両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第45回定例会

両槻会主催講演会

さらば飛鳥

―平城京の宅地からみた氏族社会解体へのみちのり―



平城京紳士録

作成:両槻会事務局
2014年7月19日


この色の文字はリンクしています。
平城京宅地マップ 藤原氏 藤原南家 藤原北家
藤原式家 藤原京家 大伴氏 皇族
平城京内で住所の分かる主な住民 飛鳥咲読 当日レポート 両槻会






平城京宅地マップ
マップ内の宅地をクリックすると住民のプロフィールに飛びます。



ページトップへ ▲






藤原氏
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
鎌足
かまたり
中臣御食子
大伴智仙娘
鏡女王
車持与志古娘
不明

定恵、不比等、
氷上娘ほか
614~669 大織冠・内大臣
大化改新を初めとして中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍、藤原氏繁栄の礎を築いた。死後、藤原姓と大織冠を与えられる。
不比等
ふひと

左京1条2坊と2条2坊
1条の12・13坪、
2条の9・16坪に跨る4町。
鎌足
車持与志古娘
蘇我娼子
五百重娘
賀茂比売
県犬養三千代
不明
武智麻呂・房前宇合
麻呂 ほか
宮子 ほか
光明子 ほか
長娥子・多比能 ほか
659~720 贈正一位・太政大臣
文忠公、淡海公
大宝律令編纂、その後、養老律令編纂・施行を前に病死した。藤原氏の繁栄の基礎を固めた。
武智麻呂
むちまろ
不比等
蘇我娼子
阿倍貞媛(御主人の孫)
紀麻呂の娘
阿祢姫(小治田功麻呂の娘)
不明
豊成・仲麻呂
乙麻呂
巨瀬麻呂
南殿(聖武天皇夫人)
608~737 正一位・左大臣
贈太政大臣
大学制度の設立など文教行政面で活躍し、聖武天皇の皇太子時代には家庭教師役(春宮傅)に選ばれている。
房前
ふささき

左京1条4坊
不比等
蘇我娼子
牟漏女王 (美努王の娘)

春日倉首老の娘
片野朝臣の娘
阿波采女
不明
永手・真楯・御楯
北殿(聖武天皇夫人)
鳥養
清河・魚名
楓麻呂
宇比良古(藤原仲麻呂室)
681~737 正三位・参議
贈正一位左大臣
藤原北家は、藤原四兄弟の子孫藤原四家の中で最も繁栄した。房前は能楽『海人』の登場人物としても知られる。大伴旅人と歌の交流あり。
宇合
うまかい

右京4条2坊
不比等
蘇我娼子
石上麻呂の娘
高橋阿禰娘(高橋笠朝臣の娘)
小治田功麿男牛養女
久米若女(久米奈保麻呂の娘)
佐伯家主娘(佐伯徳麻呂の娘)
不明
広嗣・良継
清成
田麻呂
百川
蔵下麻呂
綱手・掃子 ほか
694~737 正三位・参議
式部卿・知造難波宮事に任ぜられ後期難波宮造営の責任者となる。この後、長屋王の変にも式部卿として対応した。
麻呂
まろ


左京2条2坊5坪
不比等
五百重娘
大伴坂上郎女(恋人?)
稲葉国造気豆の娘
当麻氏
不明

浜成
百能
綱執・勝人
695~737 正三位・参議
京家は麻呂が京職大夫だったことに由来する。歌人として『万葉集』に3首、『懐風藻』に5首の作品が採録されている。
宮子
みやこ
不比等
賀茂比売
文武天皇 聖武天皇 不明~754 正一位・太皇太后
大宝元年(701)、首皇子(後の聖武天皇)を出産したものの心的障害に陥った。
光明子
こうみょうし
不比等
県犬養三千代
聖武天皇 孝謙天皇(称徳天皇)・基王 701~760 皇后・皇太后
初の皇族以外からの皇后。仏教に篤く帰依し、東大寺、国分寺の設立、興福寺、法華寺、新薬師寺など多くの寺院の創建や整備に関わった。



ページトップへ ▲





藤原南家(武智麻呂)
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
豊成
とよなり
武智麻呂
阿倍貞媛
路虫麻呂の娘
房前の娘
百能(麻呂の娘)
不明
良因・綱縄・乙縄
綱麻呂

中将姫
704~766 従一位・右大臣
橘奈良麻呂の乱に連座して右大臣を罷免されるも、藤原仲麻呂の乱後、従一位・右大臣として政権に復帰した。
仲麻呂
なかまろ

左京4条2坊9~16坪
武智麻呂
阿倍貞媛
宇比良古(房前の娘)

