両槻会(ふたつきかい)は、飛鳥が好きならどなたでも参加出来る隔月の定例会です。 手作りの講演会・勉強会・ウォーキングなどの企画満載です。参加者募集中♪



第55回定例会

ウォーキング

早春の外鎌山から忍坂(おっさか)の里を歩く



事務局作成資料

作製:両槻会事務局
2016年3月12日


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
「忍坂」について 素盞鳴神社 古墳公園(移築された忍坂古墳)
外鎌山 外鎌城 大和武士 西阿
大伴皇女押坂内陵 鏡女王押坂墓 段ノ塚古墳
神籠石 高円山 石位寺 伝 薬師三尊石仏
玉津島明神 忍坂坐生根神社 忍坂山口坐神社
宇陀が辻 宗像神社 外山不動院
報恩寺 桜井茶臼山古墳 魚市場跡
関連万葉歌 関連系図Ⅰ 関連系図Ⅱ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


この色の文字はリンクしています。

「忍坂」について

 大和盆地東南部に位置する桜井市の市街地から東へ行くと、三輪山の南で初瀬川に沿う谷と粟原川へ入る谷に挟まれて円錐形の秀麗な山容を見せるのが別名忍坂富士と呼ばれる外鎌山(とがまやま)です。国道はそれぞれの川に沿って長谷・榛原方面へ行くR165と粟原・宇陀へ行くR166とに別れます。「忍坂」の集落はその分岐から粟原方面へわずかに遡った位置にあります。

 大和と東国とを結ぶルートの要衝にあるこの地は古代から重要視されていたようです。「忍坂」の地名は『日本書紀』の神武即位前記に、「道臣命が神武に命ぜられ忍坂に大室を作って饗宴を催す」とみえるのが最初で、熊野から宇陀へ進んできた神武天皇一行は忍坂で地元勢力の抵抗に会います。土蜘蛛八十建を征伐した『忍坂大室屋』のあったのがこの辺りといわれていて、実際に「字ヲムロ」という地名が残っています。
 また、垂仁紀には皇子の五十瓊敷入彦命(いにしきいりひこのみこと)が茅渟の川上宮において、(後に石上神宮に移されることになる)一千口の剣を作って忍坂邑の蔵に収めたとあります。ここには王権が所有する重要な武器庫があったと考えられています。
 允恭天皇の皇后である忍坂大中姫については記紀で書かれていることに違いがありますが、忍坂に宮があったとされています。天皇は皇后の為に御名代として押坂部(刑部)を定めたとの記述があります。

 和歌山県橋本市隅田八幡宮所蔵の国宝人物画像鏡に刻まれた金石文には「在意柴沙加宮時(おしさかのみやにいますとき)…」という文字がみられ、「忍坂宮」が実在していたことがわかります。文中冒頭の癸未(みずのとひつじ)の年代を443年と考えると第19代允恭天皇の時代となり、忍坂大中姫のオシサカとつながります。また、503年とする説によると継体天皇が即位前に住んでいた宮となります。

 1986年に発掘調査された忍坂遺跡では古墳時代中・後期の柱穴や溝・土壙が多数検出され、太い柱の掘立柱建物の遺構やフイゴの羽口・鉄滓など鍛冶関連の遺物が出土し、忍坂宮や王権の武器庫などとの関連を想像させる内容で、古代における忍坂の地の重要性を示す遺跡と考えられています。

 現行の市町村名では「忍阪」と表記しますが、古代には「忍坂」や「押坂」「意柴沙加」の文字が使われています。読みは「おしさか・おさか」ですが、地元ではもっぱら「おっさか」と呼ばれています。


忍坂街道



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素盞鳴神社

 今回のテーマにはかかわらない神社ですが、集合場所の朝倉駅からいくらも離れていないので、古代祭祀の姿を今に伝えるような巨大な磐座を御神体とする古い神社の姿は、両槻会に参加される皆様のお好みに合うのではないかと思いましたので、ご紹介がてら訪れたいと思いました。


 祭神は、素戔嗚尊。本殿(流造)の背後と左右に高さ5~6mの巨岩を中心とした三個の磐座が北面し、前に拝殿が建っています。北側直下の境内地には古い土師器片が散布していたようで、古代祭祀のあとではと桜井市史に書かれています。

 ここから線路と国道を挟んだ三輪山南麓には玉列(たまつら)神社があります。大神神社の摂社で玉椿大明神とも呼ばれる椿で有名な式内社ですが、素盞鳴神社はその玉列神社の境外末社となっています。

 スサノオといえばイザナギ・イザナミの生んだ三貴神の一人で天照大神の弟。ヤマタノオロチを退治した英雄でもありますが、荒ぶる神と恐れられています。恐い神様というのはそれだけ強い力を持っていると考えられていたのでしょう、世の中が平和なときは優しい神様でいいのですが、事何かあって世の中が乱れたようなときは荒ぶる神様の方が頼りにされたようです。
 スサノオ信仰が盛んになったのは平安時代、疫病が流行して社会不安が高まったときで、御霊信仰や祇園信仰が全国に広まりました。祇園さん・牛頭天王はインドの神様で同じ荒ぶる神としてスサノオと同一視され、疫病退散の神様として全国に八坂神社、牛頭神社、祇園さんとして祀られたようです。
 ここも祇園さんとして七月七日に例祭があります。



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古墳公園(移築された忍坂古墳)

外鎌山北麓古墳群
 外鎌山山麓には100基程の小規模な古墳が、古墳時代後期を中心に築造されています。近鉄朝倉台団地の造成にともない、昭和47年から51年まで5次にわたって北麓の造成予定地内の32基の古墳を対象に調査が行われました。その結果、4世紀末頃までさかのぼる可能性のある土器棺から、5~6世紀の木棺直葬墳、6世紀の横穴石室、7世紀の磚槨墳、奈良時代の火葬墓まで変換をたどることがわかりました。
 外鎌山北麓古墳群は、山塊から派生した尾根ごとに数基単位の支群が営まれており、分布状況から一尾根に一集団が墓地を占有していたのではと考えられています。それぞれ大字名を付して慈恩寺・忍坂・竜谷古墳群と分けて呼ばれています。調査後は朝倉台団地が完成したため残念ながらほとんどの古墳が消滅してしまいましたが、竜谷6~8号墳の横穴式石室は団地東側の6号公園内に現地保存、忍坂1・2号墳の横穴式石室と、忍坂8・9号墳の磚槨式石室は近鉄大和朝倉駅南にある2号公園内に移築保存されています。

忍坂1号墳

 径7mの円墳で片袖式の横穴式石室。調査前から存在が知られていた数少ない古墳のひとつです。封土は横穴式の石室をかろうじて覆う程度で、天井石は奥壁より2枚を残して他は失われていました。現存長4.5m、玄室長3.5m、玄室奥壁部幅1.75m、入口部幅1.57m。玄室床面は2層あり、追葬があったと考えられています。築造当初の床面には花崗岩を砕いた角礫が玄室前面に敷かれ、鉄鏃、馬具、飾金具、鉄釘、須恵器などが出土。石室の形態や出土遺物から築造時期は6世紀後半と考えられています。

忍坂2号墳

 径13mの円墳、両袖式の横穴式石室で、羨道部の一部と天井石が失われていました。現存長4.6m、玄室長3.55m、玄室奥壁部幅1.8m、中央部幅1.98m、玄門部幅1.90m。玄室内で6体分の頭蓋骨が検出されました。出土遺物としては玄室から鉄刀、金環、銅製責金具、鉄釘、土器類、羨道部から刀子が出土。築造時期は6世紀末~7世紀初頭と考えられていますが、7世紀中葉~後半にかけて追葬が行われています。

忍坂8号墳

忍坂8号墳 六角形の角部分

 尾根の南斜面に造られた径12mの円墳で、地山を大きく掘り込んだ掘割があります。墳丘の下半分はこの地山を利用し、その上部に盛土をして築造していたようです。調査時には既に墳丘の南半分が失われ、埋葬施設は石室最下段の石が一部残っていただけで羨道部の構造も不明ですが、配列状況などから一辺176.5㎝の正六角形の平面プランをもつ特殊な石室であることがわかりました。板状に加工した榛原石(室生安山岩)を煉瓦状に積んだ磚積式石室です。石室内床面には砂利層が敷かれていて、この上面からガラス玉、銅製釘、歯、須恵器、土師器などが出土しました。また、石室下と石室周囲から排水施設の存在が確認されました。築造時期は7世紀中葉~後半と考えられています。

