皇族 |
名前 |
父母 |
妻・夫 |
子供 |
生没年 |
最終官位 |
高市皇子
たけちのみこ |
天武天皇
胸形尼子娘 |
御名部皇女
但馬皇女
不明 |
長屋王
鈴鹿王・河内女王・山形女王 |
654~696 |
太政大臣・浄広壱 |
壬申の乱(672)に際し、父のもとにかけつけ全軍を統帥して活躍した。持統朝では、浄広壱にまで昇ったが持統10年(696)死去、後皇子尊と尊称された。墓は『延喜式』によれば大和国広瀬郡にある三立岡墓という。 |
草壁皇子
くさかべのみこ |
天武天皇
持統天皇 |
元明天皇 |
元正天皇・文武天皇
吉備内親王(長屋王妃) |
662~689 |
皇太子
岡宮天皇 |
皇位に就くことなく持統天皇3年(689)薨去。妻・息子・娘が皇位につき、天武系の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。しかし、男系は天平16年(774)の曾孫・安積親王の早世で途絶えた。 |
大津皇子
おおつのみこ |
天武天皇
大田皇女 |
山辺皇女 |
粟津王 |
663~686 |
不詳 |
朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御すると、同年10月2日、川島皇子の密告により謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に訳語田の自邸にて自害した。享年24歳。『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。また、『万葉集』には死の直前に姉の大来皇女が斎王を務める伊勢神宮へ向かったとある。 |
忍壁皇子
おさかべのみこ |
天武天皇
かじ媛娘 |
明日香皇女(?)
不詳 |
山前王・大野王・石田王・小長谷女王 |
不明~705 |
三品・知太政官事 |
天武天皇10年(681)、川島皇子、三野王、忌部首、中臣大島らと共に「帝紀および上古の諸事」の記録認定事業を命ぜられる。 |
磯城皇子
しきのみこ |
天武天皇
かじ媛娘 |
不明 |
倭王・酒部王 |
不明 |
浄広壱? |
大宝律令成立直前に30歳前後で早世したと推定される。 |
長皇子
ながのみこ |
天武天皇
大江皇女 |
不詳 |
河内王・栗栖王・智努王・
長田王・奈良王・大市王・
阿刀王・広瀬女王・智努女王 |
不明~715 |
一品 |
子のうち智努王(文室浄三)・大市王(文室大市)は舎人親王薨去後、天平勝宝4年(752)に文室真人姓を下賜され臣籍降下した。 |
穂積皇子
ほづみのみこ
穂積邸(推定) |
天武天皇
蘇我大蕤娘 |
大伴坂上郎女
不明 |
境部王・上道王 |
不明~715 |
一品・知太政官事 |
慶雲2年(705)には異母兄・忍壁皇子の後任として知太政官事に任ぜられ太政官の統括者となった。 |
弓削皇子
ゆげのみこ |
天武天皇
大江皇女 |
不詳 |
不詳 |
不明~699 |
不詳 |
天武2年(673)誕生と推測されている。この推定にしたがえば27歳での薨去。『万葉集』に8首の歌が収録されており、天武天皇の皇子のなかでは最多を数える。 |
新田部皇子
にいたべのみこ
右京5条2坊
9・10・15・16坪 |
天武天皇
五百重娘(藤原鎌足の娘) |
不詳 |
塩焼王・道祖王・陽侯女王(藤原仲麻呂の妻)・
長野王・忍阪王・石田王 |
不明~735 |
一品・大惣管 |
養老4年(720)知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍事力の統括者となった。惣管とは、天平3 年(731) 、畿内に設置された臨時の官職で、盗賊や不満分子などの取締りをはじめ、諸国の国司などの行政、治績などについて監視する。刑罰権を有していた。 |
舎人皇子
とねりのみこ
左京3条3坊 |
天武天皇
新田部皇女 |
当麻山背
当麻氏
不詳 |
三原王・大炊王(淳仁天皇)
船王
守部王・池田王・三島王・三使王
御浦王・厚見王・貞代王・室女王
飛鳥田女王 |
676~735 |
一品・知太政官事
贈太政大臣 |
養老4年(720)編集を総裁した『日本書紀』を奏上する。同年8月、右大臣・藤原不比等の薨去に伴い知太政官事に就任し、長屋王とともに皇親政権を樹立する。 |
元明天皇
げんめいてんのう
阿閉皇女
あへのひめみこ |
天智天皇
蘇我姪娘 |
草壁皇子 |
氷高皇女(元正天皇)
珂瑠皇子(文武天皇)
吉備内親王 |
661~721 |
第43代天皇