大伴犬養の娘
陽候女王(新田部親王の娘)
紀奈賀岐娘(紀麻呂の娘)
不明
真従・真先・訓儒麻呂・朝狩
真文・児従
刷雄・徳一


小湯麻呂・薩雄・辛加知
執棹・東子・額
706~764 正一位・大師
祖父の不比等が着手した養老律令を施行。天平宝字8年(764)、孝謙上皇・道鏡の勢力と対立、仲麻呂の乱にて斬首される。
乙麻呂
おとまろ
武智麻呂
紀麻呂の娘
広岡真都我(橘佐為の娘)
石川建麻呂?の女
不明
許人麿
是公
今河室
不明~760 従三位・武部卿
藤原仲麻呂政権の後ろ盾であった光明皇太后、及び同政権内で武部卿として軍事面を担った。
巨瀬麻呂
こせまろ
武智麻呂
阿祢娘
山背王の娘
丹墀氏
宇合の娘
永手の娘
不詳
不明
黒麻呂
長川・真作・今河・河主
弓主
貞嗣
川合・真書・伊勢人
瀧麿、主後、広河
不明~764 従三位・参議
藤原仲麻呂の乱に加わったため、官軍により斬殺された。
是公
これきみ

左京3条4坊
乙麻呂
石川建麻呂?の女
広岡真都我(もと乙麻呂妻)
不明
真友、雄友、弟友
友人
吉子(桓武天皇夫人、伊予親王母)
727~789 従二位・右大臣
贈従一位
桓武朝に光仁朝からの太政官の世代交代が起こり、急速に地位を上げた。有能な官吏であったと伝わる。



ページトップへ ▲




藤原北家(房前)
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
永手
ながて
房前
牟婁女王
大野仲仟(大野東人の娘)
鳥養の娘
良継の娘
不明

家依
雄依・曹司(光仁天皇夫人)
女子2名
714~771 正一位・左大臣
贈太政大臣
仲麻呂とは立場を異にすることが多かったとされ、仲麻呂の乱後に台頭する。光仁天皇擁立に尽力した。
真楯
またて
房前
牟漏女王
佐味奈氐麻呂の娘
阿倍帯麻呂の娘
真永・永継
内麻呂
715~766 正三位・大納言、
贈太政大臣
後年、藤原氏で最も繁栄する道長・頼通親子などを輩出したのは、真楯を祖とする北家真楯流でした。『万葉集』に短歌7首、旋頭歌1首の計8首収録。同書の補注などから大伴家持との個人的親交があったと推測されている。
御楯
みたて
房前
牟漏女王
児依(仲麻呂の娘) 不詳 不明~764 従三位・参議
天平宝字3年(759)参議に叙任され、永手・真楯・清河と房前の子息4人が同時に公卿となったが、仲麻呂の娘を妻とすることから仲麻呂派に属した。
清河
きよかわ

右京3条1・2坊周辺か
房前
片野朝臣の娘
唐人 喜娘 不明~778 従三位・参議
贈従一位
天平勝宝2年(750)、清河は遣唐大使に任じられる。安倍仲麻呂を共に帰国を目指すが難破して在唐のまま没する。
魚名
うおな
房前
片野朝臣の娘
宇合の娘
津守氏
不明
鷹取・鷲取・末茂
藤成
真鷲・小黒麻呂室・長道室
721~783 正二位・左大臣
光仁天皇擁立に尽力したとされるが、その後、左遷されており「氷上川継の乱」に加担したと考えられる。後に桓武天皇によって名誉は回復された。
楓麻呂
かえでまろ
房前
阿波采女
良継の娘
不明
園人
園主、城主
723~776 従三位・参議
藤原仲麻呂の乱が勃発すると、従四位下に昇叙されてその追討にあたった。光仁朝では順調に昇進し、右衛士督・大蔵卿・摂津大夫を歴任している。



ページトップへ ▲




藤原式家(宇合)
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
広嗣
ひろつぐ
宇合
石上麻呂の娘
不明 不明 不明~740 従五位下・大宰少弐
弟の綱手と共に大宰府の手勢や隼人などを加えた1万余の兵力を率いて反乱(藤原広嗣の乱)を引き起こしたが、敗れ刑死した。
良継
よしつぐ
宇合
石川国咸大刀自
阿倍古美奈
蓼原氏
不明
乙牟漏(桓武天皇皇后。平城天皇・嵯峨天皇母)
能原長枝
詫美・楓麻呂室・鷲取室・家依室
永手室・百川室
716~777 従二位・内大臣
贈正一位・太政大臣
兄・広嗣の反乱に連座して伊豆へと流罪となる。復帰後、仲麻呂の乱鎮圧に貢献、光仁朝には太政官の次席に着いた。平城・嵯峨両天皇の外祖父
清成
きよなり
宇合
高橋阿禰娘
秦朝元の娘
不明
種継
安継・正子
不明 不明
正史に記録が無く、何らかの政治背景の中で記録されなかったと思われる。藤原広嗣の乱に連座したとする説や、出家していたとする説も有る。
田麻呂
たまろ
宇合
小治田牛養の娘
不明 不明 722~783 従二位・右大臣
兼近衛大将皇太子傅
藤原広嗣の乱に連座し隠岐国に流罪となる。2年後帰京するが、蜷淵(明日香村稲淵)の山中に隠棲し仏教修行に努めた。約20年後に政界復帰する。
百川
ももかわ
宇合
久米若女
藤原諸姉(良継の娘)