忍坂9号墳

 忍坂8号墳から西に12m隔てて同じ尾根上に築造されていました。同じように南半分が失われ、墳形を特定することができませんが、多角形の可能性も指摘されているようです。墳丘規模は径11m、埋葬施設は8号墳同様榛原石をもちいた磚積式の石室で長方形の平面プランをもつと考えられています。築造時期を特定するような出土遺物が少ないのですが、8号墳の石室の技法と共通点が多く、同一の工人集団によるであろうということと、古墳の立地や方位の観点から8号墳より先に築造されたと考えられています。



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外鎌山

 外鎌山は、「とかまやま」と読みます。別名は多く、高間山・忍坂山・小倉山などとも呼ばれており、また朝倉富士の愛称でも親しまれています。
 山名は『大和志』に「恩坂山」として項目が設けられ、「忍坂村東、連旦慈恩寺竜谷村、又有高円山小倉山之支別」と説明があります。
 朝倉富士の愛称からも分かるように円錐形の山容を呈しており、西から北にかけての方向からは美しい姿を見ることが出来ます。

『万葉集』巻8-1511 岡本天皇(舒明天皇)
 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず い寝にけらしも」
『万葉集』巻9-1644 雄略天皇 
 夕されば 小倉の山に 臥す鹿の 今夜は鳴かず い寝にけらしも
(これらの歌に詠まれる小倉山は、外鎌山ではないとする説も有り、また詠み人への疑問も有ります。)
  『万葉集』巻13-3331 詠み人知らず
  隠国の 泊瀬の山 青幡の 忍坂の山は 走り出の 宜しき山の 出で立ちの くわしき山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも

 とあり、王宮の身近にあり、美しい山容で知られていたようです。


初瀬川(大和川)馬出橋あたりから見た外鎌山

 外鎌山の標高は、約292.4mを測ります。近鉄大和朝倉駅南口からの標高差は約200mになり、また登山口からの標高差は約150mになります。登山口から山頂までの平面直線距離は約350mですので、平均傾斜角は約23.2度になります。

 平均して左図の様な傾斜が、およそ380m続くということになります。もちろん、自然地形ですので、緩やかな所や急な所があります。
山頂には、北(朝倉台)登山口から約20分で到着します。

 山頂には平坦面があり、中世の城郭が在ったことが偲ばれます。南西から北西に視界が広がり、二上山や大和三山が遠望されます。



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外鎌城

 外鎌山には、南北朝時代に活躍した大和武士「西阿(さいあ)」が建てたといわれる外鎌城が在りました。登山路には、外鎌城の一部だとされる石垣が在り、往時の一端を見せています。また、外鎌山北東麓にも石垣が残り、朝倉台5号公園として姿を留めています。
 城の虎口(こぐち=出入口)は西または北西方向に在ったと考えられており、北西を中心にした守りを強化している模様です。
 奈良県遺跡情報地図には、郭跡「外鎌山城跡」として掲載されています。
 外鎌城は、南北朝時代に南朝方の大和盆地南部防衛拠点の一つとして築かれたもので、南北両朝の激戦地となりました。南朝方の武士として奮戦した西阿は、そのために歴史に名を留めることになりました。

 外鎌城は、西阿の築いた六城(開住城・川合城・安房城・鵄城・赤尾城・外鎌城)の内の一城で最も東に位置し、最後の抵抗を試みる城であったと思われます。


 薄い緑色と黄色の丸印が、西阿が築いた六城の推定位置です。
 この辺りは、ほぼ吉野宮の真北にあたり、北朝方の進軍路となるため、大和盆地での最終防衛ラインが敷かれたのではないでしょうか。図を検討すると、進軍ルートに対する二重の防御網のように見えます。この六城の他に、橿原市石原田町に石原田砦があったことが記録に残っているようです。



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大和武士 西阿(さいあ)

 『太平記』巻18には、後醍醐天皇の吉野遷幸に際して、河内や紀伊の武士と共に南朝方に従った大和武士の1人に「三輪西阿」と記された人物が居ました。北朝方の武士が書き置いた武家文書には「開住西阿」、「那良西阿」、「大和国凶徒西阿」、「玉井西阿」などと書き表されているのですが、これらは奈良や桜井市戒重、桜井市三輪などの地名を冠して呼ばれていたものと思われ、同一人物だろうと考えられます。他には、「西阿法師」と書かれている場合も有り、法名だとされています。

 西阿という人の出自は、不明です。主な説を紹介すると、高階(たかしな)氏と高宮氏の2氏に絞られてくるようです。
 高階氏は、飛鳥時代の高市皇子に繋がる系譜を持ち、長屋王の変の際、孫である磯部王が助命され、その孫の峯緒王が承和11年(844)に臣籍降下して高階真人の姓を賜ります。その21代目の子孫を勝房入道西阿とします。(『高階宗家 玉井系図』による。)
 一方、高宮氏は飛鳥時代の人物で壬申の乱で活躍した三輪君高市麻呂に繋がる系譜を持ち、代々大神神社の神官を務めてきたという古い家系で知られます。高宮家系図に寄れば、こちらも勝房という人が居り、「大神主小五位下左近将監後醍醐天皇南遷之時・・・・出家西阿入道」などと書き加えられているようです。

 高宮氏は現在も大神神社の神官を務め、一方、高階氏は桜井宗像神社の神官を受け継いできた家系です。高市皇子の母が胸形尼子娘(宗形徳善の娘)であること、付近にある青木廃寺から平安時代に作られた軒丸瓦の中に「□□□大工和仁部貞行」、軒平瓦に「延喜六年壇越高階茂生」と瓦当面に銘文を持つものが発見されていること、また、創建当初の瓦は、平城京の長屋王邸宅跡から出土したものと同笵であることから、古くから周辺に所縁を持っていたことが窺えます。
 西阿が築城した六城の他に、石原田砦が築かれていたとする資料も有るようです。その推定地は、戒重城の西約1.8kmに位置する橿原市石原田町に宗像三女神の一神、市杵島姫神を祀る神社が存在し、その100m南には、三輪神社が在るのも偶然と済ませられるものなのでしょうか。

 西阿の主城であった戒重城は奮戦空しく、興国元年/暦応3年(1340)7月2日、夜襲を受け落城しました。翌3日、他の城と共に外鎌城も落城し、大和武士西阿の生涯も幕を閉じたと考えられるようです。




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大伴皇女押坂内陵

 大伴皇女は、『日本書紀』によれば、欽明天皇と堅塩姫との間に生まれた皇女です。欽明天皇の皇后は石姫で、二男一女を生んでいます。妃は5人で、皇后の妹の稚綾姫皇女と日影皇女、蘇我稲目の娘の堅塩姫と小姉君、春日日抓臣の娘の糠子です。稚綾姫皇女は一男、日景皇女は一男、堅塩姫は七男六女、小姉君は四男一女、糠子は一男一女を生んでいます。

 大伴皇女の同母の皇子女は13人、異母の皇子女は12人となります。推古天皇や用明天皇の同母妹で、第9子とされていますが、その名前や生誕順には異伝があり、『日本書紀』もそれを注記しています。また、崇峻天皇、敏達天皇の異母妹、聖徳太子の叔母になります。
 大伴皇女は、『古事記』では「大伴王」と記されていますが、『日本書紀』『古事記』ともに欽明天皇の皇女として記されているだけで、それ以外にはまったく不明です。『延喜諸陵式』には、「大伴皇女押坂内墓」と称して、大和国城上郡押坂陵域内に位置すると記され、現在は、宮内庁が管理しています。

 発掘調査等されていませんので、詳細は不明で、橿原考古学研究所の遺跡情報地図にもその概要が円墳と記されているだけですが、大正年間には測量調査のみ行われており、宮内庁書陵部発行の『陵墓地形図集成』には、その地形図が載せられています。