707~715 |
藤原京から平城京へ遷都、風土記編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。 |
志貴皇子
しきのみこ |
天智天皇
越道君伊羅都売 |
託基皇女
紀橡姫
不詳 |
春日王・湯原王
難波女王・白壁王(光仁天皇)
榎井王・壱志王・海上女王
坂合部女王・衣縫女王 |
不明~716 |
二品
春日宮御宇天皇 |
白壁王が皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。『万葉集』に6首の歌を残している。 |
川島皇子
かわしまのみこ |
天智天皇
忍海造色夫古娘 |
泊瀬部皇女 |
三室王・高丘王 |
657~691 |
浄大参 |
天武天皇10年(681)、忍壁皇子らと共に帝紀及び上古諸事の編纂を命じられる。大津皇子の謀反を密告したことが『懐風藻』に書かれている。 |
長屋王
ながやおう
左京3条2坊
1・2・7・8坪
作宝宅(作寶楼) |
高市皇子
御名部皇女 |
吉備内親王
藤原長娥子
智努女王
阿倍大刀自
石川夫人 |
膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王
安宿王・黄文王・山背王・教勝
円方女王
賀茂女王 |
684~729 |
正二位・左大臣 |
長屋王は官人として、次のような特殊性が見受けられる。正四位上に初叙された点、参議・中納言を経ず大納言になった点、食封の増額と封租の全部支給が親王とともに認められた点で、天武天皇の孫の中でも特に有力な血筋であったことなどが考慮されたのではないかと思われる。 |
三原王
みはらおう |
舎人皇子
当麻山背 |
不詳 |
和気王・丹波王・岡細川(細川王)
山口王・長津王・小倉王・石浦王
弓削女王・小宅王 |
不明~752 |
正三位・中務卿 |
王の子供、小倉王・石浦王の子孫は臣籍降下して清原氏として栄え、清原深養父・清原元輔・清少納言等歌人を輩出した。 |
三島王
みしまおう |
舎人皇子
不詳 |
不詳 |
林王・河辺女王・葛女王 |
不明 |
従四位下 |
特記事項なし。 |
船王
ふねおう |
舎人皇子
不詳 |
不詳 |
葦田王 |
不明 |
二品 |
橘奈良麻呂の謀反計画が未遂に終わった後、百済王敬福と共に獄囚の拷問にあたり、黄文王・道祖王・大伴古麻呂らを杖死させる。藤原仲麻呂の乱に連座して捕えられ、隠岐国に流罪となる。 |
池田王
いけだおう |
舎人皇子
不詳 |
不詳 |
藤野王・御長中嗣・御長広岳
女子2名 ほか |
不明 |
三品・糾政尹 |
藤原仲麻呂の乱に伴って淳仁天皇が廃されると、親王から諸王に戻され土佐国へ配流された |
守部王
もりべおう |
舎人皇子
不詳 |
不詳 |
笠王他2名 |
|
従四位
最終官位不明 |
特記事項なし。 |
淳仁天皇
じゅんにんてんのう
大炊王
おおいおう |
舎人皇子
当麻山背 |
粟田諸姉(藤原真従室)
不明 |
安倍内親王 (伊勢斎宮、磯部王妃)
石見王 |
733~765 |
第47代天皇
785~764
廃帝 |
孝謙天皇により立太子された。藤原仲麻呂の強い推挙による。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。仲麻呂の乱後、孝謙上皇によって廃位され、親王の待遇をもって淡路国に流される。
上皇は重祚して称徳天皇となった。称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。 |
飛鳥田女王
あすかだじょうおう |
舎人皇子
不詳 |
不詳 |
不詳 |
727~782 |
従四位下 |
天平宝字5年(761)、保良京遷都の移転費用に稲4万束を賜る。紫香楽山保良寺は、同年飛鳥田内親王の創建とされる。 |
文武天皇
もんむてんのう
軽皇子
かるのみこ |
草壁皇子
元明天皇 |
藤原宮子
石川刀子郎女
紀竈門娘 |
聖武天皇
広成皇子・広世皇子 |
683~707 |
第42代天皇
697~707 |
持統11年(697))立太子。祖母・持統から譲位されて天皇位についた。当時15歳という先例のない若さのため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。大宝元年(701)に大宝律令が完成し、翌年公布。
また新たに官位制を設けた。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間だとされる。 |