伊勢大津の娘
旅子(桓武天皇夫人、淳和天皇母 )
帯子(平城天皇妃、贈皇后)

緒嗣・緒業
732~779 従三位・参議、
贈正一位・太政大臣
光仁天皇・桓武天皇の即位に尽力があったとせれ、百川の子旅子を母とする淳和天皇が即位するに伴い、外祖父として正一位・太政大臣を追贈された。
蔵下麻呂
くらじまろ
宇合
佐伯家主娘
粟田馬養の娘
乙訓女王
不詳
不明
縄主
綱継
宗継・綱主・浄本・八綱
清綱・姉子(藤原綱継室)・是公室
734~775 従三位・参議
仲麻呂の乱の追討軍将軍として活躍、一挙に従三位となる。淳仁天皇(淡路廃帝)を配所へ護送するなど、軍事面での活躍が目立つ。



ページトップへ ▲




藤原京家(麻呂)
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
浜成
はまなり
麻呂
稲葉国造気豆の娘
多治比県守の娘
不明
継彦
永谷・臣彦・大継・承之・豊彦・法壱
724~790 従三位・参議
光仁天皇の新皇太子選定に際し、百川に反して桓武天皇を押さず、薭田親王を推挙したとされる。また、氷上川継事件にも連座したとされ、桓武天皇即位後は政界中央から切り離された。
百能
ももよし
麻呂
当麻氏
豊成 不明 720~782 従二位・尚侍
尚侍は、律令制度の内侍司の長官を勤めた女官の官名で、天皇の秘書と言える官職。後宮の女官の事実上のトップと言える地位。



ページトップへ ▲




大伴氏
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
長徳
ながとこ

不明
不明 杜屋・堅泡・友国・国麻呂・子君・御行・
安麻呂・山守・古麻呂(?)
不明~651 大紫位・右大臣
舒明天皇4年(634)第1回の遣隋使とそれに伴った唐使高表仁を難波で出迎え、舒明天皇の殯宮では誄を蘇我蝦夷に代わって奏上している。
馬来田
まくた

不明
不明 道足・男人 不明~683 贈大紫位
壬申の乱では、大海人皇子(天武天皇)の東国行に早くから(宇陀)同行するが、以降の具体的な記載は無く業績も記されていない。
吹負
ふけい

不明
不明 牛養・祖父麻呂 不明~683 贈大錦中
壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)側に立って兵を挙げ、飛鳥倭京の敵軍を破り、倭方面の将軍になった。
智仙娘
ちせんのいらつめ

不明
中臣御食子 藤原鎌足 不明 不明
『藤氏家伝』には、大伴夫人と書かれており、明日香村小原には大伴夫人のものとされる墓が在る。
御行
みゆき
長徳
不詳
紀音那
不明

兄麻呂・古麻呂(?)・三依・三中
646~701 正広参・大納言
贈正広弐・右大臣
万葉集では大将軍と書かれるが、壬申の乱での具体的な活躍は不明。『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」のモデルといわれる。
安麻呂
やすまろ

佐保宅
長徳
不詳
巨勢郎女
石川内命婦
不明
旅人・田主
稲公・坂上郎女
宿奈麻呂
不明~714 大納言兼大将軍・正三位
贈従二位
壬申の乱の倭古京の戦果を、大海人皇子の不破宮へ届ける使者となる。また、天武12年(684)、畿内を回り、都の候補地を探す役目を負う。
道足
みちたり
馬来田
不詳
不詳 伯麻呂 不明 正四位下・参議
天平3年(731)薨去していた大伴旅人に代わって、大伴氏の氏上として参議に任ぜられ公卿に列した。
男人
おひと
馬来田
不詳
不詳 小室(詳細不明) 不明 従四位下・長門守
持統年間には、収賄や窃盗を犯すなど、行状が甚だ芳しくない記録が残っている。
祖父麻呂
おおじまろ
吹負
不詳
不詳 古慈斐・像見 不明 従四位下・越前按察使
特記事項はなし。
牛養
うしかい
吹負
不詳
不明 百代 不明~749 正三位・中納言
天平14年(742)紫香楽行幸に際して平城留守司、天平16年難波行幸に際して恭仁宮留守司と、聖武天皇行幸に際して旧京留守役を務める。翌年紫香楽宮遷都に際して大楯と槍を宮の門に立てる役割を務め、従三位に叙せられた。
兄麻呂
えまろ
御行
不詳
不詳 駿河麻呂・潔足・四綱 不明 従三位・参議
光明皇后・藤原仲麻呂を補佐したが、天平勝宝3年(751)従三位に昇進して以降の記録がない。
三依
みより
御行
不詳
不詳 不詳 不明~774 従四位下
三河守、仁部(民部)少輔、遠江守、義部(刑部)大輔、出雲守などを歴任。賀茂女王との歌の贈答があり、筑紫に赴任した可能性、女王との恋愛も考えられる。
古麻呂
こまろ
御行または長徳とされる
不詳
不詳 竹良・継人 不明~757 正四位下・左大弁
天平勝宝4年(752)、遣唐副使として大使・藤原清河とともに入唐。副使船にて鑑真を来日させた。
旅人
たびと