 この陵墓も外鎌山から南に延びる三方の尾根を利用して営まれた古墳で、後背部を切断してテラス面を造り、そこに墳丘を造営しており、左右と後面の三方を尾根が取り囲む終末期特有の古墳です。拝所からは墳形はよくわかりませんが、墳丘の周囲は一周できるので、色々な位置から墳丘やその周辺を確認してみると、円墳らしい高まりや背面の尾根を切断している様子、周囲のテラス状の整地された様子がよくわかります。墳丘の大きさは径約15m、高さ約3m前後かと思われます。

 大伴皇女の墓が、なぜこの地に造営されたかは不明です。『桜井市史』も「大伴皇女は舒明天皇の祖父に当たる敏達天皇の異母妹で、舒明天皇から見れば血縁は薄い。また、舒明天皇よりも早くに薨じたと考えられることから、先に大伴皇女の墓が造営され、その後に舒明天皇の墓が営まれたことになる。いずれにしても、大伴皇女の墓とすると疑問が残ることは確実。」としています。しかし、「大伴は乳母の氏で、乳母の氏族が支配する田庄の民を使役して、田庄付近に皇女の墓を営んだと考えられる」とする説(谷肇著『額田姫王』)もあります。



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鏡女王押坂墓

 舒明天皇陵から東北に位置する墳墓が鏡女王(かがみのひめみこ)の陵墓とされています。『延喜諸陵式』には、「鏡女王・押坂墓」として、大和国城上郡押坂陵域内東南に位置すると記されています。

 『延喜諸陵式』『興福寺縁起』では「鏡女王」、『万葉集』では「鏡王女」、『日本書紀』では「鏡姫王」と記されています。『興福寺縁起』には、藤原鎌足の正室であり、鎌足の病気平癒を祈願して天智天皇8年(669)に山階寺を建立したと記されています。『万葉集』には、天智天皇や藤原鎌足との相聞歌、額田王との唱和の歌が残されています。『日本書紀』の天武天皇12年(683)7月4日条には、「天皇が鏡姫王の家に行幸し、病を見舞った。」とあり、翌5日には「鏡姫王が薨じた。」と記されています。

 「鏡女王」「鏡王女」「鏡姫王」は同一人物とみられていますが、本居宣長が『玉勝間』に記したように、「鏡女王」は、近江国野洲郡鏡里の豪族・鏡王の娘で、「額田王」の姉とする説が有力です。『日本書紀』には二人が姉妹であるとは記されていませんが、天武2年(673)2月27日条に、「額田王」が鏡王の娘であると記されていることと『万葉集』に「鏡王女」と「額田王」との唱和の歌(巻4・488、489番歌)があることから二人が姉妹とされています。そして、『万葉集』の巻2・91、92番歌と巻4・489番歌とによって、天智天皇の後宮に属した女性と考えられています。さらに、『万葉集』巻2・93、94番歌からみえる鎌足の相聞と『興福寺縁起』の記述から、いずれかの時期に天智天皇から下賜され、藤原鎌足の正室になったとされています。

 しかし、墳墓の位置が舒明天皇陵のすぐそばにあることやそれが『延喜諸陵式』にも記されていること、『日本書紀』には、天武天皇が自ら見舞っていることや「薨じた」と記されていることなどから、舒明天皇の皇女ではないかとする説(中島光風著『鏡王女について』、澤瀉久隆(おもだかひさたか)著『萬葉古径』等)もあるようです。

 この墳墓の現在の所在地は、桜井市大字忍阪字女塚になります。発掘調査等はされておらず、詳細は不明ですが、橿原考古学研究所の『奈良県遺跡情報地図』によると、「遺跡名:鏡皇女陵、種類区分:古墳・横穴墓、遺跡概要:円墳・径15m」とされています。宮内庁による陵墓指定はなく、藤原鎌足の正室ということから、一時期は、談山神社の関係者によって維持されていましたが、現在は、談山神社の管理下で忍阪区の老人会「生根会」の方々が下草刈りの奉仕作業を行っておられ、6月の奉仕作業の後には、談山神社神職による祭祀・直来(なおらい)が催されているそうです。また、談山神社では東殿を『恋神社』として鏡女王を縁結びの神として祀られています。

万葉歌碑

『秋山の 樹(こ)の下隠(がく)り逝(ゆ)く水の 
      吾(われ)こそ益(ま)さめ み思ひよりは』(巻2-92)

 この歌は、皇太子であった中大兄皇子(のちの天智天皇)が鏡女王に送った歌「妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを」に答えた一首であるといわれています。



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段ノ塚古墳(舒明天皇押坂内陵・糠手姫皇女押坂墓)

 舒明天皇は、敏達天皇の孫で、父は押坂彦人大兄皇子、母は田村皇女(糠手姫皇女)です。諱は田村皇子、和風諡号は息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと)です。

 『日本書紀』によると、舒明天皇は、推古天皇崩御に際して山背大兄皇子との皇位継承争いの後、舒明天皇元年(629)1月4日に即位しました。舒明天皇2年(630)に飛鳥の岡本に宮を置いていますが、晩年の舒明天皇12年(640)には宮を百済に遷しています。舒明天皇13年(642)10月9日に百済の宮で崩御し、同月18日に宮の北で殯(百済の大殯)が行われました。翌年の皇極天皇元年(643)12月13日に喪を起こして、同月21日に「滑谷岡(なめはざまのおか)」に葬られましたが、9か月後の皇極天皇2年(644)9月6日に「押坂陵」に改葬されています。滑谷岡については、従来は明日香村冬野とする説がありましたが、平成27年に発掘された明日香村の小山田遺跡とする説があります。

 段ノ塚古墳は、外鎌山の山麓から南に延びる尾根の先端を利用して営まれた古墳で、後背部の丘陵を切断してテラス面を造り、墳丘を造営しています。墳丘の左右と後面の三方を尾根が囲む終末期古墳です。

 元禄10年(1797)に当時の忍坂村庄屋と年寄が南都奉行所に提出した覚書には「舒明天皇陵」の伝承記載はなく、「段ノ塚」として報告されており、元禄の修陵の際に「舒明天皇陵」と決定し、その後、宮内庁も現在に至るまで「舒明天皇押坂内陵」と治定しています。幕末の陵墓研究家の谷森善臣は『山稜考』(文久年間)のなかの舒明天皇陵の箇所で、往年に南面が崩壊し、里人が中をのぞいたところ横穴室石室内に石棺が二基あり、奥棺は石室に直交、前棺は平行に置かれていたという内容を載せています。『日本書紀』には、母の田村皇女(糠手姫皇女)は天智天皇3年(664)に亡くなったと記されているものの墓の所在は記していませんが、『延喜諸陵式』には、田村皇女(糠手姫皇女)の墓を「押坂墓」と称して「舒明天皇陵内」と、他の御陵のようにその場所を「陵域内」と記さず「陵内」と記しています。これらのことから、舒明陵は合葬墓と考えられ、宮内庁も「糠手姫皇女押坂墓」と治定しています。

 宮内庁の調査報告(平成6年宮内庁書陵部発行『書陵部紀要第46号』記事「舒明天皇押坂内陵の墳丘遺構」)によると方形壇の裾幅は下段が約105m、中段が約76m、上段が約56mです。八角丘墳の一辺は19.7m、対辺間距離は42m、高さは約12mになり、墳丘全体の南北長は約77mとなります。方形壇の裾には花崗岩の列石、墳丘部には流紋岩質溶結凝灰岩(室生安山岩、榛原石)が敷設されています。他の八角形墳が辺部を正面とするのと違い、隅角部を正面にしています。正面の隅角は隅切りがされた約4.3mの短辺となり、正確には、等角八角形を基調とした九角形とされます。南正面短辺のテラスから若干上方の斜面で、羨門部の天井石と推定される幅約2.5m強の大石が、ボーリングステッキによる探査(試錘)で確認されています。石室の床面が、八角墳丘の下段裾のテラスと同一レベルとすると天井石までの高さは3mを超えると考えられますが、この当時の切石造りの石室の羨道部の高さは2m前後であることからすると、石室床面は、八角丘墳下段の中程にくることとなるようです。さらに、八角丘墳下段の南正面短辺については、追葬時に改変されたか追葬を考慮して計画されたと考えられるようです。
 八角形墳は、この舒明天皇陵を初めとして、以後、斉明天皇(牽牛子塚古墳、初葬は岩屋山古墳か?)、天智天皇(御廟山古墳)、天武・持統天皇(野口王墓)、草壁皇子(束明神古墳)、文武天皇(中尾山古墳)と続いています。八角の墳形は、当時権勢を極めた蘇我氏の大型方墳に代わるものとして、大王が豪族を超越した地位を示すために創出されたものだとする説があります。



