だと言えば当たり前のような気もします。が、全部の宅地がそうじゃなかったと。

 同じく長屋王の家だったとされる作宝宅は、長屋王の変のあと、手付かずで放置されてるんだそうです。返す土地もあれば、返さない(返さなくて良い?)土地もある。はて???

 つまるところ、邸宅には公邸と私邸があったんじゃないかと。公邸は、お仕事がしやすいように与えられたおうち。私邸は、自宅や別荘っていう感じになるんでしょうか。

 長屋王邸は勿論、不比等邸藤原麻呂(不比等の四男)の邸宅跡だとされる場所を例にとってこれまたご説明頂いたと思います。

 掘った!出た!っていう遺構・遺物好きのσ(^^)には、長屋王邸の場所が時期とともに柱穴の位置が変わっていくのを見ているのは楽しかったです。(笑)

 じゃ、接収されない私邸と思われる邸宅は、どうなるのか?って思いますよね。


 講演では、当時の相続に関して、今との違いなどのお話を分かりやすくお話して頂きました。家屋は、遷都の時などにも解体して新たな土地に運んだりしているので、動かせるもの=動産という考えだったんだそうです。今とは建築方法が違いますもんね。他には、土地の価格変動もなかったんだそうです。最初に売買されたときの価格のまま。これは、売り買いというよりも、今の借地に近い感覚かもしれないと言うことですが、分かるような分からないような・・・。^^;

 こんな風に、ちょっと驚いたり、理解に苦しむ部分もあるんですが、土地や家屋を子孫に残すことは可能だったようです。あ、ちなみに、相続税っていうのはなかったそうです。これは、古代の方が良心的?(笑)

 あと、財産の中には、誰か一人に相続されるのではない氏族全体の財産というのもあったんだそうです。なんだかややこしい・・・。後々揉めないように分けてしまえば良いのに・・と思うのですが、分けると少なくなるので纏めて管理するってことなんでしょうか。財産の目減りは、一族の弱体化に繋がる?あれ?・・個人主義に転換していってるんでしたよね。あれ??

 えっとぉ・・本定例会のテーマは財産分与じゃなくて、「宅地から見た氏族社会解体のみちのり」でした。(^^ゞ

 この辺りで藤原氏と大伴氏の比較のお話を少し。
 正史や家伝など沢山の記録が残る藤原氏は、不比等の法華寺下層や、その子である四兄弟、そのまた子である仲麻呂の田村第などが記録からも比較的宅地の検証がしやすいようです。

 さてここで、咲読でσ(^^)が大苦戦した大伴氏が登場します。(笑)
 大伴氏は、藤原氏とは違って記録が殆どないんですが、万葉集から大よそ邸宅の位置が推定できます。安麻呂が佐保大納言卿と呼ばれたこと、坂上郎女が坂の上の里に居住してたこと、田村の里に田村大嬢が住み、そこは宿奈麻呂の家であった可能性があること、佐保の邸宅の西にも家があったことなどが、坂上郎女が残した歌から分かります。よくぞ詠った郎女!って感じですかね(笑)

 これらの地名を地図に落としてみると、大伴氏は、一定の範囲にまとまって居住していたと考えられるようです。

 例の長屋王邸にしても、周辺からは小規模の宅地跡が見つかっているそうです。出土木簡などから、同族の女性などの生活も長屋王が纏めて見ていたんではないかと推測されるそうです。この辺りに先にあげた氏の財産が生きてくるんですかね?

 宅地は、ただむやみに広さや位置だけで決められたわけじゃなく、同族はある程度まとまった地域に住みユニット(集団・組織)を形成していたと考えられるそうです。大伴ユニット・・・なんだかひどく弱そうですが。^^;

 佐保や田村など近距離に住まいしていた大伴氏は、藤原氏が直系の家の確立にむけて突き進んでいる時にも、旧来の氏族としての結束を断固として貫き通そうとします。咲読にも書いた「族を喩す歌」が、その最たる証となります。個人と集団では、集団の方が強いように思えますが、何をしても一連托生と考えると、結構モロイのかもしれません。数名で大所帯を養い背負って立つのはキツイですもんね。^^;

 鎌足が藤原姓を賜って始まった藤原氏ですが、実質の始祖は不比等だと考えられます。藤原氏は、不比等一代で築いた氏になるわけです。古くから天皇に奉仕し続けてきた氏族がいる中での新興氏族である藤原氏の立ち位置。彼・不比等は、一族が生き残って行くために、このシステムを変える必要があったのかもしれません。

 不比等は、大宝や養老の律令編纂に従事していましたから、この新しい制度を一番理解していたと考えられます。つまり、新しく作った制度にいち早く対応できるように、一族の在り方を考えた。いや、もしかしたら、藤原氏が栄えられるように制度を合わせたのかもしれないと思えてきます。

 反対に大伴氏はというと、時代の流れを受け止めきれずに衰退していったのかもしれませんね。

 そうそう、忘れてましたが、長屋王がなぜ宮の南面にある一等地に住めたのか?
 これは、藤原京時代の宅地の所在地が宅地班給の際に考慮されたんではないかとのことです。長屋王の父高市皇子は、藤原宮の南東に推定される香久山宮に住んだとされています。(参考:飛鳥宅地マップ

 遷都時に班給された宅地は、主にお勤めに便利な公邸で、先にあげた不比等の法華寺下層もそれに該当すると考えられるようです。

 この他、発掘調査で出土した瓦からも、邸宅の居住者を推定できることがあるそうです。
 瓦が寺院建築独特のものだったのは、飛鳥時代までです。藤原京では宮に瓦が葺かれますし、平城京に至っては、遷都後に五位以上の者と裕福な庶民に瓦葺き家屋を建てる許可が出されています。平城京内で瓦が出土する場合、寺院の他に宅地であった可能性があるんですって。
 寺か役所か宅地か、その見極めはなかなか難しいそうですが、左京三条三坊には舎人親王邸があったのではないかと、近江先生は推定なさっています。^^

 しかし、時と共にこういった宮周辺の宅地は、役所や寺院に姿を変えて行くそうです。宮周辺に宅地を置かなくなることは、そのままそこに住まう者同士の立場の距離を具現化したものと言え、天皇は遠い存在であると言う権威の象徴にもなるのだとか。何だか、深いお話です。平城京内の主な宅地図は、両槻会配布資料・平城京紳士録に掲載しています。

 遷都というのは、旧勢力からの脱却を図るために行われることが多いと聞いたことがあります。平城遷都もそういうことなんでしょうか?

 近江先生のお話は、もっと分かりやすくて面白かったのに、σ(^^)の力の無さでうまく伝えられない・・・。(-"-) 

 ただ、本定例会の舞台となったのは奈良時代でしたが、飛鳥時代以前から続いていた氏族社会という視点で、時代の流れを見ることが初めて出来たように思いました。時代と時代が流れで繋がっていることを感じることが出来たというか・・・。


 講演は三時間に及びました。最後の方で少し駆け足になったのは、やはり時間が足りなかった?(笑)

 講師の近江先生には、まさしく東奔西走でお忙しくされている中、両槻会のために貴重なお時間を割いてくださり有難うございました。m(__)m

 終了後には、久しぶりに懇親会を持つことが出来ました。参加者の方にそれぞれ感想を伺いましたが、皆さん興味深くお聞きになられた様子で、その理解力の凄さに「代わりにレポートを書いてください!」と、思わず叫びそうになりました。(^^ゞ
 暑い中、ご参加くださった皆さん、有難うございました。m(__)m


レポート担当:もも  

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