佐保宅
安麻呂
巨勢郎女
大伴郎女
丹比郎女
不明

家持・書持・留女之女郎 (藤原継縄室)
高多麻呂
665~731 従二位・大納言
養老4年(720)征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。神亀年間(724年~729年)には、大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任し、山上憶良とともに筑紫歌壇を形成した。
田主
たぬし
安麻呂
巨勢郎女
不詳 不詳 不明 不明
正史に名を残しておらず、詳細不明。万葉集に「容姿佳艶、風流秀絶」書かれており、石川郎女との贈答歌がある。
宿奈麻呂
すくなまろ

田村の里
安麻呂
不詳
大伴坂上郎女
不詳
坂上大嬢・坂上二嬢
田村大嬢
不明 従四位下・右大弁
『万葉集』(4-759)によれば田村里(奈良市尼辻町)に住んでいたことが知られる。
坂上郎女
さかのうえのいらつめ

坂上の里
安麻呂
石川内命婦
穂積皇子
藤原麻呂(恋人?)
宿奈麻呂


坂上大嬢・坂上二嬢
『万葉集』には、長歌・短歌合わせて84首が収録されている。大宰府から帰京後は佐保邸に留まり、大伴氏の大刀自として、大伴氏の一族を統率し、家政を取り仕切ったと思われる。坂上郎女の通称は、坂上の里(現奈良市法蓮町北町)に住んだためとされる。
稲公
いなきみ
安麻呂
石川内命婦
不詳 千里・千室 不明 従四位下・大和守
橘奈良麻呂の乱直後に乱鎮圧の功労として従四位下に昇叙された。大和守を務めていた際に、同国式下郡の大和神山に生えていた藤の木の根に虫が彫った16文字の瑞字を発見したとの上奏を行うが、この文字は当時の藤原仲麻呂の執政が神意に適っているものであると解釈された。
伯麻呂
おじまろ
道足
不詳
不詳 名鳥・伴弥嗣 718~782 従三位・参議
天平勝宝4年(752)東大寺の大仏開眼供養会で久米舞の舞頭を務める。称徳・光仁朝には順調に昇進し、天応元年(781)桓武天皇の即位後、正四位上に叙せられ、衛門督・中宮大夫を兼任した。氷上川継の乱に連座したとされるが未詳。
古慈斐
こしび
祖父麻呂
不詳
藤原不比等の娘
不詳
弟麻呂
益立
695~777 従三位・大和守
天平宝字元年(757)橘奈良麻呂の乱に連座して、そのまま任国である土佐国への流罪となった。光仁天皇の即位後まもなく罪を赦されて入京する。
駿河麻呂
するがまろ
御行の孫とされるが、
父母は未詳。兄麻呂か?
坂上二嬢 不詳 不明~766 正四位上・参議
贈従三位
橘奈良麻呂の乱に連座。中央復帰後は、宝亀3年(772) 正四位下陸奥按察使、翌年、陸奥国鎮守将軍を拝命、職務を全うした。
家持
やかもち

佐保宅
旅人
丹比郎女
坂上大嬢 永主・中主 718~785 従三位・中納言
天平18年(746)に越中守に任ぜられ、天平勝宝3年(751)まで赴任。この間に223首の歌を詠んだ。また合計473首が『万葉集』に収められており、『万葉集』の編纂に拘わったと考えられている。政治的には、藤原仲麻呂暗殺計画を立案した4人の1人とされ、薩摩守への転任と言う報復人事を受ける。他に、氷上川継の乱や藤原種継暗殺事件関与していたとされて、死後、追罰として埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国に配流となった。延暦25年(806)に罪を赦され従三位に復された。
書持
ふみもち
旅人
丹比郎女
不明 不明 不明~746 不明
正史には記録が無く、万葉集に歌を残す。
田村大嬢
たむらのおおいらつめ