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神籠石(じんごいし) 通称ちご石

 忍坂街道から舒明天皇陵への参道に立つ大石で、上に半鐘が乗る姿はひときわ目を引く存在で、火の見櫓を見ることも珍しくなった今日ではこの集落のひとつのモニュメントとなっています。

 伝承では『神武天皇がこの地にいた八十建を討つとき、この石に隠れ、石垣をめぐらし楯とした大石』とされています。『忍坂村の中央に「楯の奥」(現・タツノ奥)というところあり、その北の「矢垣内」(現・屋垣内)に「神籠石」というおおきな建石がある』と古書に書かれているそうです。ジンゴイシがいつのまにかチゴイシと転訛したのか、今は「ちご石」と呼ばれているそうです。「楯の奥」「矢垣内」という小字名は神武天皇にかかわる伝承からきているようです。
 また、地元に住む人の話では、昔は素手で正面からこの大石のてっぺんまで登れば一人前の証とされていたそうで、男の子にとっては大人として認められるための通過儀礼のひとつだったのかも知れません。今はそんな危険な遊びをする子どももいなくなり、半鐘も鳴らされることがなくなったそうです。
(火の見櫓と半鐘は、1960年頃に生根神社境内より移設されたもの)

 神護石はジンゴイシ、コウゴイシ、またはヒモロギイシとも呼ばれ、全国にその例があるようです。多くは聖域を示す立石であったり、古代山城にかかわるもののようです。
 この忍坂の「ちご石」についても、『舒明天皇陵の兆域の基準になる施設に「ちご石」がある』とする研究論文があるようです。なかなか素通りはさせてくれない忍坂のモニュメントです。



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高円山 石位寺(こうえんざん いしいでら)

 外鎌山南西の尾根上に立地し、現在は無宗派の無住寺で、忍阪区の人々によって維持管理されています。山号の「高円山(こうえんざん)」は、外鎌山の別名「高圓山(たかまどやま)」に由来し、「こうえんざん」の呼称は、奈良市の高円山(たかまどやま)との混同を避けるためだと言われています。

 昭和53年(1978)、老朽化した寄棟造の本堂(薬師堂)が切妻造りの礼拝堂に建て替えられ、弘法大師坐像・地蔵菩薩、立像十三尊仏画像が安置されています。礼拝堂の奥にあるコンクリート製の収蔵庫には、石位寺の本尊である「伝 薬師三尊石仏」が安置されています。

 旧薬師堂は、「和州城上郡忍坂村高円山 石位寺建立 元禄二年極月十二日 安政七年三月写」の記録から、元禄2年(1689)の12月建立と考えられています。また、旧薬師堂に掛かっていた鰐口に「奉掛御寶前 和刕城上郡忍坂村 貞享三年九月吉日良日」と刻まれていることから、旧薬師堂以前に仏堂などの建物が建っていたことが分かります。

 大正4年(1915)の『磯城郡誌』には、「薬師堂 徳川時代に大岡奈良奉行の助力に依り建立せしものにして、薬師如來の石像及十二神將の木像を安置す、堂に千手観音・地藏菩薩・四天王の中二體の木像等あり、粟原廃寺の遺佛なりと傳ふ。」との記載があり、貞享2年(1685)から元禄6年(1693)まで奈良奉行を務めた大岡忠高(大岡忠相の父)の助力があったとされています。当時の薬師堂は、葛城の当麻寺と同じ造りで「西の当麻寺、東の石位寺」と並び称されたと伝わります。

 大正6年(1917)、薬師三尊石仏を除く十二神将・千手観音・地蔵菩薩・四天王などの仏像が、前年の火事により焼失した長野県若穂保科にある阿弥陀山 清水寺(せいすいじ)へと渡ったとされています。再建された清水寺には、奈良県から移されたと伝わる仏像が今も安置されており、そのうち7体が国の重要文化財に指定されています。



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伝 薬師三尊石仏(石位寺 本尊)


2012年に許可を頂いて撮影

 大正5年(1916)に、関野貞氏によって白鳳期の石仏と鑑定され戦前に国宝に指定、昭和25年(1950)の文化財保護法の施行を受けて重要文化財に指定されました。大正6年(1917)頃から、前本尊(長野清水寺に移された千手観音坐像)に代わり、本尊として厨子に納められていたようで、現在はコンクリート製の収蔵庫に安置されています。


三尊塼仏(川原寺裏山遺跡出土)
 石仏は角に丸みを帯びた三角形で、高さ118.4cm、幅125cm、厚さ34.5cmの石材に半肉彫りされています。中尊は、高さ69.6cmで螺髪の表現はなく、両膝を開いて椅坐し、二重の頭光と頭上には瓔珞の付いた天蓋が表現されています。合掌して立つ両脇侍はほぼ同形ですが、頭光が右脇侍は二重、左脇侍は一重で表現され、右脇侍の足元に水瓶が置かれているなどの違いも認められます。

 童顔のような表情、丸みを帯びた体の線の柔らかさ、薄く重なる衣の襞の表現などが、白鳳彫刻の特色であるとされています。天蓋を持ち中尊が椅子に腰かける姿は、川原寺などに見られる7世紀後半に製作された三尊塼仏と共通し、同じ浮き彫りの技法を用いた長谷寺銅板法華説相図の三尊仏に近いとされています。

 彫刻の凹部分に僅かに漆の痕跡が認められることから、表面が漆で覆われていた時期があり、そのために三尊の姿が風化を受けることなく保護されたのではないかとする説があります。また、口元や台座部分に残る朱色の彩色も、後世に施されたと考えられています。詳しい調査がされていないため、石の材質に関しては、砂岩説・花崗岩説・安山岩説と諸説あり、三尊石仏そのものも白鳳期の作風を模した後世の擬古作とする説もあるようです。

 薬師三尊石仏は、もとは石位寺の南東約2kmに所在した粟原寺にあった額田王の念持仏で、粟原川の氾濫によって粟原寺より流されてきたものだという伝承を持ちます。粟原寺は今は礎石だけが残る跡地となっていますが、談山神社に残る「三重塔露盤伏鉢」の銘文から大よその創建次第が判明しています。

 銘文には、中臣朝臣大嶋が持統天皇3年(689)に草壁皇子の菩提を弔うために発願し、大嶋の没後、比売朝臣額田が22年を掛け和銅8年(715)に伽藍を完成させたと記されています。この銘文に登場する「比売朝臣額田」を額田王とする説があります。
石位寺には由緒などが記録された寺伝の類が残されていませんので、全ては伝承の域をでないようです。石位寺同様に粟原寺所蔵の由来を持つ仏像は、桜井市内だけでも数体存在し「粟原流れ」と呼ばれています。  



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玉津島明神

 歩いていると気づかずに通り過ぎてしまいそうな小祠ですが、昔はここに大きな杉の木があったそうです。稚日女尊(わかひるめのみこと)と衣通姫(そとおりひめ)をお祀りする神社です。
 四角く石で囲まれているのは、美女の誉れ高い衣通姫の「産湯の井戸」と呼ばれています。

 稚日女は若く瑞々しい日の女神という意味で、天照大神の別名が大日女(おおひるめ)であることから、稚日女は天照大神自身かその幼名、または妹神や御子神であるとされています。神戸の生田神社や和歌山の玉津島神社にも同名の祭神が祀られています。