元正天皇
げんしょうてんのう
氷高皇女
ひたかのひめみこ |
草壁皇子
元明天皇 |
― |
― |
680~746 |
第44代天皇
715~724 |
弟・文武天皇の子である首皇子(後の聖武天皇)がまだ若い為、母・元明天皇から譲位を受け即位。 710年、平城京に遷都。養老8年/神亀元年(724)聖武天皇に譲位。退位の詔では新帝を「我子」と呼んで退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。 |
聖武天皇
しょうむてんのう
首皇子
おびとのみこ |
文武天皇
藤原宮子 |
光明皇后
県犬養広刀自
南殿(藤原武智麻呂の娘)
橘古那可智(橘佐為の娘)
北殿(藤原房前の娘) |
孝謙:称徳天皇・基王
井上内親王・不破内親王
安積親王 |
701~756 |
第45代天皇
724~749 |
和銅7年(714)元服が行われて同日正式に立太子される。病弱であったこともあり、翌霊亀元年(715)に伯母である元正天皇が皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位した。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発しており、天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741)には国分寺建立の詔を、翌々年(743)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。加えてたびたび遷都を行って災いから逃れようとしたものの、官民の反発が強く平城京に復帰した。天平勝宝元年(749)、孝謙天皇に譲位。生前譲位(太上天皇)した初の男性天皇となる。天平勝宝8年(756)に道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。 |
基王
もといおう |
聖武天皇
光明皇后 |
― |
― |
727~728 |
― |
聖武天皇と光明皇后とのあいだに生まれた唯一の男子。生後わずか32日で皇太子に立てられた。皇太子は成人であることが求められた当時としては、異例な措置だとされる。しかし、翌年には病を得て、1歳に満たずに夭逝した。 |
孝謙天皇
こうけんてんのう
称德天皇
しょうとくてんのう
阿倍内親王
あべないしんのう |
聖武天皇
光明皇后 |
― |
― |
718~770 |
第46代天皇
749~758
第48代天皇
764~770 |
聖武天皇と光明皇后の間には男子が育たず(基王が早世)、阿倍内親王のみであった。天平10年(738)に立太子し、唯一の女性皇太子となった。橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱、宇佐八幡宮神託事件など政変が相次ぎ、皇位継承問題が常に問題となっていた。
|
安宿王
あすかべおう |
長屋王
藤原長娥子(藤原不比等の娘) |
不詳 |
高階浄階 |
不明 |
正四位下・内匠頭 |
長屋王の変では、母が藤原不比等の娘(藤原長娥子)であったことから安宿王は同母弟の黄文王・山背王とともに罪を免れた。天平宝字元年(757)に橘奈良麻呂の乱に際に関与を疑われ、妻子と共に佐渡に流罪となる。その後許され、臣籍降下して高階真人を賜与された。 |
黄文王
きぶみおう |
長屋王
藤原長娥子(藤原不比等の娘) |
不詳 |
不詳 |
不明~757 |
従四位上・散位頭 |
長屋王の変では、安宿王と同様に罪にはならなかったが、橘奈良麻呂の乱に際し、奈良麻呂により皇位に擁せられたが、道祖王らと共に捕らえられ、久奈多夫禮(くなたぶれ=愚かな者)と改名させられた後、杖で打たれ拷問死した。 |
道祖王
ふなどおう |
新田部皇子
不詳 |
不詳 |
不詳 |
不明~757 |
従四位上・中務卿 |
天平勝宝8年(756)、聖武上皇は道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てることを遺詔した。しかし翌天になって孝謙天皇本人の命令により皇太子を廃された。その理由として、道祖王は先帝(聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失したなどとししている。橘奈良麻呂の乱が発覚すると、奈良麻呂らが擁立しようとした天皇候補のなかに道祖王の名があったため捕縛され、拷問死した。 |