田村の里
宿奈麻呂
不詳
不詳 不詳 不明 不明
「万葉集」に異母妹大伴坂上大嬢におくった歌9首や大伴稲公からおくられた恋の歌がみえる。
坂上大嬢
さかのうえのおおいらつめ

坂上の里
宿奈麻呂
坂上郎女
家持 永主・中主 不明 不明
天平4年(732)頃から家持との間に歌の贈答が見られるが、恭仁京の時代(天平12年(740年) ~ 16年)、家持の正妻になったかと思われる。
坂上二嬢
さかのうえのおといらつめ

坂上の里
宿奈麻呂
坂上郎女
駿河麻呂? 不詳 不明 不明
万葉集巻3-407に、「大伴宿祢駿河麿の同じ坂上家の二嬢を娉(つまど)へる歌一首があり、駿河麻呂に嫁したと捉えることもある。
弟麻呂
おとまろ
古慈斐
藤原不比等の娘
不詳 不詳 731~809 従三位
衛門佐、征東副将軍などをへて、延暦10年8791)征東大使、同13年征夷大将軍となり、副将軍坂上田村麻呂に蝦夷を討たせ、その功績により従三位,勲二等をさずけられた。我が国初の征夷大将軍である。



ページトップへ ▲




皇族
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
高市皇子
たけちのみこ
天武天皇
胸形尼子娘
御名部皇女
但馬皇女
不明
長屋王

鈴鹿王・河内女王・山形女王
654~696 太政大臣・浄広壱
壬申の乱(672)に際し、父のもとにかけつけ全軍を統帥して活躍した。持統朝では、浄広壱にまで昇ったが持統10年(696)死去、後皇子尊と尊称された。墓は『延喜式』によれば大和国広瀬郡にある三立岡墓という。
草壁皇子
くさかべのみこ
天武天皇
持統天皇
元明天皇 元正天皇・文武天皇
吉備内親王(長屋王妃)
662~689 皇太子
岡宮天皇
皇位に就くことなく持統天皇3年(689)薨去。妻・息子・娘が皇位につき、天武系の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。しかし、男系は天平16年(774)の曾孫・安積親王の早世で途絶えた。
大津皇子
おおつのみこ
天武天皇
大田皇女
山辺皇女 粟津王 663~686 不詳
朱鳥元年(686)に天武天皇が崩御すると、同年10月2日、川島皇子の密告により謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に訳語田の自邸にて自害した。享年24歳。『日本書紀』には妃の山辺皇女が殉死したとしている。また、『万葉集』には死の直前に姉の大来皇女が斎王を務める伊勢神宮へ向かったとある。
忍壁皇子
おさかべのみこ
天武天皇
かじ媛娘
明日香皇女(?)
不詳

山前王・大野王・石田王・小長谷女王
不明~705 三品・知太政官事
天武天皇10年(681)、川島皇子、三野王、忌部首、中臣大島らと共に「帝紀および上古の諸事」の記録認定事業を命ぜられる。
磯城皇子
しきのみこ
天武天皇
かじ媛娘
不明 倭王・酒部王 不明 浄広壱?
大宝律令成立直前に30歳前後で早世したと推定される。
長皇子
ながのみこ
天武天皇
大江皇女
不詳 河内王・栗栖王・智努王・
長田王・奈良王・大市王・
阿刀王・広瀬女王・智努女王
不明~715 一品
子のうち智努王(文室浄三)・大市王(文室大市)は舎人親王薨去後、天平勝宝4年(752)に文室真人姓を下賜され臣籍降下した。
穂積皇子
ほづみのみこ

穂積邸(推定)
天武天皇
蘇我大蕤娘
大伴坂上郎女
不明

境部王・上道王
不明~715 一品・知太政官事
慶雲2年(705)には異母兄・忍壁皇子の後任として知太政官事に任ぜられ太政官の統括者となった。
弓削皇子
ゆげのみこ
天武天皇
大江皇女
不詳 不詳 不明~699 不詳
天武2年(673)誕生と推測されている。この推定にしたがえば27歳での薨去。『万葉集』に8首の歌が収録されており、天武天皇の皇子のなかでは最多を数える。
新田部皇子
にいたべのみこ

右京5条2坊
9・10・15・16坪
天武天皇
五百重娘(藤原鎌足の娘)
不詳 塩焼王・道祖王・陽侯女王(藤原仲麻呂の妻)・
長野王・忍阪王・石田王
不明~735 一品・大惣管
養老4年(720)知五衛及授刀舎人事に任命され、朝廷直轄の軍事力の統括者となった。惣管とは、天平3 年(731) 、畿内に設置された臨時の官職で、盗賊や不満分子などの取締りをはじめ、諸国の国司などの行政、治績などについて監視する。刑罰権を有していた。
舎人皇子
とねりのみこ