 衣通姫は本朝三美人のひとりに数えられ、その美しさが着ている衣を通して光り輝いていたことからその名が付けられたと言われています。出生は記紀では若干違いがあります。
 『古事記』には允恭天皇と忍坂大中姫との間に生まれた第五皇女軽大郎女の別名とされ、同母兄である軽太子(かるのひつぎのみこ)との悲恋が描かれています。『万葉集』に衣通王として、兄の軽太子が伊予に流された時の歌が一首残されています。

 君が行き 日長くなりぬ やまたづの
    迎へを行かむ 待つには待たじ (巻二・九〇)

 『日本書紀』では、忍坂大中姫の妹・弟姫として登場し、允恭天皇の寵愛を受けながら、皇后である姉との板挟みで河内の茅渟宮(ちぬのみや)へ移り住むといった内容です。
 いずれにせよ、忍坂に住んでいた忍坂大中姫の娘か妹であれば、この地に関わりがあったのは間違いないと考えられます。

衣通姫 産湯の井戸
 地元では、絶世の美女と言われた衣通姫にあやかろうと、昔から女の子が生まれたらこの井泉を産湯に使っていたそうです。2011年に石垣の補修工事にあわせ伝承されていた場所を掘ったところ、古い井戸の石積みと思われる石材が見つかりました。正式な発掘調査ではなく、年代を特定出来るような遺物も見つからなかったのですが、伝承のあった場所に井戸が実在したことがわかりました。今は跡地を示す石標を建て、石組みの一部を境内地内にある井戸の底に移してあるそうです。


本朝三美人
 本朝とは古代から平安時代をさすようです。1.右大将藤原道綱母 2.衣通姫(そとおりひめ) 3.光明皇后とするのが一般的で、衣通姫・光明皇后の代わりに小野小町を入れる場合もあります。その時代の有名な三美人というくくりでしょうか、他に「江戸の三美人」や「寛政の三美人」が知られています。

忍坂大中姫と息長氏
 允恭天皇の皇后である忍坂大中姫についても記紀で書かれていることが分かれますが、日本書紀の允恭天皇の巻では、病気で足が不自由なことを理由に皇位を強く辞退していた允恭に、命がけで談判して皇位に着くことを承諾させたとあり、また、美しい衣通姫に允恭の心が傾いたときには、お産の後の産殿に火を放って自殺しようとするなど、允恭にとってはかなりの強妻として描かれています。また、少女時代に馬上から無礼をはたらき侮辱した闘鶏国造を、皇后になった後に探し出し死刑にしようとしますが、この国造が無礼を謝ったため、卑しい姓である稲置に改め闘鶏稲置とするにとどめたという記述もあり、なかなかの女傑であったようです。
 忍坂大中姫は近江に本拠地を持つ息長氏の血を引いていたといわれます。舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額」で「息長」を含みます。押坂彦人大兄皇子の母、広姫も息長氏の出身です。大中姫と舒明の時代は二世紀近く隔たっていますが、忍坂大中姫と押坂彦人大兄皇子は共に忍坂を名に冠し、この地に一族である舒明の墳墓が営まれていることから、息長氏と忍坂とは深いつながりがあったことが考えられます。
 允恭天皇は皇后の為に御名代として押坂部(刑部)を定めたとの記述があります。この刑部(おさかべ)は息長氏を媒介として敏達天皇皇子の押坂彦人大兄皇子に伝領され、さらにその妃糠手姫、その子舒明天皇、その孫中大兄皇子へと代々伝領されたのでは、とする説もあります。息長氏は忍坂大中姫の薨去後も忍坂宮を経営し、忍坂宮に付属する押坂部を管理していたのでしょうか。
 忍坂遺跡から出土した鍛冶関連施設と、忍坂にあった王権の武器庫、近江の豊富な鉄資源を掌握していた息長氏。古代の忍坂はどのような姿だったのでしょうね。



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忍坂坐生根神社

 天平2年(730)の『大和国正税帳』にも載っている古社で、「延喜式内社」です。社殿は西向きの拝殿のみで、本殿を持たず、拝殿後ろの宮山をご神体とする神社です。拝殿向かって左に磐座があり、昔から「石神さん」と親しみを込めて呼ばれているそうです。今は10個あまりしかありませんがもとは21個あって、もしかしたら地中に埋まっているのではと思われています。
 祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)と天津彦根命(あまつひこねのみこと)です。
 少彦名命は大物主命の国造りに協力した神様で大神神社とは深いつながりがあり、『三輪流神道深秘抄』に「忍坂宮いくね大明神、イヅレモ三輪ノ大明神のお子神トイヘリ」と記されているそうです。
 天津彦根命は額田部氏の祖神で、平安時代の医書『大同類聚方(だいどうるいじゅほう)』に生根神社に相伝の「以久禰薬(いくねぐすり)」のあることを伝えています。この薬は額田部氏の奏上とあり、『大和史料』には、額田部氏は生根神社の神主で、祖神である天津彦根神を祀っていたのであろうと書かれています。その薬の製法は昭和の初期まで伝わっていました。「以久禰薬」とは、妊婦の腹痛に用いるもので、また、「志紀乃加美」という薬は、喉に効く薬として伝えられてきました。

 拝殿の北側に、石位寺の東方から遷した「天満神社」本殿、拝殿の下左右に境内社の「神女神社」「愛宕神社」があります。境内北東隅に旧神宮寺の廃円福寺観音堂があったと桜井市史には書かかれていますが、今はありません。円福寺がどのようなお寺だったのかもさだかではありません。この他、年代不詳の陰陽石も一基あります。
 境内には24基の灯籠があり、最古のものは拝殿下左右の延宝2年(1674)、正面登り口の石橋は正徳5年(1715)の刻銘があります。戦国時代の延徳4年(1492)から明治までの500年以上にわたる、忍坂の神事の記録が宮座文書(『忍阪庄神事勤帳』)としてずっと引継がれていて、貴重な民俗資料となっています。

 毎年、大晦日には、区の役員と新旧の隣組長が揃い、拝殿裏の聖域とするところを紙垂(カミシデ)を付けた注連縄(しめなわ)で囲い、新年準備が行われます。境内への正面石段には神様の通り道とされ、榊の木に垂らされた注連縄は宮山から採った杉の小枝を編みこんだ独特のものです。
 かつての秋祭りの宵宮には、「キョウの飯」というお供えと「ドヘ」という御幣を供える「後夜の渡」という祭祀が行われていたと『桜井市史』に書かれています。
 夕刻になれば、玉津島明神とともに境内にある石燈籠に毎日欠かすことなく御灯明があげられています。各家庭が持ち回りで当番制になっているそうです。



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忍坂山口坐神社

 忍坂坐生根神社から西北、粟原川の左岸に見える鳥見山の麓の赤尾という集落の森に鎮座していますが、押坂山口坐神社です。大山祇命を祭神とする旧指定村社ですが、延喜式内大社に比定されています。本殿はなく、花崗岩の高さ63cmの磐座(かつて神杉があったらしい)と拝殿だけの小さな境内には、約25mもある大楠がひときわ眼を惹き、何か歴史を感じさせる神社です。

 その大楠は奈良県の巨樹としても有名で、一説によると、室町幕府、第3代将軍足利義満が、金閣寺造営にあたり、天井板を一枚張りにするため、この神社の楠木を切り出したとか。今日の巨樹はその2代目といわれています。(桜井市観光協会案内板より)

 神社の由縁として、『奈良県史(1989)』には「延喜式神名帳(927)に記載の大和国14山口神社の一つで、忍坂山(外鎌山)の霊を祭ったものと考えられる。」とあり、『大和志料(1914)』には「天平2年(730)大和国大税帳に忍坂神戸殻捌斗壱升~定漆斗玖升伍合、新抄格勅符抄(806)に忍坂山口神一戸、延喜式『神名帳(927)』に「忍坂山口神社大月次新嘗と見ゆ。城島村赤尾にあり、今村社たり。祭神は当国六処山口社の其一にして忍坂山の霊を祭る」とあり、8世紀まで所在を遡ることができます。

 では、押坂に坐す神社ではなく、押坂の「山口」に坐す神社としてわざわざ名づけられた「山口」とはいかなる意味なのでしょうか。神名帳には日本の山口神社15社が記載されていますが、そのうち14社がすべて大和国にあり、さらに6社について、延喜式祝詞に以下のように述べられています。

祈年祭(としごいのまつり)祝詞
 「山口に坐(ま)す皇神等(すめがみたち)の前に白(まお)さく、飛鳥・石寸(磐余)・忍坂・長谷・畝火・耳無と御名(みな)は白(まお)して、遠山(とほやま)・近山(ちかやま)に生ひ立てる大木(おほき)・小木(おぎ)を、本末(もとすえ)打ち切りて持ち参(まい)来て、皇御孫命(すめみまのみこと)の瑞(みず)の御舎(みあらか)仕(つか)へ奉りて、天御蔭(あめのみかげ)・日御蔭(ひのみかげ)と隠(かく)り坐して、四方(よも)の國を安國と平(たひら)けく知食(しろしめ)すが故に、皇御孫命(すめみまのみこと)の宇豆(うづ)の幣帛(みてぐら)を、稱辭竟(たたへごとを)へ奉(まつ)らくと宣(のたま)ふ」

 これは、皇御孫命(すめみまのみこと)の宮殿造営のため、大小の本末を切って、その中の木を持ってくる、そういう山の入り口に坐す神の社と解釈されています。

 余談ながら、「山口神社」が大和に集中しているということから、ヤマトの「山」は一般的なたかいやま高山・ひくいやま低山ではなく、王宮の造営用材のある「山」を意味するという説もあります。
初期のヤマト王朝(神武から12代景行天皇)までの王宮の所在地は『記』『紀』によれば、大和国内を移動していますので、山に囲まれた奈良盆地の山裾に接する処に、その山から伐採された材木で王宮が建造され、それがヤマトという由来に結びついたといえない事もありません。

 本題に戻り、そもそも「忍坂」の地は今回の定例会資料表紙にある、「意志沙加宮(おしさかのみや)」の所在地として有力視される場所です。また、神社の所在する赤尾集落近くには赤尾崩谷古墳群があり、これらの築造された、5世紀末から6世紀初頭は『記』『紀』によれば雄略天皇~武烈天皇の時代にあたり、周辺には雄略天皇の宮といわれる泊瀬朝倉宮(現在推定されるのは朝倉駅近くにある脇本遺跡)、清寧天皇磐余甕栗宮、武烈天皇泊瀬列城宮などの多くの宮が桜井市南部に設けられたとされ、周辺が当時の政治の中心地のひとつであったといえるようです。あえて神社の創建年代を無視し、赤尾を含むこの一帯を古代から広義の忍坂としたなら、鳥見山や外鎌山(忍坂山)等の山々に対して、造営用材御用達として「山」への畏敬の念がこもった神社と推測するのも面白いかもしれません。

 ついでながら、この赤尾、時代は飛びますが、『日本書紀』天武天皇7年条に、「~庚子に、十市皇女を赤穂に葬る。」とあることから、額田王の娘とされる十市皇女の埋葬地ではないかという説もあります。
この赤穂の所在地をめぐり、諸説あるようですが、忍坂周辺が群集墳の密集地で、泊瀬谷の入り口に位置し、飛鳥にも近く、三輪山の南麓にある事、また、「赤穂」の「穂」は「峰」の意味もあることから(例:高千穂、穂高)、鳥見山、外鎌山(忍坂山)との間にある赤尾ではないかと言われています。

 真偽は分かりませんが、十市皇女が亡くなった時に高市皇子が詠んだ挽歌3首の一首に

 三諸の 三輪の神杉 已具耳矣自得見監乍共寝ぬ夜ぞ多き (巻二・一五六)があります。
 もちろんこの「杉」は、象徴的な意味の「三輪の神杉」であり、「杉」は「過ぎ」の意味かも知れませんが、十市皇女の葬列が赤尾に来たときに見える、押坂山口坐神社の神杉を重ねて詠ったのかも知れないと偲ぶのはいかがでしょうか。

 最後に、この神社を訪れる頃には、こもりくの春待つ里を堪能された事と思います。
 そんな皆様に山への思いがこもった一首をおくります。

 三諸は 人のも守る山 本辺には あしび花咲き 末辺には 椿花咲く うらぐはし 山そ 泣く子守る山(巻十三・三二二二)


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宇陀が辻

 忍坂街道と長谷・伊勢街道との分岐点です。今は車道と交差していて、交通量も多いので古道の風情も失われていますが、東南角に立つ2基の石標が往時を偲ばせます。
 ひとつは『舒明天皇御陵道 従是東へ八町』 1894年(明治27)の紀年名のある石標。
 ひとつは高さ3mを超える大型の石碑で『武村彌七調停粟原山割譲碑』と書かれています。 粟原山(音羽山)の入会権を巡る紛争、1903年(明治36)にいたって桜井町在住の義侠武村彌七なる人物が調停にはいり、見事に円満解決を見た。このことを長く後世に伝えるためとした大神神社宮司東吉定撰・書による19行500字を超える大碑文です。背面に盟約関係者13名(内追刻1名)の氏名があります。



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宗像神社

 宗像神社は九州宗像大社と同じく多紀理毘売命(たぎりびめ)・市寸嶋(いちきしま)比売命・田寸津(たぎつ)比売命の三女神をお祀りしています。また、一時期春日神社となっていたことから天児屋根命(あめのこやねのみこと)・武甕槌命(たけみかづちのみこと)・経津主命(ふつぬしのみこと)・比売神(ひめがみ)の春日四神と若宮神社・天押雲根命(あめのおしくもねのみこと)を合祀しています。
 境内には他に末社として、六社神社(祭神:伊邪那岐命・天照皇大神・月世見命・伊邪那美命・素盞鳴尊命・大己貴命)、琴平神社(祭神:崇徳天皇)、鬼子母神をまつる宮谷神社が祀られています。

 宗像神社の創建は高市皇子とされています。天武天皇の皇子で母は筑前胸肩君徳善のむすめ尼子娘、九州宗像大社をまつる海人一族の血を受け継いだ皇子です。高市皇子が亡くなったとき、柿本人麻呂は延々四九句からなる慟哭の挽歌をよんでいます。壬申の乱での皇子の功績をたたえた大長編です。
天武天皇は壬申の乱で大功あった吉野の国栖族のまつる毛吹雷吉野大国栖御魂神社を飛鳥の雷丘に、胸肩族のまつる宗像の大神を鳥見山の中腹に勧請して飛鳥浄御原宮の守護神とされたといいます(前者は現在不明)。

 宗像神社はその後、高市皇子の末裔高階氏に受け継がれ、興国年間(1340~1346・南北朝時代)までははっきりまつられていたことが分かっています。南北朝の時代に、鳥見山中腹にあった宗像神社は兵火で焼失し、その後神域は奈良興福寺の支配下となって春日神社と名前も変えられ、春日四神と若宮神社が祀られるようになりました。社伝では、南朝方として果敢に戦い敗れた西阿公は、当時神官だった高階義岑の弟とされています。(大和武士西阿の項参照

 幕末になってから国学者鈴木重胤が所在の分からなくなっていた宗像神社を探すべく、古老の伝承や、民間祭祀をていねいに問い合わせ、克明に実地検証して、高階氏の家系である玉井家の庭にあった中島弁才天が宗像神であると考えて、宗像社再興に尽力しました。
安政6年(1859)に宗像大社から新たに神霊を迎え、万延元年(1860)に社殿が完成、明治8年(1875)には正式に春日神社の社号を廃して宗像神社となりました。明治21年に社殿を改築したときに初めて宗像の神を中央の位置とした今の形になりました。

 宗像神社は全国に10社あるそうですが、その総本宮が福岡県の宗像大社です。宗像の神は九州と朝鮮半島を結ぶ玄界灘の真ん中にある沖ノ島に沖津宮、海岸近くの大島に中津宮、陸地の田島に辺津宮があり、それぞれ多紀理比売命、多岐津比売命、市寸島比売命が祀られています。沖ノ島は海の正倉院とも呼ばれる考古遺物の宝庫で、実に4世紀後半から平安時代前期までの奉献されたものが残っているそうです。
 この地に宗像の神が祀られていたことを、大和における九州勢力の拠点になっていたのではとする説もあります。