左京3条3坊
天武天皇
新田部皇女
当麻山背
当麻氏
不詳
三原王・大炊王(淳仁天皇)
船王
守部王・池田王・三島王・三使王
御浦王・厚見王・貞代王・室女王
飛鳥田女王
676~735 一品・知太政官事
贈太政大臣
養老4年(720)編集を総裁した『日本書紀』を奏上する。同年8月、右大臣・藤原不比等の薨去に伴い知太政官事に就任し、長屋王とともに皇親政権を樹立する。
元明天皇
げんめいてんのう
阿閉皇女
あへのひめみこ
天智天皇
蘇我姪娘
草壁皇子 氷高皇女(元正天皇)
珂瑠皇子(文武天皇)
吉備内親王
661~721 第43代天皇
707~715
藤原京から平城京へ遷都、風土記編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。
志貴皇子
しきのみこ
天智天皇
越道君伊羅都売
託基皇女
紀橡姫
不詳
春日王・湯原王
難波女王・白壁王(光仁天皇)
榎井王・壱志王・海上女王
坂合部女王・衣縫女王
不明~716 二品
春日宮御宇天皇
白壁王が皇嗣に擁立され即位した(光仁天皇)ため、春日宮御宇天皇の追尊を受けた。『万葉集』に6首の歌を残している。
川島皇子
かわしまのみこ
天智天皇
忍海造色夫古娘
泊瀬部皇女 三室王・高丘王 657~691 浄大参
天武天皇10年(681)、忍壁皇子らと共に帝紀及び上古諸事の編纂を命じられる。大津皇子の謀反を密告したことが『懐風藻』に書かれている。
長屋王
ながやおう

左京3条2坊
1・2・7・8坪


作宝宅(作寶楼)
高市皇子
御名部皇女
吉備内親王
藤原長娥子
智努女王
阿倍大刀自
石川夫人
膳夫王・桑田王・葛木王・鉤取王
安宿王・黄文王・山背王・教勝
円方女王
賀茂女王
684~729 正二位・左大臣
長屋王は官人として、次のような特殊性が見受けられる。正四位上に初叙された点、参議・中納言を経ず大納言になった点、食封の増額と封租の全部支給が親王とともに認められた点で、天武天皇の孫の中でも特に有力な血筋であったことなどが考慮されたのではないかと思われる。
三原王
みはらおう
舎人皇子
当麻山背
不詳 和気王・丹波王・岡細川(細川王)
山口王・長津王・小倉王・石浦王
弓削女王・小宅王
不明~752 正三位・中務卿
王の子供、小倉王・石浦王の子孫は臣籍降下して清原氏として栄え、清原深養父・清原元輔・清少納言等歌人を輩出した。
三島王
みしまおう
舎人皇子
不詳
不詳 林王・河辺女王・葛女王 不明 従四位下
特記事項なし。
船王
ふねおう
舎人皇子
不詳
不詳 葦田王 不明 二品
橘奈良麻呂の謀反計画が未遂に終わった後、百済王敬福と共に獄囚の拷問にあたり、黄文王・道祖王・大伴古麻呂らを杖死させる。藤原仲麻呂の乱に連座して捕えられ、隠岐国に流罪となる。
池田王
いけだおう
舎人皇子
不詳
不詳 藤野王・御長中嗣・御長広岳
女子2名 ほか
不明 三品・糾政尹
藤原仲麻呂の乱に伴って淳仁天皇が廃されると、親王から諸王に戻され土佐国へ配流された
守部王
もりべおう
舎人皇子
不詳
不詳 笠王他2名 従四位
最終官位不明
特記事項なし。
淳仁天皇
じゅんにんてんのう
大炊王
おおいおう
舎人皇子
当麻山背
粟田諸姉(藤原真従室)
不明