外山の能楽宝生流発祥地の碑

 宗像神社の境内入口に向かって左に、「能楽宝生流発祥之地」とかかれた大きな石碑が建っています。十七世宗家宝生九郎書の文字と、裏面には「昭和三十六年八月一〇日建之」とあり、高さは約2mにもなります。

 室町時代に当時妙楽寺といった多武峰で、宗教行事の一環として報祭されていた大和猿楽は今の能楽につながります。その頃、大和には四座あり、円満井の金春座、結崎の観世座、板戸の金剛座、そして外山の宝生座で、四座の中でも、特に大事な行事の時には宝生座が務めたそうです。
外山の宝生座は、観阿弥の子で世阿弥の弟蓮阿弥が流祖とされています。伊賀の地にいたのを大和へ出てきて外山の地を領したと伝わります。



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外山不動院

 真言宗の寺院として「とびのお不動さん」の愛称で親しまれています。山号は藤原山。宝形造本瓦葺きのお堂は昭和56年から57年にかけて修復されたものです。
 
 ご本尊の木造不動明王坐像は国の重要文化財に指定されています。説明板には、
「座高85cm。左目を閉じ、頭頂に沙髺(しゃけい)をあらわす平安後期の不動明王の姿である。檜材を用いた寄木造で、現状ほぼ古色を呈しているが、当初の華麗な彩色をとどめており、条帛の背面部や裳の一部に切金文様が認められる。二重円相を透かした火炎光背と七重の瑟々座(しつしつざ)が揃う王朝様不動明王像の本格作は、奈良県下でも珍しい。」
 とあります。

 山号の藤原山からもわかるように、藤原氏と大きな関わりのあった寺院と考えられています。藤原一門が一族の祖である藤原鎌足をまつる談山神社(多武峰妙楽寺)に参詣する折は、ここで身を清めたあとに入山したといわれているそうです。お堂正面の扁額にある『無動堂』の文字は当時の天台座主であった慈円によるものだそうです。
 南北朝の時代には僧兵が南朝側について戦い、堂塔伽藍が焼き討ちにあったといわれ、それまでは、かなりの寺観を保っていたと思われます。焼失を免れた本尊の不動明王は小さなお堂で大切に守られ、江戸時代には四代将軍家綱の上覧に供したとも伝わっています。その後、住職不在の時代もあったそうですが、地元住民の支えもあり法灯が守られてきました。
 現在では、毎月28日に護摩法要が行われ、遠くからもお詣りに来られるそうです。また、藤原一門にならって、お不動さんにお詣りしてから多武峰談山神社へ行かれる人も多いそうです。

十三重石塔
 全高約455cm。基礎以下は後補で、塔身と笠石は一重および三重から五重までと八重の五笠石が当初の藤原時代のもので、他は後補。塔身、高さ、幅とも46cm四方、四面に径42.4cmの円輪沈線内に荘重な梵字顕教四仏を薬研彫したきわめて珍しい風格である。本尊不動明王造立と時代を同じくするものである。
 北のユ(弥勒)、東のバイ(薬師)は藤原様式を顕著にあらわし風格がある。江戸時代以降農家の鎌砥石に代用されて四方の角が薬研彫のようになって、四仏梵字が見えにくいが、この塔身が本塔の生命である。磨かれた仕上げをみせる笠石の面の美しさと形から旧状は名品であったと推定される。(桜井市史より)



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報恩寺

 山門もない小さなお寺ですが、粟原廃寺の旧仏と伝わる丈六の立派な阿弥陀如来座像がご本尊です。山号は神應山。開基開創は不明ですが、天和三年に、このご本尊を迎え入れるために新たに創建されたとされています。
 2009年に阿弥陀如来座像が県の文化財の指定を受けたのを機に、傷みの激しかった本尊の修復とあわせて本堂の建て替えが行われました。
 阿弥陀如来座像は檜材、寄木造、彫眼の像で、布貼下地の上に漆箔を施しています。像高は約2.2mを計測し、通常の唐尺ではなく、約二割小さい周尺に基づく定朝様の丈六像で、製作年代は作風から平安時代後期と思われます。堂々とした尊像で全躯に金箔をおしていたのがほとんど剥落していたのを、平成22年5月から2年間を費やして奈良国立博物館修理部で修復を行い往年の趣を取り戻しました。
本堂も寄棟造り本瓦葺きの立派なものに建て替えられています。
 本尊の他には地蔵菩薩半か像、阿弥陀菩薩立像、薬師如来立像と十二神将立像を安置しています。本堂前には大師堂があり石造の大師像と千手観音像が置かれています。

定朝・定朝様式
 仏師定朝は、平安時代の末に「寄せ木造り」という日本独自の仏像技法を確立し、また平安和様ともいえる穏やかでたっぷりとした仏像様式を確立した大仏師です。
 日本人が仏像と聞いてすぐに連想するような、丸い顔に細い目をした穏やかな姿の阿弥陀様の様式です。平安時代に阿弥陀信仰が広まり仏像の需要が高まったとき、大量に仏像を作らねばならなくなりました。定朝はどの仏師が作っても同じ様式の仏像が作れるように、均一化したシステムづくりをしました。その技術は今の仏師にも受け継がれ、仏像製作のスタンダードになっています。
 この定朝様式と呼ばれる仏像は、日本全国で見ることができますが、定朝作と確定できる仏像は、宇治の平等院の阿弥陀さま唯一といわれます。これほど高名で、後世に影響を及ぼした彫刻家の、本人作と分かる仏像がたったの一点だけというのも不思議なことです。



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桜井茶臼山古墳

桜井茶臼山古墳 天井石
2009年 橿原考古学研究所の調査見学会にて

 桜井市外山(とび)に所在する茶臼山古墳は、南北に中心軸が通る古墳時代前期初頭(3世紀後半~4世紀前半)の巨大な前方後円墳です。鳥見山から北へ延びる尾根を利用して築かれており、「丘尾切断型(きゅうびせつだんがた)」の代表例とされていて、国史跡に指定されています。
 全長約200m、後円部径約110m、同高約24m、前方部長約98m、同幅約60mで、前方部が広がらない柄鏡式の前方後円墳で、箸墓古墳に続く古墳発生期の6大方円墳(箸墓、西殿塚、桜井茶臼山、メスリ、行燈山、渋谷向山)のひとつです。


現況

 昭和24年(1949)、同25年(1950)に盗掘跡の発見を契機として最初の発掘がおこなわれ、巨大な竪穴式石室や木棺が確認されるとともに、玉杖、玉葉と呼ばれる碧玉製品や銅鏡片22面分が発見されました。また石室の上部にあたる部分から方形壇が確認され、周囲に二重口縁壺が巡ることが確認されていました。

 その60年後の平成21年(2009)、埋め戻された埋葬施設の詳細を調査し、木棺を取り出して保存処置をおこなうことを目的として、再び発掘調査が実施されました。

 埋葬施設は、岩山を削りだした後円部の中央に、南北約11m、東西約4.8m、深さ約2.9mの長方形の墓壙を掘り、その内側に板石を積み上げて竪穴式石室を構築していました。石室の規模は、南北長約6.75m、幅(北端)約1.27m、高さ約1.60m前後です。基底部は南北に続く浅い溝状になっており、板石を二重・三重に敷き詰め、棺床土をおき、その上に木棺を安置していました。
 天井は、12個の巨大な石を架け渡して造られており、最も大きな天井石は長さ約2.75m、幅約0.76m、厚さ約0.27m、推定重量は約1.5トンでした。石室内の板石や天井石には、隠れて見えなくなる裏側なども含めて全面に水銀朱が塗り込められ、用いられた水銀朱は200kg以上と推定されています。さらに天井石は、ベンガラを練りこみ、赤色にした粘土によって被われていました。粘土の上面には直径5〜7cmの円形の窪みがあり、先端の丸い棒でつき固めたことがわかっています。

 木棺は、腐朽と盗掘による損傷で原型を失い、棺身の底部分のみが残っており、長さ約4.89m、幅約0.75m、最大厚約0.27mです。昭和25年の調査では、その材質がトガとみられていましたが、平成21年の調査で、この時期に棺材によく使われていたコウヤマキであることが確認されました。

 墓壙の上部の方形壇の規模は、南北長約11.7m、東西幅約9.2m、高さは1m未満と推定されています。壇の上面は、板石と円礫で化粧し、縁近くに体部を半ば埋めた二重口縁壷が並んでいたようです。また壷の内部の広場では、火を使用した儀礼のおこなわれたことが、周辺に流れ落ちた炭から推定されています。方形壇の裾には、幅、深さともに1.4m前後の布掘りの溝が掘られ、その中心に沿って、直径約30cmの柱が接するように立て並べられていました。布堀りの外周規模は、南北長約13.8m、東西幅約11.3mで、布堀りの総延長から、柱の総数は約150本と推定されています。また柱は1.3m程埋め込まれていて、古建築の知識を参考にすると、地表にはその倍ほどの高さ(約3.0m)があったと考えられています。橿原考古学研究所では、これを「丸太垣」と名付けています。四角く立ち並ぶ「丸太垣」の姿は、埴輪の方形配列と共通するものであり、古墳に埴輪を配置する起源を考える上で、重要な資料と考えられています。

 この再調査では、採取した発掘土から銅鏡の破片が500点余り発見されましたが、すべて完形品はなく、粉々の状態でした。その銅鏡の破片を60ミクロン単位で計測するという三次元(3D)計測を交えた分析が行われ、331点がどのような鏡か特定でき、昭和期の調査で出土した破片53点分を合わせると、少なくとも11種類、81面が埋納されていたことが確認されていますが、種類を特定できない破片がまだ多数あり、実際には100面以上の銅鏡が埋納されていたことが確実視されています。



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魚市場跡

 旧桜井町の本町通りと立小路町とのT字路あたりは、文禄の頃から問屋場の中心で「札の辻」として開けた場所でした。
 江戸時代には本宿として旅籠や問屋が建ち並び人馬継ぎ
立ての要地として桜井宿、桜井駅と呼ばれるようになります。津藩の領地となってからは、伊勢・伊賀・大和三国をむすぶ道路の整備や宿場の保護が行われ、さらに発達しました。

 「札の辻」には人や馬がたくさん集まり、荷物の積みかえや発送をするために広場が設けられ、広場の中央には水路が流れ、駄馬に水を飲ませたそうです。 立小路のT字路が広場になっているのは桜井が宿場町であった頃の名残です。

 貝原益軒『和州巡覧記』には「町有、頗広し、冨人有、毎月六度の市たつ所なり、故に民家饒ハし、是より八木、今井、吉野、当麻、長谷、三輪諸方へ道有、通衢なり、客舎多し、旅客の多く止宿する所也」と記されています。

 桜井町は市場町でもありました。毎月「二七の日」といい、二日、七日、一二日、一七日、二二日、二七日の六回、遠近の商人が品物を持ち寄り、立小路の町屋の軒下や、道の中央を流れる川端に板床をおいて商品を並べる六斎市が、明治初年まで続けられました。中でも魚市場は古くから知られていたといいます。海もないこんな所で何故と、思われるでしょうが、紀州から吉野を経て、多武峰を越え、熊野鯖・さごし・するめなどが運ばれて来ました。特に鯖は山越しに運んでくる間に塩が効いて特有の美味になるので、大和国中のみならず、美食に慣れた大阪商人でさえ喜んで土産に持って帰ったそうです。若狭から京都への鯖街道は有名ですが、熊野から桜井への鯖街道もあったようです。
 また、東京の築地からの移転が話題になっている中央卸売市場の前身「日本橋の魚河岸」の開設に桜井の人が多いに貢献したという話が『東京市史稿』に載っているそうです。
 「元和二年(1616)和州桜井村大和屋助五郎この地に来り、本小田原町に居住し魚商となり、当時本船町小田原町においてさらに市場を開くことを許され、寛永の頃から右助五郎は静岡県の角浦々を巡り魚人と契約を結び、若干の仕入金を貸与し、また浦々活鯛場を設け、広くこの地方の魚類を引きうけ売さばきしが、ついで問屋の業を営むものいや増し、ついに本船町横店安針町の各所に市場を開くに至れり。・・・」
この魚河岸は大正12年(1923)の震災でなくなり築地に移されました。


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関連万葉歌

忍坂
 13-3331隠口の 泊瀬の山 青旗の 忍坂の山は 走出の よろしき山の 出立の くはしき山ぞ あたらしき 山の 荒れまく惜しも

跡見(外山)
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 04-0723常世にと 我が行かなくに 小金門に もの悲しらに 思へりし 我が子の刀自を ぬばたまの 夜昼といはず 思ふにし 我が身は痩せぬ 嘆くにし 袖さへ濡れぬ かくばかり もとなし恋ひば 故郷に この月ごろも 有りかつましじ 
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 10-2346 うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむかも

小倉山(桜井市今井谷・桜井市黒崎など諸説あり)
  崗本天皇の御製の歌一首
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 09-1664 夕されば小倉の山に伏す鹿の今夜は鳴かず寝ねにけらしも
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泊瀬川(初瀬川)
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 13-3225 天雲の 影さへ見ゆる こもりくの 泊瀬の川は 浦なみか 舟の寄り来ぬ 礒なみか 海人の釣せぬ よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 礒はなくとも 沖つ波 競ひ漕入り来 海人の釣舟
 13-3226 さざれ波浮きて流るる泊瀬川寄るべき礒のなきが寂しさ

 13-3263 こもりくの 泊瀬の川の 上つ瀬に 斎杭を打ち 下つ瀬に 真杭を打ち 斎杭には 鏡を懸け 真杭には 真玉を懸け 真玉なす 我が思ふ妹も 鏡なす 我が思ふ妹も ありといはばこそ 国にも 家にも行かめ 誰がゆゑか行かむ
 13-3330 隠口の 泊瀬の川の 上つ瀬に 鵜を八つ潜け 下つ瀬に 鵜を八つ潜け 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ くはし妹に 鮎を惜しみ くはし妹に 鮎を惜しみ 投ぐるさの 遠ざかり居て 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 安けなくに 衣こそば それ破れぬれば 継ぎつつも またも合ふといへ 玉こそば 緒の絶えぬれば くくりつつ またも合ふといへ またも逢はぬものは 妻にしありけり

三輪山
 09-1684 春山は散り過ぎぬとも三輪山はいまだふふめり君待ちかてに


鏡女王(鏡王女)関連万葉歌

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 08-1419 神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる

衣通姫(衣通郎姫・衣通郎女・衣通王)関連歌(日本書紀)

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 我が夫子が来べき夕なり小竹が根の蜘蛛の行ひ今宵著しも
  (允恭天皇返し)
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 花細し 桜の愛で こと愛では 早くは愛でず 我が愛づる子ら

  十一年の春三月の癸卯丙午に、茅渟の宮に幸す。衣通郎姫、歌よみして曰く、
 とこしへに 君も遇へやも いさなとり 海の浜藻の 寄る時々を

  時に天皇、衣通郎姫に謂かたりて曰のたまはく、「是の歌、他人にな聆かせそ。皇后、聞きたまはば必ず大きに恨みたまはむ」とのたまふ。故、時の人、浜藻をなづけて「なのりそも」と謂いへり。



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関連系図Ⅱ


  項目                  (文字は各項目にリンクしています。)
「忍坂」について 素盞鳴神社 古墳公園(移築された忍坂古墳)
外鎌山 外鎌城 大和武士 西阿
大伴皇女押坂内陵 鏡女王押坂墓 段ノ塚古墳
神籠石 高円山 石位寺 伝 薬師三尊石仏
玉津島明神 忍坂坐生根神社 忍坂山口坐神社
宇陀が辻 宗像神社 外山不動院
報恩寺 桜井茶臼山古墳 魚市場跡
関連万葉歌 関連系図Ⅰ 関連系図Ⅱ
当日レポート 飛鳥咲読 両槻会


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