安倍内親王 (伊勢斎宮、磯部王妃)
石見王
733~765 第47代天皇
785~764
廃帝
孝謙天皇により立太子された。藤原仲麻呂の強い推挙による。大炊王は仲麻呂の子・真従の未亡人である粟田諸姉を妻とし、仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と強い関係を持っていた。仲麻呂の乱後、孝謙上皇によって廃位され、親王の待遇をもって淡路国に流される。
上皇は重祚して称徳天皇となった。称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていた。
飛鳥田女王
あすかだじょうおう
舎人皇子
不詳
不詳 不詳 727~782 従四位下
天平宝字5年(761)、保良京遷都の移転費用に稲4万束を賜る。紫香楽山保良寺は、同年飛鳥田内親王の創建とされる。
文武天皇
もんむてんのう
軽皇子
かるのみこ
草壁皇子
元明天皇
藤原宮子
石川刀子郎女
紀竈門娘
聖武天皇
広成皇子・広世皇子
683~707 第42代天皇
697~707
持統11年(697))立太子。祖母・持統から譲位されて天皇位についた。当時15歳という先例のない若さのため、持統が初めて太上天皇を称し後見役についた。大宝元年(701)に大宝律令が完成し、翌年公布。 また新たに官位制を設けた。それまで散発的にしか記録されていない元号制度の形が整うのもこの大宝年間だとされる。
元正天皇
げんしょうてんのう
氷高皇女
ひたかのひめみこ
草壁皇子
元明天皇
680~746 第44代天皇
715~724
弟・文武天皇の子である首皇子(後の聖武天皇)がまだ若い為、母・元明天皇から譲位を受け即位。 710年、平城京に遷都。養老8年/神亀元年(724)聖武天皇に譲位。退位の詔では新帝を「我子」と呼んで退位後も後見人としての立場で聖武天皇を補佐した。
聖武天皇
しょうむてんのう
首皇子
おびとのみこ
文武天皇
藤原宮子
光明皇后
県犬養広刀自

南殿(藤原武智麻呂の娘)
橘古那可智(橘佐為の娘)
北殿(藤原房前の娘)
孝謙:称徳天皇・基王
井上内親王・不破内親王
安積親王
701~756 第45代天皇
724~749
和銅7年(714)元服が行われて同日正式に立太子される。病弱であったこともあり、翌霊亀元年(715)に伯母である元正天皇が皇位を継ぐことになった。24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位した。天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発しており、天皇は仏教に深く帰依し、天平13年(741)には国分寺建立の詔を、翌々年(743)には東大寺盧舎那仏像の建立の詔を出している。加えてたびたび遷都を行って災いから逃れようとしたものの、官民の反発が強く平城京に復帰した。天平勝宝元年(749)、孝謙天皇に譲位。生前譲位(太上天皇)した初の男性天皇となる。天平勝宝8年(756)に道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。
基王
もといおう
聖武天皇
光明皇后
727~728
聖武天皇と光明皇后とのあいだに生まれた唯一の男子。生後わずか32日で皇太子に立てられた。皇太子は成人であることが求められた当時としては、異例な措置だとされる。しかし、翌年には病を得て、1歳に満たずに夭逝した。
孝謙天皇
こうけんてんのう
称德天皇
しょうとくてんのう
阿倍内親王
あべないしんのう
聖武天皇
光明皇后
718~770 第46代天皇
749~758

第48代天皇
764~770
聖武天皇と光明皇后の間には男子が育たず(基王が早世)、阿倍内親王のみであった。天平10年(738)に立太子し、唯一の女性皇太子となった。橘奈良麻呂の乱、藤原仲麻呂の乱、宇佐八幡宮神託事件など政変が相次ぎ、皇位継承問題が常に問題となっていた。
安宿王
あすかべおう
長屋王
藤原長娥子(藤原不比等の娘)
不詳 高階浄階 不明 正四位下・内匠頭
長屋王の変では、母が藤原不比等の娘(藤原長娥子)であったことから安宿王は同母弟の黄文王・山背王とともに罪を免れた。天平宝字元年(757)に橘奈良麻呂の乱に際に関与を疑われ、妻子と共に佐渡に流罪となる。その後許され、臣籍降下して高階真人を賜与された。
黄文王
きぶみおう
長屋王
藤原長娥子(藤原不比等の娘)
不詳 不詳 不明~757 従四位上・散位頭
長屋王の変では、安宿王と同様に罪にはならなかったが、橘奈良麻呂の乱に際し、奈良麻呂により皇位に擁せられたが、道祖王らと共に捕らえられ、久奈多夫禮(くなたぶれ=愚かな者)と改名させられた後、杖で打たれ拷問死した。
道祖王
ふなどおう
新田部皇子
不詳
不詳 不詳 不明~757 従四位上・中務卿
天平勝宝8年(756)、聖武上皇は道祖王を孝謙天皇の皇太子に立てることを遺詔した。しかし翌天になって孝謙天皇本人の命令により皇太子を廃された。その理由として、道祖王は先帝(聖武)の喪中であるにもかかわらず侍童と姦淫をなし、先帝への服喪の礼を失したなどとししている。橘奈良麻呂の乱が発覚すると、奈良麻呂らが擁立しようとした天皇候補のなかに道祖王の名があったため捕縛され、拷問死した。



ページトップへ ▲





平城京内で住所の分かる主な住民
名前 父母 妻・夫 子供 生没年 最終官位
市原王
いちはらおう

左京4条2坊
志貴皇子の曾孫、あるいは
  川島皇子の曾孫
能登内親王(光仁天皇皇女) 五百井女王
五百枝王
不明 正五位上
写一切経所長官,玄蕃頭,備中守,金光明寺造仏長官,写経司長官,大安寺造仏所長官,造東大寺司知事,治部大輔,摂津大夫,造東大寺司長官など,主に仏教関係事業の官職を歴任。
紀朝臣勝長
きのあそんかつなが

左京2条5坊
紀船守
不詳
不詳 不詳 754~806 従三位・中納言
造東大寺司長官などをへて、延暦15年(796)に参議。延暦25年(806)中納言にすすむ。
小治田朝臣安麻呂
おはりだのやすまろ

右京3条2坊
蘇我氏の後裔
不詳
不詳 不詳 不明~729 従四位下
奈良市都祁甲岡町で小治田朝臣安萬侶の火葬墓が見つかり、墓誌が発見された。
墓誌銘文 「右京三條二坊従四位下小治田朝臣安」「萬侶大倭國山邊郡都家郷郡里崗安墓」「神亀六年歳次己巳二月九日」
太朝臣安麻呂
おおのやすまろ

左京4条4坊
11~14坪
不詳 不詳 不詳 不明~723 従四位下・民部卿
贈従三位
和銅4年(711)、元明天皇から稗田阿礼の誦習する『帝紀』『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられる。翌5年編纂した『古事記』を献上する。奈良県奈良市此瀬町の茶畑から安万侶の墓が発見され火葬された骨や真珠が納められた木櫃と墓誌が出土した。
墓誌銘文「左亰四條四坊従四位下勲五等太朝臣安萬侶以癸亥 年七月六日卒之 養老七年十二月十五日乙巳」
安部朝臣嶋麻呂
あべのしままろ

左京5条3坊
阿部御主人の孫
不詳 不詳 不明~761 正四位下・参議
天平19年(747)に元正太上天皇御大葬養役夫司として奉仕し、勝宝元年(749)侍従を任ぜられた。その後、伊予守、左大弁と昇進し、光明皇大后葬送の装束司として奉仕した。
曽称連伊甘志
そねのむらじいうまし

右京1条3坊
不詳 不詳 不詳 不明 正五位上
西大寺の境内の東北の隅の喪儀寮内に住み、天平14年(742)から曽禰造牛養のもとで、優婆塞(普通の時は日常の生活している男子で、仏門の前へ行くと僧侶になる)として貢献した。
大中臣清麻呂
おおなかとみきよまろ

右京2条2坊
中臣意美麻呂
多治比阿伎良(多治比嶋の娘)
多治比子姉(または乙奈子)- 従二位、尚侍
不詳
諸魚

宿奈麻呂・子老
継麿・老人
今麿
720~788 正二位・右大臣
氏姓は中臣朝臣のち大中臣朝臣。大中臣氏の祖。88歳と天寿を全うする。文武朝から桓武朝の九朝に亘って生き、聖武朝から桓武朝の六朝に亘って仕えた。幾度も神祇官の官人を務め、清廉で勤勉であることを称徳天皇より賞され、従三位に叙せられ、その後更に昇進している。
石上朝臣宅嗣
いそのかみやかつぐ

左京2条3坊
9・10・15・16坪か
石上乙麻呂
不詳
不詳 継足
藤原雄友室
729~781 正三位・大納言
贈正二位
天平神護2年(766)に参議として公卿に列し、その後も順調に昇進している。宝亀11年(780)には大納言に昇進、太政官で第三位の地位を占めた。この間大宰帥・式部卿・中務卿・皇太子傅を歴任する一方、宝亀6年(775)物部朝臣、同10年石上大朝臣に改姓している。
大原真人今城
おおはらのまひといまき

左京1条3坊
穂積皇子
坂上郎女?
不詳 不詳 不明 従五位下・駿河守
天平11(739)、高安王らと共に大原真人の氏姓を与えられた。藤原仲麻呂の乱に連座して官職位階を奪われた模様だが、後に復帰している。『万葉集』に18首の歌を残し,大伴家持と親交のあったことが知られる。
於伊美吉子首
うえのいみきこおびと

右京3条3坊
不詳 不詳 不詳 不明 従六位上・造寺工
7世紀末に創建されたと思われる下野薬師寺は、和銅3年(710)頃からは伽藍の改修が行われた。正倉院に残る右京計帳によると天平5年(733)に平城京右京に住む於伊美吉子首が下野薬師寺の造司工に命じられたとあり、大改修が進められた事が窺える。



ページトップへ ▲








ページトップへ ▲


ページ作成 両槻会事務局

画像及び文章の無断転載・転用は禁止します。

両槻会TOPへ戻る